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「こんな細かい文字に、よくお気がつかれましたね!」
モルギフをスタンドに立て掛《か》けて、鍔《つば》の裏を下から覗《のぞ》きながら、ギュンターは感嘆《かんたん》の声を上げた。オフホワイトの僧衣姿《そういすがた》の教育係は、灰色の髪《かみ》を後ろできっちりまとめ、縁《ふち》の細い眼鏡《めがね》をかけている。これがまた実に、麗《うるわ》しい。
こんな科学者になら改造人間にされてもかまわないと、悪の組織の前に女性達が列を作りそう。だが騙《だま》されるな、お嬢《じょう》さん方。百五十過ぎという年齢《ねんれい》から考えて、あれはおそらく老眼鏡だ。
「確かに鍔の裏に文章が刻まれております。我《わ》が名を呼べ、さすれば限界を超《こ》えよう。我が名はウィレム・デュソイエ・イーライ・ド・モルギフ。もし額石を喪失《そうしつ》し我が身が凡剣《ぼんけん》と成り果てども、魔王《まおう》の忠実な下僕《しもべ》であり、戦場で共に討ち果てん」
「そ、そーいうふうに読むもんだったの?」
おれはすごく子供向けに要約していた。
「しかし文字を解されなかった陛下が、触《ふ》れられただけで頭に閃《ひらめ》くというのは興味深いですね。やはり下々の魔族とは異なり、高貴な御力《おちから》を授《さず》かってらっしゃる」
「もしかして、おれってサイコメトラーなんじゃない!? 触《さわ》っただけで事件解決する超能力」
「サイコメ……なんですかそれは。新種の米の名称《めいしょう》ですか?」
すっかり普通《ふつう》の剣に成り下がったモルギフを手土産《てみやげ》に、豪華《ごうか》クルーザーで帰国したおれを迎《むか》えたのは、ちぎれんばかりに手を振《ふ》るギュンターと、げっそりと目の下に隈《くま》までつくったグウェンダルだった。おれが不在だった十日あまりで、彼等の身にどんなことが起こったのだろう。
ヨザックは魔剣《まけん》の心臓ともいえる黒曜石《こくようせき》を持って、シルドクラウトで船を降りた。どの方角へ向かうのか、おれにもコンラッドにも告げなかった。
そういえばツェリ様はモルギフの代わりに、矢人間リックを乗せたままで、また旅に出てしまった。癒《いや》し系美中年の治療《ちりょう》が済んだら、少年は船乗りへと一歩近付く。豪華クルーザーの見習い船員だ。シュバリエがきっちり指導してくれるだろう。
ごめんなリック、巨大帆船《きょだいはんせん》に乗せてやれなくて。でも海賊船《かいぞくせん》よりはずっといいと思うよ。
せっかくの最終兵器を無効にしたというのに、ギュンターはそんなこと責めもしない。陛下さえご無事ならそれだけで幸せですなんて、真珠《しんじゅ》の涙《なみだ》を流すばかりだ。過保護な母親みたいな人だと思ってきたが、今回で考えが改まった。
孫に目のない祖母みたいな人だ。
だが、王佐《おうさ》としての職務に関しては、非のうちどころがない。
旅の顛末《てんまつ》とおれの考えを伝えると、彼はすぐさま行動した。
魔族が魔剣を手に入れ損ねたという情報を「漏洩《ろうえい》」させたのだ。公然と発表すれば策略と疑われるが、弱点という形で漏洩させれば、人間達はあっさり信じるという。トップより周囲のほうが頭がいい。国政とはこういう仕組みになっている。
おれは、ヴォルテール城の厨師《ちゅうし》が腕《うで》を振《ふ》るった歓迎《かんげい》料理に度肝《どぎも》をぬかれ、椅子《いす》の上でどうしたものかとうなだれていた。
「……なんでこんなことに」
「俺《おれ》が教えたんですよ、陛下がフナモリを食べたがってたって」
「いくら舟盛《ふなも》りだからってさ」
部屋を占拠《せんきょ》した白いボートに、山と積まれた丸ごとの鮮魚《せんぎょ》。大小取り混ぜた海の幸は、元気に尻尾《しっぽ》をばたつかせている。ピチピチと。
「言ってたでしょう、生の魚って」
「生きた魚とは言わなかったぞ!?」
カヴァルケードの件も考えなければならなかった。
この国が戦争を仕掛《しか》けてきそうだというのが、元々の懸案《けんあん》事項《じこう》だったはずだ。魔剣の抑止力《よくしりょく》が期待できなくなった以上、他《ほか》の逃《に》げ道を探さなければならない。
いっそおれが出向いて頭下げて、仲良くしようって持ち掛けてこようかと、本気で悩《なや》んでみたりもした。
ところが、外交とは予想もつかないもので、解決策は先方から飛び込んできたのだ。
「陛下……カヴァルケードから訪国、拝謁《はいえつ》の打診《だしん》がございましたが……かねてよりカ船団を脅《おびや》かしていた海賊の一部を、旅の魔族が討ち倒《たお》し、元王太子とその妻女、ご息女の命を救ったことに対する感謝の意を……そのようなことをなさいましたか?」
「海賊はひどい目に遭《あ》わせたらしいけど。ま、例によっておれ自身は覚えてないんだ。コンラッドかヴォルフに訊《き》いてくれる?」
「どうもヒスクライフなる人物らしいのですが……」
「ヒスクライフ!?」
ぴっかりくんと、その家族じゃん。
「どうやら現カヴァルケード王の長男、ヒスクライフは、ヒルドヤードの商人の娘《むすめ》と道ならぬ恋《こい》に落ち、王室を出奔《しゅっぽん》して野に下ったようなのです。ところが現王の次男が病《やまい》で亡《な》くなり、子を生《な》していなかったために跡継《あとつ》ぎがなく、カヴァルケード王室|典範《てんぱん》によりヒスクライフの息女に継承権が生じたということで、近々彼等を呼び戻《もど》すとか……」
「なんてこったい! それじゃベアトリスは本物の王女様だったんだ!」
情熱的なのはおれじゃなくて、ヒスクライフ本人だったわけだ。
コンラッドが、したり顔で脇腹《わきばら》を小突《こづ》いてくる。
「ということは陛下は、女王候補の夜会デビューのお相手ということになりますね。どうします? 一目|惚《ぼ》れされててカヴァルケード王室から求婚《きゅうこん》されたら」
「縁起《えんぎ》でもないことをコンラート! 私達の陛下の唇《くちびる》を、人間ごときに奪《うば》われてなるものですか!」
唇程度で済む問題か?
「あ、でもおれたち人形のまま、シマロン本国で尋問《じんもん》されてるはずだよ」
「このままでは国際規模の恩知らずになってしまいますからね、カヴァルケードは国を挙げて救出するでしょう……その、人形を……」
想像するだけでも面白《おもしろ》い。救命くんの空気が抜《ぬ》けたりしたらもっと可笑《おか》しい。これには生真面目《きまじめ》なギュンターも、目尻《めじり》を下げて笑いを堪《こら》えた。
とにもかくにもこれで、戦争は回避《かいひ》されるだろう。おれは背もたれに身体《からだ》を預け、ヴォルテール城の天井《てんじょう》を見上げて溜息《ためいき》をついた。
「偶然《ぐうぜん》って恐《おそ》ろしいなあ」
「どうして」
「だって偶然、同じ船に乗り合わせて、偶然、海賊に襲《おそ》われて、偶然、ベアトリスを助けたから、今になって平和的解決できたわけだろ?」
「全部が全部、偶然というわけじゃないですよ」
手を伸《の》ばしておれの衿《えり》を真っすぐにする。
「あの船に誰《だれ》が乗っていようとも、あなたは同じことをしたはずだ。そこだけは必然であって偶然じゃない。もしこれが誰かの筋書きだとしたら、成功の可能性は極《きわ》めて高い」
「筋書き!? こんなこと企画《きかく》たててやるやついるー!?」
「いないでしょうね、この世には」
そんな人の好《い》い笑顔《えがお》を見せられてしまうと、問い詰《つ》めようとしていた気持ちが萎《な》えてしまう。彼に訊きたいことは山程《やまほど》あったが、おれが言えたのはこれだけだった。
「コンラッド、虎《とら》とライオンとどっちが強いと思う?」
「……ライオンかな」
「だよな、おれも」
おれもそう思う。獅子《しし》が強いにこしたことはない。
久々に揺《ゆ》れないベッドで眠《ねむ》るために、用意された部屋《へや》にやっと辿《たど》り着いた。王城の寝室《しんしつ》よりはずっと狭《せま》いが、ここもベッドは超《ちょう》キングサイズ。いや、魔王サイズだ。百人乗ってもダイジョーブ。
一人でゆっくりしたかったので、世話係の女性を追い払《はら》う。
それなりなバスルームがついているのを確認《かくにん》し、角が五本の牛の口から湯を出した。溜《たま》るまで手足をのばそうと、ベッドに戻って服を脱《ぬ》ぐ。
「……あーあ、疲《つか》れ……だっ、誰っ!?」
シーツの中に誰かが潜《ひそ》んでいる。
思い切ってめくると、
「ヴォルフ……こんなとこで何やってんの!?」
「なにって」
湯上がりマダム姿のヴォルフラムが、寝転《ねころ》がって四肢をばたばたさせている。
「夜這《よば》いだ」
「夜這い!? よっ、夜這いというものはダな、おおお男が相手のお布団にこっそり……」
「あってるじゃないか」
「あってるな……そうじゃないそうじゃないそうじゃない! 男が女のお布団にっ」
相手のペースに乗せられてどうする。
ヴォルフラムは偉《えら》そうに腰《こし》に手をやって、上半身を起こして眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。そういう趣味《しゅみ》のある人だったら、ノックダウンされてるような美少年だ。
「ユーリ任せにしておいたら、いつまで経《た》っても決着がつかないだろう」
「ちなみに、どのような決着をお望みで……?」
腰が引けている。従って言葉|遣《づか》いも下手《したて》になる。
魔族の元プリンスは、ぱっと顔を明るくし、おれの腕《うで》を掴《つか》んで引き倒《たお》した。
「うわ!」
「決着つける気になったのか!?」
「なっていませんッ」
それがどのような決着なのか、考えるだけで恐ろしい。命を落とすようなことにはなるまいが、別の何かを失いそうだ。おれは全力で彼から逃《のが》れ、バスルームに飛び込んで鍵《かぎ》を掛《か》ける。
「ユーリ!」
「待て待て待て! とりあえず風呂《ふろ》だろ!? お前だって汗《あせ》くさい野郎となんかヤリたくねーだろがっ」
やり……自分の言葉に自分で引いてしまう。血液が一気に下がってゆく。
頭と鼻がつんとして、立ち眩《くら》みをおぼえてふらついた。
「ユーリ! おい、開けろ」
「やだっ」
おれは目眩《めまい》を我慢《がまん》できず、バスタブの縁《ふち》に腰《こし》をかけた。
「がぷ」
ダイバー風に背中から落ちて、頭を下にして沈《しず》んでしまう。風呂までキングサイズなので、底につくまで時間がかかる……わけねーじゃん!?
「ちょボっ、だビれベかバ、せん、ぬブいビたバ……がボご」
バーチャルリアリティー、鳴門《なると》の渦潮《うずしお》。バーチャルというより実体験だ。渦巻く湯の流れに吸い込まれつつ、おれは我《わ》が身の愚《おろ》かさを呪《のろ》った。
下着を着けっぱなしだったのだ。それもよりによって、あのパンツ。
通い慣れたスターツアーズの道中で、おれは涙《なみだ》を流して考えていた。
まし。あのまま決着つけちゃう(あるいはつけられちゃう)よりは、このパンツのまま日本に戻るほうがまだ、ましだーっ!
濡《ぬ》れた身体を空気が撫《な》でて、薄《うす》ら寒い。
濁《にご》った視界は水色だ。
水色は、水色は、水色は、海賊の制服の衿《えり》の色だった。
「……セーラー服……っ!?」
隣《となり》にしゃがんで顔を覗き込んでいた影《かげ》が、呆《あき》れた様子で呟《つぶや》いた。
「目を覚ましていきなり、セーラー服! かよ……」
そういえば彼の服もウォーターブルーだ。せっかく内野指定席なんだから、チームカラーである青系の服で来るようにと、おれが自分で念押《ねんお》しした。
「いつまでたってもあがってこないと思ったら、湯槽《ゆぶね》ん中で眠《ねむ》りほうけて沈みかけてるんだもんなぁ。試合開始に間に合わないって、あれだけ大声で呼んだのに」
見回すと、そこは地元の銭湯のままで、壁《かべ》には半次郎が微笑《ほほえ》んでいる。おれの浸《つ》かっていた湯槽は空っぽだ。だが、どこにも穴は見つからない。
「オランダの英雄《えいゆう》になるはずだったのに」
「渋谷、オランダの英雄って誰? クライファート? さまよえるオランダ人?」
「ちぇ、サッカー好きめ……って、サッカーじゃないでしょサッカーじゃ! 村田、今何時!? 試合もう始まってる!?」
「多分まだだと思うけど……もう行くのやめたと思ってたよ」
「やめるわけねーじゃん!? 今日は師匠の日よ、伊東さまがスタメンのはずの日だぜ!? 応援《おうえん》しないわけにいかないでしょーぅ!」
痛む身体を堪《こら》えて起き上がり、自分の下半身を見て絶句した。
「……しまった」
「渋谷、今日のところは店の人に言わないでおくけど、今度からパンツは脱《ぬ》いで入らなきゃだめだぞ? 銭湯にはルールというものがあって、たとえ珍《めずら》しい紐《ひも》パンといえど……」
村田健は目を逸《そ》らした。おれの紐パン(黒)から。
「あのなあ、このパンツにはわけがあんの。話せば長いことながら、おれの国ではこいつが普段着《ふだんぎ》なの」
「誰の国? どこの話?」
「そりゃ、おれの国の話だよ……」
「なにそれ渋谷。きみは日本人だろ、他《ほか》にきみの国があるの?」
おれはぼんやりと思った。
スタジアムで試合が始まっちゃう。
それから、轟《とどろ》くような歓声《かんせい》のコロシアムでの、少年との死闘《しとう》を思い出した。この両掌《りょうてのひら》にしっくりくる、モルギフのグリップを思い出した。全ての理由はたったひとつの、扇《おうぎ》の要《かなめ》へと向かっている。
日本人的DNAと、新前《しんまい》魔王の魂《スピリット》。
「……決めたんだ、永世平和主義だって」
呟くおれを前にしたら、誰だって一歩、後ずさるだろう。
けれど村田健は、曖昧《あいまい》な笑顔《えがお》でこう言った。
「またいきなり、どうしたんだよ。男前なコメントを……」
あたりまえだろ?
魔王が男前じゃなくて、どうするってんだ。