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空を自由に飛びたいな、というのは、鳥以外のほとんどの生物が思い描《えが》いているメジャーな夢だ。人間の肉体構造上、その実現は不可能に近い。なのに。
「……飛んでるし」
正確にいうと、浮《う》いてるし。
特に修行を積んだわけでもないのに、斜《はす》に構え腕組《うでぐ》みをした立ち姿のまま、ユーリの身体《からだ》は浮いていた。宙を|滑《すべ》るように移動して、櫓《やぐら》と櫓の中央で位置を決める。
爛《らんらん》々と黒く|輝《かがや》く瞳《ひとみ》に見据《みす》えられ、二度目のヒスクライフは別としても、ルイ・ビロンは言葉を失っている。|自慢《じまん》の「ぽん」も出てこない。
地上では逃《に》げ惑《まど》っていた人々が、足を止めてユーりを指差した。|恐怖《きょうふ》と興奮の混ざった顔で、口々に|珍獣《ちんじゅう》だとまくしたてる。
「……日々の糧《かて》を与《あた》える善人の仮面を|被《かぶ》り、その実、年端《としは》もゆかぬ少女を食い物にして、|搾取《さくしゅ》と|蹂躙《じゅうりん》を繰《く》り返す……」
このよく通る|響《ひび》きのいい声と、京都|太秦《うずまさ》撮影所《さつえいじょ》張りの役者口調。|間違《まちが》いない、スーパー|魔王《まおう》モードだ。歴代魔王陛下と並べても、この姿の良さは秀《ひい》でている。コンラッドは一人、悦《えつ》に入《い》り、心の中でユーリを褒《ほ》め称《たた》えた。
「……挙げ句の果ては悪事が露呈《ろてい》すれば、開き直ってすべてを灰に帰そうと火を放つ。すわ道連れかと思いきや、己《おのれ》だけはのうのうと生き延びんとは……」
地中に|巨人《きょじん》が横たわり遅《おそ》い|鼓動《こどう》が伝わるような、背筋を登る震動《しんどう》が五秒ごとに|襲《おそ》ってくる。最初は遠く微《かす》かだった揺《ゆ》れが、今では地表近くまで|迫《せま》っている。
「父母兄弟の糊口《ここう》をしのぐべく異国へ渡《わた》りし孝行者を、憐《あわ》れむどころか非道な什打ち。金に群がる愚民《ぐみん》は騙《だま》せても、余の炯眼《けいがん》は|誤魔化《ごまか》せぬぞ!」
観衆の目は彼に|釘付《くぎづ》けだが、消防隊員だけは仕事に忠実だった。|舞台《ぶたい》で何が起ころうとも、火を消すことしか頭にない。燃える男の心意気だ。だが何分にも手が足りず、水の補給も間に合わない。
ちらりとそちらに目をやってから、|凍《こお》り付いた悪人を睨《ね》め付ける。
「人の皮を被った獣《けだもの》めが。否、獣にも|掟《おきて》と倫理《りんり》はあろう、それさえも持たぬ外道《げどう》など生きる資格なし! 死して屍《しかばね》拾う者なし、野晒《のざら》しの末期《まつご》を覚《かくご》悟いたせ!」
天を指した右腕《みぎうで》を派手に振《ふ》り下ろし、食指が真《ま》っ直《す》ぐにビロンを狙《ねら》う。八の字|眉毛《まゆげ》の悪徳商人は、よろよろと手摺《てす》りまで後ずさった。
「悪党といえど、命を|奪《うば》うことは本意ではないが……やむをえぬ、おぬしを斬《き》……えぐしっ」
舞《ま》い飛ぶ灰と|刺激臭《しげきしゅう》に、鼻腔《びこう》が|我慢《がまん》できなかったようだ。決め台詞《ぜりふ》の最中のクシャミとは、ユーリにとっても初めてのアクシデントだ。
「陛下……鼻、鼻水」
「ええい忌々《いまいま》しいっ」
従者の差しだす塵紙《ちりがみ》で鼻をかむ。この後のアドリブをどう決めるかは、魔王としての真価が問われるところだ。ヴォルフラムが必死の助け船。
「何をしているコンラート、こういうときこそ寒い冗談《じょうだん》で、間を繋《つな》ぐのが保護者の役割だろ」
「……えーと……」
「|脳《のう》味噌《みそ》のネタ帳を探してる場合か!?」
外野の声が気にならないのも、スーパー魔王のスーパーたる所以《ゆえん》だ。ポイ捨てしない主義なのか、丸めた紙をポケットに押し込んでから、ユーリは改めて悪人に人差し指を突《つ》き付けた。
「……悪党といえど、命を奪うことは本意ではないが……」
CM明けのバラエティーみたいな一部再生。
「……やむをえぬ! おぬしを斬るッ!」
|特撮《とくさつ》ヒーローの登場|爆煙《ばくえん》よろしく、ちょうど真後ろの地面から、タイミングを計った間歇泉《かんけつせん》が。ばーんと吹《ふ》き出て天まで駆《か》け上り、三《み》つ又《また》となって降りてくる。ウォーター、いや正しくは湯でできた、角と牙《きば》のある透明《とうめい》な|龍《りゅう》だ。二体は火災現場に猛然《もうぜん》と跳《と》びかかり、残る一体は主の腕《うで》に|擦《す》り寄ってから、|過《あやま》たずルイ・ビロンに絡みつく。
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土管ほどもある龍に一息に飲み込まれ、チューブの中を胃へと送られてゆく。ちょうど正義と漢字で書かれた辺りだ。腰《こし》の横で両手をばたつかせる男の姿は、グロテスクなクリオネに見えなくもない。
「おかしいぞ」
|納得《なっとく》いかない表情で、ヴォルフラムが低く|呟《つぶや》いた。
「龍だと? おかしい、あいつの|魔術《まじゅつ》がそんなに上品なわけがない」
「ヴォルフ、それは言い過ぎだろう」
「いーや明らかにおかしい。あっ、もしかして愛人でもできたのか!? それでそいつにいいとこ見せようとしてるんじゃ……」
「……かっこいーい……」
うっとりと呟《つぶや》く少女の声に振り返る。すっかり存在を忘れていたが、グレタの眼《め》は憧《あこが》れと尊敬でとろけそうだった。
「娘《むすめ》にいいとこ見せたかったのか」
親としての自覚がでてきたようだ。
モデル立ち魔王の足下の草原には、ミステリーサークルの手法で温泉マーク。