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今日からマ王4-4
日期:2018-04-29 21:53  点击:388
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 文字どおり朝から晩まで机にかじりつき、書面仕事のみとはいえ四日先の分まで決裁させた。フォンヴォルテール|卿《きょう》グウェンダル閣下は、ふらつきながら椅子《いす》を立つ。
 昼食を摂《と》る|暇《ひま》も惜《お》しんで精を出したので、頭の中は数字と回りくどい文章でいっぱいだが、胃の中はとっくに空っぽだった。とりあえず熱い紅茶に酒でも垂らそうと、火の前の薬缶《やかん》に手を伸《の》ばす。
 明朝には城を離《はな》れなければならない。無理をしたのはそのためだ。
 暗殺されかけた|魔王《まおう》陛下が姿を消し、王佐《おうさ》であるフォンクライスト卿はまたしてもパニックらしい。出家するだの何だのと大騒《おおさわ》ぎで、頓挫《とんざ》したままの懸案《けんあん》が山ほどあるという。そういうことがある度《たび》に、脅迫観念《きょうはくかんねん》的に仕事を片付ける彼が呼び出されるのだ。
「……まったく、何のための補佐官だ」
 だいたいどこの世界に自分を殺しに来た子供を更生《こうせい》させようと、付き合って出家する王がいるというのか。グウェンダルにしてみれば、暗殺|未遂《みすい》事件さえ|狂言《きょうげん》に過ぎないように思える。弟二人がついているのだ、|滅多《めった》なことでは討《う》たれまい。
 それにしてもあのお子様に関《かか》わると、十中八九ろくなことにならない。彼は無意識に右手首を掴《つか》んだ。ユーリと手鎖で繋《つな》がれたときの痕《あと》が残っている。完治してはいるのだが、こう寒いと|肋骨《ろっこつ》の一部も時おり|軋《きし》む。
「一度ゆっくり温泉にでも……」
「わたくしを湯治に誘《さそ》っているのですか」
 神出|鬼没《きぼつ》の赤い|悪魔《あくま》に声を掛《か》けられ、不覚にも長男は飛び上がりそうになった。確かに鍵《かぎ》を掛けておいたはずの扉を開き、フォンカーベルニコフ卿アニシナは|大股《おおまた》で歩いてくる。
「さ、誘ってなど」
「生憎《あいにく》でしたね。誘われようが誘われまいが、|先程《さきほど》わたくしは独り旅を決意してしまいました」
「旅に、出るのか?」
 燃える赤毛の束ねた部分をほぼ真上から見下ろしながら、グウェンダルは短い間だけ言葉を失った。
「そうです、独り旅に……やってあげましょう、男の淹れたお茶ほどまずい飲み物はありませんからね……この国の男達は|魔力《まりょく》が弱すぎます。広い世界のどこかにきっと、魔族以上の魔力を持つ者が、わたくしとの出会いを待っているはずなのです!」
 |眞魔《しんま》国的いい日旅立ち。
「それにしてもこの城では何故《なぜ》、秘書官をつけないのです? 仕事の効率が上がらないでしょうに。よろしければわたくしの発明した魔動秘書一号『妖艶《ようえん》』をお貸ししましょうか?」
 やめてくれ、あれ[#「あれ」に傍点]はセクシーポーズをとるばかりで、|契約書《けいやくしょ》の一枚も運ばない。しかもまるきり妖艶ではないのだ。もう全然。そもそも今日一日秘書が|仮病《けびょう》で休んだのは、アニシナが執務室《しつむしつ》に入《い》り浸《びた》っていたからなのに。
 白磁の|茶碗《ちゃわん》に紅《あか》い茶が|注《そそ》がれてゆく。二人の間に湯気が幕を張った。
「この国の男は魔力が弱いと言ったな」
「ええ言いました。反論がありますか」
「……お前の兄とギュンターと私以外に、誰《だれ》か試《ため》したのか」
「いいえ」
 何故そんなことを訊かれるのか見当もつかないという顔で、マッドマジカリストは幼馴染《おさななじ》みに紅茶を渡《わた》す。
「最高位のあなたでさえこの程度なのですから、それ以下の者になど興味がありません」
 誉《ほ》められているのか貶《けな》されているのか、判《わか》らない。だが、小さくて見た目の可愛《かわい》いものは、たとえ手を噛《か》まれても、憎《にく》めない。
 
 
 念のためヴォルフラム特有の「ぐぐびぐぐび」が聞こえてきてから、着るだけ着込んで部屋を出た。別になくてもかまわないのだが、後ろめたさを半減させるために|喉笛《のどぶえ》一号も持っていく。夜だというのに丸サングラス、派手なピンクの毛糸の|帽子《ぼうし》、平気で歩けるのに杖《つえ》持参という、挙動不審《ふしん》なナイトウォーカーだ。
 おれの中では十五歳未満は|外泊《がいはく》禁止だけど、同歳以上は門限十一時。地球方式で計算すると現在午後九時三十二分だから、軽く射的程度は楽しめるだろう。幸い財布《さいふ》に小銭もあるし、何しろここは|眠《ねむ》らない街ラスベ……熱海だし!
「あれ」
 殆《ほとん》ど同時に開かれた隣室《りんしつ》のドアから、着膨《きぶく》れた少女が忍《しの》び足《あし》で出てきた。こちらを見てぎょっとして動きを止める。
「トイレ……じゃないよな。お|粗末《そまつ》ながらもバストイレ付きだもんな。てことは、もしかして逃《に》げるとこか?」
 グレタは無言のまま首を横に振《ふ》る。十歳にして徘徊癖《はいかいへき》とも考えにくいので、こんな時刻の小学生の外出は、暗殺者の|逃走《とうそう》としか思えない。
「ああいいよ、逃げるなら今のうちに逃げな、って言ってやりたいのは山々だけど」
 こんな夜中に小さい子を一人歩きさせて、事件にでも巻き込まれたら寝覚《ねざ》めが悪い。おれはドアを押しながら、二台並んだ空のベッドを指差した。
「部屋に戻って寝ろってば」
 また首を横に振って|拒否《きょひ》の仕草。そして久々に口をきいた。
「人を捜《さが》してる。昼に見た」
「人捜しぃ? だってなんでこんな観光地に知り合いがいるんだよ。あっもしかしてお前ってここの子? この|歓楽郷《かんらくきょう》で育ったの?」
「違《ちが》う」
 なんだかもう単語でしか話さない子供だ。しかしこうして聞いてみるとグレタの声は、十歳の少女にしては低かった。男の子っぽいとまではいかないが、|無邪気《むじゃき》さを感じない音域だ。
 感情を抑《おさ》えて|喋《しゃべ》ることをいつのまにか身に着けてしまったのか。
「なあよく考えろよ。ほんとにそいつだったの? 人違いとか見間違いってことはないのか。あっ待てって」
 こちらの言葉を最後まで聞かずに、少女は木の廊下《ろうか》を歩き始めた。
「渡す物がある」
「渡す物って……だから夜の街に一人で行っちゃ|駄目《だめ》だって! いいじいさんに連れられて行っちゃうって」
 靴が赤くないから大丈夫か。
 娘《むすめ》を追い掛けるような格好で、おれたちは宿の外に出た。街は明るく賑《にざ》やかだが、聞こえてくるのはエレクトリカルパレードのマーチではなく、酔《よ》っぱらいと女達の|嬌声《きょうせい》と、賭場《とば》での罵《ののし》り合いばかりだった。
「どうもおれたちの出る幕じゃないみたいよ」
 それでも強気で通りを行く小学生女子に、酒に飲まれた中年男が寄ってくる。見事なまでの千鳥足だが、感心している場合ではない、セクハラでも仕掛《しか》けられたらことだ。おれはグレタを引き寄せたが、前みたいに悲鳴は上げられなかった。|渋谷《しぶや》有利、好感度少々アップ。
 そうかと思えば腹を押さえたご婦人が、薄暗《うすぐら》い|道端《みちばた》でうずくまっていたが、通行人は誰一人として手を貸そうともしない。これは時代劇でありがちな、持病の癪《しゃく》のふりをして実は巾着切《きんちゃくき》りという、危険な罠《わな》の女なのか。とにかく今は子連れだから危《あや》うきに寄るのは避《さ》けようと、子供の温かい手をぎゅっと|握《にぎ》る。もし本当に癪や腹痛で苦しんでいるのなら、きっと誰かが助けてくれるよ。心の中で言い訳しながら横を過ぎるが。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですかっ」
 小市民的正義感の条件反射が、おれの口と身体《からだ》を動かしていた。
 しゃがんで女性の顔を覗《のぞ》き込む。繁華街《はんかがい》の不自然な灯《あか》りでも判るほど、血の気の引いた唇《くちびる》だった。
「……胃の辺りが痛むの……背中をさすってくれると助かるわ」
「いいスよ」
 財布を抜《ぬ》かれないように気をつけていれば、背中くらいは大丈夫だろう。喉笛一号をグレタに持たせ女の丸めた背中を一往復する。
「おいこらぁ、オレのオンナにナニしてやがる!?」
 肩越《かたご》しに|怒声《どせい》を浴びせられ、親切な掌《てのひら》は即座《そくざ》に止まる。しまった、巾着切りではなくて、オーソドックスな美人局《つつもたせ》だったか。
「他人のオンナに手ェ出しておいて、タダで済むたあ思ってねーよな」
 基本を押さえた脅《おど》し文句《もんく》だ。恐《おそ》る恐る振り返ると、柄《がら》の悪い男は三人組だった。長目の真ん中分けという一時期のフォークシンガーみたいな髪型《かみがた》だ。皆《みな》、腕《うで》っ節《ぷし》が強そうな筋肉の盛り上がり方だ。
「出すもん出してスッキリさせてもらおうじゃねえか」
「やだね。最近おれは便秘じゃないし、おれが出してそっちがスッキリするなんて理不尽《りふじん》じゃないか」
 強がってみせても多勢に無勢、しかもこっちは子供連れだ。結局は親切心は悪に負けて、支払《しはら》うことになるんだろうなあと思うと、悔《くや》しいやら腹立たしいやらで泣きたくなった。今からでも遅《おそ》くはないぞ若者達、やっぱやめたの一言で悔《く》い改めてみないか。
 財布死守の構えを見せるおれの手首が、後ろから強く掴《つか》まれた。力任せに引きずられ、数歩後ずさる。
「こっちよ!」
 声の主はおれたちを引っ張って、夜の繁華街を走り出した。薄緑《うすみどり》のスリップドレスの裾《すそ》が、風になびいて持ち上がる。慌《あわ》てて視線を救世主の後頭部に戻《もど》した。揺《ゆ》れる金と茶の中間色は、|襟足《えりあし》の長さで揃《そろ》っている。細く長く日に焼けた生足は、アスリート並みに高く上がった。
 そのまま五分近く走っただろうか。表通りからは想像もつかないような、路地裏の寂《さび》しい光の角で、彼女はようやく足を止めた。全速力の中距離走《ちゅうきょりそう》でおれとグレタはぐったりなのに、カモシカちゃんは軽く息を弾《はず》ませるだけだ。
「あいつらしつこいけど、ここまで来れば大丈夫。杖を持ってたから走れるか心配だったけど、怪我《けが》や病気じゃなかったんだね」
「いやまあ、やめとけとは、言われてたん、だけどね。とにかくなんか、ありがとう、助かった、よ。それにしてもきみ、足速いなあ!」
「子供の頃《ころ》は走るのが大好きだったの。男だったら手紙を届ける人になりたかったんだ」
 郵便配達に性別は関係なさそうだが、トラックのボディーに描《えが》かれた飛脚《ひきやく》を想像し、ああちょっと無理かなと思い直す。
「あれ」
 カモシカちゃんには見覚えがあった。存在しない胸の谷間を、強調しようと必死な薄《うす》い服。
「夕方、逆ナンしてくれた娘?」
「そうよ、子連れのおにーさん」
 すぐに掌をこちらに向ける。
「平気よ、もう|誘《さそ》わないから」
「なんだよ、十五歳未満は門限十一時だって……まだ時間内か。いやでも、こんな時間にそんな露出《ろしゅつ》の多いHな服着てさ、やっぱ駄目だってェ中学生がさー」
 感謝の言葉を述べたばかりの口で、早くも年寄りくさい説教だ。どこか|偽善者《ぎぜんしゃ》めいていて、我ながら嫌《いや》な性格だとは思う。でもこんな親切な女の子に、危ない生活をしてほしくない。
「助けてもらっといてこんなこと言ってもバカみたいだけどさ、きみ、どこに住んでんの? 家まで送るから」
 カモシカちゃんは困ったように|眉《まゆ》を寄せ、口元だけで|微笑《びしょう》んだ。
「家は無理よ、遠いもん」
「じゃあやっぱり今夜は|外泊《がいはく》の予定だったんだ。ナンパした相手の部屋目当てで」
「うん、そういうこともあるけど……だいたいは店にいるの。前を通ったでしょ?」
「店って……そこにたむろしてるってことか……なあやっぱり良くないよ援交《えんこう》とかそういうの。おれも自分で言っててなんつーイイコぶった意見だよってちょっと恥《は》ずかしいけど」
「え?」
 例えばおれの高校の女子に、中学生日記|抜粋《ばっすい》の優等生発言を押しつければ、ウザイとか蹴《け》られて突《つ》っぱねられる。翌日からクラス中に無視されるのが落ちだ。
 でもきっとおれは、言っちゃうだろうな。苦笑いを伴《ともな》う確信が胸にある。
 心を許してていいやつだと思ってる友人が、倫理《りんり》に反することをしようとしていたら、たとえ結果がどうであろうと、今と同じように言うだろうな。
「あのなこう親とか教師の肩《かた》持つみたいですげえヤなんだけどさッ、この場合あっちに一理あるっつーかこんな、こんな白々しいことおれ言うのも何だしあたしの勝手でしょって言われたらそれまでなんだけどもっとね、もっと、じ……自分を大切にしろよっていうかっ」
 ポストマンになりたかった十五歳未満は、唇を|僅《わず》かに開いたまま、朱茶《あけちゃ》の瞳《ひとみ》を止めている。
 誰《だれ》かおれは正しいと言ってくれ。強い手で背中を叩《たた》いてくれ。この気恥ずかしさを消《け》してくれ。どれひとつ解決しなくても、やっぱりおれは言うけどね。つまり……。
「愛のないHには、おれは反対だっ! でもってこれ、着ろよ!」
 照れ隙しとも取られかねない勢いで、着ていたダウンジャケットを突き出した。メイド・イン・現代日本の物より数倍重いが、暖かさには変わりない。
「……ありがとう」
「ああうん、それでやっぱ家。遠くてもさ、送ってくよ。助けてもらったんだからバス代こっちもち……バスないか、じゃあ馬車代。一晩中店で過ごすなんて親心配するぞ? あんまり困らせると老《ふ》けちゃうぜ?」
 家とか親とか聞かされて、|黙《だま》っていた子供がしゃがんでしまった。
「お前のことじゃないよグレタ。お前を無理に送り返したりしないって。今はカモシカちゃんの話。彼女の家のこと話してるんだ」
「カモシカ? あたしのこと? あたしの名前はイズラよ。スヴェレラの末の姫《ひめ》からいただいたの」
 どこかで耳にした人名だが、まず地名から反応していこう。
「スヴェレラ? きみはスヴェレラに住んでるの?」
「今でも家と家族は国にいるの。ヒルドヤードに来てもう三月《みつき》かな」
 馬車賃どころの騒《さわ》ぎではなくなってきた。二|泊《はく》三日の船賃は、さすがに小銭では賄《まかな》えない。
「しかしまたどうしてスヴェレラからわざわざ……出家、じゃなかった家出の理由は何?」
「家出じゃない!」
 カモシカちゃん改めイズラの朱茶の瞳が、みるみるうちに涙《なみだ》で曇《くも》ってきた。自分でもまずいと思ったのか、強く首を振《ふ》って払《はら》い落とす。
「あたしだって家族と居たかったけど……スヴェレラにはもう何もない。家族が生きていくためには、あたしが働きに来るしかなかったの」
 何だって!? だって待ち望んでいた雨は降ったじゃないか。|劣悪《れつあく》な|環境《かんきょう》での労働も、一部だけとはいえ改まったじゃないか。
 DVDの再生みたいに、四ヵ月前の一件を|脳裏《のうり》に|蘇《よみがえ》らせる。
 雨さえ降れば何もかも良くなると、スヴェレラ国民だったニコラは言っていた。雨が降れば人々は乾《かわ》かずに済む、隣国《りんごく》から酒や果物《くだもの》を買わずに済む、井戸《いど》も畑も|潤《うるお》うし、草が育って|家畜《かちく》も肥えるだろう。
 その雨は降ったのに。
「じゃあカ……イズラは、ヒルドヤードに生活費を稼《かせ》ぎに来てるのか……それをおれ、家出だの逆ナンだのって……ごめん……」
「別に謝られるほどのことじゃないよっ。だってあなたはあたしに何にも酷《ひど》いことしてないじゃない。ほら、上着も貸してくれたりしてさ。こんな親切なお客さん、こっちに来て初めてよ」
 細い道の向こうから、頼《たよ》りないけれど暖かい灯《あか》りが近付いてきた。左右に揺れてはまた止まり、徐々《じょじょ》に大きくなってくる。
「……お腹《なか》すいた」
 周囲に湯気とスープの|匂《にお》いが広がった頃に、グレタがぽつりと|呟《つぶや》いた。
「ひ、ひごもっこす……?」
「違《ちが》う。ヒノモコウ」
 個人識字率、現在わずかに七%のおれよりも、子供のほうが|優秀《ゆうしゅう》だった。
 剣《けん》と|魔法《まほう》と魔族と魔王の世界に、ラーメン屋台。
 ヒノモコウと書かれた暖簾《のれん》の向こうでは、頑固《がんこ》そうな親爺《おやじ》が秘伝の出汁《だし》入り寸胴《ずんどう》を掻《か》き回している。
 
 
 
 その頃。ヴォルフラムは夢を見ていた。
 ユーリが
「おれは愛のないHには反対だー」と|叫《さけ》び、自分は「愛ならここにあるだろうが」と言い返しながらも、えっちって何だ? と思っていた。
 相変わらずイビキは、ぐぐびぐぐびだった。
 いい夢みろよ。
 
 
 
 どこからどう見ても白人男性なのに、角刈《かくが》りで捻《ねじ》り|鉢巻《はちま》き。|眉毛《まゆげ》は目立ってもじゃもじゃで動物の毛皮の防寒具からは、はち切れんばかりの胸板《むないた》が覗《のぞ》いている。毎日|麺《めん》を打っているうちに、マッチョヘと肉体改造してしまったのだろうか。
「女の子に上着を貸してあげるなんざ、にーさん、男だねい」
「ねい、って。まあ男なんですけどね……」
 寒い夜にラーメンは魅力《みりょく》的だが、おれたちの前に出されたのは、ちょっと|中華《ちゅうか》とは言い難《がた》いような代物《しろもの》だった。縁《ふち》まで張られた琥珀色《こはくいろ》のつゆ、海老《えび》とアサリのトッピング、セモリナ粉百%で|絶妙《ぜつみょう》なアルデンテの麺。このドンブリの中身は。
「……シーフードスープスパゲティ?」
「いやヒノモコウ。ゾラシアの|宮廷《きゅうてい》料理なんだよねい」
「宮廷料理なんだ? けど、ねい、って……」
 お子様優先ということで、一杯《いっぱい》目をグレタの前に押してやる。居心地《いごこち》悪そうに立ったままのイズラのために、ぐらつくベンチを軽く叩《たた》いた。
「座んなよイズラ、ここはおごり。助けてもらったお礼ってことで」
「でも」
「いいねい、お客が|娼婦《しょうふ》にあったかいものをご馳走《ちそう》する光景。泣かせるねい」
「娼婦!?」
 おれの声が素《す》っ頓狂《とんきょう》だったのか、グレタが器《うつわ》から顔を上げた。啜《すす》り込んでいたパスタが一本だけ口から垂れている。
「援交《えんこう》で小遣《こづか》い稼《かせ》ぎしてたんじゃなかったのか。娼婦ってつまりあれだよなあ、本職、本職っつーか、プロ!? プロの……えーと、風俗《ふうぞく》? 風俗の人?」
 という|認識《にんしき》で正しいだろうか。現代日本の体育会系男子高校生にしてみると、親父《おやじ》が酔《よ》って歌う古い曲でしか娼婦なんて単語は耳にしない。
「風俗で……でもって売春、とかだよな……こんな若いのに? まだ十代だろ、十代しかも前半だろ、四捨五入しても二十歳《はたち》になんねーだろ!? なのに風俗だの売春だのなんて絶対|駄目《だめ》だって! えーとだな、未成年の性産業への従事は、コクサイキカンでもモンダイに……」
 小市民的正義感の持ち主側ではそんな綺麗事《ぎれいごと》を並べておきながら、健康優良な十五歳男子側の汚《きたな》いおれは、猛《もう》スピードの想像力を止められずにいた。こんな若くて可愛《かわい》い娘《こ》が、あんなことやこんなことを。一度|浮《う》かんだ妄想《もうそう》は、消そうとしても消え去ってくれない。
「とにかく今すぐそんな仕事辞《や》めろよ。雇《やと》い主《ぬし》にも問題が……ああくそッ!」
 あまりの恥《は》ずかしさに顔から火が出そうだ。罪悪感と嫌悪感《けんおかん》で|破裂《はれつ》しそう、いやいっそ、してしまいたい。
「何てこと考えてるんだ、畜生《ちくしょう》ッ! 自分で自分が情けないよっ! とにかくイズラ、売春なんか続けてちゃ駄目だ。もう店には戻《もど》んないほうがいいよ。泊《と》まる所がないなら……あ」
 二、三歩後ずさって両手の指を組み合わせてから、彼女は踵《きびす》を返して走り出す。アスリート並みの脚《あし》だから、あっという間に背中も見えなくなった。不道徳な内面に気付かれたのか、それともおれのラーメンが食えないってのか。
 服、とグレタが首を向けたままで言った。カモシカちゃんはダウンジャケットを着たまま去ってしまったので。
「コートなんかどうでもいいんだよ。あーあ、おれってサイテーだ。口ではあんなこと言っておきながら、頭ん中じゃとんでもないエロ妄想を……」
「にーさん、そんなに落ち込みなさんなって」
 店の親爺《おやじ》は胸筋をひくつかせながら、おれにスープスパを差し出した。湯気の立つ丼《どんぶり》の中央で、朱色《しゅいろ》の海老が丸まっている。
「あんたいい人だねい、感心したよ。せめてこの家宝の器でヒノモコウでも啜《すす》って、気分良くなって帰んなよ」
「家宝?」
 中華模様を朱《しゅ》で描《か》いた、剣《けん》と|魔法《まほう》の中世ロマン世界には似つかわしくない丼だ。残さず食べれば、底に龍がいると予想される。
「澄《す》み切ったつゆの上に、お客さんの未来が見えるかもだ」
「未来? まっさかあ」
 何の気なしに俯《うつむ》くと、薄《うす》い琥珀色の汁面に女性の顔が映っていた。髪が短く童顔で、見たこともないような奇妙な色の瞳をしている。
「うわ」
 条件反射で背筋を伸《の》ばす。今のが未来だって!? おれじゃなくて女の子の顔だったぞ。てことは将来、おれはあの娘と付き合えちゃったりするわけか? やった、とうとう女の彼女ができるんだな!? ていうか男って段階で彼女じゃねーし。
 ふと横を向くと、グレタがおれの器《うつわ》を覗《のぞ》き込んでいた。なんだ、スープに映った女の顔は。
「お前かよー」
 そりゃそうだ。未来なんて簡単に判《わか》るものではない。屋台の親爺に占《うらな》われてたまるか。
 ポケットの小銭で支払《しはら》いを済ませ、おれたちはヒノモコウ屋を後にした。ところがあまりに走ったために、現在地がどこだか判らない。宿がどちらの方向なのか、暗さも手伝って見当もつかなかった。
 グレタが温かい身体《からだ》を|擦《こす》り寄せて、おれの右手をぎゅっと|握《にぎ》った。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だって。とりあえず灯《あか》りの見える方へ行けば。大通りに出たら一発で判るからさ」
 左手に|喉笛《のどぶえ》一号、右手に子供。幸いにも腹だけは膨《ふく》れていたので、不安にならずに先へ進めた。路地は徐々《じょじょ》に|道幅《みちはば》を広げてゆき、ついには開けた場所に出た。
 高い月と|瞬《またた》く星の真下には、|巨大《きょだい》なテントがいくつも並んでいる。
「ああ、ここに繋《つな》がってたんだ」
 サーカス広場はメインストリートに接していた。裏手から頑張《がんば》って突《つ》っ切《き》れば、あとは単純な帰り道だ。ずっと遠くに明るい靄《もや》が見える。あそこが正面入り口だろう。
「かなり|距離《きょり》あるけど、歩けるか?」
 |頷《うなず》く動きが腕《うで》から伝わった。
 本日の興行は|終了《しゅうりょう》らしく、周囲は静まり返っている。
 後ろから見て初めて気付いたが、観客を入れる主立ったテントは三つほどで、その他の小さなバンガローは団員の居住用の施設《しせつ》だった。きっと皆《みな》、明日のショーのために、|眠《ねむ》りについているのだろう。
 不意にグレタが立ち止まる。
「どした?」
「何か聞こえた」
「そりゃ聞こえるよ、人が住んでるんだか……おいっ」
 いきなり駆《か》け出した子供に手を引かれ、おれはつんのめるように右足をつく。ベテラン|医療《いりょう》従事者ギーゼラの注意は、もはや殆《ほとん》ど守れていない。
「おいちょっとコラそんなとこ勝手に入っちゃ……」
 どんな裏技《うらわざ》を駆使《くし》してか、グレタが布の綻《ほころ》びをくぐり抜《ぬ》け、見せ物小屋のバックステしシに侵入《しんにゅう》してしまう。軽トラックほどの檻《おり》がいくつもある部屋で、三頭の動物がのんびりと|欠伸《あくび》をしていた。|家畜《かちく》特有の、あの|匂《にお》い。一番大きいのがいなないた。
「もさー」
「|珍獣《ちんじゅう》だ!」
 隅《すみ》にあった小さなランプを持ってきて、グレタが嬉《うれ》しげな声を上げる。こんなに子供っぽい表情は初めてだ。
「しーっグレタ、これは珍獣じゃないよ。ただの牛だ」
「でも角が二本しかない。普通《ふつう》の牛は五本だよ?」
「おれに言わせりゃそっちのほうがずっと珍獣だけどね」
 子供に火を持たせるのは危険だからと、少々熱を持った金具を受け取りながら、檻の中に灯りを向ける。と、動物がうずくまる藁《わら》の下に、紙幣《しへい》に似た紙が落ちている。
「あんなとこにお金落としちゃってるよ。もったいないなあ、でんこが泣くぞ」
 格子《こうし》の間から喉笛一号を差し入れて、うまいこと札を引き寄せようと試みる。枯《か》れ草《くさ》を左右に掻《か》き分けると。
「にしても|凄《すご》い匂いだね……あれ?」
 ひらりと一枚、札単体ではなく、分厚い束それも|山程《やまほど》、だった。杖《つえ》の丁字部分で手繰《たぐ》り寄せる。
「ええ!? |嘘《うそ》なんでこんな」
 これが夏目漱石《なつめそうせき》なら二十万にはなろうかという厚さと重さだ。福沢諭吉《ふくざわゆきち》なら二百万円、新渡戸稲造《にとべいなぞう》だと……計算しづらい。しかも藁の下には同じ束が、敷き詰めるみたいに広がっている。
「おい何でこんな大金をこんなとこに?」
「もさー」
 牛に|訊《き》いても埒《らち》があかない。
 それにしても何故こんな|奇妙《きみょう》な場所に大金を隠《かく》そうと考えたのか。しかも手の中の紙幣の束は折り目も付いていない新券だ。ピン札を|糞尿《ふんにょう》まみれにして、一体どんな利点があるのだろうか。銀行屋の親父が知ったら|号泣《ごうきゅう》だ。怖《こわ》いもの嗅《か》ぎたさで鼻に近づけてみる。
「うわくさッ!」
 やっぱりというか案の定というか、虫《むし》除《よ》けにでもなりそうなほどのアンモニア臭《しゅう》だ。思わず取り落としてしまう。殊更《ことさら》大きな音を立てて、乾《かわ》いた地面に裏表逆に転がる紙束。
「……は?」
 裏面、真っ白。
「に、|偽札《にせさつ》?」
 漱石の裏には鶴がいるし、諭吉の影にはキジがいる。チープな片面印刷ということは、製作|途中《とちゅう》の可能性高し。
 作りかけの|偽造《ぎぞう》紙幣を、安全な場所に隠していた、と。
 もしかしておれは、決して見てはいけないものを発見してしまったのではなかろうか。この上は速《すみ》やかに|撤退《てったい》し、後のことは警察に任せるのが妥当《だとう》だろう。警察なのかFBIなのか、シークレットサービスなのかは判らないけれど。
 証拠品《しょうこひん》として二、三枚をポケットに突っ込み、おれは隣《となり》にいる子供を促《うなが》した。
「動物は明日、ちゃんと入場料払《はら》って見せてやるから、今夜はさっさと退散しようぜ」
 指先が濡《ぬ》れた何かに当たる。
「なんだよグレタ、鼻濡れてるぞ。まあ元気な証拠だからいいか……って」
 犬? ぎょっとして振《ふ》り向くと土佐闘犬《とさとうけん》かよという頑強《がんきょう》な動物が、涎《よだれ》に輝《かがや》く犬歯を剥《む》き出しにして、静かな闘志を燃やしていた。わんこが傍《そば》にいるからわんこそば、なんて可愛《かわい》いネタを考えてみたが、|駄洒落《だじゃれ》が通用する相手ではない。
「ぐあーっヤメテ奥さん堪忍《かんにん》してくださいーっ」
 前足一本で押さえ込まれてしまう。
「ガキの息の根を止められたくなかったら、持ってるもんを置いて大人しくしな」
 いかにも用心棒ですというガタイの男が、ロシア風の毛皮の|帽子《ぼうし》を被《かぶ》り、片手でグレタをぶら下げていた。

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