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フォンクライスト卿《きょう》は、もし人間だったらオーマイゴッドと叫《さけ》びそうなくらいに動転していた。だが彼はアメリカ人でも人間でもなかったので、天を仰《あお》いでこう叫んだ。
「陛下《へいか》!」
長い脚だからこそ可能な大股《おおまた》で、広い室内をひっきりなしに歩き回る。開きっぱなしの扉《とびら》の向こうを通り掛《か》かったこの城の主《あるじ》が、怪訝《けげん》そうな顔で入ってくる。
「ギュンター、まだ王都に戻っていなかったのか」
「ああグウェンダル、それどころではないのです! 姿が見えないと思ったら、姿が見えないと思ったらたらたらたら」
「落ち着け。お前、本当にフォンクライスト卿か?」
グウェンダルは冷静に、ギュンターの横から一歩|離《はな》れた。巻き込まれてはたまらない。
「私《わたくし》のことなどいいのです!」
きっ、とばかりに睨《にら》まれる。
「大変なのは陛下です! 姿が見えないと思ったら、ヴォルフラムは陛下の後を追ったらしいのです! ああどうしましょう、万が一、陛下の御身《おんみ》に何事かあったら、私はどう償《つぐな》ったらよいのやら!」
「大げさな。ヴォルフラムだって自分の身くらいは自分で守るだろう、足手《あしで》纏《まと》いになるとも思えんが」
「邪魔《じゃま》にならないですって!? あのわがままプーが!?」
「わがままプーだと?」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れた。
いくら教育係で補佐役《ほさやく》だといっても、つい先日まで王子だった人物を、プー呼ばわりとは大胆《だいたん》だ。しかも当人の兄の前で。グウェンダルが腹を立てるのも当然だが。
「……実は、私もそう思っていた」
「め、珍《めずら》しく意見の一致《いっち》をみましたね」
ここに、眞魔国・ヴォルフラムのことはずっとわがままプーだと言えずにいたんだ同盟、略してプー同盟が成立した。
「えくしッ」
「お大事に」
キャラぴったりの可愛《かわい》いくしゃみに条件反射で言葉を返しながら、おれは荷物を引っ掻《か》き回し、衣装箱《いしょうばこ》の中身をぶちまけていた。
「ああもう、ないないないないないないないーっ」
「何を探しているんだ?」
昼頃《ひるごろ》にようやく快復してきたヴォルフラムが、俯《うつぶ》せに寝転《ねころ》がって訊《き》いてくる。足をすっかり枕《まくら》に乗せていて、時々じたばたと蹴《け》ったりしている。
「このね、バンドのね、ここんとこを留める金具みたいなやつが、確かどっかに入ってたはずなんだよね」
「ふーん」
不満と失望の混ざった声。
その気持ちはよく解《わか》る。おれだって、目の前でまったくの素人《しろうと》が試合に誘《さそ》われたらこうなるだろう。野球のヤの字も知らない奴《やつ》より、おれを使うほうが賢《かしこ》いと思うよって。
これから行くのは舞踏会《ぶとうかい》、まさに元プリンスにお似合いの場所だ。
朝食時の船長の挨拶《あいさつ》から始まって、昼は甲板《かんぱん》をそぞろ歩いてはお茶に付き合わされ、夕方は遊戯室《ゆうぎしつ》でビリヤードもどきに誘われて、日が暮れればディナーのフルコース。やっと終わって風呂《ふろ》に入ると、今度は正装で社交場に集合と、豪華《ごうか》客船は気の休まる暇《ひま》がない。特別室のお客が欠席すれば、すぐに変人と噂《うわさ》になってしまう。
「こんなことなら三等船室とって、終点までずーっと閉じこもってたほうが、目立たずに島まで行けたんじゃねえ? おれ別に二段ベッドで相部屋《あいべや》でも、寝台車《しんだいしゃ》だと思えば我慢《がまん》できるし」
「ぼくはそんなこと耐《た》えられない」
「計画じゃお前は来ないはずだっただろー!?」
「その計画自体が間違っていたんだ」
いつもの調子を取り戻しつつある。だが元気になったからといって、彼を人前に出すわけにはいかない。プライドの高いお貴族様には、縮緬《ちりめん》問屋の関係者役はちょっと無理そうだ。
「その箱には何が入っているんだ」
「ん? ああこれはギュンターが、旅には絶対必要で必ず役に立ちますからって……本だな」
外側の油紙を手荒《てあら》に剥《は》がすと、緑色の山羊革《やぎがわ》の表紙をつけた高級そうな本が現れた。ハードカバー、金の箔押《はくお》し文字でタイトルがあるが、悲しいことにおれは魔族の文字が読めない。
「貸してみろ、読んでやる……春から始める夢日記」
「日記帳ぉ!? なんだあのセンセ、おれに紀貫之《きのつらゆき》にでもなれってのか」
「……本日、初めて陛下《へいか》にお会いした。陛下は私の乏《とぼ》しい想像力で思い描《えが》いていたよりも数倍も数十倍も素晴《すば》らしい方だ」
「なに?」
ヴォルフラムはページをめくり、声を大きくして読み続ける。
「黄金色の麦の穂《ほ》を背にして馬から降り立たれたユーリ様は、白く優雅《ゆうが》な指先で漆黒《しっこく》の髪《かみ》をさらりと払《はら》い、ご聡明《そうめい》そうな輝《かがや》く瞳《ひとみ》で、私《わたくし》に向かって仰《おっしゃ》った」
「わーっちょっと待て、それは何だ!? ギュンターがおれに書かせようとしてる新しい日記帳じゃないのか!?」
「忠実なる真友《とも》フォンクライスト卿よ、私が戻《もど》れたのはお前のおかげだ」
「そんなことは言ってなーいッ!」
どうしておれが、他人の日記でこんなに悶《もだ》え苦しまなければならないのか。自分の日記を朗読されているのなら、のたうち回るのも頷《うなず》けるが。
「ユーリ、用意は……ずいぶん元気になったんだな、ヴォルフ。ギュンターの『陛下ラブラブ日記』をどこで手に入れた?」
居間から覗《のぞ》いたコンラッドが、苦笑いを浮《う》かべつつタイを結ぶ。
「うう……おれにとっちゃサブサブ日記だよう」
「新品のと間違《まちが》えて包んじゃったんだろうけど。さ、いつまでも聞いていたいのでなければ、早く服を着ちゃってくださいよ」
「陛下は何よりも国の、そして民《たみ》のことをお考えになる。ああそのような、ご立派でお美しいユーリ様だからこそ、このフォンクライスト・ギュンターはいつまでもお傍《そば》にいたいのです」
「連れ出して、おれをここから連れ出してくれーっ」
超絶《ちょうぜつ》美形のインテリは、読まれてると知ったらどんな顔をするだろう。
教育係は、すごい顔になっていた。
目は血走り、青白い頬《ほお》には後《おく》れ毛《げ》がはりついて、眉間《みけん》のしわは深く複数だ。半径五メートル以内に女性がいたら、この美しく苦悩《くのう》する姿にもらい泣きを禁じえまい。
「ギュンター、雑務が山程《やまほど》あるのではなかったのか」
「それどころではありません」
カルシウムの燃える独特の匂《にお》いが、ヴォルテール城の室内に充満《じゅうまん》していた。廊下《ろうか》で誰《だれ》かが呻《うめ》いて倒《たお》れた。くさいのだ。
「見てください、この上腕《じょうわん》の関節のひび割れ具合を」
ギュンターは焼け焦《こ》げた骨を高々とかざし、とりつかれたような眼《め》をして宣言した。
「三本の縦線と短い斜《なな》めの交差が二ヵ所。これは行く手を阻《はば》む障害を意味します。つまり今、現在、私めの手の届かないところにおられる陛下に、危険が迫《せま》っているのです!」
グウェンダルの長くて節くれだった指が、無意識に小さく動いている。苛つきを表に出しているのはそこだけで、他《ほか》はいつもどおり不機嫌《ふきげん》そうな貴人のままだ。
「どうでもいいが、何の骨を焼いた?」
「牛です」
「ほう。牛ごときの骨で運命が占《うらな》えるようでは、あの小僧《こぞう》の存在もたかがしれているな」
「牛ごときって。あなたは心配ではないのですか!? 私達|魔族《まぞく》の希望の星なのですよ!? 無関心を装《よそお》うにもほどがあるでしょう!?」
「星やら月やら牛のせいで、私の城に悪臭《あくしゅう》が広がるのは耐《た》えがたい。骨を焼くなら外でやれ。牛を焼きたければ肉ごと焼け。苦情が出ているんだ、苦情が」
恨《うら》みがましく火を消して、心配性の傍用人《そばようにん》はぼそっと言う。
「……どうせアニシナに言われたんでしょうけどっ」
三秒後、フォンヴォルテール卿、心の中だけで逆ギレ。
骨。
鹿鳴館《ろくめいかん》に駆《か》り出されたエキストラよろしく、慣れない正装でぎくしゃく歩くおれを、一気に凍《こお》りつかせたのは、色とりどりきらびやかなドレスのご婦人方でも、ステージで生演奏の管弦《かんげん》楽団でもなかった。
床《ゆか》に散らばる無数の骨。食事の時も、おれたち以外の周りには、鳥や魚の骨が落ちていた気がする。そうこうしている間にも、すぐ前のテーブルで立食中だった女性が、フライドチキンの肉を食いちぎり、ぺっとばかりに骨を投げ捨てた。男らしい。
「そういうマナー……なのかな」
「としか考えられませんね」
テニスコート二面くらいは優にあるダンスホールの中央に向かうには、人間の胃袋《いぶくろ》へと消えていった小動物の屍《しかばね》を越《こ》えなければならない。足の下で物悲しい音がする。物騒《ぶっそう》な舞踏会だ。
おれはといえば美形に囲まれる生活から解放されたにもかかわらず、中途半端《ちゅうとはんぱ》な妙な気分だった。人間ばかりの場所にいるのだから、もっとリラックスできていいはずなのに、どうもびくついて落ち着かない。
誰《だれ》もが道を空け、優雅《ゆうが》に膝《ひざ》を折ってお辞儀《じぎ》をする。男性の中には握手《あくしゅ》を求めてくる者もいたりして、おれはまるで一日警察署長にでもされたみたいな、どうにでもしてくれって気になってきた。ホールの前方につく頃《ころ》には、有名人の苦労がよーく判った。今度、街でプロ野球選手を見かけても、遠くでそっと見守ろう。
近くで聞くとピアノは木琴《もっきん》の音色で、バイオリンは弦の張りすぎで超高音だ。
「ここまできたら腹を決めて、踊《おど》っていただかなくては」
「おれ!? おれが踊れるわけないじゃん! 中三の途中《とちゅう》まで野球部だったんだよ!? チアリーダーじゃなくてキャッチャーだったんだから」
「そうはいっても、ご婦人方が、誘ってもらいたそうにこっち見てるし」
うわ本当だ、おれのことを見ている。中にはよだれをたらさんばかりの、けだものめいたものまである。
「し、しかも男女で組《く》んず解《ほぐ》れつするダンスなんて、小学校の運動会どまりだよ」
「……組んず解れつは大げさだけど、ダンスなんて中学の卒業パーティーでやったでしょう」
USA文化と一緒《いっしょ》にするな。中学の卒業パーティーでは野球部の顧問《こもん》にピザを投げつけてやった。楽しい思い出はそれだけだ。
「ちなみに小学校では、どんなステップを? ワルツ? タンゴ?」
「オクラホマミキサーと秩父《ちちぶ》音頭《おんど》」
両極端《りょうきょくたん》。一緒にするなと自分で言っておきながら、日米混合。共通点は、カントリーという土地柄《とちがら》だけだ。コンラッドは僅《わず》かに首を傾《かし》げて、ちょっと悩《なや》んでから飲み物を置いた。
「じゃあオクラホマミキサーでいきましょう」
「いきましょうって、ええーっ!? やだやだやだやだ、男と組むのはいやだよーッ」
「いきなり女性と踊ってリードしきれずに恥《はじ》をかくより、まず俺《おれ》で練習しときましょうか。大丈夫《だいじょうぶ》、男同士ペアもけっこういるから。テニスでいう男子ダブルスみたいなもんだよ」
聞き捨てならない言葉があったぞ。万年ベンチウォーマーの控《ひか》え捕手《ほしゅ》とはいえ、リードのことには敏感《びんかん》だ。女性をピッチャーに例えるならば、リードしきれないなんてことはあってはならない。
「けどおれ、女子の役やるのは絶対いやだ」
「いいですよ。前々からそっちのパートも覚えたいと思ってたんです。さあ坊《ぼ》っちゃん、えーいつもと逆だから……こっちから俺の腰《こし》に手を回して」
ぎょええ。
おれはもう半泣きで眉毛《まゆげ》も八の字で、コンラッドに囁《ささや》かれるままに足を踏《ふ》み出した。左左、右右、左、右……視力検査か? 右右、左左、ターンターンストップ休み、掴《つか》んで離《はな》れて海老反《えびぞ》ってポン。
靴《くつ》の裏には砕《くだ》ける小骨、さながら地獄《じごく》の舞踏会だ。
「だっ、ダンスのパートって、男女問題じゃなくて、身長関係重視だったみたいだなっ」
「のようですね。相手がグウェンダルじゃなくてよかったでしょう?」
「かんがえっ、たくもないっ」
ホールの中央ではヒスクライフ氏が、礼儀《れいぎ》正しくカツラをとったままで、奥《おく》さんらしき細くて軽そうな女性を、プロレス技《わざ》みたいに回していた。汗と照明に輝く彼は『王様と私』を彷彿《ほうふつ》とさせる。日本では以前、松平健《まつだいらけん》夫妻が……。
「おっと」
急に演奏がスローテンポになり、周囲がみんなお互《たが》いに密着しはじめた。
「チークは、まあこうやって揺《ゆ》れてりゃなんとかなります」
「はあ、揺れてりゃねェ。あっ、すんません」
肩《かた》がぶつかったお隣《となり》さんは、船長と操舵長《そうだちょう》のカップルだった。
嗚呼《ああ》、むくつけき男ペアよ。チークというより、ヒゲダンス。
頭をちょいちょいとつつかれる。振り向くと、見事なオレンジの髪《かみ》の、大柄《おおがら》な女が微笑《ほほえ》んでいた。服の上からでも判るような、筋肉質で引き締《し》まった胴回《どうまわ》り。肘《ひじ》まで隠《かく》す絹《きぬ》の手袋《てぶくろ》。反対に剥出《むきだ》しの肩から背への曲線は、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするような外野手体形だ。
「うっわ……素晴《すば》らしい上腕《じょうわん》二頭筋ですねえ」
「ありがと。よろしければ、わたしと踊ってくださらない?」
これまたジャジーなハスキーボイスだ。ただしセクシーとは程遠《ほどとお》い。勇気をもって誘ってくれたのだろうが、おれの手には余りそうなスポーツマン、いやスポーツレディだ。
「せっかくですけど、あのー……」
「ちょっと待った!」
はい?
レースてんこもりのドレスの女性が、人垣《ひとがき》を掻《か》き分けて進み出る。
「あたしが先に目を付けていたのよ。踊ってもらうならあたしだわ」
すると萌黄《もえぎ》色《いろ》の民族|衣装《いしょう》のご婦人が。
「最初に目が合ったのはわたくしですわ。だったら、わたくしがお相手できるはず」
「お待ちなさい、私なんか真っ先に狙《ねら》いをつけたんだから。お願いするなら私が先でしょ」
あの、骨を投げ捨てたワイルドな人だ。他《ほか》にも皆《みな》さん勇気でてきちゃったらしく、次々とちょっと待ったコールがかけられる。大変なことになってきた。
「第一印象から決めてましたの。どうか一曲」
「あーらそんなこといったら、こっちだって心の中で念じてたのよっ」
「やァだァ、マミリンだって電波送ったんだからァ」
「てゆーかマジあたしチョー気に入ったんだけど」
「夢にまで見た妾《わらわ》の運命の人なのじゃ」
「拙者《せっしゃ》は最後でもかまわぬでござるよ」
ちょっと何か違《ちが》う方も混ざっている。
「いやーすごい、さすがミツエモン坊《ぼ》っちゃん。羨《うらや》ましいかぎりです」
「なにいってんだよコン、えーとカクさんっ、まさかこのまま見殺しにするつもりじゃ……」
「ええ? 自分の主人がモテモテなのは、見てて楽しいもんですよ?」
内心|面白《おもしろ》がっているくせに、浮《う》かべる笑《え》みはあくまで爽《さわ》やかだ。
コンラッドが、しょうがないですねと口にする直前だった。野心家なら武器にしそうなバリトンが、女性の背後《はいご》からおれを狙った。
「決めかねておられるようですな」
「ぴっかりくん! あー、じゃなかった、ヒスクライフさん!」
「これだけ魅力的《みりょくてき》なお方ならば、胸を焦《こ》がす者もさぞや多いことでしょう」
はいはい、こんな野球|小僧《こぞう》がミリョクテキなら、甲子園《こうしえん》行ったら失神だね。
「だがミツエモン殿《どの》はまだお若い。このような光栄に慣れておられまい。ではこういう案はいかがかな」
オーバーに両手を広げ、壁《かべ》ぎわの椅子《いす》でグラスを傾《かたむ》ける、彼の妻を目で示した。
「あれと踊ってやってはもらえませぬか」
妻の横に座《すわ》って退屈《たいくつ》そうな、夜更《よふ》かし体験中の小さな淑女《しゅくじょ》を。
桜色のワンピースからのぞく両足を、交互《こうご》にぶらぶら振《ふ》っている。ほどいた髪《かみ》に貝の飾《かざ》り。
「ベアトリスは、今夜が初めての夜会なのですよ。あの子ももう六歳だ、私の故国では六の倍数の春に初めて夜会で踊ると、その者は情熱的な一生を送るという。かくいう私がその例で」
ユル・ブリナーよりも胸を張って、ヒスクライフは誇《ほこ》らしげに笑った。
「密航まがいのことをしてまで、婚約者《こんやくしゃ》は貴方《あなた》を追い掛《か》けてきた。これは燃えるような恋の結果でしょう。娘《むすめ》にもそんな人生を送らせたい。だからこそ最初の相手になってやってほしいのです」
普通《ふつう》の父親は、なるべく男を遠ざけようとするものじゃないだろうか。外国人の考えることは判らない、というより、異世界の人って難しい。
「いいですか坊っちゃん、彼女の前に行って、一曲踊っていただけませんかとか、お嬢様《じょうさま》お手をどうぞとか、ダンディーにかっこよく誘うんですよ」
「わ、わかった」
少女の席に足を向けると、女性達は気を悪くして散っていった。中には聞こえよがしに舌打ちして、「幼女|趣味《しゅみ》かよ」と捨て台詞《ぜりふ》を残す者もいた。断じてそのようなことはございません。ベアトリスの前にひざまずいて、おれは可能なかぎり男前な声をつくる。
「お嬢さん、お手を拝借《はいしゃく》」
しまった! それでは三本|締《じ》めだ……。
彼女はぴょんと椅子を飛び降りて、自分からフロアの中央へ。積極的だ、きっと父親に似たのだろう。曲は踊りやすいスローテンポのワルツだったが、おれは背中を丸めるために、腰《こし》の引けたみっともないステップになってしまった。
「髪を染めてるの?」
大きな目は、懐《なつ》かしいラムネの壜《びん》のビー玉色で、悪意のかけらも存在しない。そんな澄《す》んだ瞳《ひとみ》で見上げられたら、平然と嘘《うそ》をつける男はいないよ。
「そうだよ、どうしてわかったの?」
「似合わないから」
子供はとても残酷《ざんこく》だ。
「お父さんのことを聞かせて。ベアトリス、きみのお父さんてどんな人?」
「こいのためならなにもかもすてられるひと」
「……なるほど、そりゃあ、かっこいいな」
毎日そう言い聞かされているのだろう。この親子、お受験面接には向いていない。ベアトリスがはにかんだ。ビー玉の真ん中に輝《かがや》きがさし、スターサファイアの色になる。
「あなたも、ちょっとかっこいい」
「おれが?」
三|拍子《びょうし》が終わると彼女は手を離《はな》し、父親の膝《ひざ》に力|一杯《いっぱい》抱《だ》きついた。ぴっかりくんは娘を高々と抱き上げて、日本人なら歯が浮きそうな賛辞を次々と並べる。
「素晴《すば》らしかったよベアトリス、さすがは私のお姫《ひめ》さまだ。とても優雅《ゆうが》に踊れたな」
「王女さまみたいだった?」
「もちろん、お前はいつでも王女さまだよ。お前とお母さまは私の誇りだ」
聞いてるおれのほうが恥《は》ずかしくなってきて、顔にも首にも汗《あせ》がにじむ。無意識に拳《こぶし》で拭《ぬぐ》ったのが悪かった。
「……あ」
右目のどこかで、コンタクトがぐるりと動いた。
やばい。
こんなところで魔族《まぞく》だとばれたら、フクロにされて夜の海に投げられてしまう。お正月っぽいメロディーが浮《う》かんだ。それはかの有名な「春の海」だ。
「コンラッ……ああもう、こんなときに」
ピアノの近くのテーブルで、ウェラー卿は誰《だれ》かと歓談《かんだん》中だ。
よりによって相手はおれにモーションかけてきた女、理想的外野手体形のミス・上腕二頭筋だ。割と、いやかなりマニアックな趣味だとは思う。けれど異性の好みは千差万別。それとももしかして眞魔国では、ああいう女性がもてはやされるのかもしれない。考えてもみろ、おれのことを美しいとか言い切っちゃう国だぞ。イチローか新庄《しんじょう》かというナイスボディが、エキゾチックと評されてもおかしくない。おれはまあ、ツェリ様のがタイプだけどね。
肩なんか抱いちゃって親密そうだ。
「応援《おうえん》してるぜ、コン……カクさん」
彼等二人に、心|密《ひそ》かにエールを送って、おれは独りでホールを抜《ぬ》け出した。
チームメイトの恋愛《れんあい》は、成就《じょうじゅ》を願うのが友情ってもんだ。
使い慣れた二十四時間制で計算すると、時刻は夜の十時過ぎ。闇《やみ》に沈《しず》んだデッキを歩くうちに、少しずつ全身の緊張《きんちょう》がとけてきた。波は緩《ゆる》やかな黒いうねりで船腹を撫《な》でたり叩《たた》いたりしている。真っ黒な海面を見ていると、何故《なぜ》か心が静かになった。
そういえば華《はな》やかで眩《まぶ》しいあの部屋には、足元に縮こまる影《かげ》以外に、黒と呼べるような色がどこにもなかったのだ。
遠くで炎《ほのお》がちらりと揺《ゆ》れる。シルドクラウトからずっとついて来ていた護衛船だろう。
右目の痛みが強くなる。早く戻《もど》って外したくて、おれは小走りに角を曲がった。
「あっすみませんっ」
薄明《うすあか》るい廊下《ろうか》に入ろうとした時に、思い切り誰かとぶつかった。その衝撃《しょうげき》が決定打だった。
「あーっ! 目から鱗《うろこ》が、目からウロコがーっ!」
落ちた。
「申し訳ありませんお客さまッ、どこかお怪我《けが》でもされましたか!?」
「動くな!」
条件反射で相手が止まる。
「おれは生まれて初めてコンタクトを落とした。そして今、生まれて初めてコンタクトを探そうとしている。ランプは床《ゆか》を照らしてくれ。足元に無いことを確認《かくにん》したら、そーっと膝《ひざ》をついて手で探せ」
「は、はい。でもコンタクトって、どんな物なのか……」
おれは冷静に右目を覆《おお》って、左手だけで床を撫でた。
「あのー……顔を怪我されたんですか?」
「そうじゃないよ、あれ、そばかすくんじゃん」
おれに不意打ち食らわせたのは、ピーナッツバターのCMに起用されそうな、満面そばかすの船員見習いだった。心から申し訳なさそうに頭を掻《か》き、一緒《いっしょ》に地面を探しだす。
「朝も変なとこ見せちゃって、夜もまたこんな……ほんとにすみません。仕事で見回りだったんですけど、誰かいるとは思わなくて」
「んー、まあいいよ、コンタクト落として探すのは、少女|漫画《まんが》なんかじゃよくあるらしいし」
遅刻覚悟《ちこくかくご》で一緒に探してくれた相手と、恋に落ちることもしばしばあるようだ。今日が入学式じゃなくて本当によかった。こんなとこでフォーリンラブりたくないですから。
「こんな夜に独りで巡回《じゅんかい》だなんて、見習いさんも大変だねぇ。なのに上司があんな乱暴者じゃ、頑張《がんば》ってんのに割に合わないよな」
「でも、あの時はオレがうっかり梯子《はしご》を降ろしちゃって。あ、乗り降りする梯子の出し方を教わってたんですけどね。だから怒《おこ》られても仕方ないんです。覚えることはたくさんあるのに、オレって頭が悪いから」
顔を上げると、少年は笑っていた。おれはちょっと意外な気がして、左手を休めて膝で立つ。
「仕方ないって? あんなに殴《なぐ》られて?」
「見習いの頃《ころ》は、みんなそうですから。船乗りは誰でも同じです。オレなんか最初の航海から、こんなすごい船に乗れて幸せです」
「……幸せ……なの?」
「ええ!」
ほんの半日前、おれは彼のことを不幸だなんて思った。可哀相《かわいそう》だと決めてかかった。急にそれが自分の中で恥ずかしくなって、慌《あわ》てて下を向いて表情を隠《かく》す。
「いつかこれくらい大きな船を、自分の手で動かすのが夢なんで……あっお客さん、胸に何か光る物がありますよ!」
本当だ、茶色くて小さいガラス片が、ボタンの脇《わき》にしがみついている。ということは今までのおれは、眼鏡《めがね》を頭に乗せたまま「メガネメガネ」言ってたのと同レベルか!?
恥ずかしさ倍増。
誤魔化《ごまか》すように咳払《せきばら》いをして、短く礼を言って立ち上がる。
「では見習いくん」
「リックです、お客さん」
「ではリックくん。見回りご苦労であった。今後もその意気で頑張るようになっ」
返事も聞かずに猛《もう》ダッシュし、自分達の部屋に飛び込んだ。
どうしておれはこう短絡的《たんらくてき》なんだろう。黙《だま》ってじっくり観察するとか、熟慮《じゅくりょ》するってことを知らない。相手チームの隠しだまを、たった一回の打席だけで、ヘボバッターと断定してしまうようなものだ。これではいい捕手《ほしゅ》になれるはずがないし、偉大《いだい》な王様にだってなれっこない。野球の方は……まあ、もうかなり挫折《ざせつ》しているんだけど、王様への道は始まったばかりだ。
おれのキャリアはまだ仮免《かりめん》魔王《まおう》くらい、いや、仮仮免魔王くらいかな。
どっかの中華《ちゅうか》まんのスペシャルみたい。
「聞いてくれよーヴォルフラム。コンタクトすっとんじゃって、もうびっくりでさ」
「踊《おど》ったのか?」
寝室《しんしつ》から出てきた元プリンスは、生成《きな》りのふかふかしたバスローブを羽織《はお》り、ターバンみたいに頭を包んでいる。
「……お前、なに風呂上《ふろあ》がりのマダムみたいな格好《かっこう》してんだよ」
「踊ったのかと訊《き》いているんだ」
険のある声、眉間《みけん》のしわ、腕組《うでぐ》みしたまま仁王立《におうだ》ち。わがまま注意報発令中だ。
「そりゃ踊りますよ、踊りに行ったんですからね。お料理教室に行ったわけでも、映画の試写会に行ったわけでもないんだからさ。それがどーしたの、なんでそんな刺々《とげとげ》しい言い方なの」
「この尻軽《しりがる》!」
「はあ!?」
男に向かって尻軽とはどういうことだ!? おれは脳味噌内《のうみそない》のエンサイクロペディアをサーチして、該当《がいとう》する項目《こうもく》を探そうとした。だがどうにも回転が遅《おそ》い、百科事典をめくるのと大差なかった。しりがい、しりからげ、しりがる……尻軽。
「ああ、フットワークが軽いってこと!?」
すぐ前の「尻からげ」も、ちょっと気になる。
「なーんだ、おれのこと誉《ほ》めてんのか。そうそう、尻は軽いにこしたことないよ、セカンドへの送球も早くなるし」
「裏切り者と言ったんだ!」
「またまた、はあ!? いつどこでだれがだれをどのようにして裏切った!? 何時何分何秒!? おれはだーれも裏切らないし、この先も多分、裏切りません! 裏切るときは信念が折れるときだし、裏切ればどうなるかも判《わか》ってる! それでもお前は裏切れっていうのか!?」
あともう少しで五段活用!
「いいか!? 確かにお前は外見だけは上等だ。中身はといえばとんでもない、へなちょこだがな。目をつける輩《やから》も多いだろう。しかしいちいち取り合っていてどうする!? いくら可愛《かわい》いからって貞節《ていせつ》もなにもなしでは、貴族の伴侶《はんりょ》として認められないぞ!?」
「ちょっと待て! 可愛いのはお前だろ!? それとその貞節ってのはなん……」
突《つ》き上げるような衝撃がきたのは、重要な質問の途中《とちゅう》だった。