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今日からマ王2-4
日期:2018-04-29 21:35  点击:294
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 自分の城の厨房《ちゅうぼう》に入るのは、およそ六年ぶりだった。
 グウェンダルは入り口で足を止めた。なるべくならこれ以上、かかわりたくない。
「ギュンター! 他人の厨《くりや》で何をしている!?」
 イっちゃった眼《め》をしたフォンクライスト卿《きょう》の前には、煮《に》えたぎる油の満ちた大鍋《おおなべ》がある。
「また占《うらな》いか」
「そうです。少しでも危険を察知して、陛下《へいか》のお役に立ちたいのです」
「無駄《むだ》なことを」
 ここで危険を予知したところで、助ける手段が見つかるまい。彼等は魔力《まりょく》の及《およ》ばない海上にいるのだ。しかし額のはちまきと、新たにできた青黒い隈《くま》に、事実を突き付ける気力もなくして、グウェンダルは油に視線を落とした。
「……どうするつもりだ?」
「この煮えたぎった油の鍋に、生きた子ネズミを落とすのです」
 知的で美しく気品ある容貌《ようぼう》だった教育係は、哀《あわ》れな白いネズミを持ち上げた。尻尾《しっぽ》の先を摘《つま》んでいる。その凄絶《せいぜつ》な笑《え》みの中に、真の魔族の姿がかいま見えた。人々を虜《とりこ》にし、迷わせる、魔性《ましょう》の美とでもいうべきか。
 グウェンダルにとっては、そんなことはどうでもいい。
 彼は耳にした全《すべ》ての者がひれふしそうな、威圧感《いあつかん》たっぷりの低音で皮肉《ひにく》げに言う。
「なるほど、相手があの陛下なら、下等動物で充分《じゅうぶん》だろうな」
 口元はシニカルに上がっている。
「そうでした! この私《わたくし》としたことが、なんと愚《おろ》かな過《あやま》ちを! 気高く偉大な陛下の旅を、ネズミごときで占えるはずがない! ああどうしましょう、グウェンダル!? ではせめて」
 ギュンターは、逆の腕《うで》を勢いよく持ち上げた。
「子猫《こねこ》なら」
 ペット本に悪い例として載《の》っているような掴《つか》み方をされて、まだらの猫が震《ふる》えていた。
 冷徹《れいてつ》で皮肉屋な美丈夫《びじょうぶ》(女性達・談)の、思わぬ部分のテグスが切れる。
「やっ、やめろッ!! 貴様これは虐待《ぎゃくたい》だぞ!? ほら恐《こわ》がってめえめえ鳴いているではないか! 可哀相に、もう大丈夫《だいじょうぶ》でちゅよー、そんな酷《ひど》いことはさせましぇんからにぇー」
「……グウェン……あなた……」
「ギュンター……貴様……」
 地の底から響《ひび》くような声に、教育係の血の気が引いてゆく。
「私の目の黒いうちは、二度と子猫の虐待は許さん」
 フォンヴォルテール卿の瞳《ひとみ》は、青だ。
 
 
 
 裏切り五段活用どころではない。救命|胴衣《どうい》はどこだっけ!?
 おれはベッドの下を覗《のぞ》き込む。揺《ゆ》れは一回だけで終わったようだ。
「ほらみろ、やっぱりタイタニックだ! きっと氷山にぶつかったんだ!」
「航路は暖流だぞ?」
「暖流でも氷山に当たったんだーっ」
 ホールやダイナーの方角から、悲鳴と大勢の足音が聞こえる。早くもパニックになっているのだろうか。沈《しず》むとしたらあの楽団は、最後に賛美歌を弾《ひ》いてくれるかな。
「ぼーっとしてんなよヴォルフラムっ、ズボンとコート持って逃《に》げるんだよ! くっそ、こんなときに限ってコンラッドはいねーし……」
「ユーリ!」
 壊《こわ》れるくらい乱暴にドアを開けて、コンラッドが部屋《へや》に駆《か》け込んできた。彼らしくなく表情が強《こわ》ばり、袖《そで》には酒をこぼした染《し》みまである。
「よかった、無事に戻《もど》ってたんだな。ヨザが大丈夫とは言ってたけど」
「ヨザ? ヨザってあのセンターでゴールデングラブとれそうな女性? あのねぇ悪いんだけどコンラッド、ミス・上腕《じょうわん》二頭筋とうまくいったか聞いてる余裕《よゆう》はないんだよな、おれ。なあ、この船沈む!? もう半分くらい沈んでる!?」
 何のことかという顔をした。どうやら氷山ではないらしい。だとしたら座礁《ざしょう》? それとも漁師を十人|喰《くら》った、憎《にく》き幻《まぼろし》の巨大《きょだい》イカ?
「沈没《ちんぼつ》することはないと思う、けどそれ以上にまずいことになった。ヴォルフラム!」
「なんだ」
「剣《けん》はあるか?」
「ある!」
 船酔《ふなよ》いと不機嫌《ふきげん》で青白かった頬《ほお》が、目に見えて興奮の朱《しゅ》に変わる。剣を振《ふ》るえるのが嬉《うれ》しいのだろうか。斬《き》り合いがそんなに楽しいか?
「よし。じゃあ二人とも、ここに隠《かく》れて」
「何すんだよっ」
 コンラッドはおれたちをクローゼットに押《お》し込み、自分は道中ずっと持ち歩いていた杖《つえ》を手にした。すらりと抜《ぬ》き放つと、鋼《はがね》の輝《かがや》き。仕込み杖だとは知らなかった。刃《やいば》を背に回して片膝《かたひざ》をつき、顔を近付けて低く言う。
「冷静に聞いてください。この船は賊《ぞく》の襲撃《しゅうげき》を受けています」
「海賊!?」
「そう、もうかなりの数が突入《とつにゅう》してきてる」
「じゃ、コンラッドも早く隠れろよ!」
「なに言ってるんですか」
 ウェラー卿は、こっちの息がつまりそうな笑みを見せる。
「こういうときのために、俺《おれ》がいるんだ」
 一瞬《いっしゅん》で切り替《か》え、扉《とびら》に手を掛《か》けた。
「できる限りデッキで食い止めます。この部屋は逃げた後だと見せかけるから、足音がしなくなるまで我慢《がまん》してください。決して短気を起こさないように。あなたに万一のことがあれば、ギュンターも国民も泣きますからね」
「あんたは?」
「俺?」
「泣いてくれるんだろ」
 少しだけ目尻《めじり》を下げる。
「そのときは違《ちが》う場所で再会してるよ」
 それどういうこと、と訊《き》く暇《ひま》はない。ヴォルフラムは細身《ほそみ》の剣を握《にぎ》り、自分も外に行こうとやっきになっていた。
「ぼくも外で戦うぞ! ぼくの腕を信じていないのか!?」
「信じてるさ。だからこそヴォルフ、陛下のことを」
 気の強い美少年は言葉に詰《つ》まった。そう頼《たの》まれては反論できない。おれは堅苦《かたくる》しいジャケットを脱《ぬ》ぎ捨て、腕をまくって三男と肩《かた》を組む。
「よーし、じゃ、弟さんのことはおれに任せろ!」
「頼もしいね……ユーリ」
 ヴォルフラムが目を離《はな》したすきに、彼はおれの首に腕を回し、引き寄せて短く囁《ささや》いた。
「俺が戻れなくても、許してくれ」
「なん……」
 両開きの扉が閉められて、コンラッドは足早に行ってしまった。甲板《かんぱん》へと遠ざかる靴音《くつおと》は、あっという間に周囲に呑《の》み込まれる。
 意味深く不安な台詞《せりふ》を残して、彼は戦場へと去ってしまった。
 それからしばらくは、剣のぶつかり合う金属音や、花瓶《かびん》や皿の割れる音、耳を覆《おお》いたくなるような悲鳴と泣き声、慌《あわ》ただしく走る靴音が続いた。
 おれとヴォルフラムは息をひそめて、外部の状態を耳だけで予想していた。
 そのうちに段々と静かになり、悲鳴と怒号《どごう》はなくなった。
 おれは半年前の受験直前に、テレビで見た洋画を思い出した。隠れていた子供が外に出ると、そこには誰《だれ》も残っていない。あんなに騒《さわ》がしく激しかったのに、敵も父親ももういない。
 気持ちが通じたわけでもないだろうが、ヴォルフラムが指を重ねてきた。ウォークインじゃない狭苦《せまくる》しいクローゼットで、おれたちは身を寄せ合って震《ふる》えている。
 いや、震えているのはおれだけだ。
 ヴォルフラムだって一応は軍人階級だ。この程度の危なさの隠れんぼは、慣れているとまではいかなくても、初めてということはありえない。
「……大丈夫かユーリ」
「あっ、あたりまえ、だろっ」
 触《ふ》れていた指をきゅっと握ってしまい、おれは目を閉じて俯《うつむ》いた。
「ごめん」
「かまわない」
 笑われているんじゃないだろうか。
 おれはただ、怖《こわ》いとかビビってるとかじゃなくて、この沈黙《ちんもく》と緊張感《きんちょうかん》が、堪《た》えられないほど苦しいだけで……見透《みす》かしたようなルームメイトの小声。
「コンラートが言っていたように、見つかっても無闇《むやみ》に抵抗《ていこう》するな。そうすれば奴等《やつら》は命まではとらない。お前は見目がいいからな」
「そんじゃお前も手ェ出すなよ。お前のがおれより数段カワイイもん。これだけの美少年つかまえて、斬《き》っちゃえって奴はそうそういないぜ?」
「駄目だ。ぼくは魔族《まぞく》の武人として、戦わずして生き延びることは許されない」
「そんなばかな」
「しっ!」
 鍵《かぎ》をガチャガチャやる音がしてから、それを強引《ごういん》に叩《たた》き壊し、誰かが部屋に踏《ふ》み込んできた。
「貴重品だけ持ち出されてやがんな。もう逃げたんじゃねーのか?」
「そんなはずぁねぇよ。甲板で特別室の客が一組いないって確認《かくにん》したんだからな。あいつはこの船の乗客に詳《くわ》しい。海にでも飛び込んだなら話は別だが、金持ちの物見遊山《ものみゆさん》の旅行客に、そんな度胸のある奴ぁいねえさ」
 二人だ。
 声の特徴《とくちょう》で区別すると、喉《のど》の奥《おく》でキャタピラが回ってそうな戦車ボイスと、きーんとくる高音で耳障《みみざわ》りな戦闘機《せんとうき》ボイスだ。
「それにしても、こいつら本当に金持ちなのかァ? たいしていいもん持ってねーなぁ」戦車
「けどよ、この特別室一|泊《ぱく》の料金で、三等船室で一年は暮らせるっていうぜ」戦闘機
「ひゃー、あやかりてェー」戦車
「馬鹿《ばか》言ってんな。寝室《しんしつ》も探せ」戦闘機……だんだん軍人|将棋《しょうぎ》みたいな気がしてきた。
 ベッド前の床板《ゆかいた》が一枚|軋《きし》むので、二人がそばまで来ていることが判《わか》る。
「そーいや、あの勇敢《ゆうかん》な連中はどうしたよ」
 コンラッドのことだ!
 無意識に身を乗り出してしまったのか、爪先《つまさき》が扉にぶつかった。
「おい! あの中に何かいるぞ!?」
 しまった!
 おれたちは今まさに、時代劇の忍者《にんじゃ》の状況《じょうきょう》だ。天井裏《てんじょううら》や床下で密談を盗《ぬす》み聞きするが、ばれると槍《やり》で刺《さ》されてしまう。「越後屋《えちごや》、今なんぞ物音がせなんだか?」
「ネズミでございましょう、お代官様」そうか、その手があった。
 聞こえるか聞こえないかという囁き声で、おれはヴォルフラムに意見を求める。
「動物の鳴き声で誤魔化《ごまか》せないかな」
「そうだな、ネグロシノヤマキシーなんかどうだ」
 ネグ……なんですかそいつは!? 子供の頃《ころ》によくかけていた鳴き声CDには、そんな難しいのはいなかった。というよりそいつは地球種ではないのでは。
 どんな動物なのか想像している場合ではない。おれたちはネズミにしては大き過ぎるし、かといってクローゼットに牛がいるのも妙《みょう》だ。残るレパートリーはあと一つ、とりあえずこの場は、猫《ねこ》でしのごう。
「に、にゃーあ」
 戦車と戦闘機が色めきたつ。
「ゾモサゴリ竜《りゅう》だ!」
「ゾモサゴリ竜は幼獣《ようじゅう》でも人間を食うぞ!? 二人だけじゃ危ねえ、もっと人を呼べ!」
 竜だって!? 竜っていうとダイナソーの親戚《しんせき》ですか!?
 ヴォルフラムが、がっくりと掌《てのひら》で顔を覆った。
「まずいぞ、あいつら誤解しちゃったよ! おれがいつ竜の鳴き真似《まね》なんかしたってんだ!? おれは可愛《かわい》い猫ちゃんを……」
「猫は、めえめえだろ」
「めえめえは羊だろ!?」
 事態は悪い方へと進み、おれたちは推定八人に取り囲まれていた。
「開けるぞ、いいか!?」
 よくないです。
 隣《となり》で銀がきらめいた。
「ヴォルフラム、駄《だ》……」
 全開にされた扉から、光がなだれ込んでくる。おれの目が眩《くら》んでいるうちにヴォルフラムは、一人の腕《うで》を斬り二人目の腹を掠《かす》めていたが、残る六人は彼の背を狙《ねら》って、巨大《きょだい》な刃《やいば》を振《ふ》りかざしている。
「ヴォルフラム! 駄目《だめ》だ、多すぎるっ」
「うるさいッ」
「頼《たの》むからヴォルフ! やめてくれっ……命令だ!」
 彼は凍《こお》りついたように動きを止め、おれを見もせずに剣を放した。
 金属が落ちる高い音が、いやに虚《むな》しくその場に響《ひび》く。
 
 
 
 至る所に松明《たいまつ》がかかげられ、一足先に火祭りといった様子だ。真昼のような明るさで、横付けされた海賊船《かいぞくせん》まで照らしている。
 ほとんどの乗客と乗員が集められた甲板は、鮪《まぐろ》の解体ショーの匂《にお》いがした。どちらのサイドのものであれ、血が流れたということだ。
 木箱を重ねた壇上《だんじょう》で、海賊の親分は上機嫌《じょうきげん》だった。
「皆《みな》さーん、元気じゃったかのーォ」
 小指を立てた持ち方のまま、メガホンを乗客に向ける。マイクパフォーマンスだ。
 おれたちは八人の男に囲まれて、捕虜《ほりょ》の一団に加わった。ヴォルフラムは湯上がりマダムのままだったし、おれも上着を置いてきてしまった。春とはいえ、海上を渡《わた》る風は冷たい。
 船員と男性客の集団に、コンラッドとヒスクライフの姿がある。それと何故《なぜ》かミス・上腕《じょうわん》二頭筋も。きっと男なみに勇敢だったのだろう。三人とも自分の足で立っているということは、大きな怪我《けが》はなさそうだ。
 ごめんなコンラッド、せっかく隠《かく》してくれたのに。おれは心の中で謝《あやま》り続ける。
 弟さんに非はありません、悪いのは百パーセントこのおれです。あ、でもいい報告もあるんだよ、物真似のレパートリーが一つ増えたんだ。ゾモサゴリ竜。江戸屋《えどや》猫八《ねこはち》もびっくり。
 そっちに行こうともがくのだが、両腕と奥衿《おくえり》を掴《つか》まれて親玉の足元に連れていかれる。
「これが特別室のお客さんかの?」
「そうです、親分」
 おれは木箱の上を見て、あいた口が塞《ふさ》がらなくなってしまった。初海賊なので物珍《ものめずら》しいのもあるが、幼児期から思い描《えが》いていた海賊とは、あまりにかけ離《はな》れていたからだ。彼等は横縞《よこじま》のシャツを着ていなかった。ピーターパンともカリブの海賊とも違《ちが》うし、手足がゴム状に伸《の》びることもなさそうだ。
 背は低めだが、肩幅《かたはば》が広く胸板も厚い。ほとんど白に近いシルバーブロンドは、もみあげと顎髭《あごひげ》が繋《つな》がっている。古い傷が頬《ほお》に残る赤ら顔は、見事な海の男の面構《つらがま》えだ。
 だが、着ているのは……どの角度から見ても、セーラー服。
 どうしてセーラー服!? そりゃ海賊だってある種の水兵さんには違いないけど、けどまたどうしてギャザースカート!? 白と水色のセーラー服!?
 あまりのショックに膝《ひざ》の力が抜《ぬ》けて、おれはそのまま座《すわ》り込みそうになる。メガホンを持っていない左手で、幅広の鋼《はがね》がぎらりと光った。
 セーラー服と……半月刀。
「気の毒になあ、お客さん、そんなに怯《おび》えることはありゃせんよ。わしらは由緒《ゆいしょ》正しい海賊じゃけん、客を殺すようなことはないけんのう」
 語尾が中国・四国地方風?
「ただし刃向かう奴等は別じゃ。喚《わめ》こうが死のうが関係ない。まあこの船にいた勇敢な皆《みな》さんは、ご婦人方の前では静かじゃがの」
 要約すると、女子供を人質にとったということか。
「聞けばお二人は新婚《しんこん》ちゅーことじゃが、同じ場所に買われることを祈《いの》っとるよ」
 ヴォルフラムが頭のターバンを取りながら、セーラー服ショックが抜けないおれに訊《き》く。
「新婚なのか?」
「もう知りませんよそんなこと」
 相変わらず小指を立てたままで、親分はメガホンを口に当てた。
「さあそいじゃご婦人方は隣に移ってもらおうかのう! 新しいご主人と出会うまで、わしらの船で働いてもらうけん」
 新しい出会いって、サイドビジネスで結婚相談所でもやっているのだろうか。だがこの世は雇用機会均等時代だ、男女は同じ職に就く権利があるんだぞ。女性達がさめざめと泣きながら、追い立てられてタラップを渡り始める。
「んー? 特別室のお客さんは、なんか言いたいことがありそうじゃの」
「……由緒正しい海賊ってッ……!」
 おれの様子に気付いたのか、十メートルくらい離れているコンラッドが、両手を下に向けたジェスチャーをした。低め低め?
 あ、抑《おさ》えて抑えて、か。
 おれは、ぐっと言葉を呑《の》み込んだ。
「……海賊って……朝食はやっぱバイキングなんですカ……」
「わしら朝食は食べない派じゃ」
 くそ。
 コンラッドの言うとおりだ。ここは抑えておかなくては。おれ一人が文句をつけたところで、形勢は逆転するわけじゃない。へたに逆らって海に投げ込まれでもしたら、尻拭《しりぬぐ》いをする彼等が大変だ。それに他《ほか》の乗客のこともある。
 大きな犠牲《ぎせい》を払《はら》ってまで、小さな正義感を貫《つらぬ》くわけにはいかない。いかないけど……。
 親分は、ギャザーの裾《すそ》を風になびかせ、樽《たる》に片手をついて言った。
「そんじゃ続いて、高く売れそうな子供ももらっておこうかの!」
「売るだとォ!?」
 母親から引き離された幼い女の子が、壊《こわ》れたアラームみたいに泣き叫《さけ》ぶ。
「ババァー!」
 おれは反射的にお婆《ばあ》さんを探した。いない。
「クソババーぁ!」
 まさか、お母さんに対してその暴言!? お嬢《じょう》さん、ちょっとお品が悪いぞ。ヴォルフラムが軽蔑《けいべつ》をこめて鼻を鳴らした。
「ふん、人間の幼児語は耳障《みみざわ》りだ」
「幼児語?」
「あれは、愛してるお母さま、と言ってるんだ」
 ははあ、ディアマミー、みたいなもんなのか。
 他の子供も連鎖《れんさ》して叫びだした。
 月もなく濁《にご》った曇《くも》り空《ぞら》を、人間の燃やす松明の光と、人間のあげる嘆《なげ》きの声が昇《のぼ》ってゆく。
 こんな光景をどこかで見た。やっぱり受験前の深夜映画で、おれは炬燵《こたつ》に参考書を広げたままで、テレビの前に座って独りで泣いた。
 人が人を殺してゆく理不尽《りふじん》さに、父親が起きてくるくらい泣き続けた。
 濡れて丸まったポケットティッシュで、涙《なみだ》と鼻水を拭《ふ》きながら、さすがにアカデミー賞だなんてうそぶくおれに、親父《おやじ》はさらりと訊いてきた。
「お前だったらどうする?」
 マックとソーサどっち好き? くらいの気軽さで。
 お前だったらどうする? ちゃんとやるべきことをやれる?
 
 
 やれるさ。
 
 
「……ちょっと待て、おまえら……」
 コンラッドが、こうなると思ったという顔をした。
 噴火口《ふんかこう》のすぐ下で、辛《かろ》うじて押《お》さえられていたマグマは、それだけ勢いも増している。せっかく数分前にこらえたのに、爆発《ばくはつ》しちゃっていいのか、おれ!?
 だがもうトルコ行進曲は中盤《ちゅうばん》を過ぎ、鍵盤《けんばん》連打目前だ。
「おまえら、聞けーッ!!」
 親分は斜《なな》めにおれを見下ろしたが、すぐに部下達に視線を戻す。おれなど所詮《しょせん》、捕虜《ほりょ》の一人だ、真面目《まじめ》に取り合ってくれそうにない。
「ちょっと待てよアンタ、あっちの船に移すって、女性と子供をどーする気だ!? そもそも由緒正しい盗賊《とうぞく》っつーのは、金品だけ頂いてトンズラだろっ!? 女や子供を売り飛ばすのは、畜生《ちくしょう》ばたらきこの上ないぞ!?」
「わしら、盗賊じゃなくて、海賊じゃけん」
「そーゆーことを言ってんじゃねぇよッ」
 頬《ほお》と耳に血液が昇って顎《あご》が震《ふる》えた。震えは指先まで伝わって、腿《もも》の脇《わき》をモールス信号調に打つ。目が充血《じゅうけつ》して熱くなり、眼圧も上がって奥《おく》まで痛む。
 おれは殺されるかもしれない。あの幅広《はばひろ》の半月刀で斬りつけられて。あるいは一撃《いちげき》では死ねずに、傷を押さえてのたうち回るかもしれない。
 でも。
「いいか!? 人身売買は国際法で禁止って、そんなの小学生だって知ってんだろ!? たとえ聞いたことなくっても、ちょっとだけ考えりゃ判《わか》ることじゃねーか。あんたは確かに親分で、他の連中より偉《えら》いかもしれない、けどそれは仕事上の地位であって、人間としての存在の問題じゃないだろ!? 全《すべ》ての人間は平等で、あんたもあの人たちもおんなじなんだ。つまりいくらこの船を占拠《せんきょ》したからって、あんたたちに女性を売り飛ばす権利はない! 天は人の上に人をつくらずって、いい言葉だから覚えとけ! 福沢諭吉《ふくざわゆきち》って先生は、日本じゃ万札になった偉い人だぜ!」
 親分はメガホンを振《ふ》って、手下を四人呼び付けた。
「なあ、親分、おれはこの辺りに詳《くわ》しくないけど、もしかして他の海賊もみんなこんなことしてんの? みんなやってるから自分もいいって、ホントにそんなふうに考えてんの? だったらそれは間違《まちが》ってる。金品だけ奪《うば》って危害は加えない、そういう男気のある海賊に、義のある海の男になってくれよ。敵ながら天晴《あっぱ》れな海の義賊に、あんたが最初に変わろうよ!」
「連れてけ、こいつは高く売れるぞ。片目だけじゃが、黒に近い」
「話を聞かない男だなぁ、もうッ!」
 奥さんは、地図が読めない女かもしれない。
 その時、大半の女子供が隣《となり》の船に移されてかなり広くなったデッキの端《はし》の方へと、見覚えのあるベージュの髪《かみ》が連れていかれた。子供の列の最後尾《さいこうび》に、おれと踊《おど》ったお姫《ひめ》さまの、ラムネのビー玉色の瞳《ひとみ》がある。
 少女は肩《かた》に置かれた賊の手を、まるで汚《けが》れを拒否《きょひ》するように、強く素早《すばや》く払い除《の》けた。
 男の頭に血が昇り、小さな身体《からだ》を突《つ》き飛ばす。
「ベアトリス!」
 ヒスクライフが叫んだ。
 ワルツを踊ったときのままの、桜色のふんわりしたワンピース。貝の髪飾《かみかざ》りがちらっと光って、彼女は大きくバランスを崩《くず》し、低い木の柵《さく》を越《こ》えてしまう。
「危な……っ」
 すぐそこは海。黒く口を開けて待ち受ける海だ。
 何人かが走りだしたが、おれが一番先に着いた。落ちかける少女の腕《うで》を掴《つか》み、自分も引きずり込まれながら、身を乗り出して持ち堪《こた》えた。コンラッドとヴォルフラム、それとおそらくヒスクライフが駆《か》け寄る。
「しっかり……ベアトリス……手を掴んでっ」
 腕一本で繋《つな》がったまま、ベアトリスはあの眼《め》でおれを見上げた。スターサファイアになりきらない、おれを少しだけ誉《ほ》めてくれた少女の眼だ。
「いいの」
「……なにが、いい、の」
 おれの服とベルトと腰《こし》が掴まれる。
「お父さまやお母さまと会えなくなるくらいなら、落ちてもいいの」
「……そんな、こと」
 そんなこと言っちゃだめだ。
 これから何人もの素敵《すてき》な男性と踊り、情熱的な恋をして、幸せをつかむはずの女の子が、そんなことを澄《す》んだ瞳で言っちゃだめだ。
 そんなことを、言わせては、駄目だ。
 力強い数本の腕が二人を引き上げ、ベアトリスは父親に抱《かか》えられる。おれは不様に尻餅《しりもち》をついて、板の上に仰向《あおむ》けに転がった。雲の流れる夜空を凝視した。
 脳天に長くて太い針《はり》を刺《さ》し、それを避雷針《ひらいしん》にして雷《かみなり》が……おれの全身に電流を送っているような、痺《しび》れと熱と恍惚感《こうこつかん》。
 心臓は倍速で血を送り、鼓動《こどう》の位置がはっきりしなくなる。
 海馬《かいば》が警告を発するが、アドレナリンもシャンパンみたいに栓《せん》を飛ばす。
 三半規管のもっと奥で、懐《なつ》かしい歌が一節だけ聞きとれた。
 呼んで……。
 呼んで、誰《だれ》を?
 その先は、わからない。

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