熱 病
鋭一が家に帰って来たのは夜の七時過ぎだった。
ゴールデン・ウィークも過ぎて、外はまだ明るさを残していたが、小学三年生の帰宅時間にしては遅過ぎる。しかも全身土まみれでゲッソリと疲れきった様子だった。
もう三十分も早く帰って来たら、さぞかしきつく怒鳴れたところだったろうが、妻も私も、
——なにかよくないことが起きたのではあるまいか——
と、本気で心配を始めた矢先だった。
顔を見たとたんにほっと安心する気持ちが先に立ち、叱りそびれてしまった。
「どうしたんだ、今ごろまで」
私が尋ねると、鋭一はものを言うのも億劫そうに、
「自転車に乗ってたの」
と、答える。
「どこで? 危いじゃないか」
鋭一はまだ自転車によく乗れない。家の付近は道路も狭くて危険なので自転車を買い与えていなかった。
「危かないよ。広場だもン」
「だれが貸してくれたんだ」
「知らない子。二台あるから、いくらでも乗っていいんだ。転んだけど、乗れるようになったよ」
「チャンとお母さんに連絡しなくちゃ駄目だぞ」
「うん」
鋭一にしてみれば、思いがけず広場で自転車に乗ることができた。それで、つい、つい家に帰るのが遅れてしまったのだろう。その心根がわからないでもない。
妻の安子が口を挟んで、
「さ、早く手を洗ってらっしゃい。洋服も全部脱いでよ。スープがさめないうちに」
と、急《せ》かせる。
「うん」
鋭一は緩慢な動作で揺れるように立ち去った。
夕餉のおかずは好物のハンバーグだったが鋭一の箸の動きは鈍かった。
「どうしたの、お腹すいてないの?」
「すいてない」
「なにかご馳走になったの?」
「ううん」
どす黒い額に汗が浮いている。
「熱があるんじゃないのか」
安子が手を当て、
「あ、ほんと。風邪かしら。食べたくないんならやめたほうがいいわ」
「うん」
鋭一はポトンと箸を落とした。
「駄目ねえ。いい気になって遅くまで遊んでいるからよ。薬をあげるから早くパジャマに着替えなさい」
安子は鋭一の肩を抱くようにして子ども部屋へ連れて行く。なにやら話し声が聞こえたが、私はさして気にも留めずにビールを飲んでいた。
K市に引越して来たのは二カ月ほど前のこと。敷地四十坪の建売住宅だ。付近は新興の市街地で、似たような家がびっしりと建ち並んでいる。駅まで六、七分と、値段のわりには近いのがなによりの長所だった。
三人家族は、まあ、なんの問題もなく睦まじくやっているほうだろう。安子はおとなしい性格だから夫婦のあいだで、めったに諍いが起きることはない。
「三十九度も熱があるのよ」
安子が眉をしかめながら戻って来た。
「そうだろう。ひどい顔色だった」
「大丈夫かしら?」
「熱さましを飲ませたんだろ。しばらく様子を見るより仕方ないさ」
「言うこともちょっとおかしいの」
「ほう?」
「表通りのところに椿の木の並んだ角があるでしょ」
「どこ?」
「ほら、家《うち》のほうへ曲がる角と反対のほう。木の陰になって見えにくいけど」
「ああ、あれ椿の木か」
「そうよ」
「それがどうした?」
「そこんとこ曲がって、くねくねした道を行くと、黒と白の縞模様のマンションがあるんだって。知りません?」
「あんな角、曲がったことないから知らん」
「鋭一は行ったらしいわよ。そしたら、知らない男の子が出て来て〓“自転車に乗ろう〓”って誘われたんですって」
「あいつ、人見知りしないほうだからな」
「ええ……。階段を登って部屋へ入って、そこの押入れをあけたら、そこに広場があって……なんだか熱のせいで頭がボーッとしているみたいなの」
「どうしたのかな」
私も少し気になって子ども部屋のベッドを覗いてみたが、鋭一は早くも寝息を立てて眠っている。額はひどく熱いが、熱さましも飲んだことだし、とにかくこのまま眠らせておこうと思った。
高熱は多分風邪のせいだろう。自転車に乗っているときは、おもしろさのあまり体調のわるいのに気づかずにいたのだろうが、家に戻ったとたんドッと病いが外に現われた。疲労と高熱のせいで、言うことがおかしくなるのも子どもなら充分にありうることだ。
食後のお茶を飲みながら、
「あれは椿だったかな」
「そうよ、あなた、花になんかまるで関心がないんだから」
「そうでもないけど……」
いつも帰宅を急いでいるので反対のほうに折れる角などよく確かめてもみなかった。日曜日に近所を散歩して歩くのだが不思議とあの角は曲がらなかった。私だけの感覚かもしれないが、たくさんある角のうちでもなんとなく曲がってみたくなる角と、その反対にどうも曲がる気になれない角とがあるものだ。その判別の基準が、角の、どんな特徴に由来するものか、自分でもよくわからないけれど……。
椿の喬《きよう》木《ぼく》が立ち並んでいる角は明らかに曲がりにくい角に属していた。
——角と言うより古い農家の庭にでも続くのだと思っていたんだが……あの先に縞模様のマンションや原っぱがあるのなら、ちょっと散歩の足を伸ばしてみようか——
などと、私はとりとめもなく思った。
テレビがプロ野球の結果を伝えている。鋭一の病気を除けば、いつもの夜と少しも変わらない。十時過ぎに安子がもう一度熱を計り、
「三十八度。下らないの」
「眠っているんなら、そのまま眠らせておけ。アイスノンでも敷かせて」
「あたし、隣に寝てあげようかしら」
「そのほうがいいな」
安子はベッドの脇に布団を敷いて自分の寝床を作り、心配そうに横たわった。私もその背後に身をそえて寝転がりそっと乳房をまさぐる。
安子の肌はこれが人間の肌かと思うほどに白く滑らかだ。手が少しずつ深く忍び込む。
安子は肩の動作で逆ったが私の腕が堅く捕らえて逃がさない。彼女の抵抗もそう激しいものではなかった。
「鋭一が……起きるわ」
私はその声に答えるように灯りを消した。闇の中で音のない動作が続く。掌に熱い絹がまとわりつく。太腿のあたりは肉も張りつめていて指先を弾ね返すほどだ。
安子の息が荒く漏れる。鋭一はかすかに苦しげな息をあげて眠り続けている。
奥深い部分はすでに軟かく潤って、安子の本当の意志を伝えていた。もう抗おうとはしない。私は背後から探り続ける。
子どもが病気で眠っているというのに……不謹慎だろうか。
——いや、そうでもあるまい——
父と母とが愛しあっているのだ。これも平穏で、幸福な家庭の縮図なんだ。
安子はけっして愛のさなかに声をあげない。いつも控え目にとり澄ましている。
ふたたび灯りをつけると鋭一は相変らず深く眠っていた。安子がその顔を眺め、それから私を見返す。
影の多い光が一瞬、恥ずかしそうな妻の表情を映した。
鋭一の高熱は三日ほど続いた。
近所の医者に往診してもらったが、診断はやはりただの風邪だった。注射を打ってもらったが、その効果もあまりはかばかしくない。もっと熱が続くようなら専門医に見てもらおうかと考えたが、四日目にははっきりと快方に向かい、五日目にはもう学校へ飛び出して行った。子どもの回復は速いものだ。
元気になると、晩酌のテーブルににじり寄って来て、
「お父さん、自転車を買って」
と、せがみ込む。
「危いじゃないか」
「大丈夫だよ。上手に乗れるようになったんだから」
「この前見つけた空地で乗るんならいいけど」
「うん」
鋭一の表情が奇妙に曇ったが、私にはその理由がなんなのか、その時にはわからなかった。ただ、
「じゃあ、近々買ってやろう」
と、約束しただけだった。
あとで思い返してみれば、鋭一はあの時、心の中でひとり秘かに思い悩んでいたのだろう。自分でも高い熱が続いたことは知っていただろうが、現実と幻覚はいくら子どもだって区別がつくのではあるまいか。
「このあいだのマンション、見つからないんだよ」
と、不思議そうに言っていたのも、私は気にも留めずに聞き流していた。
それから何日かたって、あるなま暖い夜のこと、私はホロ酔い加減で駅からの舗装道路を歩いて来て、ふと椿の並ぶ角に目を向けた。先にも述べたように、これまではあまり〓“曲ってみたい〓”とは思わなかった角なのだが、この夜ばかりは事情が少し違った。鋭一の言葉が耳の奥で響く。
——白と黒の縞模様のマンションがあるんだよ。そこに知らない子がいたんだ——
——でも、あのマンション、見つからないんだァ——
鋭一の訝《いぶか》しそうな表情も心に浮かんだ。
椿の木は黒々と枝を伸ばしている。街灯の光をさえぎり路地の入口はひときわ色濃い闇に包まれている。
この一角だけ商店街が切れているのは道に沿って古い農家があったせいなのだろう。大木に育った椿を切りかねているうちにいつのまにか付近が市街地に変り、場違いな印象を示すようになったのだ。
木の幹の間には思いのほか広い道幅があって、その先はポッカリと広がり、どこにでもあるような住宅街の道が続いていた。
坂を一つ登り、それから蛇行する道を歩いた。夜の色が一瞬濃くなり、それから急に空の星が輝きを増したように覚えたが、なにかの錯覚だったのかもしれない。
眼をあげると、崖を背にして白と黒の縞模様の建物が見えた。
——ああ、あれだな——
よほど珍妙な趣味の持ち主が建てたものにちがいない。ひところ婦人服の模様でペンシル・ストライプというのがはやったことがあったけれど、その建物も鮮やかなコントラストを作って闇の中にうずくまっている。とりわけ白の色が夜光塗料でも塗ったみたいに光っている。じっと見つめていると、眼がくらむようなサイケデリックな印象のデザインだ。商店の壁面ならともかく、住宅用のビルディングとしてはすこぶる突飛なデコレーションと言うべきだろう。
私は近づいた。
極度に窓の少ないマンションで、わずかに三階のあたりから光が漏れているだけだ。
——あそこが、鋭一の行った家かな——
脇に屋根つきの階段があるので、なんの目的もなく昇ってみた。
三階に昇り着くと白黒のストライプをかすかに波形に揺らしたドアがあった。表札はない。
足の向くままにここまでやって来たけれど、わざわざドアを押し開けて、
——先日、子どもがお世話になりまして——
と、挨拶するのは突飛過ぎる。それにしても鋭一が言っていた広場はどこにあるのだろうと首を廻していると、ドアの中から、
「どうぞ、お入りなさいな」
と、女の声が響いた。
ドアがほんの十センチほど開いている。声の主はだれかと間違っているのではあるまいか。
「どうぞ」
もう一度同じ声が聞こえた。
「あの……」
こんなときなんと事情を説明したらいいのだろうか。
「先日は坊やが遊びにみえたわ」
私のことを鋭一の父だと知っているらしい。そうならば呼びかけた理由も少しはわかる。好奇心にもかられて私はドアの中を覗いてみた。
女が背を向けて立っている。
エメラルド・グリーンのワンピース。その鮮やかな色彩を長い髪が隠している。
「こんばんは」
さぞかし落ち着きのない声を出して呼びかけたことだろう。
「おあがりくださいな」
女は振り向き、髪を掻きあげながら笑った。
目鼻立ちの輪郭がはっきりしている。いくぶん浅黒い肌に大きな眼がよく釣りあっている。歯並びのよさは、大粒のとうもろこしを連想させた。
年齢はいくつくらいだろう。三十歳くらい? いや、もっと若いのかもしれない。私は漠然と、鋭一と同じ年の子どもを持つ母親を想像していたのだが、女はそれよりはるかに若々しく見えた。
「いい陽気の夜だわ」
女は日頃顔見知りの知人にでも話しかけるように気安く言う。
「ええ、そうですねえ」
こっちのほうが戸惑ってしまう。
「少しはお時間がおありでしょ」
女は玄関に続くリビングルームのソファに腰かけ、脚をブラブラさせながら私の顔を覗き込む。
「はあ」
くつろいだ様子に誘われ、私は曖昧な気持ちのまま靴を脱いだ。
なにがなんだかよくわからない。相手はやけになれなれしい。面識のない男を家の中へ呼び入れることについて女はなんの不安もためらいも感じていないらしい。
「いつもこんな時間にお帰りなんですか」
「いや、今日はちょっと知人とお酒を飲んで」
「ああ、お酒がお好きでしたの。なにかお出ししましょうか、ブランディ? ビール?」
「いえ、おかまいなく。もう結構です。おそれいりますが、水を一ぱいいただけませんか」
ひどく喉が渇いていた。
「ただのお水でよろしいの? お紅茶でもいれましょうか」
「結構です。お水で」
「そう」
女は香料のかすかな風を起こしてキッチンのほうへ立った。ワンピースの裾に伸びたふくらはぎの形が美しい。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女は私が水を飲むさまをうれしそうに見上げている。その眼差しが媚びを含んでいる。ドキン、と胸が鳴る。
——コールガール——
そんな言葉が心に浮かんだ。
男の客を招き入れて、いきなりこんな眼差しで眺める女となると、ほかに考えられない。
しかし、それにしては上等過ぎる。
コールガールなんて、そう何人も見たことがあるわけではないけれど、どの女もみんな表情のどこかに汚れた生活の垢を張りつけているものだ。今、私の目の前にいる女にはそれが微塵もない。表情がかすかに淫蕩に蠢いているがけっして下品ではない。
器量のよい若奥さま、そんな印象だ。
「驚いたんですか」
「ええ、まあ」
「どうして」
「突然だから」
「困りますか」
「いえ、困りやしないけど」
「一度だけのことですから」
女は呟くように言ったが、たしかに私の耳には〓“一度だけのこと〓”と聞こえた。
「なにが……です?」
と、聞き返しても、女はそれには答えず、
「かわいい坊やちゃんでしたわね」
「あ、その節はどうも。自転車を貸していただいたとか」
「ええ、それが一番やりたいことだったみたい」
「はい。前から乗りたがっていたんですけど、このへんは結構車が多くて危いから」
「ええ」
「あの……なにかこの近くに広場があるとか言ってましたが」
「ええ、その押入れの中に」
言葉は明瞭にそう聞こえた。
私は驚いて女の顔を見上げたが、女は片頬で頷いてから立ちあがった。とても狂人の表情とは思えない。
だが、これまでの様子から判断して、見た目には普通の人と少しも変わらない精神異常者なのではあるまいか、と私は疑ってみた。
待てよ。狂っていたのは、もしかしたら私のほうなのかもしれない。きっとそうだろう。
女が押入れの戸を開いた。
夜気が流れ込み、そこに四角く切り抜かれた闇があった。首を伸ばすと星が見え、下には、なんと、ぼんやりと広がる草原があった。
——たしかここは三階のはずだが……。階段で七、八メートルほど高い位置まで昇ったはずだが——
もしかしたら、このマンションは急な傾斜地に建っているのかもしれない。表通りから見たときにはそんなふうに見えなかったけれど、裏手は山に続いているのだ。それよりほかに考えようがない。だから押入れを開けると、いきなり足の下に草原が広がっているんだ。
「散歩しませんこと。草がとても気持ちいいわよ」
女はスリッパを脱ぎ、縁側から降りるように素足のまま草の上に載った。
私もあとに続かずにはいられない。たしかに足の裏をくすぐる草の感触は心地よい。
女は肩を寄せ私の手をまさぐる。人気のない草原で二人だけの散歩が始まった。
それにしても、ここはどういう形状の草原なのだろうか。広さもよくわからない。周囲には家らしい家も見えない。私の家からそう遠くないところに——市街地のすぐ近くにこんな空き地があるとは意外だった。
一歩進むたびに闇が深くなる。女の肌が重く伝って来る。
——この女はなにを望んでいるのだろう——
考えてみたが思案がまとまらない。
女が足を止め、私が背を向けると、そこにかすかに上向き加減の唇があった。
舌と舌とがからみあう。
闇の中でしばらく抱きあっていたが、女が体を振りほどき小さな身振りで指を差した。指の行方にほんのりと白い、小さな建物が見えた。
「なんだい」
「小さなお部屋があるの」
「ほう」
訝《いぶか》しく思ったが、女の言葉に嘘はなかった。
ドアには錠もかかっていないらしく、ギイと鈍い軋みをあげて開いた。女が電灯のスイッチを押すと、小奇麗な空間が浮かびあがった。四畳半くらいの大きさ。なんのために作られた建物かわからないが、現在は寝室として利用されているらしい。
草原のまっただ中の寝室——考えてみれば奇妙な話だが、現に部屋いっぱいにベッドが置いてあるのだから、ほかに解釈のしようがない。
女はタオルを濡らし、私の足を丁寧に拭く。
それから自分の足を拭ってベッドの隅に腰をおろした。
唇がさっきと同じ角度で上を向いている。
私は女の首に腕をそえ、滑らかな舌の感触を探ねながら女を押し倒した。
ジッパーの音が鳴り、女の匂いが揺れて漂う。
女の胸はいくぶん白ずんでいたが、やはり浅黒い肌なのだろう。汗を帯びた小麦色が美しい。
「電気を消して」
「だれかに見られるかな」
窓の外には相変らずなにも見えない。
「恥ずかしいわ」
女の肌は掌によくなじむ。餅肌というのは普通色白の肌について言うのだろうが、小麦色の餅肌というのもあるのかもしれない。
——さしずめこの人の場合がそうだな——
などと、私は熱い頭の片隅でとりとめもなくそんなことを考えていたように思う。それほどに軟かく滑らかに吸いつく。
指先が体の一番奥深い部分に届くと、女は体を弓に変えた。声が細く伸びた。
なんという熱さだろう。なんという潤いだろう。肉が私を押し包み、女の意志を伝えて蠢く、蠢く、蠢く。いくたびも繰り返して。
私は信じられないほどの歓喜と恍惚の中で果てた。
帰り道の記憶はそれほど明晰ではない。体がとにかく熱かった。熱のために意識がぼやけるほどだった。
「ただいま」
玄関に崩れるように跳び込んだ。
「どうしたの? ひどい顔色。熱があるんじゃない」
「どうもいかん」
体が熱いのに、寒気が走る。いったん歯が鳴り出すとなかなか止められない。
「風邪かもしれん。鋭一に移されたかな」
「とにかく早く寝なさいな。お医者さん呼びましょうか」
「いや、いい。解熱剤をくれ」
解熱剤にはいくらか催眠効果があったのかもしれない。眠りはすぐにやって来た。夢の中で何度も何度もあの縞模様のマンションと女の小麦色の肌を見た。
熱がなかなか下がらないのは、鋭一の場合と同様だった。
四日目頃から快方に向かったのも同じだった。
「鋭一と同じ風邪だったみたいね」
「そうかもしらん」
「譫《うわ》言《ごと》を言ってたわよ」
「なんて?」
「よく聞いてなかったわ」
「フーン」
私は布団の上に身を起こしたまま釈然としない思いを胸の底に隠していた。
——あれはなんだったのかな——
思い返してみても奇妙な体験だった。
高い熱が消え去ってしまうと発熱の直前に体験した出来事までもが、熱い脳裏に映った妄想のように感じられてならない。体験そのものもどこか現実離れをしたものだった。
足腰に力が戻ったところで私は早速散歩に出かけた。行く先は初めから決まっていた。
「どこへ行くの」
妻が心配そうに尋ねた。
「うん、ちょっと」
安子の視線が眩しい。
——ああ、俺はこの人を裏切ってしまったんだな——
かすかな後悔が胸にうずく。私は結婚以来つい先日まで妻に対して背信を犯したことがなかった。適当な機会がなかったから? それも一つの理由だろう。男として意気地がなかったから? それも言える。だが一番の理由はやはり安子を愛していたからだろう。
人中で目立つ女ではない。野の花のようにしばらく眺めていて初めて人柄や容姿のよさがわかって来る。
——それに比べて、あの女は——
小麦色の張りつめた肌の手触りが甦る。
奔放に乱れる女だった。糸を引く声が耳に残っている。隠微な部分の蠢きが一つの記憶として心に昇って来る。
しかし、どこかぼやけた印象でもあった。
椿の角を曲がったところで、私はまっ白い本を見るような違和感を覚えた。
——どこかが違っている——
違和感は一歩ごとに驚愕に変わり、たちまち恐怖にまで育った。
——道がない。あのマンションがない——
眼の前に続いている道は私の知っているものではなかった。どこをどう捜してみてもあの縞模様の館はなかった。
——高熱に冒される直前の幻影だったのだろう——
そうとしか考えられない。私は文字通り狐にでも憑かれたようにそのあたりを何度も何度もうろたえ歩いたが、なにひとつとしてあの夜の記憶に符合するものはなかった。
私は家に戻って鋭一に尋ねた。
「この前、縞模様のマンションへ行って自転車に乗ったって言ってたな」
鋭一は眼をしばたたきながら視線を遠くへ伸ばして、
「うん。病気になる前に夢で見たんだよ」
子どもはそう理解しているらしかった。
私もそう納得するよりほかにないのだろうか。
その後も何度か椿の角の奥の道を捜ねてみたが、もう二度とあの珍妙なマンションは私の前には現われてくれなかった。
女のイメージも少しずつぼやけたものとなり、すべてが私の脳に映った幻の風景のように見えるときが多くなった。
そして、私は考えた……。
私はたしかに安子を愛しているけれど、心の奥底にはやはり安子とはまるで違った女を抱いてみたいという願望があったのかもしれない。そんな願いが、高熱のため脳の意識が弱まったあの瞬間に首を持ちあげ、放逸な夢を描いたのかもしれない。安子の白い肌とあの女の小麦色の肌。一方はつつましくもう一方は奔放に。清楚な身振りと淫蕩な物腰。なにもかもが対照的過ぎる。押入れの中に草原があるなんて……。第一〓“このへんにベッドがあればいい〓”と思ったとたんにベッドつきの東《あずま》屋《や》が現われるなんて、まるでお伽話の世界だ。とても正気だったとは思えない。
それにしても……鋭一は本当に自転車に乗れるようになったが、あれはどうしたわけなのだろうか。
疑問が解けぬままに数週間が過ぎた。
日時がたてばたつほど〓“あれは幻影だったのだ〓”と考えるより他になくなってしまう。いち早くその判断を選んだ鋭一のほうが正しかったのかもしれない。縞模様のマンションの話をしても、鋭一はかすかに不思議そうな色を浮べるだけで、それほど深く拘泥しているふうには見えない。
自転車を買ってもらって無邪気に楽しんでいる。
私だっていつまでもつまらぬ夢にこだわっていることはないんだ。
平凡な日々が戻って来た。
安子が一度だけ、
「なんか椿の角のむこうに変なマンションがあるって聞いたけど……」
と、呟いた。
「だれがそんなこと言ってた?」
「鋭一が言ってなかった?」
「夢の話だろ」
「ああ、そうなの」
話はそれで終ったが、その翌日から安子が高熱に襲われた。
病気は四日ほどで癒えたが、それからというもの、妻の表情に時折ふっと淫靡なものが漂うようになった。寝室の動作が少し変った。彼女は心の奥底でなにを願っていたのだろうか。