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楽しい古事記06
日期:2018-03-31 14:39  点击:372
 まぼろしの船出
   ——神武《じんむ》天皇の東征
 
 
 霧島神宮に詣《もう》でたのち高千穂峰の東に位置する御池《みいけ》のほとりを車で走った。
 霧島東神社、狭野《さの》神社。古くはこの周辺を狭野と呼び、神武天皇生誕の地とされている。神武天皇は狭野|皇子《みこ》という名を持っていたはずである。
「神話の故里《ふるさと》ということで、いろいろ造っているんですよ。皇子原《おうじばる》公園とか。温泉村もあるし」
 と、運転手がうしろ姿のまま呟《つぶや》く。
 路傍に歌碑があった。
「えっ? 止めて……ください」
 と頼んだ。
 車を止めてもらい、降りて眺めると、黒い石の表面を平たく削って和歌が刻んである。
 
  君が行く道のながてをくりたたね
  焼きほろぼさむ天《あめ》の火もがも
[#地付き]狭野弟上娘子《さののおとがみのおとめ》  
 と記してある。
 聞いたことのある歌だ。女性の情念がひしひしと感じられる歌ではないか。
 歌人の名に�狭野�とあるのを見て、
 ——ここだったのか——
 と思い、さらに神武天皇との関わりまで想像をめぐらしてしまった。
 まったくの話、このあたりを走っていると、神武天皇生誕の伝説があちこちに散っている。それらしい銅像や記念碑が建ててある。
 だから……私は一人勝手に、若い神武天皇にも恋人がいただろうなあ、東へ遠征するに当たって、その恋人は故郷に残され、さぞかし辛《つら》い別離を味わっただろうなあ、それがこの歌なんだ、と連想をたくましくしたのだが、これはもちろん勘ちがい。一瞬の感動ののち、
 ——おかしいぞ——
 すぐに直感した。神武天皇の東征にはわからないところがたくさんあるけれど、それがいつのことであれ、この歌の調子とは時代がちがう。わけもなくそんな気がした。
 これは正解。よく調べてみれば、狭野弟上娘子はこの地の出身らしいが、伊勢神宮の女官となり、中臣宅守《なかとみのやかもり》と禁を犯して通婚、宅守が越前に流されたため、たがいに別離を悲しんでいくつもの歌を詠んだ。万葉集の巻十五に六十余首が載っている。その一つが、右に掲げた狭野弟上娘子の作である。
 恋しい男が行く長い道のりをたぐって畳んで焼き亡ぼしてくれ、そんな天の火があってくれればいいものを、と平明に、だが強い情念を籠《こ》めて歌っているところがすばらしい。激しい慕情が胸に迫ってくる。万葉名歌の一つと評されているのは充分に納得できるけれど、神武の故里に飾ってあるのを見ると、私のように早とちりをする人も皆無ではあるまい。
 そう言えば、もう一つ、神武天皇の東征については、私の胸に思い浮かぶ旅の記憶があって……あれは十年ほど前だったろうか、宮崎から延岡《のべおか》まで海沿いの道を車で走ったことがある。朝早く食事もせずに出発したものだから小腹がすく。ドライブ・インに立ち寄って腹を満たすものを求めた。まだ店を開けたばかりで、キッチンは火を使える状態ではない。ウインドウ・ケースを眺めて、
「これをください」
 パックに入った餅菓子《もちがし》を一つ買った。
 開けてみると、団子のような餅が十個ほど詰まっている。あんこが塗ってあるのだが、疎《まば》らで、粗雑で、けちくさい。
 ——もっと、ちゃんと作れ——
 鼻白んでつまんでいると、その気分が顔に出たのだろう。店員が、
「これ、お船出餅って言うんです」
「はあ?」
「神武天皇が急に船出をすることになって、村人があわてて餅を作ったんですね。だからあんこをきちんとつけることができなくて」
「へぇー」
 おそれいりました。
 事実かどうかはともかく、長い、長い歴史のエピソードをほのめかしている。嘘だろうけど、まじめに伝えているところが楽しい。粗雑に塗られたあんこにも、ちゃんと理由があり歴史があり、そうと知ればありがたみが生じないでもない。
「あの島のあいだを抜けて……」
 と、店員は窓の外の海を指さす。
「神武天皇の船が?」
「はい。今でも魚を捕っちゃいけないんです。神域になっていて。船も通っちゃいけないし」
 美々津《みみつ》という海岸であった。
 広がる海もオレンジ色に明け始めて、めっぽう美しい。私はうれしくなってしまった。あとで調べたところでは、美々津は確かに神武天皇出発の港として伝承されているところ。出港の日時が急に変更になり、献上を予定していた団子を作る時間がない、蒸した小豆《あずき》と米粉をねり混ぜて団子を作った。正しくは、つきいれ餅と呼ぶらしい。ドライブ・インで入手したものは、そのバリエーションだったろう。
 しかし、さほど有名な郷土銘菓ではないらしく、今回の旅の途中延岡駅のキオスクで尋ねてみても、
「なんですか、それ?」
 逆に聞かれてしまった。ぜひとももう一度食べたいほどの品ではなかったけれど、私としては少し残念である。
 
 すっかり道草を食ってしまった。古事記の中巻は神武天皇の東征から始まる。
 カムヤマトイワレビコの命《みこと》は……と、これが神武天皇の神話的な呼び名であり、神武という名はずっと後になって中国風の漢字名のほうが貫禄《かんろく》があってよいだろう、ヤマトカイワレ大根みたいなのはありがたみが薄い、と、これはジョーク、ジョーク、つまり……その、神武は諡《おくりな》であり、古事記を語るならカムヤマトイワレビコの命のほうが適切なのだろうけれど、これはあまりにも長すぎる。いたずらに原稿料を稼ぐことになりかねない。神武天皇で行こう。
 さて、その神武天皇は兄君のイツセの命とともに高千穂の宮にあって、
「どこの地へ赴けば天下をつつがなく治めることができるだろうか。さらに東のほうへ行ってみよう」
 と、日向《ひゆうが》の国から九州の北東へ向かって船出した。美々津のつきいれ餅は、このときのエピソードということになる。
 まず、大分県の宇佐に到り、ここでウサツヒコ、ウサツヒメという二人が一行を迎え、りっぱな宮殿を造って歓待し、大変なご馳走《ちそう》をしてくれた。
 それから福岡県の岡田の宮(遠賀《おんが》川の河口)に一年滞在し、さらに広島県|安芸《あき》郡の多祁理《たけり》の宮(現在の多家《たけ》神社のあたり)に七年、岡山市内宮浦の高島の宮(現在の高島神社のあたり)に八年、それぞれに居を構えて過ごした。
 そこから速吸《はやすい》の門《と》を抜けて東へ進むのだが、これは豊後《ぶんご》水道に比定されている。
 ——大分から福岡へ行って広島へ行って岡山へ行って、それから豊後水道を通って東へ行けるかなあ——
 と、地図帳を開くまでもなく疑問の生ずるところだが、正直言って、このあたりの伝承に、いちいち首を傾げていてはきりがない。古事記|編纂《へんさん》のおり史料の挿入に誤りがあったとするのが定説らしい。
 この海峡を抜けるときに�亀の甲《せ》に乗りて、釣しつつ打ち羽挙《はぶ》き来る人�に会った。大亀の背に乗り、魚釣りをしながら体を揺すっている人、ということで、描写は詳細だが、
 ——亀の甲に乗って、そりゃ体は確かに揺れるだろうけど、魚釣りなんかできるかなあ——
 と、眉《まゆ》に唾《つば》をつけたくなるけれど、これはまあ、文学的表現、経験豊かな漁師に出会った、ということだろう。その男に尋ねて、
「お前はだれだ?」
「この土地の神です」
「海の道を知っているか」
「よく知ってます」
「おともに仕えないか」
「お仕えしましょう」
「うむ」
 棹《さお》を渡し、船に引き入れて案内を願った。その男にはサオネツヒコという名前を与えた。
 船を進め大阪湾に入り河内《かわち》の白肩《しらかた》の津に停泊した。白肩の津は淀川《よどがわ》支流の川べり。海浜の地形が現在とは異なっていたから大河を溯上《そじよう》する水路があったらしい。
 生駒《いこま》山を支配する豪族ナガスネビコが軍を起こして攻めて来た。神武天皇は船から楯《たて》を取り出して奮戦、それゆえにここを楯津と名づけた。今は日下《くさか》の蓼津《たでつ》と呼ばれている、と記してある。東大阪市に日下町があるけれど、それ以上は判然としない。
 この戦の最中にイツセの命が敵の矢を受けて負傷する。イツセの命は、
「ああ、私は日の神の御子なのだ。太陽に向かって戦うのはよくない。おかげで卑しい者が放った矢で傷を負ってしまった。コースを変え、太陽を背中に受けて戦おう」
 こう告げて南のほうへとまわる。
 大阪から和歌山へ到る海に出て、イツセの命は血に濡《ぬ》れた手を洗い、この周辺が血沼《ちぬ》の海と呼ばれるようになった。イツセの命の傷は深い。紀ノ川の河口まで来て、
「卑しい者に傷を負わされるなんて、残念無念。命が尽きてしまった」
 と、憤り悲しんでみまかった。
 御陵は竈山《かまやま》にあり、これは和歌山市の竈山神社の背後の地、円墳が残っている。
 神武天皇はさらに進路を迂回《うかい》して採り熊野に入った。
 大きな熊が現われ、
「あれは、なんだ」
 熊はすぐ藪《やぶ》の中へ消えてしまったが、神武天皇は気を失い、他の兵士たちも失神して倒れてしまった。
 このとき熊野のタカクラジという者が駈《か》けつけ、一振りの太刀を献上すると、あらあら不思議、神武天皇はたちまち正気に返り、
「ああ、長く眠ってしまった」
 太刀を受け取ると、山に巣食う悪神どもがひとりでにみななぎ倒され、兵士たちも目ざめる。
「これはすごい太刀だ。どこで手に入れた?」
 神武天皇が尋ねると、タカクラジが答えて、
「夢を見たんです。アマテラス大御神《おおみかみ》とタカミムスヒの命がタケミカズチノオの命を呼びだして�葦原《あしはら》の中つ国が騒がしいわ。私の御子《みこ》たちが困っている。あの中つ国はあなたが平定した国でしょ? 降りて行って、なんとかしてくださいな�と私の夢の中で話しておられました」
 タケミカズチノオの命による葦原の中つ国平定は、このエッセイの第四話�領土問題�ですでに述べたことである。オオクニヌシの命に交渉した、あの猛々《たけだけ》しい神である。
「うーん、それで?」
「するとタケミカズチノオの命は�なにも私がわざわざ出向かなくても大丈夫。あのとき使った太刀がありますから、それを降ろしてやりましょう。熊野にタカクラジという者がおります。その倉の屋根に穴を開けて、そこから太刀を落としましょう。タカクラジには朝、目をさましたら、その太刀を持って神武天皇に奉れ、と伝えます�はい、私タカクラジが目をさますと、夢の教えのまま倉の中に太刀がありました。すぐに持って参上した次第です」
「なるほど」
 そういういきさつがあったからこそ霊験があらたかだったわけだ。
 太刀の名はサジフツの神、またはミカフツの神、あるいはフツの御魂《みたま》と呼ばれ、天理市の 石上《いそのかみ》神宮に鎮座している。
 さらにタカミムスヒの命の命令として伝えられたことは、
「神武天皇よ、これより奥地に入ってはいけない。悪神どもがうじゃうじゃはびこっている。いま、天から八咫烏《やたがらす》をつかわす。八咫烏が案内するからそれに従うように」
 であった。
 すぐさま一羽の烏が降りて来た。三本足の烏である。神武天皇たちがこの烏の後を追って東征の旅を続けたのは言うまでもあるまい。
 吉野川の下流に行くと、川に籠《かご》を入れて魚を捕っている男がいた。
「お前はだれだ?」
「私はこの土地の神、ニエモツの子です」
「そうか」
 これが阿陀《あだ》の鵜飼《うかい》の先祖である。阿陀は奈良県|五條《ごじよう》市付近の地名である。
 さらに行くと、尻《しり》のあたりに尾のようなものをつけた服装の男が井戸の中から現われ、これは木こりの服装ではあるまいか。井戸はピカピカ光っている。
「お前はだれだ?」
「私はこの土地の神、イヒカです」
 井戸が光っているから、イヒカ……。少し安易のような気もするけれど、そう書いてあるのだから仕方がない。
 これは吉野の族長の先祖である。
 山中に入ると、また尾をつけた服装の男が岩を押し分けて出て来る。
「お前はだれだ?」
 と尋ねれば、
「私はこの土地の神、イワオシワクの子です」
 なに、岩押し分く? またしても安易だなあ。
「うむ」
「天《あま》つ神の御子がいらっしゃると聞いて、お迎えにまいりました」
「うむ」
 これも吉野の族長の先祖である。
 神武天皇が名前を尋ねて、相手がすなおに答えるのは恭順の意を示したことである。一つ一つ征服し、従えた、と考えてよいだろう。
 そこから山坂を踏み、山野を穿《うが》って越え、宇陀《うだ》に到った。それゆえにこのあたりの地を宇陀の穿《うがち》と名づけたが、これは現在の奈良県宇陀郡の山中であろう。
 
 この宇陀にはエウカシ、オトウカシの兄弟がいた。漢字で書けばエが兄、オトが弟、つまりウカシ兄弟である。
 神武天皇は先に八咫烏を使者として送って、
「お前たちは私に従い仕えるかな?」
 と尋ねさせたが、エウカシは、
「おとといおいで」
 そう言ったかどうかはわからないけれど、態度は横柄で反抗的、かぶら矢で烏を脅かして追い返す。その矢が落ちたところが訶夫羅前《かぶらざき》、どこを指すかわからない。
 エウカシとしては、
 ——攻めて来るにちがいない。待ち受けて反撃してやれ——
 と軍勢を募ったが、人望がないのか、さっぱり兵士が集まって来ない。そこで一計、
「先ほどは失礼しました。やっぱりあなた様にお仕えします」
 歓迎の館《やかた》を造り、その板の間に、踏めばばねの力で客人を圧殺する仕掛けを隠して神武天皇を招いた。
 これを知ったオトウカシは神武天皇のもとに走り、
「私の兄のエウカシは、あなた様の使いを射返し、兵士を集めて迎え撃とうとしましたが、兵士が集まりません。そこで館を造り、罠《わな》を仕掛けて待っております。そのことを申し上げるため出てまいりました」
 と告白する。
 そこで神武天皇の重臣であるミチノオミの命とオオクメの命の二人がエウカシを呼んでののしり、
「あんたが館の中へ先に入って、どうお仕えするか、やってみろ」
 刀の柄《つか》を握り、矛を向けて追い立てた。
 エウカシは自分が作った罠にかかって死ぬ。死体を引き出して斬り刻み、そこが宇陀の血原《ちはら》となった。
 ミチノオミの命は大伴《おおとも》一族の先祖であり、オオクメの命は久米一族の先祖であり、ともに古事記が書かれた頃に有力な家系だったろう。いま述べた二人の命の活躍を古事記で読んで、
 ——なるほど。大伴氏も久米氏も神武天皇の東征のときからの忠臣だったのか。偉いもんだな——
 と感心したくなるけれど、これはおそらく本末転倒の見方だろう。有力な一族が昔から忠臣であったよう、スルリと書き込んだ、と見るほうが正しい。現在の様子を見て過去を作ったわけである。これは古事記成立の根本事情にかかわる大切なポイントだ。
 が、それはともかく、エウカシを亡ぼしたあと神武天皇はオトウカシが用意したご馳走《ちそう》をたっぷりと兵士たちに与えて労をねぎらった。自身も興に乗じて歌を詠んだ。
 
  宇陀の館に 鴫《しぎ》を捕る網を張った
  待っていた鴫はかからず
  なんとやら 鷹《たか》がかかった
  古い妻が食べ物を乞うたら
  そばの木の実のように、ほんの少し削って分けてやれ
  新しい妻が食べ物を乞うたら
  ひさかきの木の実のように たっぷり削って分けてやれ
  ああ、いい気味だ、ざまァ見ろ
 
 と、よくわからないところもあるけれど、憎い敵を討って、おおいに気分が高揚していたにちがいない。オトウカシは宇陀の水部《もいとり》一族の先祖である。
 次に忍坂《おさか》の大室《おおむろ》へ行ったとき……これは桜井市|泊瀬《はつせ》渓谷あたりらしいけれど、ここでは尾のある服装の武士たちが八十人、穴の中に生活して威張っている。穴の中に住む連中を土雲と書いているが、土|蜘蛛《ぐも》であろうか。八十人は正確な数ではなく大勢のことである。神武天皇の命令でこちらも八十人の料理人を集めて、彼等をもてなすこととしたが、八十人の料理人にはそれぞれ太刀を隠し持たせ、
「私の歌を聞いたら一緒に立って土雲どもを斬れ」
 と伝える。そのときに示した歌は、
 
  忍坂の大室に
  人が大勢住んでいる
  人が大勢住んでいても
  強いぞ強いぞ、久米の兵士が
  こぶつきの太刀、石の太刀
  撃ちてしやまん
  強いぞ強いぞ 久米の兵士が
  こぶつきの太刀 石の太刀
  そら、いま撃つがよい
 
 と、威勢がよろしい。こうして大勢の土雲を斬り倒した。
 こののちさらに道を進めてトミビコを討つときに詠んだのは、
 
  強いぞ強いぞ 久米の兵士が
  粟《あわ》畑には くさい韮《にら》が一本はえている
  根も芽もみんな一つにして引き抜き
  撃ちてしやまん
 
 であり、また詠んで、
 
  強いぞ強いぞ 久米の兵士が
  垣下《かきもと》に植えたさんしょう
  口にピリピリ 私は忘れない
  撃ちてしやまん
 
 と、ピリピリ辛いさんしょうは敵のこと、それを久米の兵士が討ちやぶることを勧めているのだ。
 また詠んで、
 
  神風の吹く伊勢の海
  大石にへばりついている
  細巻き貝のようにしつこく這《は》いまわって
  撃ちてしやまん
 
 と、これは海辺で、ねばり強く戦うよう兵士に勧め励ましている。
 またエシキ、オトシキの兄弟を討ったときは身方《みかた》の兵士たちがひどく疲れていたので、
 
  楯を並べて伊那佐《いなさ》の山
  木の間から見守って矢を放ち
  戦《いくさ》をして腹が減った
  島にいて鵜《う》を飼う人よ
  さあ助けに来ておくれ
 
 すると、ニギハヤビの命が神武天皇のもとに馳《は》せ参じて、
「天つ神の御子《みこ》が降りていらしたと聞き、あとを追って降りてまいりました」
 と、天からの宝物を献上した。その宝物で腹のたしになるものが入手できた、ということだろうか。ここに記した歌は久米《くめ》歌と呼ばれている。
 このニギハヤビの命が、先に滅ぼしたトミビコの妹トミヤビメをめとって産んだ子がウマシマジの命で、これが物部《もののべ》、穂積《ほづみ》、采女《うねめ》ら一族の先祖である。このようにして神武天皇は逆らう賊を平定し、服従しない者を追い払い、大和《やまと》の国の畝傍《うねび》にたどりつき、橿原《かしはら》の宮において天下を治めることとなった。
 
 神武天皇の女性関係について触れれば、初め日向《ひゆうが》の国にあったとき、アタノオバシの君の妹のアヒラヒメを妻としてタギシミミの命とキスミミの命という二人の子を得ていた。
 私見を述べれば、神武天皇の東征にあたり故郷に残される妻はさぞかし心細かっただろう。戦に発《た》つますらおを見送る女たちは、いつの世にあってもあわれなものだ。それゆえ皇子原《おうじばる》に建つ歌碑�君が行く道のながてをくりたたね焼きほろぼさむ天《あめ》の火もがも�を見て、私は時代錯誤、事実誤認の連想を抱いてしまったのだが、神武天皇の久米歌はいくら戦のおりの励みの歌だからといって�古い妻には食べ物を少し削って、新しい妻にたっぷり削って�なんて、日向のアヒラヒメが聞いたら、
「くやしいーッ」
 と怒ったにちがいない。陰膳《かげぜん》をし、呪いをかけたりして……。
 が、まあ、まあ、まあ。神武天皇としては橿原の宮で天下を治めることになり、それにふさわしい皇后を求めねばなるまい。
 重臣のオオクメの命が言うには、
「この地に神様の御子だと伝えられる娘さんがいらっしゃいます。そのいきさつを申し述べれば……三島のミゾクイの娘にセヤダタラヒメがいて、とても顔形が美しいので、美和《みわ》のオオモノヌシの命が見そめました。セヤダタラヒメが厠《かわや》に入っているとき(文字通り当時の厠は川の流れの上にあった)オオモノヌシの命は朱塗りの矢となって川を流れ、厠の下から隠しどころを突ついた。セヤダタラヒメは驚いて、その矢を取り、床の辺に置いたところ、たちまち矢はりっぱな男の姿に変わり、二人は睦《むつ》みあった。生まれた子がホトタタライススキヒメ。ホトという言葉を嫌って、今はヒメタタライスケヨリヒメと改めておりますが、この娘さんをお后《きさき》にお勧めいたします。なにしろいま申し上げたような事情で、この娘さんは神様の御子でいらっしゃいますから」
 と進言した。
 進言の中、ホトとあるのは女陰である。タタラは多多良と書く。ホトがとってもとってもよいイススキヒメ、というのでは、いくら古代でもあからさま過ぎて嫌われたにちがいない。
 それから数日後、七人の娘が高佐士野《たかさじの》(現在の大神《おおみわ》神社の近く)で遊んでいた。その中にヒメタタライスケヨリヒメがいる。オオクメの命が見つけて神武天皇に歌で伝えた。
 
  大和の国の高佐士野
  七人《ななたり》行く娘たち
  だれをお選びになりますか
 
 イスケヨリヒメは七人の先頭にいた。神武天皇は娘たちの様子をながめて、やはり歌で答えた。
 
  どうしようか、先頭に立つ年長の娘を選ぼうか
 
 と、あまり積極的ではない。照れていたのかもしれない。オオクメの命は委細かまわず、娘のところへ行って神武天皇の意志を伝えた。
 オオクメの命が目尻《めじり》に入れ墨をして鋭く睨《にら》んでいるのでイスケヨリヒメは不思議に思い、
 
  天地に名高い武士《もののふ》でしょうに、どうして目尻に墨など入れているのですか
 
 と歌えば、オオクメの命も、
 
  お嬢さんをしっかり見ようと思って目を鋭くしています
 
 と答える。
 問答の内容はともかく、娘が呼びかけに応ずること自体がこの縁談に対して満更ではない心の表明なのだ。イスケヨリヒメは勧めに従い「お仕えいたします」と頷《うなず》いた。
 イスケヨリヒメの家は、三輪《みわ》山から流れ出る狭井《さい》川の上流にあった。神武天皇はそこへ訪ねて行って一夜をともにする。この川を狭井川と言うのは、川辺に山百合《やまゆり》がたくさん咲いていたから。山百合は古くは佐韋《さい》と呼ばれていたのである。この後、イスケヨリヒメが宮中へ参上したとき、神武天皇は初めての夜を思い出して歌った。
 
  葦原の 葦の繁った小屋で
  菅《すげ》の畳を清らかに敷いて
  二人で寝たっけなあ
 
 イスケヨリヒメによって生まれた子はヒコヤイの命、カムヤイミミの命、カムヌナカワミミの命、三男神である。
 
 神武天皇が日向にあったときに生まれた子にタギシミミの命がいたことはすでに述べた。神武天皇が亡くなると、このタギシミミの命が、義母に当たるイスケヨリヒメをめとって、三人の義弟たちを殺そうとした。イスケヨリヒメはおおいに心を痛め、そのことを子どもたちに知らせようと、
 
  狭井川に 雲|起《た》ちわたり
  畝傍山 木の葉ざわめく
  わるい風吹きますよ
 
 また一つ、
 
  畝傍山 昼は雲動き
  夜ともなれば 風吹かん
  木の葉ざわざわ
 
 と、二首を詠んで伝えた。山の辺に嵐が来ようとしていることを詠んで、タギシミミの命の野望をほのめかしているのだが、なんだか天気予報みたい。
 ——どうせなら、もう少しはっきりと意味のわかる伝言を与えたらいいのに——
 と思わないでもない。
 イスケヨリヒメにしてみれば、現在の夫である人を裏切って実子たちに知らせるのだから、ためらいがあったのかもしれない。それとも当時はこのくらいの表現で凶事の予告ができたのだろうか。
 ともあれ知らせを受けた兄弟たちは先手を打ち逆にタギシミミの命の殺害を企てた。
 すきを狙って襲い、三男のカムヌナカワミミの命が、
「さあ、兄さん、武器を持って入って行き、タギシミミを殺してください」
 次男のカムヤイミミの命をうながした。
 しかし、カムヤイミミの命は武器を手にしたものの体が震えて、とても殺せそうもない。とはいえ、この情況、敵を目前にしてぐずぐずしていられない。
「じゃあ」
 と、カムヌナカワミミの命が兄の持つ武器を取り、タギシミミの命を殺した。
 以来、このときの勇気を讃《たた》え、カムヌナカワミミのカム(神)をタケ(建)に替えタケヌナカワミミの命と呼ぶようになった。建には、たくましい、猛々《たけだけ》しいの意味がある。
 長男のヒコヤイの命は、この事件のときどうしていたのだろうか。子どもたちが歌う〈だんご三兄弟〉では三人それぞれについて性格の説明が歌われ、わかりやすいけれど、イスケヨリヒメの産んだ三兄弟が暗殺劇にどうかかわったか、エピソードは次男と三男のことばっかり。少々気がかりだが書いてないことはどうしようもない。
 次男のカムヤイミミの命は三男のタケヌナカワミミの命に向かって、
「私は敵を討つことができなかった。お前が殺した。お前のほうが勇気がある。このざまじゃ私はお前の上に立つことができない。お前が父のあとを継いで天下を治めるほうがよい。私はあなたを助けて祭事を受け持つことにしよう」
 と、身を引いた。
 このタケヌナカワミミの命が第二代|綏靖《すいぜい》天皇である。
 長男のヒコヤイの命も、子孫については、記述があって、茨田《まむた》、手島の一族はこの末裔《まつえい》だとしている。カムヤイミミの命からは、ざっと二十近い豪族が出たと景気よく名前を記しているが、ここでは省略。ちなみに言えば、古事記の編者太安万侶は、このカムヤイミミの命の末裔となっており、みずからの家柄もさりげなく古くから由緒あるものとして作っている。神武天皇は御歳百三十七歳で崩御、御陵が畝傍山の北にあることを記して一代の記述を終えている。
 
 今回は神武天皇にちなんで日向の狭野神社、皇子原から書き起こし、美々津の船出、いくつもの征服、子孫の誕生を述べ崩御までを紹介した。古事記はまことしやかに綴《つづ》っているけれど、この記述はどこまで信じてよいことなのだろうか。疑問符は大きい。
〈山幸彦海幸彦〉の末尾でも触れたように古事記は大和朝廷の基盤が強固になったとき、みずからの血筋がいかに正統なものか、後追いの形で作成されたものである。政治的な意図を多分に含んでいた。そうであるならば、不都合なものは捨てられ、故意に捏造《ねつぞう》された部分も多いと考えるのが常識である。現在の学説では神武天皇の東征はなかった、とする論も強いし、神武天皇その人さえ存在しなかった、という声も高い。古事記上巻の神代の部が伝説であったのと同様に、神武天皇のエピソードもまた伝説であり史実ではなかったと、学問的にはほぼ確定している。
 もとより伝説は民族の願望や思考を伝えるものとして格別の価値を持つものであり、古事記が民族の古典として充分に尊重されてよい文献であることは論をまたない。価値は充分に高いが、そのことはすぐさまそれが史実であることの証明にはならない。現在、歴史としてたどりうるのはせいぜい第十代|崇神《すじん》天皇のあたりまで。それ以前は稗史《はいし》伝説のたぐいと考えてよい。
 これとは別に、神武天皇その人は実在しなかったかもしれないけれど、類似の人物が九州から東征して大和に朝廷を創建した、この可能性は考えてよいだろう、という見方も、伝説の一つの考え方としてしばしば語られてきた。伝説はフィクションかもしれないが、史実をほのめかしている、と……。
 しかし、この立場に立っても古事記の記述に史実としての根拠を求めるのは、なかなかむつかしい。神武東征は邪馬台《やまたい》国九州存在説と微妙にからんでいるのだが、邪馬台国が九州にあったという学説自体が喧々囂々《けんけんごうごう》、いまだに結論が出ていないのである。
 詳述は避けよう。私としては「伝説として楽しんでください」と、これがベースである。
 そのうえでふと思うのだが、古事記の内容が固まったのは天武天皇(在位六七三〜六八六)の御代であった。神話の成立にはこの時代の世情がさまざまな形で影響を与えている。
 カムヤマトイワレビコの命が中国の皇帝風の命名神武に変わったのもこの時勢の影響であることは先に述べたが、なぜ神武なのか。この命名については、時の権力者天武との関わりを指摘する人もいる。天と来れば次は神だろう。
 さらに私見を述べれば……ほんの三ページほど前、神武天皇の死後、弟が兄を抑えて皇位についたことを述べた。弟が権力を握り兄がそれを補佐する。そう言えば山幸彦海幸彦も、弟が兄を排して正統な立場を継ぐ結末である。なぜ弟が勝つのか。
 天武天皇は兄・天智天皇(六二六〜六七一)と対立し、兄の血筋を抹殺して輝かしい治世を実現した人であったではないか。すなわち古代最大の内乱、壬申《じんしん》の乱であり、当時の人々には充分に生々しい記憶であったろう。神話の作り手は弟を贔屓《ひいき》し、こんな形で天武天皇におもねたのかもしれない。

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