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今日からマ王4-3
日期:2018-04-29 21:53  点击:365
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 フォンヴォルテール|卿《きょう》グウェンダルは、仕事を溜《た》めるのが大嫌《だいきら》いである。
 頑固《がんこ》で取っつきにくそうな外見からは想像もつかないが、未決の書類が束になっていたり、懸案事項《けんあんじこう》が複数あると苛《いら》ついてくる。今日やるべきことは今日のうちに済ませてしまい、明日やるべき分も少しでも減らしておく。これが彼のモットーだ。
 本日も定時にはヴォルテール城の執務室《しつむしつ》に入り、暖炉《だんろ》の熱を背に受けながら筆記具を|握《にぎ》っていた。
 三|杯《ばい》目の紅茶が冷めつつある。
「聞いているのですかグウェンダル」
 誰《だれ》が聞くか! と心中では毒づきながらも、実際にはペン先を紙の上に押しつけただけだった。青黒い染《し》みがじわりと広がる。
 火の傍《そば》の最も居心地《いごこち》のいい場所に陣《じん》取り、|眞魔《しんま》国三大悪夢は話し続ける。魔力向上のための鍛錬法《たんれんほう》が話題だった。
「このままでは男達の魔力は下がるばかりで、今年の男子新成人など基準値に達する者は約四割です。これは由々しき事態です。この現状を打破するためには、成人前の男児に特別訓練を義務づける必要があるでしょう。そこでわたくしは考えました」
 炎《ほのお》に照らされて赤味を増した髪《かみ》と、時折|橙《だいだい》の光が差し込む水色の瞳《ひとみ》。フォンカーベルニコフ|卿《きょう》アニシナの情熱と知性は、常に魔族のために捧《ささ》げられてきた。
 方向が正しいとは限らないが。
「成人前の一年間、多少なりとも魔術の使える男児は全員、合宿所で寝食《しんしょく》を共にして魔力強化の献立《こんだて》に従わせるというのはどうでしょう。早朝から深夜まで理論と実践《じっせん》、周囲には戦時さながらの罠《わな》を仕掛《しか》け生徒の|逃亡《とうぼう》は絶対不可能、脱落者《だつらくしゃ》を待つのは敗者の烙印《らくいん》のみ。名付けて、どきっ・男だらけの魔術合宿、お涙《なみだ》ポロリもあり!」
 なんだろうその懐《なつ》かしい企画名《きかくめい》は。
「……適材適所でいいのではないか」
 領内の福祉《ふくし》施設《しせつ》改築許可証に署名をしながら、グウェンダルはいつにも増して苦い顔だ。
「女のほうが魔術に長《た》けているのなら、専門職には女性を就《つ》ければいい。男は|騎兵《きへい》や歩兵に配される。それで片の付く問題ではないのか」
「これだから貴方《あなた》は浅知恵《あさぢえ》だというのです!」
 アニシナは大袈裟《おおげさ》に天を仰《あお》ぎ、両肩《りょうかた》を竦《すく》めてインチキ司会者みたいなジェスチャーをした。
「幼い頃《ころ》からこう言われ続けてはきませんでしたか? 男は強くあれ、そして女は|優《やさ》しくあれ」
「その言葉の最大の失敗例が、よく言う」
「失敗、と仰《おっしゃ》いました?」
 低い|呟《つぶや》きまで聞きとがめられ、強面《こわもて》の領主は視線を逸《そ》らす。|冷徹《れいてつ》無比で皮肉屋、絶対無敵の重低音、誰《だれ》よりも魔王に相応《ふさわ》しい容姿を持った前王太子|殿下《でんか》も、この幼馴染《おさななじ》みの前では形無しである。
「とにかく、女の強い世の中はお前の理想だったはず。だったら男児の弱体化など捨て置けば、希望どおりの国家に近付くだろうが」
「相変わらずのひがみ|根性《こんじょう》ですね! わたくしが弱い男どもを支配して嬉《うれ》しがるとでも? より強い男達を従わせてこそ、真に強い女の世界が完成するのです。そのためには今のままの魔族では物足りません。もっともっと男性の基準値を上げてもらわなくては。そこでこのような訓練器具を発明してみました」
 そらきた、またしても発明だ。どう足掻《あが》いても彼女の実験からは逃《のが》れられない。アニシナは背後から剣《けん》によく似た長物を持ち出し、中央の持ち手を|握《にぎ》って前後に揺《ゆ》すった、両側に伸《の》びる羽根状の薄《うす》い板が、一拍《いっぱく》遅《おく》れた震動《しんどう》で大きくしなる。
 どこかで目にした|記憶《きおく》がある。しかももうかなり前にブームが過ぎているような。
「これを一日続ければ通常の六倍近い効果があります! 名付けて魔力増強刃《マジカルブレード》」
 羽根はぶんぶん|唸《うな》っている。どうしてもツッコまずにはいられずに、グウェンダルは深呼吸してから口を挟《はさ》んだ。
「それは腹筋を|鍛《きた》えるものでは……」
「いいえ、魔力増強です! さあグウェンダル、これを一日振《ふ》り続けるのです。もっともっと強くなるために」
 頼《たの》むから帰ってくれ!
 心の声は、届かなかった。
 
 
 ネオン|煌《きら》めくラスベガス、夜のない街ラスベガス、ああ青春のラスベガス、命短しラスベガス。と、ベガス賛歌を口ずさむおれの眼前に展開された光景は。
「……ていうか、熱海《あたみ》?」
「アタミじゃなくて、ヒルドヤードの|歓楽郷《かんらくきょう》です。世界に名だたる|享楽《きょうらく》の街」
「あらゆる娯楽《ごらく》を取りそろえて贅《ぜい》の限りを尽《つ》くしたんじゃなかったっけ?」
「取りそろえてるはずですよ」
「だって全然ラスベガスじゃねーじゃん? ジェットコースターもピラミッド型ホテルも|噴水《ふんすい》もステージもミュージカルも」
「ベガスってこんな感じの都市じゃないんですか?」
 アメリカ帰りとはいっても、米国全土を旅したわけではないらしい。ここは断じて西海岸ではない。まあおれも行ったことはないけどね。
 カジノですった体格のいいおじさんが肩《かた》を落として帰る姿よりも、浴衣《ゆかた》の上に丹前《たんぜん》で下駄履《げたば》きの集団が、射的場でエロライターを撃《う》ち落として喜ぶ姿が似合う土地。もちろん実際に歩いているのは|金髪《きんぱつ》や茶髪の人種ばかりだし、服も履き物も異世界デザインで和風な物などありはしない。でもなんか熱海。何故《なぜ》だろう。
 観光客も多く賑《にざ》やかで、通りの|両脇《りょうわき》にずっと続く商店では盛《きか》んに呼び込みもしている。建造物は精々が三階程度で、それ以上に高いものはない。所々にシュロらしき木が突《つ》き出して、冬なのに緑の細い葉を揺らしていた。石畳《いしだたみ》で舗装《ほそう》された|道端《みちばた》には、やたらと猫《ねこ》が転がっていた。これも温泉の効果なのか、季節の割には暖かい。
「とにかく無事に着いてくれてよかったよ。もうあの船にいるのは限界だったかんな」
 海上での後半は最悪だった。食事をしようとダイナーに向かえば、あれがつわりの婚約者《こんやくしゃ》と隠《かく》し子《ご》を連れて旅行中の男よ聞いてたより|随分《ずいぶん》若いわねまああの歳《とし》で隠し子発覚だなんてあらでも一緒《いっしょ》のちょっといい男は何者なのかしらあれが隠し子の親じゃないええっじゃああれ男前なのに女なのぉ!? などというゴシップを聞こえよがしに囁《ささや》かれ、やむなく船室でルームサービスをとれば、食ったそばからヴォルフラムが元に戻《もど》す(半ば消化されちゃってるブツを)という。一時間のグルメ紀行番組にまとめると『やな旅、|地獄《じごく》気分』とタイトルつきそうな二日間だったのだ。
 グレタの熱はすっかり下がったが、おれのほうが心労で寝込《ねこ》みたい気分だ。
「とにかく宿にチェックインして、早いとこ温泉であったまりたいよ」
 街の入り口でコンラッドが、荷物係に金を渡《わた》してトランクを預けた。見上げると正面には鳥居に似た形の赤いゲートがあり、|天辺《てっぺん》には丸い鏡が輝《かがや》いていた。すかさず次男の説明が入る。
「あれが歓楽郷のシンボルの魔鏡ですよ」
「魔鏡? ってことはまたしても魔族のお宝発見!? あれを引っ剥《ぱ》がして持って帰るの?」
「いや、あれは我々の物ではなく……見てください」
 西から斜《なな》めに射《さ》した夕陽《ゆうひ》のオレンジが、鏡に向かって伸びてくる。反射するかと思いきや、光はガラスを通り抜《ぬ》けた。石畳の真ん中の計算された円内に、夕陽を薄めたオレンジ色で、複雑な模様が浮《う》かび上がる。通りにいた客達全員が歓声《かんせい》を上げた。
 幻想《げんそう》的で、|綺麗《きれい》だった。
「あれがここの魔鏡の正体。一見した限りではごく普通《ふつう》の鏡なのに、ある角度から光を当てた時だけは反射せずに素通《すどお》りして複雑な模様を映し出す。この国の神様の何かだったと思うんですが。朝は朝で反対側に別の模様が……」
「あれは匠《たくみ》の技《わざ》によるものだ。超常《ちょうじょう》な力を持つ魔族の魔鏡とは性質が異なる」
 兄の言葉を奪《うば》うようにして、三男は偉《えら》そうに顎《あご》を上げた。ということは他《ほか》にも魔鏡があるわけだ。
「我々|眞魔《しんま》国の至宝、水面の魔鏡は、覗《のぞ》いた者の真実の姿が映るという、美しくも恐《おそ》ろしい力を持ったものだ。まあ、現在は国内にはないそうだが」
「でも今回はその宝物を探しに来たわけじゃなくて、単純に温泉|治療《ちりょう》に来たんだろ? 言っとくけどおれはお宝なんか探さないからな。ゆっくり浸《つ》かって足首を|丈夫《じょうぶ》にするんだから」
 それ以前に真実の姿ってのが|胡散《うさん》臭《くさ》い。鏡に映るのはこのままの自分の顔だ。真実とか噛《うそ》とかがあるものか。
「そう。陛下の足のリハビリに来たんだから、余計な心配はなさらなくていいんですよ」
 逆方向の人々を避《よ》けながら、熱海ストリートを南下する。それぞれの店から流れくる料理の匂《にお》いが、混ざり合って複雑な臭気《しゅうき》になる。新種の無《む》国籍《こくせき》料理というか。
「……むしろゆですぎた卵というか……」
「ああこれは|硫黄《いおう》、温泉の」
 なんだそうか。どうも食欲をそそらない香《かお》りだと思った。
 お買い物ゾーンを抜けるとお遊びゾーンで、それこそ射的(ただし弓矢)や輪投げを筆頭に、建物の中では|賭博《とばく》も飲酒も行われていた。木造の建物が途切《とぎ》れた広場には、いくつかの白っぽいテントが張られていた。まだ右も左も判《わか》らないような幼稚園児《ようちえんじ》の頃に連れて行かれたサーカスを思い出す。特異なメイクが怖《こわ》かったのか、ピエロがどこまでも追い掛《か》けてくる夢を見てしまった。腹が出ている|妙《みょう》ちきりんなおっさんが、チケットをもぎりながら叫《さけ》んでいる。
「さあお嬢《じょう》ちゃんお|坊《ぼっ》ちゃん、見せ物小屋に寄ってかないか? |間違《まちが》っても|吸血鬼《きゅうけつき》になっちまったりはしないよ。びっくりして楽しんで帰るだけだよ」
 派手な看板には|怪物《かいぶつ》の絵と、真っ赤な文字が書かれていた。おれにも読めそうな短文だ。
「……世界のちん!」
「ちん、じゃなくて|珍獣《ちんじゅう》。世界の珍獣てんこもり、だそうです」
 まだまだ読解力不足。
 まずチェックアウトするために、ここも通り抜けて温泉ゾーンヘと向かう。馬車を降りてから早くも三十分、さすが世界に名だたる歓楽郷だ。
 見せ物小屋の怪物の絵が怖かったのか、気付くとグレタがおれの服の裾《すそ》を掴《つか》んでいた。本人も無意識にやっているみたいだから、このままそっとしておこう。
「おにーさん、ひま?」
 不意をつかれてギャグみたいに|眉《まゆ》を上げてしまった。声をかけてきた相手に首を向けると、女の子は満面の笑《え》みで首を傾《かし》げた。スカート丈《たけ》はかなり短く、日に焼けた長い脚を惜《お》しげもなく曝《さら》している。まだ谷間ができるほど育っていないくせに、胸を強調するスリップドレスだ。
 寒さに鳥肌《とりはだ》を立ててまで際《きわ》どい格好をしたいとは、ギャルの心意気というものか。
 けれどいくら露出《ろしゅつ》の多い格好をしていても、よくよく見ればまだ|中坊《ちゅうぼう》だ。
 なんてことだ、女子中学生に声をかけられるとは!
 ときメモでさえバッドエンディングなおれのことだから、女の子のほうから|誘《さそ》われるなんて生まれて初めてだ。これがいわゆる逆ナンってやつ!? 
「友達も一緒《いっしょ》なの。ね、よかったら、おにーさんたちみんなで」
 ヒョロリとした少女がもう一人、元気のない足取りで寄ってきた。あっという間に浮《う》かれた気分は萎《しぼ》んでしまう。
「……なんだ、コンラッド目当てかよ」
「悪いが、これから宿に向かうところだ。遊んでいく|暇《ひま》はない」
 老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》に大人気の男ウェラー|卿《きょう》コンラートは、心からとは言い難い笑顔で、おれを背後に押しやった。
「そっちの娘《むすめ》は具合も悪そうだ。この寒空にそんな服装では身体《からだ》を壊《こわ》すよ」
「じゃあお客さん達の部屋に連れてって! そしたら泊《と》まりも|大丈夫《だいじょうぶ》だから!」
 女子中学生は食い下がる。お願い今夜は帰りたくないの発言とは、ものすごくコンラッドを気に入ったようだ。あの男前であの性格だから、逃《のが》したくない気持ちも解《わか》る。だが彼のギャグを聞いてみろ……|凍《こお》るぞ。
 相手の肘《ひじ》を胸に押しつけたりしている少女を見ていると、おれの古くさい倫理観《りんりかん》が、むくむくと頭をもたげてきた。ひがみ|根性《こんじょう》からではない、いや決して。
「あのなあ、君たち。逆ナンされて一瞬《いっしゅん》だけは嬉《うれ》しかったけど、おれの中では十五歳未満は|外泊《がいはく》禁止だぞ!? 家帰って親に尋《たず》ねてみろ、どれだけ心配かけてるか……」
 親という言葉を発した途端《とたん》に、ジャケットからふっと重さが消えた。
 グレタが指を離《はな》していた。
「……お前のこと言ったんじゃないよ」
「あんたたち、|無粋《ぶすい》な|真似《まね》はおよし! 子連れのお客さんに声|掛《か》けるなんて、道に立つ者としちゃ最低の行為《こうい》だよ」
 婀娜《あだ》っぽい感じのおねーさんが、通りの反対側から口を出す。くわえ煙草《たばこ》に乱《みだ》れ髪《がみ》、少々|崩《くず》れたところがやたら色っぽい。組んだ腕《うで》の間からは、本物の谷間がのぞいていた。
「その人達は家族で楽しみに来てるんだ。ここはヒルドヤードの|歓楽郷《かんらくきょう》だよ? 女以外の遊びがいくらでもあるんだからね」
 十五歳未満はこそこそと店に逃《に》げ込み、おねーさんは短く鼻で笑ってから、コンラッドの肩《かた》に手を載《の》せた。しつこいようだけど彼の駄酒落《だじゃれ》を……もういいです。
「五年前に来たときには、こんなにいかがわしい|雰囲気《ふんいき》じゃなかったんだが」
「ほんの三月くらい前に、ヒヨコちゃんが大勢流れ込んできたの。なんか権利の持ち主が変わったとかで、そういう方針にしたみたいだけど。あんな素人《しろうと》くさいお子ちゃまでも、若けりゃいいなんてつまんない客が飛びついちゃってね。まったく、ここらも商売しにくくなったもんだわ。ところで」
 女の視線がモードチェンジする。
「あんたいい男ね。どう? お連れさんたちが寝《ね》ちゃってから」
「悪いけど、裏切れない相手がいるんでね」
 また一つ、ウェラー卿が技《わざ》を見せた。そこらの百歳には絶対に不可能な笑顔だ。
 おれは鳥肌《とりはだ》を立てながら、掌《てのひら》に指でメモをした。なるほど、断りづらいお誘いは、この台詞《せりふ》で片をつければいいわけか。英会話の教材買ってください、悪いけど裏切れない相手がいるんですー。うお、歯が浮きすぎて抜《ぬ》けそうだ。
 まったく口をきかなかったグレタが不意に、あっと短く声を発した。駆《か》け出そうと踵《かかと》が|緊張《きんちょう》するが、向かってきた人影《ひとかげ》を見てやめてしまう。
「お前等なにをしているっ!? ぼくだけ先に行かせてからに。返事がないからと大きな声で話してやったのに、振《ふ》り返ると誰《だれ》も後ろにいないじゃないか! 要《い》らぬ恥《はじ》をかかされた」
 そのときになってやっと、ヴォルフラムがいなかったことに気が付いた。
 
 
 果てしなく続く、風呂《ふろ》、風呂、風呂。
 これこそまさに温泉パラダイス、近所のスーパー銭湯や健康ランドとは規模が違《ちが》う。何十種類もの岩風呂が整然と並び、四方の入り口からは絶え間なく人が出入りしている。乱暴に喩《たと》えると東京ドームでの温泉見本市、しかも|全《すべ》て混浴だ。
「ひゃー、すげー」
 おれは腰《こし》にタオルを巻いただけの姿で、手近な浴槽《よくそう》に歩いていく。|喉笛《のどぶえ》一号なんか使っちゃいられない、温泉|治療《ちりょう》に勝《まさ》る妙薬《みょうやく》なしだ。
 先客は女性ばかり約十人。あからさまにおれを指差して何事か唖《ささや》き合っているが、この程度で臆《おく》してはいられない。混浴のGOサインが出ているのだから、遠慮《えんりょ》している場合ではない。
「ちょっと待った陛下……じゃなかった|坊《ぼっ》ちゃん」
「なんだよ判《わか》ってるよ、まずは掛け湯でしょ? ざっと汚《よご》れを落としてから入んないとねー」
「いえ、そういうことではなく」
「何をしているユーリ、そこは美人の湯だぞ? それ以上美しくなってどうするんだ」
 間違《まちが》った審美眼《しんびがん》で物を言いながら、ヴォルフラムはずんずん歩いてゆく。打ち身・|捻挫《ねんざ》の湯はもっと先なのだろう。腰にタオルも巻かないとは、王子様外見とは裏腹の漢《おとこ》らしさだ。
 通り過ぎた残像に、尻尾《しっぽ》みたいなひらつきが。
「……うそ」
 振り向くと、スクール水着も愛らしいグレタが、アヒルちゃんを抱《かか》えて立っていた。際どい競泳型のコンラッドも、おれ用の海パンを手に苦笑《くしょう》している。
「水着着用なんですが」
「……|嘘《うそ》惣超《ちょう》ビキニTバックしかも黄土色ぉ!?」
 その上、ケツ部分に燕尾服《えんびふく》風の尻尾つき!?
 恥《は》ずかしすぎる、そんなんだったら完全|披露《ひろう》のがなんぼかマシだ! と一頻《ひとしき》り|抗議《こうぎ》してはみたものの、野球を嗜《たしな》む者として、ルールブックに記載《きさい》された条項《じょうこう》には弱い。郷《ごう》に入っては郷に従え、虎穴《こけつ》に入らずんば虎児《こじ》を得ず、だ。Tバック(尻尾つき)水着で足首が|丈夫《じょうぶ》になるのなら、罰《ばつ》ゲームと思って|諦《あきら》めよう。
 かくしておれは写真にでも撮《と》られたら泣いてしまいそうな、恥ずかしいパンツで入浴した。打ち身捻挫の湯は刀傷の湯と隣《とな》り合っていて、そちらには強面《こわもて》のおっさん五人衆が口もきかずに浸《つ》かっていたのだが、腰を上げるとやっぱり全員同じ海パンだった。笑いを堪《こら》えるのに必死である。
 温泉効果は絶大だった。治っているのだと理解はしていても、心のどこかに怯《おび》えがあって力を入れられなかった右踝《みぎくるぶし》が、杖《つえ》なしでもしっかり踏《ふ》みしめられる。三日も続けて温まれば、骨まで頑丈《がんじょう》になりそうだ。皆《みな》が|屈辱《くつじょく》に耐《た》えてでも、入りに通うだけのことはある。
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 二時間以上も様々な風呂を堪能《たんのう》してから、熱海風の街並みを漫《そぞ》ろ歩く。世界各地のあらゆる味覚が勢揃《せいぞろ》いというお食事ゾーンで、ウェラー卿お勧《すす》めのクルダル料理を味わった。脂《あぶら》ののった穴子の蒸《む》し焼《や》きだと思っていたら、それは昆虫《こんちゅう》だと教えられ、どうしたものかと悩《なや》んでしまった(食ったけどさ)。
 船でのきつい待遇《たいぐう》に反し、宿は上等で快適だった。
 というのも気を|利《き》かせたコンラッドが、ツインニ部屋に変更《ヘんこう》してくれたからだ。
 暗殺者とターゲットを組ませるのも問題ありだから、おれとヴォルフラムが同室になった。いつもと同じようなものだ。
 隣室《りんしつ》からはしばらく音がしていたが、デジアナGショックが九時を指す頃《ころ》には、何の気配もなくなった。シーツを乱しつつ腹筋五十回目のおれが最後に聞いたのは、|扉《とびら》を閉めて遠ざかる足音だ。
「……コンラッドが出掛《でか》けた!」
 ランプを消し月明かりだけで、地元のワインをちびちびやっていた三男は、さして興味もなさそうだった。
「なあコンラッドが出掛けたよ。さっきの女の所かな」
「それはないな」
「なんでー? いくら兄弟のことだからって、やけに自信ありげじゃん?」
「ああいう女は好みじゃない」
 おれが初めて会ったときには、彼は次兄を身内どころか|魔族《まぞく》とさえ認めていなかった。それがどんな変化があったのだろう、好みのタイプまで把握《はあく》しているとは。
「じゃあどんな女性がアレなんだろ」
「もっとこう清潔というか、良く言えばさっぱりしているんだが悪く言えばがさつというか、やっぱり……スザナ・ジュリアみたいな」
「なんだそりゃ。がさつな女が好みって」
 聞き覚えのある名前に複雑な気分になる。ある晩、立ち聞きした話では、彼女はウェラー卿の特別な人だったらしい。
「でもそのひと、恋人《こいびと》じゃなかったんだろ」
「ああ」
「ひょっとして不倫《ふりん》? 不倫の|匂《にお》いする?」
「そんなことはない。断言できる」
 ライオンズブルーの胸の魔石が、名前に反応して温度を上げた。コンラッドに尋ねたことこそないが、前の持ち主は恐らく彼女だろうと、おれも薄々気付いている。以前にも聞いた話だが、フォンウィンコット|卿《きょう》スザナ・ジュリアという女性は別の男と婚約《こんやく》関係にあったはずだ。
「彼女はアーダルベルトの婚約者だった。婚姻《こんいん》の日取りも決まっていたんだ。でも何故《なぜ》かある日を境に母上が、アーダルベルトとの関係は破談になるだろうと仰《おっしゃ》ったんだ。ウィンコットの領主は平等な男だしコンラートの剣《けん》の腕《うで》をかっていたから、娘《むすめ》をフォングランツ家に嫁《よめ》にやるよりは、手元で家を継《つ》がせたいだろうと……本人達の気持ちさえ、どうにかなれば」
「なんだよその、気持ちって」
「……ウィンコットは十貴族の中でも最も古く歴史ある家系だ。始祖は眞王《しんおう》と共にあり、創主達との戦いにも加わったという。しかもジュリアは眞魔国で最高とも言われる術者だった。誰もが一目置いていた。だがコンラートは……確かに母上の血は継いでいるだろうが……」
「父親が人間だからってこと?」
「ああ」
 そういうこともあるだろうなとは思った。日本だって結婚ともなれば家柄《いえがら》の違《ちが》いだの言いだす奴《やつ》が必ずいる。人種や民族間の差別、|偏見《へんけん》は、もちろん恥ずべき問題だけど、娘が国際結婚するとなれば戸惑《とまど》う親が多いのも事実だろう。理不尽《りふじん》だけど、障害を乗り越《こ》えるのが愛でしょなどと、|恋愛《れんあい》に縁遠《えんどお》い野球|小僧《こぞう》は照れてみたりする。
「ああ……いや、二人の関係に反対するとか、そんな規模の問題じゃなく……戦時中だったので、もっと深刻な」
「んだよ、歯切れ悪《わり》ィなあ」
「とにかく、当時の|宰相《さいしょう》に……お前も会ったろう、シュトッフェルという男だ」
「あーあーツェリ様のお兄さんな。会った会った」
「そうだ。ただ権力にしがみつきたいだけの、愚劣《ぐれつ》な|臆病者《おくびょうもの》だ」
 低く低く苦々しい言葉を吐《は》き、実の伯父《おじ》を悪《あ》し様《ざま》に言うヴォルフラムは、驚《おどろ》くほど長兄に酷似《こくじ》していた。行動を共にするにつれて、彼等兄弟の血の濃《こ》さを見せつけられていく。
「奴に良からぬ進言をした者がいて、コンラートは|出征《しゅっせい》を余儀《よぎ》なくされた。あいつが|奇跡《きせき》的に戻《もど》ったときには、……スザナ・ジュリアは亡《な》くなっていたんだ」
 平和ボケと言われるおれたちの世代が、本でしか読んだことのないような悲恋だ。でもきっと祖父母の時代には|珍《めずら》しくなかったろうし、現代だって地球上の様々な場所で、悲劇が起きているだろう。こっちの世界でも、争いのある所では、間違いなく。
 ヴォルフラムの声は小さく硬《かた》くなり、触《ふ》れられたくないのだと言外に語っていた。おれだって辛《つら》い事実を根掘《ねほ》り葉掘り問い質《ただ》すつもりはない。けれどひとつだけ、|訊《き》いておきたいことがある。過去じゃなくて、現在だ。
「それでお前は、どう思ってるわけ?」
「何を」
「お前もコンラッドのことを、半分人間だからどうだとか思ってんの?」
 弟として困る質問だったらしい。低く|唸《うな》って黙《だま》り込んでしまう。
「昔のことはどうでもいい。おれがこっちに来てからの話」
「……それは……」
 窓際《まどぎわ》のテーブルから離《はな》れ、おれはベッドの上の三男|坊《ぼう》をふざけて蹴《け》った。そのうちじっくり聞かせろよ、の合図だ。
「いつまで年寄り臭《くさ》く酒なんか飲んでんの? まあしゃあねぇか、八十二だしね」
 せっかくお目付役が不在で、おれの右足も絶好調なのに、九時消灯じゃわびしすぎる。
「なあ、温泉街的夜遊びに行こうぜ。輪投げと射的とスマートボールっ」
 ヴォルフラムは途端《とたん》に不遜《ふそん》な態度に戻り、小|馬鹿《ばか》にするように鼻を鳴らす。
「夜遊びだと? そんな子供っぽいことは飽《あ》きた」
「お、おいちょっと、まさかこのまま就寝《しゅうしん》時間てわけじゃ……」
 言い終わるまで待たずに、おやすみ態勢だ。
 ……まあしゃあないか……八十二だしね。

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