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楽しい古事記07
日期:2018-03-31 14:40  点击:311
 辛酉《しんゆう》にご用心
   ——崇神《すじん》・垂仁《すいにん》天皇の治世
 
 
 昔の小学校では五年生になると国史を習った。まず最初に覚えるのは歴代天皇の名前である。
「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スジン……」
 さながらお経の文句のように棒読みにして第百二十四代昭和天皇までを唱えていた。
 太平洋戦争に敗れてからは、
「日本の歴史教育はまちがっている。とりわけ天皇中心の歴史は改めるように」
 占領軍の総司令官マッカーサーの命により、しばらくのあいだ日本歴史は教えられなかった。せっかく覚えた棒読みも等閑視され、歴史教育が再開されたときには、
「天皇の系図には誤りがあるらしいぞ」
「とくに初めのあたりはね」
 となっては棒暗記を呟《つぶや》くこともむなしく感じられてしまう。
 そのまま数十年が過ぎ去ったが、事の正否とはべつに幼い頃に覚えたものは、いつまでも記憶に残っている。私はと言えば、今でも、
「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スジン……」
 半分くらいまではきちんとまちがえずに言うことができる。古事記を再読するに当たって少し役に立った。
〈まぼろしの船出〉でも触れたように、このあたりの古代史にはフィクションがたっぷりと含まれている。詳細に綴《つづ》られている神武天皇の東征も�なかった�とする説が有力だし、神武天皇の実在からして疑わしい。
 が、諸説の吟味はともかく、古事記を読むとなれば、フィクションであろうとなかろうと、天皇の名を軸にして読み進まなくてはならない。「ジンム、スイゼイ……」が役に立った、と言う所以《ゆえん》である。
 第一代と目される神武天皇を通り過ぎて第二代|綏靖《すいぜい》天皇、第三代|安寧《あんねい》天皇……と進むと、さらに悩ましい。どの天皇もいろいろのヒメを娶《めと》って子作りはしっかりとおこなっているらしいのだが、それ以外にどんな業績があるのか、記録が残されていない。
 結論を急げば、第九代|開化《かいか》天皇までは名前だけあって実在のほうは疑わしい、と、これが歴史学として有力な見方である。
 神武天皇は初代だけあって伝説も豊富に作られ伝えられたが、こうした伝承が〈本辞〉という形でまとめられたのが六世紀の前半ぐらい、さらに七世紀の初め、聖徳太子《しようとくたいし》の頃にもう一度見直され、
 ——神武天皇の即位はいつ頃であったろうか——
 根拠は薄くとも年次を決定しなければ信憑性《しんぴようせい》がさらにとぼしくなってしまう。建国の起源を設定しにくい。歴史に対する考え方が今日と異なっていたから、歴史が創造されるケースもおおいに実在していたのである。
 中国に讖緯《しんい》説という思想があって、これは未来予測を中軸とする学説なのだが、その中に画期的な事件は……つまり政治の改革や革命は辛酉《しんゆう》の年に起こる、とりわけ二十一回目ごとの辛酉は大事の年である、という考えがあった。
 辛酉は和風に言えば、かのととり。年次を表わすのに十干十二支《じつかんじゆうにし》が用いられたのはご承知と思うが、これは�甲・乙・丙・丁・戊《ぼ》・己《き》・庚《こう》・辛《しん》・壬《じん》・癸《き》�からなる十干と�子《ね》・丑《うし》・寅《とら》・卯《う》・辰《たつ》・巳《み》・午《うま》・未《ひつじ》・申《さる》・酉《とり》・戌《いぬ》・亥《い》�からなるお馴染《なじ》みの十二支を組み合わせて六十年を周期とする数え方である。
 十と十二を組み合わせれば百二十年周期ではないのか、と思われるふしもあろうが、その実、十干のほうは二つで一セットとして扱う。と言うより、実質的には十二支と五行(木・火・土・金・水)の組み合わせで、そこに兄《え》と弟《と》が加わる。一番最初は木の兄、�きのえ�と読み、これが甲《きのえ》となり、次は木の弟で乙《きのと》、三番、四番は火の兄と火の弟で、丙《ひのえ》、丁《ひのと》となる。くわしくは表を見ていただいたほうがよいだろう。
 
 話を戻して……この中の辛酉《かのととり》が、なぜか讖緯説では大切なのである。とくに二十一回目ごとが凄《すご》いのである。もちろん、そこにはそれなりの理屈があるのだが、それは省略……。しこうして聖徳太子が政治改革をおこないながら神武天皇の伝承に思いを馳《は》せたとき、それが推古《すいこ》九年(六〇一)。折しも辛酉の年に当たっていた。
 聖徳太子は当然讖緯説を知っていただろうから、
 ——今年は政治改革にはよい年だな——
 と考えたにちがいない。事実、斑鳩《いかるが》に宮殿を造ったり、新羅《しらぎ》遠征を議定《ぎじよう》したりしている。事のついでに、
 ——神武天皇の即位も、これと関わりがあったほうがよいかな——
 と考えたかどうか……タイム・マシンに乗って尋ねて来たわけではないから断言はできないけれど、太子自身か側近の中に、そう考えた者があった、と推測することは充分に可能である。そして、
 ——どうせなら、ただの六十年周期じゃなく、大事が起こる二十一回目ごとの辛酉がよかろう——
 
[#年表(P154.jpg)]
 
 つまり聖徳太子の辛酉から逆算して、
 60×21=1260
 つまり千二百六十年前を神武天皇の即位の年としたわけである。これが皇紀元年。西暦前六五九年となる。
 私などは、たしか五歳のとき(西暦一九四〇年に当たる)、
 ——紀元は二六〇〇年って歌がはやったなあ——
 と思い出すのだが、この西暦と皇紀との差は、はるか遠い昔にさかのぼって決定されていたわけである。
 が、それはともかく、聖徳太子の頃から逆算して千二百六十年昔なんて……ずいぶんと大盤振る舞いをやってしまったものだ。日本列島はどうなっていたのか? 弥生《やよい》式土器の時代より古く、縄文式土器のまっただ中。考古学の領域である。
 讖緯説を頼りに建国のときを決めてはみたものの神武天皇の即位以来の長い年月を、なんとか埋めねばならなくなった。その結果、フィクションとしての天皇の名が並べられた、というのは、ごく普通の推理ではあるまいか。
 話は変わるが、古代ローマの建国は西暦前七五三年と言われている。現在のローマを訪ねると、二人の赤子に乳を吸わせている狼の彫刻や絵画が散見されるが、これは大昔ティベル河に捨てられた双子の兄弟ロムルスとレムスが狼に養われ、やがて成長したロムルスがローマを建国した、という伝説に由来している。その年を西暦前七五三年としたのも、おおいに伝説的で、疑わしいと言えば疑わしいのだが、それ以上に疑わしいのが……ロムルス、レムスの先祖はだれか、ということ。
 それはトロイア戦争で敗れたトロイアの武将アイネイアス……となっている。なぜこの人がローマの祖となったかと言えば、これはあくまで一つの想像だが、伝説が作られる頃、ローマを中心とする古代ヨーロッパ社会では、ホメロスが語った叙事詩〈イリアス〉と〈オデュッセイア〉がおおいにもてはやされていた。どちらも文明の揺籃《ようらん》期に登場してこの方、多くの人々を魅了した古典文学だから、ローマ人に敬愛されたのも当然と言ってよいのだが、この二作品はともにトロイア戦争を扱っている。トロイア戦争は、有名な木馬の計を用いたギリシア側の大勝利に終わり、トロイア側の勇者はことごとく惨殺されたが、その中でただ一人生き残って逃れた武将がアイネイアス。地中海を放浪したすえイタリア半島にたどりついた、という伝承が残されていたのである。
 古代ローマは古代ギリシアの跡を継ぎ、その文明を継承しながら発展した国家であったが、自分たちの祖先をギリシアに求めるのは潔しとしなかったのではないのか。あからさまに、後塵《こうじん》を拝するようで厭《いや》だったのではあるまいか。
 そこで、ギリシアと対等に戦い、ホメロスが美しく歌ってやまなかったトロイア、そこに先祖を求めたい心理が働いたのではないのか。これがアイネイアスが古代ローマの祖となった理由、と私は考えている。
 ホメロスは西暦前八〇〇年頃に生きていた人らしい。彼が歌ったトロイア戦争も、その残党であるアイネイアスも、ホメロスの生涯と較べて、そう昔のことではあるまい、と当時の人々は想像していた。ロムルスがローマを建国した西暦前七五三年から数えても百年くらい昔のこと……。よってもってアイネイアスからロムルスへ至る系図を簡単に考えていたふしがあるのだが、少しずつ事情が明らかになり、
 ——トロイア戦争はもっと古いことらしいぞ——
 と考えられるようになった。
 当時はまだ正確な年代まではわからなかったろう。トロイア戦争が実在の歴史であり、西暦前十三世紀くらいの事件と推定されるのは、時代もグーンと下って十九世紀の考古学者ハインリッヒ・シュリーマンの発掘以降のことなのだから……。
 しかし、古代ローマの人々も自分たちの誤差にうすうすながら気がついた。百年くらいの過去を五百年くらい昔にまで伸ばして修正しなければならない。あわててアイネイアスからロムルスに至る歴史を拡大生産した。系図は作られたが、中身はすかすか。無理をして作った痕跡《こんせき》がはっきりと見えるのである。あははは、笑っちゃいけない。古代の人々は海を越えて同じようなことをおこなったのではなかろうか。
 事のよしあしを言うのではない。古代の歴史というものは、多かれ少なかれ、こういう側面を孕《はら》んでいるものである。
 
 古事記もまた神武天皇の直後は、あまり綿密には作られていない。第一代は別格として第二代から第九代まではとりわけ大ざっぱで、だれと結婚して、どういう子どもを作ったか、系譜の記述だけがもっぱらである。
 古事記の編纂《へんさん》に当たっては本辞と帝紀と、二つの原史料があったと言われている。どちらも早い時期に散逸して伝わっていないので、細かいことはわからないが、本辞は伝説や歌謡を含むもの、帝紀は天皇の系譜を記したものであったらしい。第二代から第九代までは帝紀のみで、本辞の部分がない、と言ってもよいだろう。一例として綏靖天皇の項を引用して示せば、
�神沼河耳《かむぬなかはみみ》の命、葛城《かづらき》の高岡《たかをか》の宮にましまして、天の下|治《し》らしめしき。この天皇、師木の県主《あがたぬし》の祖、河俣毘売《かはまたびめ》に娶《あ》ひて、生みませる御子、師木津日子玉手見《しきつひこたまでみ》の命《みこと》。一柱。天皇、御年|肆拾伍歳《よそぢあまりいつつ》、御陵《みはか》は衝田《つきだ》の岡にあり�
 と、四行である。
 つまり、カムヌナカワミミの命《みこと》は、葛城の高岡(奈良県|御所《ごせ》市)の館《やかた》にあって天下を治めた。志木(奈良県桜井市)の県主の先祖に当たるカワマタビメと結婚して、生まれた子どもがシキツヒコタマデミの命(第三代安寧天皇)お一人である。この天皇は四十五歳で没し、御陵は衝田の岡(奈良県|橿原《かしはら》市)にある、と、それだけである。山賊退治とか華麗な恋とか楽しいフィクションは一つもそえられていない。
 眉《まゆ》に唾《つば》をつけたくなるほど長命の天皇が散見されるのも、このあたりの特徴で、神武天皇の百三十七歳は、
 ——偉い人だったからなあ——
 と、業績が多ければ、そのぶんだけ長命であったように伝えられるのは古代人の修辞法の一つだが、第六代|孝安《こうあん》天皇百二十三歳、第七代|孝霊《こうれい》天皇百六歳、第十代|崇神《すじん》天皇百六十八歳、第十一代|垂仁《すいにん》天皇百五十三歳などなど、年齢の数え方に差異があったとしても、やっぱりこれも引き伸ばした数百年を埋めるための工夫であったと見るのが妥当であろう。
 
 このエッセイは〈楽しい古事記〉なのだから、人の名前ばかりが並んでいて、ややこしいだけの部分は省略、省略。第九代までは飛び越して第十代崇神天皇へと進もう。いくつかの伝説が残され、この天皇は歴史的にも実在しただろう、と推定されている。
 さて、そのエピソードは……崇神天皇の治世の頃、伝染病が大流行して、このままでは人民が死に絶えてしまいそう。崇神天皇が神を祀《まつ》って問いかけると、夢にオオモノヌシの命(オオクニヌシの別称とも)が現われ、
「病気がはやるのは私が意図したことだ。オオタタネコを捜し出して私を祀れば、神の祟《たた》りが止んで国は安らかになるだろう」
 とのこと。
 四方に馬を走らせてオオタタネコを捜したところ現在の大阪府|八尾《やお》市のあたりで見つけ出し、参内するように願った。天皇みずからが、
「あなたは、どなたです」
 と尋ねれば、
「神の子です」
「ほう?」
「オオモノヌシの命がイクタマヨリビメと結婚して産んだ子がクシミカタの命、その子がイイカタスミの命、その子がタケミカズチの命、その子が私です」
 と、自分が神の血を継いでいることを説明した。
「なるほど」
「曾祖父《ひいじい》さんの母親、つまりイクタマヨリビメはとても美しい女でした」
 と語り出す。
 そのあらましは……ある夜、どこからともなくとてもりっぱな男が部屋へ入って来て二人はまぐわい、とこうするうちイクタマヨリビメは身籠《みごも》ってしまった。両親が怪しんで、
「お前は夫もいないのに、どうして妊娠したのか」
 と問い詰めると、
「はい。名も知らない、りっぱな男が夜ごとに訪ねてまいります」
 不思議なことを答える。家人に見咎《みとが》められずに娘の部屋へ忍び込むなんて、できようはずもないのだから……。
「では、赤土を布団のまわりに散らしておきなさい。それから針に麻糸を通しておいて、訪ねて来た男の着物のすそにそって刺しておきなさい」
 と教えた。
 娘は教えられた通りにする。
 朝になって確かめれば……なんと、麻糸は鍵穴《かぎあな》を抜けて外へ出ている。部屋の中には、麻糸の端が三つ輪を作って残っているばかり。男は鍵穴を抜けて出て行ったらしい。
 長い糸を追って行くと、山の神社へ着いた。祭神はオオモノヌシの命である。
 ——とすると……娘のところへ訪ねて来ていたのは神様であったか——
 と、みなが納得して、この地を麻糸の輪に因《ちな》んで三輪《みわ》と呼び大三輪神社(大神神社)の命名となった、という縁起である。
 オオタタネコから話を聞いた崇神天皇は、
 ——そうか。私が夢に見たのもオオモノヌシの命だった。ならば、私にオオタタネコを捜させた理由も見当がつくわ——
 と、大喜びをしてオオタタネコを神主にして三輪山で盛大な祭祀《さいし》を催した。多くの皿をあらたに作らせてこの祭に用いた。赤い楯矛《たてほこ》黒い楯矛、あるいは数多くの幣帛《へいはく》を作って、すべての神々に奉って祈った。
「天下が安らぎ栄えるだろう」
 と宣告すれば、その言葉通り伝染病もおさまり国が栄えた。
 また崇神天皇は、第八代|孝元《こうげん》天皇の子オオビコの命(崇神には伯父《おじ》に当たる)を北陸地方へ遠征させ、その子のタケヌナカワワケの命を東方の諸国に遣わして反抗する賊たちを平定させた。第九代開化天皇の子(崇神には母ちがいの弟)ヒコイマスを丹波《たんば》の国(京都府の北)に送ってクガミミノミカサという賊を討たせた。
 オオビコの命が北陸地方へ行ったとき、大和から山城へ入った坂道で、腰に裳《も》をつけた衣裳《いしよう》を着た少女が奇妙な歌を歌っている。
 
  ミマキイリビコはねぇ
  ミマキイリビコはねぇ
  命を狙って殺そうとする人がいて
  うしろの戸口からこっそりと
  前の戸口からこっそりと
  覗《のぞ》いているのも知らないで
  ミマキイリビコはねぇ
 
 と聞こえるではないか。ミマキイリビコというのは崇神天皇のことである。オオビコの命は、
 ——変だぞ——
 と怪しんで馬を返し、その少女に、
「どういう意味だ?」
「わかりません。ただ歌っていただけです」
 と、行方も見せずに消えてしまった。
 天皇の館に帰ったところで、この出来事を伝えると、
「伯父上、あなたの異母弟、タケハニヤスが山城の国にいます。あの人が邪心を抱いたにちがいありません。おそれいりますが、軍を起こして攻めてください」
 ヒコクニブクを同行させて山城へ軍を遣わした。
 軍勢が山城の木津《きづ》川まで来ると、果たせるかな、タケハニヤスが軍陣を構えている。両軍は川を挟んで向かいあい、いどみあった。それゆえに、この地を伊杼美《いどみ》と呼び、今は伊豆美《いずみ》となっている。
 ヒコクニブクが、
「さあ、そっちから清めの矢を射ろ」
 と、けしかける。開戦の印である。
 誘われるままにタケハニヤスが射たが、どこにも当たらない。次に、ヒコクニブクが放つと、ブスリ! タケハニヤスに命中して絶命。大将が死んでは戦《いくさ》にならない。
「逃げろ」
 敵軍はちりぢりになり、たやすく勝利をおさめることができた。
 このあと、ある戦場で屎《くそ》が出て褌《はかま》にかかったから、その土地を屎褌《くそばかま》、いまの久須婆《くすば》だとか、死体が鵜《う》のように浮いたから鵜河、敵の兵士を斬り屠《ほふ》ったから波布理曾能《はふりぞの》だとか、はたまた二人の将軍が会ったから会津としたとか、こじつけみたいな地名縁起が記されている。もちろん、帝紀に当たる部分、すなわち、だれと結婚してだれが生まれたか、また有力な部族の祖先がどこから出ているか、などなども記されているが、逐一記すこともあるまい。先にも触れたように崇神天皇は百六十八歳の高齢で没し、御陵は山の辺《べ》の道の、勾《まがり》の岡(現在の天理市山辺道)にある、と記してこの項は終わっている。
 
 次は第十一代|垂仁《すいにん》天皇。崇神天皇の子イクメイリビコイサチの命である。この垂仁天皇がサホビメという女と結婚していた頃のこと……。サホビメの兄のサホビコが、
「ちょっと聞くけど、お前は夫と兄と、どっちが大切と思っているのかな?」
「それは……兄さんです」
「だったら話は簡単だ。お前と二人で国を治めよう。そのためには……」
 と言いながら染紐《そめひも》のついた小刀をサホビメに渡し、
「これで天皇を殺せ」
 と命じた。
 垂仁天皇はもとよりなにも知らない。サホビメの膝《ひざ》を枕にしてスヤスヤ眠っているとき、サホビメは、
 ——今だわ——
 と思って小刀で三度、夫の首を刺そうとしたが、なかなか実行できない。むしろ涙がこぼれ、それが天皇の顔に落ちてしまう。
 天皇は驚いて目を開け、
「不思議な夢を見た。お前の兄さんの館のほうからにわか雨が近づいて来て、私の顔を濡《ぬ》らした。気がつくと錦色《にしきいろ》の蛇が首に巻きついている。これは、なにを意味しているのだろうかね?」
 天皇に真顔で見つめられてサホビメはとても悪事を隠しきれない、と思った。一部始終を告白すると、天皇は、
「ありがとう。あやうく欺かれるところだったな」
 すぐに軍を起こし、サホビコの館を目ざして出陣した。
 サホビコは館に稲垣を作り、軍をそろえて待機していた。
 サホビメの心は複雑だ。心のやさしさから夫の寝首をかくことはできなかったが、兄との関わりは深い。迷いぬいたあげく、天皇の陣営の後ろ門から逃げ出し、兄の館へ入った。
 サホビメはすでに三年間も天皇の寵愛《ちようあい》を受け、身籠《みごも》っており、このどさくさの最中に男子を産む。それを知っては天皇もサホビコの館に火をかけるのがためらわれてしまう。
 サホビメは稲垣の館の外に出て、
「ご自分の子とおぼしめすならお育てくださいませ」
 と、生まれた子をさし示す。
 天皇としては、
 ——サホビコに恨みはあるが、サホビメへの愛は変わらない——
 手勢の中から敏捷《びんしよう》な兵士を選んで、
「あの子を奪え。そのときに母親のほうも奪って来てくれ。髪でも腕でも手あらにつかんで引っぱってかまわんぞ」
 と命じた。
 しかし、サホビメのほうは、天皇の考えを見ぬいて、髪をすっかり剃《そ》り落とし、その髪で頭を覆い、腕には手首飾りの紐を腐らせて三重に巻き、着衣も酒で腐らせて、さりげなく着こんで待っていた。生まれた子は天皇のもとに預けたいが、自分自身は兄とともに……と、覚悟を決めていたにちがいない。不肖私なんか、
 ——兄さんと……怪しいぞ。近親|相姦《そうかん》じゃないのか——
 と疑いたくなっちゃうけれど、古事記はなにも説明していない。まあ、亭主より兄さんのほうが頼りになって大好き、という女性も世間にいないではないけれど、サホビメの心理は、いまいちわかりにくい。
 天皇の手勢が攻め込み、計画通り子どもを奪ったが、さて、母親も一緒にと手を伸ばすと、髪に触れれば髪がバサリと抜け、腕を取れば手首飾りがスルリと抜け、着物を握ってもボロボロと破れてたぐれない。サホビメを奪取することはできなかった。
 戦闘が始まり、天皇の軍勢は稲垣に火をかける。そのさなかに、天皇はサホビメを見つけて呼びかけた。
「生まれた子の名前は母がつけるものだ。この子の名はなんとしよう?」
「稲垣の館が炎《ほむら》で焼かれることを思いながら産みましたから、ホムチワケがよろしいでしょう」
「お前がいないのに、どう育てたらよいだろう?」
「乳母をお選びください。丹波の国に住むヒコタタスミチノウシの娘にエヒメ、オトヒメの二人がいます。りっぱなかたがたですから、この二人をお使いください」
「あいわかった」
 稲垣の館は攻められて炎上し、サホビコは討たれ、サホビメもともに死んだ。サホビメが兄のもとに走ったのは、強い決心があってのことだったにちがいない。
 ——やっぱり近親相姦だな——
 小説家としてはイマジネーションを広げずにはいられない。
 
 が、それはともかく、こうして垂仁天皇に預けられた子は鬚《ひげ》が胸に垂れるまで成長しても口をきかない。わずかに空を飛ぶ鵠《くぐい》を見て、
「あぎ」
 と言うばかり。父なる天皇は、その鳥を息子のそばに置けば声を出すようになるかと思い、家臣に鳥を追わせた。命じられた家臣は、なんとまあ、紀の国、播磨《はりま》、因幡《いなば》、丹波、但馬《たじま》、近江《おうみ》、美濃《みの》、尾張《おわり》、信濃《しなの》、越《こし》と鵠を追いかけ、ようやく罠《わな》を仕掛けて捕らえて献上したが、それを見てもやっぱり皇子ははかばかしく喋《しやべ》ってはくれない。
 天皇の夢に出雲《いずも》の神が現われ、
「天皇の宮殿と同じくらいの御殿を私のために造ってくれたら、皇子の口がきけるようになるだろう」
 との託宣。出雲に人を送って御殿を造らせ、結局皇子は話をするようになるのだが、鵠を追う話も、宮殿を造る話も、水辺に罠を作ったからそこを和那美《わなみ》と言うとか、これこれの功績を示したのが、だれそれの先祖だとか、地名縁起に家系の由来ばかり、物語としておもしろいところはとぼしい。これも省略。
 先にサホビメは死の直前に二人の乳母を勧めたが、丹波の国のヒコタタスミチノウシには、その実、四人の娘がいて、垂仁天皇は、
 ——じゃあ、まとめて面倒をみようか——
 と、四人を呼び寄せたが……そして当時の習慣として、この種の乳母は赤ん坊の面倒をみるばかりではなく、パパのほうのお世話もするのであって、天皇が、
 ——どれどれ——
 ながめみると、四人のうち二人はよいけれど、残る二人が美しくない。
「えーと、わるいけど、そちらのお二人はお父さんのところへ帰ってください」
 と断った。やんごとない身分だからこそできることなのだ。
 父のヒコタタスミチノウシとしては、
 ——ひどい。大切な娘にけちをつけたりして——
 と怒ってもよいところだが……心中ひそかに不満を覚えたかもしれないけれど、それを表わすのは身分制度の厳しい社会の習慣にそぐわない。
 ——二人を返されるなんて、恥ずかしいことだ——
 返された娘は、嘆き悲しみ、首を吊って死のうとしたが果たせず、深い淵《ふち》に身を落として死んだ。前者の地をさがり木、後者の地をおち国と言うようになった、と、なんだか物語のポイントが少しずれているような気がしないでもない。
 留意すべきは、四人の娘のうち、残された二人の中の一人ヒバスヒメとの間に生まれた子がオオタラシヒコオシロワケの命で、これが第十二代|景行《けいこう》天皇となる人である。
 
 垂仁天皇のエピソードの中で広く人口に膾炙《かいしや》したものと言えば、忠臣タジマモリの説話だろう。学校唱歌にもなっている。
 
  かおりも高いたちばなを、
  積んだお船がいま帰る。
  君の仰せをかしこみて、
  万里の海をまっしぐら、
  いま帰る、田道間守《たじまもり》、田道間守。
 
  おわさぬ君のみささぎに、
  泣いて帰らぬまごころよ。
  遠い国から積んで来た
  花たちばなの香とともに、
  名はかおる、田道間守、田道間守。
 
 本来は中国から伝えられた不老長寿伝説の一つであったろう。貴人の要請を受けて家臣が不老長寿の木の実を捜しに行く、という骨子で、バリエーションは多い。他所で伝承された説話が古事記の中に取り込まれ、まことしやかに定着しているケースは数多くあって、タジマモリの物語は、その好例と言ってよい。中国産の説話がスルリと垂仁天皇の事蹟《じせき》の中へ滑り込んだわけである。
 古事記の記述では、垂仁天皇が三宅《みやけ》の連《むらじ》の先祖であるタジマモリを遣わして、時じくの香《かぐ》の実を求めさせた、となっている。時じくは�時を選ばず、いつでもあること�の意で、時じくの香の実は�いつも実り熟している芳しい果実�であり、永遠の生命を宿し、それゆえに不老長寿の妙薬と信じられていた。
 タジマモリは常世《とこよ》の国まで行き、目的の果樹を見つけ蔓《つる》の形になっているものを八本、矛の形になっているものを八本、それぞれ持ち帰った。
 しかし、その時すでに遅く、敬愛する垂仁天皇は没していた。泣く泣く四本ずつを皇后に献納し、残りの四本ずつを御陵のわきに植え、
「お求めの果樹を、まさしく見つけ出して持ち帰りました」
 と報告し、タジマモリ自身も、そこで悲嘆のあまり死んでしまう。この時じくの香の実は橘《たちばな》である。花も実も芳しく香り、古くから高貴な植物として珍重されているが、果実は一般には食用に供しない。
 先に触れたことだが、垂仁天皇は百五十三歳の高齢で亡くなり、御陵は菅原の御立野《みたちの》、現在の奈良県|生駒《いこま》郡にあると言う。

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