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心の旅路10
日期:2018-03-31 15:01  点击:345
 薄 闇
 
 
〈拝啓 秋もすっかり深まり朝夕に寒さを感ずる頃となりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。過日はすばらしい花器をお送りいただき、本当にありがとうございます。いつまでもお心にかけてくださって、なんとお礼を申しあげてよいのか……深く感謝いたしております。
 
 実は三カ月ほど前に鎌倉に住居を移しました。町はずれにポツンと立ったマンションの二階のすみです。ベランダに立つと鎌倉の自然がほんの少しうかがえるのがとりえです。ご連絡が遅れて申し訳ありません。お荷物も転送されてまいりました。これは備前なのでしょうか。とてもいい色あい。早速、野の花を生けてみようかと胸を弾ませております。
 
 ついでがありましたら、鎌倉まで足を伸ばしてみませんか。電話番号を記しておきます。
 
 とりあえず御礼まで
 
 静子〉  
 
 二枚の便箋に見覚えのある字が埋まっていた。
 
 オフィスの昼さがり。海野は一度読み終えてから周囲をうかがい、またゆっくりと読み返した。
 
 文中にある〓“花器〓”は、先月岡山に出張したときに送らせたもの。さほど高価な品ではない。ふらりと立ち寄ったみやげもの屋で、
 
 ——わりといいかな——
 
 鉄錆色の花器に目を留めたとたんに静子のことを思い出して買ってみる気になった。多分静子は気に入ってくれるだろう。お礼の手紙が来るのを心待ちにしていた。
 
 三カ月前と言えば、暑い盛り。静子の夫が急性肝炎であっけなく死んだのが、去年の十二月。四十九日の法要で静子に会ったのが最後だった。
 
 ——あのときには、なにも言っていなかったけれど——
 
 家を移すことについて、である。
 
 ——どうしたのかな——
 
 海野は思うともなく法要の日のことを思い出した。
 
 黒い衣裳の静子は、少し面やつれはしていたが、充分に美しかった。三十三歳……。まだ若い。
 
「これからどうする?」
 
「しばらくポカンとして……。まだ納得がいかないの」
 
「なにかあったら相談してくれ」
 
「ええ……」
 
 黙って引越したのは、少し心外である。
 
 故人は麻布の住宅街に五所帯分ほどの貸マンションを持っていた。あれを相続していれば、生活費に不足はないだろう。子どももいないことだし……。
 
 ——そう言えば、猫が一匹いたな——
 
 いずれにせよ一段落したところで静子も新しい人生を考えなければなるまいに。その第一歩が鎌倉へ引越したことなのだろうか。
 
 ——再婚をしたのかな——
 
 もしそうならば手紙にそう書くだろう。いくらなんでも早過ぎる。どう読み返しても、その方面で匂って来るものはない。
 
 型通りのお礼状……。〓“鎌倉まで足を伸ばしてみませんか〓”という文句も、この種の手紙によくあるものだが、この二行だけは、話し言葉のようで、親しみが感じられる。
 
 ——ただの儀礼ではないかもしれない——
 
 そんな気配がある。
 
 もともと静子とは親しい仲だった。夫をなくし、一人で、なじみのない土地に暮らしているのなら、きっとさびしいだろう。なにかしら決意があってやったことだろうが、さびしさは別問題だ。海野が訪ねてくれるのを待っているかもしれない。控えめな文章は、夫を失った女のたしなみのようなものと考えることができる。
 
 ——行ってみようか——
 
 静子の横顔が浮かんだ。まつげが長く、いつもうるんでいるような眼《まな》ざしだった。
 
 海野自身も三十四歳になる。ずっと独り暮らしを続けている。結婚の機会がなかったわけではない。何回かあった。一度は結納まで交わしたが、相手が顔面にヘルペスを患い、失明のおそれさえあるということで破談になった。その後あの人はどうなったか。
 
 ——わからないものだな——
 
 もしかしたら一生の伴侶となったかもしれない人でさえ、消息がわからなくなってしまう。結婚は厳粛な営みにはちがいないけれど、どこかにくじを引くような、茶番を演ずるような、いい加減さも含まれている。いつの頃からか海野は結婚についてあまり熱心には考えなくなっていた。
 
 ——その気になったときにすればいいさ——
 
 そんな気分である。
 
 だが、さらに深い心の奥底を覗いてみれば、若いときからずっと心に抱いて来た、静子に対する思慕のせいかもしれない。静子が一番好きな女だった。三十四歳まで生きて来て、そう言いきることができる。この先何十年か生きて、もっといい女にめぐりあうこともあるだろう。だが、そのときは海野のほうがどうなっているか。一生のスパンで考えてみても、静子は海野にとって一番と言っていいほどいとしい女なのではあるまいか。
 
 
 
 次の土曜日、十時過ぎに起きて鎌倉に向かった。会社は週休二日制をとっている。独り暮らしだからだれかに気がねをする必要もない。
 
 本来ならあらかじめ電話をかけてから訪ねるのが筋だろう。せっかく鎌倉まで行ってみても、留守ということもある。無駄足になるかもしれない。テレフォン・カードをさしこんでダイヤルをまわせば、それですむことだ。
 
 そうと承知のうえで横須賀線に乗り込んだのは、海野の心の中に、
 
 ——賭けてみようか——
 
 そんな気持ちがあったからだろう。
 
 どの道、やることのない土曜日だった。電話をかけて、
 
「ごめんなさい。今日は都合がわるいの」
 
 と静子に言われれば、それで楽しみが終わってしまう。
 
 電話をかけずに電車に乗れば、少なくとも鎌倉駅に着くまでは、楽しみが続く。想像の喜びがある。結果として無駄足になっても仕方がない。運がなかっただけだ。
 
 横須賀線のシートに腰をおろし、窓の外の景色を見た。電車が急にスピードをあげる。
 
 ——時間もこんなふうに飛んでいくんだな——
 
 初めて静子に会ったのは、大学四年生のときだった。静子は一年後輩の三年生。二人ともバドミントン・クラブの会員で、どちらもあまり熱心な会員ではなかったけれど、海野が科学史のノートを静子に借りたのが縁で親しくなった。
 
 仲間たちと一緒に何度か旅へ行った。二人だけで映画を見たり、野球を見たり、ドライブを楽しんだりしたこともある。
 
 ——好きだな——
 
 会うたびにそう思った。
 
 だが、海野は慎重居《こ》士《じ》のほうだ。気の弱いところもあるし、自尊心も強い。静子のことを好きだと思っていながらも、なかなかその気持ちをあらわにすることができない。思っている度合いの半分も態度に出せない。これは大学生のときだけではなく、その後もずっと……今日に至るまで続いている海野の悪い癖だろう。
 
 とりわけ若い頃はそうだった。
 
 ——第一、俺はそんなにたくさんの女を知っているわけじゃない——
 
 だから……たまたま知りあった静子が最良と思うのは確率的にみても正しくない。最良と考えるにしてはサンプルの総数が少なすぎる。おそらく男女の仲を円滑に進めるためには、こうした数学的な判断より、むこう見ずと言ってよいほどひたむきな情熱のほうがよほど効果があるだろうけれど……。
 
 静子に引かれながら、もう一つふんぎりのつかないところがあった。押しの弱いところがあった。
 
 静子のほうはと言えば、海野について、
 
 ——きらいじゃないけど、夢中になるほどには好きじゃない——
 
 そのくらいの感覚だったのではあるまいか。海野にも正確なところはわからない。
 
 というより、女は受け身の性なのだ。男に激しく愛されて初めて花が咲く。たくさんの愛を注がれて初めて自分も愛を滲み出す。注がれるものが少なければ、応えるものも少ない。すべての女がそうだとは言えないが、静子はきっとそうだろう。
 
 海野がそのことをわかるまでに、取り返しがつかないほど長い時間がかかった。残念ながらそう思うより仕方がない。ある日、挨拶状が届き、静子の姓が変わっていた。
 
 静子の夫の各務《かがみ》がどんな男か、海野はよく知っている部分と、まるで知らない部分とがある。
 
 よく知っているのは、静子が気を許して話してくれたから……。だが、直接その男と会って話したのは三、四回。海野より五つ年上。年齢もちがうし、あまり折りあえるタイプではなかった。おそらく海野とはかなり異質の人格だったのではあるまいか。
 
 ——静子はこんな人が好きなのか——
 
 意外に感じた。
 
 おそらく各務は、有能サラリーマンだったろう。必要とあれば、かなり強引なこともやりかねない。狙った獲物は逃がさない……。小鼻のふくらみに、そんな印象があった。
 
 狙われた獲物のほうの心理はどうだったのか。釈然としないものがあったのは、やはり嫉妬のせいなのだろうか。
 
 静子は美しいものが好きだった。花とか絵画とか……。薔《ば》薇《ら》園や美術館を訪ねた昔がなつかしい。
 
「主人は、そういうものにまるで興味がないのよね。仕事人間……。ワーカホリック、そう言うんでしょ」
 
 そんな新語がはやっている頃だった。
 
 多分各務はそういう人だろう。それを承知で、なぜ静子は一緒になったのか。
 
 わからないでもない。女はおおむね現実主義者だ。口先でなんと言おうと、生活の安定を保証してくれそうな男、サラリーマンならば将来役員くらいには手の届きそうな男、それが好きなのだ。趣味のよしあしだけで生きていくわけにはいかない。
 
 静子の夫は申し分のない学歴の持ち主。エリート・コースをがむしゃらに走っているらしいことは、静子の口ぶりから推察できた。
 
「男はやっぱり仕事じゃないのかな」
 
「海野さんも、そう?」
 
「俺は怠け者だから……。しかし、現実には仕事に支配されている部分は大きいよ。仕事にうちこめる人はうらやましい。男としてはいい人生じゃないのかな、そのほうが」
 
「それはわかるわね。なんでこんなに働くのかしらって思うときもあるけど、一心にうちこんでいる姿って、わるいもんじゃないでしょ」
 
「まあね。ただ、奥さんのほうはどうなのかな、それを見ているだけで……」
 
「そりゃ、さびしいわよ。今に子どもでもできればちがうんでしょうけど」
 
「さびしいときはどうするんだ」
 
「猫のリリがいるでしょ。かわいいわよ。おつむもわるくないし……。海野さん、猫と犬と、どっちが好き?」
 
「飼ったことないからなあ。どっちかって言えば、犬のほうがいいんじゃない。猫はずるそうだもん」
 
「よくそう言うわね。でも猫ってプライドがあるでしょ。貴族の血よ。特にうちのリリはそうなのね。自分を貴婦人だと思っているらしいの。気に入らないことは絶対にしないわ。〓“なに様だと思ってんの〓”って、腹が立つこともあるけど、結局は従わされちゃうの。姿もきれいだし……」
 
「ふーん」
 
 もしかしたら静子は従うことが好きなのかもしれない、と思った。夫に従い、猫に従い……そういう趣味の女もけっしてまれではない。そうだとすれば、なるほど海野は静子にふさわしくないわけだ。いつも海野のほうが従っていた。静子をあがめていた……。〓“あがめる〓”という言いかたは、大げさすぎるかもしれないけれど、静子を少し高い位置に置き騎士《ナイト》の役割を楽しんでいた。まったくの話、男女の関係は、これが女にとってよいとは限らない。
 
「猫って、本当にきれいよ」
 
「なに猫?」
 
「シャム猫。日本猫もいいけど、シャム猫のほうが、もっと気位が高いわ」
 
「そうかもしれん」
 
 むこうは人妻なのだから、そう繁く会っていたわけではない。年に一度か二度。二人だけで会ったのは、数えるほどしかない。
 
 きまって猫の話が出た。
 
 ときには夫の自慢話が……サラリーマンとして有能であることをほのめかすような話が混ざることもあったが、そんなときには静子の口調にあきらめのような気配がなくもなかった。
 
 おそらく静子の心は、二つの価値観のあいだを振子のように揺れていたのだろう。仕事のできる人だけど、私はさびしいわ。私はさびしいけれど、仕事のできる人なのよ……。
 
 同じことを言っても、日本語ではあとに来るもののほうが重い響きを持つ。糸は大阪のものですけれど、京都で織らせてます。京都で織らせてますけど、糸は大阪のものです。相手が京都の人か大阪の人か、それによって商人は微妙に使いわけるのだとか……。静子の心はどうだったのか。さびしさをあとに置くか、夫の有能さをあとに置くか。
 
 一度だけ静子のマンションを訪ねたことがあった。たしかに猫が君臨していた。
 
「ご主人は平気なの?」
 
「なにが」
 
「猫」
 
「うちにいるときは、あの人、たいてい寝てるから。私があんまり猫に夢中になっていると〓“えへん〓”なんて咳払いをするのね。わざとらしく。そのときだけ〓“はい、はい〓”って従えばいいの、ご主人様には」
 
 静子は首をすくめるようにして笑った。満足感のない笑顔ではなかった。
 
 猫を溺愛するのは、おそらく夫との生活に満たされないものがあるからだろう。だが、そのへんでバランスがとれるものなら、それも夫婦のありかたではないか。つまり、静子はそれなりに夫を愛している。夫との生活をかけがえのないものだと思っている。欠けてる部分を猫でおぎない、夫婦の屋台骨が崩れないようにしている。それが海野の解釈だった。
 
 静子に会うたびに、
 
 ——俺はやっぱりこの人が好きだな——
 
 とは思ったが、相手が人妻である以上どうしようもない。掟《おきて》を犯すほどの度胸もないし情熱もない。静子が好きなのは本当だが、広い世間には同じくらい好きになれる女がきっといるだろう。それを待てばいい。そんな気分のまま三十代のなかばまで来てしまった。
 
 各務の死は突然だった。
 
 ——こんなこともあるのかなあ——
 
 頭の片すみでそんな事態を漠然と想像したことがないでもなかったが、もとよりそれは海野の本意ではなかった。
 
 静子の悲嘆は疑いようもない。当然のことだ。嘆かないほうがおかしい。
 
 ——ただ……その嘆きがどれほどの深さなのか——
 
 海野の立場としては、それを考えずにはいられない。静子を観察せずにはいられない。
 
 葬儀のときも、四十九日の法要のときも静子は深く沈みきっていた。笑顔までが悲しかった。
 
 とはいえ静子の真情を表情で判断するのはむつかしい。
 
 ——今、現在、悲しみの中にあるのは、まちがいない——
 
 そうであるなら、この上ない悲しみを演技することくらい、だれにでもできるだろう。中ぐらいの悲しさを最大の悲しさに見せるくらい……。
 
 ——もうしばらくたってから——
 
 数カ月待って備前焼の花器を送ったのは……海野のそんな気持ちの現われだった。
 
 
 
 窓越しに大《おお》船《ふな》観音の白い顔を見たのは覚えている。
 
 そのすぐあとにまどろんだのだろう。
 
 静子の夢を見た。
 
 暗い部屋の中に静子が寝ている。その隣に海野自身が寝ている。もう一人、静子のむこう側に男が背を向けて寝ているが、静子の夫らしい。
 
「日本人は髪の毛が黒いでしょう。だからいけないのね」
 
 静子は眼を伏せて笑っている。なにか大変みだらなことを話しているらしい。
 
「なにが?」
 
「わかるでしょう」
 
 言われてみると、わかるような気がした。黒い毛髪なら白い肌の上ではっきりと映る。だからいけないのだろう。
 
「いけないらしいよ」
 
「そうよ」
 
 そう言いながらも静子は上がけを剥ぐ。スポットライトを当てたように静子の白い体が鮮明に浮かんだ。
 
 とりわけ下腹のあたりが蝋《ろう》のように滑らかに白い。毛髪が床屋から帰ったばかりの頭みたいに生え際をくっきりとさせ、黒く生い繁っている。
 
 なるほど、こんなにはっきり見えてしまっては警察も黙っているわけにはいかないだろう。
 
「いいのかい?」
 
「いいのよ。主人はもう警察をやめたわ」
 
「警官なのか」
 
「そうよ」
 
 指先で毛髪をいとおしむように撫でながら呟く。
 
 ——それはちがうな——
 
 警察をやめたとしても、夫であることに変わりはない。
 
 でも、せっかく静子が言うのだからさからうこともないだろう。
 
「ああ、そうだったね」
 
 と頷いた。
 
「猫もいるし」
 
「うん?」
 
「猫ってよく眠るでしょ。だから、そばに寝ていると、それが伝染するの。猫が眠っているうちは安心よ」
 
 耳を澄ますと、猫のいびきが聞こえる。細く、せわしない息遣いは猫のいびきにちがいない。
 
 手を伸ばし、指先を静子の黒い繁みの中に忍ばせた。
 
 肉が溶けているような潤いが指先を包む。
 
 ——よかった——
 
 女体の反応は正直だ。これだけ潤っているのは、静子が抱かれたいと願っている証拠だろう。
 
 体を並べているだけなのに、海野の中に快感がはっきりと感じられる。体を交えなくても、こんなことができるなんて……初めて知った。
 
 ——二人が愛しあっているからだ——
 
 愛が足りないうちは、体を重ねなければ快感は得られない。愛がふんだんにあれば、並んで天井を見ているだけでクライマックスにまで到達することができる。
 
 ——そうだったのか——
 
 歓喜がこみあげて来る。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
 
 ——待てよ——
 
 世間の人も案外こんな単純なことを知らないのではあるまいか。
 
 ——本を書こうかな。ベストセラーになるぞ、これは——
 
 五年に一回くらいセックスに関して新しい本が出版される。なにかしら新しい考えが含まれている。話題になり、ベストセラーになる。これからは心の時代だ。露骨なセックスものより〓“体を交えないセックス〓”このほうが受けるにちがいない。
 
 ——静子は厭がるかもしれないな——
 
 二人だけの秘密にしておくべきことだろう。
 
 急に猫のいびきが途絶えた。
 
 ——いかん——
 
 いくら並んでいるだけでも二人とも全裸でいるのだから……。
 
「いいのよ、もう死んでしまったから」
 
 気がつくと、静子の二本の白い足の下に、もう一本青味を帯びた足があった。ひどく冷たい。石のように堅い……。
 
 ——ろくなことはないぞ、早く眼をさまそう——
 
 眼をさますと、電車はスピードを落とし、北鎌倉の駅が近づいてきた。
 
 ——髪の黒い人だったな——
 
 静子のことである。とりわけこめかみのあたりは静脈が青く浮きだすように白く、生え際がくっきりしているのが特徴だった。
 
 鎌倉駅で降りて電話をかけた。静子は家にいた。
 
「あら、どうしたの、急に」
 
「うん。大船までちょっと用があって……このあいだの手紙、ありがとう。会いたいな」
 
「これから?」
 
「まずい?」
 
「用はおすみになったの」
 
「うん」
 
「あらかじめ言ってくださればよかったのに……。大船からでも」
 
「短い時間でもいいから、会いたい」
 
 腕時計を見ると一時を少しまわっている。
 
「夜、用があるんだけど……いいわ。少し待ってくださいます?」
 
「いいよ」
 
「じゃあ、二時に」
 
 静子は八幡宮へ行く角に近い喫茶店を指定した。
 
 
 
「病状がひどいとわかったのは、いつ頃だったの?」
 
「三カ月くらい前かしら。調子はわるかったらしいの。顔色もひどかったし……。でも、私が言ったくらいで従う人じゃないし。病院で精密検査を受けたときは、もう目茶苦茶だったわ」
 
「肝炎だろ」
 
「もっとひどい病気よ」
 
「ああ……なるほど」
 
 喫茶店でコーヒーをすすりながら、くわしい事情を静子自身の口から聞いた。
 
「少し歩きましょうか。いい季節よ」
 
「うん」
 
「山が近いの。結構早く夕暮れがやって来るのよ、かけ足で……」
 
 十分ほどバスに乗った。降りたのは十二所神社という停留所ではなかったか。そこからどこをどう歩いたか。下り坂が多かったのを覚えているが、道筋はつまびらかではない。
 
 光触寺、明王院、たしかそんな名の寺があった。名勝を訪ねるのが目的ではない。海野はさほど寺院の探訪に興味を持たない。知識のない者が眺めてみても、なにもわかりゃしない。「今日はどこそこへ行ったの」と自己満足を上塗りするだけだ。
 
 静子とそぞろ歩きができればそれでよかった。
 
 観光客の少ない季節なのだろうか。それとも静子は人通りの少ない道を選んだのだろうか。どこへ行っても人の姿が少ない。ひっそりとした晩秋の風情は、この日の二人の気分によくあっていた。少なくとも海野にはそうだった。
 
「くわしいんだね、鎌倉」
 
「昔、いたことがあるの」
 
「へえー、知らなかった」
 
「ずいぶん変わったわ」
 
 落ち葉の道を踏む。褐色の中にところどころ黄と赤の色がある。
 
「どうして鎌倉なんかに引越したんだ」
 
「深い理由はないの。少し環境を変えてみたかったから。東京をまるっきり離れるわけにもいかないし」
 
「猫だけ? 一緒にいるのは」
 
「リリも死んだわ。話さなかったかしら」
 
「そりゃ……。知らなかった。ずいぶんかわいがっていたのに。病気?」
 
「ええ……」
 
「また新しいのを飼えばいい」
 
 そして、また新しい結婚をしたらいいのではなかろうか。海野は静子の横顔をそっとうかがった。
 
 あい変わらず美しい。ひたひたと胸に迫って来るものがある。眼を正面に向けたまま手を握った。静子も抗わない。
 
「あんなかわいい猫、もういないんじゃないかしら。普段は気位が高かったのに、最後はすっかり私を頼りきって……膝の上で死んだわ」
 
「そう……」
 
 べつな猫を飼えばそれでいいというものではないらしい。
 
「これからどうする?」
 
「夜、ちょっと予定があって……。ごめんなさい、急だったから」
 
「いや、そうじゃない。今後のあなたの生活設計のことだけど」
 
「そうねえ……」
 
 静子は片方の手で褐色の木の実を枝からつまみ取り、水音の響く方角へ投げた。川が迫っているらしい。
 
「しあわせだった?」
 
 遠まわしに夫との生活を尋ねた。
 
「ええ。わるい人じゃなかったわ。仕事ばっかりで……。生き急いでいたのかしら。でもね、節目節目にいろんな思い出が残っているの。しばらくは忘れられそうもないわ。ときどきふっと感ずるの、すぐそばにいるみたいで」
 
「でも、忘れなくちゃいけないよ。あなたはまだ若いんだし」
 
 橋を渡った。
 
「あ、きれい」
 
 静子が手を振り切って、小走りに坂を登る。周囲を圧倒するほど赤く染まったかえでの株があった。静子は、その葉をつまみ、それからふり返って、
 
「海野さんは、どうして独りなの」
 
 と聞く。
 
 海野も追いついて肩を並べた。かえでの葉と一緒に指を取った。
 
「あなたを待っていたのかもしれない」
 
 言ってしまえば、簡単に言えることではないか。
 
「そう」
 
 静子はさほど驚いた様子もない。
 
「ずっと昔から好きだった。わかってると思うけど……。すぐにとは言わない。気持ちの整理がつくまで待つ」
 
 いっきに告げた。
 
 ——この先、なにを言えばいいのだろうか——
 
 暗い道に入った。起伏の多い丘陵が伸び、繁みは思いのほか深い。ほとんど風もないのに枯木立ちがわくら葉を落としている。
 
「うれしいけど、なんだか……」
 
「なんだか?」
 
 次の言葉を待った。静子は首を垂れたまま歩く。
 
「シャカンドって言うのよ、このへん」
 
 そっぽうの答が返って来た。
 
「ああ、そう」
 
「釈迦堂が正しいんだけど」
 
「うん」
 
 行く手は、さらに暗い切り通しになっている。もう日は沈んだのだろうか。夕闇がひた走りに近づいて来るようだ。
 
「結婚しよう」
 
「待って」
 
 静子が唇に人差指を当て、身ぶりで黙ってと言う。静子の視線がなにかを捜すようにまわりの薄闇を見た。
 
 戦慄が走る。
 
「リリちゃん、来たの?」
 
 その声に答えるように、たしかに細く猫の鳴く声が聞こえた。方角はわからない。薄闇そのものの中から、あるかなしかの弱い気配で、
 
「ニャー」
 
 と聞こえた。
 
「リリちゃん、来てるのね」
 
 静子の表情が高ぶっている。ついさっきまでの静子ではない……。
 
 ——本当にそう思っているらしい——
 
 眼ざしの中に、かすかに尋常ではないものがうかがえる。
 
 だが、次の瞬間の恐怖のほうが、もっと激しかった。
 
 たしかに海野も聞いた。聞いたというより静子の表情の中に、その声を見たのかもしれない。静子がリリにばかり夢中になっていると、夫は、わざとらしく咳払いをするのだとか……。
 
「えへん」
 
 男の咳払いが聞こえた。たしかに……だれもいない闇の底から。
 
 静子が眼をあげ、海野の顔を見つめながらゆっくりと呟いた。視線は遠いものを捜している。
 
「駄目みたい、しばらくは」
 
 それが静子の答だった。

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