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心の旅路07
日期:2018-03-31 14:59  点击:294
 帰り水
 
 
「降りませんか」
 
 知らない男に勧《すす》められて、ふいとバスを降りる気になった。
 
 道は山陰の丘陵地帯を貫いて伸びている。舗装はされているが、ほとんど人家も見えない。月だけが明るく空にかかっていた。
 
 ——野宿になるかもしれないぞ——
 
 その懸念は充分にあった。だが、背中のリュックサックには寝袋も入っている。季節も春の終り。風もここちよい。大自然のまっただ中で夜を過ごすのも一興だと思った。
 
 伝説収集の気ままな旅である。豊田湖の近くに安徳天皇の御陵があり、落《おち》人《うど》伝説にくわしい老爺がいると聞いた。ようやく訪ねあて、三時間もかけて収録したが、さほどの成果はなかった。ほとんどがどこかで聞いた話だった。
 
「萩へ行く農協のバスがあるわな」
 
 と教えられた。
 
 それなら萩へ行ってみようかと思って、たっぷり時間待ちをして小型のバスに乗った。乗客は少ない。どこをどう通るのかもわからない。萩まではかなりの距離だろう。
 
 最後部の長いシートで体を伸ばし、少し眠った。
 
 眼をさますと、隣に男がすわっている。黒いトレーニング・ウェアを着て、帽子をまぶかにかぶっている。真正面を向いたまま身動きもせず、影法師みたいな感じだった。
 
「まだしばらくかかるんですかね」
 
 時刻は十時に近い。窓から見ていてもほとんど道には車の通行もない。街路灯だけがうしろへ飛んで行く。
 
「どちらまで?」
 
 声は低いが、歯切れのいい標準語が返って来た。
 
「萩まで行こうと思って。あなたは?」
 
「途中で降ります。東京のかたですか」
 
「ええ」
 
「私もそうなんです」
 
 見かけよりは人なつこい人らしく、ポツン、ポツンと、よもやま話が始まった。私が伝説収集の旅に来ているのだと知ると、男は、
 
「おもしろい話があるんですよ」
 
 と気を引く。
 
「なんでしょう?」
 
 口を開くまで少し待たなければいけなかった。
 
「私の兄がいなくなったのが、八年前のちょうど今夜でしてね。私、ずいぶん捜したんですけど、なかなか見つからなくて……。でもようやく足取りがわかって、それで捜しに来たんですよ」
 
 と、不思議なことを言う。
 
「はあ」
 
 私は曖《あい》昧《まい》に相《あい》槌《づち》を打った。男の態度にかすかな違和感を覚えた。
 
 世間にはいろいろな人がいるものだ。旅をして多くの人に会っていると、つくづくそう思う。狂気とすれすれのところにいる人もけっして少なくない。
 
「兄はすごいものを見たらしいんです。今夜なら、それが見られるかもしれない。きっと見られます。私、わざわざそのために来たんですから。ご一緒にどうです? 徹夜になるかもしれませんけど」
 
 男の眼が輝いている。鈍い光だが、執念がこもっている。なにかしら強く心に期すものがある色だ。
 
 ——本物かもしれないぞ——
 
 収集の旅にはそんな瞬間がある。私のほうは先を急ぐ旅ではなかった。
 
「なんです?」
 
「ええ。それが……なんだかむつかしくて」
 
 男は言い淀《よど》んだ。なにから話したらいいものか、視線を宙に据え、思案の糸を手《た》繰《ぐ》っているように見えた。
 
「兄のことですが……ああいうのは今の世の中には向かないタイプなんでしょうねえ。とてもやさしい性格で、子どものときからきれいなものが好きでした。花とか、よい景色とか。画家になりたかったらしいけど、その道は駄目でしたね。平凡なサラリーマンになって、そのうちに写真と旅にすっかり凝《こ》っちまったんですよ。旅に出て美しいものを見つけては写真に撮る。私、思うんですけど、初めから風景写真家にでもなっていれば成功したかもしれませんがね。いえ、特に有名になる必要なんかありません。まるで無欲な人でしたから。気ままに旅をして、きれいなものを見つけたらそれをカメラに収める。それでいいんです。かなりいい線を行ってたと思いますよ。あのウ、芸術家にとって一番必要な才能はなんだと思いますか」
 
 男はなにかに憑《つ》かれたように話す。年は、私より少し若い……三十二、三歳に見えた。
 
「さあ。私はまるでそっちの方面にうといほうだから」
 
「美しいものを見る力だと思うんですよ。すみません。偉そうなことを言っちまって……。でも、うれしいですよ、こんなところで話を聞いてくださるかたにお会いできるなんて。兄も浮かばれます。兄には、美しいものを美しいと見る才能がありましたね。絶対ですよ。ただ、それを表現する手段のほうがね……それが足りない。画家には向いてなかったんでしょ。写真が正解じゃないですか。旅も好きでした。どこかしら人の知らないところを歩いては写真を写してましたよ」
 
「そのお兄さんがいなくなられたんですね」
 
「そうです。八年前の今夜」
 
 男は窓の外を見て口をつぐんだ。そのままおし黙っている。急におしゃべりになったかと思うと、急に寡《か》黙《もく》になる。しかし、とにかく私を引き込んでバスを降りる気持ちに向かせたのだから、それなりにうまい語り手だったのだろう。
 
 と言うより、私としては、男の話の背後に深い執念のようなものを感じ取り、
 
 ——これはなにかある——
 
 と考えた。
 
 私も旅は大好きだ。名勝のたぐいはどこへ行ってもすっかり俗化されてしまったが、ガイド・ブックからはずれた自然の中に入り込むと、まだまだ美しい風景がある。思いがけない奇異に遭遇する。
 
 昨日は油《ゆ》谷《や》湾のむこうの向《むか》津《つ》具《く》半島の先端まで行った。川尻岬はほとんど釣人しか行かないところだ。岬の突端は小さな島のように見えたが、行ってみると、細い馬の背を作って続いていた。両側に日本海の荒い波が押し寄せ、白いしぶきをあげる。視界のおよぶ限り人の影もない。凄絶な風景だった。
 
 このあたりにはまだまだ人に知られていない秘境がある。男に「降りませんか」と誘われて、ふいと座席を立つ気になったのは、私のほうにもこんな事情があってのことだった。
 
 田舎のバスだから、頼めばどこででも止まってくれる。乗客たちの怪《け》訝《げん》な眼差しに送られて私たちはバスを降りた。
 
 
 
 走り去って行くバスの灯を見送って、
 
 ——しまった——
 
 と思った。テールランプが闇に飲まれて消えてしまうと、あとは疎《まば》らな街路灯ばかり。ほかに人工の光はなにもない。月の光を受けて、黒い草原と低い山稜が続いているだけだった。畑らしいものもない。ところどころに岩塊が突き出している。明日太陽がめぐって来るまで、しばらくはこのままの風景だろう。
 
 男はバッグの中から懐中電灯を取り出す。私もリュックサックの底にキャンプ用のランプがあったのを思い出して、それをつけた。
 
「こっちです」
 
 男は光で示す。アスファルトの道を少し戻った。草原の中に草を割って、細い道らしいものが続いている。男は先に立って、その道に降りる。満月に近い月がまだ低い位置にかかっている。眼が慣れて来ると、月の光が思いのほか鮮明に行く手を映し出している。これなら大丈夫だろう。
 
 光の中に花の群があった。つつじだろうか。風も爽《さわ》やかだ。夜をおそれる必要はなにもあるまい。古人ならば、きっと大和歌の一つも歌っただろう。
 
「少し歩きますよ」
 
「どのくらい?」
 
「三十分くらい」
 
「平気です」
 
 あとは、この男が正常かどうか……凶悪犯人だったりして……まさかそんなこともあるまい。
 
 うしろ姿を見れば、小柄な男だ。私より大分背が低い。素手で争えば、まあ、私は負けない。むしろ怖がっていいのは、むこうのほうかもしれない。
 
「はじめは、どこかに長《なが》逗《とう》留《りゆう》しているんだと思ったんですよ」
 
 男は歩きながら話し続ける。ほとんど音のない世界だから、小さな声でもよく響く。空気も澄んでいる。足もとを見つめながら男の話を聞いた。
 
「お兄さんのことですね」
 
「そう。ときどきそんなことがありましたからね。釧《くし》路《ろ》へ行ったときなんか一カ月も帰らなかったんだから。えーと、いなくなる前に絵葉書が届いたんです。雨に濡れてて、読みにくいところもあったけど、山口に来ている。秘境の湯を見つけた。二、三日山歩きをして帰る……絵葉書なんて、くわしくは書けませんからね」
 
「ええ」
 
「でも、いっこうに帰って来ない。いよいよ変だぞと思い始めた頃、豊田湖畔のみやげもの屋さんから連絡が来たんですよ。荷物を預かってずいぶんになるけど、どうしたのかって」
 
「ええ」
 
「電話で聞いてみると、兄はそこに手荷物を預け、身軽な恰好で出て行った……そういうことなんですね。翌日には帰るつもりだったんでしょう。店の人にもそう言ってたらしいですね。ところがぜんぜん帰って来ない。田舎の人は暢《のん》気《き》だけど、やっぱり心配しますよ。遭難をするような季節でもないし、そんな気象の変化も聞かない。兄が来る前の日に、山沿いに大雨があったけれど、それで危険ということも考えられない。東京へ帰っちゃったのかな。とりあえず荷物に記してある電話番号に連絡してみたってわけなんですね」
 
「なるほど」
 
 男の話を聞きながら考えた。私が今、ここで急にいなくなったらどうなるか。家には昨日、絵葉書を書いた。豊田湖までの旅程は伝えたが、そのあと萩へ行こうとしたことも、その途中でバスを降りたことも知らせてない。ふいと気まぐれで始めたことだから伝えようもない。
 
 ——痕跡を残しておくべきだったか——
 
 とりとめもなくそんなことを思ったのも底知れない夜の静けさのせいだったかもしれない。声が途切れると、なんの音もない。どう耳を澄ましても……。だから話が聞きたくなる。
 
「で、どうしました?」
 
「私はすぐに東京をたって、そのみやげもの屋さんを訪ねましたよ。たしかに兄の荷物です。荷物の中身はたいしたことありません。汚れた下着とか、みやげの品とか……。ただ撮り終ったフィルムが三本ありました。みやげもの屋さんのご主人に聞くと、兄は二、三日前から県道を通るバスに乗って付近の山の中へ入っていたらしい。なにかを捜していて、ようやく見つけたような話だった。〓“今夜はいい月になる。昨日大雨が降ったし……最後のチャンスかな〓”そんなことを兄は言ってたらしいんです。店の娘さんも、兄の話を小耳に挟んでいて〓“見つけたのは露天の温泉みたいな話でしたよ〓”そう教えてくれましてね。これだけでもずいぶんよいヒントになりますよ」
 
「警察へは知らせなかったんですか」
 
 道は少しずつ傾斜を増した。登り坂があるかと思えば、くだり坂がある。それをくり返しながら小高い丘陵を一つ越えた。風景が少し変ったように思ったが、薄あかりの中なのではっきりとはわからない。丘と丘とのあいだの地盤は少し凹んでいるようだ。低いブッシュが地表を隠しているが、広い視野で眺めると、草の丈はいったん低くなり、遠くに行くにつれまた高くなる。そんなふうに見える。ところどころに突出する岩塊も数を増し、岩そのものもいくぶん大きくなった。
 
「ええ、もちろん」
 
 男はちょっと振り向き、また背を向けて話し続けた。
 
「警察のほうは……すぐじゃなかったです。本当に失踪したらしいとわかってから、一応は届けてみたんですけどね」
 
 言葉の響きには、はっきりとした不満が含まれている。警察はあまり熱心にとりあってくれなかったのだろう。
 
 人が急にいなくなる——つまり、蒸発のたぐいは、世間にいくらでもあることらしい。いちいち真剣に応対していたら警察もたまらない。だから犯罪の匂いが感じられなければ本気にならない。いい大人がみずから進んで姿を隠したとすれば、なにかしら切実な事情があってのことだろう。
 
 ただ問題は残された近親者のほう。どこへ行ったんだろう? 無事でいるのかしら。心配のあまりみずから探索に乗り出す人もけっしてめずらしくない。
 
「秋吉台にいらしたこと、あります?」
 
 道のすみに石が目印のように積んである。男は歩きながらそれを確認する。一度通った道を、また来ているのだとわかった。石積みの目印はこの男自身が作ったものだろう。
 
「ええ。四、五年前に一度」
 
 バスの走ったコースから考えて、秋吉台はここからそう遠いところではあるまい。それとも、ここはもう秋吉台の一画なのかもしれない。風景も少し似ている。
 
「あそこには穴がたくさんあるんですよね」
 
「穴ですか?」
 
「はい。あそこは全体が軽石みたいなところでしょ。だからところどころに深い竪穴があるんです。草むらを歩いていて、うっかりそこに落ちようものなら大変ですよ」
 
「ええ?」
 
「秋《しゆう》芳《ほう》洞《どう》のエレベーター、乗りましたか」
 
「えーと、乗りました、乗りました」
 
「あれも竪穴を利用して作ったんですから。三、四十メートルくらいの穴は、いくらでもあります。ストンと落ちたらもうおしまい。どこに落ちたか、だれが落ちたか、よほど運がよくなければ見つかりません」
 
 ひときわ大きな石積みの目印があって、そこからブッシュの中へコースが変った。もう道とは言えない。だが、草の丈が低いので方向さえまちがえなければ、歩くのに困難はない。今度は木の枝に白いリボンが結んである。手拭いかハンカチを裂いたものだろう。木そのものの数が少ないので、目印をたどるのはさほどむつかしくない。
 
 地形から考えて、このあたりは太古海の底だった地盤が隆起したのではあるまいか。太陽の光の下で見れば、もう少しよくわかるだろうけれど……。
 
「お兄さんも、その穴に?」
 
「初めはそれを心配しました。でも、ほら、フィルムが三本残ってたって言ったでしょ」
 
「はい」
 
「それを現像してみたんですよ、おもしろいもんですね。写真てものは、いろいろ話しかけてくれますから。行き先は秋吉台なんかじゃない。すぐにわかりました。どの角度で撮ってもあそこは特徴のある景色ですから。みやげもの屋の主人も言ってたでしょ。兄は二、三日、同じところへ通っていたらしいって」
 
「ええ」
 
「それは写真からもわかりました。豊田湖の周辺らしいところは、たしかに写っている。そこを起点にしている。さて、そこからの行き先はどこだろう? なにを見つけたのかな? 私もだんだん引き込まれちまって」
 
「わかりますよ」
 
 そんな推理小説を読んだことがある。死んだ男のアルバムに何枚もの旅先の風景が残っている話だった。それを見ると、主人公はいろいろなところへ行っている。旅には連れがあるらしい。相手はだれなのか。行き先はどこなのか。それがわかれば連れの見当もつくだろう。小説のタイトルはすっかり忘れてしまったが、写真を手がかりに謎が少しずつ解けていくあたりは、とてもおもしろかった。
 
 この男の場合は、小説ではない。なまの現実だ。しかも兄さんの行方がかかっている。多分生死もかかっている。おもしろいと言ったらわるいが、エキサイティングだったことは疑いない。
 
「薄紙をはぐように少しずつわかりましたよ。偶然にも助けられましてね。捜しあぐねて草原の中にぼんやり腰かけていたら、山のてっぺんに立った大きな杉の木が見えるんですね。あれだっ! てなもんですよ。フィルムの終りのほうにその木が写っているんです。えーと、ああ、ここからじゃ見えないか。疲れましたか。もうすぐです」
 
「なにがあるんです?」
 
 聞こえなかったのだろうか。男は答えない。足を止め、首を傾けて進路を案じている。それから意を決したように歩き始めた。岩がまた多くなった。どうせなら昼間、太陽の光の下で来たほうがよかったのではないか。それとも夜でなければいけない事情があるのかもしれない。草原の中にうっすらと花の群が続くのが見えた。白い花、黄色い花。おぼろに咲いている。
 
「絵葉書が雨に濡れてて……。ほら、兄から絵葉書が着いたって、言いましたよね」
 
「はい」
 
「雨でインキが滲んでいて、読めないところがあったんですよ。でも、なにか大切なことが書いてあるみたいな気がしてね。ずいぶん苦心しましたけど、ほんの少しだけ読めました。〓“帰り水を見つけた〓”そう書いてあるらしいんです。帰り水ってなんですか。辞書を引いても載っていない。地名辞典を見たけど、やっぱり見つからない。こっちへ来て運転手さんに聞いたら、あっけないほど簡単に教えてくれましてね。そんなもんですよ。ご存知ですか」
 
「いえ、知りません」
 
 とっさに思い出したのは、逃げ水のことだった。あれは陽《かげ》炎《ろう》の一種なのだろうか。暑い日に、道の行く手に水溜りがあるように見える。近づくとどんどん逃げて行く。むしろ小さな蜃《しん》気《き》楼《ろう》かもしれない。
 
 しかし帰り水はそれとはちがうようだ。
 
「秋吉台へいらしたとき聞きませんでしたか」
 
「さあ。聞いたかもしれないけど」
 
「高速道路の途中にありますよ。私ももちろん行ってみました。兄がそこへ行ったのかと思って……。でも、ちがいましたね。写真の景色とはぜんぜんちがうし……。兄が行ったのは、ほかの帰り水です。それに、不思議ですね、ここに来て、いろいろ調べているうちに……どう言えばいいんでしょうか、兄の気持ちがわかるって言うか、私自身が少しずつ兄と同じ頭になるって言うか、道を歩いていても、ここだ、ここじゃない、ピンとわかるようになりましてね。夢の中の風景をたどるみたいに……」
 
「そんなこともあるかもしれませんね」
 
「兄はどこかに帰り水を見つけたんだ。それがすごい景色なんだ。じゃあ、それはどこなんだ。探索の方向がはっきりと見えて来ましたよ」
 
「帰り水って、なんですか」
 
 男の足が速くなった。草をかきわけ、走るように進んだ。私は四、五メートル遅れてあとを追った。
 
「ここですよ」
 
 男は少し高い位置に立ち、指を下にさし、それから腕をあげ懐中電灯の光をかざして腕時計を見た。私も同じ動作で腕時計を見た。十一時に近い。男はさっき「三十分くらい」の道のりと告げていたが、一時間あまりかかった計算になる。夜道のせいで少し遠まわりをしたのかもしれない。
 
 急な勾配を登りきると眼の前が急に開けた。
 
「ほう」
 
 とりあえず声をあげた。しばらくは情況が明確に把握できなかった。
 
 すり鉢のような凹みになっている。すり鉢と言うより壺かもしれない。凹みの直径は、二十メートル近い。ほとんど垂直にえぐれ、その下はなだらかな傾斜を作って凹みの底になっている。深さは七、八メートルくらい。
 
 人工的に作られたものではないらしいと、周囲の様子からなんとなくわかった。火山の火口によく似ている。
 
 凹みの周囲に眼を移すと、野の草があふれるほどに豊潤な花を咲かせ、凹みの中に向けて花を垂れていた。色彩は鮮明に見えないが、多分白と黄色。花は姿から察して、小《こ》手《で》毬《まり》とえにしだではあるまいか。今が花のまっ盛りらしい。凹みの縁にそってたわわに咲き崩れ、巨大な花の輪を作っていた。
 
「なんですか、これは」
 
 私は凹みの由《ゆ》来《らい》を尋ねた。
 
 だが男の答は少しそれていた。
 
「帰り水ですよ」
 
「ええ……。帰り水ってなんです?」
 
 最前と同じ質問をくり返した。それを聞かなければ、謎の鍵は解けない。
 
「私もくわしくは知りません。特別な地形のところにだけ起きるらしいんです。雨が降るでしょ。凹地に水が溜まるけど、なにしろ軽石みたいな地盤だから吸い込まれて水は消えちゃうんです」
 
「ええ?」
 
「ところが周囲の高い山でも水が吸い込まれる。これが地下を通って、また凹地の中に噴き出して来るんです。何時間もあとになって。消えたと思った水が、また戻って来るもんですから……」
 
「それで帰り水ですか」
 
「ええ。ここもそうなんですね。染《し》み込んだ水は、地下を通っているうちに温められ、お湯になり、しかも特殊な化学成分を帯びるんです。でもめったに見られるものじゃありません。地元の人でも知らないくらいですから。私も何度も何度も足を運んで、ようやくわかったんです。ずっと待っていたんですから」
 
 男はくいいるように凹みの底を見つめている。そう言えば、昨日の夜中にかなりの雨が降った。あれが関係しているのだろうか。
 
「今夜なんですね」
 
 男の緊迫した気配に押されて、私は言葉少なに尋ねた。
 
「ええ」
 
「どうしてわかるんです?」
 
「ほら」
 
 指をまっすぐに伸ばして凹みの底を指した。なぜその男が今夜とわかったのか? 尋ねるゆとりはなかった。
 
 月あかりに照らされた深い部分に銀色のものが蠢《うごめ》いた。と思うまに、いくつもの白い泡が吹き出し、踊り始めた。泡はみるみる数を増す。大きくなる。
 
 ショウの幕開《あ》けのようにいく本もの白い柱が噴出し、蒸気が傾斜にそってゆっくりと白い渦を巻く。湧き水は見ているうちにどんどん噴出の速度を増す。底一面が湯の壺と変った。表面は複雑なうねりを示し、時折、深い底の爆発を伝えるように白く盛りあがる。
 
 いつのまにかもう凹みのなかばの高さまで水面は湧きあがっている。それでもまだ白い泉は膨脹を続ける。
 
 ——湖ができるんだ——
 
 じっと見ていると、わけもなくそう思った。
 
 大自然はめったなことで活動の、なまの姿を私たちの前に見せない。私たちが見るのは、たいてい活動のあとの結末だけだ。
 
 だが、この風景はなんだろう。今まさに変化の一瞬を垣《かい》間《ま》見せている……。
 
 ひたひたと体の底から込みあげて来る興奮に私は息もつけぬ思いだった。
 
 本当に息をつかなかったかもしれない。凹みの底に銀の泡を見てから、一面に満ちるまで、それほど短い時間だった。文字通りあっと思うまの出来事だった。
 
 それでいながら私にはひどく長い時間にも感じられた。それも本当だった。どこかスローモーションフィルムの映像に似ていると思った。急速に変化する現象を、ゆっくりと眺めているのだと思った。いや、そうではない。長い時間を一瞬のうちに見たのかもしれない……。
 
 高まる水位は、足先のわずか一メートルほど下まで来て止まった。月の光の中にぽっかりと見知らぬ泉が生まれ、深々と銀の湯を満たして広がっている。
 
「お兄さんは、これを見つけたんですね」
 
 私は尋ねた。
 
 
 
 そのとき水蒸気の中に浮いているものが見えた。
 
 ——人の体だ——
 
 気がつくと、連れの男がいない。いつのまにか衣服を脱いでのんびりと湯の中に浮いている。……どうもそうらしい。水の面に手足を投げだし、夜空を見あげている。
 
 ——生きているのだろうか——
 
 不思議な感触を覚えた。
 
 たしかに私は泉のほとりに立っていた。男は……連れの男は泉のまん中に浮いて空を仰いでいる。これは疑いようもない。
 
 そのくせ私は、男がそのとき見ている風景を自分の脳裏に映すことができた。想像よりももっと鮮明な、私自身が見たとしか言えないほど鮮かな風景として心に描いた。
 
 月はまっすぐ上にあった。銀の光を惜しげもなく射しこぼしていた。その下に黒い山の稜線が見えた。泉の周囲には、花の群。あふれるほどに咲き崩れている。
 
 ——体が溶けていく——
 
 真実そう思った。
 
 全身が力を失い、すべての細胞が陶酔の中へ犯されていく。私自身もまた水の中に浮かんでいる……。
 
 われに返って、私も衣服を脱ごうとした。男と一緒にこの不可思議の中に体を浸そうとした。だが……。
 
 水の面にまたさざ波が立った。
 
 スローモーションのフィルムがゆっくりとまわり始めた。水位がさがり始めた。帰り水がふたたび大地の中へ消えて行く。その動作を開始したらしい。
 
 ぐんぐんと縮んでいく。あちこちに渦を描く。水は地の底に引き込まれていくような無気味な音をあげる。
 
 たちまち半分の高さに減った。
 
 水の動きにつれ蒸気は左右に揺れ、あわてふためくように舞う。花たちも異変を感じたのではあるまいか。逃げて行く水たちにむけてはらはらと花びらを散らして別れを告げる。
 
 水位はさらに低くなった。
 
「おーい」
 
 私は声をかけた。湯気に隠れて男の姿が見えない。渦の底に引き込まれたのではあるまいか。その危険も皆無ではない。それほどまでにすばやい水の引き足だった。
 
 凹みの底が見えた。
 
 ——よかった——
 
 底には男の姿はない。いち早く異変に気づいて岩の上にあがったのだろう。花陰で衣服を着ているにちがいない。
 
 クオーッ。
 
 水は最後の音をあげて消えた。
 
 急に暗くなった。月が光をしぼったらしい。ドラマが終り、ライトが暗くなったのだ。
 
「いいお湯でしたか」
 
 私は花の闇にむかって声をかけた。
 
 闇だけが答えた。花たちがまた凹みの底を目がけて散る。男は現われない。いくら呼んでも答えない。冷気が背筋を走り抜ける。
 
 私は待ち続けた。一時間も、二時間も、三時間も。朝が明けるまで待ち続けたが、男は戻って来なかった。
 
 私は凹みの底まで降りてみた。
 
 ——吸い込まれてしまったのだろうか——
 
 どこをどう捜しても人間を一人飲み込むほどの穴はない。底にはこまかい穴が無数にあいているだけで、朝の光の中では異変のあったことさえ疑わしく思えた。
 
 男は泉の中で溶け、忽《こつ》然《ぜん》と消えてしまった。
 
 
 
 あれから何年かたった。
 
 私は何度かあの凹地を訪ねた。異変の夜と同じ日付に訪ねてみた。花の群は同じように咲き乱れていた。月の夜にも行ってみた。風は同じようにここちよかった。だが、今日に至るまで二度と帰り水を見ることはなかった。
 
 ——男はどこへ行ったのか——
 
 かすかに辻《つじ》褄《つま》のあわない話だった。彼こそが消えた兄さんその人だったのかもしれない。
 
 この世の外に消えた男が、帰り水の奇景を私に見せるために、ふっと戻って来たのかもしれない。そんな異変も、まれにはあるのかもしれない。考えてみれば、あの夜、月も、花も、水も、いっさいがあまりにも夢幻であった。この世の外の風景にこそふさわしいと、今の私にはそう思えて仕方ないのである。
 

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