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明かりを灯《とも》しはじめた店が数えきれないほど並び、人々はにぎやかに忙《いそが》しく動き回っていた。巨大《きょだい》な門はおれたちのために開かれ、衛兵達が神妙な面持ちで背筋をのばす。
となりに馬を進めながら、ギュンターが言った。
「おかえりなさい、陛下。あなたの、そして我々の国である、偉大《いだい》なる眞王とその民たる魔族《まぞく》に栄えあれああ世界の全ては我等魔族から始まったのだということを忘れてはならない創主たちをも打ち倒《たお》した力と叡知《えいち》と勇気をもって魔族の繁栄《はんえい》は永遠なるものなり……」
国歌?
「……王国、王都にようこそ」
かと思ったら国名だった。略して眞魔《しんま》国、とコンラッドが小声で教えてくれた。そっちのほうだけ覚えておくことにしよう。
王都に入った感想は、非常に解《わか》りやすくのべると「ケタの違うハウステンボス」というものだ。町並みといい、住民たちといい、おれの目から見るとまるで異国だ。けれど、もうさすがにテーマパークなのではないかとは疑わなかった。こんなに巨大で、こんなに凝《こ》ったテーマパークは日本には存在しない。たとえ日本ではなく、どこか海外なのだとしても、そこまで手のこんだ方法で一個人を騙《だま》す理由など、どこにあるだろうか。
昨日まで、その辺の平凡《へいぼん》な高校生だった自分を。
今日からあなたが魔王ですなんて。
騙されていないとなると、残る答えは「夢オチ」のみ。
「だったら醒《さ》めるまで、つきあうしかねーじゃん」
乗りかかった船は港につくまで降りられないし、野球だってほとんどの場合は九回裏までゲームセットにならない。ENDマークが見たけりゃゴールまで付き合えってこと。
「何をおっしゃってるんです? 陛下、さあ参りましょう、私《わたくし》とコンラートが両脇《りょうわき》に並ばせていただきます」
わかりましたよ、参りますとも。
前に九人、残りを後に従えて、一行は三列でメインストリートを進んだ。通りにいた住民は皆、両脇によけて、おれに向かって深々と腰《こし》を折った。
「あ、ども。あ、えーと。あ、ちぃース。あ、これはご丁寧《ていねい》に」
律儀《りちぎ》にもいちいち返礼すると、年長の教育係はあきれ顔だ。
「陛下……民に頭を下げるのはおやめください。もっと威厳《いげん》をおもちになって」
「なにいってんの、挨拶《あいさつ》は人間関係の基本だよ。それはどこの世界でも同じ。万国共通のルールだろ」
今まで通ったどこの村よりも、この街は裕福そうに見える。
少なくとも、表通りに面した場所は。
まるで優等生にでもなったように優雅《ゆうが》に歩く馬の背から、おれは都市を見下ろした。ついさっき主人となる男を二度も振り落とし、黒い悪魔と恐《おそ》れられた馬とは思えない。
王のために用意された駿馬《しゅんめ》は、滅多《めった》に生まれない漆黒《しっこく》の毛並みで、日本では青毛、この国では闇毛《やみげ》と呼ばれていた。パドックで見た競走馬よりも、ずんぐりしていて足も太い。軍馬としての資質をすべてかねそなえているらしい。たとえ心臓が止まっても、主人を乗せて走り続けるという。理由、心臓が二つあるから。ちょっとしたズルだ。
覚えやすいから名前は「アオ」にした。人間でいえば太郎みたいなもんで、日本では昔から馬の名前の主流だ。時代劇とかでよく出てくる。
人々の髪《かみ》や肌《はだ》の色は、実に多彩《たさい》で非現実的だった。聞かされていたとおり、確かに黒髪の者はいない。金髪《きんぱつ》、茶髪、銀髪、白髪、赤毛、栗毛、オレンジ(染めてんのかな)、紫《むらさき》(白髪《しらが》染かな)、緑(葉緑素ありそうだな)…………緑!?
「ねねねねねねえ、ギュンターっ」
「はい」
「あそこに緑色の人がいるんだけどっ、ううう宇宙、宇宙、宇宙」
「ああ、癒《いや》しの手の一族ですね。彼等は血の色が少々独特なために肌も青白くなるのですが、患者《かんじゃ》の治癒《ちゆ》力を向上させる、特殊《とくしゅ》な力の持ち主なのです。二千年前に人間達が彼等を迫害《はくがい》したために、この地に流れて来たようです。おかげで現在の我々の長命があるわけですが」
「じゃ、じゃあ、あの紫の髪の人は? さっきの女の子もそうだったけど」
「湖畔《こはん》族です。生まれつき魔力の強い者が多く、王都では教育や保安に携《たずさ》わっています。お気付きかもしれませんが、陛下、私も湖畔族の血を受け継《つ》いでおります」
スミレ色の瞳《ひとみ》が、そうなのか。
おれは馬上で溜息《ためいき》をついた。
「心臓が二つの馬に、空飛ぶ生きた骨格見本、緑や紫の天然の髪。日本にいたら出会えなかったもんばっかだよ。まさかもうこれ以上はでてこないだろうな。ウサ耳の女の子とか、セクシー黒豹《くろひょう》ギャルとか、目が三つある鳥人とか」
想像してうろたえるおれに笑いを堪《こら》えながら、コンラッドは教育係にめくばせをした。
「この国には信じられない数の種族がいます。長く生きてる俺《おれ》やギュンターばかりか、学者連中でも確認できてないような者達も。例えば、ヒト型に限定して数えれば個体数は約五千万だけど、骨飛族や骨地族、水棲《すいせい》族や石鳥族となると正確な数さえ解らない。その上、森林や山岳地帯にひっそり暮らしてる魂たちのことを考えれば、空にも、大地にも、川にも、木々にも、あらゆる場所に魔族は存在することになる。陛下、あなたに従う意志は、この国のあらゆるところに散らばっているんですよ」
あきらかにその一員である金の瞳の少女が、アオの横を小走りについてきながら花を渡《わた》そうとしている。薄紅色《うすべにいろ》の八重の花弁が、わずかに開きかけた可憐《かれん》な花束だ。受け取ったギュンターが一回り確認してから、おれに渋々《しぶしぶ》差し出した。
「観賞用の平凡な花です。毒もなければ刺《とげ》もありません。あの娘としては私より陛下にお渡ししたかったのでしょうから」
「そんなことないのにー。おれよりあんたのがずーっとモテそうなのにぃー」
女の子から花をもらうなんて生まれて初めてのことだから、気分としてはまんざらでもない。
行軍は何事もなく進み、やがて今度こそ本当の城壁《じょうへき》にたどりついた。
重い音をたてて門が開かれる。
「……うっわ」
その時たしかにおれの頭の中では、あのテーマ曲が流れ、緒形直人《おがたなおと》のナレーションが聞こえた。世界遺産、ああ世界遺産、世界遺産。城のすばらしさを詠《よ》んだ一句だ。
白い石畳《いしだたみ》の直線道路が遠くまで続き、両脇には滔々《とうとう》と流れる水路が。二手に岐《わか》れた水の行方《ゆくえ》は、街の東と西に向かっている。正面を見上げると、ヨーロッパ城物語でよく目にするような、とはいってもドイツ古城タイプではなくイギリス大規模カントリーハウスタイプの、左右対称の建築物がどーんとあった。ワイド画面かというくらい、横にも縦にも幅を取っていた。背後は緑豊かな山が守り、水路は山腹のトンネルから始まっていた。
「……あのねえ、おれもう何をどう言ったらいいのか判んなくなってきたよ」
「なにも仰《おっしゃ》らずとも、ここが魔王の王城『血盟城』ですよ」
血盟? 日本史的には「一人一殺!」という恐ろしいコピーを持った団体がいたのだが、なんにしろあまり穏《おだ》やかな名前ではない。こんなに美しく立派な城には、聞かないほうがいい由来が……聞きたかないってのに教育係は説明してしまう。
「眞王がこの地を王都にお選びになった時に、地の霊《れい》を傷つけないことを約束されたのだそうです。地の霊は感謝と友好のしるしとして、この城を魔王以外のものが占拠《せんきょ》した場合、その血をもって罪を贖《あがな》わせることを誓った。血の盟約、つまり血盟城は、魔王陛下にしか従わない。難攻《なんこう》不落、いえ完全無欠の王城だというわけです」
「はあ、じゃあお城とその王様がそれぞれ血判を押したわけじゃないんだな」
コンラッドはとても楽しそうに、中央の通路を顎《あご》で示した。両サイドには遙《はる》か先まで、直立不動の兵士が並んでいる。きっとおれが通ると、スタジアムの逆ウェーブみたいに頭を下げていくのだろう。こんな状況《じょうきょう》に立たされたのは、近道しようと開店と同時にデパートを突《つ》っ切った時の、いらっしゃいませ攻撃《こうげき》以来だ。
どこからかラベルとエルガーがユニット組んだみたいな曲も聞こえてくる。多分、国歌なのだろう。
「この歓迎《かんげい》ぶりだと、フォンシュピッツヴェーグ卿《きょう》の説得は失敗したようだな」
その舌を噛《か》みそうな名前の人は誰だ。それよりもどうしてこの国の皆《みな》さんはフォンとか卿とかが同時につくのだろう。ひょっとして、フォンというのは日本人でいう「山」みたいなもので、山田さんと山本さんと山川さんという具合で、多い苗字《みょうじ》の代表格なのか。それとも……。訊《き》きたそうなおれを察して、コンラッドは説明してくれた。いよいよ庭園に踏《ふ》み込むと、案の定、いらっしゃいませ地獄《じごく》。
「この国は魔王の直轄地《ちょっかつち》と、魔王に従う十貴族の領地に分かれてるんです。フォンってのは、十貴族の姓《せい》につくわけです。治めてる土地の名前にフォンをつけたものが、それぞれの姓になってるんですよ。ギュンターの場合、クライスト地方を治めてる十貴族の出だからフォンクライスト卿。卿がつくのは、有事の際には戦場に赴《おもむ》く者だから。基本的に貴族は軍人階級ですからね。男も女も同じです。戦う覚悟《かくご》のあるものは成人すればそう呼ばれることになる」
あれ、最初に会ったマッチョの名前にもフォンがついていたような気が。
「フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルは、前魔王の兄君で、摂政《せっしょう》として権力をほしいままにしていた男です。前魔王が……今となっては上王陛下というわけですが、彼女が辞意を表明して、我々は即座《そくざ》に陛下をお喚《よ》びするべく動いた。けれど奴《やつ》は、どうにかして辞意発言を撤回《てっかい》させようとしたんです。上王陛下を説得して、自分の地位を守ろうとしたんですね。ところが、どうやらそれに失敗したらしい」
あれ、コンラッドの名前には……。
「今度は新王の入城を盛大に祝って、陛下に取り入ろうって算段だよ」
この、いいひとを地でいくウェラー卿の、憎《にく》しみに似た表情は初めてだ。だがそれはすぐに消えた。おれが花束を、右手に持ち替《か》えるわずかな間に。
自分で感情をコントロールしたのか、ギュンターがすぐに言葉をつないだせいなのかは判《わか》らない。
「もうあの男の自由にはさせません。こればかりはグウェンダルもヴォルフラムも、間違《まちが》いなく同じ気持ちでしょう」
「そう願いたいもんだね」
なにかあったんだ。どんな鈍《にぶ》い奴でも気付くだろうが、おれもそう思って身を乗り出した。花を持つ右手が、猫《ねこ》をかぶってたアオの耳に近づく。
「あのさ、そのスピッツだかスピルバーグだかいう人は……」
アカデミー賞を何回とったの? というオチまで言うことはできなかった。いきなりキレた黒い悪魔が、ケツに仕込んだV8エンジンを全開にしたからだ。
なにがどう気に入らなくて、彼女が暴走したのかは、乗り手のおれにもさっぱり判らなかった。確かなのは、振《ふ》り落とされたら無事では済まないということだけ。直線コースを突っ走る馬体に必死でしがみつき、悲鳴ともイェイともつかない叫《さけ》びをあげながら、おれは一人だけ異様に早く、城の正面にゴールインしようとしていた。
敬礼しようと並んでいた兵達も、目の前を過ぎる黒い疾風《しっぷう》がまさか新王陛下だとは思わないだろうなぁッ。後ろからアドバイスが聞こえる。
「陛下ーっ、手綱《たづな》っ、手綱をーっ」
「コンラートっ! やはりあの馬は、まだ調教が、足りませんよっ」
腹を蹴《け》って後を追いつつ、ギュンターが言葉を詰《つ》まらせた。
「泣くこたないだろ、この程度で。教育はしっかり、できてるんだけど、さすがに俺も、花アブが耳に、入るとこまで、想定した訓練は、してなかったなっ。へーいかーっ、手綱引いてー、腿《もも》で挟《はさ》んでーっ!」
おれはおれで、暴走トラック店舗《てんぽ》に突っ込む、とか、客も店員も頭かばって右往左往とかいう見出しばかり考えていた。アオは何箇所《なんかしょ》かの段差を軽々と飛び越《こ》え、城の正面|玄関《げんかん》に迫《せま》りつつある。これまでずっと縦一列だった兵達が、突然《とつぜん》横一列になっていて邪魔《じゃま》な場所を、アオはするりと走り抜《ぬ》けた。茫然《ぼうぜん》とする男たち、中央に金髪のナイスミドル。
また段差を飛び越えた。空中にいる短い間に、最悪の事態を想像する。
おれは馬から落ちて、コンラッドとギュンターに、あとのことは頼《たの》むって言い残してがくっと首が傾《かたむ》く。あとのことって何!? がくって何故《なぜ》!?
扉《とびら》の閉まった正面入り口まであとわずかという所で、アオはいきなり棒立ちになった。落とされる! と焦《あせ》ったおれは、手綱ばかりでなく彼女の漆黒の鬣《たてがみ》を掴《つか》み、目をつぶって衝撃《しょうげき》を予測した。だが、五秒待っても痛みはこない。
「……止まってる……」
と、気を抜いた瞬間《しゅんかん》に落ちた。残念ながら今回、下は硬《かた》くて冷たくて値段も高いという大理石だ。受け身は大切だと、身をもって知ってしまった。
仰向《あおむ》けになったまま、おれはぼんやりと思った。
ああ、天井《てんじょう》が高い。まるで国立科学博物館のホールの床《ゆか》に寝転《ねころ》がったみたいだ。
アオが数回、足踏《あしぶ》みをして、顔をすぐそばまで持ってきた。自分のしでかした恐ろしいことなど覚えてもいないような澄《す》んだ瞳で「なにやってんの、おやびん」と訊いてくる。唇《くちびる》はよだれの泡《あわ》でいっぱいだ。
肩《かた》の横に、誰《だれ》かの足がある。視線を少しずらすと、高い位置に顔があった。とんでもなく背の高い人なのだろう。だがその男は、声をかけてもくれなければ、手を貸してくれもしなかった。ここまであからさまに無関心な奴は、この世界に来てから初めてだ。おれは本当に魔王《まおう》で、この城の主人で、これはホントにおれ自身の夢《ゆめ》なのだろうか。
だったらもっと、楽しませてくれてもいいんじゃないの?
「陛下ーっ」
コンラッドとギュンターの声が聞こえる。石に叩《たた》きつけられる蹄《ひづめ》の音も。男は二人の言葉から何かを悟《さと》ったようだ。ずっと上の方から、あきれたみたいな独り言が降ってくる。
「……陛下……これが?」
コレとは何だ、コレとは、と抗議《こうぎ》するよりも早く、頭の中にゴッドファーザー愛のテーマが流れていた。あんたのテーマソングはもう決定だ。誰の手も借りずに立ち上がったおれの前には、予想どおり、何度生まれ変わっても身長ではかなわないという相手が居た。
身長ばかりではない、顔もかなわない、顔も。
中途半端《ちゅうとはんぱ》に長い髪は、黒といっても差《さ》し支《つか》えないような濃灰色《のうかいしょく》で、一部分だけを後ろで縛《しば》っていた。すがめられた瞳は深く青く、楽しいことなど何一つないようだ。眉《まゆ》と目の間が狭《せば》まっているから不機嫌《ふきげん》そうに見えるのか、不機嫌だからそうなのか、おれの短い人生経験じゃ判らない。けれど彼の不機嫌さに、女の子はきゅーきゅーいうはずだ。
魔王だとかいわれながら、内面も外見も地位に追っつかない高校生はグレはじめた。どうせおれは、容姿も頭脳もボチボチです。筋骨|隆々《りゅうりゅう》でもなけりゃ、声が重低音なわけでもない。おまけに野球をやらせたら、三年間ベンチウォーマーという情けなさだ。
男は興味をひかれたのか、首を傾けてこっちを眺《なが》めた。ますます悩《なや》ましさが際立《きわだ》った。
「陛下、お怪我《けが》は!?」
先に着いたコンラッドが、ひらりと馬をおりて歩み寄ってきた。それを追い越そうとして、さっき邪魔だったナイスミドルの一団が駆《か》けてくる。ギュンターも葦毛《あしげ》を飛び降りて何事か叫んでいた。人々の中心にいるのが自分だなんて、おれにはとても信じられなかった。
「それが新魔王だというのか!?」
癇《かん》に触《さわ》るようなアルト声が響きわたるまでは。
四人目の超《ちょう》美形は、体格的にはおれでも充分《じゅうぶん》勝負できそうだった。足の長さは人種的|特徴《とくちょう》だから仕方ないとして、背とか肩幅とか体重とかは。いつからこんなにガタイのことばっか気にする奴になっちゃったかなあ、おれ。それは多分、「あんたって、的が小さいから、どーも投げ込みにくいんだよなー」って二番手ピッチャーに言われたあの日から。
肉体勝負ではどうにかイーヴンに持ち込んだのだが、視線を上に持っていった途端《とたん》に、もう負けが確定した。どうよ、この美しさ! とばかりに、彼の頭部はオーラを発していた。まばゆいばかりの金髪《きんぱつ》のせいで、そう見えちゃったんだろうけど。ウィーン少年合唱団OBみたいな声と容貌《ようぼう》だ。透《す》けるような白い肌《はだ》、湖底を想《おも》わせるエメラルドグリーンの虹彩《こうさい》、しかも顎も割れていない。天使だ、まさに怒《いか》れる天使。しかしこの場所にいるということは、やはり彼も、美しき魔族、なのだろう。
「グウェンダル……いえ兄上、あんなやつの連れてきた素性も知れない人間を、王として迎《むか》え入れるおつもりですか!?」
あんなやつ、のところで、少女|漫画《まんが》的超美少年はコンラッドの方を鋭《するど》く睨《にら》む。グウェンダルという名前はさっき聞いたが、いっしょに並んでいたのは確かヴォルフガングかヴォルフラムだった。ということはゴッドファーザー愛のテーマの男がグウェンダル、ウィーン少年合唱団OBのほうが、ヴォルフラムだろうか。
「ぼくはあんな薄汚《うすぎたな》い人間もどき[#「もどき」に傍点]を信用する気になれません! 見たところ知性も威厳《いげん》も感じられない、その辺の街道にでも転がっていそうな男を……」
「ヴォルフラム!」
兄だというグウェンダルではなく、ギュンターが彼の言葉を制した。
「なんという畏《おそ》れ多いことを! 陛下が広いお心をお持ちでなかったら、今頃《いまごろ》あなたは命を落としているところですよっ」
心が広いってのは、おれのこと? 他人《ひと》ごとのように考えてしまう。
「口を慎《つつし》みなさい、陛下を畏れぬ物言いは、たとえ王太子のあなたといえども許せません! コンラートのことを悪《あ》し様《ざま》に言うのもおよしなさい、仮にもあなたの、兄上なのですよ」
あれ。
聞いているだけのおれには、人物相関図がゴチャゴチャになってきた。ゴッドファーザーとウィーン少年合唱団OBは兄弟、コンラッドはヴォルフラムの兄、ということは。
グウェンダル、コンラート、ヴォルフラム。
魔族三兄弟。
「……うっそ!? に、似てねェーっ」
「そりゃ、もうしわけない」
コンラッドが、横に歩いてきながら、にこやかに言った。こんなことにはもう慣れてる、という表情だ。
「それぞれ父親が違うんだよ。ま、似てようが似てまいが、血の繋《つな》がりを無効にすることはできない。グウェンダルは俺《おれ》の兄で、ヴォルフラムは弟です。おそらく二人はそんなこと、口にしたくもないだろうけど」
あんたは? と、おれは心の中で訊《き》いた。
コンラッド、あんたは彼等をどう思ってんの?
だがその疑問を口にするよりも早く、全員のアテンションは再び自分にプリーズされていた。陛下の御前、というギュンターの一言で。
「新王陛下っ」
ナイスミドルが足元に駆け寄る。もう美形を見慣れてしまって、この男の外見がどうであろうがかまわなくなってしまった。んー、えーとーお、五十代にしては麗《うるわ》しい、くすんだ金髪と青い目のオヤジ。ただし瞳の奥《おく》の隠《かく》し扉に、卑劣《ひれつ》な作戦を仕込む場所あり。
「私は、前王であり上王となるフォンシュピッツヴェーグ卿《きょう》ツェツィーリエの兄で、この国の繁栄《はんえい》のため摂政《せっしょう》として働かせていただきましたフォンシュピッツヴェーグ・シュトッフェルでございます。陛下のご無事なご到着《とうちゃく》を、心より歓迎《かんげい》いたします!」
「あのさあ、フォンシュピッツヴェーグ卿」
わざとくだけた口調で話しかける。
「あんたはおれと、あんたの兄弟と、どっちに魔王でいてほしいの?」
「は!?」
ばーか。即答できないってこと自体、我が身がかわいいって証明なんだよ。
「はっ、もちろん、新王陛下にございます! 王室の時機を見計らった交代は、総《すべ》ての民の利ともなりましょう。新王陛下は全《すべ》ての救い主、この国の将来をお造りになる、偉大《いだい》なる魂《たましい》の持ち主だとも聞き及《およ》んでおります」
「人違いだと思うな。おれはそんな、偉大な魂の人じゃねーもん」
「ご謙遜《けんそん》を! その漆黒《しっこく》の御髪《おぐし》、闇夜《やみよ》の瞳《ひとみ》! 陛下こそ魔族の頂点に立たれるお方です」
この国の基準は、髪と目が黒けりゃ、あなたがたのようなハンサムガーイ! にも勝ててしまうのですか。つまりおれは平均的日本人だってだけで、この国のシード権を獲得《かくとく》してるってわけですか。
なんかそんなの、嘘《うそ》っぽくてやだな。
シード権もらうなら、やっぱ実績を残してからでないと。
「証拠《しょうこ》はどこにある!?」
敵意むき出しという口調で、まさに今、考えていたことを言われてしまった。ブロンドの外見天使・ヴォルフラムだ。
「そいつが本物だという証拠は? それを確かめるまでは、こんなガキが魔王だと認める気はないからな」
「ガキ!? あ、いやそりゃ外人さんの歳《とし》は見た目じゃ判んねーって、おれも知ってるつもりだけど。けど、けどだよ? どう見てもきみは、おれと同じ歳くらいに見えるぞ。アメリカの高校生なみに大人《おとな》びてるとしたら、もしかしたらおれより年下なんじゃないの」
「いくつだ?」
ふんぞり返った腕組《うでぐ》みをしたまま、三男が居丈高《いたけだか》に訊いてくる。どうやらこの人には、敬語禁止なんて命じる必要はなさそうだ。
「……十五……あと二ヵ月で十六……」
「ふん」
「ふんって何だ、ふんって。じゃあお前は何歳だよ!? そーんな美少年ヅラしてて、もう老人だとかいうんじゃないだろうな」
「八十二だ」
「……はい?」
八十二歳? それにしてはお肌のハリが、頭髪の量が、若々しさが。
「ってそんなわけねーじゃん!」
あんたたち、おれのお祖父《じい》ちゃんよりも、人生経験豊富なの!?
二日ぶりの風呂《ふろ》は、貸切どころか個人専用だった。
クリーム色を基調にした石造りの浴室は、魔王陛下のプライベートバスで、浴槽《よくそう》は水泳の公式記録がはかれそうなくらい広く、角が五本の牛の口から湯がゴボゴボと流れ出ている。第一コースのはじっこに、ちんまりと身体《からだ》を沈《しず》めながら、おれはこれまでとこの先の我が身を想った。
どーするどーなる渋谷有利!?
洋式便器に流される、テーマパーク風の異世界に放り出される、住民に石投げられる、魔族だって言われる、魔王だって言われる、人間どもを殺せって言われる、死ぬほど馬に乗らされる、みんなにお辞儀《じぎ》される、恐《こわ》い名前の城につれてこられる、これが? って言われる、お前なんか魔王と認めないと言われる、皆《みな》さんの実年齢《じつねんれい》は見た目カケル五だと告白される、恐い名前の城に入らされる。
部屋《へや》数は二百五十二、三階建て一部五階建て、天井《てんじょう》サーブが不可能なほど高く、ゴジラでさえ手を焼く頑丈《がんじょう》なつくり。
息切れするくらい長い階段、城内で働く人の数は百九十余、厩《うまや》の向こうには質素だが巨大《きょだい》な兵舎、常勤の兵士は四千五百。別の方角にある客舎は現在グウェンダルとヴォルフラムの隊が使用していて、彼等は兵を自分の領地から連れてきている。
とりあえず案内された部屋はバスケのコートくらいの広さで、暖炉《だんろ》に火が入り床《ゆか》には織物と毛皮が敷《し》かれていた。白の塗装《とそう》ですっかり隠された石壁《いしかべ》には、小学生の頃に母親に連れられて、上野で見たものに似た絵画。残る三面には国旗らしきものとタペストリーが。意外にも部屋の隅《すみ》には観葉植物。
「テレビ無いし、ゲームないし、MDないしィ」
それ以前に電気もガスも、電話もないし。
「……ベッド……超デケーし……」
ベッドは、でかかった。
天蓋《てんがい》こそついていなかったが、中学生になった五つ子ちゃんがみんな一緒《いっしょ》に休んでも大丈夫《だいじょうぶ》というくらいデカかった。
辛《かろ》うじて急所が隠れるくらいの腰布《こしぬの》だけを着けた麗しき三助さんが、ゴージャスで金ぴかな桶《おけ》でお背中をお流しくださるという申し出は、きっぱりと断った。劣等感に苛《さいな》まれるから。
手近にあったボトルから、薄桃色《うすももいろ》の液体を手に取る。いいにおいだ。多分これがシャンプーだろう。ガシュガシュ擦《こす》って手桶でガンガン湯をかける。コンディショナーはなし! 男らしい、というより体育会系。
身体もしっかり洗ったし、二日ぶりの風呂も堪能《たんのう》したから、もういちど湯槽《ゆぶね》であったまってそろそろ出ようかな、と思った時だった。
「あら」
おれが入ってきたのとは逆の入り口から、バスタオルを巻いただけの女性が姿を現わした。女子、ではない、女性だ。まさか此処《ここ》、混浴!? 待てよ、ギュンターは確かプライベートバスだって言ってた。ということは彼女は、おれに対するサービス? そんないかがわしいサービスがあるもんかい。いや今まで庶民《しょみん》だったから知らなかっただけで、王様とか大臣とか代議士先生にはアリなのかもしれない。けどちょっとちょっとーッ! この広いプールのよりによって第二コースに、並んで身体を伸《の》ばさなくてもぉぉーッ!
腰まである金色の巻毛が、困っちゃうくらいセクシーな女性は、おれからほんの一メートルのところに胸までつかった。湯気、もしくは緊張《きんちょう》と興奮で目が霞《かす》み、はっきりとは見えないけど、とんでもなくフェロモン系。タオルの下はボンキュッボーンだし、上気した目元と頬《ほお》と唇はピンクに染まって美しい。
しかも「女性」だ。同年代の「女子」ではなく。
「あーら」
「あああああの、ここここ混浴だとは聞いてなくてっ」
「いーえぇ、いいのよぉ。ここは魔王陛下だけのお風呂ですものぉ。あたくしはちょっと、いつもの癖《くせ》で入ってきちゃっただけ。お気になさらないで、新王へ、い、か」
「うっ、あ、ちょっとだめ、近寄んないでくださいようっ」
「ね、あなたが新王へいかなんでしょ? 奇遇《きぐう》だわぁ、こんなところで会えるなんてっ」
いまや、顔と心臓と下半身のどこに最も血液が集中しているのか、冷静には判断できなくなっていた。やばいやばいやばい! おれまっとーな思春期迎えてるだけに、なおさら十倍、二十倍やばいって!
「あっあのねえ、お嬢《じょう》さん、じゃないな、おねーさんっ、カラダ流さずにいきなり湯槽に入るのはルール違反よッ!? その上そーやってバスタオル! お湯ん中にタオル入れるのも公衆浴場ではマナー知らずよッ!?」
声がほとんど裏返っている。みのもんたみたいには言えてない。
「あら、ごめんなさい。殿方《とのがた》とお風呂に入るのなんて、すっごく久しぶりだったから」
彼女は動けなくなっているおれを眺《なが》めて言った。
「くす……かーわいぃ」
その瞬間《しゅんかん》、おれは、泣き声とも悲鳴ともつかない叫《さけ》びを残して走りだしていた。
カワイイってのは何のことをおっしゃったのですかセクシーさんっ、どうしてあなたは王様風呂に入ってきたのですかフェロモンさんっ、それでもって結局のところ、あなたは誰《だれ》だったんですかセクシークィーンさんっ!
腰にタオルを巻いただけという格好で突《つ》っ走り、教えられた自分の部屋と思われる所へ飛び込んだおれは、またまたそこに若くてかわいい女の子が居たことで、文字にはならないような声を上げた。
「どうなさいました陛下っ」
「どうかしたのか陛下ッ」
自称・ユーリ派の二人が駆け付けたときには、光沢《こうたく》ある黒の布を抱《かか》えた少女が部屋の隅で震《ふる》えており、巨大なベッドにうずくまった新王陛下は、虚《うつ》ろな視線をさまよわせながら、何事か低く呟《つぶや》いていた。ケツ丸出しで。
「陛下、陛下ッ」
「……女の子は好きだ、女の子は好きなんだけど、見られていいかっていうと、見られんのはやだってことで、それはおれとしてもそんなビッグでマグナムな人じゃないってことで」
侍女《じじょ》を部屋から帰すと、コンラッドはベッドにやってきた。その頃《ころ》にはおれもやっと落ち着きを取り戻《もど》していて、座りなおして腰にシーツをかけるくらいの分別があった。
「やれやれ、お尻《しり》はしまってくれたんだな」
「この国にはプライバシーはないのかよ!?」
「陛下、王に従者や侍女がいるのは当然のことだよ。いちいちそれに驚《おどろ》かれていたら……」
「風呂や部屋にまで入ってくるのはあんまりだろ!? そんじゃこの国ではエロ本どこに隠《かく》せばいいわけ!? 風呂場で全裸《ぜんら》の美女にナンパされかけたら、どこに逃《に》げ込んでハアハアすりゃいいんだよ!?」
「湯殿《ゆどの》で全裸の美女に? ああ……」
コンラッドは、なんてことだといわんばかりに天を仰《あお》いだ。
「……やってくれるよ」
「おれはまた、なんかのサービスなのかと思ってさ、もうちょっとでお願いしちゃうとこだったんだからなっ……まあとりあえず、おれ、そんなに大物じゃないから、逃げ出してきたんだけどさ」
「よかった、陛下の理性に感謝します」
「うっ、ううっ、べいがっ、こちらをおべじにっ」
黒い布を持つ教育係が、鼻をぐずぐずいわせていた。すっかり涙目《なみだめ》になっている。
「どうしたの急に、花粉症?」
「も、もうじわげございまぜんっ、習慣もお立場もまったく異なる初めての地にいらして、ご苦労なさってるお姿を見ているうちに……あまりに健気《けなげ》で同時にいとおしく……ああっ申し訳ありませんっ! とんでもないことを口にしてしまいましたっ、わたくしとしたことが、とっ取り乱しましてっ」
「どうしたギュンター、お前らしくないな」
「花粉症だったら鼻ウガイがいいよ、鼻ウガイ。おれの兄貴もかなり楽になったって」
服を取ろうとした拍子《ひょうし》に、おれの指がギュンターの腕に触《ふ》れた。彼はすごいスピードで壁まで後ずさる。熱でもあるように顔が赤い。一番上にあった艶《つや》のある布を持ち上げると、どうやらそれは下着の一種らしかった。
「パンツまで、黒、しかもツヤツヤ、しかも」
紐《ひも》パン。両脇《りょうわき》できゅっと縛《しば》るやつ。振《ふ》り返るとコンラッドは、別に当たり前という顔。
「なんで男なのにヒモパン!?」
「え? 一応それが一般《いっぱん》的な下着なんで」
「うそ、じゃああの人もあの人もあの人もヒモパン!? あーんな顔しててもあいつもヒモパン!? まさか、あんたも」
「あ、いや、俺《おれ》はもっと庶民的なのを」
「ぶひゃっ」
二人同時に振り向くと、壁ぎわでギュンターが鼻を押《お》さえていた。やっぱり杉花粉にやられたか、くしゃみが来たら確実だ。目もどっかとろんとしているが、何というか、こう、いきなりイタリア男になったような口調で話しだした。もともと超絶《ちょうぜつ》美形だから、女の子だったらコロリと引っ掛《か》かっちゃうだろう。
「身持ちの堅《かた》い御《ご》婦人のようなことを仰《おっしゃ》って、私を困らせないでください、陛下。脱《ぬ》がせやすい下着を避《さ》けるということは、扉《とびら》を叩《たた》く私自身を拒《こば》まれたも同然……って……はっ!? 私は今なんてことをッ」
深紅の薔薇《ばら》でも差し出しそうな雰囲気《ふんいき》だったのが、ひとりボケ突っ込みで我に返る。
「もっ、ぼうじわげございばぜんッ! わたくし、ふっ、ふっ、不埒《ふらち》な想像をッ」
「生理食塩水で鼻ウガイだって、生理食え……不埒、って、なに?」
「頭を冷やしてまいりますっ」
駆け出してゆく背中に、冷やすんじゃなくてウガイだってェーと叫んだが、聞いちゃいないようだった。だがとりあえずの問題は、指先でつまんだこのパンツだ。ブレイク真っ最中にはほんのお子様だったので、こっ恥《ぱ》ずかしいとしか思えない。
「しかし、ま、日本人だって、伝統的には『ふんどし』なわけだし」
「そうですよ陛下、もしかしたら意外とはきごこち良くて、新しい自分に出会えるかもしれないしね」
出会いたくない。
「それにしてもギュンターは一体どうしたんだろうな。はい、下着の次はこれを。あれ」
学ランによく似た衣服を次々と渡《わた》しながら、コンラッドが顔を近付ける。
「……陛下、なんかいいにおいしますね」
「あ、多分それシャンプーだわ。風呂場にあったピンクのやつ」
誰が置いたのかは、知らないけど。
眞王《しんおう》の晩餐《ばんさん》というのは、便利な裏技を紹介する番組のことでも、元プロ野球の超一流投手がゲストにワインの蘊蓄《うんちく》をたれる番組のことでもない。
「魔王《まおう》陛下と近しい血族の方々だけで囲む、高貴で特別な晩餐のことです」
なぜか鼻の穴に綿をつめこんだギュンターは、妙《みょう》にテンション高く胸を張りながら先導している。髪《かみ》はきっちりと後ろでまとめ、僧衣《そうい》に似た服は、オフホワイトで丈《たけ》が長く、前面に金糸の見事な刺繍《ししゅう》がある。
「失礼、遅《おく》れまして」
大急ぎで着替えに戻っていたコンラッドが、小走りで追いついた。その格好ときたら、本年度のコスプレキングはこの人に決定! というものだった。
アメリカ女性の憧《あこが》れ、純白の海軍士官服。愛と青春の旅立ち、原題はアンオフィサーアンドアジェントルマン、主演リチャード・ギア。誰もが聞いたことのあるあのテーマ曲をBGMに、全米人気ナンバーワンはさわやかに言った。帽子はなしで。
「一応これが正装なんでね」
窓の向こうには山肌《やまはだ》が広がり、その頂点には灯《あか》りが見えた。周囲の空気はすでに暗く、その灯は星より強く瞬《またた》いている。
「ご覧ください、あれが魔族の聖地、眞王|廟《びょう》の灯りです。我等の全ての始まりである、偉大《いだい》なる眞王の眠る場所です」
魔族、なのに聖地? という疑問はおいといて、おれは山頂の揺《ゆ》らめく炎《ほのお》に目をやる。日本でいう寺のようなものだろうか。現代日本人・渋谷有利の眼《め》で見ると、眞王とはこの連中にとって、神のような存在らしい。墓があるということは、おそらくこの世を去っているのだろう。
だが、その眞王のお告げだか言葉だかのせいで、自分はここまで連れてこられた。
「……王かどうかも判《わか》らないってのにさ」
「陛下、こちらもご覧になってください。この廊下《ろうか》は展示室も兼《か》ねておりまして、歴代魔王陛下の御勇姿《ごゆうし》が全て飾《かざ》られているのですよ。先代と先々代は肖像画《しょうぞうが》が未完成なのですが」
延々と続く廊下には、両手を広げても横幅《よこはば》に足りないという大きさの絵画が、二十枚は掛《か》かっていた。どれも写実的で精密で、眼に痛いくらい細かく描《えが》かれている。
「上野にバーンズコレクション来たときみたいだな」
「新しい順に手前から並んでおります。こちらが第二十四代魔王フォンラドフォード・ベルトラン陛下です。国民には獅子《しし》王と呼ばれ敬われました」
「獅子王かぁ。どこの世界も似たようなあだ名を考えるもんだね」
「こちらは第二十三代のフォンカーベルニコフ・ヤノット陛下、厳格王と呼ばれました。そして第二十二代ロベルスキー・アーセニオ陛下、武豪《ぶごう》王として名高かったお方です。第二十一代フォンギレンホール・デュウェイン陛下は好戦王、その前のヘンストリッジ・デイビソン陛下は殺戮《さつりく》王、フォンロシュフォール・バシリオ陛下は残虐《ざんぎゃく》王……」
「なんかだんだんヤバイ呼び方になってこねぇ? もっと気楽な、石油王とか新聞王とかブランド王とかの人はいねーの?」
「さあ……石油も新聞もブランドもないからなぁ」
「第十五代魔王グリーセラ・トランティニアン・ヤッフト陛下、首刈《くびか》り王。第十四代フォンウィンコット・ブリッタニー陛下、流血王……」
魔族の国民性がみえてきたぞ。
椅子《いす》に座って犬の頭に手をやっている人もいれば、地面に突《つ》き立てた剣《けん》に寄り掛かる人もいた。棹立《さおだ》ちになった馬上で、討ち取った敵の生首をかかげる、これこそ魔王という絵もある。三人ほど女性もいたし、中には少年としかいえないような年格好の王もいた。
だが、髪や瞳《ひとみ》の色に相違《そうい》はあるにしても、いずれの人物も美しさではひけをとらず、遡《さかのぼ》って古くなるにつれて、ますます人間|離《ばな》れしてゆくようだった。まあ、基本的に人間ではないということだけど。服装も現在の魔族よりずっとファンタジー色が濃《こ》く、マントや甲冑《かっちゅう》も描かれている。
「昔はRPGみたいなカッコしてたんだな。やっぱ剣と魔法の世界はああでなくちゃ。あんたたちの軍服姿って今風すぎるもん。あ、この人」
「第七代魔王フォンヴォルテール・フォルジア陛下ですね」
「さっきのゴッドファーザー愛のテーマにそっくりじゃん!」
「ゴッド……グウェンダルのことか。彼の先祖にあたる人だから」
「へ!? だったらあいつが次期魔王になるんじゃないの? 先祖が王様なら、子孫の誰かが王様を継《つ》ぐでしょ」
ギュンターは教師面になり、軽く小首を傾《かし》げて言う。
「陛下、魔王の地位は、世襲《せしゅう》で続くものではないのです」
「けど選挙ってわけでもないんだろ? どーも難しいな、どーも納得いかない」
「そりゃあそうだよ、違《ちが》う世界で十五年も育ったんだからさ。ま、おいおい解《わか》ってくるでしょう、一年もいれば魔王らしくなりますって」
「一年!? おれは一年もここに居んの!?」
コンラッドに聞き返すおれを見て、教育係は憮然《ぶぜん》とした。
「陛下はこの国の国王なのですから、今後一生をここで過ごされるに決まっています。一年もとは何というお言葉ですか」
大変なことになってきた。このままでは間違いなく留年してしまう。しかも高一の五月にダブリ決定だなんて、いくらなんでも早すぎる。この上は課せられた使命をとっとと果たして、最短|距離《きょり》でゴールを目指すしかない。
「そしてこちらにあらせられるのが、我等魔族を統一し、創主たちを打ち倒《たお》して眞魔国を確立された、初代国王である眞魔王陛下です。尊き魂《たましい》に栄光あれ」
「はあ、これまたあのガキにそっくりだね。きっとご先祖様なんだろうけど。で、名前は?」
「御名《みな》は濫《みだ》りに口にしてはならないのです」
「名前も言えないのかよ、ちぇ、ケチくせぇ」
「陛下ッ」
「だっておれ、こいつのおかげでこんなとこまで連れてこられちゃって、しかももっと前に遡って言うとー? 死んでるはずのこいつの一言で、おれの魂は異世界に飛ばされちゃったっていうんだろ? なのに名前も教えないなんて、やっぱ、ケチくせ」
「あとで教えるよ、陛下」
コンラッドの声は、笑いを堪《こら》えていた。
一際大きく、正面に設《しつら》えられた肖像画には、金髪《きんぱつ》の青年が抜《ぬ》き身の剣を片手に立っていた。ヴォルフラムに良く似ている。ただし、彼の目は明るく澄《す》んだ湖面のブルーで、後世の魔族とは何かが、どこかが違って見えた。おれの素人《しろうと》感想では「偉《えら》そう、大物、生まれながらにして王様って感じ」だ。
「……この人は?」
この絵だけは、一人ではなかった。少し後ろに下がった場所に、今までの王達とは明らかに異なる人種が描かれている。ごく普通《ふつう》の機能的な服で、剣もなければ鎧《よろい》もない。薄《うす》く微笑《ほほえ》んでいるような口元からして、臣下とか従者とかいった関係ではなさそうだ。
「ちょっと東洋的な顔立ちだね」
彼の説明をするギュンターは、とても誇《ほこ》らしげだった。心からの尊敬と愛情が、彼のことを知らないおれにも伝わってきた。
「双黒《そうこく》の大賢者《だいけんじゃ》、この世で唯一《ゆいいつ》、眞王と対等のお立場にあられるお方です。この方がいらっしゃらなければ、我等魔族は創主たちとの戦いに破れ、土地も国もなく彷徨《さまよ》っていたことでしょう。それ以前にこの世界そのものが、消滅《しょうめつ》していたかもしれませんが」
「要するに、すごい人?」
「その通りです。しかも誰《だれ》より美しい!」
「はあ!?」
どうやら連中の美的感覚は、日本人には計り知れないようだった。どちらかといえば穏《おだ》やかな顔つきの東洋人は、整っているという程度に過ぎない。むしろ彼の外見は、美よりも知性に勝っていた。
「このお方と陛下はとても良く似ていらっしゃいます。民も皆《みな》、陛下の高貴さに絶対性を見いだして、喜び讃《たた》えることでしょう!」
フォンクライスト卿《きょう》、鼻から綿を弾《はじ》きださんばかりだ。あっ待てよ、おまえ鼻血、鼻血でてるじゃん!
「似てねーよ!? どこが!? どこが似てるって!?」
「ほらほら陛下、髪とか目の色が。すごい人に似ちゃったもんだね陛下、カリスマカリスマ」
「黒目黒毛は日本人の優性遺伝なんだって!」
それ以外はどこをとっても、自分にも家族にも似てないって。
恨《うら》むよ、眞王。胸の中でおれは毒突《どくづ》いた。
死んでるはずのあんたのおかげで、おれはどんどん巻き込まれてるんだよ。この上、留年なんてことになったら、霊廟《れいびょう》だかなんだかを荒《あ》らしにいくからなッ。
罰当《ばちあ》たりなことを考えたものだ。すべて自分に跳《は》ね返ってくるとも知らずに。
ギュンターは自分に酔《よ》ったみたいにうっとりと、ロマンチックなことを並べていた。
「眞王は闇《やみ》、賢者は光。彼等は互《たが》いに憧《あこが》れ、焦《こ》がれて、それぞれの色を身体に宿して生まれてきたのです。つまり、闇は光を、光は闇を!」
「放っておこう、長くなるから」
聞き慣れているらしかった。