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「大シマロン記念祭典、走・攻・守・総合球技、勝ち抜き! 天下一選手権ですって?」
フリン・ギルビットは飾《かざ》り気《け》のないガウンに身を包み、|覚束《おぼつか》ない足取りで寝室《しんしつ》から出てきた。
「……そんな名前じゃなかったような気がするけれど」
「あー違《ちが》ったかも。とにかくもうシマロンシマロン連呼でさ。しかも使者はサラサラふわふわヘアだしさ。これに詳《くわ》しく書いてあるらしい」
やっとのことでカロリアに戻った|途端《とたん》、フリンは体調不良を|訴《うった》えて床《とこ》に臥《ふ》してしまった。得体の知れぬ力の暴走で踏《ふ》みにじられた故郷の姿にショックを受けたのかもしれない。あるいは予想もしない過酷《かこく》な旅で、心身共に疲《つか》れ切ったのかもしれなかった。そりゃそうだ、当初の彼女の計画には、泳げもしないのに川に飛び込んだり、小シマロンの実験台にされることなど入ってもいなかったはずだ。領土化された国とはいえ、統治者の妻として館の奥にいた女性にはかなりこたえたことだろう。
「そういえば今年で四年目ね……そんなこと考えもしなかったけれど」
「四年に一度のお祭りかぁ」
「ええ、そう。全土の各地域から代表を選出して、大シマロンで競技会を開催するの」
「オリンピックみたいなもんかな」
フリンは巻紙をテーブルに広げ、四隅《よすみ》に動物をかたどった重しを載《の》せた。顔色が悪い。|綺麗《きれい》だったプラチナブロンドも、|輝《かがや》きを失ってくすんでいる。
「なあフリン、やっぱまだ寝《ね》てたほうが……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。少し動いたほうがいいの。それに夫婦《ふうふ》でも恋人《こいびと》でもない男性を寝室に入れるのは失礼でしょう?」
ヴォルフラムの|機嫌《きげん》が良くなった。例によって初めて彼女と顔を合わせたときに、この女は誰だ、お前の何だ!? をやらかして、おれとの関係を疑っていたからだ。
「……知・速・技・総合競技、勝ち抜き! 天下一|武闘会《ぶとうかい》を開催する……カロリアより選抜《せんばつ》戦士の参加を待つ……こんな大変なときに。出場者を選ぶ|余裕《よゆう》などないと知っていて、あえて使者を回したんだわ」
「だいたいどんな感じの大会なわけ? ほら、日本シリーズみたいーとか、ワールドシリーズとかワイルドカードとかさ」
「全部野球じゃん。ワールドカップとかトヨタカップとかも言えよ」
そっちだって両方ともサッカーだろ。
村田のツッコミに突《つ》っ込み返しながら、天下一武闘会を想像してみる。亀仙人《かめせんにん》、サイヤ人、スーパーサイヤ人、超弩級《ちょうどきゅう》ウルトラスーパーメガトン……カメハメ波。
「私だってテンカブを観《み》たことなんかないわ」
「テンカブー!?」
「そうよ、テンカブ。何か変だったかしら」
|大胆《だいたん》な略に驚いただけだ。天かすと蕪《かぶ》の新しい料理みたい。
「カロリアはこれまで一度も参加したことがないの。国力の問題もあるし、勝ち目のない試合に挑《いど》ませるほど、若い者もいなかったから」
「じゃあ内容は|殆《ほとん》ど知らないんだな」
「ええ。でも知・速・技の|全《すべ》てで勝ち抜《ぬ》いて、優勝した者に与《あた》えられる栄誉《えいよ》は聞いてるわ」
「何が貰えんの?」
|月桂樹《げっけいじゅ》の冠《かんむり》だけだったら、|表彰台《ひょうしょうだい》の上で暴れそうだ。
フリンは長い溜《た》め息をついてから言った。誰でも欲しいものだけど、決して誰の手にも入らない。
「願いが叶《かな》えられるのよ」
「願いって何だよ。家内安全、合格|祈願《きがん》?」
「渋谷、天神様じゃないんだからさ」
「何でもいいの。その戦士の属する土地のこと、一族の復権や富、財宝……どんなことでも望めば叶えられるのよ。名目上は」
「ああ判《わか》った! 優勝したらシマロンの姫《ひめ》と|結婚《けっこん》させろーとかだな? ははーん、実にファンタジーっぽいね。身分を超《こ》えた恋、燃える情熱、駆けめぐる青春!」
なるほど、龍玉というよりは、グラディエーターに近いわけだ。
「無理よ、シマロンには王女がいないから。それにこれまでそんな美しい願いを申し出た者はないでしょうし、願いが叶った者もいないはず」
「なんだよ、絵に描《か》いた餅《もち》ってこと? 優勝賞品で釣《つ》っておいて、いざとなったらキャンセルかよ」
厚くて|手触《てざわ》りの悪い巻紙の半分から下に指をやる。気取った書体で書かれているせいか、おれにはさっぱり読めやしない。
「ここにあるでしょう、第一回優勝戦士選出、大シマロン。第二回優勝戦士選出、大シマロン……初回から前回までずっと、優勝したのは大シマロンだけ。そういう筋書きなの、|誰《だれ》もかなわないようにできているのよ」
紙を元通りに巻き直して、彼女は自嘲気味に微笑んだ。
「こんな情勢では、参加地域も少ないでしょうね。大陸中西部の|殆《ほとん》どの国は、みな復興で手《て》一杯《いっぱい》よ。しかも最終登録が六日後なんて。ここから出発地点の東ニルゾンまで、早馬でも二十日以上かかるというのに」
「じゃあ|棄権《きけん》すんの?」
「そうよ。仕方がないでしょ」
「もったいねえなー、せっかく何でも欲しいもの貰えるチャンスなのにー」
おれの貧乏《びんぼう》くさい頭の中では、捕《と》らぬ狸《たぬき》の皮算用が始まっていた。新しいスパイク、硬球《こうきゅう》用ミット、今より軽いプロテクター。ライオンズブルーで揃《そろ》ったレガース、晴れの日に使う小宮山《こみやま》モデルのゴーグル。でもこの世界に野球用具はないだろうから、バットを作るアオダモの木ってのはどうだろう。待て待て、もっとチーム全体のことを考えるならば、まずは清潔なロッカールーム……。
「……ロッカー……だよなぁ……」
舌打ちしたくなるような訳知り顔で、村田は次の言葉を予測している。おれはろくに考えもせず、思いついたままを口にした。
「じゃあ、箱はどうだろう」
「箱?」
フリンは少女みたいに小首を傾《かし》げた。どうやら理解していないようだ。
「そうだよ、箱。優勝したから賞品としてあの『箱』くださいって言ったら、連中は|黙《だま》ってくれるのかな?」
|膝《ひざ》でも叩《たた》きそうな勢いで、ヴォルフラムが言った。
「大シマロンには『風の終わり』がある!」
「そうなんだよ! あの国に箱があるからこそ、あんたはウィンコットの|末裔《まつえい》を運れて行きたかったんだろ? 『風の終わり』とやらの|鍵《かぎ》になってる人物を、ウィンコットの毒で操《あやつ》るつもりだったんだよな」
おれの健気《けなげ》なデジアナGショックによると、およそ五百四時間前だ。夫であるノーマン・ギルビットの死をひた隠しにし、女性ながら仮面の男としてカロリアを守っていたフリン・ギルビットは、本来の|宗主国《そうしゅこく》である小シマロンを差し置いて大シマロンと取引をした。
ずっと昔この地を治めていた一族が館《やかた》の奥深くに残していった、どんな者でも操れるというウィンコットの毒をあなたの国に|譲《ゆず》りましょう。その代わりカロリアからの|徴兵《ちょうへい》を緩《ゆる》め、少しずつ若者を返して貰いたい(そちらの国の戦争で、我が民《たみ》が命を落とすのは耐《た》え難《がた》いから)。毒は大シマロンの手に渡《わた》り、フリンは取引に成功した。
そこにふらりと迷い込んだおれたちは、ウィンコット家の紋章《もんしょう》の刻まれた魔石《ませき》を持っていて、身分を隠す言い訳として、ウィンコットの末裔だと名乗ってしまった。魔石の|縁取《ふちど》りが紋章と同じだったのは当然だ。それは西に逃《のが》れて魔族となったフォンウィンコット家のスザナ・ジュリアの持ち物だったのだから。
フリン・ギルビットは考えた。
稀少《きしょう》な毒に冒《おか》された人物を操れるのは、やはりウィンコットの血を引く者だけ。この男を大シマロンに引き渡せば、彼等は容易に鍵なる人物を動かせるだろう。そしてこの取引に成功すれば、カロリアの若者をもっと取り戻《もど》せる。
良い悪いは別として、彼女の計算は決して|間違《まちが》ってはいなかった。ミスを犯《おか》したのは大シマロンの兵隊だ。
ターゲットと狙《ねら》いをつけた二人のうち、一人は仮死状態で、もう一人は行方《ゆくえ》不明だ。邪悪《じゃあく》な毒矢で射るだけで済むところを、コンラッドは|左腕《ひだりうで》を失い、直後に|爆発《ばくはつ》に巻き込まれて……。
「くそっ」
おれは木目の美しいテーブルを、力任せに拳《こぶし》で叩いた。
確かにあの腕はあんたのものだった。|眞魔《しんま》国で|斬《き》られた左腕が、どうして小シマロンにあったのかは判らない。その上それが「間違った鍵」だったのなら、あんたがどうして狙われたのかも判らない。
でも。
コンラッド……生きてるんだろ?
生きておれの処《ところ》に戻ってくれるんだろ?
いっぱいに広げた|掌《てのひら》で、気付かないうちに両眼を覆《おお》っていた。一本一本ゆっくりと指を外し、動きの|鈍《にぶ》い右手を顔から離《はな》す。
吸った息を同じくらいゆっくり吐《は》きだすと、ヴォルフラムが肩《かた》から力を抜くのが見えた。そんなに心配しなくても、人前で取り乱して泣き叫《さけ》んだりはしない。
「そうよ」
カロリアの女主人は、右手を喉《のど》に当てていた。自分の首を絞《し》めたそうな顔をしていた。
「……私はあなたたちを利用しようとした。私の望みのために、売り渡そうとしたのよ」
フォンビーレフェルト|卿《きょう》の剣《けん》が、かちりと音を立てて数センチ抜かれた。お前が首を縦に振《ふ》りさえすれば、今すぐにでもこの女を殺す。彼はもう何度もそう言っていたし、その言葉に嘘《うそ》はないだろう。だが。
「よせヴォルフ。そんなことしてほしいわけじゃない。フリンも……その話の決着は後だ」
「でもっ」
「箱さえなければッ」
彼女の悲痛な声を|遮《さえぎ》るように、おれは忌《い》まわしい名前を口にした。
「あの『風の終わり』とかいう箱さえなければ、こんなことにはならなかった。人間達が……大シマロンがあの凶器《きょうき》を手に入れたりしなければ、コンラッドとギュンターが狙われることも、おれたちが見知らぬ土地を彷徨《さまよ》うこともなかったんだ。もっとあるぞ。もっと」
この世界には、決して触《ふ》れてはならないものが四つある。それがいかなる力を封《ふう》じるために、どのような過程で作られたのか、どれだけ凄惨《せいさん》な歴史をもって先人の意思が守られたのか、人間達は知ろうともしない。
ただ強大な力ばかりを欲《ほっ》し、従わせ操れるものと己《おのれ》を過信する。
正しい鍵さえ調達せず、邪悪な存在を解放しようとする。
「小シマロンのバカ野郎《やろう》どもがッ、あんな実験さえしなければ、この国だって壊《こわ》れたりはしなかった。あっちの名前はなんだ、風の終わりと……」
「地の果て」
村田が冷たい声で答えた。
「そうかよ、地の果て。そいつもだ。そいつも」
強すぎるミントでも舐《な》めたみたいに、|一瞬《いっしゅん》こめかみがピリッと震《ふる》えた。信じられないほど|冷淡《れいたん》な声が、自分の喉を通り過ぎてゆく。
「……愚《おろ》かな人間どもに、持たせておくわけにはいかない……あれは我々にこそ|相応《ふさわ》しい」
「おっと」
友人の、場違いでのどかで、けれど効果的な相槌《あいづち》。
「鼻息|荒《あら》いね。酔《よ》っちゃってる?」
「え、な、何だよ、今おれ何て言った!?」
たちまち弱腰《よわごし》な新前陛下に戻った。気恥《きは》ずかしさに|前髪《まえがみ》なんかいじってしまう。
「酔ってねーよ、完全禁酒|禁煙《きんえん》主義なの知ってるだろ」
「アルコールじゃなくて、自分にさ」
「自分どころか乗り物にも酔ってません! 船酔いするのはヴォルフのほう」
「そうかー? そんなら修学旅行も安心だけど」
「ああどうせおれたち県立の修学旅行なんて、初日の|殆《ほとん》どが乗り物ですよ。お前みたいに飛行機利用のエリート私立と違って……だーかーらーっ、交通機関の話じゃないんだって。箱の話なんだって、箱の話っ」
「へなちょこなお前にしては、|珍《めずら》しくいい意見だ」
ヴォルフラムの右手が剣から離れていて、おれは心底ほっとした。フリンを憎《にく》む気持ちはもちろん判《わか》る。でも、その場に居合わせなかった彼に、感情だけで私刑行為をさせるわけにはいかない。
「箱は人間に持たせておくべきじゃない。そのとおりだ。ではどうする? 奴等《やつら》が効果的な扱《あつか》い方を修得する前に、大シマロンを叩いておくか。海上戦力は明日にも集結するし、完全武装ではないとはいえ、上陸組も厳選された兵士ばかりだ。望むなら軍隊の指揮というものを一から教えてやってもいい」
「お前にー? あ、いやごめん、ゴメンナサイ。頼《たよ》りないとか思ってません、思ってませんって! そうじゃないんだよ、言っただろ!? 戦争はしない。どんなときでも戦争はしないの」
そこで聞こえよがしに舌打ちするな。
「おれはその……えーと、走・攻・守・勝ち抜《ぬ》き! 世界選手権?」
「知・速・技・総合競技、勝ち抜き! 天下一|武闘会《ぶとうかい》」
「そう、そのテンカブで優勝すれば、大シマロンが箱くれるかなーって思ったの」
はあ? と、ええ!? が|一緒《いっしょ》になって、はえー、という|脱力《だつりょく》系の疑問になる。
「優勝して箱をぉー!?」
「……息の合ったツッコミごくろうさん」
「正気かユーリ!? わざわざそんな手間のかかることをする必要がどこにある。奇襲《きしゅう》をかけて強奪《ごうだつ》すれば済むことじゃないか」
「待って、今のカロリアに予選をして|優秀《ゆうしゅう》な代表者を出場させてる|余裕《よゆう》なんかないわ! それにどうせ筋書きができてるって言ったでしょう、優勝なんて最初から無理なのよ」
「両側から同時に|喋《しゃべ》るなよっ」
村田だけが黙《だま》ってにやにやしている。おれは息を整えて言った。
「落ち着け。まずヴォルフ、戦争は、しません。しませんと言ったら絶対にしません。それからフリン、オリンピックは参加することに意義がある。たとえ上位に食い込めなくても失うものは何もないだろ。優秀な選手が出せないからって、権利を放棄《ほうき》することはない」
「参加することに意義があるなんて、そんな言葉初めて聞いたわ」
フリンは冷静さを取り戻そうと、額に手を当てて俯《うつむ》いた。
「でも言ったでしょう、王都までは早馬でも二十日かかるのよ。今から準備を整えて出発しても登録最終日に間に合うわけがない」
「早馬ってことは、陸路だろ?」
「そうよ」
ここでちょっとおれの|自慢《じまん》が入る。
「じゃあ海路なら? こっちにはドゥーガルドの高速艇《こうそくてい》があるんだぜ?」