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緑の布に覆われた箱をぐるりと囲んで、五人の男が考えこんでいた。
|先程《さきほど》より一人増えている。正確には一人減って二人増えた。箱を無事、|神殿《しんでん》の外に持ち出した時点で、ステファン・ファンバレンが辞去したのだ。理由はもちろん、先刻より|開催《かいさい》されている|舞踏《ぶとう》会だ。早く戻ってツェツィーリエをエスコートしなくては、あの美しきひとの機嫌を損《そこ》ねてしまう。
「あの方は誤って野に降りた|薔薇《ばら》の精ですから、常に私がお側《そば》にいないと危険です。下々の野卑《やひ》な男に俗世間《ぞくせけん》の言葉などかけられたら、たちまちのうちに怯《おび》えて真珠《しんじゅ》の|涙《なみだ》をこぼされることでしょう。ああ、か弱き乙女《おとめ》、ツェツィーリエ。今すぐに私が馳《は》せ参じましょう!」
戦線|離脱《りだつ》の際にも炸裂《さくれつ》するファンファン節に、そうかなあと二人が呟《つぶ》いた。美しいけどか弱くはないですよと、残る一人が胸の内で突っ込んだ。
元女王の魅力《みりょく》を誰《だれ》よりも知る従者シュバリエは、与《あた》えられた任を全《まっと》うするために、暫定《ざんてい》的に「箱《ハコ》運《はこ》び隊《たーい》」への残留を決めた。酒宴《しゅえん》の席でそこらの男に絡《から》まれたとて、女主人が危機に陥《おちい》るとは思わないからだ。芸術家|肌《はだ》で笑いも解するあの方のことだから、酔《よ》いどれ男でオブジェをこしらえるくらいはするだろう。鞭《むち》で巻いて縛《しば》って絡ませて、だ。
「……耽美《たんび》だ」
シュバリエはうっとりと想像に浸《ひた》った。
「シュバリエさん、ちょっとシュバリエさーん。真面目《まじめ》に考えてくださいよ。この箱を|封印《ふういん》されてた場所まで戻さなきゃならないんスからー」
「は、すみません」
若さしか自慢《じまん》のないダカスコスも、さすがに疲労《ひろう》を滲《にじ》ませている。声とか、隈《くま》とか、脂《あぶら》ぎってきた頭皮とかに。
「とにかく皆《みな》さんたち、ご苦労だったね。大会で警戒《けいかい》態勢の神殿から、最もキケンなハコをゲットするのは大変だったろ」
猊下《げいか》の労《ねぎら》いのお言葉に、少々後ろめたい気分を味わう。これまでこなした幾多《いくた》の作戦に比べれば、かなり楽ちんな部類だったからだ。
去る者もいれば来る者もいる。ファンファンが早退した後に、駆《か》けつけてくれたのが猊下とグリエ・ヨザックだ。ムラケンサンこと双黒《そうこく》の|大賢者《だいけんじゃ》は、最凶《さいきょう》最悪の最終兵器である「風の終わり」について、自分等よりずっと詳《くわ》しいはずだ。
たとえば保存する場合の適温とか、消費期限は何年かとか。|恐怖《きょうふ》の大箱を取り扱《あつか》う際に有用な方法を、いくらでも知っているはずだった。
「それにしてもこれ、臭《くさ》いねえ。保管状態が悪かったのかな」
殺虫|塗料《とりょう》のせいだとは、口が裂《さ》けても言えなかった。
「猊下《げいか》、もし宜《よろ》しければお教えください。この箱をどのようにして|眞魔《しんま》国まで運ぶおつもりですか? 海に出ればまた話も違《ちが》いましょうが、港までは最速で三日はかかります。大シマロン内の陸路を行く場合、巧妙《こうみょう》な偽装《ぎそう》が必要かと思うのでありますが……」
「うーん、そうだよね。|仰《おっしゃ》るとおりなんだよねサイズモア|艦長《かんちょう》」
先程からダカスコスは、ムラケン猊下の服装が気になって仕方がなかった。
この真冬しかも場所は|神殿《しんでん》の裏手の森だというのに、彼は襟元《えりもと》フリフリの夜会服姿なのだ。眞魔国じゃ今時うちの|女房《にょうぼう》だって着ないような、襞《ひだ》と飾《かざ》りの重ね着だ。寒くないのだろうか。
というよりも、あの格好で舞踏会《ぶとうかい》に行くつもりだったのか。
口に|薔薇《ばら》でもくわえたら、|怪《あや》しい舞踏家として成功しそう。
「あー猊下、そのー、とにかく早いとこ会場に戻《もど》れませんかね」
|一緒《いっしょ》について来たヨザックも、これまた開いた口が塞《ふさ》がらない出《い》で立《た》ちだ。
女装? もしくは見た目だけで敵を怯《ひる》ませる、彼独特の必殺|技《わざ》なのか。
「お一人で歩かれるのはあまりに危険なので、念のためにここまでお供いたしましたが……あっちでまた陛下が、|面倒《めんどう》なことやらかし……|庶民《しょみん》には思いもつかないような善行を始められはしないかと、小心者は気が気じゃないわけですよ。一応、ヴォルフラム閣下に事情は話してきましたが、あの|坊《ぼっ》ちゃんもあれで、ああなわけですし……ああーもう! 陛下と猊下、お二人を同時にお護《まも》りするのが、こんなに大変なことだとはねっ」
「うん、渋谷とフォンビーレフェルト|卿《きょう》は、一緒に置いておくと数倍楽しいよねー」
「そういうことではなく……」
「しっ、伏《ふ》せて!」
滅多《めった》に喋《しゃべ》らないシュバリエの指示で、全員が一斉《いっせい》にしゃがみ込んだ。斜面《しゃめん》の上の泥道《どろみち》を兵士の集団が駆《か》け抜《ぬ》ける。
「……|大丈夫《だいじょうぶ》、見られてはいないようです」
「それにしても慌《あわ》ただしいですな。侵入《しんにゅう》時はあんなに緩《ゆる》かった警備が。箱を持ち出されたことに気づき、取り戻そうと必死なわけですな」
薄《うす》くなった後頭部を撫《な》で、艦長は困り顔で呟《つぶや》いた。港まで運ぶのがますます困難になった。
大陸の大半がシマロン領という現状では、監視《かんし》の目のない道程を探すのは不可能だ。
「でもまだベラールニ世|殿下《でんか》は、こいつが盗《ぬす》まれたと思ってないよ。上に報告されたのは、ゾウ頭の魔王像だけだもん」
「なんですとー!? げ、猊下、誤解なきように申し上げますが、あのつまらん像を懐《ふところ》に入れたのはファンファン殿《どの》です! 我々は決して、歴代魔王陛下があのようなゾウ頭だとは……」
「そんなに言い訳しなくても大丈夫だよ。臣下に愚弄《ぐろう》されたとか思いやしないって。それに渋谷は虎《とら》は|嫌《きら》いでも、ゾウは嫌いじゃないんだぞう?」
……雪風が更《さら》に厳しさを増した。
ダジャラー本人である村田は、周囲の気まずさなど意にも介《かい》しない。
「そういえば、出口近くで棺桶《かんおけ》と間違われたって言ってたねー」
「はっ、そのとおりであります。髭《ひげ》も体格も立派な男を、|涙《なみだ》ぐませてしまいました。まったく|近頃《ちかごろ》の若者ときたら、成熟しているのは|身体《からだ》ばかりで。古参兵の我々からすると、情けないことこの上なしでして……」
おっさんの愚痴《ぐち》は延々と続く。
「そういえば僕もどこかで見たな。子供の葬列《そうれつ》に出くわしたんだ。確かにこのサイズの白い箱は少年の|棺《ひつぎ》だって聞いたなあ」
村田は|掌《てのひら》を|拳《こぶし》で叩《たた》いた。ぽんと軽い音が森に響《ひび》く。
「閃《ひらめ》いたってほどのもんじゃないけどさ、だったらいっそお棺《かん》に見立てて運んじゃおうか」
「それも|妙案《みょうあん》とは思いますが……果たして連中が|素直《すなお》に信じるでしょうか。いくら間抜けなシマロン兵といえど、いずれは宝物庫内の物が模造品であると気づきましょう。その際に、よく似た形状の棺を国外に持ちだそうとすれば……|不謹慎《ふきんしん》ながら、中身を改めると言いだしはしないかと……」
「うーん、それは言うね。絶対だね。じゃあよりリアルに本物っぽく、中に子供の死体……」
魔族四人は言葉を失った。頭のいい人間は危険人物と紙一重だというが、大賢者《だいけんじゃ》様も御|多分《たぶん》に漏《も》れず、危機的思考の持ち主なのか!?
「……の蝋人形《ろうにんぎょう》でも……|駄目《だめ》か。そもそも中に物なんか入れられないもんな」
一同|脱力《だつりょく》。
その時になって至極《しごく》もっともな疑問が湧《わ》き上がり、ダカスコスは布の上から箱に触《ふ》れた。四方を強化した鉄も、今はすっかり錆《さ》びついている。きっちりと閉まった蓋《ふた》の掛《か》け金《がね》には、|頑丈《がんじょう》な錠前《じょうまえ》かぶら下がっていた。
「はい、猊下! 質問があるんスけど」
「なにかなダカスコスくん」
「あのー、つかぬことをお伺《うかが》いしますが、箱の中には何が入ってるんスか? 振《ふ》っても蹴《け》っても音がしないんですが、もしかして空っぽなんでしょうか」
「いい質問だ。でももう二度と蹴らないように。脆《もろ》くなった木が割れて、壊《こわ》れたりしたら大変だからねー」
村田は雪の積もる斜面に|膝《ひざ》をつき、緑の布の掛《か》かった問題のブツに耳を押し付けた。
「ほらね、今は音もしない。空だよ、特に何も入ってないんだ。でも絶対に中を見ちゃいけない。マジで泣くほど|後悔《こうかい》するよ」
「そ、それはどういう……」
「世の中には、知らない方がいいこともたくさんあるんだって。はい次の人」
「では猊下、僭越《せんえつ》ながら申し上げます。奥方様の|膨大《ぼうだい》な量のお荷物に忍《しの》ばせるのはいかがでしようか。あの方の衣装箱は、それはそれはもう相当な数ですから。木は森に、熊《くま》は砂にと申しますように」
「ああ! それはいいねえ、素晴らしいねー。熊の部分は初耳だけどね。えーと|誰《だれ》だっけ」
「シュバリエです」
「そうだった。滅多にロきいてくれないから。さて、大変素晴らしい意見ですが、一つだけ重大な問題があります。それは、ツェリ様の彼氏が根っからの商人である点」
一同は唖然《あぜん》とした。シマロン|籍《せき》の立場を越《こ》えてまで、箱|奪還《だっかん》に協力してくれたファンバレンを疑うとは。自らの危険を顧《かえり》みず、宝物庫までの道案内も引き受けてくれた。見張りの一部を金で動かしてくれたのもファンファンだ。それもこれもすべてがツェリ様のため。自由|恋愛《れんあい》主義|万歳《ばんざい》。
「皆《みな》さんから聞いた話だと、ファンファンは生まれついての商人《あきんど》なんだよね? 僕はそれが心配なんだよ。確かに大国シマロンが『風の終わり』を持っていたら、戦力の偏《かたよ》りのせいで彼の商売は成り立たない。だから奪還に協力する。うん、|納得《なっとく》だ。理屈《りくつ》が通ってる。でも、ツェリ様の衣装箱に紛《まぎ》れ込ませて隠《かく》してくれって、箱を預けられたらどうするだろう。|珍《めずら》しい箱だよ。世界に四つしかないうちの一つ、恐《おそ》ろしい力を持った最終兵器だよ? そして彼は根っからの商人。心臓に商魂《しょうこん》と書かれてるほどの商人だ」
ダカスコスがぽつりと答えた。
「自分なら売りまサァね」
「だろ?」
皆に止める間も与《あた》えずに、村田は箱に足をかけた。
「もし僕が天才的商業家だったら、内緒《ないしょ》でコピー品とすり替《か》えちゃうね。それで大国と闘《たたか》いたいけど戦力のない国や、お金はあるけど兵士が足りない国に売っちゃうね。そしたら見張りを買収した額どころか、一生遊んで暮らせちゃうよ。商人は決して無駄《むだ》な投資はしない。儲《もう》け話には異様に鼻が|利《き》く。喉《のど》から手が出るほど箱が欲しい人は、この世にいくらでも存在するんだから。ステファン・ファンバレンは信頼《しんらい》するに足る人物だけれど、それ以前に彼は商人だ。従って」
靴《くつ》の踵《かかと》で布を少し捲《めく》る。真っ白なボディが雪に濡《ぬ》れた。
「僕ならツェリ様には預けない」
「しーっ、また兵隊です!」
全員一斉にしゃがみ込む。村田はそっと手を伸《の》ばし、折り挙げてしまった布を元に戻す。真っ白い箱の本体は、夜目にも非常に目立つだろう。
「えひゃぁっ!」
最後尾《さいこうび》の人間が雪に足を取られてすっ転び、運悪く斜面を転がり落ちてきた。|魔族《まぞく》達のすぐ手前の杉《すぎ》に|激突《げきとつ》し、膝を抱《かか》えて悶絶《もんぜつ》している。先を走っていた一隊は、|怪我《けが》人を見捨てて行ってしまったようだ。
村田はゆっくりと立ち上がり、のたうち回る若者をじっと見詰《みつ》めた。
「猊下《げいか》、見つかっちゃいますってば、ゲイカっ」
「誰か靴下《くつした》脱《ぬ》いでくれる?」
「は? 靴下で何を」
ほかほか毛繊《ウール》を手渡《てわた》しながら、サイズモアは賢者の手に注目していた。
痛みに転げ回る若いシマロン兵に近づくと、村田はそのロの中に思い切り、もぎゅっと突《つ》っ込む。慌てたのは|艦長《かんちょう》だった。
「猊下、猿《さる》ぐつわならハンカチを、ハンカチをお使いください! おっさんの脱ぎたて靴下だけはヤメテー。武士の情けで許してやってー」
「よーし、死体を確保した! ダッキーちゃん、ひとっ走り行ってフリン・ギルビットを呼んでこい!」
何が何やらさっぱり判《わか》らないままに、ダカスコスは|舞踏《ぶとう》会場に急いだ。
泥《どろ》と雪で汚《よご》れきった元魔族の男は、コンタクトで色替え済みのおれの眼《め》を覗《のぞ》き込んでくる。
「本当なのか? お前がジュリアの……」
「な、何のことかさっぱり判りませんが」
置かれていただけのアーダルベルトの手が、おれの肩《かた》を強く掴《つか》む。だがすぐに指の力を緩《ゆる》め、低い声で謝罪した。
「そんなつもりじゃない。傷つけるつもりはないんだ。首の傷のことは……許してもらえるとも思えんが……」
「だからおれにはまったく意味が判らないんだけどッ。むしろこっちが|訊《き》きたいくらいだ。あんたは|戦闘《せんとう》不能になったはずだろ!? なんで平気でこんな所にいるんだ」
背中を冷たい壁《かべ》から離し、相手の胸を力一杯《ちからいっぱい》押し返す。ぐらりと仰《の》け反《ぞ》った男の腕《うで》から逃《のが》れ、おれは暗い廊下《ろうか》を|闇雲《やみくも》に走った。
動転していた。冷静な判断力などない。
どうする!?
今ここには誰もいないんだ。おれの力になってくれる人は誰もいない。
走りだしてからすぐ、会場に戻《もど》るのが得策だったのにと気づいた。いくら非常識な男だって、あれだけの衆目の中で無茶はしないだろう。けれどもう、逆方向に|随分《ずいぶん》来てしまい、今さら元来た道を戻るのも危険だ。
あいつは絶対に追ってきている。
逃さないという眼をしていた。
立ち止まると、汚れた腕とぎらつく碧眼《へきがん》を思い出して、全身が総毛だった。
酷《ひど》い疲労《ひろう》で足首が痛くなる。心臓も|鼓動《こどう》を倍にして、すぐに呼吸が苦しくなる。肺にもっと酸素を送ろうと、弾《はず》む息を堪《こら》えて長く大きく吸った。がらんとして人気のない夜の神殿《しんでん》は、澱《よど》む空気まで重かった。
「……っ」
軍靴《ぐんか》の足音が近づいてくる。
大怪我を負ったはずなのに、足取りは速く、力強い。あと少しならなんとか走れそうだが、いずれ廊下は行き止まり、追い詰《つ》められて逃《に》げ場がなくなるだろう。追手の足音はどんどん近くなる。
おれは意を決して壁の|窪《くぼ》みに身を押し込み、やり過ごそうと息を潜《ひぞ》めた。
雪明かりに浮《う》かぶ人影《ひとかげ》は、足取りをゆるめ、|慎重《しんちょう》に近づいてくる。灯《あか》りを持っているらしく、周囲がぼんやりと黄色くなった。|今頃《いまごろ》になって首が痛む。ひきつれて、開きそうな傷口から、じわりと熱が広がった。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく|響《ひび》き渡《わた》った。
「そこにいるのか?」
息を止める。
「おい、誰かそこにいるか? 観念して出てこい」
アーダルベルトの声ではない。どうやら見回りのシマロン兵のようだ。ほっとして大きく息をつき、壁の溝《みぞ》から|身体《からだ》を離す。警備に追われる理由はないが、両手を挙げて恐る恐る廊下に踏《ふ》み出した。
「特に|怪《あや》しい者じゃないです……」
中年の小柄《こがら》な警備兵は、おれの格好を見て|驚《おどろ》いたようだった。
「舞踏会のお客ですか」
「まあそのような」
違《ちが》うほうの「|武闘会《ぶとうかい》」の優勝者とは気づかないらしい。
「なんでまたこんな正反対の方向へ?」
「トイレを探してたら、迷っちゃってさ」
ありきたりだが、効果的な言い訳だ。兵士は|呆《あき》れたみたいな|笑顔《えがお》になり、おれの足元を灯りで照らしてくれた。
「そうでしたか。いや、こちらこそ驚かせてしまい申し訳ない。宝物庫に賊《ぞく》が押し入ったらしいので、奴等《やつら》を捜《さが》すのに我々も動員されておるのです」
「盗賊《とうぞく》?」
「まあすぐに捕《と》らえられるとは思いますが……ご不浄《ふじょう》ならすぐ隣《となり》の階段近くに用意されておりましたのに。こんな遠くまで迷われては、さぞや心細かったことでしょうな。宜《よろ》しければご案内いたしましょう」
話している相手をよく見ようと、警備兵が振《ふ》り返った|瞬間《しゅんかん》だった。灯りの届かない斜《なな》め横に、|誰《だれ》かの影《かげ》がふと浮かぶ。
「あぶな……っ」
反射的に突き飛ばした。尻餅《しりもち》をつき、壁にぶつかった兵士の手からカンテラが落ちて転がった。
重い剣《けん》が空を縦に|斬《き》り、床《ゆか》に当たってガツっと|鈍《にぶ》い音を立てる。
消えかかる炎《ほのお》の|僅《わず》かな光に、男の青白い顔が照らされていた。
アーダルベルトだ。
おれは無様な悲鳴をあげて、すぐ先の角を曲がり、長い階段を二段|抜《ぬ》かしで駆《か》け上った。細工物の手摺《てす》りを掴んで身体を引き上げ、踊《おど》り場を三歩で通過し、また登る。
階を変えたところで奴《やつ》が|諦《あきら》めるとも思えない。
確実に|迫《せま》ってくる足音に怯《おび》え、近くにあった豪奢《ごうしゃ》な|扉《とびら》を押し開けた。所有者も知らない暗い部屋に、|隙間《すきま》から身体を|滑《すべ》り込ませる。無駄だと知りつつ軋《きし》みにまで神経を使い、できるだけ静かに戸を閉めた。後ろ手に探《さぐ》って掛《か》け金《がね》を下ろす。
|彫刻《ちょうこく》を施《ほどこ》された厚い扉に、しばらく寄り掛《か》かっていた。息が整うまで、せめて息が整うまでだ。閉じこめられて黴《かび》くさい酸素をいっぱいに吸い込む。
やがて暗さに慣れてくると、夜目が利《き》いて部屋の様子が判ってきた。
奥行きはかなりありそうだが、窓までの|距離《きょり》はそう長くない。天窓とも呼べる高さの小窓から、辛《かろ》うじて月と雪の灯りが差し込んでいる。壁全面に設《しつら》えられた書棚《しょだな》には、いかにも古そうな本がびっしりと並んでいた。
「……図書館……?」
おれは慎重に入口を離れ、中央のテーブルに歩み寄った。
誰かの読みかけの書吻が、開いたままで残されていた。この場所で写本でもしていたのだろうか、机の上には他《ほか》にも紙の束とインク壺《つぼ》、ファンタジーでよく見る羽根のペン、紙を押さえる石が置かれている。
天井《てんじょう》からの心許《こころもと》ない光で、開いたぺージの文字を辿《たど》ってみた。例によって視覚ではなカな力読めない。目を閉じて指先に神経を集中させ、紙質の違いを感じ取ろうとする。
インクの染《し》みこんだ文字部分は、空白よりも僅かに滑《なめ》らかだ。紙の作りが粗《あら》いほど、毛羽の具合で文字の形が判る。
大陸、統治、三王家……三王家統治期の大陸における勢力|及《およ》び人口分布……西半島三国を含《ふく》まず……
厚い書物の一部だけでは、何の本かも判《わか》らない。おれは諦めて指を外し、無地の紙束の上に置いた。
「……ウェラー……?」
筆圧の強い者が書き写したのか、下の紙にまでしっかりと文字の跡《あと》が残されていた。冷たくなる人差し指と中指を右にずらし、頭の中に単語をはっきりと浮かべていく。まるで幼稚《ようち》園児《えんじ》か小学生が、基本的なことだけメモしたような箇条《かじょう》書《が》きだ。
三王家・ラーヒ、現小シマロン植民区ガーション(当時ガルシオネ)に蟄居《ちっきょ》、幽閉《ゆうへい》の後、二十四年後にフィルモス・ラーヒの死亡を|確認《かくにん》、血統断絶。
同・ギレスビー、現大シマロン東端《とうたん》ソマーズ(当時ゾーマルツェ)にて戦闘後|滅亡《めつぼう》。
同・ベラール、現大シマロン農政調整区コル・ニルゾンにて戦闘時滅亡認定、生存者ペイゲ・ベラールを北神橋海メイ島に幽閉、二十年後特記|事項《じこう》により大シマロン王都に移送、ウェラーに改姓《かいせい》。以降五世代を確認。
|恐《おそ》らくこの土地がシマロン領になる前に、権力を|握《にぎ》っていた王族達の行く末だろう。その中に|何故《なぜ》ウェラー|卿《きょう》の名が出てくるのかは、歴史|音痴《おんち》のおれには解決できそうにない疑問だった。
「……ウェラーに改姓? ウェラーに……待てよ、元がベラールだったっていうんなら、なんでさっき会ったキちゃってる陛下も髭殿下《ひげでんか》もベラール何世って名乗ってるんだよ……」
自分達が滅亡させた王家の苗字《みょうじ》を孫子の代まで使い続けるなんて。
それに、この特記事項とは何だ? このために王都に移送され、改姓までさせられたのだろうが。
「ウェラーに改姓後、五世代確認……じゃあこのどっかに、コンラッドの親父《おやじ》さんが……」
グラウンドの中央で再会したとき、コンラッドが口にした言葉を思い出す。
『元々ここは、俺の土地です』
あれはこういうことだったのか。正しく理解できているかどうかは不明だが。
大木をへし折るような音がして、おれの意識は現実に引き戻《もど》された。あんなに|頑丈《がんじょう》そうだった図書室の扉が、白木を見せて割れている。次の|一撃《いちげき》で、本体より先に掛け金が吹《ふ》っ飛んだ。
入口は勢いよく左右に開き、|壁《かべ》に当たって反動で戻った。
「……なぜ逃げるんだ」
肩《かた》で息をする男と視線が絡《から》み、全身に鳥肌《とりはだ》が立つのを感じた。
「そ、りゃ逃げるだろっ!?」
今のアーダルベルトを見れば、二枚目マッチョに群がる婦女子でも逃げるだろう。顔や腕《うで》の傷から血も流しているし、まとう狂気《きょうき》も|半端《はんぱ》ではない。死にかけのターミネーターに追われたら、どんな度胸|自慢《じまん》でも裸足《はだし》で逃《に》げる。
その上、おれは彼に何度も殺されかけている。たった一回謝られたくらいで、信頼《しんらい》関係など築けるわけがない。
書庫の奥に駆け込むしかなかった。このままでは確実に追い詰《つ》められる、そう判ってはいるのだが。
「おい! 教えて欲しいだけなんだ、本当だ、傷つけるつもりはない」
「信じられるかっ」
追ってくる影は片脚《かたあし》を引きずり、|脇腹《わきばら》を腕で押さえている。だらりと下がった左肩《ひだりかた》も、正常な状態ではなさそうだ。
まるでホラーだ。
少しでも障害になるようにと書棚から本をばらまきながら、おれは疲労《ひろう》とストレスでハイになり、こみ上げてくる笑いを抑《おさ》えきれなくなる。
なんだこれは。まるでホラーだよ。フレディに追われるナンシーかよ。どうしておれがこんな目に!?
轟音《ごうおん》がした。反射的に振り返ると、天窓の明かりに埃《ほこり》が舞い上がり、大きな書棚が完全に倒れていた。薄暗《うずぐら》い床で、汚《よご》れた|金髪《きんぱつ》が書物に埋《う》もれている。
「……グランツ?」
動かない|右腕《みぎうで》が地面に伸《の》びている。
「フォングランツ……? おーい、アーダルベルト」
安全な距離を予測して、離《はな》れた位置から呼んでみる。返事はないし、動く気配もない。
急に不安が襲ってくる。なにしろ彼はナイジェル・ワイズ「絶対死なない」マキシーンの知り合いだ、こんなことで命を落としはしないだろう。でも、だったらどうして倒れたきり動かないんだ? 見たところ出血はしていないが、大きな外傷がなくても打ち所が悪ければ命取りになる。
本をばらまくなんて|罰当《ばちあ》たりなことを、おれが立て続けにしたからなのか。そのせいで書棚のバランスが|崩《くず》れ、あいつに倒れかかってきたのかもしれない。いや、それだって|普通《ふつう》は避《よ》けるだろう、あんな大きい物を避けきれなかった本人にも責任が……。
いや、普通じゃなかったよ、アーダルベルトは。
ほんの数時間前に、彼は|戦闘《せんとう》不能と判定されたのだ。つまりそれはズタボロになるまで叩《たた》きのめされ、満身創痍《まんしんそうい》でこれ以上は闘《たたか》えないという宣告だ。
しかも、どうやら叩きのめしたのはおれらしい。
もちろんこちらに落ち度はない。|闘技《とうぎ》場で、試合中の出来事だし、あいつだっておれをぶっコロスとか喚《わめ》いていた。誰にも恨《うら》まれる筋合いはないし、引け目に感じることもない。
だがその時の|怪我《けが》のせいで、書棚を避けられなかったとしたら……。
「あーっ|畜生《ちくしょう》ッ! わざとらしく死んだふりなんかしやがってーッ!」
おれは書物の山に駆《か》け寄り、数冊ずつ掴《つか》んでは投げ捨てた。
「グランツ、おいっ、アーダルベルトってば!」
おれは|馬鹿《ばか》だ。本当にもう、救いようのない馬鹿だ。
こいつがどれだけ自分を苦しめたか、アーダルベルト・フォングランツがどれだけおれを憎《にく》んでいるか、国に仇《あだ》なす存在か、全部判っているじゃないか。現にこいつは今、まさに今の今までおれを追い回し、|恐怖《きょうふ》を与《あた》えていたじゃないか。
なのにどうしてこの意識を失った男を、助けようとしているんだ。
「おれのせいじゃない、おれのせいじゃないかんなっ」
露《あら》わになった首筋の白さに、ぞっとして指を押し付けてみる。まだ脈はある。動いている。
「やめてくれよ、ちょっと、|冗談《じょうだん》じゃねーよ。おれの前で……おれの前で死ぬなよ……」
鼻の奥と目頭が熱くなる。奥歯を噛《か》みしめて震《ふる》えを堪《こら》えた。
もう二度と、あんな気分は味わいたくない。
上半身が現れた頃《ころ》には、おれの息もあがっていた。救出というより|発掘《はっくつ》だ。下半身に載《の》った書棚を持ち上げようとしたが、一人の力ではピクともしない。梃子《てこ》になる棒でも無いかと探しても、それらしき道具は見あたらない。
服の裂《さ》け目から血の覗《のぞ》く肩が、ほんの|僅《わず》かに痙攣《けいれん》した。
「おいっ」
背中に手を置いてそっと揺《ゆ》さぶってみる。突《つ》っ伏《ぷ》したままの顔面から、低い呻《うめ》きが漏《も》れ聞こえた。
「よかっ……」
いや、良くない良くない。安堵《あんど》の溜《た》め息をつきかけて、おれは慌《あわ》てて否定した。この場合は「ちっ、悪運の強い野郎《やろう》だな」だろう。これまでの|経緯《けいい》から考えて。
「……う」
無事な方の腕に力をこめて、上半身を起こそうとしている。
「よせよ、無理だって。脚が棚《たな》の下敷《したじ》きになってるんだ」
それが不可能だと知ると、どうにか顔だけを横に向けた。
「……どうなっ、たんだ」
「ああよかっ……うあー違《ちが》う違うッ! まったくアクウンの強いヤロウだぜ、だ。待ってろ、いま|誰《だれ》か呼んできてやるから。おれ一人じゃ本棚を退《ど》けられないんだ」
「待て」
「待つのはそっちだっての」
俯《うつぶ》せになった体勢のまま、アーダルベルトがおれに右手を伸ばした。ほとんど本能的に仰《の》け反《ぞ》って、敵だった男の指を避けようとする。
「逃げるな。なにも……しない」
人差し指が微《かす》かに喉《のど》に触《ふ》れる。包帯|越《ご》しに、温かい何かが流れ込んできた。体温よりも少し高い。開きかけて痛んでいた傷の熱が、周囲に吸収されていく。
あれ?
「……すまなかった」
|掌《てのひら》で強く|擦《こす》っても、もうその場所に傷はなかった。ただ滑《なめ》らかで健康な皮膚《ひふ》だ。
「治して、くれたのか?」
おれは|呆然《ぼうぜん》とした。
「ツェリ様も無理だったのに」
「この土地で、|魔力《まりょく》を使うのは難しい。法術なら容易に適《かな》うことでも、魔術ではかなりの力を要するんだ」
「……そんな力が、残ってるんなら……おれじゃなくて自分の|身体《からだ》に使えよ。ああ、ああもう|喋《しゃべ》んなって! 人を呼んでくるから」
「行かなくていい」
「バカ言うな。一生埋まってたいほど本好きじゃないだろうに」
何が可笑《おか》しかったのか、アーダルベルトが笑った。というよりも、咳《せ》き込んだ。
「行ったらお前は戻ってこないだろう?」
「多分ね」
靴《くつ》の踵《かかと》を掴まれている。いや、掴《つか》むほどの握力《あくりょく》は残っていない。ただ右手が軽く触っているだけだ。おれは紙の散らばる床《ゆか》に|膝《ひざ》をついて、アーダルベルトの頬《ほお》に貼《は》りついた金髪を払《はら》った。
「じゃあどうして欲しいんだ」
「話がしたい」
なんだコイツ? 思わず長い溜め息がでた。
「……いいよ、話せよ。ただしちょっとだけだ。三分|経《た》ったら人を呼びに行くからな」
「それでいい」
ろくに身体も動かせないままで、アーダルベルト・フォングランツはまた笑った。おれは彼の眼《め》が見えるように、腰《こし》を屈《かが》めて顔を近づける。
「何が可笑しいんだよ」
「お前は不思議な奴《やつ》だな」
不思議なのはそっちだ。ほんの数時間前の円形|舞台《ぶたい》上では、おれの喉を切り裂こうとしていたのに。今になって同じ傷を治したのは、どんな心境の変化なんだ。
「歴代でも稀《まれ》な……強大な力を持つ魔王のくせに、魔族に不利な法術は通用しない。逆に人間にしか効果がないような単純な力が、|治癒《ちゆ》の助けになっていたり……」
それは多分おれの肉体がマ[#「マ」に傍点]イド・イン地球で、限りなく人間に近いからだろう。
「ていうか地球ではノーマルに人間だし」
「人間? お前は魔族だろう」
「さあ、どうなんだか。|魂《たましい》レベルの話では、魔王になるのは運命だったとか何とか言われてるけどね」
「それを知りたいんだ」
アーダルベルトは上半身を持ち上げようとした。苦痛の呻きが唇《くちびる》から漏れる。
「教えてくれ、お前の魂の……元の持ち主は……ジュリアなのか?」
「ジュリアって、フォンウィンコット|卿《きょう》スザナ・ジュリアって人のことか」
「そうだ」
その名前を聞くとき、彼は非道《ひど》く懐《なつ》かしそうな顔をした。息を吐《は》き、軽く目を閉じる様子は、美しいことだけを思い出しているように見えた。
「……名前だけは聞いたことがあるけど。おれは自分の前世が誰だったかなんて知らないよ。つまり前世ってことだろう? 知りたいと思ったこともあんまりないな」
村田は何もかもガッチリ覚えているようだが。聞いた感じではさして羨《うらや》ましくも思わなかった。
「ではウェラー卿の言っていたことは|嘘《うそ》か」
「だからー、贐かどうかも判《わか》らない。おれの魂って前は誰だったのー? とか|訊《き》かないし。おれにとっちゃ自分の魂が異世界から運ばれてきて、地球で生まれ育ったのにジャジャーン実は魔王でしたー……ってそれだけで|充分《じゅうぶん》に|衝撃《しょうげき》的だからね。たとえ前世がヒトラーでも、今さら衝撃的事実って気もしねーや。そもそもおれ、自分探しとか苦手なんだよ」
自分を探す|暇《ひま》があったら、素振《すぶ》りの三百回でもしたほうがマシだ。
「お前の魂は……この世界から地球とやらに運ばれたんだな?」
「うん。らしいね。コンラッドにね」
アーダルベルトは無事な方の手で、片頬が床についたままの顔を覆《おお》った。骨張って長い指の間から、泣きだしそうな息が漏れる。
「ああ……ではあれは真実なんだな……!」
「真実って……おれの魂の前の持ち主が、スザナ・ジュリアさんだっていうのか?」
ちょっと考えてみた。
「まつざかー、じゃなくて、まっさかーぁ!」
ダジャレー夫人で野球少女なフォンウィンコット卿。おれの前世ならそんな感じか? まるで想像できなかった。
「だが、お前の魂を運んだコンラッドが、先の所有者を知らないわけがないだろう」
ふと気づいて、おれは頬を緩《ゆる》めた。何をこんなときにとも言われそうだが。
「……友達だったんだな。あんたたち」
アーダルベルトは怪訝《けげん》そうに|眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「誰が」
「あんたとコンラッド」
「いや?」
「だってあんたウェラー卿のことコンラッドって呼んだよ……親兄弟でさえ人前ではコンラートって呼ぶのにさ……まあいいや。もし、もしもだぜ? もしも百万に一つの可能性で、おれの前世がジュリアさんだったとしてもだよ」
そうか、あのときの彼はこんな気持ちだったんだ。心地《ここち》よい船の震動《しんどう》と共に、村田の言葉を思《おも》い浮《う》かべる。
「だったらなに? おれに変わりある? おれに何言いたいの」
「お前の魂が、彼女のものだとしたら……」
「そうだとしてもおれは渋谷ユーリだし、それ以外の何者でもない。十六になる直前まで地球で、日本で高校生やってて、草野球チームのオーナーでキャプテンでキャッチャーで、ライオンズファンの渋谷有利だ。今さら前の人生を教えられたって、感情移入して観た映画が一本増えるだけだよ。あんたはおれにどうして欲しいんだ?」
座り込んで膝を抱《かか》え、自分の靴の先を掴《っか》んでみる。
「それとも今から、様でもつけて呼んでくれんのかな」
足もあるし、指もある。上から下まで、髪《かみ》から爪《つめ》までどこもかしこもが、渋谷有利の所有物だ。他《ほか》の誰でもない。
アーダルベルトが口を閉ざした。
おれは静けさに不安になり、俯《うつむ》いたままの相手の肩《かた》を揺する。
「ちょっとおい! 生きてんだろうな、死なないだろうな!? おれ行くからな、|誰《だれ》か呼びに行ってくるから。だいたい、もうとっくに三分過ぎてっからな。よせよおい、おれの目の前で死んだりすんなよ!?」
「それくらいでは死にませんよ」
弾《はじ》かれたように顔を上げる。聞き慣れた、それも待ち焦《こ》がれた声だ。
「コ……ウェラー卿……」
しかし今は親しく話すこともできなくて、喉の奥にあるはずのない塊《かたまり》を感じる。
「気を失っただけです。余程|嬉《うれ》しいことでも聞いたんでしょうね」
手にした灯《あか》りを顔の横に掲《かか》げて、彼は自分が誰かをおれに教えた。シマロンの兵には珍《めずら》しく、髪は短く整っている。白を基調にした礼装は、余計な飾《かざ》りがなく軍人らしいシンプルさで、|闘技《とうぎ》場での制服よりずっと似合っていた。
彼はもう、おれの国の人ではない。
ウェラー卿コンラートは濡《ぬ》れて汚《よご》れた身体に触れ、確かな脈に|頷《うなず》いた。散らばる本と|倒《たお》れた|書棚《しょだな》に目を走らせ、それからやっとこちらを向いた。
「あなたに|怪我《けが》は?」
「ないよ。むしろ前より健康だ」
無意識に指が喉をさすった。
「ああ、グランツが。彼は法術が使えるから……もし足も腰も|大丈夫《だいじょうぶ》なら、ちょっと手を貸してもらえませんか」
「いいよ、でも二人だけで持ち上がんのか?」
「あなたが頑張《がんば》ってくれれば、|恐《おそ》らく」
アーダルベルトの|身体《からだ》を避《さ》けて回り込み、|慎重《しんちょう》に足場を決めて木造の書棚に手をかけた。短い合図で思い切り持ち上げる。おれの力が必要だったのかと疑うほど、棚は簡単に持ち上がった。コンラッドは|隙間《すきま》に何かを蹴《け》り込んで高さを維持《いじ》し、その間にアーダルベルトを引きずり出した。
「……骨、折れてる?」
おっかなびっくり覗《のぞ》き込む。さすがにありえない方向に曲がっていたりはしなかったが、革《かわ》の軍靴《ぐんか》のすぐ上が、恐ろしい勢いで腫《は》れ上がっていた。
「折れてますね」
「ううぁあ、見るんじゃなかったー!」
他人事《ひとごと》ながら同じ場所が疼《うず》く。骨折など見慣れているウェラー卿の診立《みた》てでは、|左腕《ひだりうで》は亀裂《きれつ》で済むそうだ。
「でもこれで、当分はあなたに付きまとえない」
「つきまとわれてたのかな、おれ……これまでとまったく違《ちが》ってたからさ。言《ことば》葉遣《づか》いまで、なんか|普通《ふつう》で。悪人っぽくないっつーか」
「考えるところがあったんでしょう」
|椅子《いす》の脚《あし》を剣《けん》で叩《たた》き折り、ウェラー卿は自分のシャツを脱《ぬ》いだ。ちらつく灯《ひ》でも明らかな上質の布を、惜《お》しげもなく何本かに引き裂《さ》いてゆく。角張った扱《あつか》いにくい棒を添《そ》え木にして、男の足を固定する。帯状の布の片端《かたはし》をくわえ、ずれないようにきつく巻き付ける。
両肩《りょうかた》の筋肉が動作の通りに収縮していて、おれはぼんやりとそれを眺《なが》めていた。
動いてる。当たり前のように。
左の二の腕は、|幅《はば》の広い包帯で覆《おお》われていた。あの布の下のどこかから、コンラッドの腕は|斬《き》り落とされたのだ。この眼《め》で確かに見た。
|脇腹《わきばら》の大きな傷跡《きずあと》は、ヨザックが言っていた激戦でのものだろう。背中にまた、新しい傷がある。塞《ふさ》がってから日が浅いのか、縫《ぬ》った跡が克明《こくめい》だ。
「それ、いつ……」
「いつと言われても。説明が難しくて」
「だいたいさぁ」
振《ふ》り向きもしないコンラッドの背中に向かって、おれは一人で腹を立てていた。聞いている人がいないという気安さからか、次第《しだい》に声も荒《あら》くなる。
「だいたいさあ、あの|爆発《ばくはつ》でどうやって助かったわけ!? 非常識だろあれで五体満足っつーのは!」
「お気に障《さわ》ったのなら、申し訳ありません」
そういう答えを聞きたいんじゃない。
「なんでそんなよそよそしい|喋《しゃべ》り方してんだよっ。ちゃんと説明しろよ、どうやって生きてたのか。どうして消えてどうして腕が元どおりなのか。どうしておれの前からいなくなって……どうしていきなりシマロンに仕えてるのか……っ」
足の固定を終えたコンラッドは、アーダルベルトの肘《ひじ》に添え木を当てた。
「シマロンに仕えているわけではありませんよ」
「……じゃああの陛下か|殿下《でんか》の部下なのか!?」
肌寒《はだざむ》さを感じたのか、放《ほう》ってあった上着を直《じか》に羽織る。腕の包帯と背中の傷が見えなくなって、正直なところホッとする。
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「|訊《き》きにきてくれなかったじゃないですか」
急激に頭に血が上る。どうあっても一発|殴《なぐ》ってやろうと、非力な|拳《こぶし》を|握《にぎ》り締《し》める。ウェラー卿は真っ直《す》ぐに立ち、見慣れた笑《え》みをおれに向けた。人柄《ひとがら》の良さが滲《にじ》みでる、|誰《だれ》にも好かれる穏和《おんわ》な表情だ。
「待っていたのに」
飾《かざ》り気《け》のない白い上着の裾《すそ》を摘《つま》み、ふざけた手つきで引っ張ってみせた。
「あなたの望む答えを用意して、こんな……慣れない礼服まで着てね」
床《ゆか》に投げられて皺《しわ》になったジャケットだ。なのに彼が袖《そで》を通すと、正装になった。
「あそこに居たのか」
「ええ、いました。ご婦人と踊《おど》られているのを見ましたよ。お上手です。俺としても鼻が高い。あなたにダンスの手解《てほど》きをしたのは俺ですからね」
「だったら何で声かけてくんないんだよっ」
銀を散らした茶色の目を細め、コンラッドは口元の笑みを深くする。
「俺のほうがずっと身分が下だ。こちらから話しかけるのは不自然です。言ったでしょう? これから先、あなたのことを……陛下と呼ばぬように努めると」
雪|溜《だ》まりに頭を突《つ》っ込んだような、冷たい|刺激《しげき》に|襲《おそ》われる。|目蓋《まぶた》も鼻も喉《のど》の|粘膜《ねんまく》も、柔《やわ》らかい部分がすべて痛む。
ウェラー卿コンラートはもうおれの友ではないと、そう断言されたも同じことだ。
「……洗脳されてんだろ?」
壊《こわ》されたままの|扉《とびら》から、廊下《ろうか》の|騒音《そうおん》が流れ込んだ。
「操《あやつ》られてるんだよな!? それかあの髭《ひげ》に弱みを握られて、脅《おど》されて仕方なく働いてるんだよなっ?」
場を収めようとする警備兵と、他人の不幸を楽しもうとする人々が、入り交じっては走っていく。好奇心《こうきしん》剥《む》きだしの女性が嬉《うれ》しげに|叫《さけ》んだ。
「シマロンの領主様が急に|倒《たお》れられたそうよ」
誰が!?
「行きなさい。奥方が大変な様子だ」
「コンラッド」
右手を差し出した。彼の左手が、握り返してくれることを信じて。最後の可能性に賭《か》けようと思って。
「来いよ」
ウェラー|卿《きょう》はゆっくりと首を振った。
「……いいえ」
おれは賭けに負けたのだ。