屋上風景
電話では「麻布の本社ビルへ十一時に来てほしい」という指示だった。西原は時間通りに到着したが、四十分あまり待たされたあげく、
「ごめん。どうしてもはずせない会議があるんだ。社員食堂の食券があるから、これで昼めしでも食べて、一時にここに来てくれないかな」
と、先輩の高野さんがしきりに頭をかく。あれこれ言える立場ではない。西原はむしろ恐縮して、
「おいそがしいときにすみません」
と、頭を垂れた。
高野さんはもううしろ姿になっている。よほどいそがしい最中なのだろう。大学の五年先輩。西原と比べて年齢にそう大きな差があるわけではないのに、高野さんは全身にエリート・サラリーマンらしいシャープな雰囲気を漂わせていた。
——俺も今にああなるのかな——
初めての会社訪問。まずゼミの先輩を訪ねて会社の内容や様子を聞く。水井商事は学生たちにとても人気のある企業だ。ここに入社できれば申し分ない。とはいえ不安材料も少しある。
「仕事はきついらしいぞ。お前なんかのんびりと公務員でもやったほうがいいんじゃないのか」
そんな忠告もあった。
商社マンとして世界を股にかけて活躍するのも、夢としてはすばらしいけれど、西原はけっして外向的なタイプではない。むこうっ気の強いほうでもない。会社が採用してくれるかどうかはともかく、西原自身としても、
——競争の激しい会社でやっていけるだろうか——
いくばくかの疑念が胸の中にくすぶっている。
面会室から廊下に出てエレベーターを待った。食堂は地下一階。ここは三階。エレベーターにはだれも乗っていない。
ドアがしまる。
薄暗く、四角いボックス……。
一瞬、奇妙ななつかしさを覚えた。
——なんだろう——
西原は首を傾《かし》げた。
なにがなつかしいのかよくわからない。このビルに来たのは初めてだが、エレベーターの中なんて、どこだって似たようなものだ。だから……今、とくになつかしく思う理由は考えつかない。
——ああ、そうか——
かすかにBGMが鳴っている。この音楽が原因らしい。
どこかで聞いたメロディ……。ちょっとサイケデリック。ひたひたと心の中に染《し》み込んで来る。
ドアが開いた。
「あれっ」
地下ではないらしい。屋上に来ていた。ボタンを押しちがえたのだろう。それともだれかが先に屋上のボタンを押して、そのまま降りてしまったのかもしれない。
——まあ、いいか——
景色を展望してみたくなった。
まだ昼休み前だから人の姿はない。コンクリートの平面が続き、周囲には低い金網が張ってある。
うっすらと曇った空の下に、無数の屋根が広がっていた。ところどころに高いビルがある。あれが霞ケ関ビル。あっちが貿易センタービル。新宿の高層ビル街は、霞に包まれて蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように浮かんでいた。
首を伸ばすと、真下の中庭が見えた。日本庭園のような造りになっているらしい。粗い岩石で築山を作り、黄ばんだ芝生がふっくらとした絨《じゆう》毯《たん》を広げている。
「わりと暖かいね」
いきなり背後から声をかけられ、西原はふり向いた。
「はい」
この会社には高野さんのほかに知人はいない。でも会社の人ならば礼儀正しく接しておいたほうがいいだろう。
「会社訪問かね?」
リクルート・ルックの服装だから、そう見ぬかれても不思議はなかった。
「はい。まあ……」
「もうそんな時期かな」
「まだなんですけど、ちょっと先輩に様子をお尋ねしようと思って」
「なるほど。ここは学生さんに人気があるからな」
男は三十代のなかばくらい。ひげも伸びているしネクタイも冴えない。スタイルで仕事をするわけではないけれど、高野さんに比べると、どことなく景気のわるいサラリーマンに見えた。同じ水井商事の中にだっていろんな立場の人がいるだろう。
「だれに会いに来たの?」
「高野さんです。営業第二課の……。食堂へ行くつもりだったんですけど、エレベーターが屋上に来ちゃって」
手短かに事情を説明した。
「高野君か。彼はなかなかやり手だよ。奥さんも美人だし」
「はあ」
「知らないの?」
「今日はじめてお目にかかったんです、高野さんに」
「あ、そう」
男は軽く頷《うなず》いてから柵《さく》の端に立って下を覗き込む。それから指をさして、
「岩と芝生が見えるでしょう」
「はい」
「自殺をする人も、やっぱり思うらしいね、落ちて行く途中で」
と、おかしなことを言う。
「はい……?」
「岩のほうに落ちたら痛いだろうなあ、なんとか芝生の上に落ちたいなあ、って」
どう答えていいかわからない。
「あははは。めしを食うんでしょ。社員食堂はまずいから、ご馳走してあげるよ。遠慮しなくていい。会社のこと、少し話してあげるから」
情報はたくさんあったほうがいい。せっかくそう言ってくれるのに断るのはかえって失礼だろう。
「よろしいんですか」
「いいとも」
男はテレビの合言葉を言ってエレベーターのほうへ行く。
「すみません」
西原はあわててあとを追った。
連れて行かれたのは、近所のうなぎ屋だった。
——こんなところにこんな店があるのかなあ——
ビルの谷間の細い路地に、屋根の傾きかけた平屋がある。男は一番奥のテーブル席にすわり、
「僕はうな丼にする。君は? 好きなものを食べなよ」
と勧める。昼のメニューは、うな丼と親子丼と卵丼しかない。
「うな丼でいいです」
「あ、そう。英語でうなぎはなんて言うかね」
独りでフッフッと笑っている。本人は照れているのかもしれないが、あまり感じのいい笑いではない。
「えーと、イールです」
「ほう、よく知ってるね。英語ができるから商社かね」
「そうでもないんです」
「ここの連中はみんな下手だね、英語が」
顎《あご》をあげて今出て来たビルのほうを指す。話しているうちにうな丼が二つ運ばれて来た。
「まあ食べなよ」
「いただきます」
男は丼を抱え込むようにして食べる。クチャクチャと音を立てる。
「僕は勧めないね」
食べながらポツンと言う。
「なんですか」
「学生に人気のある企業のランキングでは……上位のほうなんでしょ、わが社は」
「去年の調査では八位です。ずーっとベストテンに入ってます」
「見ると聞くとは、大ちがい、昔からそう言うわね。そりゃフェア・ウエイを歩いてる奴には、いくらかいいさ。そんなの、何人いると思う? せいぜい五分の一かな。あとは、ひどい国に飛ばされたり、あらかた地方の支店で下積みの仕事をさせられたり……。ノルマはきついし、冷たいんだなあ、会社の雰囲気が……上も下も」
「そうなんですか」
「同じ商社でも、もっとましなところはいくらでもあるよ。とにかくここはよくない、公平に見て。考え方がちがうんだ」
「どうちがうんですか」
「商売の考え方には二通りあるな。一つは〓“買い手も売り手もフィフティ・フィフティで行きましょう。あなたも儲ける、私も儲ける〓”、これがノーマルな考え方。もう一つは〓“相手に損をさせ、こっちだけ儲ける〓”、巾《きん》着《ちやく》切りの思想だな」
言われてみれば、わかるような気もする。
子どもの頃、近所の駅から大学病院へ行く道すじに果物屋が二軒あった。一軒は八百屋をかねた小さな店。あねさんかぶりのおばさんが、
「お客さんに喜ばれるのが一番うれしいわ」
と、口ぐせみたいに言っていた。
この店の品物はいつも新鮮だった。
そこへ行くともう一軒はひどい。水をかけて新しそうに見せる。籠物を買えば、見えないところへ腐りかけた果物を入れる。店構えはきれいだが、やることは汚い。
でも病院へ行く見舞い客は、たいていこっちの店で買っていた。いちげんの客に良心は伝わりにくい。結局生き残ったのは、こっちだった。西原は子ども心にも釈然としないものを感じた。
今、それを思い出す。
「うちは完全に巾着切りのほうだからな。表向きはいいこと言ってるけど、経営者の基本方針がそうなんだから……。実情がわかってみると、やりきれんよ。派閥のボスに尻尾をふらなきゃ、いいポストにはつけない。いくら実力主義だって言ったって、初めっから実力を出せるようなところに置かれなきゃどうしようもない。スパイも大勢いるしサ。とにかく冷たいよ。夜なんか廊下を歩いているとヒヤーッと寒気を感じちゃうな。暖房がきいていても」
「でも月給は、いいんじゃないですか。初任給はどこよりも上だし」
「とくにいいことはないさ。あんなもの、計算の仕方でどうにでもなるしね」
「福利厚生面がいいと聞いていますけど……」
「多少よくたって、中にいる人間が悪くちゃ意味がない」
歯切れのいい話し方ではない。ボソボソと愚痴でも言うように呟《つぶや》く。悪口はとめどなく、だらしなく続く。コースをはずれたサラリーマン。英語だけができたりして……。
——待てよ——
これは人事課のまわし者かもしれないぞ。さんざん会社の悪口を聞かせて就職希望者の反応を見る……。
当たりさわりがないように接しておくほうがいいだろう。
食事もちょうど終っていた。高野さんと約束した一時も近い。
「いろいろとありがとうございました。僕にはそんなにひどい会社とは思えませんけど、参考にさせていただきます」
「ろくなことがないね。よしな。君には向かない。顔を見ていれば、わかる。僕に似ているよ」
こんな人に「似ている」と言われてもあまりうれしくはない。
「ご馳走様でした。時間も迫っていますので……」
「高野君の意見は俺とちがうと思うけどな。でも、あんたは高野君にはなれんから」
「あの失礼ですが……お名前は?」
それを聞いてなかった。
「市《いち》井《い》だよ。市井稔」
「ありがとうございました」
八百円のうな丼をご馳走になったが、これはよかったのだろうか。愚痴の聞き賃かな。
男はつま楊子を使いながら、ひどく陰気な様子で見送っていた。
たしかに高野さんの話は、まるでちがっていた。
「きびしいことはきびしいよ。しかし、やりがいはある。実力主義だから、すっきりしているしね」
「はい」
もしかしたら二人とも同じことを言っているのかもしれない。ただ楯《たて》の両面みたいなもの……。
一升壜《びん》に半分酒があるのを見て、
「しめた。まだ半分ある」
と思う人もいれば、
「もう半分しか残っていない」
と悲観する人もいるだろう。
高野さんは見るからに頭の切れそうな人だ。話し方も魅力的で、ユーモアを含んでいる。すぐに引き込まれてしまう。会社の特徴をわかりやすく、丁寧に説明してくれる。説得力がある。熱気がある。
——そんなにひどい会社じゃないな——
市井という人の見方がゆがんでいるんだ。自分がコースからはずれたものだから、恨みっぽくなってしまったんだろう。高野さんの見方のほうがずっと正しそうだ。そうでもなければ、日本の一流企業でいられるはずがない。要は、
——俺が高野さんになればいいんだ——
しかし、すぐに、
——大丈夫かな——
不安が胸に募って来る。
「まあ、よく考えなさい。自分にあっているところを選ぶのが一番だからね。決心がついたら、すぐに連絡をしてね。たいしたことはできないけど、お役に立ちたいから。ボーイズ・ビー・アンビシャス」
「ありがとうございました」
市井という名を出す気にはなれなかった。「あんな奴にご馳走になったのか」と、先輩は不愉快な顔を見せるかもしれない。
「じゃあ失礼」
高野さんは〓“しっかり〓”とばかりに片目をつぶって笑う。その表情がさまになっている。だれに対してもこんな調子で接しているのだろう。また、早足で立ち去って行った。
——さて帰ろうか——
高野さんと別れてエレベーターに乗った。今度もたった一人だ。とたんにまた奇妙ななつかしさを感じた。同じBGMが鳴っている。
——いつか、たしかこんなことがあったなあ——
さっきと同じことを思ったが、やっぱり思い出せない。
——夢で見たのかな——
そんな感覚に近いのだが、BGMつきの夢なんて、あるものだろうか。
ドアが開き、
——なんだい、これは——
また屋上に昇って来ていた。二度も同じまちがいをやってしまうなんて……エレベーターのほうが狂っているんじゃあるまいか。
くぐり戸を抜けて、外へ出た。奇妙ななつかしさと屋上の風景とが繋《つなが》っているような気がしてならない。
太陽は雲の下に隠れている。文字通り玩具のような自動車が道いっぱいに屋根を連ねている。
——あの人、へんなこと言ってたなあ——
自殺する人は、落下しながら、堅い岩の上より柔かい芝生のほうに落ちたいと、そう思うんだとか……。
その意見をだれが死者から聞くことができるのか。
「なにをしてんですか」
またうしろから声をかけられた。
青いユニフォームの男が近づいて来る。五十歳くらい。服装から見て警備員らしい。
「会社訪問に来たんですが、エレベーターが屋上にあがっちゃって……。せっかくだから、東京の街を見てました」
「ああ、そう。危ないからね」
「はい。すぐ帰ります」
「そうしたほうがいいよ。そんなところに立っていると、ろくなことがないから」
声の調子がおかしい。
——もしかしたら……ここはよく自殺者が飛び降りる場所なのではあるまいか——
とっさにさとって、立ち去って行く警備員に声をかけた。
「ここの会社の方ですか」
「ええ、以前はね」
そうか。今は警備会社に雇われて、昔の会社に来ている……。
「ここ、いい会社ですか」
退社した人なら正直に教えてくれるかもしれない。
「いや、弱い者には冷たいね。評判ほどよくはない。二度と勤めたくないね」
うしろ姿がとてもさびしそうだ。
——この人も落ちこぼれ組だったのだろう——
そうにちがいない。定年前に警備員になっているのはどういう事情だったのか。
「あのう、市井さんて方……市井稔さんてかた、ご存知ですか」
男は立ち止まり、首をまわして笑った。
「知ってますよ、よく。会ったんですね。市井君に」
「はい」
「うなぎ屋へ行って、さんざん愚痴を聞かされて……」
「はい……」
「彼もまだここに未練があるんだねえ。もうあれはやめたのかと思ってたのに……」
「どういうかたなんですか」
警備員は生まじめな表情で答えた。とても冗談とは思えない。
「三年前に死んだよ。仕事に行き詰って……。そこから飛び降りて。今でもときどき現われるらしいね、このへんに」
「まさか……」
だが理性の判断とはべつに、
——そうかもしれない——
奇妙に納得できるものがあった。ひどく影の薄い感じの男だった。西原はふと思い出し、わけもなく尋ねてみたくなった。
「あの……その市井さん。落ちたのは岩の上でしたか」
くぐり戸に手をかけたまま青い服の男が答えた。
「岩の上だったね。血が周囲に飛び散ってさァ」
急に頭の中でBGMが鳴り響く。
——あれは……未来を垣間みるときの音楽——
たとえば映画の〓“トワイライト・ゾーン〓”、サイケデリックで、ひたひたと心に染みて来て……ちがうだろうか。
いつか西原自身が人《ひと》気《け》ないエレベーターに乗って、ここまで駈け昇って来るのではあるまいか。そして柵を越えて……。
青い服が話し続ける。
「市井君は痛かっただろうなあ。僕は途中で体をねじったので……芝生の上だったけど……」
影のようにスルリとくぐり戸を通り抜けた。西原は驚いてあとを追った。
姿はない。エレベーターは止まったままだ。
——この会社はやめておこう——
帰り道は階段を選んで降りた。ドアが開いて、また屋上だったりしたらたまらない。