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やっぱり忘れられなくて、野球同好会を創《つく》ってしまいました。
目標は草野球日本一、合言葉は「東京ドームでモルツと握手《あくしゅ》!」だ。
「ケーブルテレビのレポーターがさ、おれにマイク向けて訊《き》くんだよ。一度は諦《あきら》めた野球を再開することになったきっかけは何ですかー? だって」
かぽーん、とケロリン桶《おけ》を鳴らしながら、おれはドアの向こうにも聞こえるように大きめの声で語りかける。
「はー、極楽《ごくらく》、極楽。しかも最後にさぁ、ありがとうございました、ダンディーライオンズのキャプテン、渋谷《しぶや》有利|原宿《はらじゅく》不利さんでしたーとか言うんだぜ? 信じられる? ケーブルとはいえ仮にもテレビのレポーターがだよ、こっちがメチャクチャ気にしてることを、全国ネットで言っていいんかっての。ちょっと、聞いてんのかよ村田《むらた》健《けん》」
かぽーん。
「ケーブルテレビはご近所くらいしか視《み》てないよ」
「だとしてもさー」
水音に消されないようにと思ったのか、叫《さけ》ぶような調子で村田は答えた。
「いいじゃないか別に、渋谷有利原宿不利だって! なんかのコンビ名みたいでさっ」
「ウッチャンナンチャンとかぁ?」
「そう、オール阪神巨人《はんしんきょじん》とか」
「うわヤメロお前それっ、おれが巨人や阪神と一緒《いっしょ》にされて喜ぶとでも思ってんのか!? おれは絶対パ・リーグ派なの、生まれたときから太平洋なの」
「その熱パの醍醐味《だいごみ》ってのを教えてやるって言ったのはそっちだろ? なのになんでまだのんびりお湯になんか浸《つ》かってんだよ、ほんとに十三時開始に間に合うのか? もう宮川大助花子《みやがわだいすけはなこ》でも瀬戸《せと》てんやわんやでも渋谷有利原宿不利でも何でもいいよ」
「……村田、お前ってホントは何歳?」
そう、おれの名前は渋谷《しぶや》有利《ゆーり》。裕里でも優梨でも悠璃でもなく。この名前のせいで生まれて十五年間、どんなに苦労したことか。
父親が銀行員だったから、利率のことばかり考えて、息子《むすこ》にまでこんな名前をつけたのかと、ずいぶん両親を恨《うら》んだりもした。結局は出産間近の母親をタクシーに相乗りさせてくれた青年が、名付親だと判《わか》ったのだが……漢字をあてたのはやっぱり親父《おやじ》だよなあ。
ここ数週間のおれはといえば、日曜は朝から草野球の練習で、市民グラウンド近くの銭湯をランチタイム特別料金で楽しんでから、ダッシュで西武《せいぶ》ドームへ応援《おうえん》に駆《か》けつけるという、さながらおっさん野球ファンのごとき生活を送っていた。パ・リーグファンを一人でも増やすべく、本日は村田も引きずって行く予定。
中二中三とクラスが一緒だった眼鏡《めがね》くん、村田健とは、ちょうど一ヵ月くらい前に、公園の便所裏という奇妙《きみょう》な場所で再会した。おれはその直後に、洋式便器から異世界へGO! なんて夢としか考えられないような事件に巻き込まれ、自分の出生に関する衝撃《しょうげき》的事実を知らされたのだ。
たとえば、盛り上がってきた合コンで、皆《みな》が割《わ》り箸《ばし》を片手にこう唱える。
「王様だーれだ」
おれ。
弱冠《じゃっかん》十五歳にして、一国一城の主《あるじ》となってしまったわけだ。
しかも王様ったって、そんじょそこらの王様ではない。世界記録保持者であるダイエーの王|監督《かんとく》にはちょっと負けるかもしれないが、おれの肩書《かたがき》もけっこうすごい。ごく普通《ふつう》の背格好《せかっこう》でごく普通の容姿、頭のレベルまで平均的な男子高校生だったはずなのに……。
おれさまは、魔王《まおう》だったのです。
いきなり異世界に呼び付けられ、超絶《ちょうぜつ》美形の皆さんに取り囲まれて、今日からあなたが魔王ですなんて言われたら、誰《だれ》でもこれは夢だと思う。おれもそう思った。ところが、目を覚ました自分の首には、あちらの世界で貰《もら》ったお守りが。
あれからずっと胸に揺《ゆ》れている、五百円玉サイズの石を握《にぎ》ってみた。銀の《ふちど》縁取りに、空より濃《こ》くて強い青。ライオンズブルーの魔石は、夢ではないのだと訴《うった》えかけてくる。
おれは魔王の魂を持って生まれ、あの国を守ると約束した。
約束したんだ。
「渋谷っ、しーぶーや、本来なら所沢《ところざわ》で乗り換《か》えしてる時間だよ」
「だーいじょーぶだって。コンビニ寄ったりしなければ、この時期のデーゲームは充分《じゅうぶん》間に合うの。試合前の練習時間から、じっくり解説してさしあげますってェ」
「先に外出て待ってるから、少しは急げよなっ」
「はいはい」
銭湯の良さが解《わか》らないなんて、あいつは日本人の風上《かざかみ》にも置けない。あと百数えたらあがろうと、おれは鼻まで湯槽《ゆぶね》に沈《しず》む。目の前を緩《ゆる》やかな流れが横切った。左から右へ、ゆっくり、ゆったりと。
ん?
何故、銭湯の浴槽《よくそう》に一定方向への流れが?
警告を発する心の声に逆らって、恐《おそ》る恐る右手に首を回す。そちら側は壁《かべ》だった。水色の正方形のタイルと白いメジが、平安京《へいあんきょう》なみに整然と広がっている。拳大《こぶしだい》の黒い円を中心にして。
「……黒い円……穴っ!?」
流れの行き先はそこだった。
数秒前より明らかに勢いを増した湯は、その穴にどんどん吸《す》い込まれてゆく。
おれは誰かに報《しら》せようと、前を隠《かく》すのも忘れて立ち上がった。真っ昼間の男湯は貸し切り状態で、子供も大人も長老もいない。
「おい、おーい村田っ! ちょっと店の人、お店の人を呼んでくれ!」
意味なく立ったりしゃがんだりを繰《く》り返しながら、いや待てこれは人にものを頼《たの》む態度じゃないぞと思いなおす。
「村田くん、どこ行っちゃったの!? 村田健さーん! 番台さん呼んでくれー、じゃなかった呼んでくださーい! 湯槽に穴があいてますー、そっからお湯が漏《も》れてますよーう」
誰も来ない。
別におれのせいじゃないんだからさ、知らん顔で脱衣所《だついしょ》に戻《もど》っちゃって、服着てから「お湯が漏れてるみたいだよ」って帰りがけに教えればいいじゃん。だってここで大騒《おおさわ》ぎして、事情|聴取《ちょうしゅ》なんかされちゃったらどうする? 試合開始に間に合わないどころか、おれが壊《こわ》したことになっちゃうかもしれない。下手《へた》をしたら豚箱《ぶたばこ》入りで臭《くさ》いメシを食わされることになる。
ふと穴に目をやると、心なしか先程《さきほど》より大きくなったような。神様、おれはどうしたらいいんでしょうか。正しいお考えをお聞かせください。もしかして魔王という立場上、神様に助言を求めるのはまずいのかもしれない。だったら日本人の心の拠《よ》り所《どころ》、霊峰富士《れいほうふじ》からお力を分けていただこうと、背後《はいご》の巨大《きょだい》な壁画《へきが》を振《ふ》り返る。
箱根《はこね》八里の半次郎《はんじろう》が、旅装束《たびしょうぞく》で微笑《ほほえ》んでいた。何を頼んでも断られそうだ。
「くそっ、最近の銭湯壁画ときたら……ッ! すいませーん、これこのままお湯が流れ出して建物の基礎《きそ》とか土台に染《し》み込んでそっから腐《くさ》って倒壊《とうかい》しちゃったらエライことになっちゃいますよー! 誰か、だーれーかー」
自分で言っていて恐《こわ》くなってきた。とにかくこの流れを止めなくては。
穴に詰《つ》められそうなものを探しても、周りにあるのは桶と椅子《いす》ばかりだ。石鹸《せっけん》ならと思いつくが、あるのはボディーシャンプーのボトルだけだ。
その時おれの頭に浮かんだのは、村を洪水《こうずい》から守ろうと、堤防《ていぼう》の穴を腕《うで》で塞《ふさ》いだ少年の話だった。自らの生命をもって人々を救った、涙《なみだ》なくしては語れないエピソードだ。
どうする? 突っ込むか? おれ。
「えーいもう、死ぬわけじゃなしっ……ええッ!?」
思い切って右手を突っ込んでみたら、その衝撃《しょうげき》でタイルが壊れ、穴は倍近くに広がってしまった。こうなるとおれが「犯人」なのか!? 慌《あわ》てて左手も押《お》し入れてみる。漏洩《ろうえい》は治まるどころか、おれの身体《からだ》が動きそうなくらいに強まっている。ザ・バキュームという勢いで、おれごと中身を吸い出しそうだ。まさかそんな、それなりに成長した平均的体格の男子高校生が、実際に風呂《ふろ》に流されるはずが……。
けどおれ、過去に一度、流されてなかったっけ?
「また!?」
両手首をぎゅっと掴《つか》まれたような状態で、おれはタイルの穴に吸い込まれる。いやそんな、物理的に無理だ、生物学的にも無理だ、グローバルに地球規模で考えても無理だ。どうサルティンバンコっても無理なのに!
予想どおり、あの日と同じスターツアーズ。
なあ、にーちゃん。
なんだ弟?
人間の身体って「ワープ」するとどういうふうになっちゃうの?
はあ!?
だってさあ、人類はそのうちすごい宇宙船を造って、他《ほか》の惑星《わくせい》にも行くんだろ? スターウォーズとかスタートレックとかレッドドワーフ号みたいに。だったらその時までに肉体を訓練しとかないと、ワープ中にゲロ吐《は》いたりしたらみっともないだろー?
ばっかじゃねーのお前!? 夢みたいなことばっか言ってんじゃないよ。そんなこと考えてるヒマがあったら、英単のひとつでも暗記しろっての。そんなんだから成績|悪《わり》ィんだよ。先週も駅で元担《もとたん》のオカムラに見つかって「実の兄弟とは思えない」って笑われたんだからな。空間移動装置なんて俺達《おれたち》が生きてるうちには開発されっこないんだから、そんな心配するだけ無駄《むだ》! ワープ訓練なんて必要なし!
とか言われても、やっぱやっとくべきだった。
だって実際に、おれはこうして何度も空間移動をしているわけだし、エチケット袋《ぶくろ》を持つ余裕《よゆう》もないから、吐瀉物《としゃぶつ》がどうなるか判《わか》らないし。
さっきまでと明らかに違《ちが》う場所で目を覚ましても、今更《いまさら》取り乱したりはしなかった。
だってまた、呼ばれちゃったんでしょう? おれ。
水に流されて異世界に来てしまうのは初めてではない。公衆便所からでないだけ今回の方がましだ。剣《けん》と魔法《まほう》の世界に迷い込んだ主人公が英雄《えいゆう》として大活躍《だいかつやく》する話はごまんとある。おれの場合はちょっと特殊《とくしゅ》だが、キャラ設定でジョブが「魔王」に変わっただけのことだ。
まだはっきりしない視界は一面の灰色で、仰向《あおむ》けに横たわった身体は海月《くらげ》みたいにゆらゆら揺《ゆ》れていた。背中はほんのりと温かいのに、逆に胸と腹は薄《うす》ら寒い。浴槽《よくそう》の穴に突っ込んだはずの両手は、人差し指だけを突き出して組まれている。忍術《にんじゅつ》か、カンチョーか。
いったい何の穴を塞《ふさ》ごうとしてたんだ……。
灰色だったのは高い天井《てんじょう》で、ゆっくりと周囲を見回すと、わざとらしい椰子《やし》の木とかジャングルがあった。昔、町内の子供会で行った、サマーランドによく似ている。どうやらおれは温水プールの中央に、気を失って浮《う》かんでいたらしかった。
慎重《しんちょう》に立ってみると、ちゃんと足の裏が底に届いた。水位は臍《へそ》よりちょっと上で、お子様専用といった深さだ。遠くで数人が身を寄せ合っている。もしかしておれの髪《かみ》の色に怯《おび》えているのだろうか。この世界では黒目黒髪は、魔族だけに生まれる希少価値で、ほとんどの人間の皆《みな》さんは縁起《えんぎ》が悪いと恐《おそ》れている。
縁起が悪いというより、不吉《ふきつ》。
不吉というより、邪悪《じゃあく》。
悲しいことにここでは種族間差別が激しくて、魔族と人間は敵対している。人間は魔族を恐れ攻撃《こうげき》し、魔族は人間を嫌《きら》い軽蔑《けいべつ》している。その状況《じょうきょう》を少しでも改善したくて、おれは王になると宣言したのだが。
「あの、大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。おれほら何にもしませんから。どっちかっていうと女の子には人畜《じんちく》無害のレッテル貼《は》られてる奴《やつ》だから」
いくら理想に燃えた王様でも、プールで全裸《ぜんら》じゃ説得力がない。
「露出《ろしゅつ》好きとか、そういうビョーキでもありませんし」
肩《かた》まで浸《つ》かっているので判らないが、恥《は》じらう様子や仕種《しぐさ》からして、先方は女性グループと思われる。五、六人のうち一番手前にいたオレンジの髪のおねーさんが、ジャズシンガー張りのハスキーボイスで問いかけてきた。
「……陛下《へいか》?」
「え?」
思わず小躍《こおど》りしてしまう。
おれの日本人的黒髪を見て「陛下」と呼べるのは魔族しかいない。つまり彼女達は魔族の一員で、ここは眞真《しんま》国内のどこかということだ。前回は国境外に落ちてしまい、人間の村人の集団に石は投げられるわ鋤《すき》鍬《くわ》はかまえられるわという、悲惨《ひさん》なウェルカムイベントだったのだ。
「良かった! 今回は場所が普通《ふつう》で! ただちょっと格好《かっこう》だけがセクシー過ぎちゃったんですけど……あのー誰《だれ》かバスタオルとか持ってたら、必ず洗濯《せんたく》して返しますんで、貸してくれたりしませんかねぇ。それか皆さん全員がしばらく目ぇ瞑《つぶ》っててくれれば、さーっとこの場を立ち去るんだけど……え!?」
「陛下ァーッ!」
妙《みょう》に肩幅《かたはば》の広い金髪《きんぱつ》の人が、野太い声で叫《さけ》んで立ち上がった。
おれだけではなく、彼女達も全裸だ。
「ええッ!?」
「陛下よーッ、本物よーッ、カーワーイーイー!」
派手な水しぶきを上げて駆《か》け寄ってくる。
「あれっ、あれ皆さん、どーして誰一人として胸が……ぎゃ……」
水中に押《お》し倒《たお》されてしまう。生まれてこのかた、こんなにモテモテだったためしはない。金髪美女がおれを取り合うなんて夢のようだ。だが大きな問題がひとつあった。
誰一人として、胸がないのだ。もちろん、バストにあたる場所には引き締《し》まった膨《ふく》らみがちゃんと存在する。するこたするんだけど、これは胸筋のような気がするんだよなあ。しかも積極的なおねーさんたちは、抱《だ》き締めて頬《ほお》ずりまでしようとする。
「ざらり……って今のヒゲ!? ヒゲの剃《そ》り跡《あと》っ!? もしかしてあんたたちって、おねーさんじゃなくておにー……がぼ……」
「陛下、お迎《むか》えに参りまし……ああっ!!」
ぱーんとドアが開いた。
あらゆる意味でいけない世界に連れていかれそうになっているおれの耳に、聞き覚えのある声が届いた。シブヤユーリを一人前の魔王にしようと一生|懸命《けんめい》な二人組が、息急《いきせ》き切って走ってくる。それはもう、ステージへの花道をゆくアイドルのように。
ただし、外見だけなら地球産のイケメンさんたちなど足元にも及《およ》ばない。あんまり綺麗《きれい》すぎて背中に花びらとか見えそうだ。
教育係のフォンクライスト卿《きょう》ギュンターは、灰色の長い髪を振《ふ》り乱し、紫の瞳を泣きそうに潤《うる》ませていて、超絶《ちょうぜつ》美形が台無しだ。それに比べてウェラー卿は、不謹慎《ふきんしん》な笑いを堪《こら》えているような、演技派|俳優《はいゆう》っぽい顔をしていた。そりゃあないよコンラッド、ついこの間の夜半には、キャッチボールした仲じゃないの?
おねーさんたち改めおにーさんたちは、おれの下半身に抱きついたりしている。
「早く助け……がぼゴ……ああでっ、でボっ、プールサイドは走るの禁……ッ」
「陛下、ご無事ですか!? その手を離《はな》しなさいお前たち! そのお方をどなたと心得る!?」
水戸《みと》黄門《こうもん》ではない。携帯《けいたい》電話でいうパールホワイトの服が濡《ぬ》れるのもかまわず、ギュンターは一団に割って入った。印籠《いんろう》とか預けておけばよかったよ。
「……ギュンターさまですって?」
おにーさんたちの顔色が変わる。
「な、なんですか、その目つきは」
教育係はたちまち彼等の視線を釘《くぎ》づけにしてしまう。
「きゃーっ陛下も可愛《かわい》らしいけどギュンターさまもステキーっ! さすが眞真国一の超絶美形、濡れるとますます美しいわーッ」
「ぎゃああああああ」
嬌声《きょうせい》というより怒号《どごう》に近い声をあげて、野郎どもは美人さんに襲《おそ》いかかる。
まったく、美しさは罪だ。
「はい、救出成功」
ラガーマンのスクラムの中央から零《こぼ》れたボールを拾うみたいに、コンラッドがおれを抱《かか》え出す。そのまま湯から引き上げられ、ホテルのバスローブらしき物をかけてもらう。
おれの貴重な野球仲間は、記憶《きおく》どおりに爽《さわ》やかに言った。
「お帰りなさい、陛下」
「……ただいま、名付親。あんたは名付親なんだから、他人|行儀《ぎょうぎ》に陛下なんて呼ぶなよ」
「そうでした」
彼こそがおれの魂《たましい》を地球にまで運び、ボストンの街角で臨月だったおふくろを相乗りさせてくれた好青年だ。従ってウェラー卿コンラートはアメリカ帰りで、おれの名前をつけた人だ。こんなに若くてかっこいい男が名付親だなんて、クラスの女子が知ったら羨望《せんぼう》の嵐《あらし》だろう。けれど二十歳《はたち》くらいに見えはしても、実際にはうちのお祖父《じい》ちゃんよりも年上だ。この世界では魔族《まぞく》の血はとても長命で、おまけに美しさも折り紙付き。コンラッドは人間とのハーフだから地味《じみ》なほうだが、それ以外の貴族達はすこぶるつきの美形ぞろい。ギュンターとまではいかなくても、人間離れした美貌《びぼう》の連中がぞろぞろいる。
ま、基本的に人間じゃないんだけどね。
顔もガタイも脳味噌《のうみそ》も十人並みのおれとしては、劣等感を刺激《しげき》されて、こんなんで本当に王様なのかと膝《ひざ》を抱《かか》えて悩《なや》むばかりだ。
「あっちの世界はどうです、母上はお元気ですか。ああそれから」
コンラッドは、銀を散らした薄茶《うすちゃ》の瞳《ひとみ》をいたずらっぽく細めて付け足した。
「レッドソックスは、今何位?」
「この時期の順位なんか参考にならないよ」
おれもニヤついた。彼との共通点はここだ。ボストンでベースボールの楽しさに目覚めちゃったコンラッドは、メジャーリーガーのサインボールも所有している。今のところ眞真国の野球人口は二人、その内訳は、彼とおれ。
「でもほら、今年は野茂《のも》が……へぶしッ」
「お大事に。大丈夫《だいじょうぶ》かユーリ、とりあえず俺《おれ》の上着で我慢《がまん》して。風邪《かぜ》でもひかれたら大変だ。ギュンターに何を言われるか判《わか》らない」
「平気、鼻に水が入っちゃっただけだから。そういえばギュンターは」
彼は温水プールの中央で、おねにーさんたちに揉《も》みくちゃにされていた。
「こん、コンラートっ、笑ってないで、助け……ッ」
「いやーっ、お逃《に》げにならないでギュンターさまぁーっ!」
というより「逃がすか!」って感じ。おれは知り合って初めて、彼の美しさに感謝した。
「ありがとうギュンター、おれなんかのために。あんたのことは一生、忘れないよ」
「陛下《へいか》!? お待ちください陛下っ! 私《わたくし》まだ死んだわけでは、私まだーっ」
日本時間で約一ヵ月前、おれはこの国の王都にある血盟城に滞在《たいざい》した。
「でもここは、あそこと違《ちが》う感じだな」
「仰《おっしゃ》るとおりでございます、陛下。この城は、偉大《いだい》なる魔王とその民《たみ》たる魔族に栄えあれああ世界の全《すべ》ては我等魔族から始まったのだということを忘れてはならない創主たちをも打ち倒した力と叡知《えいち》と勇気をもって魔族の繁栄《はんえい》は永遠なるものなり……」
うっとりと目を閉じて歌いあげるギュンター。あたかもオペラのテノールのように。上向いた指先まで決まっている。国歌かと思いきや国名である。大胆《だいたん》に略すと眞真国。
「……王国の東に位置するヴォルテール城でございます」
「ヴォルテール! てことはもしかしてグウェンダルのお城!?」
「お察しになられるのが早い。陛下のご聡明《そうめい》さには感服させられること頻《しき》りです」
通された部屋《へや》は、一流ホテルのイベントホール並みの広さだった。壁《かべ》には剣《けん》と盾《たて》が掛《か》けられていて、四隅《よすみ》には中世の騎士《きし》風の甲冑《かっちゅう》人形が立っている。
城の主人であるフォンヴォルテール卿グウェンダルの姿はない。学ランタイプの服を着せられたおれと、長い脚《あし》を組んで壁に寄り掛かっているコンラッド、それに嬉《うれ》しげに目を細めるギュンターだけが暖炉《だんろ》にあたっている。眞真国カレンダーでは春の第三月、それでも日没後《にちぼつご》には火が恋《こい》しい。
「ああ陛下、ご健勝そうでなによりです。急にお姿を消されたので、あまりのことに私、十日も泣き暮らしてしまいました」
コンラッドが後ろで、ほんと、と口だけ動かした。
「そりゃ悪かった。でもおれ魔王である前に、一人の家庭人でありたいからさ」
「なんとご立派なお言葉!」
ギュンターの頬には、巨大《きょだい》な唇《くちびる》マークがべったり残っている。つけた相手が相手なだけに、モテすぎるのも考えものだ。
「でしたら尚更《なおさら》、国家のことをお気にかけてくださらなくては。即位《そくい》なされた今となっては、民《たみ》は皆、王の子供と同じですから」
「十五歳にして、すげー子沢山《こだくさん》!」
「はい。それでは陛下、こちらの文書にご署名をお願いいたします。直轄地《ちょっかつち》の春期の税収に関する報告と雨期に向けて堤防《ていぼう》の強化を申請《しんせい》した地区への許可です。担当官の話を聞きました上で、僭越《せんえつ》ながら申し上げれば、この辺りの数字で妥当《だとう》かと存じます」
おれよりもあなたのほうがよく理解しているでしょう。なるほど、国政ってこうやって成り立っているんだな。トップに立ってる者よりも参謀役《さんぼうやく》のが頭がいい。
「ここにサインね……サイン……くーっ緊張《きんちょう》するなあ。ガキの頃《ころ》は野球選手にでもなんなくちゃ、サインなんて頼《たの》まれないと思ってたからねっ」
カードで買物すると、誰《だれ》でもサインを求められるのだと知った十二の夏。
おれの鯱張《しゃちほこば》った署名を見て、ギュンターはまたしてもベタ誉《ぼ》めモードに入った。
「素晴《すば》らしい。この優美にして勇壮《ゆうそう》な線の組み合わせ! このような芸術的な書体は目にしたこともございません。いかに手先の器用な者とて、真似《まね》ることのかなわぬ複雑さですね」
そりゃそうだ、あの有名なジャン・レノでさえ、漢字を写すのには苦労していたのだ。四字熟語のごとく並べられた渋谷有利原宿不利には、贋作家《がんさくか》だっててこずるに違《ちが》いない。
ん? 渋谷有利原宿不利って……原宿まで自分で書いちゃうことはないだろう!?
「さて」
ギュンターが急に真剣《しんけん》な表情で言った。いやな予感がする。教師がこんな顔をすると、次にくるのは大体が縁起《えんぎ》でもない発言だ。お前をベンチ入り名簿《めいぼ》から外すとか、福田《ふくだ》君の給食費が盗《ぬす》まれましたとか。銀行|振込《ふりこみ》のはずなのに。
「陛下には、重要なご決断をしていただかなければなりません」
「なっ、なにかな」
ずいっと詰《つ》め寄ってくる。特に男に弱いわけではなくても、胸の鼓動《こどう》が高まってしまう。
「人間どもに不穏《ふおん》な動きがあるのです。近いうちに一戦まじえることになるでしょう。どうか開戦のお覚悟《かくご》を」
「開戦って……戦争!? 言っただろ!? おれは絶対に戦争しないよ! 覚悟もなにも、しないったらしない。この国の王様になったときに、戦争はしないって決めただろ!?」
そう、おれが魔王《まおう》になったのは、魔族と人間の共存のため。種族が違うから殺し合っていいなんてのは間違ってる。戦争は絶対に間違ってるんだ。この世界でそれを唱える人がいないなら、おれが最初の一人になるしかない。たとえ魂《たましい》は魔王でも、日本人として生まれ育ったからには、それが異国での役割ってものだ。
「ですが陛下、我々から攻《せ》め込みはしなくても、奴等《やつら》が仕掛《しか》けてきたらどうなさいます? 戦わずして降伏《こうふく》するようなことは、我《わ》が国としてもできるはずが……」
「それでもとにかく戦争は駄目《だめ》だ! 開戦の書類にサインなんかしないかんなッ! あっまさかさっきのがそうだったんじゃないだろうな!? だいたいなんだよ不穏な動きって、具体的に言ってくんなきゃわっかんねーよッ」
背後《はいご》から、絶対無敵の重低音が答えた。
「金に任せてやたらと法術士を集めている。人間どもが我々魔族と渡《わた》り合うには、法術使いが不可欠だからな」
大きな扉《とびら》を開け放って、天使と悪魔が立っていた。ゴッドファーザー愛のテーマでご登場のこの城の主人、フォンヴォルテール卿グウェンダルと、ウィーン少年合唱団OBかという本格派美少年、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムだ。
おれのコンプレックスを刺激《しげき》してくれる美形集団が、これで全員|揃《そろ》ったわけだ。
似ていない兄弟というのは、本当に存在する。
前魔王の長男であるフォンヴォルテール卿グウェンダルは、限りなく黒に近い灰色の髪《かみ》と、どんな美女でも治せない不機嫌《ふきげん》そうな青の眼《め》で、誰よりも魔王に相応《ふさわ》しい容姿を持っている。声も腰《こし》にくる低音だ。一方、三男のフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムは、身長体重はおれといい勝負で、天使のごとき美少年だ。彼が魔族だと知らなければ、神様が創《つく》った最高|傑作《けっさく》だと思ってしまうだろう。きらめく金髪《きんぱつ》、白い肌《はだ》、長い睫毛《まつげ》とエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》。ただし性格はクソ生意気で、きゃんきゃん吠《ほ》えるポメラニアン。
この二人が血の繋《つな》がった兄弟なのだから、遺伝ってやつは奥《おく》が深い。さらにもっと驚《おどろ》かされることに、二人の間にはコンラッドが入る。
前魔王現上王陛下フォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエ陛下こと、フェロモン女王ツェリ様が、剣以外には取り柄《え》もなく素性《すじょう》も知れない人間と恋《こい》に落ち、生まれた息子《むすこ》がウェラー卿コンラートだ。他《ほか》の魔族達の美形ぶりからすると、彼は非常に人間に近い。うまく説明できないが、ハリウッドで映画のオーディションをすると、顔がまあまあの役者はいっぱい来るだろう、その中で脚本家が一番気に入っている脇役《わきやく》として、選ばれるのがコンラッド。審査員《しんさいん》のコメントは、こうだ。
彼の演技の裏側には「真実」が見えるから。
そいつどんな奴? って誰かに訊《き》かれたら、ウェラー卿のことだけはこう答えられる。彼以外の魔族の様子ときたら、国語教師でもなければうまく言えない。美辞をどれだけ尽くしても、完全に描写《びょうしゃ》することは不可能だろう。
とにかく、グウェンダル、コンラート、ヴォルフラムの三人は、同じ母親から生まれた兄弟だが、外見も性格も考え方も、似ているところは一つもない。
「そいつが私《わたし》の城に入る許可を、与《あた》えた覚えはないのだがな」
「ユーリ! 戴冠式《たいかんしき》の最中に消えるなんてっ、まったくお前という奴は……」
おれを見下して嫌《きら》っているグウェンダルはそう言い捨て、おれにくってかかるのが趣味《しゅみ》のヴォルフラムはそう切り出した。二人が同時に歩きだして、中央のテーブルに寄ってくる。脚《あし》の長さの違いからか、グウェンダルが先におれの椅子《いす》まで来た。
高い位置から見下ろしてくる眼は、権力者の威厳《いげん》と自信に満ちている。
あんたが何と言おうとおれはもう魔王として即位《そくい》したんだから、言い包《くる》められたりビビったりしないぞ、と身構える間もなく、彼は脇を通り過ぎて、ギュンターとコンラッドの前に地図を広げた。
「カヴァルケードだ」
「カヴァルケードが? まさか」
「いや、ソンダーガードと見せかけて、カヴァルケードが金を出していた。私の間者の言葉を信じないというのなら、独自に調べてもらうしかない」
カバとゾウがどうしたっていうんだ。
地図を覗《のぞ》き見ると、眞魔国らしき土地と、海を隔《へだ》てて向かい合った大陸を指差している。色分けされた国のどれかが、カヴァルケードでソンダーガードなのだろう。グウェンダルの最初の言葉から判断すると、カヴァルケードの人間達が魔族を攻撃《こうげき》しようとしているらしい。
ギュンターは、典型的な頭のいい人口調になっている。
「しかしカヴァルケードは今、海賊《かいぞく》問題でそれどころではないはずでしょう? タウログからの便もことごとく被害《ひがい》にあっていて、ソンダーガードやヒルドヤードからも援助《えんじょ》を受けているという話では……」
「表向きはな。だが海賊被害の何割かは、自国に戻《もど》されているという情報もある」
狂言《きょうげん》!? 狂言海賊!?
大人って汚《きたな》いわ的な世界に耳をそばだてているおれの首を、ヴォルフラムが乱暴に引き戻した。湖底を思わせる緑の虹彩《こうさい》が、こちらに照準を合わせてきた。
ターゲット、ロックオン。
「この国の王になると言っておきながら、ぼくの前から姿を消すとはどういうことだ!? 戴冠式が無事に済んだら、きちんと決着をつけるつもりだったのに!」
「け、決着って、あれは引き分けでいいって……あっいやお前が気にくわないんならさ、おれの負けでもいいってことになったじゃん。そんな、終わってみれば決闘《けっとう》なんてさ、タイマン張ったらダチ! みたいなもんでさっ」
そうだった。眞魔国の礼儀《れいぎ》作法を知らなかったおれは、前回この天使のような美少年(でも実年齢《じつねんれい》は八十二)に、うっかり無礼をしてしまったのだ。ビンタが求婚《きゅうこん》で食事中に落ちたナイフを拾ったら決闘だなんて、現代日本では考えがたい。決闘なんて血なまぐさい風習は、平和ボケした高校生には無縁《むえん》だった。それ以前に、男同士でしょ、おれたち。
「お前はけっこう強かったし、おれもなかなか頑張《がんば》った。もうそれでいいじゃん、決闘とかリベンジとかいわなくてもさぁ」
「その決着じゃ……あっ、ユーリ! これはどういうことだ!? ぼくがやった金の翼《つばさ》は身につけていないのに、コンラートの魔石《ませき》だけは持っているなんて……ッ」
「え? だってあれブローチだったからさ、まさか胸にじかに針刺《はりさ》すわけにいかないだろ。なにしろ今回、全裸《ぜんら》だぜ!? 全裸でこっちに喚《よ》ばれちゃったんだから」
「服も着ずに!? まさかお前、あちらの世界の素性《すじょう》も知れぬ者と、情事の最中だったのでは」
「情……はあ!? おれが!? 十五年間モテない人生送ってきたこのおれがぁ!?」
「そう言ってごまかそうとしても無駄《むだ》だぞユーリ。だいたいお前には慎《つつし》み深さというものが足りない。まあ、少しばかり……見目いいし……誘《さそ》われるのは致《いた》し方ないにしても、だ」
「はあ、つ、慎み深さですか」
それ以前に、あんたたち独特の美的感覚で、おれをハンサム侍《ざむらい》にするのはやめてくれよ。
その時、いつもどおりのんびりとした、けれど背中には真実を隠《かく》した声で、コンラッドが討議中のギュンターとグウェンダルに言った。
「二人とも、そういうことは、まず陛下に報告するのが筋じゃないか?」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》の後、教育係は慌《あわ》てて自らの立場を思い出し、長男は不愉快《ふゆかい》そうに末弟と目の上のたんこぶであるおれを眺《なが》めた。
「子供は子供同士、話があるようではないか」
おれは全力で、コンラッドが靴《くつ》をはさんで開いてくれた扉の隙間《すきま》に駆《か》け込まなくてはと焦《あせ》る。彼の信頼《しんらい》に応《こた》えなくては、王と名乗るべき資格はない。
「いっ、言っただろ? 戦争はしない。おれのこの目の黒いうちは、誰《だれ》も戦争なんかで死なせたくないんだ」
案の定《じょう》、駆け込み乗車は危険だった。たちまち冷たい反撃《はんげき》にあう。
「では、どうしたいというのかね、陛下」
フォンヴォルテール卿の「陛下」にはいつも刺《とげ》があり、腕組《うでぐ》みをして冷たく見下ろしてくる視線にも険がある。二ヵ月前のおれだったらたちまち引き下がっていただろう。
「間もなく攻《せ》めてくる人間どもに、応戦もせずに国をくれてやれとでも?」
「攻めてくる相手が判《わか》ってるんなら、対策だって立てやすいじゃないか! 話し合いの場を持ちゃあいいんだよっ。そっちはうちの国の何が欲しいのって訊いて、だったらそっちの特産物のあれと交換《こうかん》しましょうとか、協定とか条約とか結べばいいんだ」
グウェンダルは呆《あき》れたように右手を振《ふ》り、部屋《へや》の外に控《ひか》えている衛兵を呼んだ。
「陛下はお疲《つか》れのご様子だ。部屋までご案内しろ」
新前《しんまい》魔王であるおれは、思わずあっさりご案内されそうになる。
「これはご親切に……じゃねーぞ!? 待てよ、話は終わってないぞっ!? 王様の命令なんだから、ちゃんと従えよッ」
一生トラウマになりそうな眼《め》で睨《にら》まれた。
「し、従ってくだサイ」
「知ったような口をきくな。話し合いに応じるような相手であれば、素人《しろうと》に言われるまでもなくそうしている」
「断られたの? まあそうだよね、アンタがえっらそーにしかも高飛車《たかびしゃ》に話し合おうって言ったって、普通は恐《こわ》くてやだって思うよ」
おれのことなど壁《かべ》の落書きくらいにしか思っていないグウェンダルが、目に見えて苛々《いらいら》し始めた。誰《だれ》だって落書きに意見されれば頭にくる。それが正しければ尚更《なおさら》だ。
「その点、おれだったら向こうも話を聞いてくれるかもしれない。だってあんたたちみたいに迫力《はくりょく》もないし、どこにでもいそうな平凡《へいぼん》な人間だし」
これには非難ごうごうだった。
「平凡な人間だって!? ユーリがか!?」
「陛下は魔族ですッ! 魔族の中でも高貴なる黒を御身《おんみ》に宿された、正真|正銘《しょうめい》の魔王ですっ」
「コンラート!」
長男は、武人としては評価している弟の名を呼んだ。苛つきが最高潮に達しているのか、卓上《たくじょう》で組まれた長い指はゲームのコントローラーを握《にぎ》ったみたいに動いている。怒《いか》りに震《ふる》えているのかもしれなかった。コンラッドには緊張《きんちょう》のかけらもない。この人が狼狽《ろうばい》するのは、いったいどんなときなんだろう。
「なにか」
「お前の気に入りの新王陛下は、我々魔族と人間どもと、どちらを勝者にするつもりだ?」
「……俺《おれ》には難しい質問だな。陛下はまれにみる大物だから。でも」
彼は勢いをつけて壁から背中を離《はな》し、おれを楽しげに横目で見てから言う。
「戦《いくさ》を回避《かいひ》する方法なら、お勧《すす》めの案がひとつある」
「どんなどんなっ!?」
「まあ落ち着いて。ギュンターが説明しますから」
教育係は、長く長く長く溜息《ためいき》をついた。明らかに不本意ながらという態度だ。心なしか豊かな髪《かみ》が艶《つや》をなくし、超絶《ちょうぜつ》美形も曇《くも》っている。
「我々魔族には、魔王陛下その人しか手にすることのできない伝説の武器があるのです。その威力《いりょく》たるや、ひとたび発動すればこの世の果てまで焼き尽《つ》くすという……実際には小都市を吹《ふ》き飛ばす程度ですが……とはいえそれが伝説の剣《けん》であることに変わりはございません。史上最強の最終兵器、その名も……」
「最終兵器《リーサル・ウェポン》! メルギブだな!?」
「いいえ陛下、モルギフです」
なんだよ、リーサル・ウェポンつったらメル・ギブソンでしょ。その紛《まぎ》らわしい名前を聞いて、グウェンダルは小さく舌打ちした。どうやらお気に召《め》さないらしい。
「最後に発動させたのは八代前のフォンロシュフォール・バシリオ陛下で、その後は杳《よう》として行方《ゆくえ》が判らなくなっておりましたが、先頃《さきごろ》、ずっ……そっ、その在処が……ずずっ」
「見付けたんだね!?」
さっきまでおれに文句をつけることに夢中だったヴォルフラムが、素直《すなお》な感想をぽろりともらした。
「なるほど、最終兵器が魔王の許《もと》に戻《もど》ったと広まれば、周辺の国々も迂闊《うかつ》に我《わ》が国に手を出せなくなるな。千年近く手にした者はいないから、王としての格も上がって畏《おそ》れられるし」
「そんなにすげーの?」
「記録では、モルギフが人間の命を吸収して最大限の力を発揮した時には、岩は割れ川は逆流し人は焼き消えて、牛が宙を舞《ま》ったらしい」
「牛が!?」
驚《おどろ》くポイントを間違《まちが》えた気がするが、とにかく凄《すご》い武器だということは判《わか》った。
「じゃあそれ、その兵器を手に入れれば、この国はどこよりも強くなるんだな? そしたら皆《みな》が畏れをなして、戦争|仕掛《しか》けてくることもなくなる、っと。いいじゃん! いいこと尽くしじゃん!? 今すぐダッシュで取りに行こーぜ? どこに行きゃいいの? 誰が行ってくれんの? メルギブ取りに」
「モルギフです」
「あそ」
ギュンターは俯《うつむ》いたまま続けた。長い睫毛《まつげ》が震《ふる》えている。
「眞魔国の東端《とうたん》であるここ、ヴォルテール地方から、船でかなりの長旅になります。シマロン領ヴァン・ダー・ヴィーア島というずっ……ずず……み、未開の野蛮《やばん》な地に……っ」
「行ったこともないのに未開だの野蛮だの言うのは良くないってェ」
「そ、そうでございますが、ああっ陛下! 私、やはりこの策には賛成いたしかねますッ! 戦で民《たみ》を傷つけたくないと仰《おっしゃ》る陛下のお優《やさ》しいお心遣《こころづか》いには、いち家臣として痛み入るあまり、涙《なみだ》の流れる思いですが」
うわ、涙どころか鼻水が。そんなんでおれに抱《だ》きつかないでください、あっおれの手をとって頬《ほお》ずりとか鼻ずりとかしないでくださいィー!
「モルギフは魔王ほ本人にしか持つことができません。人間どもの領域に陛下がお行きになるなんて、牙《きば》を剥《む》く野獣《やじゅう》の群れに最高級の肉を放り込むような無謀《むぼう》さですっ」
「肉に例えんなよ肉に」
「それ以前に、野獣の群れはどんな肉でも気にしないけどね、陛下」
「しかも陛下っ、ヴァン・ダー・ヴィーアはこれから年に一度の祭りの時期を迎《むか》えるのです。島民のみならず各地から敵がッ、陛下の全《すべ》てを我《わ》がものにせんと狙《ねら》って」
「だからそれって普通《ふつう》の観光客でしょ。ちょっと待て、何を? 何を狙うって?」
グウェンダルが呆れて部屋《へや》を出ていく。
彼の堂々とした後ろ姿を目で追いながら、自分自身に言い聞かせなくてはならなかった。確かにあいつは威厳《いげん》とか風格とか、おれにはないものを持っている。この国の行く末を真剣《しんけん》に考えてもいるだろう。けれど、あんたとおれとではやり方が違う。どちらが正しいかは今だけじゃなくて、この先ずっと判らないかもしれない。
悪いけど、グウェンダル、おれの中の日本人のDNAが、小市民的正義感を叫《さけ》ぶんだよ。
「……ですから人間の領地では魔術の効果が薄《うす》いのです。つまり魔術の練達者では、陛下をお護《まも》りすることができないのです」
よく聞いていなかったが、魔術なんかどうせ使えないから関係ないだろう。
「それはいいんだけどさ、そのモルギフだかいう武器は剣なんだよな? 王様が持つ最終兵器なんだから、ラグナロクとかエクスカリバーとかオリハルコンとか備前《びぜん》オサフネとかって、それがないとラスボスとバトルできないような、超《ちょう》難解なダンジョン奥《おく》にある聖剣なんだろ?」
ギュンターとコンラッドとヴォルフラム、全員が一様に聞き返す。
「聖剣ー?」
「せ、聖剣じゃないの?」
「陛下、またそのようなお戯《たわむ》れを」
「そうだぞユーリ、聖剣なんて有り難くも何ともないだろう」
「陛下、魔王の持つ剣なんだから……」
魔剣に決まってるじゃないですか。