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なんで謝るんだよ、なにを謝るんだよ、誰に謝るんだよ!? 重すぎる言葉が気になって、ゆっくり|眠《ねむ》ることもできない。瞳《ひとみ》の裏側がじんと熱く、|瞼《まぶた》が小刻みに痙攣《けいれん》する。何かを無理やり堪《こら》えたときみたいに。
「……うーん重い……それにしても重い……重すぎる」
具体的にいうと、下腹部が。
手足の皮が妙に突《つ》っ張って、日焼けした後みたいにヒリヒリした。それもそのはず、おれは草野球の資金稼《かせ》ぎのため、海の家|兼《けん》ペンション「M一族」にて、ガテン労働中だったのだ。決して彼女ゲットとか、一夏の恋《こい》が目的ではないぞ。
海辺のバイトであのコスチュームだ、日に焼けないわけがない。こんがりお肌《はだ》の野球少年は、遊びに来ていた女子大生二人組に慕《した》われちゃってもう大変! 背中にオイルを塗《ぬ》ってとか、お腹《なか》にオイルを塗ってとか、みぞおちにオイルを塗ってとか……どうもそれより先が思いつかない。この想像力の|乏《とぼ》しさは、逆ナン未経験ゆえだ。
そうだ、流されて洞窟《どうくつ》にひっかかった、レモンイエローの乳《ちち》吊《つ》り帯を回収してくれとも頼《たの》まれたんだっけ。
「……なんだよその、乳吊り帯って」
眼病にかかったときみたいに、視界が灰色の薄《うす》い|膜《まく》で覆《おお》われている。そのせいか天を見上げて大の字になっているのに、さして太陽が|眩《まぶ》しくなかった。背中には湿《しめ》った砂の感触《かんしょく》があり、風は磯《いそ》の匂いがした。
海だ。
ゆっくりと思い出す。
おれはいつものように異世界に流されて、いつものように教育係と保護者に拾われた。ますます可愛《かわい》くなった娘《むすめ》とも、親バカ丸出しで再会した。でも、その先に待ち受けていたのは、見たこともないような悪夢だ。
投げ出された左腕に、冷たい波が触《ふ》れてくる。音と同じタイミングで、寄せては絡《から》んで帰ってゆく。
「ギュンター」
口に出して名前を呼んでみるが、返事をしてくれる相手はいない。
「……コンラッド」
後頭部を砂に擦りつけて、寝《ね》たままで何度も首を振る。死んでない。絶対に生きてるって。
確かに左腕を|斬《き》り落とされるのは見たけれど、その後おれは土砂|崩《くず》れに巻き込まれてしまったのだから、彼がどうなったのかは確認できていない。
絶対に、生きてるって。
それにしても崖《がけ》から落ちたはずなのに、一体どうして海岸にいるのだろう。もしかして百万分の一の幸運で、あのままスタツアってくれたのだろうか。だとしたらいつもどおり村田が覗《のぞ》き込んでいて、ああ渋谷もうダメかと思ったよーと、誤解を招く抱擁《ほうよう》を披露《ひろう》してくれるはずだ。
しかし周囲に人影《ひとかげ》はなく、紐《ひも》パンがばれる心配もない。おれは腹筋に力を込《こ》め、えいやとばかりに起き上がった。肌にこびり付いた灰色の泥《どろ》が、乾《かわ》いてひび割れこぼれ落ちる。
この、マダム御用達《ごようたし》・全身泥パックが、皮膚《ひふ》をひりつかせていたわけだ。
「そんなお洒落《しゃれ》さんじゃねーっての、おれは………うひゃ」
重い重いと気にしていたら、股間《こかん》には大変化が起こっていた。
「なな、なんでおれのギャランドゥが|金髪《きんぱつ》にっ!?」
酒場の酔《よ》っばらいの借り物ズボンに、金髪がもっさりと盛り上がっている。しかもこの異様な量はどうだろう!?
「うーん」
「|喋《しゃべ》った、ぎゃ、ギャランドゥが喋った! ていうか、村田!?」
金髪には首も肩もついていて、その先には剥《む》き出しの背中があった。サングラスを頭に載《の》せたままの村田健は、両手をついて勢いよく顔を上げた。
「生きてる!」
「……そりゃあ立派に生きてますけど……なにゆえお前がおれの股間に顔を埋《うず》めてんだよ」
「助かったんだ」
「助かるもなにも、お前は危険に遭遇《そうぐう》してないじゃん」
友人は額に手を当てて、眉間《みけん》に悩《なや》み皺《じわ》を作った。
「ああでも、|漂流《ひょうりゅう》期間のことを、何一つ覚えてない」
「んだよ、大《おお》袈裟《げさ》だな、漂流って」
「渋谷、ここが何処《どこ》か判るか?」
「どこって、海の家『M一族』の縄張《なわば》り……」
三六〇度ぐるりと見回しても、ビーチパラソルどころか海水浴客の影《かげ》さえなかった。見渡《みわた》す限りの砂、海、砂だ。自販機《じはんき》もシャワー小屋も見あたらないし、焼きそばソースの焦げる|匂《にお》いもしない。
「おかしい。地球に戻《もど》ったはずなのに」
「ああやっぱり渋谷も混乱してる。いくらなんでも惑星《わくせい》規模の漂流はしてないよ。だってさあ渋谷、お前ってばうまいことビキニ上を手にしたのに、足でも攣《つ》ったのかどんどん沈《しず》んじゃうんだもん。慌《あわ》てて助けに行ったはいいが、僕まで|溺《おぼ》れて流される始末。こういうのをミイラとりがミイラになるっていうんだろうねえ。ハムナプトラも顔負けだよ」
「トラの話は聞きたくなーい!」
村田は青系のサングラスを掛《か》け直し、視力を戻してから周りの景色を確認《かくにん》した。自分の中で|納得《なっとく》がいったのか、しきりに小さく|頷《うなず》いている。
「うん、無人島だ」
「結論が早いなあ」
よっこらしょ、と高校生失格な掛け声で、|砂浜《すなはま》の上に立ち上がる。風に当たって冷えたのか、思い出したように|両腕《りょううで》を軽く|擦《こす》った。
「真夏の日本から、ずいぶん|涼《すず》しい島まで流されちゃったなあ」
「寒いはずだよ。お前、裸《はだか》エプロンのままだし」
「ちぇ、自分だけ良さそうな革《かわ》ジャン着ちゃってさ。一体どこから拾ってきたんだよ。ドロドロに汚《よご》れてるけど。いいかい? 今日からは何でも二人で分け合わなきゃ|駄目《だめ》だからなっ。まさか渋谷と無人島生活する日がこようとは、中学んときは思いもしなかったけど。なっちゃったからには仕方ない。僕がロビンソンでお前がクルーソーだからな」
同一人物だろというツッコミはおいとくとしても、前向きさには頭が下がる。村田は|砂丘《さきゅう》をどんどん歩きながら、住居や衣服や畑作り、|家畜《かちく》の世話の当番制まで計画していた。
とりあえず肌寒《はだざむ》さをしのげるようにと、コンラッドの上着は村田に貸してやった。海パンに大きめの革ジャンという、これまた教育的指導な格好《かっこう》だ。
生まれて初めて見る裸革ジャン(もどき)が村田だなんて、男子高校生として空《むな》しすぎ。
自分は前後ろ両面にエプロンをかけた。借り物とはいえズボンがあるだけ、まだマシだ。
それにしても本当に此処《ここ》はどこだ?
おれの|間違《まちが》えた転送先に、どうして村田がいたのだろう。そもそも何故《なぜ》、あの場所あの|瞬間《しゅんかん》へと、いつもどおりに着くことができなかったのだろうか。気付かぬ間に取り返しのつかないミスをしでかして、|全《すべ》てが狂《くる》ってしまったのか。
砂に足をとられながら丘《おか》を越えると、眼下に集落らしき家々があった。海辺の漁村という光景で、軒先《のきさき》には海藻《かいそう》や網《あみ》が干してある。
「……どこが無人島だよ」
「しまった、ロビンソンとクルーソー計画、早くも頓挫《とんざ》」
その上、洗濯物《せんたくもの》を抱《かか》えた若い女性が、麦わら|帽子《ぼうし》姿で歩いてくる。
「第一|島人《しまびと》はっけーん」
「渋谷って視力2・0だよな。そのいい数字で確認して教えてくれ。あれはどっから見ても金髪茶眼、外国人と判断してよろしいよな?」
「よろしいんじゃないか」
「なんてこった、僕等ヨーロッパのリゾート地まで流されちゃったのか!」
いや、アメリカ大陸かもしれないだろう。とりあえず英語でチャレンジだ。
おれは|礼儀《れいぎ》正しく野球|帽《ぼう》をとって、乾いた泥を軽く払《はら》った。ぎこちない角度で右手を挙げる。
「ハ、ハローぉぅ」
日本人的カタカナ・イングリッシュ。
女性は薄茶《うすちゃ》の瞳《ひとみ》を見開いて、持っていた布の束を落とした。おれを指差そうとして失敗し、唇《くちびる》を震《ふる》わせて|呟《つぶや》いた。
「く……黒……」
もつれる脚《あし》で向きを変え、今来た方へと走りだす。
まずい、この反応には覚えがあるぞ。彼女はおれの髪《かみ》と目の色を知り、|魔族《まぞく》だと悟《さと》って逃《に》げたのだ。どんなに遠く離《はな》れた海外だとしても、地球でこんなことが起こるわけがない。
つまり、此処はまだ|眞魔《しんま》国のある世界なのだ。
魔族と人間が対立する、外見だけで差別されることが当然の社会。それも居心地《いごこち》いい自分の国ではない。魔族が旅するにはシビアな地域、おれが最も忌《い》み嫌《さら》われる人間の領地だ。
「|驚《おどろ》いた、渋谷の『ハロー』ってすごい威力《いりょく》だなあ!」
「そんなこと言ってる場合じゃねえよ。ヤバイぞ村田、あの人きっと皆《みんな》に言って回る。あっという間に|噂《うわさ》が広まるぞ。くそっ、ただ単に両目と髪の毛が黒いってだけで」
「はーん? だから|一緒《いっしょ》にイメチェンしようって誘《さそ》ったのにー」
「それどころじゃないんだって! いいか落ち着いて聞いてくれよ? ここはアメリカでもヨーロッパでもないんだよっ、ドルもユーロも使えない。英語もフランス語も通じない。ここは地球ですらないんだから!」
村田健は|眉《まゆ》をひょいと上げて、どう言ったものかという顔をした。
「……太陽系で他《ほか》に酸素のある惑星はー……」
「じゃなくてっ」
こういう体験が初めての者を相手に、どう説明したら理解してもらえるだろう。おれが最初にこっちに来たときは、どんな経過で事態を受け入れたんだっけ? けど今は|悠長《ゆうちょう》なことをしている場合じゃない。彼女の村からなるべく早く離れなくては。
「走るぞムラケン!」
キャップをなるべく|目深《まぶか》に被《かぶ》り、余った髪も押し込んでから、海岸線を逆方向に進んだ。砂地マラソンは下半身強化に有効だが、追われてまでもしたいものではなかった。
それでも、おれが自分でどうにかしなくては。
助けてくれる仲間は、いないんだ。
半日くらい歩き続け、太陽が真上に来た頃《ころ》に、おれと村田はやっと次の街に辿《たど》り着《つ》いた。
海に面した国らしく、活気のある石造りの港街だ。いい具合に人出も多いので、|見咎《みとが》められる危険も少ないだろう。大切なのは目立つ行動をとらないことだ。まずはこの服装をなんとかしなければならない。
「革ジャンにナマ足って、やたら目立つ」
「そうかなー、渋谷の両面エプロンだって結構個性的だぞ? 僕等が日本に帰れる頃には、新しいブームとして現地に残るかもしれないよ。それより大使館か領事館探さない? 水着のせいで門前払《もんぜんばら》いってことはないと思うんだけど……」
村田健はいまだにここが、海外のどこかだと思っているようだ。事実をうまく説明できればいいのだが、おれにはとても難しい。
だって誰《だれ》が信じるっていうんだ。うっかり異世界に送られた話を。
それでも彼の場合はまだマシだ。少なくとも洋式便器からではない。この先、公衆トイレ|恐怖症《きょうふしょう》になることも、洋式便器の「底」をまじまじと確認する習慣もつかないだろう。
「村田、金持って……るわけないよなあ」
「渋谷こそ、金持って……そうにないなあ。しょうがない、じゃあそれ売って僕のズボン買ってくれよ」
人差し指の爪《つめ》で、魔石をつつく。
「おいおいおいおい、じょーだんじゃねーよ。これはものすごいお宝なんだぞ。取り返しのつかないことさせんなよ」
「ちぇ、ケツ」
それを言うならケチだろう? 不器用な高校生にもできるのは、てっとり早い日払いバイトを探すことだ。貨物船が続々と入港してくるので、積み荷運びの仕事ならいくらでも転がっていそうだ。制服|貸与《たいよ》なら尚更《なおさら》いい……と思ったら。
「ありゃ」
確かに制服は貸してくれた。むくつけき男達の殆《ほとん》どが、揃《そろ》いの赤いユニフォームで|黙々《もくもく》と働いている。
「……フンドシ」
躍動《やくどう》する筋肉美が余すところなく見られて、確かに漢前度《おとこまえど》アップなのだが、自分達の貧弱な肉体を顧《かえり》みるに、これならむしろ今のままのほうが気が楽だ。紐《ひも》パンも躊躇《ちゅうちょ》するが、フンドシもちょっとなあ。
「お前のビキニ海パンよりは、おれの方が恥《は》ずかしくないかも。サーファータイプだかんな。じゃあとりあえず、しばらくの間、よれよれだけどズボン貸すわ」
「うう、複雑だなあ、体温の残るパンツを貸し借り」
「厭《いや》なら早いとこ半日分のバイト代|貰《もら》って、シャツとおズボンと|靴下《くつした》買おうぜ」
記名する紙があったので、仕方なくおれが二人分書いた。基本的には魔族の標準語と同じ形だが、こちらの世界の文字は覚えたばかりなので、くさび形文字の如《ごと》くたどたどしい。ちなみに漢字は、|普通《ふつう》に下手。
「村田がロビンソンね」
「そう。そっちがクルーソー。ていうか何で|偽名《ぎめい》なの?」
「おれの都合」
「渋谷って変なやつだなあ」
王様なんて身分を体験し、そのせいで命まで狙《ねら》われれば、おのずと用心深くもなる。帽子で頭部を隠しているとはいえ、両眼《りょうめ》の色はそのままだ。強引《ごういん》無謀《むぼう》なイメチェン戦略のお陰《かげ》で、村田の外見は無《む》|国籍《こくせき》風になっているが、おれのほうは誰かの目を見て話すことさえできない。
「なあ、そのグラサン貸して」
「へ?」
「だってお前、嬉《うれ》し恥《は》ずかしカラーコンタクトだろ? この世……この国では黒は|不吉《ふきつ》だとされてて、それだけで虐《いじ》めにあったりすんだよ」
「よく知ってるなー。来たことあるの?」
「いっ、いやないけどさ、ないけどなっ? そういうことには敏感《びんかん》なのおれは!」
青系のサングラスは強い度入りだったので、かけた途端《とたん》に頭がクラクラした。いきなり視界が|狭《せま》くなる。
「うっわ大変だ、ぼんやりしちゃって見えねえ」
「こっちも眼鏡《めがね》ないと辛《つら》いよー……っと、あ、すみません」
赤銅色《しゃくどういろ》のマッチョに衝突《しょうとつ》して、村田は即座《そくざ》に頭を下げる。相手は「いいってことヨうん」と豪快《ごうかい》に言い、担《かつ》いだ荷物ごと行ってしまった。その声が意外にも老《ふ》けていたので、おれはそっとレンズを下げて盗《ぬす》み見る。
2・0の視力で確かめると、盛り上がった力瘤《ちからこぶ》や背筋の上にシワとシミで衰《おとろ》えた顔があった。どう好意的に判断しても、軽く七十は超《こ》えている。
「驚いたな! あんないい身体《からだ》してるけど、かなりのジジ……高齢者《こうれいしゃ》だよ」
「高齢者あ? お年寄りがなんでこんなハードな仕事を」
改めて観察し直すと、そこら中がシルバー人材で溢《あふ》れていた。皆、筋骨|隆々《りゅうりゅう》で生き生きと働いてはいるが、お肌《はだ》や顔には明らかに老いが顕《あらわ》れている。
赤フンドシ一丁の、老人マッチョ(軍団)だ。
「驚いたかいヤ? うん?」
荷箱の重さと老人の元気さに唖然《あぜん》とする。立ち尽《つ》くすおれたちにかけられたのは、岸田《きしだ》今日子《きょうこ》に似た声だった。この女性がまた、見事な肉体美で、ボディービル大会に出られそうな胸をしている。しかも男性達のセクシーコスチュームに対抗《たいこう》してか、抜群《ばつぐん》な露出度《ろしゅつど》の超《ちょう》ミニ水着。
しかも目に痛いビタミンオレンジ。
「……やったー男の憧《あこが》れマイクロビキニー」
「おいおい、棒読みだぞ渋谷」
引っ詰《つ》めて後ろでまとめた白髪頭《しらがあたま》、皺《しわ》に彩《いろど》られた世話好きそうで|優《やさ》しい|笑顔《えがお》。ここまでは毎朝庭先を掃《は》いていそうな、ごく普通の近所のお婆《ばあ》ちゃんだ。しかし首から下は完全なマッスルで、|汗《あせ》と油にテラリと光っている。そして声は、岸田今日子。
夢に見そう。
「まあまあ、細っこい身体しちゃってエ。あんたらこの辺のもんじゃないネー? 流れ荷客にしてもあンまりにも貧弱だヨ、うん」
「この辺って、お婆さ……や、えっと奥さん、ここは何処《どこ》の港なんですか」
筋肉老女はカクカクと入れ歯を鳴らし、右手を上下に動かした。
「イんだヨ、確かにあたしゃぁ婆さんだかんネ、うん。それにシテも、ここがどこかも知らないジャ、いい若いもんが旅する意味がないヤ、うん」
所変われば方言変わる。アクセントや語尾《ごび》に違和感《いわかん》があるのは、眞魔国から離《はな》れているせいだろう。どうやらこの国の人々は、自分で自分に返事をする|喋《しゃべ》り方らしい。
「ここはギルビットの商業港だヨ、うん。小シマロン領力ロリア自治区の南端《なんたん》サー」
シマロン!
以前に耳にした地名だ。|記憶《きおく》力は少々心配だが、あまりいい印象は持っていない。
「ギルビットっていうと、英語ではギルバートかな。あのー奥さん、日本領事館の場所はご存じないですか? うーんいまいち通じてないかな? えー、フラゥ? イッヒはですねーいわゆる一人のヤバーナーがですねー」
「村田、長嶋《ながしま》調になって……あれ!? お前なんで言葉が通じんの?」
「それはこっちが|訊《き》きたいよ」
筋肉老女に|接触《せっしょく》を試みていた村田健は、おれに向き直った。
「どうして渋谷はドイツ語がペラペラなわけ? 野球以外にも特技があったなんて知らなかったな」
「ドイツ語? お前はドイツ語喋ってんの?」
「そう。必ずしも同じとは言い難《がた》いけど、|従兄弟《いとこ》か又《また》従兄弟ぐらいの関係だと思う。僕は第二外国語が独語|選択《せんたく》だし、W杯《ワールドカップ》のために個人的にもかじってるけどさ」
こいつが有名進学校生なのを忘れてた。
いずれにせよおれの耳には、生まれたときから話している日本語同様にしか聞こえない。
「細ッこいけど元気そうなにーちゃんたちだいネ、うん。最近じゃ若いのの姿も見ないからサ、年寄りとしちゃついつい嬉しクなっちゃうネー、うん」
優しいお婆ちゃんの|微笑《ほほえ》みが、どうしようもない|諦《あきら》めで曇《くも》った。
「……ほんとはあたしら年寄りじゃなく、若い子達が働ければいいんだけどネぇ、うん」
絶え間なく脇《わき》を通り過ぎる「荷客」達に、働き盛りの青年の姿はない。ごくまれに十代半ばの少年はいるが、圧倒《あっとう》的に高齢者が多かった。
「まったくけしからんなぁ。爺《じい》さん婆さんにこんな肉体労働させておいて、成人男子はどこで遊んでるんだろう」
「みんな|兵役《へいえき》に行ってんのサ、うん。もうすぐ戦争が始まるカんネ」
「戦争!? アメリカと何かもめたんですか」
やっぱり村田はまだここを……。
「|魔族《まぞく》と闘《たたか》うのサー、うん」
その|瞬間《しゅんかん》におれの受けた|衝撃《しょうげき》は、誰《だれ》にも想像できないだろう。
魔族と戦争をするだって!? この国が? 確か小シヤロン領カロリア自治区ギルビット商業港が?
おれがあれだけ永世平和主義を唱えてきたってのに、ちょっと姿を消せばすぐにこれか。どうなってるのよ眞魔国。信じちゃ|駄目《だめ》なの眞魔国? いや、でもきっとおれがいなくても、遺志を継《つ》いだ誰かが開戦反対を|叫《さけ》んでくれるはずだ。ああっ遺志って何よおれまだ死んでないのにー! 生前あれだけユーリ|贔屓《びいき》だった面々が、ほんの数日で方針|転換《てんかん》するわけが……ああっ生前って何よおれまだ死んでないのにー!
「シマロンは世界中を自分の国にするつもりなんだヨー、うん。カロリアを負かしたときみたいにネ、うん。すごい強力な軍隊を編成するンだっテサぁ、すごい兵器も手に入れたんだってサ、うん……そんなことをして」
お婆ちゃんは目を細めた。
「そんなことをして、なんになるんだろうねえ。あたしらの娘《むすめ》時代とおんなじこと繰《く》り返してヨ、土地が増えるのがそんなにいいことかネー、あーん」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
おれは思わず即答していた。
村田が、何が? と聞き返す。
「大丈夫ですよ、戦争になんかならないから。シマロンがどうだか知らないけど、魔族は戦争なんかしませんよ。絶対そんな辛いことはさせないって!」
おれが改めて言わなくても、残った皆《みな》は理解してくれている。仕事を助けてくれていたギュンターが、開戦反対を強固に主張してくれるだろう。好戦派の貴族もいないわけではないが、説得にはコンラッドも力を貸してくれるはずだ。
「……あ」
あの|惨状《さんじょう》を思い出す。
グレタは、隠《かく》れていたから無傷で済んだはずだ。ギュンターも外で|倒《たお》れていたし、自ら選んだ仮死状態だとしたら、最悪の事態にはなっていないだろう。
では、コンラッドは?
|斬《き》られた腕《うで》と|爆発《ばくはつ》音、火柱の噴《ふ》きだした教会の|扉《とびら》。
「絶対に、大丈夫だって!」
痛いほど目を閉じて首を振《ふ》る。そんなこと、あるわけがない。
「渋《しぶ》……違《ちが》った、クルーソー、他人の国に関する軽率《けいそつ》な発言は、コクサイモンダイにも発展しかねないぞ」
「は? あ、ああ、そうでした、そうですねロビンソン……なんだかなー、どうもロビソソンのが名前として|響《ひび》きがいい気がする。そもそもなんでおれがクルーソーなのやら」
「やなの? じゃあクルーニーならいいのか、人気俳優だし。それとも来るぞーが嫌《いや》なら、もっと柔《やわ》らかくクルーヨーにするか」
「だったらお前もイクヨにしやがれ」
働くお婆ちゃんは孫に向けるような視線で、言い合うおれたちを見守っていた。
「うちの子たちも早く戻《もど》ってくれたらいいのにヨ、うん。シマロン本国はああいってるガネ、あたしたちカロリアの住人は、ほんとは戦《いくさ》が嫌《きら》いなのサー、うん。ほいだから大国同士が勝手にする争いごとニナ、巻き込まれたかないんだイネ、うん……でも自治区ったって|所詮《しょせん》は小シマロンの領土だからサ、兵力を出せっていわれリャ逆らえないんだヨ、うん。ああ……六十年前に戻れたらネー」
おそらく六十年程《ほど》前に、大きな征服《せいふく》戦争があったのだろう。老婦人は薄《うす》い笑みを浮《う》かぺて、自分自身に言い聞かせるよう|呟《つぶや》いた。
「いっそ何千年も前に戻ってヨ、強くて慈悲《じひ》深かったっていう旧国主一族に帰ってきてもらえたら、シマロンの犬になんぞならんでも良かったノにサ、うん」
「旧国主って……」
突然《とつぜん》、鐘楼《しょうろう》で轟音《ごうおん》が発せられた。仰天《ぎょうてん》して振り向くと砲門《ほうもん》から煙《けむり》が流れている。停泊《ていはく》していた|船舶《せんぱく》も次々と大砲《たいほう》を鳴らし、港は|破裂《はれつ》音で満たされてしまう。
「なに!? ナニナニっ、もう始まった? もう始まっちゃったのか?」
「落ち着け渋谷! まずはガスの元栓《もとせん》だ」
「そりゃ地震《じしん》だろ」
勤労中だった荷客達も、次々と|桟橋《さんばし》を渡《わた》って避難《ひなん》してくる。みな一様に早足だが、誰一人として取り乱してはいない。行き届いた避難《ひなん》訓練の成果だろうか。
痩《や》せ型の老人が一人、陽気な調子で手を振ってきた。
「おーいにーちゃんたちヨー、昼メシだヨー、うぅん」
「……|休憩《きゅうけい》の合図かよ」
頼《たの》むから時報は、「野ばら」か「夕焼けこ焼け」にしといてくれ。
昼食用の食券を受け取って、労働者達に交ざって列に並ぶ。
人々がどんどん吸い込まれていく先は、食堂というか、定食屋だった。薄緑《うすみどり》の壁《かべ》に、クロスのないテーブルがいくつも並んでいる。|窓枠《まどわく》と同じ朱色《しゅいろ》の|椅子《いす》は、次々と人で埋《う》まってゆく。
ビート板サイズのトレイを差し出すと、おかみさんたちが豪快《ごうかい》におかずをよそってくれるシステムだ。最後に大きめのパンを一切れと、牛乳らしき白い飲み物を貰《もら》う。まるきりお洒落《しやれ》じゃないワンブレートディッシュ。
「あーらおにーちゃんたち、貧弱ねー。山羊《やぎ》チチもう一杯《いっぱい》あげましょうかぁ?」
「や、ヤギ乳?」
「そーよ。たくさん飲むと翌年必ず背が伸《の》びるのよー」
誰にも気付かれないマイレボリューションだ。
片手にカップ、片手にお玉、唇《くちびる》にヤギチチ、背中にオレンジ色の髪を垂らした女将《おかみ》さんは、片目を瞑《つぶ》りながら言った。先程のマイクロビキニ婦人に負けず劣《おと》らず、彼女もまたがっしりとしたいい身体《からだ》をしている。肩幅《かたはば》や身長は平均的男性以上だ。ジャジーな声につれて喉仏《のどぼとけ》も上下するが、注意して聞くと語尾にはなまりもなく、都会的な喋り方だ。この場の誰よりも若いし、なかなかの美人だから、きっと港のアイドルだろう。でもおれとしては少々濃すぎる化粧をとって、お玉よりもバットを持たせてみたい。三割三十本は打ってくれそうだ。
「ねえ、お連れさんがおっさんと話してるけど?」
「げ」
ちょっと目を離《はな》したすきに、村田は口髭《くちひげ》を蓄《たくわ》えたロマンスグレイと話し込んでいた。|穏《おだ》やかそうな紳士面《しんしづら》だが、首から下は赤フン一丁。男らしさの|象徴《しょうちょう》である胸毛《むなげ》も白髪《しらが》だ。相席なんかして話し込んでいる。
「むら……ロビンソンっ、勝手に歩き回るなよ」
「ちょうどよかった、今この人に領事館の場所を聞いてたところ」
胸白髪《むねしらが》さんは、おれを見上げた。
「しかしあんたらナー行っても無駄《むだ》だヨ、うん。ノーマン様はだーれにもお会いになんないしナぁ、うん」
「いえそんな|偉《えら》い人に会ってもらわなくてもね、職員に話が通ればいいんで」
困った、やっぱり村田はここを地球上のどこかと信じている。いっそ死後の世界だとでも思わせて、しばらく大人しくさせておこうか。異世界から流されてきた二人組が相手だとも知らず、胸白髪さんは乳を飲みながら話している。髭の先に点々とついた白い雫《しずく》がどうにも気になって仕方がない。
「元々ノーマン様はサ、お小さい頃《ころ》にひどい熱病にかかられてヨ、うん、痘痕《あばた》やなんかを隠すためにって、銀ぴかの仮面を被《かぶ》ってらしたんだけどもナ、うん」
「か、仮面の男なんだ……」
映画で観《み》た覚えがある。ルイかリチャードのどちらかだった。鉄仮面ってどれくらいの重さなんだろう。夏場は汗疹《あせも》に悩《なや》まされないのだろうか。
「けどモ、三年前に馬車で事故に遭《あ》われてからヨ、外へとお出にならなくなっちまったノサー、うん。|噂《うわさ》じゃ足腰《あしこし》立たなくなったわけでもなく、館《やかた》ん中じゃ|普通《ふつう》に過ごされてるらしいガよ」
「引きこもっちゃったんだな、ノーマン様は」
知ったかぶって得意げなコメントつける前に、日本人領事の名前が「ノーマン」であるはずがないことに気づけよ。
「儂等《わしら》はいちんちも早くあの方がお元気になられてヨ、うん、また皆の前に姿を見せてくださることを祈《いの》ってんのヨー、うん。あんないいお人は|滅多《めった》にいねえしネー、うん。本国がおっ始めようって戦にもサ、ノーマン様ならこの国の若いもん、儂等の子ぉや孫だけでも、出兵させずに済ませてくれやしねーかテ期待してんのヨナ、はあ」
「ああ! じゃあもし僕等がお会いできたら、ビザ書いてくれるようにって頼んでみますよ」
「……おーい、ムラケンくーん……」
|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に歴史の知識があるせいで、誤解はどんどん深まってしまう。おれ内蔵の人名辞典には、シンドラーが登録されていないので、話題についていくのに時間もかかる。待てよ、ビザは杉浦《すぎうら》千畝《ちうね》か。
しかし人権派だというのが本当なら、何らかの助けを得られるかもしれない。髪と目と身分さえばれなければ、旅券くらいは発給してもらえないだろうか。
「あのー、胸白髪さん、ちょっと質問が。ノーマン様は人種差別とかする人かどう……」
「おいみんな聞けヤ! 大変だヤ!」
|叫《さけ》びながら駆《か》け込んできた中年男は、頭こそ海賊《かいぞく》風に頬被《ほおかむ》りだが、首から下は海の正装・セーラー服姿だ。久々に裸《はだか》でない男を見られた。
「大変だヤ、うん。オイのダチが仕入れた話じゃアヨ、シマロン本国からこの土地に向けてヨ、うん、使いが出されたってことなんサー、うん」
荷客達も店のおかみも、良くない報せに色めいた。口々に宗主国への不満を並べ、並べては慌《あわ》てて周囲を窺《うかが》った。
「どうするヨー、いよいよ本当に開戦なんかネ、はあ」
「なんであんな奴等《やつら》のためにサ、儂等んとこの若いのが死ななきゃならんかネ、おう」
「ノーマン様がどうにかしてくれヤせんかいノ、うん」
村田が昼食の残りを掻《か》っ込み、近視の両眼を|眇《すが》めて真顔になった。
「早めに行動したほうがよさそうだ。巻き込まれたら|面倒《めんどう》だよ」
「ああ」
お前が想像しているほど、事態は単純明快じゃない。どんなに急いで動こうとも、既《すで》に二人とも巻き込まれている。
なにしろ連中全員の仮想敵国は、他ならぬおれの国なのだから。
さっきの女将《おかみ》が足音もなく脇に立ち、カップに飲み物のお代わりを注いだ。横からおれを覗《のぞ》きこむと、あんまり深刻な顔しないでとやや吊り気味のブルーの目を細めて笑った。
「こういうときこそヤギ乳よ。飲むと背が伸びるだけじゃなくて、短気や臆病《おくびょう》も治るわよ?」
今欲しいのは、まさにそういうドリンク剤《ざい》かもしれない。