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覆面《ふくめん》レスラーと対戦するときは、マスクを取って勝負しろと|叫《さけ》ぶこと自体が野暮だ。
おれが観客もしくは第三者だったら、段ボールの裏にスラングでも書いて掲《かか》げつつ、親指下げてブーイング。それでも強引《ごういん》に剥《は》ぎ取ろうとする|卑怯《ひきょう》者には、全員で悲鳴の大合唱だ。
やめてーっ! ノーマン様のマスクをとらないでーっ!
まずはジャブから試《ため》そうとして、おれは腹を押さえて呻《うめ》いてみた。
刈りあげポニーテールことマキシーンは、興味なさそうに一暼《いちべつ》しただけだ。すぐ脇で客人が苦しんでいるのに、形式的な言葉もかけようとしない。血も涙もなさそうだ。
坊主《ぼうず》憎《にく》けりゃ袈裟《けさ》まで憎い、ヒゲの剃《そ》り方まで憎く思えてきた。もみあげと繋げてんじゃねーぞ!? でも心密《ひそ》かに男らしさに憧《あこが》れたりして。
「さあ、ノーマン・ギルビット殿《どの》、この場が男ばかりなのは幸いだ。仮面を取って本音をお聞かせ願おうか」
「マキシーン様がお聞きになりたいのは、主の顔や過去なのですか?」
中年男の据《す》わった|根性《こんじょう》で、ベイカーが決死の抵抗《ていこう》をした。興奮で唇が震《ふる》えるのか、ヒゲまで細かく動いている。
ステップでも踏《ふ》むような足取りで、敵の立ち位置の近くまで来た。
「それとも我々カロリアの民が、本国に対して持っている意見ですかな。シマロン本国が開戦論に転じてゆくのを、我々がどう感じているか」
「どちらであろうと執事《しつじ》などからは聞くつもりはない!」
声が荒《あら》くなるのと同時に、マキシーンの左腕《ひだりうで》がヒットした。目にもとまらぬスピードだ。ヒゲ執事は数メートル先まで吹《ふ》っ飛ばされ、壁《かべ》に叩きつけられて動かなくなる。
「うわっベイカー!」
何故《なぜ》か悲鳴をあげたのは、上司である仮面の領主ではなかった。
「なんで村田が動揺《どうよう》すんのっ」
「ごめん、ついプロレス見てるような気になっちゃって」
小声で腹をつつき合う。そもそもマスクマン入場の時点で、白いマットのジャングルにいる気持ちだったのだ。
呻くベイカー執事にメイドさんが駆《か》け寄り、頭を抱えて|膝《ひざ》に載《の》せる。脳震盪《のうしんとう》を起こしているのだろう。おれもデッドボール喰《く》らったときは、マネージャーが|膝枕《ひざまくら》をしてくれた……男の。
「いいなー」
実に|不謹慎《ふきんしん》な感想だ。
|唯一《ゆいいつ》の味方であった執事を失っても、ノーマン・ギルビットに変化は見られない。ていうか覆面《ふくめん》被《かぶ》られちゃあ、誰《だれ》だって感情は読みとれないよ。
「よろしいかギルビット殿、本国から疑いをかけられているのに、声が耳障《みみざわ》りだとか言っている場合かね? 私なら仮面も|馬鹿《ばか》げた自尊心も捨てて、今すぐ真実を告げてしまうがね!」
一方のマキシーンは|徐々《じょじょ》に|怒《いか》りのボルテージを上げている。あの無感動な目も揺《ゆ》らいでいるのかと、こっそり下から覗《のぞ》いてみたが、薄茶《うすちゃ》の瞳《ひとみ》は作り物めいたままだった。
刈りポニは動こうとしないノーマンに焦《じ》れたのか、さっきまで執事が立っていた場所に行き、相手の顎《あご》を掴《つか》んで持ち上げる。もはや宗主国からの使いと、自治区の領主の会談という|雰囲気《ふんいき》ではない。
「小シマロンの領国でありながら、我々を差し置いて何をした? 大シマロンの王室と通じ、直接取引を持ちかけたのか、ええ?」
さっきまでおれの|脇《わき》にあったマキシーンの手が、ノーマン・ギルビットの顎からマスクにかかった。
これはまた、なんということでしょう! ミスター・刈りあげポニーテール・マキシーンがノーマン・マスクマンの覆面を剥がそうとしています。さあノーマン最悪のピンチ! ここはロープに逃《のが》れるか? 思わず|実況《じっきょう》調になってしまうが、|華奢《きゃしゃ》で大人しいギルビット相手に、小シマロンの使者は些《いささ》かやりすぎだ。おれ自身は本気で抗議《こうぎ》できるほどの大物ではないので、とりあえずひっそりと言ってみる。
「おい、やめろよ」
聞く耳持たず主義者だった。
あーっとノーマン、意識がもうろうとしている。ノーマン必死でタッチを求めてコーナーに手を伸《の》ばすが、そちらは味方|陣営《じんえい》のコーナーではない。しかも相棒アゴヒゲアザラシ・ベイカーは、マキシーンの反則|攻撃《こうげき》でダウンしたままだ!
「村《むら》……ロビンソンさーん、ノーマンのダメージは大きいようですね」
「そうですねクルーソーさん。ちょっと酸欠気味かもしれません」
おおっとぉ? そのままでは脱《ぬ》げないと気付いたのか、マキシーンは後頭部の革紐《かわひも》を解き始めました! ノーマンも細い指で押さえようとするが、頭を押さえつけられてうまく防げない様子。
今度はマキシーンのチョーク攻撃だ、ノーマンたまらず机をタップ!
「……なあ、こっちに助けはいないよ」
相変わらずノーマンは手を伸ばしているので、おれはアーダルベルトに聞こえないように、注意しながら教えてやった。
「あんたの味方はリングサイドで伸びてるよ。タッチしようにも選手がいない」
ベイカー執事と|間違《まちが》えているのか、それとも単に苦しいだけかは判《わか》らない。だが細くて白い指先は、真っ直《す》ぐにおれの方へと向いていた。
この土地と縁深いウィンコットの末裔《まつえい》だなんて、おれたちの|嘘《うそ》を真に受けて、ご丁寧《ていねい》におれと握手《あくしゅ》をした指だ。労働を知らない滑《なめ》らかさで、まるで女性みたいに冷たく|綺麗《きれい》な指だった。
「……まったくもう」
「ああん何? |渋《しぶ》……クルーソー大佐《たいさ》?」
おれはサングラスのまま|椅子《いす》を立ち、ノーマンの指を軽く|握《にぎ》った。度重《たびかさ》なる事故や病気にもめげず、頑張《がんば》って領主やってる健気《けなげ》な青年。
声がろくに出せないので、悲鳴もあげられずに苦痛に耐《た》えている男。
「くそっ、わかったよ! タッチすりゃいいんだろ!?」
「なに言ってんの、クルーソー大佐!?」
顔はなるべく前だけを向くようにして、おれはテーブルを回り込んだ。
声だけ聞いておれが誰か判るようなら、アーダルベルトもかなりやばい。ファン倶楽部《クラブ》会員でもあるまいし、この黒目黒髪も見ずに|魔王《まおう》だなんて判るもんか。
「ちょっとアンタ、マキシーンさん。さっきから|黙《だま》って見てたけど、アンタのやり方はちょっと乱暴だよ。ノーマンさんは事故も病気もあったんだからさ、|喋《しゃべ》れだのマスク脱げだの要求がきつすぎない?」
作り物めいた瞳がおれを捉《とら》える。
「どなたかは知らぬが口出し無用。この男は宗主国である小シマロンを裏切り、他国を出し抜《ぬ》いて大シマロンと取引したのだ。背信|行為《こうい》が事実ならば、自治権も何もかも取り上げねばならない」
|渋《しぶ》く枯《か》れた声は|猛獣《もうじゅう》が喉《のど》を鳴らしているかのようだ。
「けどそんな、無理やり白状させようとしたらさ、言おうとしてたことも言えなくなっちゃうかもよ? とにかく首|絞《し》めてる手を離《はな》しなよ。このままじゃ|窒息《ちっそく》して死んじゃうよ」
おれから視線を外さずに、マキシーンはノーマン・ギルビットの首を放した。
「客人はいったいどこの何方《どなた》なのか。我々シマロンのやり方にけちをつけるとは。近隣《きんりん》の国々の者ではあるまい」
「お……おれはクルーソー大佐だよ。ちょっと出身地は遠くて言えないけどさ」
日本はこの世界に存在しないから。
数回、激しく咳《せ》き込んでから、マスクマンは極細《ごくぼそ》の声を発した。
「……そんなに……」
その場にいた誰もが小首を傾《かし》げ、音を集めるために耳に手を当てるような、高くてか細い声だった。
「そんなに私の顔が見たいのですか」
「おやめください、ノーマン様っ」
贅沢《ぜいたく》な膝枕をしたままで、ヒゲの執事が懇願《こんがん》する。
「お顔を見せてどうするおつもりですか!? 民《たみ》や土地はこの先どうなります!? あなた様にここで仮面を取られては、我等国民は行き場を失います!」
「……ベイカー……でも」
声がか細すぎるので、かえってみんなの視線が集中してしまう。
「私はもう……疲《つか》れました」
仮面の領主、ノーマン・ギルビットは、おれが握った冷たく滑らかな指で、首の後ろの革紐を解きだした。自分からマスクを脱ごうというのだ。
マスクマン人生に幕を引くのだろうか。
「ノーマン様」
「ノーマンさまぁ」
執事とメイドさんが見事にハモった。
二人とも今にも泣きだしそうだ。
「今が潮時かもしれません。これ以上はもう隠《かく》し通せそうにない」
銀色の覆面から頭部を抜く。
中に押し込められていたブラチナブロンドが、波をうって背中に広がった。
もう何年も陽《ひ》に当たっていないせいか、抜けるように白い頬《ほお》と額。薄《うす》い緑の瞳は光に弱そうだ。
自暴|自棄《じき》気味の苦しい笑《え》み。
長いこと覆面をつけていたせいか、両目の下や耳の脇に赤いミミズ腫《ば》れがあった。だがその程度の傷では損《そこ》なわれないほど、彼女の美しさは本物だった。
彼女の……。
ん!? 彼女の美しさ……。
彼女!?
女!? ということは仮面の領主ではなくて……領主夫人!?
「マスク・ド・領主夫人だったわけ?」
カロリアの領地を治めていたのは、華奢で細い指の男ではなかったのだ。
|完璧《かんぺき》に美しく芯《しん》の強い、マスク・ド・貴婦人だったとは。
「……これはどういうことだ、ギルビット殿《どの》……いや、ノーマン・ギルビット」
彼女の美しさにたっぷり二十秒は見惚《みと》れていたのだが、マキシーンの押し殺したような言葉に、おれたちは我に返り震《ふる》え上がってしまう。
「ノーマン・ギルビットでさえなかったのだな。我々は誰《だれ》とも知れぬ女に領地を任せ、国民は誰とも知れぬ女に忠誠を|誓《ちか》い、税を納めていたわけか!」
執事《しつじ》がよろめきつつ戻《もど》ってきて、マスクを握り締める女の|拳《こぶし》に両手を重ねた。
「奥方様……」
「お前はいったい誰なんだ!? 本物のギルビット殿はどこへゆかれた!」
先程まではあんなに感動を表さない、感情を表に出さない男だったのに。今は白目も血走って、薄茶の瞳も怒りに燃えている。
マキシーンはテーブル上の皿を次々と落とし、テーブルクロスまで引っ張ろうとした。隠し芸としては最悪だ。彼のあまりの|変貌《へんぼう》ぶりに、部屋の隅《すみ》で給仕さんが悲鳴をあげる。
「私はノーマン・ギルビットに会いに来たのだ。小シマロン王サラレギー様の命を受けて、ギルビットを問い詰《つ》めるためにここまで来たのだ。なのに当の本人は行方《ゆくえ》が判らず、いったいどこの馬の骨がなりすましていたかもわからない」
明らかに頬骨《ほおぼね》をへこまされた執事が、果敢《かかん》にもマキシーンの胸《むな》ぐらを掴《つか》んで揺《ゆ》さぶった。
「馬の骨とは失礼な! 奥方様は旦那《だんな》様がお元気だった頃《ころ》よりずっと、お側《そば》にお仕えされていたというのに!」
「ベイカー、いいのです。マキシーン様のお|怒《おこ》りももっともです。こうなった以上は何もかも包《つつ》み隠さずお話しして、シマロン本国に許しを請《こ》うしかありません……」
少しだけ声のボリュームが上がった。
おれも村田も小シマロンとやらの使者も、彼女をじっと見詰めている。
|恐《おそ》らくおれだけが不|真面目《まじめ》な視線で、年齢《ねんれい》やスリーサイズを想像していた。年齢は恐らくおれよりも少し上だろう。少なくとも見かけは二十歳かそこらだ。
「私……フリン・ギルビットが夫ノーマン・ギルビットと結婚《けっこん》したのは、六年前の春でした。夫は幼児期の病のために、仮面をつけたままの生活でした。けれどそれは構わなかった……あの人……ノーマンはとても|優《やさ》しくて、領主としても人間としても尊敬できたから」
体《てい》のいいおのろけを聞かせる気だ。
「けれど三年前の馬車の事故で、ノーマンは命を失ってしまった」
「死んだ!?」
刈りポニ、執事、おれ、村田、アメフトマッチョまでもが同時|突《つ》っ込み。
「なんだと? ではカロリア自治区ギルビット領は、もう三年も本人ではなく妻が治めていたということか」
「ああ旦那様、お気の毒に。しかしご安心下さい旦那様。このベイカーが奥方様にしっかりとお仕えし、ギルビット領をいつまでも守り立ててゆきますとも」
「こんな若い奥さん残して亡《な》くなるなんて、旦那さんも未練ありまくりだろうなあ。ひょっとして奥さんが心配で成仏《じょうぶつ》できずに、その辺で地縛《じばく》霊してたりして」
「で、なんで奥さんが一人でここを護《まも》ってるかっていうと、多分この国には江戸時代みたいに末期《まつご》養子《ようし》の禁があるんだね」
「……この中にどっかで聞いた声が混ざってるような気がするんだが……」
フリン・ギルビットは耐えきれず、ぽろぽろと涙《なみだ》を落とし始めた。美人の落とす真珠《しんじゅ》の涙は特別に成分が違《ちが》う気がする。例えば愛や孤独《こどく》がいっぱい入っているとか。
「でも、そう泣いてはいられませんでした。大変なことに気付いたのです。私はノーマンとの間に、まだ子供を授《さず》かっていませんでした。だから彼が亡くなったとき、この家を継《っ》ぐ者がいなかったのです。主人と血の繋《つな》がった|親戚《しんせき》から、養子を迎《むか》えることも考えました。けれどシマロンの法律では、主人の死後の養子|縁組《えんぐ》みは禁止、無効です。この国の元々の不文律では血縁《けつえん》者であれば死後の縁組みも可能だったのですが」
「うーん」
全員が同時に難しい顔だ。
「いくら自治区とはいえこの地は小シマロンが制圧したのだ。シマロン法に従うのは当然のことだ」
マキシーンのもっともな言い分。
「なんと不憫《ふびん》な旦那様。ご自分の跡継《あとつ》ぎを一目見てから逝《ゆ》きたかったでしょうに。まあ旦那様、今のところこのベイカーも、奥方様のお子様の顔は見られておりません。ここは一つ、気長に待つことにいたしましょう」
「子供も居なくてずーっと新婚さんでラブラブだったんだろうなあ。俗《ぞく》に言う、うちには大きな子供がいるから、当分子供は持たないわってやつだな。ダンナが激しくマザコンの可能性もあるぞ」
「ほらね、末期養子の禁が出てきた。これは藩《はん》のお取り|潰《つぶ》しには役にたつけど、そのうち段々と問題点が増えてくるんだよね。それで結局末期養子の禁は緩和《かんわ》されて、亡くなった後でも急いで縁組みができるようになるんだよ」
「どうもどこかで聞いた声なんだよなぁ、あいつ。しかし声だけで断定できるほど、自分の|記憶《きおく》に自信はない。|自慢《じまん》じゃないが、かなりない」
アーダルベルトだけが関係のないことで悩んでいる。
フリン・ギルビットは耐《た》えきれず、派手に鼻水を啜《すす》り始めた。
「もっと|厄介《やっかい》なことに、シマロン法では女が家を継ぐことさえ許されません。そうなるとこの家と領土は国家に寄進され、シマロンの財産の一部になってしまう。それを防ぐにはどうしたらいいか……ない頭で|一所《いっしょ》懸命《けんめい》考えました。その結論がこれ」
フリンは白く細い指でマスクを掴み、銀色の本体が悲鳴をあげるまで引っ張った。
「幸いにもあの人はこれを残してくれた。幼い頃から誰にも素顔を曝《さら》したことがないのだから、声さえ隠せば私でもどうにかなるのでは? そこで私はあの人の仮面を着けて、ノーマン・ギルビットになりきることにしたのです」
「あまーい」
お約束の全員同時突っ込みだが。そんな|素人《しろうと》考えに、誰もが三年もしてやられていたのだ。
とにかくこれでマスク・ド・貴婦人登場の|経緯《けいい》は判《わか》った。
「けれど苦労も多かったわ……仮面の中は蒸れるし|汗《あせ》くさいし。夏場は汗疹《あせも》もできるしね」
しみじみと言うフリン。覆面人生も苦労が多そうだ。
「公然と法を破ってからに、苦労だ汗疹だ屁《へ》だと何を贅沢《ぜいたく》言っているか」
屁に苦労したとは誰も言っていない。
「おお奥方様、なんとなんとお気の毒な。汗にまみれた仮面など、このベイカーにはとてもまとえません」
「高校の体育で柔道《じゅうどう》か剣道《けんどう》選択《せんたく》なんだけど、やっぱそのマスクの内側って、体育館に置きっぱなしの柔道着と同じにおいがするのかなあ。もしそうだとしたら相当厳しいぞ」
「そんなのつけてよく食事の席にいられるなー。おれだったら食ったもん吐《は》いちゃうけど」
「……誰かそいつを一度、洗濯《せんたく》してやれや」
アーダルベルトが主婦的ツッコミ。
フリン・ギルビットの話は延々と続き、過去六年間の思い出話や子育て論(いないのに)などまで語られてしまった。美人が熱っぽく話す様子を見守るのも、それはそれでいいものなのだろう。だがおれたちはフリン・ギルビットを囲む会に出席しているわけではなく、どちらかというと彼女は現在、責められているのだ。
追及《ついきゅう》の手をうまく躱《かわ》したつもりでも、マキシーンの無感動な目は忘れていなかった。
「ノーマン・ギルビットの死に関しては議会にかけ、養子の問題も検討しよう。だがノーマン、いやフリン・ギルビット。シマロン本国の開戦論に異を唱え、独自に反戦運動を展開しているというのは本当か?」
これに対するフリン(元マスク・ド・貴婦人)の返答は「一切《いっさい》していない」というきっぱりとしたものだった。
これには少々|落胆《らくたん》した。
子育て論までかますような女性なのだから、将来を見据《みす》えた生活設計をしているに違いない。
戦争が始まってしまえばそれらは何もかも消え去り、残るのは絶望と|廃墟《はいきょ》だけだ。
なのに反戦意識は全くなしか。
「では我々の元に届いた、ギルビットに関する情報はどう説明する?」
「情報というのは?」
マキシーンは勝手におれの|椅子《いす》を|奪《うば》い、長い両脚《りょうあし》を組んで座った。
「ウィンコットの毒だ」
またしてもこんな異国の地で、ジュリアさんの苗字《みょうじ》が話題にのぼる。
彼女の元彼《モトカレ》だったといわれるアーダルベルトは、名前を聞いて|僅《わず》かに|眉《まゆ》を上げた。
「ウィンコットの毒を使って、誰《だれ》かを、何かを操《あやつ》ろうとしているという情報が入った」
「ほう、誰をです?」
フリンはもう、|先程《さきほど》までのか細い声の女性ではなく、何を言われても平然と言葉を返せる。声の質こそ変わりはないが、ギルビットの女当主という自信が滲《し》みでてくるようになった。
「それはこちらが知りたいものだ。あの、ひどく厄介だと恐れられるウィンコットの毒は、使いどころを|弁《わきま》えないと単なる薬。しかもウィンコット家が西に流れて、眞魔国に定住を決めた今、現物が保存されているのはこの家だけだという」
つまり。
使おうと思えばいつでも使える。
譲《ゆず》ろうと思えば誰にでも譲れる。
「この毒について我々が語るとき、常に話題の中心はこの館《やかた》なのだよ。ここから持ち出されはしないか、誰かに売られはしないかとね」
フリンは口元だけで笑い、小首を傾《かし》げるようにした。可愛《かわい》らしさと美しさがないまぜになって、視線が引きつけられてしまう。
「もちろん、地下貯蔵庫にはウィンコットの毒が保管してあります。そしてそれは正当な取引を持ちかけられれば、いつでも譲る気はあるわ。ナイジェル・ワイズ・マキシーン。もちろんあなたにでも」
男は模様を描《えが》くヒゲの中央で、酷薄《こくはく》そうな薄《うす》い唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
フリンにフルネームで呼ばれたのが、よほど気に入らなかったとみえる。
「では、最近誰に譲ったのかを教えてもらおうか」
「残念ながら……」
彼女の長い生《お》い立ち話の間に、頭部の|打撲《だぼく》を|治療《ちりょう》してきたベイカー執事が席に着いていた。|膝枕《ひざまくら》をしてあげていたメイドさんも、皆《みな》にお茶を配ったりしている。
マスクをしていないフリン・ギルビットは、寧《むし》ろ手強《てごわ》い印象だ。おどおどしたところが感じられないし、威嚇《いかく》するときは遠慮《えんりょ》しない。この三年間もあの銀ピカの仮面の裏では、きっと同じ表情を浮《う》かぺていたのだろう。
「教えられないわ」
「教えない、では済まされない。この土地はシマロン領だ。属国は宗主国であるシマロン本国に、問われたら報告する義務がある」
「だからこそ教えられないのよ」
謎《なぞ》かけでもしているような二人の会話に、残りの者達はついていけない。ただ村田だけは熱心に耳を傾《かたむ》けて、知っている地名を探しているようだ。
ここは地球ではないのだと、何度言えば理解してくれるのだろうか。
ナイジェル・ワイズ・マキシーン(これがフルネームだ)は、メイドさんを呼び止めた。淡《あわ》いブルーのエプロンをして、中身のたっぷり入ったティーポットを持っている。他の豪邸《ごうてい》の給仕と違《ちが》い、彼女は愛想《あいそ》良く|微笑《ほほえ》んで、熱い紅茶を注《っ》ごうとした。
何をされたのか気付かないうちに、男は彼女を回転させ、自分の膝の上に座らせてしまう。
銀の光が短い筋を描いたと思うと、次の|瞬間《しゅんかん》には彼女は床《ゆか》に膝をつき、両手で首を押さえ、掴《つか》もうとした。手から離れたポットが床で砕《くだ》け、熱く赤い液体が飛び散った。
「……何し……っ」
「その娘《こ》を放しなさい!」
おれが駆《か》け寄ろうとするよりも先に、フリンが言葉でけん制をかけた。人質はピアノ線みたいなものを喉《のど》に巻かれ、両端《りょうはし》を男に持たれている。
それまで沈黙《ちんもく》を守っていたアーダルベルトが、相変わらず趣味《しゅみ》が悪《わり》ぃなと呆《あき》れ声で言った。
徐々《じょじょ》に徐々に絞《し》められているのか狂《くる》ったように首を掻《か》きむしりどうにか糸に爪《つめ》をひっかけようとしている。段々のけぞってゆく彼女を見ると、うまくいっているとは思えない。
「聞こえなかったの? その娘を放すのよ!」
「聞こえなかったか? 毒を譲った先を言え」
なんだこいつ、たかだか薬品の売買で、何の関《かか》わりもない女の子を殺す気なのか!? フリンもフリンだ、自分の可愛い使用人なんだから、相手の求めるものが判ってる以上、それをさっさと出してしまえよ。
非常識なにらみ合いが続く中、メイドさんが小さく詰《つ》まった咳《せき》をした。唇の端から泡《あわ》と|一緒《いっしょ》に、ピンク色の液体が一筋流れ落ちる。
「血だよ!」
おれは|大慌《おおあわ》てで走り寄り、彼女の身体《からだ》に手を伸《の》ばす。
「死んじゃうぜっ、早く放さないと! ってっ!」
薄いブルーのエプロンに指が触《ふ》れた途端《とたん》、全身に微量《びりょう》な電気が走った。
「……何……それより早くっ」
おれも糸を掴んで千切ろうとするが、首の周りを何度探《さぐ》っても、彼女の呼吸を奪っているピアノ線が見つからない。
虚《うつ》ろになってゆく両眼《りょうめ》が、すがるようにおれの顔を見る。
やめてくれ! おれだって助けたいんだよ、おれだって探してるんだよ、おれだってぎみの首にどうにかして……。
「マキシーン! 早くこの糸外してやれ」
間に彼女の身体を挟《はさ》んで、座ったままの男の胸を掴む。彼は笑いもせず淡々《たんたん》と、フリンに頼《たの》め、とだけ言った。この館の主《あるじ》を振《ふ》り返っても、やはり口を開こうとはしない。解いたままのプラチナブロンドが、肩《かた》から胸へと輝《かがや》いている。
ふと顔を上げると、腕組《うでぐ》みしたまま壁《かべ》により掛《か》かるアーダルベルトと視線が合った。向こうは一瞬何か言いかけて、確認《かくにん》するように目を凝《こ》らす。唇が「お前か」と動きかけた。
ばれたとか、殺されるとか、怖《こわ》いとかじゃなく、おれはグランツの大将に向かって、助けてくれとだけ|叫《さけ》んでいた。
「助けてくれよ! 彼女を」
アーダルベルトは困惑《こんわく》したように、次の行動を三秒間迷った。その間に、メイドさんを虐《いじ》めるなーと叫びながら、村田がマキシーンにスリーパーを試みた。首と肩の一ひねりで弾《はじ》き飛ばされる。
「村田!?」
床に転がる友人の動きが、やけにゆっくりと感じられる。口元を拭《ぬぐ》った手の甲《こう》に、鮮《あざ》やかな血が|尾《お》を引いた。顔を上げる一コマ一コマのうち、|途中《とちゅう》の一コマで村田のコンタクトが飛ぶ。細く眇《すが》めた片目が黒で、その黒の中央、針で突いたような一点に、感情を煽《あお》る何かが揺《ゆ》れた。
そこを見ちゃいけない、見ちゃいけないんだ。その一点を見つめたら……。
次の瞬間、おれの周囲は真っ白になった。
ドライアイスの真ん中に、一人きりで立たされている気分。
前回は女性の声が聞こえたのに、今日はもうあの人は何も教えてくれない。手を伸ばしても白い|煙《けむり》に触れるばかりで、どこまでいっても先がない。
まるで白い闇《やみ》の中を、手探りで動いているみたいだ。
遠くから和太鼓《わだいこ》のバチを鳴らすような、威勢《いせい》のいい啖呵《たんか》が聞こえてくる。
なんだあいつ、元気だなと呆れかえる。|脱力《だつりょく》して頬《ほお》が弛《ゆる》んでしまう。おれはこんなにくたくたなのにさ。
誰が言ってんのか知らないけど、少しは気力を分けて欲しいよ。
「……人の皮を被《かぶ》りし獣《けもの》どもめ、狸《たぬき》は狸、|狐《きつね》は狐で罵《ののし》り合えばいいものを。欲に任せて人里に下りるとは、己《おのれ》の分をも|弁《わきま》えぬ愚行《ぐこう》。おそばんてあて[#「おそばんてあて」に傍点]もつかぬのに、健気《けなげ》に働く乙女《おとめ》の|笑顔《えがお》。心|癒《いや》されるえぷろん姿を血で染めようとは何事か!」
この状態に初めて立ち会う者は、言葉もないほど|驚《おどろ》かされる。
フリンも、マキシーンもアーダルベルトもロを挟むことができない。ただただ前口上が終わるまで、立って待たなければならないのだ。
「命を|奪《うば》う毒を弄《もてあそ》び、またその行方《ゆくえ》を知らんがためと、善なる者を傷つけるに咎《とが》めなく、悪なる者にへつらうに後《おく》れなし。これこのような|性根《しょうね》の者共を野放しにしてよかろうか。いや、よかろうはずがない」
一人時間差反語。
|呆気《あっけ》にとられるフリンとマキシーンを人差し指で交互《こうご》に指す。身体は斜《なな》めの角度で|爪先《つまさき》を正面に。すっかり板に付いたモデル立ちだ。
「その心根、すでに人に非《あら》ず! 本来なら嗜好《しこう》するべき贅沢《ぜいたく》品を、切った張ったに使うは気も引けるが……悪を|除菌《じょきん》し、ぽりふぇのれる(動詞)のなら、深く赤き一滴を撒《ま》くに吝《やぶさ》かでなし! 命を奪うことが本意ではないが……やむをえぬ、おぬしを|斬《き》るッ!」
斬るとか言っておきながら、エモノが刀剣《とうけん》であったためしはない。
ふと見ると割れたポットから飛び散ったものや、おのおののカップに残っていた紅茶が、床にしたたり地を這《は》って集まってゆく。
「こ、これなにっ?」
フリンは無意識に脚《あし》を上げ、|椅子《いす》の上で子供みたいに膝を抱《かか》えた。
マキシーンはこれまでの「成敗対象」の中で最も冷静に|状況《じょうきょう》を判断していた。
これが初めて見る|魔術《まじゅつ》というものだ。|随分《ずいぶん》えげつない光景だが、法術師にだってこういう趣味の者はいる。
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息も絶え絶えだったメイドさんをマキシーンから奪い、喉のトリックを解放してやった後、アーダルベルトの眼は人型になりつつある紅茶よりも、ユーリの胸で微《かす》かに光を放つ、青い魔石に引きつけられていた。
あれは確かにフォンウィンコット家の物だ。いやスザナ・ジュリアが生まれてからは、彼女がずっと身に着けていたはず。それが何故《なぜ》、あのガキの首にある? 彼女の魔石を誰《だれ》があいつに渡《わた》したんだ!? 大きな水たまりにまでなった紅い水は、一瞬静かな湖面となり皆《みな》を安心させた。だが次の息を継《つ》ぐ前に、人型を成して天井《てんじょう》まで伸び上がる。両手らしき四本の指で銃《じゅう》を作り、確かにフリンとマキシーンを狙《ねら》った。
「こ、紅茶鬼神……?」
一人だけユーリの背後にいた村田健は、驚くべきなのか笑うべきなのか迷っていた。
紅茶鬼神の指先からは、紅い弾丸《だんがん》が連発で標的を撃《う》つ。
「……と見せかけてチーズ星人?」
色は明らかにトマト星人だが、気のせいか効果音までちちちちちちち、と。
狙われている本人達は|恐怖《きょうふ》の表情だが、第三者の立場で見物するとけっこう愉快《ゆかい》だ。いやそれは室内だし、悪人も少数だし、魔王本人が無意識に気を遣《つか》って、規模も縮小しているからだろう。
「小規模成敗っ!」
飛び散る紅い液体、濡《ぬ》れそぼる標的。男は一滴一滴が刃《は》になり、腕《うで》も頬も細かい切り傷だらけなのに、女には|雨粒《あまつぶ》の逆襲《ぎゃくしゅう》程度で、打ち身で済ませる親切さ。この辺が無駄《むだ》にフェミニストだ。悪に性差はないというのに。
「なんなの、なんなの、なんなの、なんなのっ!? これがウィンコットの末裔《まつえい》の力なのっ!?」
慌《あわ》てるフリンをよそに、アーダルベルトは気を失ったままの給仕の前掛《まえか》けから、はみでていた買い物メモを引っ張り出す。
人間の領土の真ん中で、魔力を発動できるのは何故なのか。大小シマロンに挟まれた小国に、魔族に従う要素などありはしないのに……。
『石鹸《せっけん》、虫下し、紅茶(キカル産)』
なるほどキカルは|眞魔《しんま》国の隣《となり》だ。この紅茶は魔族にも従うだろう。
一方、上様ユーリは足りないものに気付いたのか、きょろきょろと周囲を見回した。目的の物が発見できず、まあいいかという|溜息《ためいき》で|諦《あきら》める。
実のところ捜《さが》し物はきちんとあった。真っ白いテーブルクロスの中央に、正義と二文字の紅茶染めだ。