殺して歌って交わって
——雄略《ゆうりやく》天皇の君臨
過日、彩《さい》の国さいたま芸術劇場でシェイクスピアの〈リチャード三世〉を見た。蜷川《にながわ》幸雄演出。主人公を演じた市村正親さんは、なかなかの悪党ぶりであった。
次から次へと、やんごとない貴人が殺されていく。史実である。十五世紀のイギリス王家は、
——難儀だったなあ——
と思ったけれど、家に帰って古事記を読み返すと、われらが大和《やまと》朝廷も充分に難儀であった。シェイクスピアのドラマにけっして負けていない。
允恭天皇の子アナホの命《みこと》が第二十代|安康《あんこう》天皇となった。弟のオオハツセの王子のために一肌脱いでやろうと考え、仁徳天皇の子であるオオクサカの王のもとに家臣のオヤネの臣《おみ》を送って、
「オオクサカの王よ、あなたの妹のワカクサカベの王を私の弟のオオハツセの王子にめあわせてくれ」
と頼んだ。
オオクサカの王は、
「はい、はい、はい。そういうこともあろうかと考えて、妹を外に出さずに守っておりました。おそれ多いことでございます。命令のままさしあげましょう」
と答え、言葉だけでは失礼と考えて大きな木の玉飾りを贈り物として差し出した。
ところが使いのオヤネの臣がなにを考えたのか玉飾りをねこばばして、そのうえ讒言《ざんげん》をして、
「大変です、大変です。オオクサカの王はご命令に従いません。自分の妹は同じ一族のはした女《め》になんかしない、と刀の柄《つか》を握って怒っていました」
と天皇を唆《そそのか》す。
安康天皇はおおいに怒ってオオクサカの王を攻めて殺し、その正妻を自分の妃《きさき》とした。
この女とオオクサカの王の間にはマヨワの王があったが、あるとき、天皇が妃に向かって、
「なにか不足があるかな?」
「親切にしていただいて、何の不満もありません」
「そうか。私には心配ごとがあってな……」
「なんでしょう?」
「あのマヨワの王が成長したとき、私があいつの父親を殺したのだと知ったら、どう思うだろう」
「よく諭しておきます」
と妃は答えたが、七歳になるマヨワの王はこの二人の会話を盗み聞きしており、
——ふむ、そうであったか——
天皇が寝ているときを狙って、かたわらにある太刀を取り寝首を掻《か》いてしまった。そして葛城《かつらぎ》の豪族ツブラオホミのところへ逃げ込む。七歳の餓鬼にしては大胆すぎる。もともとだれかが、たとえば母親が一枚|噛《か》んでいたのではあるまいか。安康天皇五十六歳の死であった。
一方、兄に嫁さんを世話してもらう予定であったオオハツセの王子は、まだ少年であったが、別の兄のクロヒコの王子のところへ行って、
「天皇が殺されました。どうします?」
と訴えたが、クロヒコの王子は格別驚くわけでもない。煮えきらない。
「ほう」
「天皇が殺されたんですよ。兄弟なのに……なにをぐずぐずしているんです」
クロヒコの王子の襟をつかんで引きずり出し、刀を抜いて殺してしまった。
さらに、またべつの兄のシロヒコの王子のところへ行って話したが、この兄もいきり立つわけでもない。オオハツセの王子はここでも襟をつかんで外に連れ出し、穴を掘り、体を立てたまま生き埋めにした。土が腰まで来たとき、シロヒコの王子の両眼が飛び出しそのまま死んでしまった。
ちなみに言えば、いま登場した四人に加え、〈煙立つ見ゆ〉で触れたキナシノカルの太子、都合五人は、みな同じ父母(允恭天皇と忍坂《おさか》のオオナカツヒメ)から生まれた兄弟で、多分、キナシノカル、クロヒコ、安康天皇、シロヒコ、オオハツセの年齢順であったと推察されるが、長男は三男に流され、三男は妻の連れ子に殺され、次男と四男は五男に殺され、これはもう私が、
——難儀やなあ——
と思ったのも充分に納得していただけるだろう。
最後に残ったオオハツセの命は兄のかたきを討たねばならない。軍勢を率いて、マヨワの王を匿《かくま》ったツブラオホミの館《やかた》を包囲し、しばらくは矢の射ちあい。オオハツセの命は形勢有利と見て、矛をズズンと杖《つえ》のごとく土に刺し立て、
「マヨワの王を出せ! それから私と言葉を交わした娘も、この家にいるだろう」
と叫ぶ。どうやらオオハツセの命は以前にツブラオホミの娘に求婚したことがあったらしい。
ツブラオホミは館から現われて武器を捨て、八度もお辞儀をしてから、
「前にお誘いのあった娘のカラヒメは差しあげます。五か所の倉も献上いたします。しかし、私自身はあなた様に従い申すわけにはまいりません。昔から臣下が王の御殿に逃げ込んだことはありましょうが、王子の身で臣下のところに隠れたなど聞いたためしがございません。私がいくら戦ってみても、あなた様にはかないませんけれど、私を頼みにして、卑しい家に逃げていらしたマヨワの王については、この私、死んでもお守りいたします。裏切るわけにはまいりません」
と、天晴《あつぱ》れ忠臣の心がけ。
ツブラオホミは館へ戻り、また武器を取って戦い続けた。
やがて矢も尽きてしまい、ツブラオホミはマヨワの王のところへ行き、
「私は傷つきました。矢もありません。もう戦うこともできませんが、どうしましょうか」
「そうか。仕方ない。私を殺してくれ」
「はい」
ツブラオホミは王子を刺し殺し、そのあとみずからの首を斬って果てた。
お話変わって淡海《おうみ》の国のカラフクロという者が、オオハツセの命のもとへ来て、
「淡海の蚊屋野《かやの》に猪や鹿がたくさんいます。立っている脚はすすきの原っぱみたい。頭の角は枯れ松のようです。そのくらいウジャウジャいるんですから」
と狩りに誘った。
オオハツセの命は従兄の市の辺《べ》のオシハの王と一緒に蚊屋野に赴き、その日はそれぞれ仮宮を造って眠った。
翌朝、まだ日も出ないうちにオシハの王はいつも通り馬に乗ってオオハツセの命の仮宮の近くにまで来て、オオハツセの命の従者に、
「まだ命は目をさまさないのか。すぐに伝えてくれ。もう夜は明けた。狩場へ急ごう」
と告げて、馬を走らせて行く。
オオハツセの命のそばに仕える者が、
「オシハの王は、ヘンテコなことを言う人ですからお気をつけください。御身を固められたほうがよいでしょう」
ヘンテコなことを言う、とはどういう意味だろう。まさかギャグを飛ばすわけではあるまい。このあとの成行きから考えると、蔑《さげす》みの言葉を……たとえば「俺の家来になれ」とか、聞き捨てにできない台詞《せりふ》をほざく、と考えるべきだろう。
オオハツセの命は衣の下に鎧《よろい》を着て弓矢をおび、馬に乗ってすぐに追いつく。肩を並べたところで矢を抜き、オシハの王を馬から射落として斬りつける。体を斬り離して、かいば桶《おけ》に投げ込んで土と一緒に埋めてしまった。
市の辺のオシハの王にはオケの王、ヲケの王、二人の息子がいたが、この惨事を聞いて、いち早く山城へ逃れた。道中、二人が乾飯《ほしいい》を食べていると、顔に入れ墨をほどこした老人が現われ、乾飯を奪ってしまう。
「ほしければ与えよう。乾飯は惜しくないが、お前は何者だ」
「山城の豚飼いです」
豚飼いに無礼なまねをされて悔しいけれど、今は事を荒だてるわけにはいかない。二人の王子は淀川《よどがわ》を渡って播磨《はりま》の国に行き、シジムという者の家に入り、馬飼い牛飼いに姿を変えて生き長らえた。二人はのちに第二十四代|仁賢《にんけん》天皇、第二十三代|顕宗《けんぞう》天皇として復権するのだが、そのことについては、その項で述べよう。
かくてライバルをなぎ倒したオオハツセの命は第二十一代雄略天皇として君臨することとなる。
雄略の雄は、見ての通り雄々しく勇壮なこと、略は治める、かすめ取る、はかりごと、の意がある。なるほどこれは知力、腕力にものを言わせ少々荒っぽい手段を講じて権力の座についた天皇であり、雄略の名はつきづきしい。
エピソードはたくさんあって……雄略天皇が生駒《いこま》山を越えて河内《かわち》に向かったとき、山の上から望み見ると、屋根の上にみごとな堅魚木《かつおぎ》を飾っている館がある。
「あれはだれの家だ?」
「この地方の豪族の家です」
「気にいらんなあ、まるで天皇家の館みたいじゃないか」
と、家来を送って、その館に火をかけようとした。あい変わらず荒っぽい。
館の主がおそれ入り、礼拝して現われ、
「卑しい者なので、わけもわからずにまちがってこんなものを造ってしまいました。お許しください」
平身低頭、おわびの印に贈り物、白い犬に布をかけ鈴をつけ、腰佩《こしはき》という男に綱をとらせて献上した。
天皇が生駒を越えたのは妻|乞《ご》いのためだったらしい。相手は、前に兄の安康天皇が「弟に」と世話をしてくれようとした、あのワカクサカベの王である。雄略天皇は途中で手に入れた犬を、
「ここに来る道で入手した。めずらしいものだから結納の贈り物としてあげよう」
と、ワカクサカベの王に与えた。
ワカクサカベの王は天皇がわざわざ出向いて来たことに恐縮して、
「太陽を背にしていらっしゃるのは、おそれ多いことでございます。私のほうが参上いたします」
と、天皇のもとへと急ぐ。
仲|睦《むつま》じく、一夜か、二夜か、三夜かをすごしたのち、天皇は帰路につき、生駒の山坂の上で歌を詠む。
こちら日下部《くさかべ》の山
あちら平群《へぐり》の山
山のあいまに
繁り立つ葉広の樫《かし》の木
その根本にいくみ竹が繁り
やがてしっかりとした、たしみ竹となる
いくみ竹と言えば、いくども寝ないで
たしみ竹と言えば、たしかには寝ないで
私が帰ったあとで寝ようとする妻よ、いとおしいなあ
多分、ワカクサカベの王は、まんじりともせずサービスに努めてくれたのだろう。天皇はこの歌を使いに託して恋しい女のもとへ届けた。せっかく男が訪ねて来たのに、「少しは眠らせてよ」なんて、グウグウいびきをかいているような女はペケ、なのである。
次のエピソードは歳月の経過にクエッション・マークをつけたくなってしまうけれど、あら筋を紹介すれば……あるとき天皇が三和川(奈良県桜井市の西)へ行くと、川のほとりで衣を洗っている少女がいた。とても美しい。
「お前はだれの子だ?」
と尋ねれば、
「引田部《ひけたべ》の娘で、アカイコと申します」
「よし。だれに乞われても結婚せずにいろ。近いうちに私が呼ぶから」
こう告げて天皇は立ち去った。
アカイコは天皇の言葉を信じて、八十年が経った……。まあ、まあ、まあ、とにかくそう書いてあるのだ。中国伝来の誇張式の修辞法かもしれない。
アカイコとしては、
——天皇のお召しをお待ちしているうちにたいへん長い歳月を経てしまい、容姿もすっかり衰えて恃《たの》むところがなくなりました。しかし、ずっと待ち続けたという心情だけは天皇にお示ししなければ、やりきれません——
と、多くの進物を持って天皇の館《やかた》へやって来た。
天皇のほうは、ぜんぜん記憶にない。
「おまえは、どこの婆さんだ? なにしに来た?」
「あの年の、あの月に、天皇のお言葉をいただき、お召しを待って今日まで八十年を重ねてまいりました。すっかり年老いて、容色には自信がありませんけれど、気持だけはお伝えしようと思って参上いたしました」
天皇は驚き桃の木|山椒《さんしよ》の木。
「私はすっかり忘れていた。しかし、あなたが志を持って待ち続け、いたずらに年月を送ったこと、あわれであるぞ」
まぐわってやりたいなあ、と思ったけれど、婆さんはとても無理だろう。そこで、まぐわうことなく歌を詠んで贈った。
御諸《みもろ》山の尊い樫の木のもと
樫の木のもと 胸打たれることだなあ
樫の木のように尊く、操正しい娘は
さらに、また詠んで、
引田の若い栗の木の野原のように
若いころに、とも寝をしたらよかった
年を取ってしまって、ああ残念
歌を贈られてアカイコは涙ぼろぼろ、赤く染めた衣の袖をすっかり濡《ぬ》らしてしまった。それから天皇に答えて、
御諸山に玉垣を築いて、
築き残して、だれを頼りにしたらよいのかしら
お社に仕える女は
さらにまた、
日下江《くさかえ》の入江に蓮《はす》が芽を出し
そこに咲く蓮の花のように若い人
うらやましいことですね
天皇は老女にたくさんの贈り物を与えて帰した。実話なら天皇のほうも当然爺さんだったはずである。
次は吉野川のほとり。ここでも雄略天皇は美しい少女に会い、まぐわって帰った。
——いい娘だったなあ——
また吉野へ行ったときに、その娘を呼び出し、この前出会ったところに足を組んで坐《すわ》る席を作り、そこで天皇が琴を弾き、少女を舞わせた。これがまためっぽううまい踊り。天皇は喜んで歌を詠む。
席に坐った神の手で
琴を弾けば女が舞う
ああ、いつまでもこのままであってほしい
さらに近くの野に出て狩りを楽しみ、足を組む席に坐《ざ》していると、虻《あぶ》が来て天皇の腕を噛《か》む。蜻蛉《とんぼ》が来て、その虻を食って飛び去る。そこで歌。
吉野の山に
猪や鹿が住むと
だれが天皇に告げたのか
おおいなる天皇は
席に坐して獲物を待ち
白い衣の袖《そで》が肌を隠していた
腕に虻が取りつき
その虻を蜻蛉《あきず》がパクリと食い
そういうことなら、その名で呼ぼう
このすばらしい大和の国を
あきず島と
と詠んだ。あきず島は秋津島と書いて、日本国の異称。もともとは神武天皇の故事で、山頂からながめ見た地形が、つがいの蜻蛉《とんぼ》に似ていたから、とか。その故事に因《ちな》んで雄略天皇が野辺の歌を作った、というわけだ。それゆえにこの野原をあきず野と呼ぶ、とあって現在の奈良県吉野郡川上村西河のあたりらしい。
次なるエピソードは天皇が葛城《かずらき》山に登ったときのこと。この山は奈良県|御所《ごせ》市の西にあって大阪府との県境となっている。海抜九六〇メートル。
大きな猪が出て来て、天皇がかぶら矢で射たが、射止めそこない、猪は猛然と怒って、走り寄ってくる。さあ、大変。榛《はん》の木によじ上り、
おおいなる天皇が
猪に矢を放ったが
手負いの猪がはむかって来る
私は逃げて上った
近くの岡の榛の木の枝に
なんて、つまらん歌を詠んでいる場合じゃないような気もするけれど、助かったことは無事に助かったのだろう。
後日また葛城山に登ったが、このときは大勢の家臣たちに赤い紐をつけた青い衣を与えて着せて行った。青地に赤のステッチ、かなり派手な行列だったろう。
すると、向こうの山の尾根を行く行列がある。それが天皇の行列とそっくり……。衣裳《いしよう》も似ているし、人々の顔形も同じである。雄略天皇がそれを見て尋ねた。
「この国に私を除いて天皇はいないはずだが、その行列はだれのものか」
驚いたことに、向こうも同じことを言って寄こす。無礼千万。雄略天皇が怒って家臣たちに矢をつがえさせると、向こうも同じように矢をつがえる。
「何者だ? 名を名のれ。そのうえで矢を交えよう」
声が返って来て、
「問われたから、私のほうから先に名を言おう。私は悪いこともひとこと、善いこともひとこと、ひとことで決めてしまう言離《ことさか》の神ヒトコトヌシの大神《おおかみ》だ」
と言う。言離はものごとを解決すること。ヒトコトヌシは問いかけに答えて善いことも悪しきこともひとことで解決してしまう吉凶を統《す》べる神である。神託を示す神で、姿を現わさないのがつねなのだが、このときは現われた。権勢並ぶものなき雄略天皇も、相手がヒトコトヌシの大神では勝手がわるい。
「これは、これは、おそれ多いことです。大神がお姿をお見せになろうとは……知りませんでした。お許しください」
家臣たちの弓矢はもちろんのこと衣裳まで脱がせて大神に差し出した。ヒトコトヌシの大神も、
「よし」
ポンと手を打ち、捧げ物を受け取った。
天皇が葛城山から帰るときにも、大神が山すそに現われて、長谷《はつせ》の山の入り口まで見送りをした。ヒトコトヌシの大神が出現するのは本当に珍しいことなのである。
雄略天皇のアバンチュールはさらに続く。
丸邇《わに》の佐都紀《さつき》の臣《おみ》の娘、オドヒメがとても美しいと聞いて春日《かすが》へ通って行く。奈良市の東部、春日神社の方角であろう。
ところが途中でオドヒメに会ってしまい、オドヒメは、
——あら、恥ずかしい——
と思ったのかどうか、天皇の一行を見て岡に逃げて隠れてしまう。天皇は、
娘さんが岡に隠れてしまった
鉄の鋤《すき》が五百本もあったらいいな
鋤で岡を払って見つけ出すものを
と歌って、このあとはどうなったのか。子細は、古事記には書いてないけれど、名にし負う雄略天皇のこと、やっぱり見つけ出し、まぐわったのではあるまいか。
またあるとき、長谷の郊外で酒宴を催したことがあった。くろぐろと繁った欅《けやき》の下で伊勢の国三重出身の女官が大盃《たいはい》を捧《ささ》げ出したが、そこに欅の葉が落ちて浮かんだ。女官は気づかずになおも酒を注ぐ。天皇が気づき、
——無礼者め——
女官を押さえ倒して首に刀を当て斬ろうとした。女官が、
「どうか殺さないでください。申し上げたいことがあります」
「なんだ」
女官は歌で訴えた。
天皇の館《やかた》は
朝日の照る館
夕日の光る館
竹の根が張り
木の根が伸びている
たくさんの土をつき固めて地盤とし
すばらしい檜《ひのき》の門を置き
新嘗《にいなえ》の祭を催す御殿
欅の枝が黒く広がり
上の枝は天を覆い
中の枝は東の国を覆い
下の枝は村々を覆う
上の枝の葉は
中の枝に落ちて触れあい
中の枝の葉は
下の枝に落ちて触れあい
下の枝の葉は
三重に触れあい、三重から来た娘の
捧げる美しい 盃《さかずき》に落ちて
脂のように浮き
水を動かす
とてもおそれ多いことです
輝かしい日の御子《みこ》様
こういう事情でございます
美しく歌ったにちがいない。芸は身を助けるのたとえ通り、
「うむ。うい奴じゃ」
と天皇はお許しになった。かたわらで皇后も歌を詠んで、
大和の国の高いところで
小高くなっている町の丘で
新嘗を祝う御殿に繁る
広葉の美しい椿
葉はのびやかに
花は照り輝き
尊い日の御子様
すばらしい酒をたてまつれ
という事情でございます
最後の一行は�事の 語りごとも こをば�とあって、歌謡の末尾に置く決まり文句のひとつ。訳せば�事情を語れば、こういうこと�くらいだが、ほとんど意味をなさない。�はい おしまい�と、止めの一句のようなものである。
天皇も酔って歌って、
宮廷に仕える人は
うずら鳥のように胸に白い布をつけ
せきれいのように衣の裾《すそ》を引き交わらせ
庭すずめのように群がり
今日も酒宴を催すらしい
ああ、尊い宮廷の人たち
という事情でございます
天皇はますます上機嫌となって三重から来た女官を褒め、たっぷりと贈り物を与えた。
この酒席には……やっぱり、さっき岡に隠れた春日のオドヒメも侍っていて、天皇に酒を注いでいる。天皇が歌いかけ、
佐都紀の臣の娘さんが
背高いとっくりを手に取り
背高いとっくりならしっかりと押さえ
力を入れ、しっかりと押さえ
一途《いちず》に頑張っていて、かわいいね
そこでオドヒメも歌を返して、
おおいなる天皇が
朝入る戸口に寄り立ち
夜帰る戸口に寄り立つ
その戸口の下の
板になりたい、私は
と訴えた。
察するに天皇の館には執務の部屋と寝室とが分かれて造られていたのだろう。境に戸が立ててあったろう。朝入るのは寝室から執務の部屋へ、夜帰るのは執務の部屋から寝室へ、ということだろう。天皇が日夜踏む床板になりたい、という願望。けっしてマゾヒズムではなく、そのくらいおそば近くにありたいという歌の修辞法である。
雄略天皇は百二十四歳で没……ああ、よかった。なにはともあれ、八十年間も待たせた女がいたはずだから、このくらい長く生きてくれないと計算が合わない。なんの根拠もないけれど、すべて五がけと考えれば六十二歳の死、女も四十年待ったこととなり……天皇のほうはともかく、女はやっぱりリアリティが薄いなあ。
天皇の御陵は大阪府羽曳野市島泉にあるそうな。
これにて古事記の中の雄略天皇の記述を終えるが、これだけを読むと、率直なところ、この天皇の生涯は、殺して、まぐわって、歌を詠んで、また殺して、またまぐわって、また歌を詠んで……これだけでは鼻白んでしまう。
実際はなかなかの大王であったらしい。崩れかかった大和朝廷の威信を回復し、国家財政の充実を図り、渡来人を重用して先進文化を取り入れた。外交面ではマイナスが目立つけれど、国際情勢がそういう時期にさしかかっていたのも事実である。毀誉褒貶《きよほうへん》の多い専制君主で、日本史に現われた最初の個性的人格、という指摘もある。わがままで、激しい気性、思い立ったらなんでも断行する。女性関係も積極的だ。そして、この点について言えば、万葉集の冒頭の歌を是非とも挙げておかねばならない。
籠《こ》もよ み籠《こ》持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘《なつ》ます子 家|告《の》らせ 名|告《の》らさね そらみつ 大和《やまと》の国は おしなべて 我れこそ居《を》れ しきなべて 我れこそ居《を》れ 我れこそば 告《の》らめ 家をも名をも
膨大な万葉集が、雄略天皇のこの歌から始まっているのだ。〈新潮古典文学集成・萬葉集一〉から現代語訳を引けば�ほんにまあ 籠《かご》も立派な籠、掘串《ふくし》も立派な掘串を持って、この岡で菜をお摘みの娘さんよ。家をおっしゃい。名をおっしゃいな。この大和の国は、すっかり私が支配しているのだが、隅から隅まで私が治めているのだが、この私の方から打ち明けよう。家をも名をも�である。
娘の名を聞くのは求愛、求婚のしるし。「私は大和の国の大王だ。文句あるか。さあ、私の妻になってくれ」という心意気である。歌としても素朴で、わるくない。これだけの迫力があれば、きっとたいていの女性が恐れなびいたにちがいない。