6
なんということでしょう! トイレに行くには、殺人者集団の屯《たむろ》する部屋を横切って、反対側まで歩かなければならないのです。
匠《たくみ》の技《わざ》でどうにかしてくれないものかな、とリフォーム好きのおれは祈《いの》りたくなった。
「……|我慢《がまん》できそうにねえの?」
「今は耐《た》えられてもすぐにまた限界がくるわ……ちょっと、女になんてこと言わせるのっ」
「旅は人間を親しくさせるねえ。生理現象のことまで語り合える仲になれるとは」
旅の仲間三人は額を寄せて話し合っていた。
「この際だフリンさん、川で足しちゃうってのはどうだ。一人で恥《は》ずかしいならおれたちも付き合うぜ!」
「あっそれいいねー、きっと気持ちいいよー?」
「いやよ絶対いやーっ」
拒《こば》む気持ちもよく解《わか》る。
男達にとっては当たり前の|行為《こうい》でも、女牲には|屈辱《くつじょく》的だろう。しかし|羞恥心《しゅうちしん》と命の危険では、どちらを重要視するかは火を見るよりも……。
「洗面室を使えないなら、死んだほうがましよ! なんとかして道を開けさせてちょうだい。ほらあの、トーキョーコミックショーとかいう奇術《きじゅつ》で」
野郎《やろう》二人はびっくり|仰天《ぎょうてん》だ。正しい名前を言い当てられたことではなく、おれたちが百余人の|囚人《しゅうじん》を相手に、|交渉《こうしょう》しなければならないことに。
「無理、むりむり? 相手が軽犯罪法|違反《いはん》者くらいならまだしも、殺人だよ? しかも全員で千人もの命を|奪《うば》ってるんだぞ? アメリカなら|懲役《ちょうえき》三百年だよ。そいつら相手におれに何ができるって……」
「なーにをもじゃもじゃ相談してるんだあ子羊ちゃぁん」
薄紅色《うすべにいろ》の繋《つな》ぎの囚人達は、下卑《げび》た笑い声をたてた。子羊ちゃんとは失礼である。代行とはいえ小国を三年も治めていた人だ、そんなふうに呼ばれたらフリンだって|怒《おこ》るだろう。
「ンモっ?」
と思ったらTぞうが前へと進み出た。なるほど、確かに子羊ちゃんだ。
「便所を使いてえんなら、とっとと使やぁいいじゃねーかーゲラゲラゲラ」
「俺等が|邪魔《じゃま》で通れねえってんなら乗り越《こ》えていきゃあいいじゃねーかゲラゲラゲラ」
「……ンモふーっ」
おれの|左脇腹《ひだりわきばら》の辺りで、羊が鼻息を荒《めら》くし始めた。背中が細かく震《ふる》えている。
「ど、どうしたTぞう」
綱《つな》を引いて止める間もなかった。毛を膨《ふく》らませて威嚇《いかく》したと思うと、次の|瞬間《しゅんかん》にはもう室内に駆《か》け込んでいた。原付程度だった身体は大型バイクくらいにもなり、蹄《ひづめ》を凶器《きょうき》に男達を蹴散《けち》らしている。
千人殺しの囚人達は、悲鳴をあげて部屋を逃げ回った。だが、鎖と鉄球がついているので、あまり|素早《すばや》くは動けない、中には仲間の鉄球に足を|潰《つぶ》され、|涙《なみだ》ながらにうずくまる者もいた。船は異様に揺れて、舵取《かじと》りの船員までが慌《あわ》てて見に来たほどだ。
「な、なんでTぞうが……」
「驚いたなー、こいつ羊の皮を被《かぶ》った狼《おおかみ》だったんだ」
村田、お前って……もう突っこむ気にもなれない。強面《こわもて》で|屈強《くっきょう》な囚人達が跳《は》ね回る様に、見に来た船員も笑っている。
「羊の前で笑うなとか羊たちの反乱って言葉があるが。一頭でこれなんだから集団になったらさぞや怖《こ》えぇんだろうなあー」
異文化|諺《ことわざ》だ。
散々暴れ回ってから、Tぞうは悠々と帰ってきた。鼻息までも満足げだ。この隙に乗じてトイレを済ませたフリンも、すっきりした顔で戻ってきた。どちらも「今日のところはこれくらいにしといてやらあ」と言いたそうだ。
これ以上、男サロンにいても仕方がないので、おれたちは冷え込み始めたデッキに戻った。彼等に負けない自信がついたところで、この密集具合じゃ室内では寝《ね》られそうにない。たとえ隅っこに入れてもらえても、割り当てスペースはギリギリ体育座り分だ。だったら冬の星座でも歌いながら、寒空に|寝袋《ねぶくろ》で横たわるよ。
「待てい」
時代劇風に呼び止められて、三人ともビクリと歩みを止める。ゆっくり|慎重《しんちょう》に振《ふ》り返ると、奥まった場所に陣取《じんど》る親分格の男に向けて、一直線に道ができていた。座ったままなので正確には判《わか》らないが、ニメートルは軽く越そうという|大柄《おおがら》な男だ。|刑務所《けいむしょ》の食糧《しょくりょう》事情が良かったのか、|肩幅《かたはば》も胸板も相当なものだ。彼にあだ名をつけるなら、おれだったらストレートに「人間山脈」。
青刈《あおが》り状態の頭部には、X型の傷があった。
「隊長|殿《どの》からお話があーる! 近《ちこ》う寄れ」
三人して尻込《しりご》みしているうちに、Tぞうが威嚇目線で歩きだしてしまった。肉体的な性別は雌《めす》なのに、まったく男前な動物だ。
山脈隊長は逞《たくま》しい足で胡座《あぐら》をかき、|膝《ひざ》の間に丸い物を抱《かか》えている。よく磨《みが》き込まれて飴色《あめいろ》につやめく球を、絶えず|掌《てのひら》で撫《な》でていた。ん? 真ん中辺に|空洞《くうどう》があるぞ。ちょうど|霊長類《れいちょうるい》の眼窩《がんか》の位置に……。
「|頭蓋骨《ずがいこつ》!? 人骨じゃないのそれ?」
「これはテリーヌさんじゃ」
側近もしくは|知恵袋《ちえぶくろ》らしき老人が代わりに答えた。わかりやすい山羊髭《やぎひげ》。
「隊長殿が殺った者達の亡骸から、一人だけ連れてきたそうじゃ。だが正直言うと……その時|既《すで》に白骨化してたちゅーことは、もっと前に殺られた可能性が高いんだがの」
最後のほうは、内緒《ないしょ》の|囁《ささや》きだ。ではテリーヌさんの心境からすると、怨《うら》み骨髄《こつずい》ということなんじゃないの? 実際にはもう「骨」だけになっているのだが。
山脈隊長は血も|凍《こお》りそうな黄土色の目でおれたちを睨《にら》みつけ、でもすぐに視線を膝の間の髑髏《どくろ》さんに戻してしまった。そして、どすのきいた声で話しかける。
「こいつらに訊《き》きたいことがあるんでしゅよねー、テリーヌしゃん」
……頭蓋骨に。
「……て、テリーヌしゃんって」
しかも、でしゅよねーって。その迫力《はくりょく》ボイスで言われると、和田アキ子が松浦《まつうら》亜弥《あや》の曲を歌うくらいの違和感《いわかん》がある。個人の嗜好《しこう》の問題だから、咎《とが》め立てはしませんが。
「特にこの女の人。この人とどっかで会った気がするんでしゅよねー、テリーヌしゃん? だからこの人がど二の|誰《だれ》なのか、テリーヌしゃんとっても知りたいでしゅよねー?」
「私? 私には頭蓋骨と会話する知り合いはいないわ」
二百二の瞳《ひとみ》から厳重|抗議《こうぎ》。
「隊長をバカにすんなー!」
「俺等にとっちゃ隊長もテリぼんも大切なんだぞーぅ!」
「哀《あわ》れみの目で見るなぁー!」
「キモイとか言うなぁぁー」
言っていない。ていうか、テリぼんて何だよ、テリぼんて。
羊(の皮を被った狼)がいるから強気なのか、フリンはいかにもご婦人が使いそうなフレーズで応じた。顎《あご》を突《つ》きだして猪木《いのき》顔。
「ひとに名前を尋《たず》ねるときは、まず自分から名乗るも……」
「やあこんばんみ。僕はロビンソンです。そしてこちらはクルーソー大佐《たいさ》」
「こんばんみー」
「ちょっとっ、私が訊かれたのよ? 私よっ?」
さっくりぽんと無視されて、慌てるフリンが可笑《おか》しかった。おれと村田を|交互《こうご》に見て、自分を指差すポーズも可愛い。五つ以上年上の女性に向かって、可愛いってのも失礼な話だが。
「私の名前はフリンよ。フリン……姓は言わないけど」
山脈隊長の凄味《すごみ》のある顔が、ぱっと明るくなる。
「やっぱりお嬢《じょう》さんみたいだよテリーヌしゃん!? あの白金の髪《かみ》と気の強い性格、しかも名前がフリン。やっぱ平原組のフリンお嬢さんだったよー」
「うおー、お嬢さーん!」
「お嬢さーん! お嬢さーん!」
「な、なぁに?」
今度はおれたちがのけ者にされる番だった。山脈隊長組はお嬢さんコールを熱く繰り返す、
「幼いお嬢さんの|笑顔《えがお》でどれだけ癒《いや》されたことか」「お嬢さんがいなかったら自分、平原組を卒業するこたできネがったっすよ」「骨折した腕《うで》に幼いお嬢さんが巻いてくれたハンカチ、今でも宝物っスよ」「特に役には立たネがったけどもね」「訓練厳しくて疲《つか》れ切った俺等にお嬢さんが飲ましてくれた泥スープ。翌日のこの世の物とは思えねえ下痢……忘れようっても忘れられねーっスよ」
「好いているのか恨《うら》んでいるのか、はっきりしてちょうだい」
少女時代のフリンの功罪が、更《さら》に延々と並べ立てられる。おれは頃合《ころあ》いを見計らって、山羊髭老人にそっと尋ねた。
「囚人の皆《みな》さんの殆《ほとん》どが、平原組で訓練受けた卒業生ってこと?」
「そうだ。もちろんワシもな」
「てことは全員、元兵士なんだろ? どうしてまた殺人なんかやっちゃったんだ。人を殺すのが最も重い罪だって、幼稚園児でも知ってることだろうに!」
「何を言うかね。ワシらは戦場と酒場以外では、|誰《だれ》一人傷つけたことはないぞ」
「だって、じゃあ何で|囚人《しゅうじん》移送船に乗せられてるんだよ。鎖と鉄球つけられてさ」
「負けたからだ」
円を描《えが》くようにテリーヌを撫でながら、山脈隊長がぼそっと真顔で言った。それきりまた髑髏に話しかける人に戻ってしまう。頭部のX傷が物悲しい。部下達はまだフリン・平原組の思い出を挙げ連ね、一方的に盛り上がっていた。
Tぞうが低く唸り始めた。敵と認識した集団が、活気づいているように感じたのだ。少しでも自分を大きく見せるために、羊毛を精一杯逆立てている。これだけ闘争心剥き出しだと、こいつが羊の皮を脱《ぬ》ぎ捨てる日も、遠くはないように思えてくる。
でもおれには、彼等が騒《さわ》げば騒ぐほど、それがみんな空元気に聞こえてならない。
もう闘争心なんて残っていないけれど、集団で行動できるので、辛《かろ》うじて威勢《いせい》よく見せかけていられる……そう思えてならない。
「ワシら皆、シマロンに負けたんじゃよ。あらん限りのカで闘ったんだが、結局、数には勝てなかった。それから八年、ネマ・ヴィーア島の収容所で痛めつけられ、やっと大陸北側のケイプに移されるんじゃ」
山羊髭は首と肩《かた》の関節を鳴らし、曲がりかけた腰《こし》も伸《の》ばした。
「ケイプは年寄りにはいいところだと聞いたよ。北端《ほくたん》の割には寒さも緩《ゆる》やかで、労働もそう過酷《かこく》でないって話じゃ。ロンガルバルの河口近くの肥沃《ひよく》な土地で、ゆっくりと作物が育てられるとか。負けて戦えなくなった兵士には、天国のような場所かもしれんの」
「テリーヌたんもケイプに住みたいでしゅかー。もちろん隊長も|一緒《いっしょ》でしゅよー」
「……みんな合わせると二千人って、戦争で死んだってことなのか……」
この薄紅色《うすべにいろ》の服を着た集団は、実際に戦場の只中《ただなか》にいたのだ。それもおれの祖父母の時代ではなく、ほんの数年前の話だ。命令されて、死にたくないから戦って、目の前でどんどん命が消えていく。その中のいくつもが仲間のもので、いくつもが敵の兵士のものだ。そして確実にいくつかは、彼らが奪《うば》ってしまった命だ。殺したんだ。同じ人間を。
考えるだけで気分が悪くなり、|浮《う》かんだ光景を脳裏《のうり》から追い払《はら》う。深刻なドキュメソタリーなんて見るものじゃない。知らなければ想像せずに済んだのに。
「……渋谷」
「ああ、なに」
「今にも吐《は》きそうな顔してるよ。外に出よう、風に当たったほうがいい」
「そうかも……でも、ああそうだ、フリン! フリンさんどうする!? 目未亡人ったってまだまだ若いんだし、こんな男の|巣窟《そうくつ》に女性一人残しておけないだろ」
フリン・ギルビットのことを考えると、胃にかかった不快感が少し和《やわ》らいだ。何故《なぜ》だろう、彼女はおれたちを散々な目に遭《あ》わせ、それを餌《えさ》に大シマロンと取引しようとしているのに。
「なあフリンさん、もうトイレ終わったんだから。積もる話もあるだろうけど、それはまた明日に回してさ、寒いけど|寝袋《ねぶくろ》でどうにか過ごそうぜ」
彼女自身もそう考えていたのか、短く適当に暇を告げて、出口に向かって歩こうとした。
「そんな、お嬢さんを寒いとこで過ごさせるわけにゃいかねえ!」
「そうだそうだ、お嬢さん是非《ぜひ》とも部屋ん中にいてくだせえよ」
「俺等と一緒にいてくださいよ」
「……え」
フリン・ギルビットは口|籠《ご》もり、らしくなく視線を宙に彷徨《さまよ》わせた。|優柔不断《ゆうじゅうふだん》な女ではないのに、暖かい室内に未練があるのか、迷うような仕草を見せる。
「あんたらなッ」
おれは彼女の腕を掴《つか》み、強引に戸口まで引っ張った。開けっ放しのドアの先を向いているので、誰を相手に言っているのか自分でも判《わか》らない。
「お嬢さんと昔の学生達って、文学作品みたいでちょっと憧《あこが》れるけど。だからって現在は人妻と囚人、美女と野獣《やじゅう》に他ならねぇの! 妙齢《みょうれい》のご婦人を、こんな野郎どもばっかの溜《た》まり場に残して、ハイそうですかサヨーナラって立ち去れないでしょ」
「なんだ新参者が事情も知らずに」
「お嬢さんは俺等の心の恋人《こいびと》なんだ、ガキにゃ口出しされたくねーや!」
「あのなっ」
たましい勇敢《ゆうかん》な羊が牙《きば》の代わりに前歯を見せた。へなちょこにも勇気、モテない男子にも五分の魂だ。一番太い血管を熱が駆《か》け上り、顔が急激に熱くなった。
「心の恋人とか言ってっから困るんじゃないか。いっそお袋《ふくろ》ぐらいまでになっちゃってりゃ、こっちも安心して見てられるんだよッ。心の段階で我慢《がまん》できるって保証が、今のあんたらのどこにある!?」
数秒間だけ静まり返る室内。
「……ってなんだそらぁ、俺等がお嬢さんに手ェ出すとでも言いてえのかよぉウラぁ」
「ってかそもそも才メェ、お嬢さんの何なのさー」
「おれは」
作業用ズボンの尻《しり》ポケットには、灯《あか》りにきらめくノーマン・ギルビットの覆面《ふくめん》があった。それを印籠《いんろう》がわりに掲《かか》げて、夫代理と明言すればいい。|誰《だれ》もが納得《なっとく》する正しい理由だ。恐《おそ》らくフリン・ギルビット本人も。
切り札に指をかけようとして、|一瞬《いっしゅん》の迷いの後に|急遽《きゅうきょ》やめる。
細い手首を掴んでいるのは、銀の仮面の男じゃない。
「……旅の仲間だろ」
「おっと」
村田が唇《くちびる》を曲げて|呟《つぶや》いた。
「ファンタジーらしくなって参りましたよ」
「だいたいなぁフリンさん、あんたもあんただ! いくら往時のお嬢《じょう》さんだからって、いい年してチヤホヤされすぎ! マイク渡《わた》して下からスモーク焚《た》いたら、調子に乗って歌いそうな顔してたぞ!?」
「いい年してってなによ、失礼ねっ」
元平原組の連中も、フリンの二の腕を掴んでいる。結構純情な奴等《やつら》なのかもしれない。
「とまあ、こうなったら、例によって大岡裁《おおおかさば》きですか。愛する者を引っ張り合って、勝った方が本当の母親であーる! という」
村田、それ前にも体験した気がする。おそらく午後四時台の再放送だろう。
「私はこの二人と外で休みます」
フリンが囚人の手を払い、おれたちと一緒に戸口を潜った、背後ではそんなーという失望の声。気の毒だけど仕方がない。
「いいのか? こっちについて来ちゃって」
「あのね大佐《たいさ》。私はあなたを失うわけにはいかないのよ。大シマロンとの取引を全うするためには、ここで逃《に》げられるわけにはいかないの。二人きりで自由に寝《ね》させたりして、翌朝には影も形もなかったらもう……ああっ死んでも死にきれない」
考えただけで|不愉快《ふゆかい》になってしまったのか、彼女はぶるっと肩を震《ふる》わせた。風を|遮《さえぎ》る木箱の陰《かげ》に場所を見つけ、おれたちは荷物をそこに移し始めた。空はもう充分《じゅうぶん》に暗く、頭上には星も瞬《またた》いている。
真の意味での旅の仲間、おれのデジアナGショックに尋《たず》ねると、二十四時間制では現在十九時。夕食各自自由のフリープランな船旅のため、店で仕入れておいた携帯食を黙ってかじる。
Tぞうは別段不満もなさそうに、乾燥《かんそう》飼料を丁寧《ていねい》に咀嚼《そしゃく》していた。
羊五頭分もした寝袋にくるまって、フリンがさっさと寝てしまうと、おれと村田は特にすることもなく、ぼんやりと夜の光景を眺《なが》めていた。
黒い川面に映った船の灯《ひ》は、|脇《わき》に寄り添《そ》って揺《ゆ》れている。
「村田」
「んー?」
汚れた黄色のシュラフから、顔だけ出している。
「……なんでおれたちだけ二人用の寝袋なんですかね……」
「さあ。雑魚寝《ざこね》でいいと判断されたんじゃないにょほー」
「雑魚寝とは微妙《びみょう》に違《ちが》うような……なあ、寝るなっ寝たらおれが淋《さび》しいじゃないか。なあ村田、ムラケンくーん。東京マジックロビンソン!」
その名前で呼んでも、寝惚《ねぼ》け鼻歌でオリーブの首飾《くびかざ》りを歌ってくれただけだった。
「お前さぁ、なんで|煙《けむり》の出る|瓶《びん》なんか持ってたの? 子供の頃《ころ》、スパイセットとか常備してたタイプ?」
「貰ったんだよ」
「どこで、いつ、誰に。まさかアマゾネスシートベルトから?」
「ちがう。フリンさんち。最初のばん。真っ暗でネズミがいたとき。|蝋燭《ろうそく》と一緒にもらったんだよ。背が高くてかっこいい人に。なんか渋谷の知り合いだって言ってたよ」
「背が高くてかっこいいおれの知り合い!?」
コンラッドだ!
反射的に身を起こす。
一瞬でおれの|脳《のう》味噌《みそ》はスパークし、背骨の付近を言い知れぬ何かが駆け上った。胸の支《つか》えがすっと取れて、たちまち呼吸が楽になる。世界中の新鮮《しんせん》な空気を、いくらでも吸えるような気分になる。
ウェラー卿《きょう》コンラートだ。
生きてたんだ、生きてたんだ、生きててくれたんだ! よかった、やっぱり生きていたんだ。おれを残して死ぬはずがない。
鼻の周りと目頭《めがしら》が温かくなり、むず痒《がゆ》さが顎《あご》まで伝っていった。うとうとしている友人の肩《かた》を掴んで、力の限り揺さぶった。
「話せ、村田っ、詳《くわ》しく話せっ! な、|凄《すご》い|剣豪《けんごう》そうな人だろ? めちゃめちゃ|爽《さわ》やかで女にモテそうで、なんかこう|恋愛《れんあい》映画では理解ある男前な脇役《わきやく》やりそうな人だろ? なあ、そうだろ!? 誰に似てた? 有名人では誰に似てた?」
「うーんそんなよく見てないよー、蝋燭|薄《うす》暗かったしネズミは怖《こわ》いし初めての夜でガチガチに|緊張《きんちょう》していたしー……ベルカンプ、とか」
突《つ》っ込み入れるのも忘れがちだ。
「野球選手で言ってくれよ」
「……うー……ひじょーにこう、掛布《かけふ》……とか」
村田、お前って本当は松村邦洋《まつむらくにひろ》?
でもコンラッド。
|睡魔《すいま》に抗《あらが》えず落ちてゆく村田健がサッカー用語で発する寝言を聞きながら、おれは真上の星を眺める。
だったらどうして、今ここに来てくれないんだ。