2
|魔族《まぞく》にとって十六歳の誕生日とは、誇《ほこ》らしくも恐《おそ》ろしいという複雑な日である。
大人達の仲間入りができる反面、|儀式《ぎしき》の間はお偉方《えらがた》の前に一人きりで立たされ、事細かな問いや要求に応《こた》えなければならない。精神的に未熟なまま当日に至って、式の続行が不可能なほどに参ってしまう子供もいるのだ。十貴族の生まれともなれば試問はいっそう厳しい。何刻にもわたって続けられるいやがらせ……通過儀礼の数々で、失敗のなかった者など皆無《かいむ》だろう。
だから記念すべき忌《い》まわしきあの一日を、何年経《た》とうと忘れ去れる者はいない。
誰《だれ》しもが顔から火が出そうなほどの恥《は》ずかしい|記憶《きおく》を、墓場まで背負ってゆくのである。
相当昔の話だが、フォンカーベルニコフ卿アニシナにも
「汚点《おてん》」はあった。
「あの時は本当に不愉快《ふゆかい》でした」
勢いよく振《ふ》り向いたため、燃えるような赤毛がピシリと何かを打つ音がした。やや吊《つ》りぎみの水色の瞳《ひとみ》は、|好奇心《こうきしん》と自信で満ちている。
「立会人のうち三人が|号泣《ごうきゅう》したのです」
何をやらかしたんだ何を!? と、猫《ねこ》に睨《にら》まれたネズミよろしく冷《ひ》や|汗《あせ》をかきながら、フォンヴォルテール卿グウェンダルは叫《さけ》んだ。ただし心の中だけで。
「いくらわたくしの国家への忠誠と奉仕《ほうし》の決意が有意義で感動的な内容だったとはいえ、所詮《しょせん》は成人前の子供の愚考《ぐこう》。それをあのように真に受けて」
「どんなことを語ったんだ」
「省庁再編案と、その当時に試作品だった魔動|挽肉《ひきにく》製造器秘話です」
「……ああ、あれか……」
その頃《ころ》からこの二人の関係はマッドマジカリストと実験台だ。挽肉製造器は確かに|優秀《ゆうしゅう》ではあった。魔力で回転する|巨大《きょだい》な刃《は》が豚《ぶた》を丸ごと粉砕《ふんさい》していく光景は、忘れようったって忘れられるものではない。だがある日、ペットの鶏《にわとり》を探していて筒《つつ》の中に入ってしまった彼女の兄が……これ以上は怖《こわ》すぎて|駄目《だめ》だ。
「あれは|恐怖《きょうふ》で泣くな……」
このエピソードに比べれば、先日目にしたユーリの|凶悪《きょうあく》魔術など可愛《かわい》いものだ。
「失礼な。あそこは笑うところだったのですよ」
赤い悪魔というありがたくもないコードネームで呼ばれている女性は、手元のコントローラーを大きく弄《いじ》った。椅子《いす》に浅く座り、机上《きじょう》の機械に両手を突っ込まされていた実験台が、彼らしくなく目を剥《む》いた。唇《くちびる》は悲鳴の形だが、かろうじて声は抑《おさ》えている。開くだけ開かされた十本の指先からは、蛍光紫《けいこうむらさき》の火花が飛び散っていた。迸《ほとばし》(らされてい)る魔力のスパークだ。
「ア、アニシナ、いい加減、指を抜《ぬ》きたいのだが」
「最低でも毛糸が終わるまでは」
フォンヴォルテール卿の手の向こうには、小型の機織《はたお》り機《き》が設置されていた。張《は》り巡《めぐ》らされた黄色の縦糸を、目にもとまらぬ速さで横糸がかいくぐる。現在は編み物モードだが、ヘッドの交換《こうかん》のみで織物モードに早変わりする。複雑な模様の作品が、どういう仕組みなのかは不明だが出来上がってゆく。
「きっ、切れ! とにかく|一旦《いったん》、あむぞうくんを止めろ!」
「だらしのないこと。これだから近頃《ちかごろ》の魔族の男は弱くなったなどと言われるのです」
主に広めているのは彼女。フォンヴォルテール卿の幼馴染《おさななじ》みにして編み物の師匠《ししょう》、一生を眞魔《しんま》国の発展と繁栄《はんえい》のために捧《ささ》げると日記に一万回は書いてる女、趣味《しゅみ》と実益を兼《か》ねた魔力研究により、魔族の生活をよりいっそう豊かにしようと日々是実験のマッドマジカリストだ。
見た目は小柄《こがら》でほっそりとした少々気の強い美人だが、眞魔国三大魔女としてあのツェリ様と並び称《しょう》されるほどの強者《つわもの》である。
「くそ……眞魔国三大悪夢め……」
「何か仰《おっしゃ》いました?」
接続を切ったあむぞうくんから作品を引き出し、手にとって一目一目|辿《たど》ってみる。色合いや編み目の均等さは完璧《かんぺき》なのだが、どうも|繊細《せんさい》さに欠けるようだ。
「ふう、やはり人の指の|微妙《びみょう》な感覚がないと、あの儚《はかな》さは表現できないものなのかもしれませんね。従ってこれは……」
「……どうせ失敗作なんだろう」
「よく判《わか》りましたね」
百五十年近く同じことを繰《く》り返していればな。|呟《つぶや》いてグウェンダルは机に突っ伏《ぷ》した。どうしてこう要《い》りもしないような機械ばかり発明するのだろうか。だがしかし、あの挽肉製造器は本当に|凄《すご》かった。あらゆる意味で大傑作《だいけっさく》だったのだ。
「なんですかグウェンダル! 白い豚やらクマやらばかり編んで大作に|挑戦《ちょうせん》しようとしないから、この程度の作業で顎《あご》を出すのです! 編み仕事は情熱と気合いが決め手。もっと|精進《しょうじん》することです!」
彼にとって唯一《ゆいいつ》の救いともいえるのは、この姿を誰にも知られていないことだ。正確には、知られていないと思い込んでいるのだが。
実際は皆《みな》、知ってるし。
パックツアーでの旅行というのは、何もかも会社任せで楽ちんだ。交通機関のチケットから|宿泊先《しゅくはくさき》の予約まで、|全《すべ》て旅行社が手配してくれる。お土産《みやげ》までついてくることもある。テレビの二時間ドラマでは旅先で必ず殺人事件が起こるが、現実にはそんな危険もない。ひとつ欠点があるとすれば、|厄介《やっかい》な客と乗り合わせてしまうと、日程|終了《しゅうりょう》まで離《はな》れることができない点だろう。
ちょうど今回みたいにね。
おれたちは手摺《てす》りに肘《ひじ》をついて、もうすっかり見えなくなった岸に顔を向けていた。
四人で。
「……なんで四人なんだろう」
当初の申し込み人数は、男二人のはずだったのに。
確実に反対されるので、過保護すぎる教育係には置き手紙を残すことにし、習い始めたばかりのこちらの言葉で「ちょっとリハビリに行ってきます」と書こうとした。でも全然だめだった。まずリハビリが解《わか》らない。そこでもっと簡単に、城を出ます程度にしようと考えたのだが、城という単語の綴《つづ》りが記憶にない。結果として自分の住んでいる場所だから家と表現してもいいだろう。ということで置き手紙はこうなった。
「家を出ます」
……家出? いや断じてそういうことではなく。あとはもうSVOの順番が当たっているのを祈《いの》るばかりだ。
目的地は暫定《ざんてい》的中立地帯なので、魔族とばれても問題はない。とはいえ黒目|黒髪《くろかみ》は目立ちすぎるだろうと、形ばかりの変装もした。悪役ゲームキャラしか似合わない丸サングラスと、寒い季節なのをいいことに明るいピンクの毛糸の|帽子《ぼうし》。これに杖《つえ》(|喉笛《のどぶえ》一号)を併《あわ》せると、どう見ても怪《あや》しい老人だ。
そんなような準備を整えたおれは、巨大なトランクを転がして待ち合わせ場所にやってきた。
そこには旅慣れた軽装の次男と。
「遅《おそ》いぞユーリ!」
「……な、なんで?」
母親|譲《ゆず》りの|美貌《びぼう》のおかげで威圧感《いあつかん》倍増、|黙《だま》ってりゃ絶世の美少年、しかしてその実態は単なるわがままプーという、魔族ちょっとしか似てねえ三兄弟の三男がいた。
「ぼくはお前の婚約者《こんやくしゃ》だから、旅先でよからぬ恋情《れんじょう》に巻き込まれぬように、監督《かんとく》指導する義務がある! そうでなくともお前ときたら尻軽《しりがる》で浮気者《うわきもの》でへなちょこだからなッ」
フォンビーレフェルト|卿《きょう》ヴォルフラム、尻軽とか浮気とかそういうのは本命がいてこそ成立する行為《こうい》なんだよと、説明する気力も一瞬《いっしゅん》で失《う》せて、おれは一言だけ反論した。
「……へなちょこ言うな」
「すいません、この調子で押し切られてしまって」
さして申し訳なくもなさそうな口調で、コンラッドが海風を受けながら謝った。おれとしては首を掴《つか》んで揺《ゆ》さぶって、まさか面白《おもしろ》がってるんじゃねーだろな!? と問い詰《つ》めたくなる。
「それよりも俺《おれ》は、陛下の作戦のほうが|衝撃《しょうげき》的でした。トランクの中に女性を隠《かく》すなんて、醜聞《しゅうぶん》まみれの役者みたいですごい」
「完璧《かんぺき》だと思ったんだけどなぁ」
四人目は|巨大《きょだい》トランクの中で、おれに転がされて出発した。それだけ小さいということだ。
中身を確認《かくにん》した途端《とたん》、コンラッドは怒《おこ》るというより笑いだしそうになった。
「暗殺者じゃないですか!」
様々な局面でおれの行動を先読みし、こうなると思ったと肩《かた》を竦《すく》めてきたウェラー卿だが、今回ばかりは予測できなかったらしい。|刺客《しかく》を荷物から出してやりながら細かく肩を震《ふる》わせている。
「信じられない、見張りに何て言ったんだか!」
「親子水入らずで話したいって」
「それじゃ認めたも同然だ」
だからそれは違《ちが》うって。
おれだって自分を殺そうとした人間をリハビリ先に同行するなんて、正気の沙汰《さた》ではないと判ってはいる。でも相手は十歳そこそこの女の子だし、あのまま城に残してきたら怒《いか》り狂《くる》ったギュンターに何をされるか。あんなに聡明《そうめい》な美人なのに、おれのこととなると我を失ってしまう。悪い病気にかかっているか、動物|霊《れい》に憑《つ》かれているとしか思えない。
「いったいどこまで間抜《まぬ》けなんだ。どこの世界に命を狙《ねら》ってきた犯人と仲良く旅するやつがいる?」
「ここの世界に一人。悪かったな間抜けで。けどさ、どうしておれを殺そうとしたのかも、誰《だれ》から|徽章《きしょう》を貰《もら》ったのかも聞き出せてないんだぜ? 自分がなんで小学生に狙われたのか、知らないままでいられるか? おれは|駄目《だめ》。おれはちゃんと聞きたいの。なのにまだ名前も聞けてねーの」
視線を斜《なな》めに動かすと、赤茶の巻毛が下にいる。細かすぎるウェーブは何年も前に、母親がかけていたソバージュに近かった。一時期大流行したものだが、腹ばかり減らしていた野球|小僧《こぞう》は、見る度《たび》に縮《ちぢ》れ麺《めん》を連想してインスタントラーメンを食っていた。
「なあ、名前はなんていうの? 苗字《みょうじ》がNGなら下だけでも」
波上を渡《わた》る冬風に頬《ほお》を真っ赤に染めながら、小さな両手で手摺りをしっかりと掴んでいる。凛々《りり》しい|眉《まゆ》と長い|睫毛《まつげ》を震わせて、宙のどこかを睨《にら》んでいる。目を合わせたわけでも口をきいたわけでもないのに、どこか他人《ひと》を寄せ付けないような、この世の|全《すべ》てを|拒否《きょひ》している|雰囲気《ふんいき》を感じ取ってしまい、声をかけるのも躊躇《ためら》われた。
それでも敢《あ》えて、|訊《き》き続ける。
きみは誰? おれの何? どうしておれを殺したかったんだ?
「なあ名前ェ、教えないと勝手に見た目で呼ぶぞ? 即席麺《そくせきめん》とかマルチャンとか、って言っても元|西武《せいぶ》のマルティネスのことじゃないけどね」
「どうも名前どころではないようですよ」
コンラッドが女の子の背後から、手を回して額に触《ふ》れた。どうすればそうやってごく自然に触れられるのかと、一瞬だけ羨《うらや》ましいような気持ちになる。
「熱がある。多分、風に当たりすぎだ」
「熱!? じゃあ温泉に入れないんじゃないの!?」
船の行き先のシルドクラウトは、|眞魔《しんま》国と海を隔《へだ》てて向かい合うヒルドヤードの港町だ。以前、|魔剣《まけん》探しで立ち寄った際の印象では、中立的で自由な商業都市だった。我々魔族に対しても、敵対心を剥《む》き出《だ》しにすることなく、ビジネスライクに付き合える連中が多いという。
筋金入りの商人|魂《だましい》で、差別も|偏見《へんけん》も乗り越《こ》えたらしい。
そのシルドクラウトから|僅《わず》かに内陸部に入った土地に、世界に名だたるヒルドヤードの|歓楽郷《かんらくきょう》がある。
あらゆる娯楽《ごらく》を取りそろえ、贅《ぜい》の限りを尽《つ》くした街。ギャンブル、ドラッグ、メイクラブ、言うなれば大人のテーマパークだ。人間サイズのネズミは踊《おど》らないけど。|脳裏《のうり》に描《えが》いた想像図では、ネオン|煌《きら》めくラスベガス。世界中から集まった人々が危ない遊びを繰り広げ、独特なエンターテインメントに酔《よ》いしれる、夜のない街ラスベガス。
「俺達が行くのは、そっちじゃないですよ」
……に|隣接《りんせつ》する、万病に効くという温泉地だ。
一日|浸《つ》かれば三年長生き、二日浸かれば六年長生き、三日浸かれば死ぬまで長生きという、なんかちょっとこう計算が合わないような、ありがたい湯が豊富に湧《わ》きでているという。
「なにしろそれが効くんですよ。|瀕死《ひんし》の重傷を負った俺の父親が、そこの湯を飲んで回復したって話ですからね。俺自身|利《き》き腕《うで》の腱《けん》を痛めたときに、半月|滞在《たいざい》して完治させました。捻挫《ねんざ》の後の|踝《くるぶし》の強化なら、十日もすれば前以上に|丈夫《じょうぶ》になるのでは」
「いいねえ前以上。じゃあ肩まで浸かればロケットアームになれるかな。頭まで潜《もぐ》れば知能指数も上がるかな?」
例によってコンラッドは、今のままで|充分《じゅうぶん》なんてサラリと言う。ギャグが猛烈《もうれつ》に寒い男のくせに。
「とにかく、二晩|眠《ねむ》ればシルドクラウトだから、船室で大人しくしていましょう。発熱中の子供もいれば、例によって船酔《ふなよ》いの大人もいるし」
そういえば静かだなと振《ふ》り返ると、ヴォルフラムが涙《なみだ》ながらに吐瀉《としゃ》していた……。
大切な人から貰った手紙は、封《ふう》を切るだけでも胸が高鳴るものだ。ましてやそれがこれまで文字を書けなかった人が苦心して完成させた処女作だとしたら、涙なくしては読めないだろう。
|魔王《まおう》陛下のがらんとした執務室《しつむしつ》で、卓上《たくじょう》に残された薄《うす》黄色い紙を発見したときに、フォンクライスト卿ギュンターは|小躍《こおど》りした。
「陛下がこの私にお手紙を、覚えたての魔族語でくださるなんて!」
感激のあまり鼻の穴からも涙を流しながら、教育係は一枚だけの紙を表返した。
たどたどしくも太く大きい文字で、簡潔な一文がしたためてある。
「それにしてもなんと堂々と、自信に溢《あふ》れた線でしょうか。さすがに我等魔族を統《す》べるお方の筆跡《ひっせき》です。お教えしている私も鼻が高い」
端《はた》から見れば大きさと勢いばかりで、バランスもレイアウトもなっちゃいない。一字一字の形にしても、ナスカの地上絵に比べれば辛《かろ》うじて文字らしいと判断できる、まだその程度の初心者手紙だ。しかし愛とは恐《おそ》ろしい力を持ち、|賢者《けんじゃ》を愚者《ぐしゃ》へと変えるらしい。
「では、お心のこもった文章を一人きりですが音読させていただきましょう」
おれ、出ル、家ヲ。
ユーリ本人は非常に迷って、口語と文語が異なるならば中学で習った英語文法どおりにSVOの順番で並べるのがセオリーだろうと、基本に忠実に書いただけのことだ。かなり大雑把《おおざっぱ》に意訳すると、「おれ、ちょっと出かけてきます」なのだが。
「……おれ出家?」
白魚のごとき細く白い指が、紙に皺《しわ》を寄せるほど戦慄《おのの》いた。
「……おれ、出、家……おれ出家……出家……!?」
アカデミー出版並みに超訳《ちょうやく》すると「出家します、探さないでください」。
本来、出家とは仏門に入ることを指すが、魔族の場合は己《おのれ》の一生を眞王《しんおう》の魂《たましい》のお膝元《ひざもと》で祈《いの》りと共に送ることになる。僧《そう》になるという点では同じことだ。
「なにゆえ陛下が出家など!? この私にご不満があったとでも!?」
そんな理由で出家はしない。だが思考能力がぶっ飛んでしまっているギュンターには、馬の耳に眞魔国憲法だろう。
廊下《ろうか》を走ってきた兵が執務室の|扉《とびら》をノックする余裕《よゆう》もなく、乳白色の床《ゆか》に駆《か》け込んだ。
「申し上げます!」
「出家のことですか!?」
鬼気《きき》|迫《せま》る表情で振り向かれて、もう若手という年代ではないにもかかわらず連絡《れんらく》役《やく》は数歩、後ずさる。
「は? い、いえ、そのようなありがたいお話ではございません。国王暗殺|未遂《みすい》の大逆犯が、|逃亡《とうぼう》したと思われます。それも、そのー……聞くところによりますと、畏《おそ》れ多くも陛下ご自身が、親子水入らずで話されたいと罪人を連れだされた様子でありましてー……」
「それで|全《すべ》てが判《わか》りました!」
十貴族の面々の脳味《のうみそ》噌は、どっち方向へと回転しているか判りゃしない。報《しら》せを持ってきた中年の兵士は、鼻息|荒《あら》いギュンターからじりじりと離《はな》れた。こんな僅かな事実だけで、どうして全てが理解できるのだろう。以前に仕えていた主《あるじ》もそうだった。やはり十貴族の生まれだったが、珍奇《ちんき》な発明ばかりしていたものだ。彼にしてみればどうしてそんな複雑な機械を|手間《てま》暇《ひま》かけて作るのかが不思議でならなかった。
だって魔動|挽肉《ひきにく》製造器といっても、長く続く眞魔国の食文化において、挽肉メインの料理は皆無《かいむ》なのだ。
これだから貴族のお考えは、|一般《いっぱん》市民には通じない。
「あのお|優《やさ》しい陛下のことです。ご自分のお子ではないとハッキリしていても、悪の道に染まった|性根《しょうね》を正すべく、手助けされずにはいられなかったのでしょう!」
「は、はあ」
「グレてしまった少女の心を引き戻《もど》すには、信仰《しんこう》の力を借りるのも有効でしょう。やはり私の見込んだお方だけのことはある。お考えひとつをとっても聡明《そうめい》です。ですが陛下、なにもあなた様までご出家されることはないのです! 時には深すぎる愛情が、自己|犠牲《ぎせい》というかたちで顕《あらわ》れてしまう。そこが愛らしいところとはいえ、あたら|美貌《びぼう》と才能を、子供一人のためになげうつのは惜《お》しすぎます!」
台本でも暗唱しているのかと、唯一《ゆいいつ》の観客は不安になる。
教育係は秀麗《しゅうれい》な|眉《まゆ》を寄せ、天を仰《あお》いで拳《こぶし》を|握《にぎ》りしめた。
「どうにかしなくては……」
「どうにか、と仰《おっしゃ》いますと?」
「陛下を連れ戻さなくてはなりませんっ! まずはどこの寺院に向かわれたのかを推測せねば。もちろんご自分に厳しい陛下のこと、もっとも困難な道を選ばれたに違《ちが》いありません。そして私も必要とあれば入門し、|潜入《せんにゅう》してお助けしなくては……そこのあなたッ」
美形にいきなりご指名を受けて、兵士は反射的に背筋を正す。
「な、なんでありますか?」
「一緒《いっしょ》に出家してみませんかっ?」
独りでは少々寂《さび》しいようだ。
夜半に呻《うめ》き声《ごえ》で目を覚ました。
部屋の隅《すみ》でびしょ濡《ぬ》れの女性が啜《すす》り泣いていたり、落ち武者の大群がこっちを見ていたりしたらどうしようかとビビったが、呻いていたのは暗殺者《アサシン》少女で、熱が上がったせいだった。
コンラッドは医務室へ小児薬を貰《もら》いに行き、おれは苦しげな女の子と、|狭《せま》い船室に残された。前回の豪華《ごうか》客船とは違い、目立たずにかつ気を遣《つか》わなくて済むようにと、ツアーで申し込んだ旅だから、船室は簡素なものだった。元々はツインだったのをむりやり四人部屋にしたせいで、合宿所みたいな|雰囲気《ふんいき》になっている。隣《となり》のベッドではヴォルフラムが|熟睡《じゅくすい》していた。天使のごとき美少年のいびきが「ぐぐびぐぐび」なのはどうだろうか。
子供の額に|浮《う》かんだ|汗《あせ》が、小さなランプの心許《こころもと》ない灯《あか》りで光っていた。丸い墳《は》め込み窓の向こうには、黒々とした波のうねりが広がっている。|携帯《けいたい》のバイブ機能を強めたような細かい震動《しんどう》が伝わってくる。海底近くで|巨大《きょだい》イカが縄張《なわば》り争いをすると、船にも|影響《えいきょう》があるらしい。
まだ名前も教えてくれない女の子が、寝返《ねがえ》りを打って背を向けた。日に焼けた腕が剥《む》き出しになる。毛布を掛《か》け直してやろうとして、|喉笛《のどぶえ》一号を手に立ち上がる。
インフルエンザをうつされたときは、三日間トイレに行くのもやっとだった。食べるのも辛《つら》ければ飲むのも辛い。お袋《ふくろ》が作ったお粥《かゆ》とかアイスクリームくらいしか受けつけなかった。
「……アイスあるといいよな、アイス。それより……母親がいてくれたらいいのにな」
子育ては夫婦で平等にするものだから、別に父親でもいいんだけど。
「なあ、きみどこから来た子なの? どこの国のどこの家に帰せばいいの?」
「……れない」
うわごとかと思った。
「え?」
少女は背中を向けたまま、少し掠《かす》れた声で言った。
「帰れない」
「なんで? 金銭面? 電車賃とかそういうんだったら……ああ電車はないか。でもご両親も心配してるだろうし、なんだったらこのままきみんちまで送ってくよ。住所言える? そうだ、名前は?」
自分を殺しに来た相手に、交通費まで支給しようとは。おれも大物になったもんだ。女の子は再び黙《だま》り込み、高熱のせいで寒いのか胎児《たいじ》みたいに身体《からだ》を丸めた。
仕方なく毛布を引っ張って、曝《さら》された左手を覆《おお》ってやろうとする。オリーブ色の細い肩《かた》に、黒く小さな文字があった。十歳にして刺青《いれずみ》とは、かなり早めのギャルぶりだ。
「い……イズ、ラ。これ名前? それとも気合い入れる言葉かな。イズラ……なんとなく女性の名前っぽいよな。じゃあイズラって呼ぶことにするわ」
「違う! イズラはお母様の名前だっ」
「じゃあきみの名前はなんだよ」
「グレタ」
ぶっきらぼうにそれだけ言った。マイネームイズもドゾヨロシクも今後ご|贔屓《ひいき》にもない。
まあいい、とりあえずは名刺交換《めいしこうかん》。
「グレタ、おれはユーリだよ。渋谷有利原宿……」
習慣でそこまで続けてしまい、一秒かかって思い出す。ここには漢字も原宿もない。この自己|紹介《しょうかい》は二度と役に立たない。もうきっと使う機会もないだろう。
「いやいいんだ、ただのユーリで。それで、よかったら住所も教えてくれよ。どこに住んでんの、暑いとこ? 都会? なあ寒かったら毛布、もう一……」
何の気なく髪《かみ》に触《ふ》れただけだった。頭を撫《な》でようとしたのかもしれない。自分でも深く考えてはいなかったのだが。
グレタが悲鳴をあげた。病人とは思えぬ大音響《だいおんきょう》。
「うわごめんッ」
「触《さわ》るな触るな触るなーっ助けて誰か助けてー!」
おれから逃《のが》れようと身体を捻《よじ》り、ベッドから派手に転げ落ちる。
「ちょっとっ、ちょと待てッ、何もしない、なんにもしないからさっ」
「にゃんだユーリ!? 子供ににゃにをしている!?」
両眼半開き状態のヴォルフラムが起きてしまう。ヨダレで呂律《ろれつ》にも問題が。
「この節操なしの恥知《はじし》らずめ! 幼女にまで手を出すとは何事だ? しかも婚約者《こんやくしゃ》のぼくのいる前でだぞ。ああっまさかぼくを拒《こば》み続けてるのは、そういう嗜好《しこう》だからなのか?」
「せ、節操なしって、待てよおれ誰にも手なんか出してないじゃん! しかも自分の性別を棚《たな》に上げといて、そういう嗜好って何だよ!? そういう嗜好ってェ」
渋谷有利ロリコン疑惑発覚? 冗談《じょうだん》じゃない、そういう趣味《しゅみ》はございません。どちらかといえば年上好きだ。
「おれがロリ派の奴《やつ》だったら、お前の母親にときめくわけがな……あ、はーい」
|扉《とびら》が何度も叩《たた》かれる。念のために鍵《かぎ》をかけておいたのだ。細く開けると制服姿の船員が気を付けの姿勢で立っていた。
「なんでしょ」
「客室周辺の見回りをしておりましたところ、お客様のお部屋から幼い子供の悲鳴が」
しまった。向こう三|軒《げん》両隣《りょうどなり》まで聞こえてしまったか。平静さを取り繕《つくろ》う。
「いえ別に、些細《ささい》な言い争いでして。船員さんのお世話になるようなことでは」
「金の力に物をいわせて幼女と婚約関係を結び、手元に置いて理想の女性に育て上げようという魂胆《こんたん》ですか?」
「こ、魂胆って」
それは源氏物語だろう。おれの困惑《こんわく》をよそに、正義感の強そうな若手船員は怒《いか》りを露《あら》わにして続けた。
「しかもいうことをきかないとなると、今度は暴力で支配しようというのですか。杖《つえ》で殴《なぐ》って」
「は!? ああこれ、喉笛一号、これで殴ってなんか……あのもしかして、おれ児童|虐待《ぎゃくたい》とか暴力|亭主《ていしゅ》かなんかと勘違《かんちが》いされてる?」
「おいそこの人間、いい加減にしろ。ユーリの婚約者はこのぽくだ、あんなこ汚《さたな》いガキじゃ、……うぶ」
「うぎゃヴォルフ、ベッドで吐《は》くな! 吐くなら乗るな乗ったら吐くなっ」
「おや、幼女ではなくそちらの方とご婚約を? しかも婚約者様は、つわり、ということはあちらのお子様はどのような」
「おれの隠《かく》し子《ご》だよっ! これで|納得《なっとく》? はいじゃあね見回りご苦労さん!」
怪訝《けげん》そうに変化した顔の真ん前で、扉を乱暴に閉じてやる。人の恋路《こいじ》を邪魔《じゃま》する者は……違《ちが》う違う、恋路じゃない。人の疝気《せんき》を頭痛に病《や》むなってんだ。
壁《かべ》とベッドの隙間《すきま》に踞《うずくま》ったまま、少女は繰《く》り返し呟《つぶや》いていた。額を床《ゆか》に押《お》しつけて、|握《にぎ》りしめた両|拳《こぶし》は耳の|脇《わき》にある。
「信じちゃだめ……誰も信じちゃだめ……誰も」
「それは、おれを、ってことなんだよな」
当然だ。彼女はおれを殺しに来た、小さな刃物《はもの》を持って。多分、いやきっと憎《にく》んでいるだろう。そうでなければひと一人の命を|奪《うば》おうなんて、十歳やそこらで思うわけがない。
「おれがきみに何すると思ったんだ?」
震《ふる》える子供を前にして、ひどく情けない顔をしていたらしい。どうにか吐き気を堪《こら》えたらしいヴォルフラムが、安心する足音で後ろに立った。
「だから言っただろう」
「なにを」
「命を狙《ねら》ってきた相手と仲良く旅をしても」
ラーメンみたいだと思った髪がほんの数センチ先にあるのに、指は宙に止まったままだ。
「……お前が傷つくだけだと」
「そんなに親切に言ってくれてねーよ」
「言ったぞ、バカだって。どうでもいい。そんな中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な姿勢でいるな。足に負担がかかるんじゃないのか」
のろのろと腰《こし》を伸《の》ばし、三本の脚に平等に体重を分けた。
「でもおれ、嫌《いや》だったんだよなぁ。自分が誰になんで恨《うら》まれてるのか、知らずにいるのが嫌だったんだよ」
「少なくとも名前は判《わか》ったわけだ」
そうだった。暗殺者とか|刺客《しかく》とか呼ばなくても済む。彼女と母親の名前は教えてもらえたのだから。
「グレタ、ベッドに戻《もど》って暖かくしてないと、また熱が下がらなくなるからさ。ほら立って、毛布に入れって。こんなとこで風邪《かぜ》をこじらせたら、せっかくの温泉に入れねーぞ?」
もうおれから触るのはやめようと思って、右手を差し出したままで待った。独りで立つならそれでいいし、手摺《てす》り代わりに掴《つか》むならそうすればいい。グレタは焦《じ》れるほどゆっくりと、おれの目を見ずに手を握った。人間の重さがぐっとかかり、病み上がりの右足首がずきりと痛むが、彼女がベッドに上がるまで、手を握ったままでいた。大丈夫、風邪なんかすぐに治るよと、掌ごしに伝えてやる。瞬間《しゅんかん》的なものだったが、子供時代の発熱特有の痛みを伴《ともな》う怠《だる》さに|襲《おそ》われる。緩《ゆる》い波は腕《うで》から肩に走り、|延髄《えんずい》で分散してぱっと消えた。どうにもできないもどかしい疼痛《とうつう》が、あっという間に身体中を通り抜《ぬ》けた。
「……え」
今のが何だったのかを考える余裕《よゆう》もなく、再び扉がノックされる。
熱冷ましと氷を持ったコンラッドだった。