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相当情けない顔になっているはずだ。
なにせこの銀のマスクの中は、冬だというのに蒸《む》し暑い。
「ぷは。おまけに息もしづらいんだよ」
睡毛《まつげ》が引っ張られるのを我慢《がまん》して、おれは勢いよく覆面《ふくめん》を剥《は》ぎ取った。空気が鼻と口から流れ込み、上気した頬も急速に冷やしてくれる。
「まったくさあ、よくこんなの何年も|被《かぶ》っていられたもんだよ。フリンもノーマン・ギルビットさんも」
「|恐《おそ》らくこんなに動き回らなかったんだろうね」
街の入り口で馬を降りてから、港付近まで徒歩で移動するしかなかった。石畳《いしだたみ》が割れ、|隆起《りゅうき》した路面には、|倒《たお》れた家や水の溜《た》まった溝《みぞ》が点在していたからだ。それだけではない。絶望した人々は所構わず座り込み、親や食べ物を求めて泣き叫《さけ》ぶ子供達が、よろめきながら道を横切った。馬ではとても進めない。
決して触れてはならないとされる四つの箱。そのうちの一つ「地の果て」を小シマロンが間|違《ちが》った[#脚注1]|鍵《かぎ》で開いたために、封《ふう》じられていた未知の力の一部が暴走し、カロリアを含《ふく》む大陸中西部は壊滅《かいめつ》的なダメージを受けた。
フリン・ギルビットは気丈《きじょう》にも|涙《なみだ》も見せず、必死で歩き回って住民に声をかけ続けた。館《やかた》に戻《もど》り、数少ない配下の者達に命じて、すぐに水や|食糧《しょくりょう》を運ばせると励《はげ》まして回った。ノーマン・ギルビットの仮面をつけたおれも、彼女と|一緒《いっしょ》に動いていた。
フリンは疲《つか》れ切った|身体《からだ》に|鞭打《むちう》つように、領主の妻としての務めを賢明《けんめい》に果たした。発熱と腹痛で|椅子《いす》から立てなくなっても、執務室《しつむしつ》に各地方の担当者を集め、約束どおりカロリア全土に均等に物資を配分した。
だが、館にあった|備蓄《びちく》分だけでは、人々の飢《う》えは|到底《とうてい》満たされない。
やっと戻ってきたカロリアは、それほどに壊滅的だったのだ。
動けなくなった彼女を無理やり部屋に残し、おれたちはギルビット商港に来ていた。活気に満ち、頑強《がんきょう》だった港は見る影《かげ》もなく破壊され、美しかった石畳は砕《くだ》けて飛び散っていた。深く、|幅広《はばひろ》い溝が何本も土地を横切り、まるで川のように水が流れ込んでいた。通りに面した住居は|殆《ほとん》ど|崩《くず》れ、都市の機能は果たせない。内陸ののどかな農耕地は、海水をかぶって土も草も枯《か》れていた。
数日前まで善良な市民だった人々が、崩れた店から食料を|奪《うば》っていた。仲の良い隣人《りんじん》同士が井戸《いど》の所有を巡《めぐ》って殴《なぐ》り合い、飢えた子供はもう泣くだけの気力もなく、虚《うつ》ろな目をして地面に座り込んでいる。
元々、若者の少ない国だ。力も物資も足りない。
打ちのめされた女性と子供と老人は、寒空に屋根もないまま震《ふる》えていて、日が暮れても灯《あか》りが点《とも》るのは、停泊《ていはく》中の商船の上だけだ。
何人かが住民をまとめようと、無気力な人々に声をかけて回っていたが、それよりもっと声の大きい男が、街角でこの世の終わりを叫んでいる。
「あながち間違ってはいないけど」
「なんだって? 世界が滅びるとかそういうこと? 馬鹿《ばか》馬鹿しい、ノストラダムスじゃないんだから」
村田《むらた》の呟《つぶや》きに答えようとしたが、不覚にも声が上擦《うわず》ってしまった。初めての光景を目の前にして、おれは|掌《てのひら》に|汗《あせ》をかいている。いや、掌だけじゃない。首にも背中にも伝う汗は、あっという間に体温を奪っていく。身体の震えが止められない。
「……どうにかしないと」
|誰《だれ》かが、どうにかしないと。
「|畜生《ちくしょう》、でもどうすればいいんだかさっぱり判んねえよ……おれずっと関東に住んでたし、避難《ひなん》訓練|真面目《まじめ》にやったくらいじゃ、こういうとき実際にどうしたらいいか……」
「テレビってありがたいねえ、|渋谷《しぶや》」
こんなときに何を言いだすのかと、おれは|虚《きょ》をつかれて村田を見た。人工|金髪《きんぱつ》、カラーコンタクトの友人は、|穏《おだ》やかな|笑顔《えがお》で港の向こうを眺《なが》めている。
「いっぱい映してるよね、|被災地《ひさいち》や難民キャンプ。体験するのは初めてでも、何となく知ってるような気にさせられる」
確かに、映像ではいくらでも見ていた。ニュースやドキュメンタリーや、映画やドラマでも。
「それだけで|随分《ずいぶん》違うもんだよ。まさか野球とアニメしか見ないわけじゃないだろ? ちなみに良い子のみんなは部屋を明るくして、二メートル以上離れて見ましょう。まあ僕自身は」
正体不明の友人は、軽く首を傾《かたむ》けて目を細めた。
「テレビもないラジオもないこの世界を、かなり懐《なつ》かしく感じるけど」
「車もそれほど走ってないしね……村田、お前ってほんとは……いや、やめとこ」
彼がスカパーに入っているかどうかは、この際どうでもいい。それよりも重要なのは、自分には知識があるということだ。やったことはない、でも何だって最初は|見様《みよう》見真似《みまね》だ。兄貴と親父のキャッチボールを見て、初めて投げた日を思い出せ。
「食い物だ……いやまず水かな、動ける人間を集めて各地域に振り分けて……よくテント張って炊《た》きだししてるよな。ああやっぱ対策本部とか必要だけど、ユニセフも赤十字もいないもんなあ」
「でもきみは、やると言った」
そうだ。
おれは銀のマスクを|握《にぎ》り締《し》める。|沈《しず》まずに残っていた商船から、ヴォルフラムとダカスコスが戻ってきた。白いエプロンドレス姿のヨザックも一緒だ。白衣の天使のつもりなのだろう。両手いっぱいに布の袋《ふくろ》を抱《かか》えた、見知らぬ男を従えている。彼はおれの姿を確認《かくにん》すると、荷物を地面に取り落とした。いい年をした大人の顔が、たちまち泣きそうな|歓喜《かんき》に変わる。
「ご無事で!」
ヴォルフラムもダカスコスも追い越《こ》して駆け寄り、おれの|足下《あしもと》に|跪《ひざまず》く。
「うわ、な、何事デスか!?」
「よくぞご無事で……っ」
目まで潤《うる》ませたあげく深々と頭《こうべ》を垂れるので、頭頂部の毛の薄《うす》い部分が日光を受けて|鈍《にぶ》く光った。ザビエル様・レベル1。
「思ったとおりだった。あれは我が国の船だ。商船に見せかけてはいるが、乗員は兵士で、この男が指揮をとっている。彼は|艦長《かんちょう》のサイズモアだ」
|麻袋《あさぶくろ》を蹴《け》って、先代|魔王《まおう》の三男が言った。ふて腐《くさ》れたような表情だ。後から来た軍人さんに追い越されたことが、少し悔《くや》しかったのだろう。
黄の強い|輝《かがや》く金髪と、湖底を思わせるエメラルドグリーンの|瞳《ひとみ》。天使のごとき美少年。だがしかし付き合ってみるとその実体は、悪口雑言わがままプー……だったはずなのだが。どうもここのところのフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムは、初めて会った頃と勝手が違う。あんなに似てない三兄弟だったのに、今では|長兄《ちょうけい》の|不機嫌《ふきげん》さと、次兄の臆面《おくめん》のなさまで身につけつつある。言ってみれば、伊達男《だておとこ》風の渋みがかった美少年?
さ、最悪だ。かないっこない。
「残りの船団も二、三日中には着くだろう。なにしろ骨飛《こつひ》族と伝書便の報を受けてすぐに、海上戦力の四半を発《た》たせたらしい。あの冷静な兄上がだ」
「四分の一って、何のためにそんな」
「お、前、を、捜、す、た、め、だ、ろ、う、がっ!」
わざわざ一音ずつ区切って、ヴォルフが|怒《おこ》った顔を近づけた。
「自分の立場が判っているのか!? お前は何の手がかりもなく、絶望的な状況《じょうきょう》で国から消えたんだぞ」
「す、すみませんでした」
「まったく。ギュンターはオキクになっているし、コンラートはあんな……」
彼は一度、言葉を呑《の》み、おれから視線を逸《そ》らして話題を変えた。まだその時期じゃないと思ったのだろう。
「とにかく、この先次々と船が着く。|恐《おそ》らく明日にはドゥーガルド家の|高速艇《こうそくてい》が領海に入るだろう。海戦では最も高名な一族だし、何せあの船は信じられないくらい速い。カーベルニコフの魔動推進器を|搭載《とうさい》しているからな。それで|帰還《きかん》するのが一番安全だ」
「帰還って、誰が?」
「決まってるだろう、全員だ。もちろん同じ艦というわけにはいかないが」
「全員って、おれはまだ帰らないよ、まさかこのままじゃ帰れないでしょ。カロリアはこんな状態だし、あの箱の件だって気にかかるし、コンラッドの腕《うで》も……」
ウェラー卿のことを思うと、言葉と一緒に息も詰《つ》まる。気持ちの整理がつかない、というより、敢《あ》えてつけようともしていない。
「……全部どうにかするまで、還《かえ》れないよ……名前を騙ってるだけとはいえ、今のおれは一応ノーマン・ギルビットなんだ。住民の皆《みな》はおれを領主だと信じてるし、責任者がいるのといないのとでは、希望とかやる気とか、えーと、士気って単語であってる? そういうので復興のスピードも違ってくるだろ」
開いた口がふさがらないという表情で、ヴォルフラムはおれの耳を引っ張った。
「何度でも言うぞ。おまえはばかか?」
おーまーえーはーあーほーかー、って感じだろう。
「この土地に何の責任があるんだ。お前の国は此処《ここ》か? お前の治める民《たみ》はこの人間達か? どうしても|援助《えんじょ》したいというのなら、|医療班《いりょうはん》や物資を残していけばいい。戦地での経験が豊富な兵もいるし、破壊《はかい》された街の修復に携《たずさ》わった者も捜せば……」
「そうか、そうだよな!? ギーゼラは医療のプロだもんな。来てくれたみんなの力を借りれば、被災地での活動もスムーズだよなっ」
「ユーリ! ぼくはそんなことを言ったのではなく」
声のトーンまで変わったおれを見て、ヴォルフラムは苦い顔をする。自分では気付いていないだろうが、|眉間《みけん》の皺《しわ》は長兄にそっくりだ。
「サイズモアさん、あんたの船に食糧《しょくりょう》と水はあるかな」
「食糧ですか?」
予想外の質問だったのか、ザビエル・レベル1は素《す》の声に戻《もど》ってしまった。
「難破した際に備えて、多少は積んでおりますが……」
「よかった! さっそくそれを分けて欲しいんだ。できるだけ平等に、なるべく多くの人に行き渡《わた》るように。混乱しないよう並んでもらってさ。待てよ、乗組員の皆さんはうちの国の兵士なんだよなあ?」
「もちろんです。いずれも陛下のお言葉とあらば命をも惜《お》しまぬ者ばかりですし、グウェンダル閣下のご命令で、外見が人間により近い者達を多く選びましたので、|潜入《せんにゅう》工作でもお役に立てるかと」
軍人は誇《ほこ》らしげに胸を張る。部下に自信があるのだろう。
「助かるなあ、じゃあ全員ボランティアに数えていいわけだ」
「ボラ……それはどのような任務でありますか」
「任務じゃないよ。自発的にやるからボランティアなんだって。よーし村田、人材確保! あとは簡易住宅とか簡易トイレとか、欲しいものが山|程《ほど》だ。ああ赤ん坊《ぼう》用に粉ミルクや紙おむつがあったら助かるかも。今はギーゼラ達が走り回ってくれてるけど、医療班も多いに越したこたないし、薬も設備も必要だよな。ああ畜生《ちくしょう》ッ、全然足りない! 物資も資材も人員も」
「じゃあお願いしてみれば?」
村田はひょいと手を伸《の》ばして、おれの胸から白い物を取った。細くて長い。ロンガルバル川でカッパーフィールド商店の少年から買ったペーパーナイフだ。ペーパーだけど林家《はやしや》じゃなくて、正体不明生物の骨製民芸品。
「これに」
「土産物《みやげもの》に願い事して叶《かな》うなら、寺も神社もいらないよ」
「それは土産物じゃないぞ。れっきとした骨飛族の一部だ」
「なに!?」
乾《かわ》いて軽いナイフを落としそうになる。
「てことはこれ、人骨!? なあ、人骨!?」
「人骨じゃない、骨飛族だ。もしかしたら骨地《こつち》族かもしれないが。連中は集団で精神を共有する。次々と意思を伝え合うんだ。運が良ければ通信兵代わりになる。だから我々魔族の軍は、|遠征《えんせい》時に伝達用の骨牌《カルタ》を持ち歩く。後発隊がお前の所在を知ったのも、元はといえば彼等の詩のせいらしいぞ。もっともぼくは骨飛族の情報になど頼らず、自分の力でお前を……」
「へえ、見かけによらずポエマーなんだねー」
村田はポイントをずらして感心し、ヴォルフラムの|自慢《じまん》の腰《こし》を折った。おれは手の中の民芸品をまじまじと眺《なが》めてから、物は試《ため》しと|叫《さけ》んでみる。
「食糧と医薬品と簡易住宅と粉ミルクとっ……」
「保険代わりにこっちも使っておきます?」
皆の視線が集まった先で、ヨザックが胸元《むなもと》から鳥を出した。両方の|翼《つばさ》を畳《たた》んだままの、白くて|綺麗《きれい》な鳩《はと》だった。
「すげえ、ミスター・マリックみたい」
「いやだわ陛下、ヨザックですってばぁ」
「ていうかナマ鳩胸、初めて見ちゃった。東京マジックロビンソン、ちょっとジェラシー」
感心する友人につられて視線を落とすと、ヨザックの右胸が平らになっていた。どうやら懐に鳩を詰めて、バストアップをはかっていたらしい。
不意にサイズモアが振《ふ》り返り、新たに入港してきた中型船を|凝視《ぎょうし》した。海の軍人の硬《かた》い囗調に戻る。
「耳障《みみざわ》りな波音がすると思えば。あれはシマロンの連絡艇《れんらくてい》ですな」
「え、てことは追っ手!? わざわざそんな」
ほんの十日ばかり前、おれたちは小シマロンで実験台にされかけていた。しかし小シマロン王サラレギーの飼い犬、刈《か》りポニことナイジェル・ワイズ・マキシーンが|間違《まちが》った「|鍵《かぎ》」で「箱」を開けようとしたため、未知の力の一部が暴走し、大陸を縦断する大地震《おおじしん》を引き起こした。その混乱に乗じて|脱出《だっしゅつ》し、そりゃもう死ぬ思いでここまで這《は》い戻ってきたのだ。
だがあの|惨状《さんじょう》から考えて、小シマロンがわざわざ追っ手を放つとは思えない。おれが某国《ぼうこく》の王様だってことは、マキシーンには知られていないはずだし。
「あの旗標《はたじるし》は大シマロンのものです。忘れもしないサラフィアン海域での合戦では奴等《やつら》の|卑怯《ひきょう》な夜襲《やしゅう》に|虚《きょ》を突《つ》かれましたが、すぐさま態勢を立て直し、逆にあの|忌々《いまいま》しい黄色の布を数え切れぬ程燃やしてやりました! 朱《しゅ》に染まる海面に|燻《くすぶ》る敵艦旗《てきかんき》、今でも興奮で|身体《からだ》が震《ふる》え……はっ、陛下、申し訳ございません! 久々に憎き大シマロンの船を目にし、つい我を失ってしまいました」
熱くなりやすい性格のようだ。
「けど、フリン・ギルビットは大シマロンに協力しようとしてたんだから、責められる筋合いはないよな。じゃあ何でこのくそ忙しい時期に、本国からお出ましになったんだろ」
「緑の三角旗を掲《かか》げている。あれは各国を巡《めぐ》る使者だ。覚えておけユーリ、使者は絶対中立だ。攻撃することは全海域で禁じられている」
「はー、湘南《しょうなん》シーレックス色の旗は攻撃禁止ね」
黄色の国旗の下に白っぽい緑の三角旗をはためかせ、中型船は|滑《すべ》るように港に入ってきた。よほど腕のいい操舵手《そうだしゅ》なのか、傾《かたむ》いたり転覆《てんぷく》した状態の船を難なく避《よ》けて着岸する。
二人の痩《や》せた青年が、優雅《ゆうが》な足取りでタラップを降りてくる。まずそっと爪先《つまさき》を出し、静かに踵《かかと》をつけるといった具合だ。バージンロードを歩く花嫁《はなよめ》さんみたい。
「顔を隠《かく》さないとまずいんじゃないの? 少なくとも髪《かみ》と目くらいは」
村田に言われるまで気がつかなかった。おれは慌《あわ》ててノーマン・ギルビットの銀のマスクを|被《かぶ》り、後頭部でいい加減に革紐《かわひも》を結んだ。
人間の大国から来た使者達を、カロリア自治区の委任統治者として迎《むか》えるためだ。
本来の統治者であるノーマン・ギルビットが既《すで》にこの世にいないことを、あの連中は知っているのだろうか。いずれにせよフリンが寝込《ねこ》んでしまっている今、この土地の代表として使者に会えるのは「仮面の男」であるおれだけだろう。
ヨザックとサイズモア艦長が移動して、さりげなくおれの脇《わき》を固めた。人間にしては美少年度が高すぎるかなあというヴォルフラムは、肘《ひじ》で後ろに追いやられている。背中には村田の気配があった。
二人の細い男は雲の中でも歩くみたいに近づいてきて、型どおりで無難な|挨拶《あいさつ》をした。いかにも形式上のものらしく、気のない声と素振《そぶ》りだった。でも、おれが圧倒《あっとう》されていたのは彼等の態度ではなく、我々とはあまりに違う見た目だった。
「き、綺麗な髪デスね」
いきなり髪の毛を褒《ほ》められても、男としてはあまり嬉《うれ》しくないだろう。だが。
「ありがとうございます。長い髪は我等、大シマロン兵士の誇り。日々、卵油《らんゆ》を使って手入れをしております」
喜ぶ人間もいるようだ。
背後で村田が口ずさむ。
「フリーダイヤル0120シマロン兵士はミナロンゲー」
刈りポニもヨロシクね。
それにしても小シマロンでは刈り上げポニーテールが主流で、大シマロンではふわふわ風《かぜ》になびく長髪《ちょうはつ》が基本だとは。大と小ではやっぱり違うもんだ。所変わればモードも違う、大と小では流す水の量も違う。
使者は二人とも黄色と茶色でデザインされた制服を身につけ、極々《ごくごく》緩《ゆる》いウェーブのかかった薄茶《うすちゃ》の髪を背中の中程まで伸ばしていた。一本一本が細いのか、とても柔《やわ》らかく軽そうに見える。雨の日のジャングルで戦いになったら、色々な意味で不利だろう。
どちらもさして特徴のない、似たような赤土色の目をしていた。
「シマロン領、委任統治者、ノーマン・ギルビット殿《どの》か」
あーともうーともつかない返事をする。声も高からず低からずだ。それよりも進行役らしい右の男の「シマロン領」という言葉が気になった。ここは小シマロンの領地だったはずだ。
「此度《こたび》の災害では甚大《じんだい》な|被害《ひがい》を被《こうむ》られたご様子。我等シマロンも|宗主国《そうしゅこく》として、この地の一日も早い復興を願ってやみませぬ」
「あ、ありがとうございまする」
あらたまった語調で言われると、|庶民《しょみん》育ちの身としてはどう応じたらいいのかさっぱりだ。
「本日はシマロン領カロリアの民《たみ》に『大シマロン記念祭典、知・速・技・総合競技、勝ち抜《ぬ》き! 天下一|武闘会《ぶとうかい》』の開催《かいさい》を告げるべく参りました」
「は?」
思わず聞き返すおれに嫌《いや》な顔もせず、使者は抑揚《よくよう》を欠いた口調で繰《く》り返した。
「大シマロン記念祭典、知・速・技・総合競技、勝ち抜き! 天下一武闘会です」
なにやら芸能人の水泳大会みたいな名称《めいしょう》だ。それも女だらけのほう。ポロリはあるの?
「ギルビット殿のご采配《さいはい》により、シマロン領カロリアの民からも秀《ひい》でた戦士を選び、是非《ぜひ》とも参加されたし!」
「されたし! ってそんな、手紙みたいに切られても」
ふわふわヘアの二人組は、一方的にそこまで言うと、厚くて|手触《てざわ》りの悪い巻紙を手渡《てわた》し、来た道をなぞるように戻《もど》っていった。大急ぎで他《ほか》の国も回るのだろう。
「……なんですかその勝ち抜き! 天下なんとかってのは」
「十回だ」
村田が感心したように顎《あご》をかいた。
「何が」
「彼等がシマロンって言った回数だよ。辞去の挨拶まで入れると、十回を超《こ》すね」
「そんなこと真剣《しんけん》に数えても|誰《だれ》もクイズになんかしないって」
「ふん、人間どものよく使う手だ」
後ろに追いやられていたヴォルフラムが、不快そうに鼻を鳴らす。
「ああやって何度も繰り返すことで、誰が宗主か思い知らせようとしている。そんなしみったれた方法でまで、権威《けんい》を示そうとするんだ」
「ヴォルフ、元プリがそんな品のない言葉使っちゃ|駄目《だめ》だろ」
「じゃあ、きみんちはやらないんだー」
|一瞬《いっしゅん》、背筋が寒くなる。特に悪意も感じられない、村田ののんびりした一言に。
「簡単だけどけっこう効果的だよー?」
「……く」
天使の如《ごと》き美少年、わがままプーのボルテージが上がった。たとえ口には出さなくとも、|傍《そば》にいれば体温の上昇《じょうしょう》で判《わか》る。アドレナリンと血液が全身を駆《か》けめぐっている。
「ユーリっ!」
「うわ、は、はい」
「下らんことを考えてはいないだろうな!? いいか、お前は今すぐ|眞魔《しんま》国に戻るんだ。人間どもの祭典になど、参加してやる義理はないぞ!? まったくお前は王としての自覚に欠ける。同じ国の者として情けないことこの上ない」
「おれに当たるのはよせ、おれに当たるのはッ」
プライドが高く尊大だったヴォルフラムが、村田には正面切って食ってかからない。おれ自身まだ確かめられてはいないのだが、彼等の間には暗黙《あんもく》の|了解《りょうかい》があるようだ。村田がひっかかる物言いをしても、三男の怒《いか》りの矛先《ほこさき》はおれ。気付かれないように観察していると、目を合わせないようにしている節もある。
ギルビットの館《やかた》で事前に会っていたとはいえ、ヨザックもゲイカとかなんとか聞き慣れない呼び方をしていた。それに何よりこの世界に順応するのが早すぎる。まったくもって彼は不思議ちゃんだ。
村田、お前ってホントは……何者?
口にしかけた疑問をぐっと呑み込む。
ここで友人にそれを訊《き》いたら、おれ自身のことも洗いざらい話さなければならないだろう。いきなり魔王ですと言われたなんて、正気の人間に信じてもらえるわけがない。おまけに八十二歳の美少年と婚約《こんやく》してるなんて知られたら、どんな反応されるか判ったもんじゃない。日本に戻ってから言いふらされ、彼女のできない一生を送るのがオチだ。それではあまりにわびしすぎる。
やがてくる(きてくれ!)薔薇色《ばらいろ》の十代のために、ここは偏《ひとえ》に|辛抱《しんぼう》だ、
「さ、参加するもなにもさあっ」
押しつけられた巻紙を広げながら、おれは仮面の男じゃない声を出した。異国の地でも|奮闘《ふんとう》中の、へなちょこ新前魔王ボイスだ。
「カロリアの本当の責任者はフリンなわけだし、ここはまず彼女に訊いてみるべきだろ」
「問う必要などない。ぼくらは帰るんだ」
「なんだろう、この歳《とし》にもなって、彼はホームシックなのかな」
うわあ。日本人の不用意な発言で、またしてもヴォルフラムの血液が逆流する。
でも村田、彼の実年齢《じつねんれい》を知ったら、きっと眼鏡《めがね》がすっ飛ぶくらい|驚《おどろ》くよ。