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彼は人のいい笑《え》みを|浮《う》かべ、おれに胸《むな》ぐらを掴《つか》まれたままで立っている。
「お久しぶりです、陛下」
数歩後ろでヨザックが、抑《おさ》えた声で短く言った。
「離《はな》れてください。彼は三人目だ」
「なんでそんな服着てるんだ!? なんでこんなとこに……どうしてシマロンなんかに……」
ウェラー卿コンラートは、黄色と白の似合わない軍服をまとい、大シマロン側の陣《じん》から現れたのだ。
「元々ここは、俺の土地です」
銀を散らした|瞳《ひとみ》を細め、さして重要なことでもなさそうに言った。
「俺の先祖が治めていた土地ですよ」
「先祖って何だよ、治めてたって……王様とか大統領みたいなこと言っちゃって……」
「そんなに偉大《いだい》な人物ではありませんけどね」
「だって」
歴史に弱い頭がくらりとした。|倒《たお》れる前にと、おれは右手を額に当てた。雪と泥《どろ》で汚《よご》れた|掌《てのひら》には、まだ彼の体温が残っている。
「あんたの国は海の向こうだろ、おれと同じ眞魔国の住人だろ? なんで人間の国にいるんだよ、どうしてシマロン側のベンチから……」
「申し訳ありません。少々事情が変わりました」
「事情だと!?」
死ぬほど心配させておいて、ひょっこり敵として現れるなんて。どんな恐《おそ》ろしい理由かは知らないが、その一言ではとても納得できない。
「聞かせてもらおうじゃないか、ちゃんと聞かせてもらいたいねッ」
「あなたこそ……おっと」
コンラッドの指が手首に掛《か》かると同時に、|凄《すご》いスピードでヨザックがおれを掴んだ。脇《わき》と腰《こし》をがっちりホールドされ、そのまま後ろに引きずられる。
「ちょ、ちょっとおいっ」
手荒《てあら》さではどちらが敵か判《わか》らない。ウェラー卿は苦笑いを浮かべながら、おれと友人を|交互《こうご》に見た。
「……その手の中の覆面《ふくめん》は何ですか。しかも三人|揃《そろ》ってカロリア代表だなんて、お節介《せっかい》にも程があるでしょうに」
「おれのことを|訊《き》いてんじゃねーよ! あんたの事情とやらを訊いてんだろが! なんだよ|畜生《ちくしょう》、そんな派手な色の服着ちゃって。阪神《はんしん》ファンでもないくせに。全然似合わねえ、ぜーんぜん似合わねえッ。脱《ぬ》げよ、今すぐそんなん脱いじまえって」
急激に上がった血圧と溢《あふ》れだすアドレナリンを抑えきれず、意思とは逆に両手足をばたつかせてしまう。試合で使う脳の一部では、冷静になれと呪文《じゅもん》のように繰《く》り返しているのに。
「陛下っ、落ち着いて。とにかくまずは猊下《げいか》の元に戻《もど》るんだ。|没収《ぼっしゅう》試合になってもかまわないんですか」
ヨザックがおれをホールドしたまま、ベンチに引っ張って行こうとした。人間関係の呑《の》み込めない|審判《しんぱん》達は、こちらの|剣幕《けんまく》に様子見を決め込んでいる。
「お前にも責任があるぞ、ヨザック」
顎《あご》を固定していた右手の甲《こう》が、ぴくりと一回反応した。
「お前がついていながら、陛下を何故こんな危険な目に遭《あ》わせている?」
「……そいつは申し訳ありませんでしたねェ」
耳のすぐ後ろで聞こえるヨザックの声は、|僅《わず》かな皮肉で語尾《ごび》が上がっている。
「オレじゃなくてうちの隊長がご|一緒《いっしょ》なら、さぞや安全な旅になったことでしょうが。残念ながら当の本人が行方《ゆくえ》知れずで、無責任にも姿を現さなかったもんで」
「お前とアーダルベルトなら、三戦目までもつれることはないと踏《ふ》んでいたのに」
彼ならアーダルベルトに勝てたはずだと、暗に仄《ほの》めかしているのだ。フリンとマキシーンの一件は、敵|陣営《じんえい》に伝わっていないのだろうか。|探《さぐ》りを入れるというよりも、本当に不思議に思っているようだ。
「何故あんな|真似《まね》を」
「あれは、おれが……」
耳元でヨザックが止めた。
「陛下、話す必要はありません。彼は敵だ。そうでしょう」
「敵……? コンラッドが、敵……の、はずが」
おれの困惑《こんわく》をよそに、ウェラー卿は不意に語調を強くした。
「カロリア代表は決勝を続行する気がないのか?」
審判に対してのアピールだ。
「続行の意思があるのなら、速《すみ》やかに三戦目に挑《いど》んでいただきたい。もしもその気力と戦力が整わぬならば、潔《いさぎよ》く|棄権《きけん》を申し入れ、敗北を受け入れるよう進言したい」
最悪の|性癖《せいへき》が出かかって、おれは繰り返し唾《つば》を飲み込んだ。いくら短気だとはいえ、ここで|爆発《ばくはつ》しては何にもならない。振り絞《しぼ》るように落ち着いた声を作り、今にもベンチから駆《か》けつけようとしている二人を制した。
「……おれが勝ったら、その服、脱ぐんだろうな」
コンラッドは左手の指先で、白い|縁取《ふちど》りの襟《えり》を摘《つま》んだ。おれの言葉をはぐらかすような仕草が、抑えていた感情に油を注ぐ。
「おれが勝ったらこっちに戻るんだろうなッ!? ええ!? そんな裏切り者と同じ場所に座ってないで、おれのところに戻ってくるんだろうな!?」
「さあ」
ウェラー卿はゆっくりと首を振る。
「必ずしもあなたが、最高の指導者というわけではない」
まるで画質の悪いビデオのコマ送りみたいに、視界の端《はし》がちらついた。
ツェツィーリエは震《ふる》える指で遠眼鏡《とおめがね》を握り直し、眼下の光景を見直した。
潤《うる》んだ翠《みどり》の瞳には、何度でも同じ姿が映される。
「……どういうことなの……」
隣《となり》に座る知り合ったばかりの友人に、便利で残酷《ざんこく》な道具を渡《わた》す。
「どうなさいました?」
高く離れた|貴賓《きひん》席の硝子越《がらすご》しにフリン・ギルビットが|確認《かくにん》できたのは、灰色に汚れた雪の地面を引きずられ、自陣《じじん》に戻ってゆくユーリだった。暴れる彼を無理やり運んでいるのは、複雑な表情のヨザックだ。
|筒先《つつさき》を上げて視点を中央に戻すと、|憮然《ぶぜん》とした顔の審判に挟《はさ》まれて、大シマロン側の三人目が立っていた。
性格がそのまま顕《あらわ》れているのか、一見したところ|穏《おだ》やかで人の良さそうな顔つきをしている。あるいは……表にだしているのは|全《すべ》てが作り上げられたもので、窺《うかが》い知れぬ心の奥底には、恐ろしい何かを隠《かく》しているのかもしれない。
フリンが直感的にそう思ったのは、彼女が武人を見慣れているからだ。
父親の荒《あら》っぽい仕事のお陰《かげ》で、幼い頃《ころ》から数えきれないほどの兵士を見てきた。腕《うで》の立つ者の見分け方は心得ているし、力の背後にある過去にも敏感《びんかん》だ。フリンにとって最も理解できないのは、戦士でもないのに強さを備えた存在だった。
あの人[#「あの人」に傍点]のように。
ふと浮かんだ名前を振《ふ》り払《はら》うように、銀の髪《かみ》を軽く揺《ゆ》する。握り直した遠眼鏡で、対戦相手を再び見る。
寒空での|消耗《しょうもう》を抑える立ち方と、武具を扱《あつか》い慣れた腕回り。標準よりやや身長は高いだろうが、戦士らしく均整のとれた体つきだ。二十歳《はたち》そこそこだろうと思われるのに、腰に帯びた剣《けん》に置かれた腕は、試合前の|緊張《きんちょう》もしていない。|薄茶《うすちゃ》の髪と同系色の|瞳《ひとみ》。髪が短い点を除けば、典型的なシマロン人という|容貌《ようぼう》だ。少なくとも二人目の|金髪《きんぱつ》よりは。……以前にナイジェル・ワイズ・マキシーンの連れだった男は、大シマロンの兵士にしては派手すぎる。
「どなたです? 奥方様のお知り合いですか」
「……|息子《むすこ》よ」
「え?」
美しい人の|囁《ささや》き声が、|一瞬《いっしゅん》だけ|涙《なみだ》に濁《にご》ったように聞こえた。だがすぐにツェツィーリエは自分を取り戻し、母というより某国《ぼうこく》の貴人としての態度に返った。
「彼は国でも有数の剣の使い手よ。そして|誰《だれ》よりも堅《かた》く新王に忠誠を|誓《ちか》った者……なのに何故《なぜ》こんな異国の|闘技《とうぎ》場で……最愛の主《あるじ》と対しなくてはならないのかしら。もしもこれが眞王《しんおう》のお与《あた》えになる試練ならば……眞王陛下は、あの子にばかり厳しすぎます」
「ご子息、ですか」
フリンはもう一度、視線を戻した。隣に座る|美貌《びぼう》の貴婦人は、成人した息子がいるようにはとても見えない。
「次男のコンラートよ」
しかも次男。
よほど幼くして嫁《とつ》いだのか、それとも見た目と実年齢《じつねんれい》が激しく異なるのか。
薄々|勘付《かんづ》いていたことが事実になった。|魔族《まぞく》の|寿命《じゅみょう》は人間の数倍と聞く。やはりこの人達は魔族で、我々人間と敵対する国の貴族達なのだ。彼女に頭を垂れるダカスコス、サイズモアも。
ツェツィーリエばかりではない。フリンにとってはクルーソー|大佐《たいさ》である彼も、その友人も。母親|譲《ゆず》りの金髪の婚約《こんやく》者も皆《みな》、魔族ということになる。
当然だ。ウィンコットの紋章《もんしょう》を受け継《つ》ぐ大佐が、人間であるはずがない。あの恐《おそ》ろしい力を持つ者が、そこらの人間であるはずがなかった。認めたくなかっただけなのだ。
では、闘技場の中央で「カロリア代表」を待つ青年も?
長い沈黙《ちんもく》に耐《た》えられず、フリンは口を開いた。
「ヴォルフラム……様と比べて、あの方はあまり、その……奥方様には似ていらっしゃらないようですが」
「次男の父親は人間なの。故国を追われた剣持《けんも》つ旅人よ。名をダンヒーリー・ウェラーといって……」
「ダンヒーリー!?」
聞き返す言葉が|驚愕《きょうがく》で上擦《うわず》る。
「では、ではご子息はダンヒーリー・ウェラーの息子だと|仰《おっしゃ》るのですか」
「ええ、そう。ウェラー|卿《きょう》コンラートはあたくしの息子よ」
シマロンの兵士と近い容貌を持つはずだ。彼の父親はこの地に栄えた一族のうち、最後に名を残した男だった。
フリン・ギルビットは冷たくなった指で口元を押さえた。血液が頭から|爪先《つまさき》まで一気に落ちる。幾《いく》つもの名前が絡《から》まって、脳の内部で回転する。
犯《おか》した罪を知られる前に、命を絶ってしまいたいと心底思った。
ヨザックに引きずられてベンチに戻《もど》ると、おれは|椅子《いす》を蹴《け》り、|壁《かべ》を叩《たた》いて、誰にともなく|叫《さけ》んだ。どうしようもなく取り乱している。みっともない、けれどそう簡単には治まらない。
「どういうことだ、どういうことだよ!? あの態度ッ」
先程までの雰囲気《ふんいき》は掻《か》き消えて、重苦しい空気だけが残されている。倒《たお》れた予備の武器が当たったのか、バケツがけたたましい音を立てた。格好の八つ当たり相手を発見し、表面がへこむまで蹴り上げる。
「洗脳されてんだよ! 絶対に|脳《のう》味噌《みそ》いじくられてんだ! アメフトマッチョいただろ!? アメフトマッチョ」
「ユーリ」
「あいつ脳味噌掻き回すの得意なんだ。なんつったっけ、タマシイのヒダとかいうの。そこぐしゃっとして……」
「ユーリ! 蹴るのをやめろ。気が散るだろうが」
硬《かた》い椅子に腰《こし》を落ち着けたままで、ヴォルフラムは軽く両眼《りょうめ》を閉じていた。組んだ腕の中程で、人差し指が神経質そうに動いている。
おれは檻《おり》の中の狼《おおかみ》みたいに、落ち着きなくうろうろと歩き回る。
「操《あやつ》られてんだ。そうに決まってる。でなきゃコンラッドがおれを裏切るはずがない」
村田は|眉間《みけん》の皺《しわ》をどうにか戻そうとしていた。
「見たところ誰かにコントロールされてる様子はないね。それに、きみたちから聞いた話では、彼は|左腕《ひだりうで》を失っているはずだけど」
そうだ。
あそこにいる、ほんの数分前に言葉を交《か》わしたコンラッドには、左右両方の腕があった。|握《にぎ》った感触《かんしょく》も体温も、とても義手とは思えない。
けれど、おれはあの恐ろしい光景を覚えている。
狩《か》りの獲物《えもの》が空から落ちるような、肉が地面に転がる|不吉《ふきつ》な音。指は握るように曲がったままで、肘《ひじ》の角度もごく自然だった。血は|一滴《いってき》も流れておらず、こちらのほうこそまるで精巧《せいこう》な義手みたいだった。
守護者の背中は逆光で影《かげ》になっていたが、左肩から下はなかった。
「ぼくもこの目で確認した」
どうにか苛立《いらだ》ちを抑《おさ》えた口調で、ヴォルフラムも肯定《こうてい》する。
「コンラートの腕だったと思う。袖《そで》の飾《かざ》り釦《ポタン》があいつの物だった……これだ」
三男は上着の内ポケットに手を突《つ》っ込み、小さな粒《つぶ》を取りだした。丸く精巧な貝細工だ。元の色は乳白色だが、煤《すす》と高熱で黒ずんでいる。受け取ろうとした指が震《ふる》える。
「それ覚えてるよ……シャツの袖留めてたやつだろ?」
「そうだ」
「だとすると、ウェラー卿の左腕はまだ城にあるはずなんだろう? 僕等は小シマロンでもそれを見た。それで今、目の前にいる対戦相手にも、しっかり二本の腕がある……|騙《だま》されてんのかな」
「騙すって?」
反射的に|訊《き》き返すおれに、村田はあながち|冗談《じょうだん》でもなさそうな調子で言った。
「一、最初から義手だった。二、|斬《き》っても斬っても腕が生えてくる体質」
「生えて……なんか新種のミュータントみたいだな」
歩き回った挙げ句に自分の位置を決めたらしく、村田は|扉《とびら》近くの壁に寄り掛《か》かった。かけていない眼鏡《めがね》を直したそうに、人差し指が顔の前で泳いだ。
「もしくは、三、あそこにいるのは本物のウェラー卿ではない、とか」
「偽物《にせもの》だっていうのか? いやそれは違《ちが》うって。お前だって何となく判《わか》るだろ。生まれる前に会ってたって言うんならさ。あれは本物だよ、村田、絶対に本物だ」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
だって決まってるだろ。
「おれがコンラッドを間違えるはずがない」
ヴォルフラムが頬《ほお》の筋肉を|僅《わず》かに動かした。
「そうだろうな。ぼくもあれは兄だと思う」
兄って、今、兄って言ったか!?
彼のほうがずっと冷静だが、時折、信じられないような単語を口にするので、こちらの心臓にはすこぶる悪い。
「だがそうだとしたら|尚更《なおさら》、敵方につく理由が判らない。人間の血を半分引くとはいえ、ウェラー卿コンラートは魔族として生きると誓ったはずだ。私怨《しえん》に駆《か》られて|同胞《どうほう》を裏切ったグランツとは違う。大戦時の非道な扱《あつか》いで溝《みぞ》があったにせよ、今になってユーリに……王に仇《あだ》なす道理がない。不思議なことに、腕《うで》もあるし」
「そうだよな。斬り落とされたんだ。大シマロンの兵士……らしき連中に。ここの国の奴等《やつら》が斬ったんだぞ。ギュンターを撃《う》ったのだって、この国の奴等だ。それ考えたらいくら父親の生まれ故郷で、先祖の住んでた土地だからって、|普通《ふつう》シマロンの代表にはなれないだろう。そうなるとやっぱもう洗脳されたとしか……」
再会の感動は|驚《おどろ》きを軽々と超《こ》えて、既《すで》に怒《いか》りになっている。
「……ぶん殴《なぐ》ってくる」
おれは自分の選んだ武器を握り締《し》め、再びフィールドに戻ろうとした。|膝《ひざ》が震える。
「目ぇ覚まさせてやる! おれがこの手で」
ヴォルフラムに腕を掴《つか》まれる。
「|駄目《だめ》だユーリ。自分でも判っているだろう、お前の腕でコンラートにかなうわけがない。あいつのことだから恐らく手加減はするだろうが……もし自分自身でも|制御《せいぎょ》できない状態だったら……やはり駄目だ。危険すぎる」
「危険とか言ってる場合じゃねーよ! 腕とかかなわないとかそういう問題じゃないんだって。コンラッドが|誰《だれ》かの電波で操られてるなら、今すぐそれを断《た》ち切らなきゃなんないだろ。おれじゃない奴の命令に無理やり従わされてるなら、一分でも一秒でも早く解放しなきゃなんないだろ!? だってコンラッドは……」
「本当に操られてるんですかね」
それまでずっと|黙《だま》り込んでいたヨザックがおもむろに口を開いた。
「本当に、無理やり従わされているんでしょうかね。間近で眼も見たし、言葉も交わしましたが、操られているようには思えなかった。ああ陛下、差し出がましい口をきいて申し訳ありません。オレにはですよ、オレには」
ヨザックはおれを見て謝った。|怒《おこ》りたいんだか泣きたいんだか判らない顔をしていたのかもしれない。|眉毛《まゆげ》が情けなく八の字になっている気がする。肩《かた》から力が抜《ぬ》けかけるのを堪《こら》えた。
「……自分の意志で裏切ったってことか? じゃああんたはさ、コンラッドがおれたちに嫌気《いやけ》が差して、自分からシマロン兵になったって言うのか?」
「いえ、そういうことではなく」
「そんなこと言うなよー、そんな冷たいこと……|一緒《いっしょ》に闘《たたか》ったんだろ? 何度も生死を共にした、信頼《しんらい》する戦友なんだろ。また彼の下で働きたいって、あんただってそう思ってるんだろ」
もちろん、それとこれとは話が別だ。
おれに危険が及《およ》ぶとなればヨザックは、たとえ相手が親友でも剣を向けるだろう。それが彼の義務だ。グリエ・ヨザックが忠誠を|誓《ちか》う相手はウェラー|卿《きょう》ではなく、|眞魔《しんま》国の第二十七代魔王だ。王を護り、命に従う。
そして王は、おれだ。
臣下に、王を護る義務があるのと同様に、王には民《たみ》に対する責任がある。
おれには責任があるんだ。
「取り戻さないと」
取り戻さなくてはならない。ウェラー卿コンラートを。
魔族として生きると誓った男だ。
血ではなく、精神で。
「信じていいんだろうね」
ここにない何かを欲しがっている顔で、村田がヨザックにもう一度念を押す。
「|幼馴染《おさななじ》みとしての直感ってのを」
グリエ・ヨザックは傍《かたわ》らの斧《おの》に指をかけ、柄《つか》を辿《たど》りながら|頷《うなず》いた。
「操られているようには……オレには見えませんでした」
「うーん、だったらいっそ安心なのか……ああもうっ、ミニすり鉢《ばち》とゴマがあればなあ!」
「なになにっ、ゴマでどんな秘術が!?」
「違う、秘術じゃない。考えがまとまりやすいんだよ。あれでこう、ごーりごーりごーりごーりしてると、精神統一がしやすいっていうか」
思わず想像してしまった。心頭を|滅却《めっきゃく》するために、様々な食材を粉末状にしていく大賢者《だいけんじゃ》様。
「何だよッ、よーく考えろよー、集中力は大事だよー?」
まさに天才の行動は判らない。ていうか、スリコギはなくてもいいんですか?
「よし、ここは彼の言葉を信じよう。ウェラー卿が操られていないなら、絶対にきみを傷つけることはないだろう。ま、打ち身|捻挫《ねんざ》程度は|怪我《けが》に数えないことにして。だったら一か八かキングを進めて勝負に出ようか」
趣味《しゅみ》の欄《らん》にチェスとか書いていそうな十六歳は、おれの|肩越《かたご》しに対戦相手を見詰《みつ》めている。
「……誰が何と言おうと直接勝負しないと気が済まないんだろ、|渋谷《しぶや》は」
「そのとおりデす」
不自然な丁寧《ていねい》語の返事を残し、|諦《あきら》め気味の友人に背を向けて、おれは今度こそ一人で中央へ向かった。コンラッドは姿勢を崩《くず》さずに、さっきと同じ笑《え》みで迎《むか》えてくれる。
なんだよ、おれの味方でもないくせに。
「困った|御方《おかた》だ、どうあっても、|棄権《きけん》してはくださらないおつもりですか」
「しない。これで脳天ぶん殴って、目ェ覚まさせてくるって約束した」
「参ったな」
コンラッドはおれの装備に目を走らせる。腐《くさ》っても「王《おう》に金棒」だ。見た目の破壊《はかい》力はまずまずだろう。
「それで思い切りやられたら、頭蓋骨《ずがいこつ》陥没《かんぼつ》は免《まぬか》れない」
「そうだ。しかもピンチになったら必殺|技《わざ》をだすぞ。渾身《こんしん》の力をこめて股間《こかん》を蹴《け》り上げるからな。あんたも男なら、男らしく痛がれ」
経験のある|衝撃《しょうげき》を想像したのか、コンラッドは|一瞬《いっしゅん》、|眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。だが、すぐに元の表情に戻《もど》り、およそ場にそぐわない言葉を口にする。
「それでも俺は、手加減しますよ」
「おう! 手加減は|一切《いっさい》無用、この際ガチで決着を……なに?」
耳を疑う決意表明に、おれは顎《あご》を突《つ》きだして問い返してしまった。
「なんだって?」
「聞こえませんでしたか。手加減します」
手加減します、手加減しまさぁ、テカゲンしまっせ……。頭の中でこのフレーズが回転する。
対戦相手は生死不明だった腹心の部下、泣くほど心配させておいての再登場が、敵方の格好いいラスボスキャラ。これまでの信頼関係と因縁《いんねん》に|葛藤《かっとう》する二人をよそに、無慈悲《むじひ》にも今、闘いのゴングが鳴る!
……というお約束だが盛り上がるシチュエーションで、手加減すると言われた者がかつていただろうか、いやいない(反語)。普通はそこ「手加減はしません」って台詞《なりふ》がくるんじゃないの? |嘘《うそ》も方便って格言もあるくらいだし。二度も訊き返してしまった後では、するのかよ!? の突っ込みも通用しない。
「全力で闘おうとか思わないもんかなぁ」
「まさか! 陛下に怪我でもさせようものなら、生きてここから帰れそうにないですからね。だからといって勝たせて差し上げるわけにもいきません。こちらも一応、大シマロン代表という立場ですから」
一瞬でも期待したおれが|馬鹿《ばか》だった。己《おのれ》の卑《いや》しさが情けない。でもそれ以上にダメージを受けたのは、ウェラー卿が敵だと思い知らされたことだった。
彼は大シマロン代表として黄色と白の軍服を着ている。おれはカロリア代表で、ポケットから銀のマスクをはみ出させている。
あれほど会いたかったのに。
「……でも生きてる」
ともすれば俯《うつむ》きそうになる顔を上げ、おれは武器の柄を|握《にぎ》り直した。金属バットに酷似《こくじ》したグリップは、すっかり|掌《てのひら》に馴染《なじ》んでいる。
「生きててくれただけでも、嬉《うれ》しいよ」
「陛下」
「陛下って呼ぶな、名付け親」
聞き慣れた「そうでした」を遮《さえぎ》って、闘いに飢《う》えた男の声が響《ひび》く。
「待て! その試合、ちょっと待った!」
相撲《すもう》にはそう詳《くわ》しくないおれだが、取組前に物言いがつくとは思わなかった。
薄暗《うすぐら》い敵方ベンチから、マッチョが新巻鮭《あらまきざけ》背負《しょ》ってやって来る。全方向から投げかけられる|松明《たいまつ》の光に、鋼《はがね》の|凶器《きょうき》が輝《かがや》いた。
「アーダルベルト」
思わずアメフトマッチョと呼びそうになる厚い|胸板《むないた》。まぶしい|金髪《きんぱつ》とトルキッシュブルーの|瞳《ひとみ》、少々左に傾《かたむ》いてはいるが、高く立派な鷲鼻《わしばな》。そしていかにも白人美形マッチョらしく、うっすらと割れた|頑丈《がんじょう》な顎。
魔族を憎《にく》み、眞魔国の混乱を望む男、アーダルベルト・フォングランツは意味ありげな笑いで足を進めた。焦《じ》れったいほどゆっくりだが、彼の一歩ごとに会場はヒートアップする。第二試合の勝者を前にして、先程までの興奮が甦《よみがえ》ったのだろう。人々は|拳《こぶし》を突き上げて、滅茶《めちゃ》苦茶《くちゃ》なリズムで足を踏《ふ》み鳴らした。
「その勝負には、異議があるぜ!」
全観衆|一斉《いっせい》に息の合った相槌《あいづち》。
「はあ?」
「この大会は、一発勝負! インチキ|武闘《ぶとう》会だったか?」
アーダルベルトが耳に右手を当てると、観客席から「What!?」の嵐《あらし》。この光景は深夜にテレビで目にしたことがあるぞ。
「勝ち抜き! 天下一武闘会だったはずだな!?」
「はあ!?」
はあ、はこっちだ。おいおいおい、国民全員ハルカマニアかっつーの。
アーダルベルトは面白《おもしろ》がるように|審判《しんぱん》を指差し、同じ質問を繰《く》り返した。
「勝ち抜き! 天下一武闘会だったはずだな? だったら二戦目の勝利者は、そのまま敵の三人目とやる権利があるってことだろ」
当然の如《ごと》く審判二人はあっさりと頷いた。
「そのとおり、勝者は引き続き先方の次の対戦者と闘《たたか》う権利を有する」
予期せぬトラブルがあったとはいえ、二戦目の勝者はヨザックではなくアーダルベルトだ。そしてカロリア側の三人目は、おれ。
渋谷ユーリ史上最悪の「ちょっと待った」だった。