夜ごとの白い手
芳井次彦が転勤する友人の送別会を終え、大塚のアパートに帰ったのは、真夜中の十二時に近かった。一人住まいの安アパートである。
ひどく底冷えのする夜で、夕刻から降り始めたみぞれが雪に変わり、北に面したアパートの通路はうっすらと雪を積んで白ずんでいた。
しかし次彦の心は夜の寒さなど苦にならないほど熱くたぎっていた。
一昨夜からずっとそういう状態が続いていた。
会社で仕事をしているときでさえ、ふと手を止めて江川多美子のことを思ってしまう。すると心の底からめまいのようなものが込みあげて来る。胸がドキンと鳴る。その高鳴りを何度心に呼び起こし、いつくしみ、独りほくそ笑んだことか。
多美子は一昨夜初めて次彦の胸に抱かれた。二人はそうすることによって、たがいの愛を確かめあった。
「愛してるよ」
「ええ……。私だって……」
多美子の愛の告白には、どこかためらいがちな部分がないでもなかったが、それは若い女の慎しみとして当然だろう。愛の行為に移ってからの燃えようは、多美子が真実次彦を愛していると、その心のたけをはっきりと示していた。次彦はそれで満足であった。
アパートのドアをあけて中へ入ると、外よりいくらか暖かいとはいうものの、暗く、冷たく、そっけない部屋がそこにあった。しかし、それさえも今の次彦には喜びのタネとなった。
こんな生活もそう長くはない。遠からず多美子と二人で暮らす日のあることを思えば、一人住まいの冷たさも堪えがたいものではなかった。
「おや……?」
あかりを点《つ》け、郵便受けを探ると夕刊の下に白い角封筒があった。
多美子からの手紙だった。凍える手で封を切り、第一行目を読むと次彦の顔が曇った。
——やはりお別れしたほうがよろしいと思います——
手紙はそんな文句で始まっていた。
やはりお別れしたほうがよろしいと思います。
あなたが嫌いで申し上げているのではありません。それどころか好きで、好きでたまらないのです。
本当はなにもお話をせず、二度とお目に掛からないつもりでした。しかし、それではあなたはお許しにならないでしょう。あなたに不愉快な気持ちを残したままお別れするのは、とてもつらい。だから、なにもかもすっかりお話したうえでお別れしたいと思うのです。
話はとても奇妙なことです。あなたはお信じにならないかもしれませんが……。
でも思い切って書き綴ります。
あなたはいつか私に「今までに恋をしたこと、ある?」って、お聞きになりましたね。私は「ない」と答えました。
これは本当です。学生時代のボーイ・フレンドは何人かおりますけれど、恋と呼ぶほどのものではありません。昨夜あなたに抱かれたとき、私はきれいな体のままでした。体を交えるほど深く愛しあう人には、幸か不幸か今までに一人もめぐりあえませんでした。
だけど……本当に恥ずかしいことを告白しますが、どうかお許し下さい。〓“性〓”についてなんの経験もないかと言えば、けっしてそうでもありません。
ずっと昔——何年前のことか、はっきり申し上げることもできますが、それはやめます。私は近所の子どもたちを家に呼んで、ピアノを教えていたことがありました。ピアノ教師の技術を持ちながら、そういうアルバイトをすっかりやめてしまったのは、これからお話しする事情があったせいです。
生徒の中にKという少年がいました。どこか腺病質な、早熟な印象の中学生です。Kは眼が大きく、色白で、一口で言えばとてもかわいらしい少年でした。とりわけ手と指の美しさが私の心を魅了しました。
少年の手の美しさに引かれるなんて、ちょっとおかしな趣味だと言って笑われるかもしれませんね。
でも、本当です。彼の白い指が鍵盤の上を、まるで独立した生き物のようにかろやかに動くのを見ていると、私は息が詰まるような、血が湧き立つような、そんな不思議な気持ちに襲われたものです。
ある午後のこと、レッスンのあとで私は少年の手を取り、
「きれいね」
と言って、悪《いた》戯《ずら》半分に握り締めました。そうでもしなければ息苦しくて堪《たま》らない気分だったのです。
K少年は一瞬驚いたように私の顔を見つめましたが、すぐに眼を伏せて私のなすがままにまかせていました。
その時の私はどうかしていたのだと思います。掌に少年の指の微妙な熱さを感じると、私はそれだけでは我慢ができず、そっと私の胸にその指を運んで当てました。
——こんなことをしてはいけない——
少年の手を乳房に当てていたのは、時間にすればほんの短いあいだだったと思います。私はすぐに手を離そうとしましたが、その時、急に少年の手が私にあらがうように動いて、ブラウスを掻きあげ、素肌に触れました。
「いけないわ」
私は小さく声をあげ、それを振りほどこうとしましたが、少年の力は思いのほか強く、あっと思う間に指は私の胸もと深く滑り込み、私の乳房を握り締めておりました。
それからのことは、とてもここにつまびらかに書くことはできません。私の理性はただ朦《もう》朧《ろう》として自分の意志で自分を押さえることができなかったのです。
もちろんいけないのは私で、K少年にはなんの罪もありません。先に挑発したのは、年上の私なのですから……。途中で逃げ出そうとすれば、いくらでも逃げ出すこともできたのですから……。
少年の手は乳房だけではあき足らず、私のスーツの下に忍び込み……ああ、恥ずかしい、下着の中にまで届きました。
わずか四、五分の時間が、一時間にも二時間にも感じられました。たとえようもなく甘美な、不思議な陶酔の時間でした……。
玄関の戸があき、レッスンの次の生徒が来ると、K少年は挨拶もせずあたふたと帰って行きました。
私はなかば放心状態のまま、それからのレッスンを続けたことでしょう。
K少年の死を聞いたのは、その翌日でした。
おそろしいことですが、私はその一瞬「よかった」と胸を撫でおろしたのを覚えております。私との秘密をだれかに——たとえば母親などに告げられたらどうしようかと、そのことばかり思い悩んでいたのですから。
私の家からN町のほうへ行くと、長い橋があるのをご存知ですね。K少年はレッスンの帰り道、あの橋の上で車にはねられて死にました。車は対向車に気を取られ、K少年の存在に気がつかなかったということでした。
事故のくわしい様子はわかりません。ただ、K少年の右手は鉄橋に挟まってちぎれ、そのまま川に落ち、いくら捜しても見つからなかった、と私はあとで人の噂で聞きました。
少年が私とのことを思い悩みながら、橋の上を歩いていたのは充分に想像できます。それが事故の、もう一つの原因であったのも、多分間違いないでしょう。私は激しい自責の念に襲われましたが、だれかにそのことを話す勇気はありませんでした。
K少年に対しては本当に申し訳ないことをしたと、今でも私は天に向かって謝罪をしたい気持ちでいっぱいです。
でも、このことがそれだけで終っていたならば、今日こうしてあなたにお手紙を書く必要もなかったでしょう。
それから数カ月たって、自責の気持ちもいくらか薄らいだ頃、私は奇妙な夢を見ました。
夜、ベッドで眠っていると、どこからともなく少年の、あの白い手が私の体を求めてやって来るのです。腕から切り離された手首だけの白い生き物が……。
私は恐怖のあまり声をあげようとしましたが、全身が強《こわ》ばりついて一声も発することができません。手首は手の甲を上にして五本の指を器用に動かし毛布をめくりあげ、私の胸をさぐり当てました。
その瞬間、恐怖がそのまま身をとろかすような快感に変わってしまいました。
指はぎごちない動作で乳房をまさぐり尽すと、下へ下へと蠢《うごめ》きました。少年の長い中指が、私の熱くたぎった体に触れ……ああ、なんと言ったらいいのでしょうか。私は体の内奥から海のように押し寄せ、溢れて来る喜びに毛布を噛み締め、それでもこらえきれずにすすり泣きました。
手はそれから何度も何度も繰り返して私の眠りの中に訪れて来ました。
ある夜のこと、私はベッドで眼を醒しました。妙になま暖い夜だったと記憶しております。
私は寝つきはいいほうではありませんが、いったん眠り込んでしまうと、熟睡し、容易なことでは起きたりしないのですが、その夜だけは少し奇妙でした。
はっきり目醒めていたのは間違いありません。部屋のカーテンが少しあいていて星空が見えたのも、遠くの部屋の柱時計が三時を打ったのも明確に覚えているのですから。
突然、部屋に続く廊下になにかかすかな音が聞こえたような気がして、私は耳をそばだてました。
——気のせいかしら——
そう思ったとたん、今度は部屋のドアのあたりでなにかが飛び跳ねるような音がしたのです。
——ネズミかしら——
そう思って首を捻ると……ドアが音もなく開いて、ドアの下のほうから白いものがそっと這うように忍び込んで来るではありませんか。
長い足の、奇妙な生き物だ、と身を堅くして見つめた瞬間、それが切り離された手首だとわかったのです。
手首は大きな蜘蛛のように五本の指を動かし、絨《じゆう》毯《たん》の上を滑ってサッとベッドに近寄りました。
けっして夢を見ていたわけではありません。私は驚きのあまり頭の中が白ずみ、一瞬気を失いました。
次に気がついた時には、私は、体の芯から脹れあがり渦のように跳梁する快感のまっただ中にありました。
手は——もう夢の中ではなく、明晰な現実として私の胸をまさぐり、私の呼吸を計って喜びの部分に位置を変え、さらに激しい凌辱を加えました。
そのことについては、もうここに書く気にもなれません。
いったい、どうしたことなのでしょうか?
あなたはとても信じられないとおっしゃるでしょう。
でも信じて下さい。今ここに記したことはなにもかも真実なのです。私はけっして気が狂っているわけでもありませんし、幻覚の虜になっているわけでもありません。すべてまのあたりに見て、そして知覚した現実です。
私は——そう、あえてはっきり申し上げます。この世の生き物とは思えない、無気味な白い手に取り憑《つ》かれてしまったのです。
あなたと知り合ったのは、こんな時でした。私はあなたに初めてお目に掛かった時から、あなたが好きでした。あなたの落ち着いた話しかた、やさしい微笑、そしてちょっとした仕ぐさまで、私はなにもかも好きでした。私が愛するのはこの人しかいない、真実そう思ったのです。
それからのことは、あなたもよくご存知でしょうから、ここでは省略します。
昨夜、あなたにああして抱かれたことについても私はもちろん少しも後悔しておりません。本当にうれしかった。心から敬愛するあなたに抱かれて、私がどれほどの喜びにうち震えたか、とても言葉では申し上げることができません。
けれども恐ろしいことです。少年の白い手はどこかで私たちの愛の営みを見ていたのです。
あなたがお帰りになったあと、白い手はまた私のベッドに忍び込んで来ました。
しかも手はいつもと違って狂暴に私の体をまさぐり荒れ狂いました。その苛酷な仕ぐさが、嫉妬であると、すぐにわかりました。
そして、その狂暴な動きの中で私がうちのめされ、凌辱され、また激しい歓喜に身悶えしたのも事実でした。
K少年が私に対して憧憬に近い愛を感じていたのは、多分本当でしょう。彼は——おそらく彼にとっても初めての経験だと思うのですが——じかに女の体に触れ、その記憶を白い手に焼きつけたまま、思い出の絶頂の中で死にました。計らずも体から切断され、川に落ちて流れた手首が、その思い出をしっかりと握り締め、死の直前に知った女の体をなつかしく思ったとしても、なんの不思議がありましょうか。私にはその気持ちがよくわかるのです。
少年の白い手は、こうして私に取り憑きました。私が夢だと思ったのは、もともと現実だったのでしょう。
私は昨夜、手が私のもとを去ったあとでつくづく思いめぐらしました。
私はあなたを愛しております。あなたも私を憎からず思って下さっているでしょう。そのことには深く感謝しております。
ですが、感謝しているからこそ私は申し上げたいのです。私の苦しい気持ちをお察し下さい。このまま私たちの関係を続けていったらどうなるのでしょうか。私は少年の手に取り憑かれた女なのです。私は白い手にさいなまれ、その凌辱に歓喜する女なのです。奇妙な生き物はけっして私を逃がそうとはしないでしょう。
昨夜初めて見せた白い手の狂暴さは、とても一通りのものではありません。細い指の、一つ一つの動きに嫉妬の激しい怒りが燃えていました。胸には今でも黒い痣《あざ》が残っています。この痣の跡が切り離された手首の、いびつな愛のしるしなのです。
そうと知ったとき私ははっきりと悟りました。あなたとの愛をこのまま続けていたら、きっとあなたにとってもよくないことが起きるだろう、と……。
あなたはお笑いになるかもしれませんが、私にはあの白い指の執念がよくわかるのです。どうかこれ以上はなにもお聞きにならないで、白い手に魅入られた、おかしな女のことはお忘れになって下さい。お願いです。
あなたを思い出すときは、いつもあなたのご幸福を祈っております。
次彦は、長い手紙を読み終わってホッと肩で息をついた。
手紙に記された内容はすこぶる奇妙ではあったが、次彦の理性はそれほど大きなショックを受けなかった。むしろ安堵の胸を撫でおろした、と言ってもよい。手紙の第一行目を読んだときには、もっと現実的なトラブルを彼は想像していたのだから……。
次彦はすぐさま多美子に電話を掛けてみようかと思ったが、時刻はもう一時を過ぎている。とても他人の家へ電話をする時間ではなかった。仕方なしにガス・ストーブに手をかざしながら、彼は手紙に記された奇態な出来事に思いをめぐらした。
心理学について格別深い知識があるわけではないが、多美子の妄想の原因は簡単に推測することができた。
多美子が少年の手を美しいと思ったのは多分事実だろう。その手を握り締め、胸に当て、そして興奮を押さえきれなくなった少年が急に狂暴になって多美子の体をその手で犯したことも……。
その情景を想像するのは、けっして愉快ではなかったが、相手が幼い少年であることを思えば、メルヘンの中の出来事のような清涼なエロチシズムがあって、堪えられないほどではない。
少年は事故で死に、まったくの偶然から手首は川に落ちて、消えてしまった。
自責の念にさいなまれていた多美子には、それがただの偶然とは思い切れず、いつまでもその悔恨が潜在意識に残っていた。
一方、充分に成熟した多感な多美子のことだから、艶夢を見ることもあっただろうし、その艶夢の中に少年の白い手が現われることも、潜在意識の現われかたとして納得ができる。
あとは夜ごとの夢が昂じて、現実のように妄想されるようになっただけ……神経が鋭敏で、どこか病的なところがなくもない多美子の性格を考えれば、それも理解できないことではなかった。
なにはともあれ、人間の体から離れた手首が独立して生きることなんかありえないのだから、それほど深刻な問題ではない。
手紙に書かれた内容をよくおもんぱかって、多美子の古い罪の意識を拭い去ってやればそれで万事解決するだろう。
そう思うと、次彦はいっぺんに気が楽になった。布団は冷たかったが、また一昨夜の喜びが彼の胸を満たしてくれるだろう。
次彦はガス・ストーブの栓をしめ、多美子のことを思いながら眼を閉じた。すぐに深い眠りがやって来た。
だから、それからあとに起こったことは次彦の知るところではない。
彼がすっかり眠り落ちたとき、アパートの郵便受けがかすかな音を立てた。外から蓋《ふた》があき、冷たい風が吹き込んだ。
と、そのわずかなすき間から、扁平の白い生き物が足を蠢《うごめ》かして部屋の中へ忍び込んだ。
ボトン。
生き物は床に落ち、それから壁に沿って足高の蟹のように走った。
次彦の布団のすそにガス・ストーブがあった。
次彦が寝返りを打った。
白い生き物はギョッとしてカーテンの陰に身を隠したが、次彦がまた安らかな寝息を立てるのを聞くと、カーテンの下から音もなくにじり出て、ガス・ストーブのノブにしがみついて体を廻した。
シューッ。
ガスの音が漏れた。
生き物は、ほんの少時そのままの姿勢でいたが、ガスの出ぐあいが順調なのを覚ると、入って来た時と同じように壁ぎわを走り抜け、ドアに跳びついた。
カタン。
小さな音を残して生き物は外に消えた。
ドアの外の通路には、雪が吹き込み、さっきより一層深く積もっていた。その上に五つの奇妙な足跡が残ったが、それもすぐに吹く雪に消えてしまった。