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馬車|路《みち》。
それはドイツでいえばアウトバーン、日本でいえば関越《かんえつ》自動車道、お袋《ふくろ》の大好きな松任谷《まつとうや》由実《ゆみ》にいわせれば中央フリーウェイだ。でも競馬場は見えない。
つまりあらゆる馬車が快適に、しかも高速で走れるように整備された道だ。一定の間隔《かんかく》でサービスエリアらしき地点が設けられており、|休憩《きゅうけい》をとったり、急ぎの場合は元気な馬に乗りかえることもできる。常にトップスピードを保てるわけだ。
その便利な交通設備を、おれたちを乗せた馬車は全速力で突っ走っていた。
|舗装《ほそう》の行き届いた路面のおかげで揺《ゆ》れも少なく、四日連続で乗り続けてもケツの痛みも最低限で済む。首を巡《めぐ》らせば「世界の車窓から」でしか見ないような風景、向かい合った座席にはプラチナブロンドの美女。車中|泊《はく》が中心とはいえ、なかなかに快適な旅だった。
ただ一つ、自分が|捕虜《ほりょ》だという点を除けば。
クルーソー|大佐《たいさ》ことおれの|逃亡《とうぼう》を恐《おそ》れたフリン・ギルビットは、クッションの効いた席の|両脇《りょうわき》をマッチョな部下で固めてしまった。ラインダンス宜《よろ》しく|両腕《りょううで》を組まれた様子は、遠目に見ればNASAに連行される宇宙人みたいだろう。
名付けてマッスルシートベルト。
ボンズとカブレラに挟《はさ》まれていると思えば心も弾《はず》むが、片方がボブ・サップだったらと考えると、そりゃもう生きた心地もしない。
お膝《ひざ》の上に乗っけてくれるという、マッスルチャイルドシートよりはましだけど。
シートベルト達は絶対にこちらを向かない。二日ばかり風呂《ふろ》に入っていないせいだろうか。
「彼等はあなたが怖《こわ》いのよ」
フリン・ギルビットは覆面《ふくめん》を外し、婦人のままで優雅《ゆうが》に|微笑《ほほえ》んだ。
領主であるノーマン・ギルビットヘと変身するためのマスクは、膝の上で銀色に輝《かがや》いている。
「あなたの黒い髪《かみ》と、黒い瞳を恐れているのよクルーソー大佐」
彼女自身はそう感じていない口調で、おれの前髪に指を伸ばす。
「副官のロビンソンさんも片目が黒かったけど、翌朝には元どおりの青に戻《もど》っていた。あれはきっと偽物《にせもの》だったのね。あなたの眼とは輝きが違《ちが》うもの」
「村……ロビンちゃんのが頭がいいからだろ」
村田《むらた》・ロビンソン・健《けん》は、後ろの馬車だ。フリンは何故《なぜ》か、おれたちが|一緒《いっしょ》にいるのを嫌《きら》った。
「いずれにしろ、私は美しいと思うわ。月もない闇夜《やみよ》と同じ色……財を投げ出しても手に入れたがる者もいるとか。こんな|綺麗《きれい》な色なら、不老不死の|妙薬《みょうやく》というのも本当かもしれない」
どうやって食われるのかを想像したら、四川《しせん》の食材市場で売られているような気分になってしまった。小猿《こざる》とか子鹿《こじか》とか子ザザムシとかだ。
「ちぇ、よく言うよ。自分こそ綺麗な顔しちゃってさ。美人が他人を褒《ほ》めても嫌味《いやみ》なだけだって」
「あら、女を口説くのがお上手ね。でも、むしろ私が怖いのは、あなたの瞳よりもその石よ」
おれの胸にぶら下がる青い石に、彼女は細い指先を近付けた。
空より濃《こ》くて強い青に、触れようとしては思いとどまる。
「……なんだか恐ろしい力と、深い意味があるような気がしてならない。もちろん、ウィンコット家の紋章《もんしょう》を象《かたど》っているだけでも、カロリアの人間にとっては特別なのだけれど」
「アーダルベルトの言ってたことが本当なら、あんたたちは恩を仇《あだ》で返したわけだ。寝覚《ねざ》めが悪くて当然だし、家紋を見れば嫌な気分にもなるだろうね」
「誤解しないでね。ギルビット家はもっとずっと後にたてられたのよ。当時の|首謀者《しゅぼうしゃ》達とは関係がないわ」
「じゃあ、なんで今さらウィンコットの末裔なんて探してたんだ?」
「それを知ったら逃《に》げようなんて考えを起こさずに、私達の計画に協力してくれるかしら?」
まるで午後のお茶でも飲んでいるみたいに、婦人は優雅に微笑んだ。プラチナブロンドが弱い日射《ひざ》しにきらめいて、流れた毛先が座席に触れる。空には薄い雲がかかり、冬を間近にひかえた陽光を遮っていた。眞魔国では春前の雨期だったのに、シマロン領は秋の終わりだ。ごくごく地球流にシンプルに考えると、緯度が正反対ということだろうか。
思えば遠くへ北半球……|駄洒落《だじゃれ》でも言わなきゃやってられないよ。
「それにしても、いやな空ね」
「どこが? ただの薄曇《うすぐも》りにしか見えねーけど」
「地元の人間には判るものよ。地震でも起きなければいいのだけれど」
やっと無難な話題が戻ってきた。初対面の相手とは、政治と宗教と野球の話をしてはいけない。特に少数派のパ・リーグファンは、自分の精神衛生上も野球の話題は避《さ》けるのが賢明《けんめい》だ。その点、天気の話はいい。|誰《だれ》も傷ついたりキレたりしない。
最初に対面した食卓《しょくたく》では、|互《たが》いに|喋《しゃべ》れないふりをしていた。
だが、いざ仮面を外し本来の彼女に戻ってみると、フリン・ギルビットは美しく、言葉も態度も堂々としていた。|毅然《きぜん》としているのとは少し違う。声には甘い|響《ひび》きもあり、眼《め》には|狡猾《こうかつ》な光もある。それでも胸を張って見えるのは、自分の意志と信念で行動しているからだろう。
夫の名を騙《かた》って領地を治めていたせいで、散々なことを言われていたが、意外とこういう人物こそ国のトップに|相応《ふさわ》しいのかもしれない。
アニシナさんやツェリ様、ギュンターみたいな|魔族《まぞく》の美形と比べると、人間の美人というのは方向が違う。あちらを天才芸術家の作品とすると、こっちは女優とかレースクィーン。スポーツ一筋のアスリートが、取材で来た女子アナやタレントに目を奪《うば》われちゃうのはままあることだ。おれの場合もまさしくそれで、かなり酷《ひど》い目に遭《あ》わされているのに、心の底からは憎めない。
なにしろ三日間も監禁《かんきん》され、絶食ダイエットを強《し》いられたのだ。これはぎつい。しかも断食道場に閉じこもったわけでもなく、実に美味《うま》そうなフルコースを前にして、強固な意志で耐《た》えなければならなかった。
思えば監禁《かんきん》初日から、食糧問題は深刻だった。
二万七千|匹《ひき》まで羊を数えれば、どうにか|眠《ねむ》ることはできる。従って、夜のうちはいいのだが、朝になるとまた豪華なブレックファストが運ばれてくる。育ち盛り食べ盛りの健康な胃腸は、エネルギーを求めてものすごい音を立てる。でもまたそれを疑いなく食べるわけにもいかず、お預け状態は夕食まで続く。
パブロフさんちの犬だって、こんなに|我慢《がまん》はしなかったろう。空腹で地球が救えるなら、三回くらいは成功しているはず。
それというのも、おれがギュンターの言いつけを|生真面目《きまじめ》に守っているからだ。
知らない人から貰《もら》った食物は、迂闊《うかつ》に口にしてはいけません。何故なら誰かおれに悪恵を持つ者が、毒を盛る可能性があるからだそうだ。
|信憑性《しんぴょうせい》を試《ため》そうとしたわけでもないが、とりあえず食べたふりをしようと、パンと肉を窓の外に放置してみた。
|瞬《またた》く間に目敏《めざと》い鳥が来て、何の迷いもなくついばんでしまった。
するとあら不思議! ムギュという|珍《めずら》しい鳴き声を発して、小鳥は|窓枠《まどわく》に転がってしまったではないですか! 目は半開きで、だらしなく弛《ゆる》んだ嘴《くちばし》からは小さな舌までのぞいている。
これは大変だ、おれのつまらない実験のために、罪もない小さな命を奪ってしまったのか。ああ小鳥ちゃん君《きみ》を泣く、君死にたまふことなかれ、などと詠《うた》ってみたところでもう遅《おそ》い。失われた命は帰らないし、犯した罪も消し去れない。
「ああごめんなー、名も知らぬドブネズミ色……いやスタイリッシュグレーの美しい鳥さん。考えなしのおれを許してくれ。こうなったら残された家族のことは、おれの貯金で責任持って|面倒《めんどう》を……あれ?」
数時間後、死んだと思った被害者はすっくと立ち上がり、以前にも増して力強い羽ばたきで飛び去っていった。寝不足が解消されたせいか、瞳は生気に満ちあふれている、盛られていたのは毒ではなく、単なる睡眠薬《すいみんやく》だったようだ。
だからといって遠慮なくいただき、食っては眠らされ、目が覚めて食ってはまた眠らされるという、|堕落《だらく》した生活を送るわけにはいかない。だいたいそれでは敵の思うつぼだ。向こうはクルーソー大佐なる人物が暴れないように、なるべく眠らせておきたいのだから。
そもそもおれが三日間の絶食という過激なダイエットを強いられることになったのは、自分の国から遠く離《はな》れた敵対勢力|圏《けん》へと、ふっ飛ばされてしまったからだ。
ごく|普通《ふつう》の背格好でごく普通の容姿、頭のレベルまで平均的な高校生だったおれ、|渋谷《しぶや》有利《ゆーり》原宿もうどうでもいい十六歳は、金融《きんゆう》相場で世界支配を目論《もくろ》む怪《あや》しい銀行に|籍《せき》を置く親父《おやじ》と、いい加減に少女の心を忘れて欲しい、元フェンシング選手の母親の間に生まれ育った。
ところが洋式便器から流された異世界で告げられたのは、あまりにも衝撃的すぎる事実。
おれさまは、|魔王《まおう》だったのです。
泣く子も白目を剥《む》く魔王様だから、|凶悪《きょうあく》な魔術も使える(らしい)し、敬愛される王様だから、困っちゃうほど美形な部下も多い。解決しなければならない問題は山積みだが、血の繋《つな》がりこそないとはいえ可愛《かわい》い娘《むすめ》もいて、血盟城《けつめいじょう》ライフはそれなりに楽しい。
そういう現実にも、もう慣れたはずだった。
そこに|突然《とつぜん》つきつけられたのが、この数日間の恐《おそ》ろしい悲劇だ。
危機下の眞魔国に喚《よ》ばれたおれは、素性《すじょう》も知れない暗殺団に|襲《おそ》われてフォンクライスト|卿《きょう》とウェラー卿から引き離された。もちろん二人とも絶対に生きているだろうし、教育係に関しては、アニシナさんがいるので安心だ。
コンラッドだって|左腕《ひだりうで》は|斬《き》られたけれど……。
あの爆発《ばくはつ》と、聞こえるはずのない謝罪が甦《よみがえ》り、おれは強く両手を握《にぎ》った。
彼が一人で死ねわけがない。欲しいときにはいつだって、手を貸してくれると約束したんだから。
その後、地球に戻る予定だったおれは海を越えた人間の土地に飛ばされていて、気付くと中二中三とクラスが一緒だった日本の友人、村田までをも巻き込んでいた。
「……村田だ」
演歌歌手の|物真似《ものまね》みたいに|呟《つぶや》いて、空腹でふらつく|両脚《りょうあし》で立ち上がる。そうだ、村田だよ。
マスク・ド・貴婦人ことフリン・ギルビットは、ここ、小シマロン領カロリア自治区を夫に成り代わって治める美女だったが、おれがウィンコット家の末裔だという作り話を信じ込んでしまい、おれと村田健を別々に監禁したのだ。フリンはとても美人だけれど、その分トゲも鋭《するど》く危険だ。
何にせよ、村田に関してはおれに實任がある。彼は未だに自分が地球にいると思っていて、地図にない国の領事館を探している。これ以上危険な目に遭わせるわけにはいかないし、あいつを守れるのもおれだけだ。
どうにかして居所を突《つ》き止めないと。
監禁生活も三日目を迎《むか》えると、当初のパニックはおさまって、周囲を見回す|余裕《よゆう》も出てくる。脱走《だっそう》計画は何通りも練ってみたが、いずれも成功の可能性は薄《うす》かった。窓は大きくて開閉自由だがベランダもバルコニーもない上に、部屋は地上五階くらいの場所にある。勇気を振《ふ》り絞《しぼ》ってレッツバンジーすれば、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
簡易ロープ作りにもチャレンジしたが、布目というのがよく判《わか》らないせいか、シーツは全然|真《ま》っ直ぐに裂けず、ツキノワグマの月みたいな布きればかりが増えていった。おれは野球しかしてこなかった人生を、ここにきて初めて反省した。
ミットとボールでできる脱出イリュージョンがあれば、誰よりも完璧《かんぺき》にやってみせるのだが。
結果として地獄のバンジーも簡易ロープも試せないまま、地球計算での五十八時間が過ぎつつある。
昼近い日射しを全身に浴びながら、大きな窓をめいっぱい開けた。梯子車が一台でも来てくれれば、すぐにでもここから出られるだろうに。
身の引き締まるような冷たい風に乗って、知らない言語の歌が流れてくる。待てよ、この曲調には覚えがあるぞ? 以前、いやというほど聞かされた気が……。
「凱旋《がいせん》マーチ?」
ほんの数ヵ月ばかり前に、一生分の「アイーダ」を聞かされたばかりだ。
身を乗り出して目を凝《こ》らすと、六、七部屋は離れた先の窓辺で、友人が|呑気《のんき》にオペラを歌っている。思い切ったイメチェンの結果、頭部は人工|金髪《きんぱつ》だ。
ブルーのコンタクトレンズまで装着する念の入れようだが、効果の程《ほど》は定かではない。
「村田っ!」
どうにかしてサッカーファンの気をひこうと、おれは必死にツキノワグマみ旦を振り回した。決死のタオルパフォーマンスだ。
「おーう、渋谷ーぁ」
眼鏡《めがね》を外したカラコンくんは、脳天気に大きく腕を回す。おうじゃないよ、おう、じゃ。
「元気ーィ?」
「なにすっとぼけたこと言ってんだよっ、いいか、今おれがそっち行くからなっ」
「んーでも」
彼は上から下まで|壁《かべ》を眺《なが》め、出っ張りがないのを確認《かくにん》してから続けた。
「スパイダーマンでもなけりゃ無理だと思うよ? しがみつこうにも乎がかりがろくにないからさ、下手したら失敗ダーマンになっちゃったりして。はは……」
「寒い|駄酒落《だじゃれ》で笑ってる場合か? とにかくっ」
青銅色の窓枠に両脚をかける。
「なんとかして気付かれないように脱出しないと! このままじゃおれは餓死しちゃうよ!」
「だけど渋谷」
村田はギリギリまで身を乗り出す。
「そんな大声で言ってる段階で、既《すで》に秘密じゃなくなってると思うけど」
「そのとおりよ大佐」
いきなりベルトを掴《つか》まれた。
「どうして大人しいお客様でいてくれないのかしら。あなたに怪我《けが》でもされたら私……」
フリンは大袈裟《おおげさ》に眉《まゆ》を顰《ひそ》め、中年|執事《しつじ》の後ろで肩《かた》をすくめた。ベイカー執事が掛《か》け声と共に引っ張ったので、窓から床《ゆか》へと戻されてしまう。
「二人が一緒にいなければ、魔術の心配はしなくて|大丈夫《だいじょうぶ》だと安心していたのに。食事を|拒否《きょひ》するばかりか、捨て身の脱出劇までー心身の限界に挑むなんて……軍人思想って本当に困りものね」
は? 軍人思想? ああ、おれが大佐と名乗ってるからか。それにしても平和主義者の日本人をつかまえて、軍人|扱《あつか》いとは失礼な。
「ベイカー、馬車の準備をしてちょうだい」
フリンは自分の細い指で、窓にきっちりと|鍵《かぎ》をかけた。
「この様子では護衛団が|到着《とうちゃく》するまで待てそうにないわ。一刻も早く本国にお連れするほうが、クルーソー大佐のためかもしれない。マキシーンに仮面の正体を知られた以上、いつ小シマロンから兵が押し寄せて、カロリアを|奪《うば》おうとするか判らない」
民を治める「男」の領主が、いなくなったというだけで。
「奥方様、しかしそれでは……」
「ここに留まっているシマロン兵も足せば、それなりの数は確保できるでしょう。大規模で目立てば良いというものでもないし。平原組の|出没《しゅつぼつ》地域だけ全速力で駆《か》け抜《ぬ》ければ、あとはそう用心しなくても済むはずです」
なんとか組って、ぼ、暴力団の待ち伏《ぶ》せがあるのでしょうか。
こうしておれたちは四台の馬車で「本国」に移送されることになり、マッスルシートベルトで固定されてしまった。
そして現在に至るまで、むさ苦しい野郎二人に挟まれているのだ。
そういえば乗り込むときにちらっと見ただけなのだが、村田がいやに嬉《うれ》しそうだと思ったら、あっちはアマゾネスシートベルトだった。
なんでだっ!?