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読んでいた本をバタンと閉じて、グレタは机の上に頬を押しつけた。
|暖房《だんぼう》を効かせすぎた室内で、石材の冷たさが心地《ここち》いい。
「辞書って、つまんないねえ」
「そうですか? 知らない言葉を次々と覚えていくのは、存外気持ちのいいものですよ」
フォンカーベルニコフ|卿《きょう》アニシナは、泡《あわ》を吹《ふ》く苔緑《こけみどり》の液体に灰色の毛髪《もうはつ》を数本落とした。|誰《だれ》の物なのかは定《さだ》かではない。
「わたくしがあなたくらいの外見の頃《ころ》には、自分専用の辞書を編纂《へんさん》していたものです。それというのも残念ながらこの国には、水棲《すいせい》一族特有方言の手引きがまだなくて、幻《まぼろし》の骨魚《こつぎょ》族に関する聞き取り調査が一向に進まなかったからです」
「骨魚族!?」
いつの世も子供は未確認《みかくにん》生物好きだ。大好きな父と母(どっちがどっちなのかは不明)が帰国せず、ここのところ沈《しず》みがちだったグレタの表情が、UMAの名を聞いてぱっと輝《かがや》いた。
「すごい! 骨魚族ってなに!?」
「骨飛族や骨地族と同様に、骨に似た|身体《からだ》で生きている水棲種族のことです。水辺で遭遇《そうぐう》した者が呼びかけても、返事がない、ただの屍《しかばね》のようだ、と思われがちですが、人目のない静かな海や湖では縦横無尽《じゅうおうむじん》に泳ぎ回るとか」
凜々《りり》しく濃い|眉毛《まゆげ》を僅かに寄せて、グレタは懸命《けんめい》に想像した。泳ぎ回る骨。
「……誰かの食べ残しじゃないんだよね?」
「とんでもない。いかな天才|庖丁人《ほうちょうにん》といえど、あれだけ元気に泳がせるのは不可能でしょう。|滅多《めった》に出会えない稀少《きしょう》な存在なので、地元では骨魚どんと呼ばれて縁起物《えんぎもの》扱いされています。海藻《かいそう》の巻き付いた姿がこの上なく愛らしいとか」
「骨魚どん……」
子供うっとり。きっとフジツボとかついてるんだろうな。
「彼等固有の言語を読み解き、異なる文化を持つ者達と交流するのは楽しいものですよ。そのとき編纂した辞書が、確かここに……あっ」
強気で知的な赤毛の美人、|眞魔《しんま》国三大|魔女《まじょ》と称《しょう》される魔力の持ち主で子供の夢に現れる女性順位第一位、赤い悪魔こと全天候型マッドマジカリストであるフォンカーベルニコフ卿アニシナにも、一つだけ不便に感じている部分があった。
少々、小柄《こがら》。
金もいらなきゃ(持ってるから)、女もいらぬ(自分が女だから)、わたくし、も少し、背が欲しい。と生まれてから三度くらい|呟《つぶや》いたことがあるのは、フォンヴォルテール卿しか知らない秘密だ。ともあれ|殆《ほとん》どの場合は長身の助手がいたので、特に困ったこともなかったのだが。今も高いところにあった分厚い革《かわ》表紙を取ろうとして隣《となり》の物まで落としてしまったが、見た目の数十倍力強い腕《うで》で、しっかりとそれを受け止める。
「アニシナだいじょぶー?」
「ええ|大丈夫《だいじょうぶ》です。おや、これは『|緊急《きんきゅう》報告。実録! ユーリ陛下二十四字』ですね」
「なにそれ!?」
「陛下のお生まれになった土地の言語を高等魔族語と照らし合わせ、お育ちになった|環境《かんきょう》を知ることで、陛下をより敬い尊ぼうと、わたくしが書き始めたものなのです。しかし何分にも国をお空けになることの多い|御方《おかた》なので……まだ二十四語しか登録できていないのが残念です」
「見たい見たいー見せて見せてーェ」
未来を担《にな》う少女にせがまれて、赤い悪魔もまんざらでもない様子だ。
「まだほんの触《さわ》りだけですよ? いいでしょう、ではどんな言葉を知りたいですか」
アニシナは濃紺《のうこん》の表紙を開いた。太さも大きさも独特で、個性的な文字が現れる。とても女性の筆跡《ひっせき》とは思えない、まるで暗号だ。こんな筆跡の恋文《こいぶみ》などが届いたら、新手の嫌《いや》がらせかと|勘違《かんちが》いしそうだ。
「うーんとね、じゃあね、へる!」
「へる?」
「うん、そう。ユーリ、へるって言葉よく使うの。へるめっととか、へるぷみーとか、サッコンのイキスギタヘるしー[#「へるしー」に傍点]シコウがとか」
「……へる……ああ、ありました」
|綺麗《きれい》に切り|揃《そろ》えられたウミドクグモ貝色の爪《つめ》を、グレタは憧《あこが》れの視線で見た。男だったらユーリみたいになりたいし、女だったらアニシナみたいになりたいなー。
かなり危険な将来設計だ。お薦《すす》めできない。
「……へる、とは|地獄《じごく》のことですね」
「地獄?」
「そのようです。因《ちな》みに、しーは海という意味。つまりへるしーとは地獄の海のことです」
「地獄の海なんだーぁ。ユーリすごいとこに住んでたんだね……あれ?」
長い廊下《ろうか》の向こうから、またしても|尾《お》を引く|叫《さけ》びと全速力の足音が近づいてきた。
「ああああああ」
腰まで届く髪《かみ》を床《ゆか》と平行になびかせて、フォンクライスト卿真[#「真」に傍点]ギュンター閣下が駆《か》け抜《ぬ》けてゆく。長衣の裾《すそ》はすっかり捲《まく》れ上がり、太股《ふともも》まで丸出しだ。
「猊下《げいか》がっ、猊下が眞魔国に御|帰還《きかん》になられた暁《あかつき》にはぁぁぁぁぁぁ! 七夜連続祝いの宴《うたげ》・食い|倒《だお》れ飲み倒れ脱《ぬ》いだらすごいんです今夜は無礼講を|催《もよお》さなくてはぁぁぁぁぁぁぁぁ」
開きっぱなしの|扉《とびら》の前を、風の如《ごと》く過ぎ去った。と思う間もなく血相を変えたフォンヴォルテール卿グウェンダル閣下が、同じく叫びながら突《つ》っ走っていく。
「待て! あれは予算を超《こ》える上、女性貴族に受けが悪いっ! だから勝手に決めて触《ふ》れ回るなと言っているだろうがぁぁぁー!」
「……さっきからどうも騒《さわ》がしいと思ったら、品のない男達が正気を失っているようですね。ここは一刻も早く目を覚まさせてやるのが、識者の務めというものでしょう。グレタ、耳を塞《ふさ》ぎなさい」
「うん」
アニシナは「爆殺《ばくさつ》! 魔動追撃弾《まどうついげきだん》」を起動させた。
「へるですね」
「うん、へるだねえ」
ナイジェル・ワイズ・マキシーンは、カロリアを地獄にした男だ。
小シマロン軍隊公式ヘアスタイルと公式ヒゲスタイル。痩《や》せて肉のない白い頬《ほお》と、どちらかといえば細い一重《ひとえ》の目。そのせいか全体的な印象は、力強さや精悍《せいかん》さよりも鋭利《えいり》な|凶器《きょうき》を思わせる。おれの決めたあだ名は刈《か》り上げポニーテールだが、今更《いまさら》そんな愛らしい名前で呼んでやるつもりはなかった。
「テメっ、刈りポニ! どのツラ下げておれたちの前にッ」
あ、呼んじゃった。
「おや、誰かと思えばその声は」
相変わらず小シマロンの軍服に臙脂《えんじ》のマントまで着用した男は、また傷の増えた横顔を歪《ゆが》ませた。笑ったのだろう。故意に抑《おさ》えてゆっくりと、威圧感《いあつかん》を与《あた》える話し方をする。
「カロリアの委任統治者ノーマン・ギルビットの客人で、その後、勇敢《ゆうかん》な|虜囚《りょしゅう》達と共に我が小シマロン王サラレギー陛下のため崇高《すうこう》なる任に志願されたが、何らかの力の暴走により行方《ゆくえ》知れずになられたはずの、クルーソー|大佐《たいさ》とやら……ですかな」
「いっそ|大胆《だいたん》に略してくれ」
しかもかなり都合良く|間違《まちが》っていた。
|随分《ずいぶん》たったようでもあり、逆に昨日のようでもあるが、この男が王の命による実験をやらかさなければ、大陸西側は打撃を受けなかった。大シマロンに向かっていたおれたちと不運な囚人達をスタジアムに集めて、最凶最悪の兵器である「地の果て」を解放しようとしたのだ。どうやって手に入れたのかも判らない、異なる|鍵《かぎ》で。
コンラッドの腕で。
マキシーンは一重の|瞼《まぶた》をいっそう細め、おれの連れを確認《かくにん》した。
「……魔族が増えている。そちらの副官|殿《どの》とは以前にお会いしているが、類《たぐい》の違う美形の方とはお初にお目にかかりますな。これはこれは|皆様《みなさま》お揃いで。|呑気《のんき》にシマロン観光ですかな」
「なにーっ!? そっちこそカロリアを、大陸の半分以上をあんなことにしておいてからに、娘《むすめ》さんつれて家族旅行かよ!? あっお嬢《じょう》さん方には罪はないんですげれども」
「娘?」
冷たい臭《にお》いさえしそうな男は、麗《うるわ》しき|双子《ふたご》の左側に立つ。
「私の娘だと? まさか。名付け子ではあるが」
「名付け子ーっ!?」
この世界での命名権は、親以外の人が持つものなのだろうか。それにしても美少女ツインズ姉妹《しまい》に、ジェイソソあんどフレディとつけるのはどうでしょう。こんなに綺麗で可愛《かわい》いのに、二人揃って何人殺したか判らないという、スプラッターシスターズじゃありませんか。
「うう、よ、よかったー、おれの名付け親が渋谷リングとか提案してなくってー」
「僕なんかヘタしたら村田ザクだよ。危ない危ない」
「……ザクか、武人としてはかなりいける名前だな」
ヴォルフラムが少々感心している。だからって娘につけるのはよせよ。
「この人達が」
13日かエルム街のどちらかが、冷血男の腕をとった。こんな奴《やつ》と親しくしちゃいけないよとおにーちゃんぶった意見をしてやりたい。しかし彼女達が魔族と同様に、見た目と|年齢《ねんれい》が|一致《いっち》しないということも考えられる。おれよりずっと年上かもしれない。ナマの神様にお会いしたことなど生まれてこのかた一度もないから、用心するにこしたことはない。
「この人達、テンカブに」
「出場すると言ったのか? これはこれは……いやまったく、これはこれは」
顎髭《あごひげ》など扱《しご》いている様子からして、健闘《けんとう》を祈《いの》ってるわけではなさそうだ。嫌な感じだ。同じ顎髭同盟なら、アゴヒゲアザラシのがずっとましだ。
「魔族の国家を招待したとは聞き及《およ》んでおりませぬがな。ああもしや客人方は異種族ながら、カロリアの代表として闘《たたか》われるのか。彼《か》の地は災害からの復興で、それどころではないと思っていたが」
「……よく言うよッ……お前のせいだろ」
「私のせいだと言われるか。それはまたとんでもない|勘違《かんちが》いだ」
少女の肩《かた》に置いていた手を持ち上げる。返した掌《てのひら》を天に向け、スピーチのスタンバイ完了《かんりょう》だ。
「カロリアは小シマロンに領土化されたのだ。従って彼の地の民《たみ》は小シマロン王サラレギー陛下に全《すべ》てを捧《ささ》げねばならない。彼等はそういう運命なのだよ。何人も神の定めた運命には逆らえぬ。寧《むし》ろ陛下のお役に立てることを、幸いと思うべきであろう。現在は祖シマロンたる大シマロンを拝する立場だが、それも今だけのこと。いずれ両国は統合され、サラレギー様が主《あるじ》となられるのだ。この大いなる存在にお仕えできることを喜びと言わずして何と呼ぶべきか」
酔《よ》っちゃってる。
でも一つ、意外な事実が判明した。
「じゃあ今んとこは小シマロンって、大シマロンに頭が上がらないんだ」
マキシーンは|僅《わず》かに|眉《まゆ》を顰《ひそ》め、頬の傷を引きつらせた。
「だが才覚と資質のある者が民《たみ》を統《す》べるのは世の習い。やがてはサラレギー様が大陸全土を、いやこの世の全てを治められる日がくるだろう。それもまた運命というものだ。クルーソー大佐殿」
あからさまに慇懃《いんぎん》無礼な敬称《けいしょう》で、冷蔵庫男はゴーグル越《ご》しにおれの目を覗《のぞ》き込む。
「聞くところによると黒髪黒瞳の双黒《そうこく》は希世の存在だとか。お国でもかなりの高位におられるのだろうが……大佐、そして魔族の皆様方も、果たしてこの遠い敵地に赴《おもむ》いてまで、関《かか》わりもない異国の代理人をされる|余裕《よゆう》がおありだとは。さすがに先の戦《いくさ》で最後まで|抵抗《ていこう》し、我等を苦しめただけのことはある」
気のせいか右隣《みぎどなり》が妙《みょう》に熱い。元プリ殿下《でんか》が怒《いか》りで体温を上げているようだ。いつ剣《けん》を抜いてもおかしくないほど、ヴォルフラムは苛立《いらだ》っている。けれど彼は右手を動かさず、冷徹《れいてつ》な声で言っただけだった。|長兄《ちょうけい》の|真似《まね》でもしているみたいに、見事に感情を抑えている。
「そのとき、お前はいくつだった、人間? どうせ薄汚《うすぎたな》い|寝台《しんだい》の中で、毛布にくるまって震《ふる》えていたのだろうが」
「な……私は既《すで》に十五で……」
「新兵か。そういえばドルマル付近で、怯《おび》えた新兵を見逃《みのが》してやった覚えがある。|恐怖《きょうふ》のあまり粗相《そそう》をしたか、その場が小便臭《しょうべんくさ》くて参ったがな」
「ドルマルになど、行っていないっ」
「ふん、ひ弱な新兵の初陣《ういじん》にはあの程度の小競《こぜ》り合いがうってつけだと思ったが。では激戦のアルノルドまで出たか? そんなはずはない、生きて戻《もど》った者はいるまいと兄から聞かされている」
地名を聞いて|狼狽《ろうばい》するマキシーン。ヴォルフラムに頼もしささえ感じてしまう。
「まさか、アルノルドの生還者《せいかんしゃ》なのか!? ではその若さで……ルッテンベルク師団の一員だったと……」
「あ、そういえばオレ、アルノルドにいたわ」
「え!?」
全員の後ろでヨザックがあっさりと手を挙げた。
「それ、オレんとこの師団の話だ。やー懐《なつ》かしいねェ。あの頃《ころ》はまだオレ様も、とれとれピチピチだったわぁ」
蟹《かに》料理なみとは、恐《おそ》るべし|魔族《まぞく》の外見年齢。刈りポニとヨザックを比べたら、一回り近くの差をつけてヨザックのほうが若い。ただしそれは見た目だけのことで、実年齢は三倍近くの開きがある。フェロモン女王のツェリ様だって、人間でいったらギネスブック並みの老婆《ろうば》なのだ。だが、そうと知ったときにはもう遅《おそ》い。あのナイスバディと蠱惑《こわく》的な|微笑《ほほえ》みに|騙《だま》されて、心身共に|悩殺《のうさつ》済みだ。騙されたおれにも非はあるけど。
「まあ、結局この場で一番のヒヨッコはおれなんだよな。どじょっこだのふなっこだのは春まで出てこないから」
「でもほんと、よかったよねー。そのルーキーにつけられた頬の傷も、すっかり癒《い》えたみたいだし」
マキシーンが唇《くちびる》を歪《ゆが》める。頬《ほお》の傷が引きつった。あれを、おれがつけたって?
「ご|冗談《じょうだん》で……」
喉《のど》まで出かかった言葉は、そのまま呑み込まれた。見る見るうちに男の顔が恐怖に支配されたからだ。刈りポニは双子の腕《うで》を文字どおりひっ掴《つか》み、一目散に走りだした。
「では|各々《おのおの》方《がた》、会場で会おう!」
時代劇みたいなことを言い捨てる。フレディもしくはジェイソンが小さく手を振《ふ》っている。
何が起こったのか判《わか》らずにただ|呆然《ぼうぜん》としていると、轟《とどろ》く蹄《ひづめ》の音と共に動物が|猛然《もうぜん》と突《つ》っ込んできた。
「Tぞう!」
「ンモふっンモふっンモふっンモふふふーっ!」
螺子《ねじ》山《やま》型の|瞳《ひとみ》を三角にし、モコモコ巻き毛も逆立てて|怒《おこ》っている。す。こい鼻息だ。
「なんだ、彼は羊が苦手だったのか。人は見かけによらないもんだよねー」
「羊が……」
同じように冷徹無比な|容貌《ようぼう》でも、小動物を愛して止《や》まない者もいれば、偶蹄《ぐうてい》類を異常に怖《こわ》がる者もいる。子供動物園に同時に放り込んだら、結構なシーンが見られるのではないか。
サイズモアを伴《ともな》って、フリンが|噴水《ふんすい》の向こうに姿を現した。おれを見つけると安堵《あんど》の|笑顔《えがお》を浮かべ、足取りが速まって小走りになった。手の届く場所まで近づくと、不意に心配げな表情になる。冷たい指先が額に触《ふ》れた。
「どうしたの、顔色が悪い」
「んー? 別にィ。さっきから特に変化はないよ。きっとここが寒いから、唇とか紫《むらさき》になってるんじゃねえ?」
確かに、|先程《さきほど》から特に変化はない。急に容態が悪化したわけではなく、上陸してからずっとこうなのだ。風邪《かぜ》の初期|症状《しょうじょう》に似た感じが、胸と頭を苛《さいな》んでいる。軽い吐《は》き気と息苦しさ、頭が重く、少し痛む。それから、耳鳴りもだ。
「無理もないさ、人間の土地だし。さっきまで目の前に神族がいたんだ。法力の|粒子《りゅうし》が強いんだろう。魔力《まりょく》の強い者は肉体的にも精神的にもきついよ。フォンビーレフェルト卿《きょう》もしんどいんじゃない? 僕とグリエさんとサイズモア|艦長《かんちょう》は平気なはず……どうした艦長、浮かない顔して」
名前を挙げられた中年男性は、沈《しず》んだ表情で|頷《うなず》いた。
「いいえ。いいえ猊下《げいか》、ご心配いただき|恐縮《きょうしゅく》ではございますが……そのぉ、非常に個人的な|些末《さまつ》なことでして」
フリンが登録証を捲《めく》りながら、怪訝《けげん》そうに小首を傾《かし》げた。銀の髪が肩を流れ、午後の日差しに|煌《きら》めいて背中を覆《おお》う。
「この人ずっと落ち込んでいるのよ」
「落ち込んで? なんだよ艦長、|遠慮《えんりょ》せずに言ってみな。おれか村田にできることなら……」
「ああ陛下、もったいのうございます! 自分はただ、そのー、この国の兵士が皆《みな》、|誰《だれ》も彼もが……髪が素敵《すてき》なので……」
髪がステキー!? 新前魔王も超《ちょう》美少年元プリ|殿下《でんか》も、さすがの大賢者様さえ鸚鵡返《おうむがえ》しだ。
言われてみればふわふわロン毛も魅力《みりょく》的だが、少なくとも中年男が夢見るヘアスタイルではないような。それともフランシスコ・ザビエル魔族としては、頭頂部にも毛があることは憧《あこが》れなのだろうか。
口火を切ったのはヴォルフラムだった。
「お、お前は馬鹿《ばか》かっ!? 武人にとって髪《かみ》など頭部を保護できればそれで充分《じゅうぶん》だろう!」
「は、申し訳ありません閣下! |仰《おっしゃ》るとおりでございます」
「まあまあヴォルフ。サイズモア艦長もさ、そんなに気になるなら軍人から野球に転向すりゃいいよ。帽子《ぼうし》かヘルメットで隠《かく》せるしさ」
「駄目《だめ》だよ艦長、自分の個性を隠すのはよくない。その点サッカーなら大丈夫《だいじょうぶ》。ジダンなんか世界的|英雄《えいゆう》だよー?」
「髪ってそんなに重要なこと?」
輝《かがや》くプラチナブロンドのフリンの発言に、おれたちは一斉《いっせい》に反論した。
「あんたに言われたかないよ!」
野郎どもの抗議に一瞬ひるむが、すぐに気を取り直して話題を変える。
「ええそうね、私の髪はそれなりに|綺麗《きれい》よ。だって女の武器のひとつですものね。でも今は頭髪《とうはつ》よりも毛皮を探さなくては。『知・速・技・勝ち抜《ぬ》き! 天下一|武闘会《ぶとうかい》』の開催日《かいさいび》は明後日《あさって》なのよ。それまでに速さ部門で使用する車と、牽引《けんいん》する動物を手配しなくちゃならないわ」
おれの聴覚《ちょうかく》が田嶋《たじま》ならば、フリンは女の武器を利用してきたと言っただろうか。けしからん、ジェンダー教育の問題だ。いやそんなことより、おれの聴覚が確かならば、彼女は車とそれを引く動物と言っただろうか。
なにそれ。
本当に天下一武闘会なのか、いよいよ怪《あや》しくなってきた。
「知・速・技・勝ち抜き! 天下一武闘会」、|大胆《だいたん》に略して「テンカブ」は、文字どおりの総合競技会だった。
つまり、頭でっかちでもいけないし、|脳《のう》味噌《みそ》きんにくんでも優勝はできない。知的で強くて顔が良くても、うちの母親お気に入りのキャッチコピーみたいに、のろまな亀《かめ》では許されない。
「順番はそのまま、まず『知』で篩《ふる》い落とされ、次に『速』へ進む。このために車と動物が必要なの。ニルゾンを出発点として、決勝戦の行われる大シマロン王都ランベールまで、出場全地域の選手団が車で競争するのよ」
「待て! 待てよ、その知能テストってのは、自販機《じはんき》でジュースが買えるかとかそういう技能でいいのか?」
「渋谷、チンパンジーじゃないんだからさ」
「筆記問題だと聞いてるけれど……私も初めてなものだから」
「くはー、筆記試験! そんなん残れるわけねーじゃん。実生活でもマークシート上手なおれが、外国語の試験でいい点採れるわけねえよ」
しかもフリンは選手|枠《わく》の三人に、おれとヴォルフラムとヨザックを登録していた。おれたちがあまりに自信ありげなので、決勝まで残ることを見越《みこ》した人選だという。
だって決勝戦は『技』こと武闘会なのよ。大シマロン選出の最強兵士と戦わなければならないのよ。失礼だけど、ロビンソンさんはあまり戦闘能力が高そうに思えなかったんだもの。大佐《たいさ》だって大差はなさそうだけど、あなたは計り知れない魔力の持ち主だし。
間にベタな駄洒落《だじゃれ》まで挿入《そうにゅう》して、必死に説明してくれた。曰《いわ》く、金を積んで他国の傭兵《ようへい》を雇《やと》ってもいいが、三人のうち一人は自地域に属する者であること。曰く、決勝で剣《けん》を交えるのは、前回の優勝国である大シマロンであること。事実上の永久シード権だ。
「それはどゆことー? つまりおれは謎《なぞ》の魔族でもクルーソー大佐でもなく、カロリア人のノーマン・ギルビットとして登録されてるってことー?」
「……そうなの」
「あちゃー」
おれの敗北はノーマン・ギルビットの敗北、おれの勝利はノーマン・ギルビットの勝利か。故人の名誉《めいよ》がかかって責任倍増だ。
「けど、あんたの|旦那《だんな》がずっと前に死んでることを、大シマロンの幹部連中は知ってるんじゃないの?」
「疑われてはいるけれど、まだ確信はないと思うの。彼等は最初から私に|接触《せっしょく》してきたわ。ノーマンは高潔な人柄《ひとがら》だったから、たとえカロリアの若者のためだとしても、ウィンコットの毒を邪《よこしま》な目的で譲渡《じょうと》するとはシマロン側も考えなかったんでしょうね」
なんともいえない自嘲《じちょう》めいた笑《え》みを浮かべて、フリンは脇《わき》の露店《ろてん》に視線を移した。
あんたならやりかねないと思われていたわけか。
自国の青年兵を救うためなら、フリン・ギルビットはその白い手をも汚《よご》すと評価されていたんだな。
大急ぎで市場に駆《か》け込んだが、売られているのは日用品や食糧《しょくりょう》ばかり。オールインワン馬車セットを扱《あつか》っていた商人は、とっくの昔に店じまいしたという。夕飯の食材を買い込む人々で賑《にぎ》わう路《みち》を、おれたちは溜《た》め息まじりにそぞろ歩くしかなかった。
「しゃーないなあもう。よーし、じゃあ南瓜《かぼちゃ》、カボチャ買っちゃうから、ムラケンの力で馬車にしてっ」
「無理。レッツ自力でチャレンジ、ゴー」
「ぼくの偉大《いだい》さを思い知らせる提案があるが」
「どうぞ!」
二人同時にヴォルフラムヘと指マイクを向ける。
「ドゥーガルドの|高速艇《こうそくてい》に、上陸用の戦車が一台だけ|搭載《とうさい》されているぞ」
「それだよ! けど戦車ってどういうんだろう。砲台ついて重いタンクだと、馬の力では引けない気がする」
ガソリンも電気も原子力もないエコロジーな土地で、世界観を間違《まちが》えた発言だった。
「あれは軽くて小回りが|利《き》くが、とにかく戦車としての内部が|狭《せま》い。牽《ひ》くほうの労力が最小で済む分、乗る側の兵士は|我慢《がまん》を強《し》いられることになる」
「なるほど、居住性が|犠牲《ぎせい》になってるわけか」
車内に住むわけではないのだから、多少狭くても問題なし!
「燃費が良くて速いんだろ? それ使おう。とにかく速いに越したこたないよ。この際、技巧《ぎこう》派より速球派だな。じゃああとは、車を牽く馬だよ、馬」
「実行委員会の指定は四馬力以内よ」
よし、四頭立てだな。ところが市場中を探してみても、馬を扱う商人は一人も居なかった。
誰もが愛する人気動物だから、開催準備期間の初期でレンタル手続きが|終了《しゅうりょう》してしまったらしい。馬だけではない、牛も、マッチョもだ。
「マッチョ!?」
「ええと、牽引力《けんいんりょく》数値対照表によると……筋肉集団は十二人で四馬力ね。別に車を牽くのは馬じゃなくてもいいのよ。換算《かんさん》した数値が規定を超《こ》えていなければ」
「な、何でも!? てことは|砂熊《すなぐま》や地獄極楽《じごくごくらく》ゴアラでも? うっかり見損《みそこ》ねたラバカップでもいいってのか」
「そんな珍獣《ちんじゅう》は飼い慣らせないわ」
ではおれは、相当貴重なものを見物したことになるのか。こうなったらいっそ十二人のマッスルが車を牽いて、|砂漠《さばく》を|爆走《ばくそう》する姿も見たい。名付けて炎《ほのお》の人力車だ、さぞかし凄《すさ》まじいことだろう。肩《かた》を組んでビレッジ・ピープルの歌を口ずさむ。通過した後に残るのは、ほんのり甘酸《あまず》っぱい漢《おとこ》の|汗《あせ》の香《かお》りだけ。
サイズモアと並んで歩きながらモコ毛に指を突《つ》っ込まれていたTぞうが、なにやら低く|唸《うな》り始めた。いい加減、|反芻《はんすう》にも飽《あ》きたのだろうか。
「どうした、|嫉妬《しっと》に狂《くる》った|艦長《かんちょう》が毛でも抜こうとしたのか?」
「へ、いかー。自分はそんなこといたしません」
「ンモふーっ!」
彼女は|一瞬《いっしゅん》、身を屈《かが》め、|跳躍《ちょうやく》の勢いで駆けだした。猛《もう》スピードで角を曲がり、すぐに見えなくなってしまう。大変だ。|大慌《おおあわ》てで後を追うと、三百メートルほど離《はな》れた一角で、白っぽい物体が集団で蠢《うごめ》いていた。羊だ。数えているうちに眠《ねむ》ってしまいそうな数の羊だ。
Tぞうは群れの中心に駆け込んで、羊仲間の大歓迎《だいかんげい》を受けていた。鼻を|擦《こす》ったり毛玉同士ぶつかり合ったり、地面を転がり回ったりして喜びを表現している。
脇には中学生くらいの女の子が、母親らしき女性と共に立っている。太く不格好な三つ編みが、振《ふ》り向く速度に|遅《おく》れて揺《ゆ》れた。
「あっ、メリーちゃん!」
なんだよ村田、こっちの世界超久しぶりとか言っておきながら、ちゃっかり彼女候補まで作ってたんかよ、の冒頭《ぼうとう》「なん」まで言いかけてから気付いた。メリーちゃんの羊だ!
平原組の領地を通過するとき、三十頭|程《ほど》の羊を連れていた。その内の一頭がTぞうだが、彼女だけは旅の仲間になってしまったのだ。残る二十九頭は、旅費の足しにと羊飼いに売った。
おれはその場に立ち会わなかったが、村田によると女の子と取り引きしたらしい。
どういう|経緯《けいい》で大シマロンに渡《わた》ったのかは別として、この群れは元々Tぞうの仲間だ。大好きな反芻を中断して、突っ走ったのも頷《うなず》ける。
「ンモっンモっンモっンモっンモシカシテェェェ」
副詞的表現大連発。
心温まる光景を見守りながら、フリンがぼそっと|呟《つぶや》いた。
「羊は、十六頭で四馬力よ」
……ん? もしかしてェ!?