湯
金曜日の夜、森崎は酔っぱらって終電に近い電車に駈け込み、そのまま眠りこけてしまった。駅員に起こされてみれば、終点の青梅《おうめ》に着いている。今からはもう杉並の家へは戻れない。これまでにも経験のないことではなかった。
——明日は休みだから——
駅近くの簡易旅館に一泊し、朝早く目をさましてみれば、
——明後日は親父の命日か——
父の墓は奥多摩にある。青梅からは十五キロほど先の駅だ。ここしばらく行っていない。昨夜、この宿に泊まったこと自体が父の招きなのかもしれない。
——墓参りでもして帰るか——
朝食もとらずに下り電車に乗り、奥多摩の駅に着いた。
少し寒い。駅前にうどんを食べさせる店がある。味はあまり期待できないが、なにかしら腹に詰めておいたほうがよいだろう。
カウンターのすみに立って、
「天ぷらうどん」
と頼めば、
「はい」
すぐに干海老と玉ねぎのかきあげを載せたうどんが出て来る。代金を支払い、割り箸を割った。
そのときである。
店のドアが開き、新しい客が入って来た。コートの襟を立て、
「天ぷらうどん」
と告げて、森崎のとなりに立つ。森崎はその横顔を見て、
「やあ。なんで?」
と声をかけた。
高校で一緒だった田辺である。半年ほど前の同級会で久しぶりに顔をあわせ、話してみれば勤務先が近い。昼めしを食べる店や、会社の帰りにちょっと一ぱいを飲む縄のれんにも共通のところがある。事実、つい先日も一ぱい飲み屋で顔をあわせて、
「そのうち、飲もう」
「ああ、いいよ」
と、約束したばかりである。
学生の頃には、そこそこに親しい間柄だった。五十歳が近づくと、昔の仲間がなつかしくなる。
「よおっ、どうして?」
田辺も不思議そうに森崎の顔を見て、それから服装を眺める。森崎は……会社の帰りだから背広にネクタイ。ゴルフへ行く姿でもないし、山登りでもない。田辺のほうは、スポーツ・シャツにジャンパー、スニーカーを履いて、これはこのあたりの散策にふさわしい。
「あははは。しまらない話なんだよ」
と、森崎のほうが先に事情を説明した。
「なるほど。墓参りか。俺なんざ何年もやっていないな」
「朝がた寒くて、おかげでとんだ早起きをしてしまった」
「朝早いのはいいんだろ」
「なにが」
「墓参り」
「へえー」
「夜になると墓は死者たちの世界になる。日が暮れかかったら、もう墓の付近へ入っちゃいかん。そのかわり朝早いのは、いくら早くても、かまわない」
「変なこと知ってるな」
「常識だろ」
「あんたこそ、なんで?」
と今度は森崎のほうが、相手がこんな時刻にこんなところでうどんをすすっている理由を尋ねた。たしか田辺は信《しな》濃《の》町《まち》に住んでいて、もちろん妻も子もある。
「うん? 俺か。女房は海外旅行で、子どもは合宿だ」
「それで?」
ここ数日、一人暮らしという情況に陥ったのだろう。しかし、それだけでは答にならない。
田辺はちょっと眉をしかめ、
「あんた、小早川を知ってるだろ」
と尋ねる。
「一年後輩の?」
「うん」
その名前に記憶はあった。高校の一年後輩の男で、田辺と組んで卓球のダブルスをやっていた。たしか二人は東京都の大会で準優勝をしたはずだ。
「あいつがうちの会社の関連会社に勤めていてサ、ずーっとつきあいが続いているんだ」
「今でもやってんの?」
と、ピンポンをやる手つきを示した。
「いや、もうやらん。たまに会って、酒飲んで、カラオケ歌って……」
「うん」
「あいつが蒸発しちまって」
「蒸発? はでなこと、やるなあ」
「はでってほどのことじゃないけど‥…フッといなくなった」
「いつから?」
「まだせいぜい一週間。俺、奥さんも知ってるものだから……。奥さんが言うには会社の仕事とは関係がないらしい。先週の金曜日の朝、下り電車に乗るのを近所の奥さんが見ている。〓“変だな〓”と思ったそうだ。会社と反対の方角だから。会社にはその朝〓“風邪を引いたんで休む〓”と当人が連絡を入れているし、三日前には、奥さん宛に葉書が届いて、〓“もう二、三日休むけど、会社には病気だと言っておいてくれ〓”って、はっきりしないことが書いてある。消印が奥多摩町の郵便局なんだ」
「わからない話だな」
「ああ。いなくなる二日前に、俺、会っているんだ」
「当人に?」
「そう。待ちあわせの場所へ行ったら、やっこさん、奥多摩町の地図を広げて熱心に見てた。地図に赤線が引いてある。奥多摩駅からの道を指で計って〓“これ、何キロ、あるかな〓”って言うから、俺も一緒に地図をのぞき込んで〓“三キロくらいじゃないのか〓”って、そんな返事をしたんだ。いつも通り酒を一緒に飲んで、一、二曲歌って別れたんだけど、奥さんに相談されてピーンと来たな」
「なんか言ってたわけ、彼?」
「サラリーマンが厭になった、とは言ってたな。しかし、やっこさん、よくそんなこと言ってたし、わりとサラリーマンはそういうことぐちるだろ」
「まあな」
「そのときはたいして気にもかけなかったけど、あとで思い出してみると、〓“朝、急に会社とは反対方向の電車に乗りたくなるんだ〓”なんて、そんなことも言ってた」
「ふーん」
「それに、地図を見ていたとき〓“この先に東京の人がほとんど知らない、すてきな温泉があるらしい〓”なんて、いかにも行ってみたそうな様子で話してたんだ」
「そりゃ、そこへ行ったな」
「だろ? 奥さんに相談されてピーンと来たわけよ。奥さんにしてみれば、葉書はもらったけど、要領をえない。胸騒ぎを覚える。さりとて会社の人に相談するのもはばかられるし、俺が直前に会っていることを思い出して相談に来たわけだ。それが昨日」
「会社は何日休んでるんだ」
「えーと、先週の金曜日から始まって、あと連休が入っているから……五日間か」
「風邪だけじゃぼつぼつまずいな」
「奥さんもそれを心配してね。しかし、俺としちゃ確実に奥多摩の温泉へ行ったとも言えないし、変に気を持たせて、あとでガッカリさせたらわるいだろ。自信はないけど心当たりをあたってみますって……」
「賢明だよ。それで今朝、早速行動を起こしたってわけか」
「そう。ちょうど女房も子どももいないし、朝、目がさめちまったから、そのまんま飛び出して来た」
「で、行方は見当がつくのか」
「同じ地図を見つけたからな」
と、鞄の中から地図を引き出す。
田辺は、夫人から相談を受けたあと、書店へ行って小早川が持っていたのと同じ地図を捜したのだろう。一度見ているのだから、同じ地図を見れば、小早川がつけた赤い線も思い出せる。
田辺の持っている地図にも赤い線が引いてあった。
「それが道筋か」
「そう。先のほうはちょっと自信がないけれど、このへんに温泉がそうたくさんあるとは思えない。地図にはなにも書いてないし、付近にいって、あまり知られてない温泉て聞けばわかるんじゃないのか」
「旅館だって、そうたくさんはないよな」
「多分な。で、どうかね。見つかると思うか。あんた、推理小説が好きだろ」
「あははは。わからんよ。しかし、相当にくさいな。まあ、行ってみろよ」
「賭けるか」
「いいよ。あんたはどっちに賭けるんだ」
「あんたが選べ」
「俺は、いるほうに賭ける」
「俺は、いないほうに賭ける」
「わざわざ捜しに行くのに、いないほうに賭けるのか」
「そういう心理って、あるだろ。小早川がいれば万々歳だし、いなけりゃ儲かる」
「株のヘッジ買いみたいなもんだな」
「で、いくら」
「一万円」
「よし」
すでにうどんを食べ終っていた。店を出て吊り橋のところまでゆっくりと歩いた。通学の時刻らしく学生たちの群が目立つ。
「遠いな、やっぱり、奥多摩は」
「山の中だもん」
「今夜、新宿で人に会うんで、早く出て来たんだが……簡単に見つかるといいんだがな」
「帰りに奥多摩で四時に乗れば、六時頃には都心に行けるんじゃないのか」
「さて、この地図で行くと……」
と、田辺はもう一度地図を開いた。
「少し行って右の道に入るんじゃないのか」
「そうらしい。あんたは?」
「俺は駅のすぐそばだ」
「じゃあ、ここで」
「うん。頑張って」
「一万円はあんたのものだな。きっと」
「わからん」
吊り橋を渡ったところで手を振って別れた。うしろ姿が繁みの中へ消えて行く。
森崎は川岸を少し歩き、駅のほうへ戻った。
花屋が開いているのを見つけて花を買う。
お寺の門をくぐり抜け、母屋の裏口をのぞいて、
「あのう、森崎です。お線香をいただけましょうか」
「はーい」
高校生くらいの男の子が顔を出す。
「ご無沙汰しております。和尚さんは?」
「今日は早くから出てます」
「あ、そう。お母様は?」
「一緒に」
「よろしくお伝えください」
「はい」
滅多に来ない墓参りだから、和尚とは顔をあわさないほうが気が楽だ。線香を受け取り、
「お代は?」
「三百円です」
「じゃあ、これを」
と千円を渡し、線香とマッチを受け取る。
「どうもすみません。桶、わかりますか」
「ええ。いつものところでしょ」
「はい」
「どうぞ、おかまいなく」
墓の入口に小屋があり、紋所のついた水桶が並べてある。古びた五つ菱を捜し出し、水を入れて墓に向かった。
墓は最近掃除をしたらしく、きれいに片づいている。線香をあげ、手をあわせた。
たったそれだけのこと……。
ここに来るまでの時間の長さに比べれば、用事そのものに必要な時間は極端に短い。
空が青い。空気がうまい。ブラブラと歩き、森崎が奥多摩の駅へ戻ったのは、十時少し前だった。電車の出発まで少し待たなければならなかった。
——家に帰ってもどうせ一人なんだし——
吉祥寺で降りて二本立ての映画を見る。それからパチンコ屋へ立ち寄り、散財のあとビール一本、お銚子二本、軽い食事をして家へ帰った。
テレビで映画を見て、
——今日は映画漬けだなあ——
やっぱり一人暮らしというのは退屈なものである。よほど楽しい趣味でも持たないと時間を持てあましてしまうだろう。
視界が暗い。少しずつ明るくなる。
映画館かと思って入ったが、どうもそうではないらしい。何列もの客席があって、奥のほうに舞台がある。
黒い燕尾服の男が口上を述べている。
——そうか、昔、親父と行ったんだ——
それを思い出したとたん、父親がとなりの席に腰かけている。
——死んだはずなのに……困ったな——
もう墓まで作ってしまった。
森崎はひどく狼狽を覚えたが、
——夢だな——
と、気がついた。
夢ならば安心だ。怖いことが起こりそうな予感がするけれど、そのときは眼をさませばよい。
父親の顔を見ると、父は顎をしゃくって、
「前を見ろ」
と言う。
舞台の上にまっ赤なドレスを着た女が現われる。透明なバス・タブが運ばれて来る。アシスタントが同じように透明なバケツでお湯を運んで来て、バス・タブに注ぎ込む。
女はとても美しい。音楽にあわせてクネクネと踊っている。
バス・タブがお湯でいっぱいになると燕尾服の男が湯加減を確かめ、女を横抱えにしてゆっくりとお湯の中へ沈めた。透明なバス・タブが赤く染まる。
男が赤いスカーフを取り出して、女の頭をくるむ。
女の体はさらに沈んで頭までがお湯の中へ潜ってしまう。燕尾服が不思議な仕草でまじないをかける。
一分、二分、三分……。
——大変だ。息がつまってしまうぞ——
眼を凝らして見ていると、それどころではない。もっと大変なことが起きているらしい。
バス・タブの中のお湯の様子がおかしい。赤い女が溶けている……。お湯の中に赤の色がくまなく広がり、色もどんどん濃くなる。
舞台にはもう一つ透明なバス・タブが置いてあった。こっちは空のままである。
燕尾服の男が赤いお湯を透明なバケツですくい、空のバス・タブに流し込む。
一ぱい、二はい、三ばい……。
女はお湯に溶けてしまったらしい。
赤いお湯をすっかりすくいあげてしまっても、女は現われない。
燕尾服は青い液を入れたビーカーを取って眼の高さにかかげ、
「えいっ」
声もろともに赤いお湯の中へ注ぐ。
一瞬、赤いお湯が青いお湯に変った。
呪文をかけ、もう一度、
「えいっ」
青いお湯がザワザワとゆらめき、中から青い眼の女が立ちあがる。女はバス・タブから出て、濡れた衣裳のまま音楽にあわせてクネクネと踊りだす。
乳房の形がはっきりと見える。下腹のあたりの曲線も……。
ベルが聞こえる。
終演を伝えるベルだろうか。ルン、ルンと鳴っている。
眼をさました。
電話のベル……。
急いで布団から這い出し、リビングルームに駈け込んだが、そこで音が消えた。
カーテンのすきまから朝の光がさし込んでいる。
九時十八分。
——よく眠った——
椅子に腰をおろしてトントンと頭を叩いた。
——ヘンテコな夢だったな——
たしかに昔、父親と一緒に奇術を見に行ったことがある。箱の中に入れた女が消えてしまう奇術だった。その女が客席のうしろから現われるという趣向だった。
バス・タブの中でお湯が湯気をあげていたのは……もしかしたら、
——昨日の朝、田辺に会ったせいかな——
田辺は、蒸発した後輩を捜しに行った。後輩は鄙びた温泉に浸っているらしい。
——そのまま溶けてしまったのではあるまいか——
と、森崎の頭が勝手なイメージを描いて、それが夢に現われた……そんな気がする。
——賭けはどうなったかなあ——
それを考えたとき、まるで答が走って来るように電話のベルが鳴った。
今度はすぐに受話器を取る。
「もし、もし、森崎です」
「あ、森崎? 俺だよ、田辺だ」
「昨日はどうも」
「起きてた?」
「今しがただ。で、どうだった?」
「あんたの勝ちだよ」
と、電話のむこうで笑っている。
「いたのか」
「いた、いた、まだ会ってはいないけど、まちがいない」
「ほう?」
「こんなとこに温泉があるのかなあって、信じられないほど小さな温泉だぜ。ひっそりと湧いてんだけど、一応、前の湯と奥の湯とがあるんだ」
「前の湯と奥の湯?」
「そう。山の奥のほうに一つ温泉があって、それが地下を流れて前の湯のほうへ来ている。俺は昨夜、前の湯のほうに泊まったんだけど、小早川は奥の湯のほうへ行ってる。山道だから、昨日は行けなかった。これから出かけるとこよ」
「ああ、そうか。一人で?」
「いや、案内の女性と」
「女性?」
「うらやましいだろ」
声が弾んでいる。
「うーん。俺も行くかなあ」
「まったくここは穴場だよ。ほとんど知られていない。だれもいないもん」
「お客が?」
「うん。見かけないね」
「地図の通りだったのか」
「最後のところで迷った。あきらめかけたんだけど、ちょうど女の人が通りかかって」
「ふん、ふん」
「案内してもらったんだ。運よく宿の人だったから」
「お楽しみだな」
運よく出あった女の人がなかなかの美人で……その人が今日奥の湯まで案内してくれるのではあるまいか。電話の声から察して森崎はそんな事情を想像した。
「いや、いや。とにかく賭けはあんたの勝ちだよ。小早川に会って、どういうつもりで家に帰らないのか、一仕事残っているからな」
「上首尾を期待してるよ」
「いずれまた連絡する。寝ているところを起こしてすまなかった」
「もういい加減起きてもいい時間だ。じゃあ、いずれ」
電話を切った。
——新宿に大切な用があるような話だったけど——
たしか田辺は昨日の夕刻、新宿で会うべき人がいて、都心に帰り着く時間のことをしきりに気にかけていた。朝早くに奥多摩まで行ったのもそのせいだった。
しかし、尋ね人が奥の湯にいるとわかれば、それを確かめずに帰って来るわけにもいくまい。再度捜しに行くのは、余計な手間がかかる。もたもたしていると、逃げられるかもしれない。新宿で会う人のほうを延期してもらえばよい。たいていの人が、そんな方法を採るのではあるまいか。
——いずれにせよ、俺には関係のないことだ——
それよりも……薄笑いが浮かぶ。
——一万円儲けたわけか——
冗談半分ではあったけれど、田辺はきっと、
「はい、これ、あんたの勝ちだぞ」
と、一万円札をさし出すだろう。そういうことに関しては、とても律義な男である。
「いいのか」
「いいもわるいもない。賭けだもの」
「じゃあ、これで飲もう」
「それがいい」
そんな会話が思い浮かぶ。焼き鳥屋あたりへ行って、あとはカラオケかな。となると一万円では足が出る。
——さて、今日はどうするかな——
今日もまたよい秋日和だ。
紅葉の山でも仰ぎながら露天風呂にでも浸っていたら、さぞかしよい気分にちがいあるまい。
「こちとらはゴルフの練習にでも行くとするか」
森崎はひとりごちてから立ちあがり、インスタント・コーヒーを沸かし、トーストを焼いた。
田辺からはなんの連絡もなかった。
——あの一万円、どうなったかな——
正直なところ、森崎はほとんど思い出しもしなかった。
いずれ田辺からは連絡が来るだろう。ここ数日のうちにデスクの電話が鳴り、
「よう、時間ない? 飲まないかね」
と田辺の声が聞こえることを漠然と想像していた。
小早川という男の蒸発についても、
——なんで蒸発なんかしたのかな——
そう思わないでもなかったが、さして親しい友人でもない。親身になって考えるほどの事件ではなかった。
そのうちに三週間ほどが過ぎ、
——どうしてるかな——
森崎のほうから田辺の会社へ電話を入れてみると、
「田辺は休んでおります」
という返事である。
一日おいてまたかけると、
「田辺は休んでおります」
と、同じ返事が聞こえて来る。
「ご病気ですか」
「ええ……まあ」
と、煮えきらない。
不審に思い自宅のほうへかけてみれば、奥さんが電話口に出て来て、
「旅に出てるんですの」
「ほう? いつお帰りですか」
「もう二、三日……」
こちらもはっきりしない。なおも事情を尋ねてみれば、
「急にいなくなってしまって……」
すでに警察へも捜索願いを提出してあるという話である。
「本当ですか」
「はい。なにかお心あたり、ございませんかしら」
と問いかける。声が真剣味を帯びている。
はじめは夫の失踪を隠していたが、もしかしたら手がかりが得られるのではあるまいかと、奥さんの心境が変ったせいだろう。
「いついなくなったんですか」
「それが……私、海外旅行に出てまして。子どもの話では、今月はじめの日曜日、合宿から帰って来ると、お父さんがいない。そのまま寝てしまったけど、月曜日も火曜日も帰って来ない。水曜日に私が帰国しまして……それで、おかしいと気づいたわけなんですの」
日付を確かめれば、まさしく森崎が奥多摩のうどん屋で田辺に会った頃ではないか。会ったのが土曜日、田辺はその夜、前の湯に泊まり、翌日曜日は奥の湯へ行ったはずだ。
「そういえば……」
と、森崎はそのことを口に出しかけ……だが、すぐに口をつぐんだ。不自然に聞こえただろう。
「なにか?」
「いえ、まるで見当がつかないんですか」
と話をそらした。
「八方手をつくしてみたんですが」
声が涙ぐんでいる。
三週間行方がわからないとなると、これはただごとではあるまい。奥さんの嘆きもよくわかる。
にもかかわらず、森崎がすぐに奥多摩のことを告げなかったのは……どう説明したらよいだろう。
男同士の仁義……。
大袈裟に言えば、そんな心理かもしれない。つまり、本当に蒸発ならば、蒸発した当人にそれなりの理由があるはずだ。男には妻にも言えない事情がある。真の友人ならば、そこをかばってやらなければなるまい。
——ちがうな——
森崎が口をつぐんだのは、むしろサラリーマンらしい慎重さのせいだろう。不確かなことをほざいて相手に過大な期待を抱かせてはなるまい。まちがっていたら、あとでわるい。
——田辺の様子は、どこか変だった——
奥多摩のうどん屋で会ったのは本当だが、そのあとの行動は電話で聞いただけだ。
——小早川がどうなっているのか——
それもよくわからない。
「小早川君、ご存知ですか」
と電話口で尋ねると、
「いいえ」
戸惑ったような声が返って来る。
「ご主人の高校の後輩で……」
「ああ、ピンポンをやってたかた」
「そうです」
奥さんがすぐに思い出すような間柄ではなかったのだろう。小早川の失踪も田辺夫人は知らない……。
「なにか、そのかたが?」
「いや、ちょっと」
そのときとなりの席から「森崎さん、こっちに電話」と横腹をつつく。森崎は腕時計を見た。十一時四十二分……。
「すみません、一、二調べてから、またご連絡をいたします。あまり突然のことなので」
「よろしくお願いします」
むこうが先に電話を切った。
「午後外出する。多分、社には帰らないと思うから」
となりの席に告げて森崎はオフィスを出た。
その前に小早川という男の勤める会社に電話をかけ、彼がずっと休んでいることを確かめた。
ずっと休んでいるのは、蒸発のせいだろう。応対の様子から判断して小早川の失踪はまずまちがいない。あのときの田辺の話は嘘ではなかった。小早川の自宅を捜し、そこに尋ねれば、もう少し事情がわかるかもしれないが、
——まあ、いい——
それよりも先に奥多摩まで行ってみることだ。この時間なら間にあう。
田辺の奥さんに事情を説明するのは、そのあとでよかろう。
会社の近くの書店で地図を買った。奥多摩の、先日見たのと同じ地図である。ついでに雑誌を三冊買って電車に乗り込んだが、奥多摩はやはり遠い。雑誌を読み終え、しばらくは地図を眺めた。
奥多摩の駅に着いたのは、午後二時半過ぎ。
——急がねばなるまい——
山道は暮れやすい。
田辺の地図で見た道筋はよく覚えている。同じ地図でたどるのだから、まちがうことはあるまい。
五十分ほど歩いた。
——変だな——
道が輪を描いているらしい。同じところへ戻ってしまう。どこかに脇道はなかっただろうか。
もう一度、注意しながら歩いたが、やはり同じところへ帰って来てしまう。
「どこかお捜しですか」
突然、声をかけられた。女が立っている。
木陰に立っているので顔はよく見えない。
だが、声の響きから察して三、四十歳くらい……。モス・グリーンの服を着て、容姿も美しい人のような気がする。
「温泉を捜しているんですけど」
「温泉ですか」
女は笑い声で聞き返す。
「この近くに、人に知られてない温泉があると聞いたものですから」
「わざわざ捜しにいらしたの?」
木の葉が揺れ、女の顔に木もれ陽が射す。
女の表情が映り、すぐに消えたが、森崎の予測はおおむね的中していたようだ。
「ええ、まあ」
「じゃあ、いらっしゃい、ご案内しますから」
女はくるりと踵を返し、スタスタと歩きだす。森崎はあわててあとを追った。
「ここを入るの」
と指をさす。
「へえー」
思いがけないところに脇道がある。さっきは見つからなかったのに……。
——田辺もここを通ったな——
わけもなくそんな確信が込みあげて来る。
田辺は電話口で言っていた。道に迷っていると、女が現われて案内をしてくれたと……。同じことが起きたらしい。それは小早川も体験したことなのではあるまいか。女は知らない歌を歌いながら楽しそうに歩いている。
「なんという温泉なんですか」
女のうしろ姿に尋ねた。
「名前ですか」
女は速足で歩きながら歌と同じように呟く。
「そう」
「名前なんかないの。ただ二つ温泉があって、これから行くのが前の湯、もっと山の奥に奥の湯があるわ」
「どうしてみんなが知らないのかな」
「どうしてでしょうね」
女の声はまた笑っている。
「まだですか」
「もう少し。でも、あなた、ここに温泉が湧いてるって、どうしてご存知なのかしら」
「友人が教えてくれたから。電話で」
「あら、本当に。小早川さんかしら、田辺さんかしら?」
「やっぱりご存知なんですね」
森崎は気色ばんで叫んだが、女はそれには答えず、腕を伸ばした。
「あそこ。とてもいいお湯があるの。いらっしゃい。でも、あなたももう帰れませんわ。どうぞ」
くるりと振り向き、この世のものとは思えないほど美しい笑顔で笑った。