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今日からマ王7-9
日期:2018-04-29 22:25  点击:349
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 岸に近づくにつれ船足が下がり、角度も滑《なめ》らかに|変更《へんこう》されていく。最後には見事な縦列|駐船《ちゅうせん》で、理想の位置にピタリとつける。
 舵手《だしゅ》は満足げに額の|汗《あせ》を拭《ぬぐ》い、乗員からは惜《お》しみない拍手《はくしゅ》が送られた。
 けれどおれは、ほんの数分前にとりつかれた考えで頭の中がパニックだった。急停船されてつんのめって川に落ちても、気付かなかったに違《ちが》いない。フリンと取引した大シマロンは、箱と鍵の両方が欲しかった。「風の終わり」は手に入れたが、|肝心《かんじん》の「鍵」は蓋《ふた》を開けることを|拒否《きょひ》するかもしれない。そこでウィンコットの毒を使って、命令者に絶対服従の傀儡《かいらい》を作ることにした。大シマロン兵が装備すると思われる火器、|矢尻《やじり》に塗《ぬ》られた謎《なぞ》の毒……そしてフリンはウィンコットの末裔を捜《さが》していた。全てが同時期に並行して進んでいる。考えれば考えるほど一致《いっち》する。
 大シマロンの兵士は、国内に存在する密通者の手引きで、眞魔国に侵入した。おれとコンラッドとギュンターのうち、誰かを狙《ねら》って|襲撃《しゅうげき》したんだ。
 けれど、誰を? 開けてはならないパンドラの箱からあらゆる|災厄《さいやく》を|誘《さそ》い出す、鍵というのは一体誰なんだろう。もしもギュンターだとしたら、彼はまだ国内に残っている。恐《おそ》らく駆《か》けつけた仲間によって、保護され治療《ちりょう》されているはずだ。ではコンラッドだとしたら……。
「渋谷、それなに?」
 ずっと隣《となり》に立っていたのか、すぐ|脇《わき》で村田が|訊《き》いてきた。おれは慌《あわ》てて鼻をこすり、素知らぬ顔で胸からぺーパーナイフを引き抜《ぬ》いた。
「ん? あ、ああこれ、カッパから買ったんだよ」
「カッパから? じゃあやっぱりキュウリで」
「この手触《てざわ》りは|象牙《ぞうげ》かも。日本じゃ希少価値の高級品なのに、ここじゃ羊の餌《えさ》より安いんだ」
「これ人骨じゃないの? ていうか渋……クルーソー大佐《たいさ》、鼻水でてるよ。声もちょっといつもより変だし。調子に乗って寒風に当たりすぎて、カゼとか引いたんじゃないの」
「げ、マジ!?」
 村田が遠目で言ったとおり、岸には武装兵が集結していた。人数でいったら一学年分くらいはいるだろうか。二百人はゆうにいる。全員|淡《あわ》い水色の|戦闘《せんとう》服姿で、胸と臑《すね》には革《かわ》の防具を巻き、腰《こし》には剣《けん》を帯びている。煙草《たばこ》を吸ったり地面にネズミの絵を描《えが》いたり、割とリラックスして待っているようだ。近代国家のミリタリー姿しか見たことのない友人が、RPG的ファンタジー軍隊をどう思うだろうか。
「すげーやあれ。コスプレ? なんかの時代祭? 中世文化保存会の皆《みな》さんも大変だなー」
 保存会ときましたか。
 だが、たとえ銃《じゅう》やマシンガンを所持していなくとも、長い剣でも充分危ない。日本なら銃刀法|違反《いはん》だし、千代田区なら歩きたばこ|違反《いはん》で|罰金《ばっきん》だろう。軽く二百を超《こ》す戦力は、飛び道具なしでも充分な|脅威《きょうい》だ。おれたち三人はなるべく隅《すみ》っこで息を潜《ひそ》め、再び船が出航するのを待つことにした。
 乗船時にフリンがもめていた経理担当者が、隊長格の男と言い合っている。数分後に話がまとまって、小柄《こがら》な男はひょいと飛んで船に戻《もど》った。
「あいつ今、札束|貰《もら》ってなかったか?」
「え、でもおかしいわね……戦争が始まると使えるか判らないから、小シマロン紙幣《しへい》じゃ受け取れないって言ってたのに」
 フリンの思案《しあん》げな顔に、意外と真面目に村田が応えた。
「恐らく何かが売れたんだろうな。向こうが欲しがっていた、生きのいい何かが」
「鮮魚《せんぎょ》とか載《の》ってたっけかな、ロビンソン。お前の釣《つ》ったの長靴《ながぐつ》じゃなかったっけー?」
「……嫌《いや》な予感がするよ。魚だったらいいんだけど」
 これまでのお笑いモードが嘘《うそ》みたいに、村田が暗く厳しい表情を見せる。
 淡い水色の戦闘服集団・チームパウダーブルーは、全員同じ床屋《とこや》の常連だ。というのも髭《ひげ》と髪《かみ》のカットの方法が、一糸乱れぬ統一スタイルだったからだ。二百人全員が|両脇《りょうわき》を刈《か》り上げたポニーテール、二百人全員がもみあげから細く繋《つな》がった、助っ人外人もしくはレスラーの刈り込みヒゲ。略して刈り上げポニーテール、もっと可愛《かわい》く略すと刈りポニ。決して刈り上げポメラニアンではない。
 あのナイジェル・ワイズ・マキシーン(絶対死なない)が百人単位でいるとなると、これはもうある種のユニフォームだろう。
「小シマロン兵のあのヒゲは国旗みたいなものよ。どこを歩いてもすぐ判る」
「あ、な、なーんだ。熱烈《ねつれつ》ファンクラブってわけじゃないんだね」
 岸から兵士が七、八人乗り込んできた。警備を強化するのかと思ったが、山脈隊長以下百余名の|囚人《しゅうじん》部屋を開き、一同を外に出している。口々に文句を言いながらも、武装兵には逆らえない。
「どういうこった!? ここはまだケイプじゃねーだろ」
「オレたちゃ楽園ケイプまで行くんじゃ! 無停船《ノンストップ》でヨロシクじゃー!」
「お外に出たら風邪《かぜ》ひいちゃうでしゅよー。テリーヌしゃんいつでも裸だから」
 頭から風邪ひくっていうけれど、髑髏《どくろ》もやっぱり寒いのだろうか。
「おい、船員以外は皆、確認《かくにん》しろ。|一般《いっぱん》人に|紛《まぎ》れている奴《やつ》がいるかもしれん」
 武装兵達は数少ない一般乗客まで検査し始めた。平原組かどこかから、おれたちの手配書が回っていないことを祈《いの》る。ところが名前や|本籍《ほんせき》地を訊くでもなく、兵士は人々の両掌《りょうてのひら》を広げさせている。フリンも村田もほとんどノーチェックだが。
「お前は降りろ」
「はあ!? なんで!?」
 何故かおれだけ、両手を見せた検査係に服を掴《つか》まれて乗降口まで引きずられる。グラサンと海賊《かいぞく》風バンダナで目も髪もきっちり隠《かく》していたので、魔族とばれたとは考えにくい。フリンが兵士に食ってかかり、村田も相づちを打っている。
「ちょっと、クルーソーは私の連れよーここで降ろされたら本気で困るわ」
「こいつの指を見ろ、|凄《すご》い剣ダコだ。これが商人や学者の手か? 鍬《くわ》を持つ農民の手とも違《ちが》う。ちょっと特殊な武器かもしれんが、こいつは絶対に戦闘員だ。囚人と身元の知れない戦闘員は全員サラレギー様の元に突《つ》き出すことになっている。気の毒だが|一緒《いっしょ》の旅は|諦《あきら》めるんだな」
「なによ気の毒で済むなら軍隊いらないわよっ!」
 フリンが段々おばちゃんに……。ていうか戦闘員戦闘員って、おれは悪の組織の下《した》っ端《ぱ》か。
「違うって、これ剣ダコじゃねーって! これはバットだこ。素振《すぶ》りしすぎ練習熱心でこうなっちゃったんだって!」
 最近リードに迷いがでてきて、バッティングを売りにしようとしていたのだ。検査係が怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げる。
「バットというのは何だ?」
「えーと、棒。両手で持って、こうカキーンと打つ。因《ちな》みに木製と金属製とあり」
「棍棒《こんぼう》で叩《たた》くのか。非常に原始的で|残酷《ざんこく》な武器だな!」
「違うって叩くのはボールだって。勝手に|残虐《ざんぎゃく》映像を……こら離《はな》せ、話を、話を聞けーっ……うわって」
 上手投げ。両手両足、頭まで振り回して抵抗したせいか、相手はいきなり手を離した。爪先が空振りして宙に浮《う》き、おれは|甲板《かんぱん》の端《はし》から投げだされた。
「ちょっとおい待て、待てってこの寒空に寒中水泳ですかおれ、ってうぷ、おっぷ」
 顔を洗うべきかどうかと、悩《なや》んだ自分が懐《なつ》かしい。まったりとした緑色の水中で、おれは必殺の犬かき大会を繰《く》り広げた。このくそ重い革コートさえ着ていなければ、クロールで|颯爽《さっそう》と泳げたのに。|冗談《じょうだん》じゃない、今、村田と離れるわけにはいかない。あいつはこの世界のことを何一つ判っていないし、他《ほか》に守れる奴もいないんだ。それにフリンのことだって……。
 おれを信用してすべて話してくれたのに、|半端《はんぱ》な形じゃ別れられないだろ!
 乗降板はさっさと片づけられ、早くも船は岸を離れようとしている。フリン・ギルビットと村田を乗せたままで。おれと囚人達を見知らぬ土地に残して。平原組同窓生集団は、お嬢《じょう》さんとの別れを惜しんでいた。だが一方のお嬢さんはというと。
「フリン、嘘《うそ》だろッ!?」
「その人がいないと意味がないのよ! 私の人生賭けたんだからっ!」
 事情を知らない連中が聞けば、ある意味愛の告白ともとれる言葉を叫《さけ》んで、革コートの裾《すそ》をたくし上げ、助走をつけてデッキから飛び降りる。|派手《はで》な|水飛沫《みずしぶき》を立てて、おれの目の前に落ちてきた。
「なっ……なんてバカなこと……っぷ」
「……ないの」
「あー? なに」
「泳げないのよーっ!」
 考えるということをしないのか!? おれは藻掻《もが》くフリンの首を掴んで、どうにか身体《からだ》をくっつけた。|溺《おぼ》れる人間が暴れたら、助ける側まで道連れアウトだ。幸いにも彼女は冷静で、おれという救命具に|素直《すなお》に身を任せる。流れが緩《ゆる》やかで本当に良かった。どうにか顔を出していられるし、水を飲む心配もほとんど……。
「ひどいよー僕だけ置いてくなよー」
「ンモっ!?」
 信じられない。村田までもが船から飛び降りると、後追いみたいに羊のTぞうもダイブする。恋人《こいびと》? などとざわついていた周囲は、三角関係? 動物愛護協会? とますます色めき立つ。みんな結構メロドラマ好きらしい。ムラケンは泳げると知っているし、羊は見るからに浮きそうだから、岸に着くまでは心配しなくてもいい。問題は自分とフリンだ。
 もう足がつくだろう、ついてくれと願いながら、二人分の身体を必死で運ぶ。|畜生《ちくしょう》、なんでこんなに進まないんだと諦めそうになった時に、助っ人が強い力で、一気に岸まで引っ張ってくれた。
 その腕《うで》が|誰《だれ》かは判らなかったが、誰でないのかはすぐに判った。
 コンラッドじゃない。
 また、生きてる証拠《しょうこ》を掴《つか》み損ねた。
 汚《きたな》い水が滴《したた》る身体で、支え合いながら歩いた。助っ人さんが手を貸してくれたので、少しだけ足取りが軽くなる。おれは息を切らしながら、まとわりつくフリンの髪を払《はら》いのける。
「なんでそんな無茶すんだよ!? あっちに残ってたほうが圧倒《あっとう》的に安全だろっ」
「だってクルーソー大佐が……だってあなた、船に戻れそうになかったでしょ! 私だけで大シマロンに行ってどうするのよ。きちんと説明したでしょう!?」
「……ロビンソンがいるじゃん」
「まったくもう! あなたって本当に頭の回転が鈍《にぶ》いわね。ロビンソンさんじゃだめなの、あなたが必要なの。クルーソー大佐じゃなきゃだめな……」
「クルクルクルクル言うなって! ほんとはクルーソーじゃねーんだから!」
 |膝《ひざ》まで水に浸《つ》かったままだ。右を向けばそこに、岸があるのに。自分の髪を掴んでいた指を解き、フリンは小さな声で訊《き》いた。薄《うす》い緑の瞳《ひとみ》が不安に揺《ゆ》れる。
「……だれ?」
「誰、って」
「あーあ、ついにバレちゃったかあ」
 先に泳ぎ着いた身軽な村田が、おれの服を引っ張った。二人ともずるずると陸地に上がる。久々の地面の感触《かんしょく》に、踵《かかと》と爪先が喜びで震《ふる》えた。Tぞうが全身で感情を表現しようと、濡《ぬ》れ毛玉の身体をおれに擦《こす》りつける。なんだか興奮しているようだ。
「ンモンモンモンモンーモっ……ンモシカシテーェェェ!」
 感きわまった羊声。|滅多《めった》に聞けるものではない。
「ンモシカシテーェェェェ!」パート2。
 友人はコンタクトに度がないせいで、両目を細めておれを見ている。
「どうする渋谷、もう教えちゃう? それとも新しいハッタリが必要なら、僕が今すぐにでも考えてやるぞ? ハッタリだったら僕に任せろ。ハッタリ界のサラブレッドだからね。なにせ父方の|曾祖父《そうそふ》の母の兄嫁《あによめ》は、伊賀《いが》で|忍者《にんじゃ》やってたらしいでござるよニンニン」
「ていうか村田、それ血ィ繋《つな》がってねーじゃん」
「シブヤって名前なの、クルーソー大佐。ロビンソンさんはムラタって名前なの?」
 わざとらしい|咳払《せきばら》いが割って入る。
「|皆様《みなさま》、オレヘの感謝の言葉は無しですかー」
 水難救助の恩人は、オレンジの髪《かみ》を緩くまとめ、腰《こし》に両手を当てて立っていた。ふざけたウサギみたいに肩を竦《すく》める。
 彼の名前はグリエ・ヨザック。軽いけれども腕が立ち、無礼だけれども憎《にく》めない。彼もまた魔族と人間のハーフで、コンラッドの友人で元部下だった。魔剣モルギフの騒動時に世話になったが、それ以降も主に国外|潜伏《せんぷく》の任務が多く、なかなか里帰りできないらしい。
「ヨザック……」
「なんスか|坊《ぼっ》ちゃん、へこたれた顔しちゃって。そういうときは迷わずヤギ乳よん。滋養《じよう》強壮《きょうそう》、体力回復、精力|絶倫《ぜつりん》」
「ヤギち……ちってええー!? あっあっあの店の、ギルビット港で昼飯配ってた女将《おかみ》さん!?」
「当たりー。今回も気付いてくれないから、ヨザちょっと拗《す》ねて泣いちゃった」
 と、過度《かど》に仕事熱心なため、ときには身も心も女性になる。しかし、あくまでそれは「仕事」であって「趣味《しゅみ》」でやっているわけではない。本当かよ。
「うわ、また旅行中の恥《は》ずかしい出来事をあそこでしっかり見てたんだな」
 古いジャズレコードで聞けそうな|嗄《しゃが》れ声、太く安定した首と、肩から背中への|絶妙《ぜつみょう》なライン。服の上からでも断言できる惚《ほ》れ惚れするような外野手体型。おれは布|越《ご》しに彼の身体を叩きまくり、変わっていないことで胸を撫《な》で下ろした。着ている薄紅色《うすべにいろ》の繋ぎは、確か|囚人《しゅうじん》の制服だったはずだ。ということは今回は、囚人に変装して紛《まぎ》れ込んでいたわけか。まったくすごい|特殊《とくしゅ》技能だ。
「あそこで見つけた時は|驚《おどろ》きましたよー。かなり危険な人間の土地を、坊ちゃんが護衛も連れず歩いてるのが信じらんなくてね。わざわざ|本国の親分《グウェンダル》に、白鳩《しろはと》飛べ飛べ伝書便で問い合わせちまいましたよ」
「白鳩……因《ちな》みに鳩は、どう鳴くの?」
「どぐぅ」
「……土偶《どぐう》かー……」
「そんなことより」
 名前の件で|呆然《ぼうぜん》としているフリンと、情熱的に喜びまくっているTぞうを顎《あご》で指す。
「坊ちゃんも隅《すみ》におけませんねぇ。ちょっとお会いしないうちに、女から|家畜《かちく》までたらし込んじゃって。僧いわぁーアタシとのことはどうしてくれんの? |所詮《しょせん》遊びだったのねっ」
 男性形態でジャジーに言い寄られても、鳥肌《とりはだ》が三割増すばかりだ。おれは笑えない冗談にげんなりしながらも、三者の|紹介《しょうかい》を試みた。
「村田、フリン、彼はグリエ・ヨザックさん。友達の友達で|眞魔《しんま》国の……えーっと前に違《ちが》う国で知り合ったんだけど。任務のためなら女装もこなすという、とてもマルチな軍人さんだ」
「こんちわオネエさん。その節はどうも」
「オネエって……ていうか、どうして知り合い!?」
「|蝋燭《ろうそく》と煙瓶《けむびん》くれた人だよ。フリンさんのお|屋敷《やしき》でね」
「え……」
 視界が|一瞬《いっしゅん》ぐらりと揺らぎ、軽い|眩暈《めまい》に|襲《おそ》われた。川から上がったはずなのに、足下の地面が消えたようだ。
「……コンラッドじゃなかったのか」
「うん? 確かに彼だったよ。暗かったけど声は覚えてる」
 失望感と、|奇妙《きみょう》な安堵感《あんどかん》が押し寄せてくる。
 心のどこかでもう一人のおれが、認めてしまえと囁《ささや》いた。ウェラー卿《きょう》は死んだと認めてしまえ。受け入れて盛大に泣けばいい。そのほうが楽になる。無いに等しい希望にすがるよりも、辛《つら》い事実を受け止めて、思う存分|涙《なみだ》を流すほうがいい。そのほうがこの先のトラブルを、自分達だけに集中して乗り越《こ》えられる。だが……。
 おれは|掌《てのひら》を目一杯《いっぱい》広げて、額から顎までを覆《おお》い隠《ひく》した。汚《よご》れた水がしみる眼を、ぎゅっと瞑《つぶ》って眩暈が治まるのを待った。
 泣けるか? ここで。
 村田は相変わらず事態の重さに気付いていないし、フリン・ギルビットは相次ぐ計算外の出来事で、心身共に疲弊《ひへい》している。現にあれだけ堂々としていた貴婦人が、今では惨《みじ》めな濡れ鼠《ねずみ》だ。ヨザックという頼れる助っ人は現れたけど、彼が一瞬で何もかも理解してくれるわけではない。おれたちの事情を説明するには、かなりの時間が必要だ。
 一本一本|剥《は》がすように、顔から指を外していった。右手が胸まで下りたときには、視神経の奥の重い疼《うず》きも、|厄介《やっかい》な眩暈も治まっていた。音量ボタンを押し続けるみたいに、周囲の音が徐々《じょじょ》に戻《もど》ってくる。今頃になってフリンが頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「私の館《やかた》に侵入《しんにゅう》してたの!? いやーどうしようっ盗賊《とうぞく》じゃないのっ」
「乳吊《ちちつ》りは盗《ぬす》んでないんでご安心を。実をいうと大きさが合わなかったのよねえ。あ、これは自前のとっておきなんだけど」
 語尾《ごび》にハートマークでも付けそうな口調で、ヨザックは襟《えり》を開いてフリンに胸を見せた。繊細《せんさい》なデザインの下着使用中……に、任務用、任務用。とはいえ立派なセクハラだ。
「あなたのお友達には変態が多いのねっ」
「そんなのあんたに関係ないだろ。ヨザックはちょっとアレだ、特殊な例だよ。他に|誰《だれ》が」
「アーダルベルトとかって男も。それにナイジェル・ワイズ・マキシーンもっ」
 どちらも友人とは言い難《がた》い。が、もう他の誰も紹介できない気がしてきた。
「ダンナの友人関係が気にくわない、若い奥さんみたいだよね」
「またロビンソンも、誤解を生むような茶々を入れんなよッ」
 ずっと前方では囚人達が、脅《おど》され歩かされていた。武装小シマロン兵を数えれば三百人以上の大集団だから、おれたちのいる|最後尾《さいこうび》が出発するまで多少のタイムラグがある。すぐ近くにいた見張りが剣を抜《ぬ》き、五人がかりでおれたちを追い詰《つ》める。
「正直いってオレくらいの優男《やさおとこ》でも、まあ五人くらいなら|突破《とっぱ》できないこともないけどね。どうしましょうか、平和主義の坊ちゃん。何でも言うことききますよ?」
 優男は関係ないとしても、ヨザックの腕は心強い。しかし如何《いかん》せんこちらには、彼しか喧嘩《けんか》上等がいないのだ。他に戦力になりそうなのは……羊の皮を被《かぶ》った狼《おおかみ》か。
 横目で土手の上を盗み見る。指揮宮らしき数人は、|頑丈《がんじょう》そうな馬に乗っていた。
「あの馬をいただくには、どうしたらいいかな……」
「うーん、やっぱり馬刺《ばさし》かなあ」
 だから村田、食用じゃなくて。
「一体どこに連れて行くつもりなのかしら……ケイプの|施設《しせつ》じゃなかったの?」
 事情通らしくヨザックが否定する。
「ああ、あそこは二年前に閉鎖《へいさ》されたぜ。端《はな》っから行き先が違ったってことさ」
 囚人……というか戦時中に敵兵だった捕虜《ほりょ》を移送し、何をさせるつもりだろう。

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