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午後をずっと歩き通し、長い行進の後に辿《たど》り着いたのは、低い柵《さく》に囲まれた円形の施設だった。曇っているので太陽の位置は見えないが、時刻は夕方に近づいている。
入り口|脇《わき》の歌碑《かひ》らしき石には、かなり角張った難しい文字で短い詩が刻まれていた。
シマロンやああシマロンやシマロンや。
……芭蕉《ばしょう》も遠くまで来たもんだ。
ヴァン・ダー・ヴィーアの闘技場をスタジアムとすると、ここはファームの練習場くらいだ。面積的にはほとんど変わらないのだが、設備にかけている手間と金に大きな差がある。衆人《しゅうじん》環視《かんし》のスタジアムと違って、客席もなければゲートもない。敷地内は殺伐としたもので、乾燥して|砂埃《すなぼこり》の舞《ま》うだだっ広いグラウンドだけだった。
表面に撒《ま》かれた粒《つぶ》の細かい土をどけると、すぐに硬《かた》い岩盤《がんばん》が姿を現した。おれは踵《かかと》で蹴《け》ってみてから、草アスリートとしての感想を言った。
「質悪いね、ほとんど岩だよ。こんな場所でスライディングの練習したら、|恐《おそ》らく腹まで|擦《す》りむいちゃう」
柵の隙聞《すきま》には見物客が鈴《すず》なりだ。よほど|面白《おもしろ》いイベントでもあるのだろうか。|決闘《けっとう》ショーとかさせられたらどうしよう。嫌《いや》な|記憶《きおく》が再生される。
|囚人《しゅうじん》全員が場内に追い立てられると、隙間から人々のどよめきが聞こえた。どうやらここの来場者達は、娯楽《ごらく》や癒《いや》しを求めているのではなく、今から目の前で起こることを、息を詰めて見守るつもりらしい。
おれたちを待ち受けているのは、決して楽しいことじゃないってわけだ。
|壁際《かべぎわ》には|僧衣《そうい》を着た男達が等間隔《とうかんかく》に立っていた。フードを|目深《まぶか》に引き下ろしているため、顔はまったく判《わか》らない。内外野すべてを見渡《みわた》す捕手の視力をもってしても、彼等の役目は不明だった。剣も|槍《やり》も弓も持たずに突《つ》っ立っている。何か意味があるのだろうか。
「……ひょっとして球場のマスコットかな。マロンちゃんとかロマンちゃんとか」
「全員それぞれ役どころがあるんだとしたら、とんだ大所帯マスコットファミリーだねえ」
|両腕《りょううで》を自分の身体《からだ》に回し、フリンが寒さに震《ふる》えていた。せっかく日に焼けた頬《ほお》も青ざめて、かなり調子が悪そうだ。覗《のぞ》き込むおれに気がついて、彼女は無理に|微笑《ほほえ》んだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「いや、無理もないって。おれもさっきから悪寒《おかん》がするし、頭が重くてたまんねーし」
実際、このグラウンドが見えてきた頃《ころ》から、頭の中で異様な音が響《ひび》いていた。耳鳴りともあの女性の声とも全く違う。脳の中で何万|匹《びき》もの|蜜蜂《みつばち》が、一斉《いっせい》に飛び回っているような|騒音《そうおん》だ。後頭部がひどく重く怠《だる》く、胸のむかつきが治まらない。
「風邪《かぜ》だよきっと。こんな場所早いとこ脱出《だっしゅつ》して、温かい風呂《ふろ》にでも入りたいよな」
「そうね」
寒空に薄《うす》い囚人服だとはいえ、必死で歩けば温かくなる。ところがおれたちは濡《ぬ》れた革《かわ》コートだ。風に当たれば当たるほど冷たく重くなり、体力と体温を同時に|奪《うば》った。|途中《とちゅう》で見かねたヨザックが三人の外套《がいとう》を脱《ぬ》がせたが、シャツどころか下着まで緑色に染まっていたので、たいした効果は得られなかった。特にフリンの場合は深刻だ。冷えは女性の大敵である。百人を超す集団の真ん中辺りにいるとはいえ、吹きつける風をうまく避けることはできない。
「話したっけ?」
少しでも熱を分け合おうと、おれたちは一歩ずつ近づいた。間に入ったTぞうは、乾《かわ》ききっていなくても温かい。
「うちの城の大浴場。これがまた凄いんだ、プライベートバスなのにね。プールかよ? 目ってくらいに広いんだわ。良かったら今度、湯治にきなよ。|綺麗《きれい》な人もいっぱいいるから、もしかしたら美人の湯とかいうやつかも。ちょうどあのおっさん、壁際のね、あれっくらいの距離《きょり》があるんだよ。ほら、何だかブツブツ|呟《つぶや》きだした奴《やつ》……」
|脳《のう》味噌《みそ》の中の蜜蜂が、急に活動を盛《さか》んにした。少しふらつく。
「どうしたの大佐《たいさ》、ねえ、どうし……」
「渋谷っ」
「い、平気……ちょっと耳鳴り、と頭痛。今年の風邪、最悪だなぁ。インフルエンザじゃないってのに」
ヨザックが|黙《だま》って肩《かた》を貸してくれた。こういうところはウェラー卿によく似ている。
囚人達の怒声《どせい》が大きくなり、逆に見物入は静まり返った。木製の簡単な扉《とびら》が開くと、黄色と薄い水色で彩《いろど》られた、紋章《もんしょう》つきの豪華《ごうか》な馬車が入ってきた。すぐ後に五、六人の騎兵《きへい》が続き、最後尾をゆく馬上には、覚えのある顔が見つかった。
小シマロン軍隊公式ヘアスタイルと公式ヒゲスタイル。痩《や》せて肉のない白い頬と、どちらかといえば細い一重《ひとえ》の目。そのせいか全体的な印象は、力強さや精悍《せいかん》さよりも鋭利《えいり》な凶器《きょうき》を思わせる。近づけば冷たい|匂《にお》いさえ感じそうな男は、無駄《むだ》のない動作で馬を降り、我々の正面へと位置を決めた。おれの決めたあだ名は刈《か》り上げポニーテール、可愛《かわい》く略すと刈りポニだ。
ナイジェル.ワイズ・マキシーン。見開きの君こと小シマロン王サラレギーの忠実な飼い犬(フリン・ギルビット談)。
「……マキシーン……」
低く呟くフリンの声にも、緊張《きんちょう》の色は隠《かく》せない。なるほどアーダルベルトの言葉どおり、何階から落ちても死なないらしい。彼はマントを翻《ひるがえ》し、敬礼しかける部下達を手で制した。
「そのままで」
三十そこそこながら早くも枯《か》れた渋《しぶ》い声で、故意に抑《おさ》えてゆっくりと、威圧感《いあつかん》を与《あた》える話し方をする。
「さて諸君。まずは喜ばしい事実を伝えよう」
おれの耳鳴りはいっそう酷くなる。
「知ってのとおり諸君等は、先の戦《いくさ》で我等小シマロンと敵対した者達だ。もしも魂が軍人のままならば、|虜囚《りょしゅう》と成り果てつつも生き延びる無惨《むざん》な我が身を、憂《うれ》えぬ日はないに違いない」
そんなことは余計なお世話だ。音と頭痛に苛《さいな》まれて、おれはかなり気が立っている。他の皆《みな》は大丈夫なのかと窺《うかが》っても、|誰《だれ》一人悩《なや》まされている様子はない。おれだけなのか?
「ところで諸君、労働に従事する日々とはいえ、現在この小シマロンを始め、シマロン両国を|宗主《そうしゅ》とする大陸全域が、|魔族《まぞく》との聖戦に向けて一丸となっていることはお聞き及《およ》びだろう。その一翼《いちよく》を担《にな》う諸君にも、非常に関《かか》わりのある朗報がある」
ヨザックの見事な上腕《じょうわん》二頭筋が動いて、肩に力が加わった。演説者のもったいぶった物言いに、おれの|膝《ひざ》が笑っていたらしい。
「長年|探索《たんさく》し続けていたものを、ついに小シマロン王サラレギー陛下がお手にされたのだ。これは神からの授《さず》かり物だ! 我等人間に大いなる力をもたらし、虎視《こし》眈々《たんたん》と大陸を……いや全世界を支配し暗黒時代に突き進まんとする、|邪悪《じゃあく》なる魔族を打ち倒《たお》す兵器である! 神の与え給《たも》うた聖なる力である! これで我等による覇権《はけん》は約束され、この世が悪に満ちることも避けられるだろう」
魔族が邪悪だと!? 虎視眈々と世界の支配を狙《ねら》っているだと!? まったくもって事実無根な言い立てに、おれは腹の底が熱くなった。だがここでまた短気を起こせば、自分だけではなく皆に害を及ぼすのは確実だ。そこで冷静さを保つために、頭痛と耳鳴りを|我慢《がまん》して空想羊を数えてみることにした。羊が一匹、羊が二匹……羊たちはしんと静まり返り、このばかげた演説に付き合っている。自分達を捕《と》らえ不当に扱《あつか》ってきた相手なのに、魔族が悪であると|訴《うった》える件には、囚人達でさえ|納得《なっとく》して聞き入っている。
何でみんなそんなことを信じるんだ!? あんたたちは|眞魔《しんま》国に行ったことがあるか。あんたたちは魔族の子供と話したことがあるか。あんたたちは魔族の王であるこのおれと、この世界の行く末について語り合ったことがあるか!?
「残念だ」
難しい顔をしていたムラケンが、|誰《だれ》にともなくぽつりと呟いた。
「非常に残念だ。だが仕方ない」
「村田?」
「……これが現実だよ、渋谷。平和とか平等って難しいね」
「なんだよお前、なにいきなり……」
友人は|穏《おだ》やかで、でも|諦《あきら》めに似た表情を浮《う》かべた。
「何度も何度も裏切られるよ。きっとこの先、何度もね。その度《たび》に血を流して傷付くんだ。寧《むし》ろ血を流すのは王じゃない。民はその数百倍、数万倍も打撃を受ける。それを避けられるか避けられないかは、神様とか運の問題よりも、国を統《す》べる者の力量にかかってくる」
彼はとても頭がいいから、国際問題とか社会情勢にも精通しているのだろう。地球上の難しいことを言い出されても、おれには意味のない空返事しかできない。でももし、何も知らないはずの村田健が、マキシーンの熱弁と聞き入る観衆の様子を見て、この世界のことを尋《たず》ねているのなら……おれは心を明かす必要がある。心を見透かすように、彼が問いかけた。
「渋谷、きっと何度も傷つくよ。死にたくなるほど辛《つら》いだろう。|慎重《しんちょう》に且《か》つ|大胆《だいたん》に立ち回らなければ、実際に命を落とすかもしれない。大切なものを幾《いく》つも失って|後悔《こうかい》でどうにかなってしまうかも。それを知ってもきみは、やるのかな。立ち止まらずにこのまま走り続けるのか?」
「……ああ」
いつの間にコンタクトを外したのか、振《ふ》り返る村田の両眼《りょうめ》は黒に戻《もど》っていた。なんだかすごく永い別れをしていた友人に、遠く離れた異国の地で会った気がした。
質問の答えは決まっている。村田も半ばそれを知っている。
「……そう、やるよ。辛いだろうけど」
失って傷ついて血を流して泣くだろうけど。
「やっぱりね」
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下を向いて、乾いた土を軽く蹴り、村田は小さく笑って顔を上げた。
「こうなると思った」
「いつからよ!? いつからこうなると思ってたっての? だいたい村田いきなり何を言い出すんだよ? つられてマジ返事しちゃったじゃん」
おれの動謡をよそに、村田は穏やかな口調で続けた。
「前にも一緒に旅をしたよね。乾いた土地を転々として。今と同じように誰かに追われてさ。渋谷は覚えてないだろうけど。ちょうどこんな曇った夕暮れだった。きみを連れた保護者はサボテンの|脇《わき》の岩に寄り掛《か》かって、雲に隠れた太陽の位置を目で探した。いつまでもタ陽が差さないので、彼はきみを目より高く持ち上げて、西の空に掲《かか》げてこう言ったんだ」
『太陽となりますように』
「……僕の保護者はそれを聞いて大喜びでね、逆の方を向いて僕を掲げて言った。『月となりますように』って。いやまったく、彼のアニメ好きには困りもので、あの時もきっと昔のガンダムの……」
「ちょちょちょちょっと待て待て、待てお前っ……それはいったいいつの話!? 年中訊いてて悪いけどさ、村田、お前って本当は何歳?」
初めて答えが返される。
「なに言ってんだか。十六歳だよ……村田健は」
「最後の一節が非常に気になるんで……」
マキシーンが一際声を高くして、おれの中の|蜜蜂《みつばち》が万単位で増殖《ぞうしょく》した。刈りポニの声に反応してるのか? それとも他に何か原因があるのか。
「|恐《おそ》らくね、恐らくだよ。あの辻坊主《つじぼうず》みたいに立ってる連中が、電波出してると思うんだ」
「で、電波?」
「じゃあ念波。それかテレパシーみたいなの。『どんと来い、超常現象』の上田教授によると、単なる小声の催眠《さいみん》術。催眠術くらいなら僕も、どんと来いだけど、魔術《まじゅつ》とかオカルトはからっきしなんだよなあ、実は」
ナイジェル・ワイズ・マキシーンによるゲティスバーグ。シマロンのシマロンによるシマロンのための政府。そして力。
「そこでこの良き日、永遠の覇権を約束する大いなるカ、『地の果て』が国家の財産となったこの素晴《すば》らしき日に、我等が慈悲《じひ》深き小シマロン国王サラレギー陛下は、諸君等に恩赦《おんしゃ》をお与えになる! もう|囚人《しゅうじん》である必要はないのだ! 敗残し、辱《はずかし》められてきた軍人としての魂も、これで名誉《めいよ》と尊厳を取り戻すことであろう」
「ギレン・ザビにでもなりたいのかな」
そういわれてもモデルが判《わか》らない。リンカーンとはどういう関係ですか。
恩赦と聞いて囚人達は活気づくが、逆に柵の向こうの見物人達は物悲しげな溜息《ためいき》をついた。
「だが、誇《ほこ》り高き戦士の魂が、そう容易に高められるとは思えない。しかし今まさに運のいいことに、頑健《がんけん》屈強《くっきょう》で勇気のある諸君等には、名誉回復に足るだけの要職がある。その中で存分に力を発揮して、我々の役に立って欲しい」
フリンが口元に手をやった。視線が馬車に吸い寄せられる。楽器のケースみたいな筒状《つつじょう》の物に続き、中から慎重に運び出されたのは、小型の棺桶《かんおけ》くらいの木箱だった。八方十二辺は錆《さ》びた鉄で縁取《ふちど》られ、|湿気《しっけ》を吸ってぼろぼろに|劣化《れっか》している。施《ほどこ》された|彫刻《ちょうこく》も見えないほどだ。
「……なんで箱が丶小シマロンに……」
「何? フリン、あんたが言ってた『風の終わり』ってあれのことなのか!?」
「違《ちが》うよ」
これまで聞いたこともないような深刻な口調で、村田が苦々しく言った。
「あれは『地の果て』だ。『風の終わり』じゃない。この世界には決して触《ふ》れてはいけないものが四つある……そのうちの二つは……もう人間の手に落ちていたのか……」
「ああ? でもおれが聞いた情報では、小さいほうじゃなくて大きいほうのシマロンがパンチラの箱を手に入れたって話だったぜ? なんでここにもう一個の箱があるのさ。あれってそんなに簡単に、あっさり手に入るもんなの?」
「簡単じゃないわ」
フリンは親指の爪《つめ》でも噛《か》みたそうな表情だ。
「いくつもの国が競い合って、もう何十年も前から探していたのよ。急に発見されたわけじゃないの。でもこう立て続けに人の手に落ちるなんて……箱と|鍵《かぎ》を持つのは大シマロンだけだと思っていたのに」
その言葉もマキシーンによってすぐにうち消された。
「幸いなことに箱を開く鍵も手に入った。あとは効果の絶大さを知らしめて、憎《にく》き魔族を恐怖のどん底に突《つ》き落とすだけだ。諸君、諸君等は勇気を持って大いなる力に|抵抗《ていこう》し、いかな|豪傑《ごうけつ》が挑《いど》もうとも、太刀打《たちう》ちできる|威力《いりょく》ではないことを、その身を以《もっ》て証明して欲しい。サラレギー様もお喜びになることだろう!」
「実験台にしようというの!? 私達を、お父様の育てた兵士達を!?」
悲鳴に近い|叫《さけ》び声は、囚人達を|突然《とつぜん》の不安に突き落とす。
そんな|残酷《ざんこく》で非人道的なこと、アニシナさん以外は言えるわけがない。しかしマキシーンという小シマロンの人間は、必要とあればどんなスイッチでも押すだろう。惨《むご》いことになるのが判っていても。特に苦しみ悩《なや》んだり、笑みを浮かべたりもせず、無感動なままの茶色い瞳《ひとみ》で。
騒然《そうぜん》とする生贄《いけにえ》達を前にして、ナイジェル・ワイズ・マキシーンは表情も変えずに言った。
「小シマロンのために、命を捧《ささ》げよ」
「ちょっと待てーっ!」
自分の短気な性格を治そうと、母親のすすめるハーブティーも飲んでみた。気が長くなるCDも聞いて寝《ね》たし、せめて|爆発《ばくはつ》する前に心の中でテンカウントする練習もした。ところが実際に理不尽《りふじん》な場面に出くわすと、わずか三秒も待てやしない。蜜蜂の居所が無性《むしょう》に悪いおれは、ヨザックの手を振り切って集団の最前列へと踏《ふ》み出した。
「いい加減にしろよ、マキシーンさん! |黙《だま》って聞いてりゃ自国勝手なことばかり言いやがって。それが本当に本物の最悪の『箱』なら、絶対触れちゃ|駄目《だめ》だって聞いてるはずだろ!?」
男は|僅《わず》かに首を傾《かたむ》けて、|奇妙《きみょう》な動物でも眺《なが》めるような目をした。
「どこかでお会いしたと思えば……ギルビット家の客人だな。その節は非常に世話になった。記念の傷もまだよくは癒えてい
まあそりゃ申し訳なかったけどさ。それとこれとは話が別だ。
「おや、隣《となり》にいるのはギルビットの奥方様か? いや、そんなはずはありませんな」
ぐっと言葉に詰《つ》まるフリンを後目《しりめ》に、刈《か》りポニは更《さら》に言葉を繋《つな》ぐ。特に勝ち誇った様子もなく、もちろん怒《いか》りに燃えてもいない。そういうところも|苛々《いらいら》する。
「フリン・ギルビットは女だてらに夫に成り代わり、領地を治めていた勝ち気な貴婦人だった。仮面の下に隠《かく》していたとはいえ、素顔ももっと気高く美しかったよ。今目の前にいる薄汚《うすぎたな》い小娘《こむすめ》が、カロリアの奥方様のはずがなかろう」
「……私が|誰《だれ》かは関係ないわ」
マキシーンの言葉とは裏腹に、おれには今が一番彼女らしく思えた。濡《ぬ》れて乱れたプラチナブロンドに、男物の質素な作業服。さらに緑色の川の水で、全身濡れて汚れていても。マスクを被《かぶ》って夫のふりをしていた時よりずっと、おれはフリン・ギルビットが好きだ。
「私がどう見えようとも気にしないわ! けどマキシーン、戦争にもなっていないのに、軽々しく箱を開けるのはやめて。しかも人間相手に試《ため》そうなんて、そんな恐ろしいこと許せない」
「小娘に何の関係がある? いや、百歩|譲《ゆず》ってお前がカロリアの奥方だとしても、小シマロンのやり方に異を申し立てる権利はなかろう。なにせギルビットは宗主国を差し置いて、大シマロンと密通した土地だからな」
「それに関しては言い訳はしない。よかれと思ってしたことだから。けれどあなたも箱の危険さを承知しているのなら、罪もない見物人までいる場所で、迂闊《うかつ》に試すのはおやめなさい!」
「では、いち村娘の忠告を聞き入れて、見物客は退けさせよう。だが|虜囚《りょしゅう》をこの任に就《つ》かせることに関しては、口出しされる筋合いはない。奴等《やつら》は我が国の囚人で、罪を犯《おか》すことで自らの権利を捨てたのだからな」
「あんたの国の人じゃないだろが!」
おれは性差別者じゃないけれど、女の子にばかり戦わせてちゃ駄目だ。
「本当にもう、あんたの国の|凶悪《きょうあく》さときたら、理解できなくてやんなっちゃったよ、マキシーン! いくら敵国の兵士だからって、終戦後にこんな目に遭《あ》わせるか!? あんたたちの考え方は|普通《ふつう》じゃないよ。人権とか人道的|扱《あつか》いとか全く無視かよ!? こんな実験付き合ってられないね! とっとと帰らせてもらおうじゃないのっ」
「帰らせろ?」
刈りポニが濃茶《こいちゃ》のヒゲの中央で、薄《うす》い唇《くちびる》を僅かに歪《ゆが》めた。笑ったのだ。
「黒い髪《かみ》と黒い瞳、稀有《けう》な存在といわれる双黒《そうこく》の魔族が、何故《なぜ》ここにいるのかは判らぬが……それでは名も知らぬ魔族の方、先だってのような魔術を使って、この私を止めてみるがいい。あの恐《おそ》ろしい力を発揮すれば、この腕《うで》の一本を引きちぎるくらい、さぞや|容易《たやす》いことだろう」
腕を。切り落とされて地面に落ちる左腕と、聞こえるはずのないウェラー卿《きょう》の謝罪の言葉。あの日あの|瞬間《しゅんかん》がついさっきのことみたいに蘇《よみがえ》り、全身の血液が流れを速くする。|鼓動《こどう》が倍になりそうだ。
ナイジェル・ワイズ・マキシーンは楽器ケースのような筒《つつ》を持ち、兵士の一人に中身を取り出させた。半分近くが焼け焦《こ》げて黒くなったものを、若い兵士が高々と掲《かか》げる。
「……このようにな」
おれは、それを、見た。