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心の旅路09
日期:2018-03-31 15:00  点击:329
 旅立ち
 
 
 カチッ。
 
 ロビイの壁に貼られた時計が、かすかな音をたてて針を動かした。
 
 多佳子はもう二時間近くも待ち続けていた。
 
「先に行っててくれ。僕はすぐあとで行くから」
 
 多佳子は目を閉じていた。和夫はその顔をまばたきもせずに見つめて、はっきりとそう言った。
 
「はい」
 
 それがこんなときのルールなのだろうか。初めてのことなのでわからない。多佳子はすなおに従い、玄関に近いロビイで和夫が追って来るのを待った。
 
 外はまっ暗だが、朝はそう遠くはあるまい。時折、ドアが開いて宿泊客が一人、二人と帰って来る。それを除けば、広いロビイにほとんど人影はない。
 
 多佳子は柱のかげに立っている。身を隠すようにして……。姿を見られたら、ずいぶんみじめに見えるだろう。奇異に映るだろう。
 
 凍りつくような不安が胸を貫く。
 
 ——もし和夫さんが来なかったら——
 
 こんなに手ひどい背信はありえない。
 
 時計の針が三時半を指すのを待って多佳子はロビイを横切り、エレベーター・ホールへ急いだ。心配で、心配で、やりきれなかった。
 
「和夫さん、どうしてすぐに来てくれないの」
 
 声にならない声でつぶやいた。
 
 エレベーターの前に男が一人立っている。彼はギョッとしたように多佳子のほうへ視線を向けたが、すぐに目をエレベーターのシグナルに戻した。
 
 黒い制服。ホテルのフロント係。腹痛を起こした宿泊客がいて、そこへ薬を持って行くところだ。胸には〓“正田〓”と記した名札がとめてある。多佳子は、その男の脇に数歩の距離を置いて立った。エレベーターがなかなか降りて来ない。上のほうの階で、ところどころ止まっている。
 
 ——こんな時間になにをしているのかしら——
 
 正田という名のフロント係も同じことを考えているらしい。多佳子はそっと横顔をうかがった。
 
 パチ、パチ、パチ……。
 
 その瞬間に多佳子の頭の中でなにかが弾けた。音が聞こえたわけではないけれど、そんな感覚に近かった。
 
 たとえて言えば、男の横顔を見つめたとたんに、その脳みその中にあるものが〓“見えた〓”……。そんな感じに近かった。男の脳みその作用が脳波となって弾け飛んで来たのかもしれない。
 
 ——こんなことがあるのね——
 
 あとで考えてみれば、ほんの数十秒。とても短い時間のはずなのに、信じられないほど多くの情報が飛んで来た。
 
 それも充分に頷けることだ。人間の脳の働きはすばやい。一瞬のうちに数十数百のことを考える。撫でるようにたくさんの情報に接して行く。たとえば……町でだれかの顔を見て、この人だれかしらと思う。ああ、そう、田中春子さん、高校のとき隣のクラスにいた人ね、いつも髪の毛をきれいな三つ編みにあんでいて……バスケットがうまかったわ、それからお習字も、お母さんが継母だったんじゃないかしら、そのせいですぐに就職をして、たしか生命保険の会社、勧誘をされて困ったって噂を聞いたけれど、今ここで声をかけたらまずいかしら、そういえば私の生命保険証どこへしまっておいたろう、大切な書類はみんな一まとめにしておかなくちゃいけないわ、でもそれで泥棒に狙われたら困るし……むこうも気がついたみたい、戸惑うような顔で笑っている、とにかく声をかけてみよう、あの、田中さんでしょ、などなどと数秒間のうちに頭は思い描く。夢などもほんの一瞬のものらしいけど、内容はずいぶん多岐にわたっている。さまざまなことが同時に頭の中に映るみたい。
 
 黒い服の男は……正田隆。三十六歳。フロント係をすでに三年あまりやっているはず。だからたいていのトラブルには遭遇している。今、彼の頭の中をよぎったことは、あまり楽しい想像ではない。彼はシグナルを見ながら考える。
 
 ——エレベーターが三十七階に止まった。それから三十四階……。次が二十九階か——
 
 ほとんど宿泊客が寝静まっている時間……。こんなときにエレベーターがあちこちの階に止まるのはめずらしい。
 
 ——さっきは背筋に冷たいものを感じたけれど——
 
 魑魅魍魎が走りまわる時間……。連想はどうしてもそちらのほうへ傾く。近代的な設備を誇っているけれど、ホテルはどこかに影の部分を隠している。怪しい気配を包んでいる。とりわけ夜は恐ろしい。
 
 ——朝の五時が一番早いモーニング・コールだったな——
 
 と彼は思う。
 
 そのあと時間をおいて二十いくつかのモーニング・コールがあったはずだ。これを忘れてはいけない。
 
 朝、目をさますことくらい、自分でやったらいいじゃないか、そう思わないでもない。そのうえホテルではちゃんと、ベッドサイドに目ざまし時計の設備までつけてある。いそがしいフロント係がなんでこんなサービスまでしなければいけないのか。
 
 ——忘れると厄介なんだよなあ——
 
 ひどいめにあったフロント係が何人かいる。正田自身は経験のないことだが……。
 
「どうしてくれるんだ。大事な契約があったんだぞ。七時に起こすように頼んでおいたのに……そっちのミスだろ。おかげで一億円の商談がパーになったぞ。弁償しろ」
 
 お客は怒りだす。それをなだめなければいけない。サービス業のつらいところだ。
 
 ホテルマンがうっかりモーニング・コールを忘れてしまうことなど千に一つもない。そのときが、たまたま大切な契約の日だなんてお客のほうも運がわるい。あとでどうにも取り返しがつかないほど決定的な遅刻となるケースは、現実問題としては非常に少ないだろう。皆無に近い。
 
 だが、お客はそうは言わない。お客の中にもたちのわるいのがいる。
 
「もう取り返しがつかん。初めから一分でも遅刻したら、この契約はなしにするって約束だったんだ。だからこそわざわざモーニング・コールを頼んでおいたんだ」
 
 ことさらに大事件にしてしまう。契約の相手と口裏をあわせてホテル側をゆすりにかかる。計画犯らしいのさえいる。モーニング・コールを忘れたばっかりに一千万円近い損害賠償を払ったケースが過去にあった。担当者は一生浮かばれない。
 
 だからモーニング・コールはけっして忘れてはいけない。指定された時間にベルを鳴らす。
 
 起きない人がいる。
 
 一分待って、もう一度鳴らす。それでもなお起きない人がいる。また一分待って、もう一度鳴らす。
 
 三度鳴らして、それでも目ざめてくれなければ、フロアー係が起こしに行く。ドアをノックして、
 
「もし、もし。おはようございます。お目ざめですか。七時半になりましたが」
 
 と叫ぶ。さらにドアを強く叩く。
 
 応答がなければスペアーキイを出してドアを細く開ける。すきまから呼びかける。ときには部屋の中まで入り、毛布の上から肩を揺すって起こすこともある。ベッドがもぬけのからならば、お客はすでに起きているわけだからモーニング・コールの仕事は終る。
 
 厄介なのは、内側からドア・チェーンがかかっている場合だ。どんなに呼びかけても返事がないとなると、フロアー係はにわかに緊張する。フロントに連絡する。
 
 ——もしかしたら——
 
 最悪の予想が頭をかすめる。
 
 
 
 正田隆がフロント係になって、まだ間もない頃だった。午前十時頃、三十七階のフロアー係から、
 
「三七四八号室の様子がおかしいんだ」
 
 と連絡が入った。
 
 つい今しがたモーニング・コールを発したのに応答のなかった部屋である。
 
「どうおかしいんだ?」
 
「ドア・チェーンがかかってる。いくら呼んでも返事がない」
 
「じゃあ行くよ」
 
 主任に連絡し、一緒に三十七階へ昇った。大騒ぎをしてはいけない。ほかの宿泊客に感づかれてはいけない。
 
 こんなときのために専用のペンチが用意してある。ドア・チェーンの鎖の中の輪が一つだけ切りやすいように、もろく作られている。ドアのすきまから大型のペンチをさしこみ、その輪を切ればよい。
 
「もし、もし。もし、もーし。おはようございまーす」
 
 主任がドアのすきまに口を寄せ、ひときわ大きな声で呼びかけた。
 
「駄目だな」
 
 ドアの外で頷きあい、正田がペンチを中へ入れた。
 
 カツン。
 
 思いのほか軽い感触で鎖は切れた。
 
「おはようございます。失礼します」
 
 声と一緒に主任が通路からベッドのある部屋へと向かう。正田はノックをしてバスルームのドアを押し開けた。
 
 赤い色が正田の目を染めた。
 
 客はバスルームのタブの中にいた。お湯が薄赤く染まっていた。壁に血のりが散っていた。フロアー係と主任が背後から駆けこんで来てのぞく。ひとめ見て、客の死は明らかだった。前向きのままお湯の中に潜りこみ、鼻までつかっていた。
 
 引きあげると、左手首に深々と切られた疵あとがあり、血を流し続けていた。
 
「外のドア、しめてあるな」
 
「はい」
 
 主任が電話をとり、まず支配人室へ連絡をとる。
 
「常連じゃないね」
 
「と思います。たしか電話で予約を受けて」
 
「宿泊カードをコピイにして四、五枚持って来てくれ。騒ぐなよ」
 
「はい」
 
 正田は大急ぎでフロントへ戻った。主任の対応は手慣れたものだった。
 
 ——めずらしいことじゃないんだな——
 
 警察が来てからのことは知らない。
 
 四十八歳の男。中小企業の社長。仕事に行き詰まり、バスタブの中で手首を切った。しばらくは正田の目の奥に、赤く染まったバスタブの風景がこびりついていた。
 
 それから三ヵ月後、正田はまた同じような事件に遭遇する。三十四階のスウィート・ルーム。今度も四十代の男だった。病気を苦にしての自殺だった。
 
 それからさらにまた一年たって若い男が二十九階の部屋で死んだ。
 
 奇妙なことに自殺者は、翌朝のモーニング・コールを頼んでおくことが多い。心のどこかで、
 
 ——助けに来てほしい——
 
 と願っているのだろうか。それとも、
 
 ——早く発見されたい——
 
 そう思うものなのだろうか。正田には見当もつかない。
 
「おい、夜になると、出るらしいぞ」
 
 先輩のフロント係が小声でつぶやく。ホテルではめずらしくない話題である。
 
「なにが、出るんです?」
 
「出るって言えばきまっているだろ」
 
 先輩は胸のあたりに両手を垂れて見せる。
 
「幽霊ですか」
 
「そう。三十七階と三十四階と、それから二十九階あたりで」
 
 いずれもここ一、二年のうちに自殺者があったフロアーである。お客には黙っているけれど、フロント係ならルーム・ナンバーまではっきり記憶している。
 
「本当ですか」
 
 正田は笑いながら尋ね返した。
 
「うん。どこからともなく足音が聞こえたり、エレベーターが開いてもだれもいなかったり……。今夜、君は夜勤だろ。ちょっと一まわりして来てくれないかな」
 
 たいした用もないのに、わざと後輩を行かせたりする。
 
 正田も何度か深夜に、いわくのあるフロアーを歩いた。忘れているときもあるが、たいていは思い出す。とりわけ問題の部屋の前を通るときは、いい気分ではない。
 
 それに……ホテルというものは、どこからともなく物音が漏れて来るものだ。エレベーターのドアが開いたのに、だれも待っていない、そんなこともけっしてまれではない。採光も暗い。
 
 雨の降る夜ふけ、ひっそりと静まりかえった廊下で怪しい気配を感ずることはたしかにある。少し怖い。
 
 
 
 正田隆は一階のロビイでエレベーターを待ちながら、これだけのことを脳裏に思い浮かべた。ほんの数十秒という短い時間のうちに……。
 
 理路整然と思い出したわけではない。さながら夢の中の出来事のように、いろいろなことがいっせいに浮かぶ。原因も結果もみんな入り乱れている。
 
 そんな風景が多佳子に見えた。正田の頭の中にあることなのに、自分が見た夢のようにはっきりと見えた。
 
 エレベーターのシグナルが上から順に三十七階、三十四階、二十九階と灯った。
 
 ——変だなあ——
 
 と正田は思ったはずである。
 
 ——みんな自殺者が出た階だ。こんな真夜中にだれがボタンを押したのかな——
 
 薄気味のわるい噂を思い出す。惨事の現場を思い出す。事件の発生と顛末を心に浮かべる。
 
 雑然としたイメージを整理し、そこに脈絡をつけるのは、むしろ多佳子のほうの頭の作用かもしれない。
 
 ——本当に夢によく似ているわ——
 
 と思う。夢で見たイメージに脈絡を与えるのは、目ざめてからの頭の作用だろう。桃太郎の物語を例にとるならば、夢の中では、大きな桃が割れる様子も、鬼ガ島も、きびだんごをもらう犬も、川へ洗濯に行くおばあさんも、宝を積んだ荷車も、みんなゴッチャになって頭の中に映るのだ。それに順序を与え、原因と結果の糸をつけるのは、もう一つのべつな脳みその作用にちがいない。
 
 今、同じようなことが起きている。
 
 正田がイメージを映し、それを多佳子が因果関係の糸で繋いでいる。ほんの一瞬のうちに……。
 
 ——どうしたのかしら——
 
 と多佳子は思う。とても不思議な感覚だ。
 
 ——ああ、そうか。早く部屋へ戻らなければいけないわ。ずっと和夫さんが来るのを待っていたんだわ——
 
 エレベーターのシグナルが一階を灯し、ドアが開いた。
 
 中にはだれも乗っていない。
 
 正田が首を傾げる。周囲を見まわす。
 
 ドアが閉じ、ゆっくりとエレベーターが昇り始めた。次第に速度を増す。それから、速度をゆるめる。
 
 二十四階で止まった。
 
 正田がドアの外を見る。
 
 多佳子だけが降りた。正田はもう一つ上の階へ行く。腹痛を起こした客がいる。そのことも正田の頭の中をのぞいて多佳子が知ったことだった。
 
 ——和夫さん、どうしたの? すぐに来てくれるはずだったじゃない——
 
 まさか……。
 
 廊下を風のように走った。
 
 ドアを抜け部屋の中へ入った。
 
 和夫が立っていた。多佳子と同じような姿だった。
 
 ——ああ、よかった——
 
 多佳子は安堵の胸を撫でおろす。
 
「どうしたんだ」
 
 ちょっと甘えるような視線で和夫は多佳子を見た。このまなざしが大好き。
 
「だって……待ってても来てくれないんだもの。私、心配で、心配で」
 
「ごめん。思ったより手間取っちゃって」
 
「モーニング・コール頼んだの?」
 
「うん」
 
「どうして?」
 
「どうしてかなあ。そのほうがいいんじゃないかと思って……」
 
 和夫が近づいて来て多佳子の肩を抱く。
 
「疑ってたのか。僕が来ないんじゃないかと思って」
 
「ううん、そうでもないけど。あんまり来ないものだから」
 
「馬鹿だな、多佳子を一人で行かせやしないよ」
 
「うれしい」
 
「さ、行こうか」
 
「忘れ物、ないわね」
 
「あるわけないだろ。ちょっと見るかい?」
 
「ええ……」
 
 ベッドルームをのぞいた。
 
「明るいのね」
 
「暗いのは厭だろ」
 
「そうね」
 
 ダブル・ベッドの毛布がふくらんでいる。その下で男と女が目を閉じている。二つの頭が同じ枕の上に載っているが、微妙に顔の色がちがっている。
 
 女の首には堅くネクタイが巻きついている。女の顔が赤黒く歪んでいる。
 
「ごめん。僕が巻いたんだ」
 
「ええ、知ってるわ」
 
 情景がはっきりと浮かぶ。
 
 女が先に睡眠薬を飲み、眠りが深くなったところで男が殺した。男は女の死を見とどけたあとで、自分も大量の睡眠薬を飲んだ。
 
 薬はゆっくりと作用する。男が死ぬまでにしばらく時間がかかった。
 
 男はある汚職事件に関連し、女は簡単には治らない病を患っていた。
 
「死のうか」
 
「ええ。いいわ」
 
 二人はまだ若かった。死ななくてもよかったかもしれない。だが二人はあの世でともに暮らす道を選んだ。どの道、死の理由は他人にはわからない。
 
「さよなら」
 
「グッド・バイ」
 
 多佳子はもう一度二つの死顔を見つめ、
 
「思ったよりきれいでよかった」
 
 とつぶやく。
 
「とてもきれいだよ、君は」
 
 死体に投げキッスをして部屋のドアへ向かった。手を取りあって廊下を急ぐ。
 
 エレベーターのドアが開いた。中には正田というフロント係が立っていた。
 
 彼はただならない気配を感じたように周囲をうかがう。だれもいない。
 
 風が二つの流れを作って入りこんで来る。まるで二人の人間が乗りこんで来たみたいに……。
 
 ——変だなあ——
 
 彼の脳裏に映るものが多佳子にははっきりと見える。
 
 ——朝が来てモーニング・コールを鳴らすのはこの人なのかしら——
 
 と思う。
 
「ご苦労さま」
 
 そのときの情景を想像する。多佳子と和夫の死体……。多佳子は声にならない声でつぶやいて和夫の腕を取った。
 
 二人でこれからどこへ行くのか、初めてのことなのでわからない。人気ないロビイで自動ドアが開いて、閉じた。
 
   見えない窓
 
「おおかみ少年がまた変なことを始めたわよ」
 
 午後番の看護婦が直子の顔を見るなりカルテの山の中から首を伸ばして呟《つぶや》いた。
 
「あら、ほんと。なーに」
 
 答えたのは一歩遅れて入って来た斎田のほうである。直子は手を洗いながら黙って二人の話を聞いていた。小さな鏡を覗《のぞ》くと、眼《め》尻《じり》の小《こ》皺《じわ》が映る。
 
「双眼鏡を差し入れてもらったの」
 
「ふーん」
 
 原宿の駅に近い総合病院。外科入院病棟のナース・センターの中。あと五分もすれば八時になって看護婦が交替する。特別のことがなければ夜の勤務は二名。明日の朝四時まで勤める。今夜は斎田と直子が夜勤だった。
 
 同じ病棟に勤務していても一日三交替制だから看護婦同士顔を合わせないケースもある。交替時の接触がわずかな情報交換の場となることが多かった。
 
「窓から覗いているの。厭《いや》らしい」
 
「あったじゃない。映画で」
 
「そう? 知らない」
 
「怖いの。〓“裏窓〓”ちがったかしら」
 
「へーえ」
 
 おおかみ少年というのは、三号室の患者。渾《あだ》名《な》の由来は……イソップ物語。「おおかみが来たぞ」と何度も嘘《うそ》をつくので村人に信用されなくなり、本物のおおかみが来たときにはだれも助けに来てくれない。たしか噛《か》み殺されてしまうのではなかっただろうか。
 
 三号室の患者も嘘をつく。
 
 看護婦をつかまえて真顔で突《とつ》拍《ぴよう》子《し》もないことを言う。夜中に白い物がドアを開けて入って来たとか……。嘘というより作り話のたぐい。真面目に相手をするのは馬鹿らしい。
 
 たしか中学三年生。カルテには浜真彦、十五歳と記してある。
 
 学校の階段から転げ落ちて右脚の大《だい》腿《たい》部を骨折した。骨盤にもひびが入っている。ギプスで固定し、ベッドを離れることができない。
 
「古い映画よ。テレビで見たわ。主人公もやっぱり脚の骨を折って、部屋の窓から双眼鏡で見てんの」
 
 両の掌《てのひら》で筒を作って覗く。
 
「変態ね」
 
「そうじゃなくって……たしかカメラマンなのよ、その人。だから望遠レンズとか、そういうの持っているわけ」
 
「おおかみ少年は外科病棟よりもっとほかのとこのほうがいいんじゃないかしら」
 
「どこ?」
 
「旧館のほう。三階」
 
「ああ」
 
 精神病棟のあるところだ。
 
「ねっ」
 
「言えるかもね」
 
 三号室は個室である。
 
 中学三年生で、受験を控えているので「勉強をさせたい」と、そんな注文があって個室に入ることになったらしい。
 
 病院をよく知っている立場から言えば、個室の入院はよしあしである。かならずしも勧められない。よほどの重症患者ならともかく、たいていは退屈する。孤独感に襲われ、ろくなことを考えない。仲間のいるほうが気晴らしになる。
 
 ——不運は私一人じゃないんだわ——
 
 と、慰められる。個室では、当然のことながら費用も割高になるし……。中学生には贅《ぜい》沢《たく》だ。
 
 しかし、病院のほうに個室のあきがあり、患者側がそれを望むのなら、看護婦がとやかく言うことではあるまい。
 
 浜少年はもともと少し変ったところのある子どもらしいけれど、個室に入れられ、さびしくなって周囲の関心を引こうとする。それでおかしな話をするのではあるまいか。
 
 ——達夫はどうしてるかな——
 
 直子には弟がいる。故郷の米子でスーパーマーケットの店員をやっている。二十二歳になるはずだが、ここ一、二年会っていない。
 
 浜少年の顔を見ていると、わけもなく弟のことを思い出す。けっして面《おも》ざしが似ているわけではないけれど……。
 
 父を早く失い、米子では母子三人で暮らしていた。あの頃が一番苦しかった。
 
 ——今は少し楽になったけど——
 
 母は体のぐあいがあまりよくないらしい。あい変らず和服の縫い子をやりながら、直子の結婚を心待ちにしている……。
 
「さ、引き継ぎ、やりまーす」
 
 机のまわりに看護婦が集まった。
 
「一号室の滝口さん、容《よう》態《だい》の急変も考えられますから注意してください。それから二号室、今は鎮痛薬が効いてますけど、夜中に痛みを訴えるかもしれません。そのときはオピオイドを……」
 
 と、年かさの看護婦がカルテを次々に開いて言う。それを立ったまま聞く。
 
 古手の看護婦たちの話では昔の外科病棟はもう少し雰囲気の明るいところだったとか。
 
 骨折のたぐいなら、そのときは痛くても、やがては治る。日ごとに回復する。盲腸炎や胆石など、ほとんど危険のない手術も多いし、消化器の潰《かい》瘍《よう》だって本当に潰瘍だけならさして怖くはない。治る病気なら希望も持てる。明るくもなれただろう。
 
 だが、昨今は死病に冒され、手術を受けてもなお体の中に病巣を残している患者が少なくない。とても明るい雰囲気ではいられない。その点三号室はなんの心配もない。
 
「三号室は、あい変らずよ。ひまがあったら話を聞いてやるのもいいんじゃない」
 
 視線が直子に集まる。
 
 直子は首をすくめた。
 
「それから五号室……」
 
 一号室から十八号室まで順送りにカルテを積み替えて引き継ぎが終った。とくに新しい伝達事項はなにもない。
 
「じゃあ、お願いします」
 
「お疲れさまーあ」
 
 午後番の看護婦が帰って行く。直子は斎田と向かいあって椅《い》子《す》にすわった。
 
「びっくりしちゃったわ。私が夜勤のときだったから」
 
 と斎田が日誌にペンを走らせながら甲高い声をあげた。
 
「なーに?」
 
「おおかみ少年」
 
「ああ」
 
「夜中に呼び出しのブザーが鳴ってサ、行ってみたら……〓“最近、この部屋で若い女の人が死んだでしょう〓”だもんね。眼をパッチリ開けて。睫《まつ》毛《げ》が長いから、眼つきが普通とちがうのよね」
 
「ええ……?」
 
「あそこ、野添さんが死んだ部屋じゃない。私、赤棒勤務だったから、すぐにピンと来たのね」
 
 患者が死んだときにはカルテに赤い棒を引いて、終りとする。そのときに立ちあうのが赤棒勤務。慣れてはいるが、気持ちのいいものではない。
 
「そうだったわね」
 
「でも知らんぷりして〓“そんなことないわよ。どうしたの?〓”って聞いたら、〓“今、入って来たんだ、青い顔して……。死んだ人だって、すぐにわかった。眼が曇ってるもん。僕のそばまで来て、じっと立っているんだ。自分が死んだこと、よくわかっていないみたい。ベッドに入ろうとしたら、僕がいるから、それで困ったんだね、きっと〓”真面目な顔で言うのよ。つきあっていられないじゃない。〓“夢を見たんでしょ。さ、寝なさい〓”そう言ったら〓“夢じゃないよ。髪を片側に編んで、赤い上っぱりを着て……ほら、まだそこに立ってる〓”ゾーッとしちゃったわ。野添さんて、いつも髪を片側に編んでたし、赤い上っぱり持ってたじゃない」
 
「だれか話したのかしら」
 
「でも、だれが話すの? 看護婦じゃないわ。入院患者かもしれないけど、あの子、そんなにいろんな人と口をきくわけないでしょ。まだ入院して間もなかったし、一人じゃ動けないんだから」
 
「そうねえ」
 
「気味がわるくなっちゃった」
 
「で、どうした?」
 
 直子も噂《うわさ》話《ばなし》くらい聞いていたけれど、斎田の口からこの話を聞くのは初めてだった。
 
「ふり向いたけど、だれもいやしないわよ。〓“変なこと言わないで眠りなさい。痛みはどうなの〓”〓“痛いけど、平気〓”〓“じゃあ、ね、おとなしく〓”そう言って帰って来たわよ」
 
 斎田の話ではそれから二、三日、続けて三号室から夜の呼び出しがかかり、看護婦が行ってみれば、いつも、
 
「最近、この部屋で若い女の人が死んだでしょう。さっき入って来た……」
 
 と、少年が呟く。
 
 すぐに噂は看護婦たちのあいだに広まり、三号室から呼び出しがかかると、
 
「ほら、死んだ女が立っているわよ」
 
 となる。たちまち〓“おおかみ少年〓”の渾名が授けられた。
 
「どうして毎晩この部屋に入って来るのよ、死んだ女の人が?」
 
 そう尋ねた看護婦もいた。
 
「忘れ物があるんだよ」
 
「へーえ、どこに?」
 
「どこかわかんない。どっかに隠したまま死んでしまったんだ」
 
「そんなもの、ないわよ。すっかり掃除しちゃうから」
 
「でも隠しておいたんだから、簡単には見つからないよ」
 
「どうして隠してなんかおいたのよ」
 
 と、しつこく尋ねた。
 
「人に見られると困るものだから」
 
「なんなの?」
 
「わかんない。男の人からもらった手紙とか男の人の写真とか……」
 
「ふーん」
 
 思わずその看護婦は唸《うな》ってしまったらしい。
 
 三号室で死んだ野添さんは、若い人妻だった。きれいな人だった。ご主人のほかに男の人が……恋人らしい男が、一度だけ訪ねて来たことがあった。
 
「あれ、絶対に恋人よ」
 
 ナース・センターは女性の職場だからこういうことにはとても敏感だ。
 
「なんかちょっと変よね」
 
「不倫の恋?」
 
「やるタイプよ、三号室は」
 
「ご主人、芋《いも》っぽいもんね」
 
 患者の死はさほどめずらしいことではないけれど、三号室の死はなにほどかの感傷を看護婦たちの心に残した。
 
「どうしたかしら、恋人?」
 
「泣きの涙よ」
 
「最後までばれなかったのかしらね」
 
「ご主人、遺体にすがりついて泣いてたけど……ああ、女は怖い」
 
 事実はどうあれ、その人妻は不倫の恋を隠したまま死んだことにされてしまった。
 
 だから……浜少年の言葉を聞いて看護婦がギクリとしたのも頷《うなず》ける。なにかしら決定的な証拠が部屋のどこかに残っていて、死んだ女がそれを取り返しに来たのかもしれないと……。話に尾ひれがつく。
 
 婦長が少年の母親に、
 
「病気以外のことで夜中に看護婦を呼び出さないでください」
 
 と注意してから、
 
 ——幽霊は出なくなったのかしら——
 
 少年はもうその話をしなくなった。
 
「あのサ」
 
「なーに?」
 
 そのかわりまた新しい作り話を語り始めた。
 
 少年は左の腕にもひびが入っている。腕のギプスはとれたが、毎日マッサージを受け、そのあと金属のネットを当てて包帯で固定しなければいけない。
 
 看護婦に話しかけるのは、たいていそのとき。
 
「この病院、建ってどのくらいたつの?」
 
「ずいぶん古いんじゃない。四十年くらいね」
 
「ここ、昔は石《せつ》鹸《けん》工場だったね。石鹸工場のあとに病院を建てたんだ」
 
「どうしてわかるの」
 
「匂いがする」
 
 看護婦は包帯を巻きながらクンクンと鼻を鳴らした。
 
「今じゃないよ。昔のことだよ」
 
 中学生のくせにひどく大人びた口調で言う。片《かた》頬《ほほ》で笑いながら。
 
「どうしてそんな昔のことがわかるのよ」
 
 と聞けば、
 
「だって、そのころ、僕、この近所に住んでいたんだもん」
 
 確信のこもった声で答える。
 
「へえー、驚いた」
 
 看護婦は両手を広げて首をすくめた。ちょうど包帯を巻く仕事も終っていたから、そのまま彼女は病室を出た。
 
 その日の夕刻、その看護婦が病院の玄関でボイラーマンの田宮老人に会い、
 
 ——そう言えば、田宮さんは古くからこの病院で仕事をしていたんだわ——
 
 と思い出し、
 
「ねえ、この病院、建ってからどのくらいになるんですか」
 
 と尋ねた。少年の話がほんの少し頭のすみに残っていたから。
 
「四十二年かな」
 
「前は石鹸工場だったんですか」
 
 老人は怪《け》訝《げん》そうに首をかしげ、
 
「いや……。どうして?」
 
「ううん、ちょっと」
 
 少年のことを話すのはためらわれた。多少なりともまともに聞いていたことになってしまう。馬鹿らしい。
 
「工場なんかがあるところじゃなかった。ちっちゃな家が軒を接して建ってて……。一つを取っちゃうと、みんなバタバタと倒れそうな、そんな感じの町だったな。区画整理をやって、そのあとにここが建ったんだ」
 
「そうなの。ありがとうございました」
 
「いや、どうも」
 
 翌日も彼女が三号室の包帯巻きを担当した。
 
「石鹸工場なんて、なかったってサ。ボイラーのおじさんが昔のことよく知ってるの。住宅街だったって」
 
 詰《なじ》るように告げた。
 
 まだ若い看護婦だから少年の嘘が許せない。
 
「そうだよ。僕も少し変だと思ってたんだ」
 
 浜少年は少しもひるまない。腕を看護婦に預けたまま、
 
「平屋っていうの? 一階しかなくて、二階がないやつ。小さな家がいくつも並んでいて……工場なんかがあるようなところじゃなかったもん」
 
 見て来たことのように説明する。眼ざしが遠くを見ている。
 
「そうよ。残念でした」
 
「でも石鹸の匂いがしたのは本当なんだ。ちょうど、この部屋のあたり。こっそり石鹸を作っていた家があったんだよ。四十年以上も前のことだろ。引き算をしてみれば、終戦直後じゃないか。物資のなかった頃だよ」
 
 看護婦は思わず顔をあげて、少年の表情を窺《うかが》った。
 
 入院患者の世話をしていれば、戦中戦後の苦しい時代の話をよく聞かされる。しかし、それはみんな老人たちの話だ。こんなに若い声で〓“物資のなかった頃〓”の話を聞かされたことはない。
 
「なんでもよく知ってるのね。だれに聞いたの」
 
「だから昔、この近くに住んでいたって言ったじゃないか」
 
「何町?」
 
「覚えていない。昔のことだから全部覚えているわけじゃないよ。少しだけ」
 
「へえー」
 
「それにそんなに近所じゃない、僕んちは。たまに遊びに来るくらい。ちいさい家が並んでいて、そのうちの一つでこっそり石鹸を作って闇《やみ》市《いち》で売ってたんだ。石鹸て、作るの、むつかしくないからね。脂さえあれば、だれでも作れる」
 
「この頃デパートへ行くと売っているらしいわよ。使い古しの天ぷら油で石鹸を作るセットが……」
 
「あ、本当。ここで石鹸を作っていたのは眼つきのわるい……もと兵隊さんだった男の人。痩《や》せていて頬《ほ》っぺたなんか、こんなにへこんでいたよ」
 
 と、指で頬をへこませる。
 
「そうなの」
 
 看護婦は適当な相《あい》槌《づち》を打った。
 
「奥さんがいて、もともと仲がわるかったんだ。喧《けん》嘩《か》になって、ガーンと突き飛ばしたら奥さんが机の角に頭をぶつけて死んでしまったんだよ」
 
 少年は手ぶりをまじえて真顔で話す。
 
「あら、あら、ひどいわね」
 
「すぐに病院に連れていけばよかったんだけど……もともと仲がわるかったから……」
 
 と言いよどむ。
 
「どうしたの?」
 
「石鹸の材料も足りなくなっていたし、奥さんは肥《ふと》っていたし……。脂肪がたくさんついてたから、石鹸にしちゃったんだ」
 
「はい、おしまい。あんた、小説家にでもなったらいいわ」
 
 この看護婦は肥っていたから、てっきり自分がからかわれたと思ったらしい。
 
「あの子、なによ」
 
 本気で怒りながらナース・センターへ戻って来た。
 
「どうしたの」
 
「今度は、女の人の脂肪で石鹸を作る話よ」
 
「ちょっと変態じゃないの」
 
「普通じゃないわね」
 
 たちまち同調者が声をあげる。
 
 肥満を気にしている看護婦は多い。勤務体制が不規則だから当節風の優雅なレジャーにはなじみにくい。ついつい食べることが最大の楽しみになってしまう。
 
 おおかみ少年の噂は全病棟に伝わり、あまりよい印象は持たれなかったろう。おおかみ少年などという、明らかに悪意を含んだ渾名が定着したのも、この出来事と無縁ではあるまい。直子だって、その前後にようやく、
 
 ——そんな子なの——
 
 と、少年の性向に気を止めるようになったのだから……。
 
 もちろん三号室に若い入院患者がいることは知っていた。
 
「あんまり変な話をしちゃ駄目よ。本気にする人もいるから」
 
 と、ベッドサイドの掃除をしながら少年に話しかけた。
 
「なんのこと?」
 
 たしかに十五歳のわりには大人びている。言葉つきも表情も……。真面目なのか、とぼけているのか、ちょっと正体のわからないところがある。
 
「石鹸工場の話」
 
「工場じゃないよ。普通の家。お風呂場で作ってたんだ」
 
「じゃあお風呂が使えないじゃない」
 
「近所にお風呂屋さんがあったからね。終戦直後は燃やすものがないから、自分の家に風呂場があっても駄目だったんだ」
 
「あら、そう。どうしてそんなことがわかるの」
 
 直子もほかの看護婦と同じように尋ねた。だれだって同じ質問をするにちがいない。
 
「僕、近所に住んでいたから。〓“あそこの家に行くと闇で石鹸が買えるぞ〓”って、みんなが言ってたもん」
 
「だって、あなたは十五歳でしょ。その頃、生きてるはず、ないじゃない」
 
 笑いながら明白な矛盾を指摘した。
 
「でも、知ってるんだ。知ってるものは仕方ないだろ」
 
「前世ってわけ? その頃生きていて、そのあと生まれ変ったってわけね」
 
「そうかもしれない。昔のこと、いろいろ覚えているもん」
 
「不思議な人なのね」
 
「うん」
 
 驚いたことに、石鹸作りの男の話が病院中に広まってボイラーマンの田宮老人のところまで届くと、
 
「ほう。よく知ってるねえ。そう言えば、そんなこと、あったなあ」
 
 と、老人が少年の話を肯定した。
 
「えっ、本当なの?」
 
 みんながただの作り話だと思っていたのに……。
 
「テレビもない頃だから、くわしいことは知らん。石鹸を作っていた男がいて、そいつが奥さんを殺したのは本当だ。死体が見つからなくて、脂身を取って石鹸にしたとかどうとか、いっときそんな話がよく言われてたな」
 
「どんな男だったの?」
 
「知らんなあ」
 
「本当にこのへんなの?」
 
「そうじゃなかったかなあ。町の形がすっかり変っちまったから、たしかなことは言えんけど」
 
 こうなると、あれは作り話ではなく、
 
「なにかで読んだのよ。子どもの雑誌なんかに、そういうこと、興味本位に書きたてているの、あるじゃない」
 
「そうよね。人間の脂で石鹸を作るなんて、子どもの頭じゃ考えられないわ」
 
「でも、あの子、眼つきがおかしいじゃない。あんたのヒップなんか見てると、いい石鹸になりそうだなんて、そう思っているんじゃない」
 
「ひどい! 私、この頃、少し体重減ってんのよ。ダイエットしてるんだから」
 
「効きめ、ないのとちがう」
 
 看護婦たちは「変な子ね」と言いながらも三号室の少年の話には耳を傾けていた。少年の作り話は、ナース・センターに持ち帰ってみんなに吹聴するには恰《かつ》好《こう》な話題だったから……。
 
 
 
「人はみんな生まれ変るものなんだよ」
 
 幼い頃、直子は母方の祖母から何度もそう教えられた。祖母と一緒に暮らしていたのは、せいぜい二年足らず。朝、起きると祖母がいつもお日様に手を合わせて拝んでいたこと、千代紙で箱を作り大きな箱から豆粒ほどの箱までいくつもいくつも重ねていたこと、小豆《あずき》を煮つめてあんこを作るのがとても上手だったこと……祖母についての記憶はけっして多くはないのだが、人が生まれ変るという話だけは奇妙なほど鮮明に直子の心に残っている。
 
 どちらかと言えば、とりとめのない話だった。
 
「なぜそれがわかるの?」
 
 そう聞きただしたら、なんの説明も得られないような、そんな頼りない話だった。子ども心にもそれはわかった。でも、
 
 ——おばあちゃんは信じている——
 
 それだけは充分に感じられた。
 
 理屈ではなく、祖母自身が強く、強く信じているという、その迫力が直子にも伝わり、けっしてないがしろにできない事実のように感じられた。
 
「死んだら、また生まれ変るの」
 
「そうだ」
 
「今度はだれになるの?」
 
「それはわからないの」
 
「直子が生まれる前も、どこかの人だったの?」
 
「そうだよ」
 
「どうして覚えてないの? そのときのことを」
 
「死ぬときにみんな忘れちまうんだよ。だけど、少しだけ思い出すときがあるの。この人、どこかで会ったなあとか、前にもここへ来たことあるわとか、少しだけわかるときがあるのよ。それがみんな前世で見たことなんだから」
 
「おばあちゃんも見た?」
 
「ああ、見たとも」
 
 たとえば前世で恋しあったまま結ばれなかった男と女。それがふたたび生まれ変って、この世でめぐりあったら……。
 
 ——一目惚《ぼ》れって、そういうことなのかもしれない——
 
 けっして信じてはいないが、ほんの少し信じていること……言葉で言い表わしてしまえば矛盾以外のなにものでもないのだが、直子は人間の生まれ変りについて、そんな判断を持っている。
 
 ——とりわけ今はそうなの——
 
 祖母の話を思い出したのは、自分の心に対する言い訳なのかもしれない。
 
 六カ月ほど前、直子は一人の男と知りあった。コーヒー・ショップの片すみで直子は友だちを待っていた。男がそばで電話をかけていた。三分間の通話時間が終ろうとしているのに、十円玉がない……。男の身ぶりからそれがわかった。
 
「どうぞ」
 
 手を伸ばして十円玉を男に渡した。
 
 男には直子の好意がすぐにわかったらしい。電話をかけながら頭を垂れる。
 
 ——この人、会ったことがある——
 
 一瞬そう思った。それだけではない。
 
 ——好きになりそう——
 
 その感情をどう説明していいかわからない。あとで何度も考えなおしたが、やっぱりわからなかった。その男に……初めて会った男に不思議な親しさを感じたのは本当だった。
 
 男は電話をかけ終え、
 
「ありがとう。助かりました。待ち合わせですか」
 
 と尋ねる。
 
「ええ。でも、来ないみたい」
 
 その友だちとは「三十分待って現われなかったら、今日は都合がわるいと思って」と、そんな約束だった。その三十分がちょうど過ぎるところだった。男も、
 
「僕もふられたらしい」
 
 と、直子のすぐ前にすわった。
 
 それがなれそめだった。
 
 どうしてあれほど簡単に親しくなったのかしら。相手の人柄も素《す》性《じよう》もよく知らないうちから胸騒ぎを覚えた。
 
 ——一目惚れ——
 
 ちがうわ。もう少し深い意味が隠されているような気がしてならない。祖母の言いぐさを思い出した。
 
 たとえば、前世で愛しあった二人。そこでは結ばれず、幾年月かを隔ててふたたびこの世でめぐりあった。けっして信じてはいないが、ほんの少し信じていること……。
 
 すぐに体の関係ができた。
 
 男はテレビ局のディレクター。とても華やかな世界。今までつきあったことのないタイプの男……。直子はすっかり心を奪われてしまった。
 
 そんなときに三号室の少年の噂を聞いて、直子は興味を覚えた。病室に死んだ女が現われる話、奥さんの脂肪で石鹸を作った男の話、そのほかにも飼い主とそっくりの顔をした秋田犬の話や階段の踊り場である夜突然ドアが開く話など、おおかみ少年と言うより妄想少年と言ったほうがいいのかもしれない。
 
 
 
「九時よ」
 
 と斎田がナース・センターの時計を見上げながら言う。
 
「じゃあ、私、行って来る」
 
 と直子が立ちあがった。
 
 病棟の消灯時間は九時である。夜勤の看護婦は各室をまわり各ベッドごとに様子を窺う。
 
「いかがですか。おやすみなさい」
 
 十八号室から十七号室、十七号室から十六号室へと逆順にまわった。九と四のつく部屋はない。数の大きいほうが大部屋である。
 
「すみません」
 
 細い声で呼ばれて苦情や訴えを聞く。完全看護がたてまえになっているけれど、病状によっては家族のつきそいを黙認している。病人にとっても、つきそい人にとっても、これから始まる長い夜はつらい。
 
 五号室まで来て直子は足音を忍ばせ、先に一号室と二号室を覗いた。最後に三号室のドアを開け、
 
「どう?」
 
 とベッドサイドまで歩み寄った。
 
「変りない」
 
 少年はスタンドの灯りをつけたまま、毛布の上に双眼鏡を置いている。ベッドは窓際に寄せてあるから双眼鏡で外を覗くのはやさしい。カーテンが細く開いている。
 
「なにを見てるの?」
 
「いろいろと」
 
「覗き? 厭あね」
 
「あそこの窓……。男の人が独りで住んでる。あんまりいい男じゃないんだ。毎晩女の人が来るんだけど、同じ女の人じゃない。今、来ているのは、若くて、きれいな人。着ている服もセンスがいいよ。男の人が自分でコーヒーなんかいれて、女の人のご機嫌をとっている」
 
 あい変らずませた口調で言う。
 
 直子も窓辺に寄ったが、遠くに無数の灯が散っているだけ。いくら双眼鏡で覗いてみても、むこうにはカーテンが降りているだろうし、磨《す》りガラスの窓もある。たとえ見えたとしても窓の大きさだけから見えるものなんてたかが知れている。
 
「さ、寝なさい」
 
 ベッドをポンと叩《たた》いて部屋を出た。
 
 だが少年の妄想はどんどんと脹《ふく》らむ。
 
 直子は次の夜も、そのまた次の夜も夜勤の夜まわりで遠い窓の物語を聞かされた。
 
「女の人は三人いる。きれいな人が二人と、あんまりきれいじゃない人が一人。きれいじゃない人は一生懸命男の人に好かれようとしているんだけど、男の人はあんまりその女の人のこと好きじゃないみたい。ほかにもっといい女がいるしね。適当に利用しているだけじゃないのかな」
 
 そんな話だった。
 
 そのうちに少年のギプスも取れて、退院の日が近づく。直子は午後組に勤務が変り、少年の包帯を巻く仕事がまわって来た。
 
「昨夜はすごかった」
 
 少年の顔に恐怖がこびりついている。
 
「どうしたの?」
 
「人殺しを見ちゃった」
 
「本当に?」
 
「うん」
 
 顎《あご》で双眼鏡を指す。
 
「それで見たの?」
 
「いつもの部屋だよ。女の人が……あんまりきれいじゃない女の人が、とうとう男の人を殺しちゃった。適当に遊ばれていたことがわかったんだね。一緒に寝ていて、じいーっと男の人の寝顔を見ていたと思ったら、突然メスを握ってサッと首のところを撫《な》でたんだ。血が噴き出して、窓がまっ赤になって、中が見えなくなっちゃった。今朝また見たら、もう窓はきれいに拭《ふ》いてある。中で男の人が倒れてる。死んでるね。まちがいない」
 
「どんな顔の女の人だった?」
 
 少年は眼をあげ、直子の顔をチラッと見た。眼ざしが、
 
 ——あなたに似ている——
 
 そう告げている。
 
「私に似ていたでしょう?」
 
 直子は先を越して、少年の眼を見つめながら言った。
 
 コーヒー・ショップで知りあった男は、ただの猟色家。テレビ局のディレクターをやっているのは本当らしいけれど、あまり評判のいい人ではないだろう。直子はわけもなく入れあげ、いっときは、
 
 ——きっと前世で約束しあった人——
 
 けっして信じてはいないけど、ほんの少し信じている夢を託してみたけれど、男にはほかにも親しい女がいる。直子よりずっときれいで、若くて、華やかで……。
 
 ——私はほんのつまみ食いをされただけ——
 
 それがわかった、男が憎い。ほかの女のことを考えると、嫉《しつ》妬《と》で気も狂いそう。
 
 ——殺してやりたい——
 
 外科病棟にはいつだって鋭利な刃物が並んでいる。どこを、どう切れば、どんな血が噴き出すか、直子たちはよく知っている。
 
 ——私は本当に殺すかもしれない——
 
 そう思ったのが、昨日のこと……。
 
 少年はゆっくりと、首を振った。
 
「ちがう。似てないよ」
 
 口調がぎこちない。表情が戸惑っている。
 
 ——嘘を言ってるのね——
 
 すでに包帯を巻き終えていた。
 
「どの窓」
 
 と直子は双眼鏡を取って外を眺めた。
 
「むこうのほうだよ。見えない?」
 
「わかんないわ」
 
「ちょっと貸してごらん」
 
 少年は双眼鏡を取り、顔に当てる。しきりに首をかしげながら、
 
「変だな。見えなくなっちゃった」
 
 嘘とは思えないほど狼《ろう》狽《ばい》している。
 
 ——本当に見たのかもしれない——
 
 ありうべき未来を……。
 
 だが……今はもう直子の殺意は消えてしまった。とすれば、少年の見たものも消えてしまうのかもしれない。けっして信じてはいないが、ほんの少し信じていること……。
 
「明日は退院でしょ」
 
 いつもと同じようにベッドのすそを叩いて部屋を出た。
 
 翌日、三号室を覗くと、もう少年は退院をしたあとだった。直子は両の掌をまるめて双眼鏡を作り、窓の外を眺めた。
 
 春が近づいている。
 
 ——すてきなこと、ないかしら——
 
 今度の誕生日が来れば三十歳になる。双眼鏡の方角を変えれば、故郷の母が見えるかもしれない。弟が元気で働いているかもしれない。

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