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私のこのような恥《は》ずかしい姿をご覧になったら、陛下はなんとおっしゃるでしょう。
世が世なら流し目だけで一財産稼げそうな麗人《れいじん》は、水を張った樽《たる》に片腕《かたうで》を突っ込み、ぐるぐる回る洗濯物《せんたくもの》を眺《なが》めながら、消耗《しょうもう》して|麻痺《まひ》しかける脳味噌《のうみそ》で主の笑顔《えがお》を思い出そうとしていた。
「アニシナ殿《どの》」
「なんです」
自分では何一つ動こうとせず、腕組みをして学者然と立っている女発明家に、ギュンターは細い声で|訴《うった》える。
「く、苦しいのですが」
「当然です。もにたあに多少の苦労はつきものですからね」
「その、もにたあというのは、いったいどこの国の言葉なのですか」
「も[#「も」に傍点]っといいもの造るために[#「に」に傍点]、あ[#「あ」に傍点]なたの身体《からだ》でた[#「た」に傍点]めしたい、の略です」
どう略しても『もにあた』だ。
だが、やっぱりやっぱりやっぱり実験台だったのだ! グウェンダルが幼馴染《おさななじ》みであるアニシナを避《さ》けていたのは、実験台にされたくなかったからだ。こんなことに度々《たびたび》付き合わされていれば、名前を聞くだけで苦い顔になるのも納得《なっとく》がいく。
だが判《わか》ったときには遅《おそ》かった。ギュンターは今や彼女の支配下だ。
「しかし見たところ、私の|魔力《まりょく》を使って水と洗い物を回しているだけにしか思えないのですが……これの、どの辺りが新発明なのでしょう」
「布が巻き付かないように、からまん棒理論を応用しているのです。とはいえあなたの疲《つか》れ具合からすると、どうやらこの全自動魔力洗濯機、消費魔力が大きすぎるようですね。これからは我々魔族も省えねの時代、従ってこれは……」
魔女の瞳《ひとみ》がきらりと光った。
「失敗作です!」
マッドサイエンティストならぬ、マッドマジカリスト、フォンカーベルニコフ|卿《きょう》アニシナ。
もっと早く言ってやれ。
自分ではまったく|記憶《きおく》にないが、おれは過去に二回ほど、すごい魔術をご披露《ひろう》しているらしい。マギー司郎も真っ青というくらいに、そりゃもう|強烈《きょうれつ》なものだったという。一度目は雨がらみで二度目は骨がらみ。もしもそれが事実なら、|平凡《へいぼん》な県立高校一年生の自分は、ナチュラルボーンマジシャンだということになる。だったら追い詰《つ》められている今だって、魔術で現状を打破できたりしないだろうか。
スヴェレラの首都までもう半日という荒野《こうや》のただ中で、二人きりの野宿を余《よざ》儀なくされながら、膝《ひざ》を抱《かか》えて呟《つぶや》いた。
「呪文《じゅもん》とかあるんなら教えといてくれれば……」
乾《かわ》いた空気に光を放つ月星の下で、とりあえず試してみようと唸《うな》っていると、びびった斑馬が逃《に》げ出した。また一歩、逆境に近付いてしまった。グウェンダルは冷たい視線を送っただけで、笑おうとも追いかけようともしなかった。もう少々の馬鹿《ばか》では驚《おどろ》きもしない。
都市への道は確かに|砂漠《さばく》っぽかったが、アラビアのロレンス風|衣装《いしょう》よりもテンガロンハットが似合うような、岩とサボテンと枯《か》れ草《くさ》の荒野だった。地球儀《ちきゅうぎ》で指差すならアリゾナだ。岩陰《いわかげ》で火を|熾《おこ》ししゃがみ込むと、野営の準備はそれだけで終わってしまった。テントもなければシュラフもない。ジャガイモ入りのカレーもキャンプファイアーも。水と干し肉だけの夕食を黙々《もくもく》と摂《と》ってから、することもなくて横になった。さっきから誰《だれ》とも話していない。もうすぐ言葉を忘れそう。
ああ、月が青い。星が白い。火の傍《そば》に寄ってもまだ寒い。
眠気《ねむけ》というよりも寒気のせいでウトウトしていると、腹の辺りで何やらむずつく感じがした。蠍《さそり》かガラガラヘビだったらどうしよう、反射的に飛び起きたおれの上に。
「……ど……」
グウェンダルが覆《おお》い被《かぶ》さっていた。
どちらも言葉がない。すーっと視線を下げていくと、長男の指はおれのズボンのベルトにかかっている。
まさか!?
「まさかあんたまで、おおおおれを女かもしんないとか思っちゃってて、この際おとこか女か確かめようなんてベルトベルトっ」
「待て」
「そんなん待てるかよっ、うわー信じらんねぇ大ショック! 十六年も|真面目《まじめ》に生きてきて、ここにきて女子と疑われるなんてッ! 修学旅行の男子|風呂《ぶろ》でも平均とそんなに変わりなかったのにーっ」
「待て、落ち着け。お前の性別を疑ったことはないし、女に見えるとも思わない」
|眉《まゆ》と目の間がいつもより開いている。どうやら少々|慌《あわ》てているらしい。
「……だよな? どの角度から観察しても、おれって普通《ふつう》に男だよな?」
「ああ」
「顔も声も服も動きも言葉《ことば》遣《づか》いも、飯の食い方も男だよな」
「|間違《まちが》いなく」
お世辞を言ってくれるような奴《やつ》じゃないので、この言葉は信用してもいいだろう。ちょっと安心。
「……じゃあどうしてベルト外そうとしてるんだよ……あーっまさかアンタ弟と同じ趣味《しゅみ》で、ファイト一発しよーとしてんじゃねぇだろなっ!?」
「違う!」
彼らしくなく焦《あせ》って右手を顔の前で振る。当然おれの左手首も持ち上げられ、鎖《くさり》と共に振り回された。
「いたいたいた、痛ェったらッ」
「ああ、すまん」
恐《おそ》る恐る視線を下ろしてみると、長い指が掴《つか》んでいたのはベルトではなく、青く揺《ゆ》れる飾《かざ》りだった。
「……ああ、なんだ。バンドウくんかぁ。だったら最初からそう言えよー」
重低音ボイスで強面《こわもて》のフォンヴォルテール卿だが、小さくて可愛《かわい》らしいものを愛するという、意外な一面も持ち合わせているらしい。半信半疑で聞いていたが、ベルトのバックルにぶら下がったままの、ドルフィンキーホルダーを掴む熱心さからすると、情報は真実だったようだ。おれが外して差し出すと、スケルトンブルーでつぶらな瞳の泳ぐ哺乳類《ほにゅうるい》は、炎《ほのお》をぺかりと反射した。
「やるよ」
高価な宝石でも受け取るみたいに、グウェンダルはアクリルをそっと|握《にぎ》る。
「……いいのか?」
「いいよ。そいつら苦手。何考えてるか分かんねえから」
丸っこい目と半開きの口、短い胴体《どうたい》にハート形の尾《お》ヒレ。
「名前は?」
「バンドウくん……か、エイジくん」
「バンドウエイジか。可愛いな」
本物はもっと、おっかないよ。
「なあ」
今なら落書きや小便|小僧《こぞう》ではなく対等に話ができるかと思って、天の光を眺めながら、おれは道連れの名前を呼んだ。フォンヴォルテール卿グウェンダル、|手錠《てじょう》で繋《つな》がれた不運な魔族。
「グウェンダル、|訊《き》こう訊こうとは思ってたんだけどさ、コンラッドやヴォルフラムや兵士の皆《みな》は本当にあそこから抜《ぬ》け出せたわけ? それ以前にどうしてニューカラーバリエのバンダが、おれ以外の人には見えなかったんだ? それから、ドジふんで手錠なんかされちゃったのには責任感じてるけど、途中《とちゅう》でいくつも手頃《てごろ》な石を見かけたのに、鎖が切れるか試しもしないのはどういうわけ? ガンガンやれば何とかなるかもしんねーじゃん」
グウェンダルは火の光の当たる顔の半分だけで、不|機嫌《きげん》そうな表情をつくった。
「|全《すべ》てに答えろというのか」
「……できたら」
プレゼントでご機嫌を窺《うかが》ったのに、どこまでも|謙虚《けんきょ》な小心者ぶりだ。
「いいだろう。まず砂熊《すなくま》に関しては、我々にも気の緩《ゆる》みがあったことは否《いな》めない。だが本来あれは、小規模な|砂丘《さきゅう》に生息する種ではない。ということはスヴェレラの人間どもが、国境の行き来ができないようにと、人為《じんい》的に放ったものと考えられる。内戦の名残《なごり》か密売人の|妨《さまた》げか、その辺りのことははっきりとは判らんがな。実は数年前にスヴェレラでは法石が|発掘《はっくつ》されたのだ。各国の法術使いは、喉《のど》から手が出るほど欲しがっている。不法に儲《もう》けようという商人が、それを見逃《みのが》すはずがない。貴重な法石を国外に持ち出されないようにと、国境に、危険な罠《わな》を仕掛《しか》けたのだろう」
地球では|絶滅《ぜつめつ》危惧《きぐ》種《しゅ》だというのに、ここではトラップの|一環《いっかん》か。
「しかもこの地域は戦乱の歴史が長い。つまりそれだけ法術が発達しているということだ」
「ちょっと待った、その法術ってのはナニ? 魔術と法術ってどう違うの?」
教育係の仕事だろうと、グウェンダルは眉間《みけん》にしわを寄せた。だがイルカ効果は絶大で、会話を終わりにはしなかった。
「魔術は我々魔族だけが持つ能力だ。魔力は持って生まれた|魂《たましい》の資質、つまり魔族の魂を持つ者にしか操れない。逆に法術は人間どもが、神に誓《ちか》いを立て乞《こ》い願《ねが》うことで与《あた》えられる技術だ。生まれつきの才や祈祷《きとう》の他《ほか》に、|修行《しゅぎょう》や鍛錬《たんれん》でも身につけられる。法石は法術の技量をいくらか補って、才のない者にも力を与える。これまでに発掘された地域は少ないから、かなりの高値で捌《は》けるだろう」
「じゃあその貴重な資源の流出を防ぐために、国境にトラップを仕掛けたのか……」
「だろうな。お前にだけ砂熊が見えたというのは、惑《まど》わすように覆っていた法術の効果がなかったせいだろう。どういうわけかは判《わか》らんが、生来の鈍《にぶ》い体質なのか」
そうかもしれない。子供の頃から催眠術《さいみんじゅつ》とか自己暗示とかにかかったことがないし、修学旅行の集合写真で、霊《れい》の顔が見えなかったのもおれだけだ。
「それにこの手鎖《てぐさり》にも法石の粉末が練り込まれている。石で叩《たた》き切ろうとしたところで、余計な体力を使うだけだ。我々に従う要素が濃《こ》く存在する、|魔族《まぞく》の土地でならいざ知らず、こんな乾いた人間の土地で、法術を破るのは困難だ」
「嘘《うそ》、外せねーのこれ? それじゃおれたちこれからどーすんの?」
永遠に二人きりの情景を想像してしまった。お風呂も一緒《いっしょ》、寝《ね》るのも一緒だ。病《や》めるときも健《すこ》やかなるときも、トイレはいつでも連れションだ。耐《た》えられない。
グウェンダルはキーリングを観察しながら、低く抑《おさ》えた声で言った。
「先程の街でコンラート達が追いつくのを待つつもりだったが、こうなった以上は首都に向かう。まず教会で法術の使えそうな|僧侶《そうりょ》を捕《つか》まえて、この忌々《いまいま》しい拘束具《こうそくぐ》を断《た》ち切らせてくれる。ゲーゲンヒューバーと|魔笛《まてき》の件はそれからだ」
彼も連れションは嫌《いや》だったらしい。
「けどその調子じゃ、コンラッドもヴォルフも八割方は無事なんだな? だって落ち合うのが当たり前って感じに聞こえるし」
「奴ほどの武人が砂熊相手に命を落としたら、末代までの語り種《ぐさ》だ」
「すごいなあ、おれなんかバンダと相撲《すもう》とったら負けちゃうよ」
「だから引き上げた」
疲労《ひろう》と寒さに耐えられず、膝《ひざ》を抱《かか》えて丸くなると、睡魔《すいま》はすぐに襲《おそ》ってきた。アリゾナの真ん中で眠《ねむ》れるとは、おれの神経も太くなったものだ。けれどそれは隣《となり》に誰《だれ》かがいてくれるカらで、独りきりだったら恐怖《きょうふ》のあまり|半狂乱《はんきょうらん》だろう。
「おい」
「なに」
「保温効果を上げるためにもう少し近づけ」
「……そんな小難しく言わなくても」
|遭難《そうなん》中のパーティーの鉄則どおり、肩《かた》と肩をくっつけた。間で鎖が重い音を立てる。
「おい」
「まだなんかあんの?」
「動物は好きか。ウサギとか、猫《ねこ》とか」
「……オレンジ色のウサギは嫌《きら》い。猫は……そうだな、猫よりライオンが……好きだ……白いやつ。白い獅子《しし》」
眠る直前の話題がこれでは、今夜の夢は決まったも同然だ。
息も絶え絶えにカントリーロードを歌いながら、おれたちが首都に辿《たど》り着いたのは、太陽もすっかり高くなった頃だった。|汗《あせ》にまみれて半日歩いても、ウェルカムドリンクとシャワーのサービスさえない。それでも完歩できただけ上等だ。数ヵ月前のおれだったら、絶対に途中でリタイアしていた。|基礎《きそ》体力が付いてきたってことだろう。草野球|魂炸裂《だましいさくれつ》だ。
ゲートを入った途端《とたん》に鎖の重さが戻《もど》ってきた。移動中に気にならなかったのは、反対側で持ってくれていたせいらしい。指の距離《きょり》があんまり近いので、|無粋《ぶすい》な鎖で繋がれているのか、それとも普通《ふつう》に手を繋いでいるのか、互《たが》いに判らなくなってきていた。
「やっぱ手錠は見られたらまずいよね。逃亡犯《とうぼうはん》かと疑われちゃうもんな」
「ああ」
鎖をうまいこと布でくるみ、風呂《ふろ》敷《しき》包《づつ》みみたいにして、二人の間にぶら下げてみた。通りかかった若い娘《こ》が、聞こえよがしに囁《ささや》き合った。
「みてみてー、荷物を二人で持ってるわー、あつあつよー、でもきっと今のうちだけよねー」
ナイスなリアクショソありがとう。今のうちというより、今だけです!
「あのさー、おれたちって、食器洗い洗剤《せんざい》のCMみたいじゃねえ?」
「食器など洗ったことはない」
ブルジョワめー。
国の中心だけあって、国境の街とは規模が違《ちが》う。南には王宮がそびえ立っていたし、人の行き来も激しかった。ただし兵士の比率が非常に高く、店を守るのは女子供や老人で、男はほとんどが兵隊だった。みんな軍人カットできめているが、部隊によって毛先の染め色が異なるらしく、赤と黄色と白茶がいる。
イクラとウニとツナサラダの軍艦《ぐんかん》巻きだけの回転|寿司《ずし》だ。なんかこう、ちょっと、食欲をそそる。
尖《とが》った屋根を持つ教会は、真っ昼間だというのに静まり返っていた。背の高い扉《とびら》は閉じられていて、中から鍵《かぎ》がかかっている。冷静|沈着《ちんちゃく》なはずのグウェンダルが、長い脚《あし》を構えるのが目に入る。おれも慌《あわ》てて調子を合わせ、二人同時にドアを|蹴破《けやぶ》る。
その瞬間《しゅんかん》、場内全員の視線が集中した。誰もがマネキンみたいに凍《こお》りついている。
教会の礼拝堂内には、百人近い参列者が座っていた。直線コースの向こうでは、白い衣装《いしょう》の男女と神父さんが動きを止めている。司祭さんか牧師さんかもしれないが。
「ぐ、グウェン……|結婚《けっこん》式《しき》の最中《さいちゅう》みたいだけど……」
「の、ようだな。出直すか」
「そうしよ」
花嫁《はなよめ》さんは純白で柔《やわ》らかそうな、袖《そで》なしのウエディングドレス姿だった。べールで覆《おお》われているせいで、驚《むどろ》いた顔は見えなかった。見慣れたイクラの軍艦巻きで、新郎《しんろう》の職業はすぐに判った。若い二人の記念日を|邪魔《じゃま》してはいけない。おれたちは一歩、後ずさる。
「ちょうどよかった!」
お調子者の声が響《ひび》いたのは、|手錠《てじょう》組が背中を向けようとした瞬間だった。
「それでは人生の|先輩《せんぱい》である、愛し合う番《つがい》のお二人に、祝福の言葉を|頂戴《ちょうだい》しましょう!」
は?
こちらに向かってさくっと伸《の》ばされる、司会らしき初老の男性の手、並べられたベンチの|両脇《りょうわき》を回り、マイク代わりのメガホンを持って走ってくる係員。式の雰囲気《ふんいき》にすっかり飲み込まれて、目を潤《うる》ませるお客さんたち。
そしてスピーチを求められている、愛し合うツガイのお二人ことおれたち。
「愛し合うツガイい?」
番とはどういう意味だろう。|幼稚園《ようちえん》で飼っていた二羽のインコは、雄《おす》と雌《めす》の一組でそう呼ばれていた。もしかしてご来場の|皆様《みなさま》は、手錠で繋《つな》がれたらカップルだという先入観にとらわれてはいないだろうか。けれど風呂敷包みに見立てているから、鎖《くさり》は傍目《はため》に触《ふ》れないはず。
「手なんか繋いじゃって熱々ですね! 一足先にご夫婦《ふうふ》となったお二方から、若い者にぜひとも一言お願い致《いた》します!」
「夫婦じゃないッ!」
おれと長男の異口同音。司会者は大げさに肩をすくめ、メガホン係が口元まで手を伸ばした。
「では、どのようなご関係で?」
「元々こいつは、弟の婚約者だ」
「え!?」
厳密にいうとそれもちょっと違《ちが》うのだが。長身で美形血族のお答えに、会場は別の意味でざわついた。
「弟の婚約者と……いっそう情熱的だなあ」
「えっ!? いっ、いやっ、誤解、誤解ですってッ」
悪い方向へと感心されている。だって男同士じゃん!? という言い慣れたツッコミも間に合わない。
うつむいていた花嫁が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。縦にも横にもSサイズの、成熟を感じさせない体つきだ。彼女にとってこの佳《よ》き日は、一生一度の晴れ舞台《ぶたい》だ。
そんな貴重な記念の日を、不運な事故みたいに乱入してきた奴等《やつら》が、台無しにしていいはずがない。このまま背を向けて逃《に》げ去って、想《おも》いを踏《ふ》みにじって許されるわけがない。
「えーとですねっ」
久々に発したマジ声が、|緊張《きんちょう》で|喉仏《のどぼとけ》に引っかかる。
きみの大切な一日を、おれの都合で潰《つぶ》しちゃいけないよな。
「えー、結婚生活で大切なのはー、三つの袋《ふくろ》と申しましてーぇ」
親父《おやじ》の冠婚葬祭《かんこんそうさい》スピーチレパートリーだ。残念ながらこの先が定かでない。グウェンダルがしかめっ面《つら》で腕《うで》を引っ張る。
「……ひとつめは池袋ォ、ふたつめは非常持ち出し袋ォ、更《さら》にみっつめが……えーと、そう、手袋とか言われております」
おかしいぞ。どこかにお袋が入っていたはずだ。ひょっとして三個とも|記憶《きおく》違いか?
「特にこの、みっつめの手袋は非常に重要で、逆から読むと六回もぶたれてしまいます。まあいわゆる流行のドメスティックバイオレンスとかいう、人として許し難《がた》い罪になりましてェ」
好奇心《こうきしん》と期待で静まり返る教会。造花のブーケを握《にぎ》りしめた若い新婦は、身体《からだ》ごとこちらに向き直った。おれはたちまちくじけそうになる。
「でも手袋はッ、いつでも二つで一組です。二つないと役に立ちません! ひとたび対《つい》となったお互いは、決して別の相手とはしっくりいかないという……」
口から出任せ度七十七%。家で使っていた徳用軍手は、一ダース全部が同じ形だった。
現代日本の消費社会がどうであれ、ここはとにかく「ちょっといい話」で締《し》めておこう。
「ですから結婚後は夫婦は常にお互いを手袋の片方と思うことによりィー」
「……そうよね」
「そうなのよ……は?」
つられておねーさん言葉になってしまう。今の相づちは誰《だれ》ですか。
「そうですよね。ひとたび対となったお互いは、決して別の相手とは結ばれない。手袋ってそういうものですよね?」
「んー、あーまあ、徳用軍手以外はね」
新婦が、きっと顔を上げ、ブーケとべールを投げ捨てた。慌てた神父と司会者が、ダイビング気味にキャッチする。次の花嫁は、あなたたちです!
小麦色に焼けた肌《はだ》によく似合う、少年みたいなショートカット。意を決した大きめの瞳《ひとみ》は赤がちの茶色で、|前髪《まえがみ》が動くほど|睫毛《まつげ》が長い。純白のドレスの裾《すそ》をたくし上げ、潔《いさぎよ》い足取りで階段をおりてくる。新郎神父も司会者も、呆気《あっけ》にとられて動けない。
「あたし、間違っていました」
「はぇ、何が?」
「あなたの言葉で気づきました。ありがとう」
「どういたしまして……だから、何が?」
「別の相手と結婚するところでした」
おれの|脇腹《わきばら》に触れた肘《ひじ》が、がっくりと|脱力《だつりょく》して垂れ下がる。グウェンダルが何をやってくれたんだと低く唸《うな》った。お集まりの皆さんの機嫌《きげん》を損《そこ》ねるような、失礼なことをかましたつもりはないのだが。
彼女がおれたちの前まで来たところで、参列者の一人が|金縛《かなしば》りから解けた。
「おい、花嫁が逃げるぞ」
じゃあ、それに乗じておれたちも逃げよう。
そう思ったとき。
「お願い、一緒《いっしょ》に」
自由なはずの右手が掴《つか》まれた。おれのスピーチはそんなに感動的だったか?
「あいつら花嫁を攫《さら》うつもりだーっ」
「へええッ!?」
逃げると攫うは大違いだ。このままでは本物の犯罪者にされてしまう。