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今日からマ王7-11
日期:2018-04-29 22:26  点击:306
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「渋谷、駄目だ!」
「陛下?」
 堪《こら》えようのない悲鳴が喉《のど》を過ぎる。
 両手で耳を押さえ、目を見開いたまま転がった。湿気た服に|砂埃《すなぼこり》をつけながら、土の上で何度ものたうち回った。頭が割れる鼓膜《こまく》が破れる眼球が焦《こ》げる! 酸素を求めて必死で口を開けるが、絞り出される悲鳴で吸い込めない。
「どうしたの!? どうしたの大佐《たいさ》!?」
 抱《だ》き止めようとするフリンを突き飛ばす。ヨザックに背後から羽交《はが》い締《じ》めにされても、残された足で宙を蹴《け》る。離《はな》せ痛いんだ痛いんだ痛いんだ痛いんだ、頭が壊《こわ》れそうに痛いんだ!
「渋谷、落ち着け、落ち着くんだ。苦痛は魔術を使おうとしてるからだ。自分でコントロールするんだよ。できるだろ? ゆっくり怒りを静めて、成敗《せいばい》しようとする刃《は》を収めるんだ。ほら、呼吸も普通にできる。耳も聞こえるしどこも焼けてないだろ?」
 キーボードばっかり叩《たた》いているだろう村田の指が、おれの熱くなった頬に触れた。痛みと呼吸困難で涙がでる。
「ここでは|魔術《まじゅつ》を使えないよ。ただでさえ魔族に従う者がいないのに、その上あの並んでる坊《ぼう》さんたちが、この場所をシールドしてるんだ」
「……くっ」
「お前の好きなドーム球場みたいにね……何を泣き笑ってるんだよ」
「……お前が、成敗なんて、いうからさ……」
「だって渋谷、好きだろ成敗するの」
「村田、お前って、ほんとは何者?」
「なに言ってんだよ、中二中三と同じクラスだったろ」
 やっとまともに呼吸ができるようになった。自分一人では立てそうにないが、涎《よだれ》を拭《ふ》くくらいの|余裕《よゆう》はある。頭はまだ割れるように痛い。|眉間《みけん》に太い釘《くぎ》を刺《さ》し、それをハンマーで叩き込まれていくようだ。
「……くそ、痛ェ……っあれ、刈りポニの持ってるあれな」
「うん?」村田は視線を上げた。[#底本では改行されていない]
 おれは霞《かす》む目でマキシーンを睨《にら》み付ける。だが向こうは、たった一度の小さな魔術で、のたうち回っている小物など相手にしない。
「……あれはコンラッドの左腕だ」
 また脳に血液が集まりそうになり、顎《あご》を上げて|瀕死《ひんし》の金魚みたいに喘《あえ》いだ。息だ、息をしっかりしないと。
「なんだって!? 本国じゃ一体なにが起こってんだ!? うちの隊長の腕ってどういうこった!? 坊《ぼっ》ちゃんの見間違《みまちが》いじゃ……」
 ヨザックが後ろからおれを覗《のぞ》き込む。うまく答えてあげたいが、そんな能力は自分にない。
「間違いないよ……コンラッドの腕だ。おれが間違えるわけがない。あの腕に何度も守ってもらったんだ、あの腕で何度も……」
「待ってちょうだい、コンラッドってウェラー卿コンラートのこと? ダンヒーリー・ウェラーの息子でしょう? その人の腕が何故こんな所にあるの!? その|鍵《かぎ》こそウィンコットの毒で操《あやつ》れるように、大シマロンの弓兵が射たはずよ?」
「撃《う》たれたのはコンラッドじゃなくて、ギュンターだぞ……じゃああれはおれたち三人のうち、コンラッドを狙《ねら》った矢だったのか! けど……」
「まさか……腕を切り落としたら意味がないわ……まさかそんな……」
 その間にも、マキシーンと小シマロンの若い兵士は、朽ち果てそうな木製の箱の蓋《ふた》を持ち上げた。中がどうなっているのかは知らないが、それだけでは何も溢《あふ》れ出さなかった。
「やめて、その箱の鍵じゃないわ!」
「なんだと?」
「ある男の左腕は『風の終わり』の鍵よ! 『地の果て』の鍵はある血族の左眼と聞いた。異なる鍵で箱を開ければ、|誰《だれ》にも暴走を止められないわ」
「サラレギー様がお試しにならないと思うか。該当《がいとう》する者の左眼球は、すでにスヴェレラで試みたのだ。だが、男の顔が焼けただけで、何の変化も起こりはしなかった。つまり、この箱の鍵は左目ではないということ。ならば大シマロンが試そうというこちらの鍵を、先に試させていただくのみだ」
 村田が叫《さけ》んで走りだす。
「やめろ! 迂闊に奴[#「奴」に傍点]を解放したら取り返しがつかなくなる! この場にいる人間が死ぬだけじゃ済まない、下手したら国中、大陸中、箱の脅威《きょうい》でズタズタにされるぞっ!? 大陸中が混乱する、世界中に|影響《えいきょう》がでる! あれは人間がコントロールできるものじゃない、鍵を身体《からだ》に持つ者だけが、封《ふう》じた創主を再び治められるんだ!」
「ふん、魔術を封じられた魔族の副官か。私はサラレギー様の命を行うだけ。結果は誰にも判らんよ……それに……」
 服の色も、肘《ひじ》の形も、確かにコンラッドの腕だった。グラブを付けたあの腕を覚えてる。胸の前でボールをキャッチしたときの、肘の曲がり方を覚えてる。
 マキシーンは「鍵」を「箱」に横たえ、兵士に念入りに位置を確かめさせる。焼け焦げたコンラッドの腕を入れたままで、朽ちた木箱の蓋《ふた》を閉めた。厳密には鍵で「開けた」のではなく、内部のどこかにはめこんだのか?
「……世界中が混乱するのなら、斯程《かほど》楽しいことはあるまい」
 掛金《かけがね》の落ちる金属音に、フリンが|膝《ひざ》からくずおれた。
「あの鍵は……違うのよ……」
「座り込んでる|暇《ひま》はないぞ!」
 |脱力《だつりょく》した彼女の腕を取り、村田がおれとヨザックにも声をかける。
「早く! とにかくどこか少しでも|地盤《じばん》の固いところへ。今更《いまさら》遅《おそ》いかもしれないけど」
 Tぞうが顔をきっと南に向けて、鼻の上の和毛《にこげ》を逆立たせた。遠くから微《かす》かに地《じ》響《ひび》きが伝わり、あっという間に足の下まで奴等が来る。柵の外で見物していた客の中から、年老いた女の悲鳴が最初に聞こえた。
 それが、悪夢の始まりだった。
 すぐに叫びは複数になり、皆《みな》が行き場を失って逃《に》げ惑《まど》う。
 真《ま》っ直《す》ぐ南から北に向かって、地割れと|隆起《りゅうき》が不規則に起こっていた。法術士の作った|壁《かべ》など役に立たない。柵の内側へもすぐに地割れが広がった。震度《しんど》5くらいの揺《ゆ》れの中で、地割れに飲み込まれないよう逃げ回るのが|精一杯《せいいっぱい》だ。
「村田、フリン!」
 信じられない光景だ。何が起こっているのか判断する余裕もない。
 ヨザックに助けてもらいながら、おれは二人を必死で呼んだ。羊だけは人間より優《すぐ》れた|跳躍《ちょうやく》力を生かし、常にピタリとおれにくっついている。大きな地割れができるごとに、何入もが割れ目に吸い込まれた。兵士も|囚人《しゅうじん》も関係ない。見物客も同じことだ。
「村田っ!」
 飛び移ってきた友人の胸《むな》ぐらを掴《つか》み、震度に負けずに揺さぶった。
「お前が本当は何者かって、今は訊《き》いてる暇がないけどッ、なんとかしてこの地震を止めないと! なんとかして一人でも助けないとっ。お前ならどうすればいいか知ってんじゃないの!? どうしたら止まるか知ってんだろ!?」
「……残念ながら僕にも判らない」
 そんな。
「単なる法術士の起こした地震なら、そいつを|倒《たお》せば止まるけどね。でもこれは箱を開けた報《むく》いだ。『地の果て』に封じられた地の創主の一部が、勝手に暴れ回ってるんだ」
「でも何か方法が」
「正しい鍵を身体に宿す者が、正しい手順を踏《ふ》んで開けたなら……箱の中身を|制御《せいぎょ》できたかもしれない……あくまで、かもしれないって話だけどね」
「じゃあこのまま見てろってのか!?」
 村田は困ったようにおれの名前を口にした。
「このまま全員が飲み込まれるまで、指をくわえて見てろっていうのかよ!?」
「どうしようもないよ。やり過ごすしかないんだ。運が良ければこの場所に飽《あ》きて、他の土地に向かうだろう。運が良ければ暴れ回ることにも飽きて、休火山みたいに鎮静化《ちんせいか》するかもしれない。でも恐らくは半永久的に破壊を続ける。そうなったらこの大陸はもう|駄目《だめ》だ」
 すぐ足下《あしもと》に細かい罅《ひび》が走った。また隆起の少ない所まで引く。皆がそこを目指して逃げるので、安全な場所はすぐに人でいっぱいになる。
「……何かできることがあるはずなんだ。完全に止められなくてもいい、少しでも|被害《ひがい》を小さくできれば……」
 すぐ左でフリンが息をのみ、危険な場所へ走りだした、揺れて今にも|崩《くず》れそうな場所に、子供が四、五人取り残されている。おれも行こうと数歩踏みだすが、ヨザックに肩《かた》を掴まれた。
「陛下は駄目だ」
「なんでだよっ、また王様だからとかごたごた言うつもりか!? フリン一人じゃ助けられないだろ!? 周りの連中も誰も行かないだろッ!?」
「だからオレがちゃんとやってきますから、陛下と猊下《げいか》は安全な場所にいてください! でないとオレが三兄弟に殺されちまう」
 おれと村田を人々の中に残したまま、長い脚《あし》で何ヵ所もの地割れを飛び越して、彼は子供の元まで移動した。|両脇《りょうわき》に一人ずつ抱《かか》え、残る一人に背中を向ける。フリンは大きい子二人と手を繋《つな》ぎ、泣くのを宥《なだ》めて歩かせようとする。
 その時、一段と大きな揺れが来た。
 誰一人まともに立っていられずに、不安定な地面にしがみつく。
「危な……っ」
 ヨザックは何とか持ちこたえるが、子供二人の手を引いたフリン・ギルビットは体勢を崩した。すぐ後ろまで地割れが|迫《せま》っている。どうにかそこまで行き着こうと、細い罅を二回ほど飛び越えた。一か八かあと一歩進もうとした瞬間《しゅんかん》に、起きあがれない彼女と視線が絡《から》む。
 だめ。
 何が駄目なんだと訊きかける。フリンはもう一度おれに向かって、声にださずに来るなと言った。薄《うす》い緑《みどり》の瞳《ひとみ》を少し細めて、微かに首を横に振《ふ》る。その背後に土色の波が盛り上がり、乾いた大地が大きく裂《さ》けた。
「フリン!」
 さっきと同じ痛みに|襲《おそ》われる。両手と両膝をついて土に這《は》い、気を失いそうな激痛を引き留める。この痛みをあっさり逃《のが》してはいけない。これを手放せば彼女を救えない。
「渋谷、人間の土地で、しかもこんな法術士が|山程《やまほど》いる場所で、強い|魔術《まじゅつ》なんか無理だって」
「放っといてくれっ」
 知らず知らずみっともない悲鳴を上げている。他の避難《ひなん》者はぎょっとしておれから離《はな》れた。村田はおれの背中を軽くさすっている。本当に吐《は》きそうだ。
「危険すぎる、それが原因で亡《な》くなる人もいるんだ。絶対に許すわけには……」
「許すってなんだよ!?」
 真ん中辺りで手が止まった。
「許すってなんだよ、おれはお前が誰だかも知らないのに、許すとか許さないとかってどういうことだよ!? 自分の使いたいときに……今みたいなときに使えないなら、こんな力持ってるだけ無駄だ!」
「……どうするつもりなんだ?」
「うまく言えない。でも、必ず今よりもましにする」
 長い|諦《あきら》めの|溜息《ためいき》が聞こえた。ここのところ陽気だった彼らしくない。だが、すぐに張りのある声に戻《もど》って、村田はおれの肩を掴んだ。
「自分自身がどうなっても、|後悔《こうかい》しないんだな?」
「しない」
「……わかった。じゃあ思う存分やればいい。こうなったら何もかも見届けるよ」
 フリンと子供は上半身だけ地上に残り、もうほんのひと揺れで地下の底に消えてしまうだろう。他にも何人もが落ちかけている。何百人もが奈落《ならく》に落ちてゆく。
 一度目と同じくらいの規模の地響きが、遠く南から駆《か》けてくる。
 急がないと。今のままでこの揺れに襲われたら小さな|岩盤《がんばん》に取り残されたり、地割れの縁《ふち》にぶら下がってる多くの人々が、|一斉《いっせい》に|地獄《じごく》に落ちることになる。
 トランス状態に入ってもいいくらいに感情は高ぶっているのだが、これまでずっと導いてくれていたあの声は、今日に限って一言も囁《ささや》いてくれない。ふと、肩を掴む村田の手を意識しかけて、おれは静かに自分に言いきかせた。
 考えろ、おれは誰かに助けて欲しいのか?
 それとも誰かを助けたいのか?
 誰かの力を借りたいわけじゃない。自分でコントロールできるはず。
 あまりの激痛に今度こそ吐きそうになるが、胃の中には食べ物の欠片《かけら》さえ残っていなかった。
 耳の奥で、おれに喚《よ》ばれた者の音がする。地下から猛《もう》スピードで上がってくる。岩を砕《くだ》いて土を分けて、溝《みぞ》の全てを埋《う》め尽《つ》くす、力ある水が近づいてきた。
 恐《おそ》れと諦めを超《こ》えろ。
 信じて力を尽くせ。
 不意に意識が遠くなり、まるで|眠《ねむ》りに落ちる瞬間みたいに、身体《からだ》が深く深く沈《しず》み始める。
 
 
 
 青く澄《す》んだ水は信じられないスピードで溜《た》まり、地割れに飲まれかけた人々を受け止めた。
 フリンと子供は水の上に落ちたが、なんとか向こうの地面にすがりつけた。比較的《ひかくてき》広く安定していて、|途中《とちゅう》二、三本の罅を飛び越すだけで、村への道に合流できる。
 多くの人間が流れに落ち、新しくできた川をゆっくりと|漂流《ひょうりゅう》する羽目になった。流れが緩《ゆる》やかなのだけが救いだ。水中で持ちこたえる体力さえあれば、いずれどこかの岸に着けるだろう。
 だが次に来た|一際《ひときわ》大きい揺れは、クッション代わりに水を流し込む間も許さず、新しく最大の大地のクレバスを作りだす。
 三秒前までは一センチ幅《はば》の溝だったのに、次の瞬間には両側が押し合って盛り上がり、巨大《きょだい》な崖《がけ》を持つ峡谷《きょうこく》みたいになる。
 極度《きょくど》の疲労《ひろう》で怠《だる》いおれの身体が、ふっと一瞬《いっしゅん》軽くなった。落ちてる!? と気がつくより先に、腕《うで》が反応して崖っぷちにしがみついた。隣《となり》で背中をさすってくれていた友人が、いつの間にかどこにもいない。
「村田っ!?」
 余震《よしん》は治まる気配がなく、不定期に激しい揺れを送ってよこしては、地割れを越えようとしている人間達を脅《おびや》かした。水の溜まった場所は泳げばいいが、新しくできた溝は飛び越えるか、渡《わた》した綱《つな》を伝うしかない。ぶら下がっている者もどうにか這い上がろうと足掻《あが》くのだが、まるで狙《ねら》い澄ましたかのように、揺れに阻《はば》まれて上れない。
「村田ーっ、どこだーっ!? くそ、右手が痺《しび》れてきた……まさか落ちたんじゃないだろうな。おい勘弁《かんべん》してくれよ……村……」
「陛下ーっ! ぼーっちゃーん!」
 反対側の崖っぷちから、ヨザックの叫ぶ声がする。両手の指を痺れさせたまま首だけそっと振り返ると、かなり離れた向こう側の崖でヨザックが村田健を引っ張り上げていた。良かった、奈落の底に墜落《ついらく》だけは避《さ》けられたようだ。
 それにしても巨大なクレバスを作り上げたものだ。距離《きょり》にして二十メートルはある。
「陛下ーぁ、今すぐそっちに渡りますから、どうにか持ちこたえてくださいよ」
 どうやって、と聞き返すより前に、余震がますます指を痺れさせる。ヨザックが叫んだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》、おれは大丈夫だから。なあ、一つ頼《たの》みがあるんだけど」
「なんです?」
 オレンジ色の髪《かみ》を振り乱し、こちらに渡ろうと奮闘《ふんとう》している。無理だ。走り幅《はば》跳びにしたって距離がありすぎるし、三段跳びにするには足場がない。
「おれのことは自分で何とかするから、村田を安全なとこまで連れてってくれ! 村田とフリンを眞魔《しんま》国まで連れて帰って、おれが戻るまで客として守ってくれ」
 だって村田はこの世界について素人《しろうと》で、未《いま》だに地球上と思いこんでいて、あいつを守れるのはおれだけ……だったはず。ちょっと事情が変わってきたけれど、やっぱりスターツアーズ責任者としては、傷一つ残さずご実家に帰すのが義務だ。
「陛下を残していくわけにいきませんよー」
「頼むよヨザック、お願いだ! 他に頼める奴《やつ》がいないんだ」
「そりゃもちろん、猊下《げいか》も大切ですよ!? けどねぇっ!」
 何が大切なのか訊《き》こうにも、もう声を出す力がない。次に小さい揺れが来たらおれは間違いなく落ちるだろう。もう既に指先の感覚はなく、気を抜《ぬ》いた途端《とたん》に左手が|滑《すべ》る。腕一本が指三本になり、二本になって最後に中指が……。
 肩《かた》が|脱臼《だっきゅう》するかという衝撃《しょうげき》で、霞《かすみ》かけた意識を取り戻した。
 白い指と見慣れた色の服の袖《そで》が、おれの右手首をがっちり掴《つか》んでいた。
「やっとつかまえた」
「……ヴォルフ……なんでここに……?」
 フォンビーレフェルト|卿《きょう》ヴォルフラムは、美しい顔を歪《ゆが》めながら苦笑《くしょう》していた。ふと彼の長兄の面影《おもかげ》を見て、こんな非常事態だというのに感心してしまう。
「お前は尻軽《しりがる》で|浮気《うわき》者だからな、世界中どこでも追いかけられるように、こっそり発信器をつけてあるんだ。ほら、片手じゃ無理だ。両手で掴まれ」
「けど、お前の体重じゃ……おれを引き上げられないだろ。下手したらお前まで……!」
「そうしたら」
 |汗《あせ》で滑る右手首を両手で掴み、ヴォルフラムは苦み走った笑《え》みを見せた。
「一緒《いっしょ》に落ちてやる」
 おれのいない間に何が起こったのか、今まで知らなかった表情だ。
「ぼくを信じろ」
 彼の自信に気圧《けお》されて、宙ぶらりんだった左手も上に回す。華奢《きゃしゃ》で神経質でよくほえる子犬だった美少年は、全力でおれを引き上げて、勢い余って二人して背後に|倒《たお》れ込んだ。慌《あわ》てて上から退《ど》こうとしたが、おれの袖か何かで|擦《こす》ったらしく、頬《ほお》を少し|擦《す》りむいている。
「ヴォルフ、血が……ごめん」
「謝らなくていい。当然のことだ」
 早口でそれだけ言ってから、彼は同行者の姿を探し、きょろきょろと周囲を見回した。
「ギーゼラがこちら側に来ていてくれれば良かったんだが。運悪く向こうとこっちに別れてしまった。それよりユーリ! お前はいったいどこで何をしていたんだ!? 婚約《こんやく》者であるぼくを放り出して、勝手気ままな旅とはまったく許し難《がた》い! しかも崖から落ちかけて自分一人では上れないなんて……魔王とは思えない|軟弱《なんじゃく》さだ。これだからお前はへなちょこだというんだ。……ユーリ?」
 ここまで堪《こら》えてきたじゃないか。
「どうした?」
 夜がきても、一人になっても、ヨザックと会っても、ここまで堪えてきたじゃないか。なのに何故、今になって耐《た》えられないんだ。会ってほんの数十秒しか経《た》っていないのに。
「ヴォルフ……コンラッドが……」
「知ってる」
 恐らくすごい情けない顔をしていたのだろう。気に入らないほうの兄の話題を出されても|怒《おこ》ることなく、ヴォルフラムはおれの肩に腕を回した。
「泣いていいぞ。ぼくも少しは取り乱したからな」
「死んでない。絶対に死んでないんだ、けど」
 でも、今ここにも何処《どこ》にも彼はいない。ウェラー卿は戻《もど》ってこない。
「もう本気で泣けるだろう。ぼくもグリエもギーゼラもいる。そろそろ本気で泣けるはずだ」
「……畜生っ」
 おれはすがりかける身体を無理やり離《はな》し、岩の断面で引っかけた傷を見せた。
「見てくれよこれ、肉が見えてる……こんなに血が出てるよ……しかもお前に掴まれて引っ張り上げられたとこ。こんな腫《は》れ上がって、熱もってる。手首|捻挫《ねんざ》してるかもしんない。最悪、骨が折れてるかも。どうしよう、くそっ……痛い……痛ェって。めちゃめちゃ痛くて涙でるって……おれってどこまでバカなんだろ」
「お前は馬鹿《ばか》じゃない。愚《おろ》かなのはコンラートのほうだ」
 なんでこんなことばかり言われなくてはならないのか。痛みが増すようなことばかりだ。
 声をあげて泣きたくなるようなことばかりだ。
「けれど愚かだと判《わか》っていても、そうしなければならない時がある。お前だってそうだろう? いつもそうやってきたじゃないか」
「悪かったね、愚か者で」
 ヴォルフラムの連れらしい男が一人、つまずきながら走ってきた。あの丸刈《まるが》り頭には覚えがある。ギュンターお抱《かか》えのダカスコスだ。
「陛下! ああよかった、閣下もよくぞご無事で!」
「|被害《ひがい》はどの辺りまで広がってる?」
 おれの代わりにヴォルフが訊くと、ダカスコスは息を切らせながら、額の汗を袖で拭《ぬぐ》った。
「……もの凄《すご》いことになってますね。大陸縦断地割れとでも言うのか……南端《なんたん》のカロリア近辺が震源地だったらしく、ギルビット商港なんか壊滅《かいめつ》状態らしいですよ」
「カロリアが!? ギルビット港が!?」
 ダカスコスは気の毒そうに眉を下げた。
「骨飛族《こつひぞく》によると、指導者が不在だとかで、この先の混乱は必至《ひっし》でしょう。どういう理由かは知りませんが、かなり深刻なことになるでしょうね」
 カロリア自治区ギルビット商港では、老人達は昼間は荷を運び、夜には|兵役《へいえき》に取られた子や孫の帰りを待つ。カロリアの民は本当は戦《いくさ》が嫌いなので、|宗主国《そうしゅこく》への不満と不安を胸に、領主ノーマン・ギルビットの正しい判断を願っている。自分達を導《みちび》いてくれると信じている。
 なのに彼等の知らないところでノーマンは死に、跡を継いだフリンも今は打ちのめされ、打撃を受けた人々のために叫んではくれない。
 がくつく膝に気合いを入れて、おれはヴォルフラムの隣に立ち上がった。
「……マスクがあれば誰でも王になれるのかな……」
「違う。王になれるのは、その資質《ししつ》のある者だけだ」
 ヴォルフラムは事情も知らないはずなのに、おれの欲しい言葉を探し当てる。
「|お前《ユーリ》には、それがある」
 
 
 ノーマン・ギルビットの仮面を|被《かぶ》る者は、
 もはやおれしか残されていない。

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