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フリン・ギルビットは|半狂乱《はんきょうらん》になっていた。
「しっかりしてあなた、ノーマン! 鳴呼《ああ》どうか、どうか神よ、私の夫をお救いください」
「……は?」
絹の|手袋《てぶくろ》をはめた指をぎゅっと組み、天を仰《あお》いで神に祈《いの》った。おれの好きな青いドレスのままだ。
「もぐううう」
担架《たんか》に乗せられて運ばれて行くのは、銀のマスクを|被《かぶ》ったままのたうち回るノーマン・ギルビットだ。ヴォルフラムが担架を先導し、フリンと村田とヨザックが、患者《かんじゃ》の脇を走ってついていく。
乱れた銀の髪《かみ》が風になびいた。
「うわ大変だ、|旦那《だんな》さんが急病なんだー。奥さんお若いのに災難ねー……って、はあ!? ちょっと待てーっ」
一目会ったその日から覆面《ふくめん》領主の花咲《はなさ》くこともある、ということで今日までノーマン・ギルビットを演じてきたのは、他《ほか》ならぬおれ、演技派の渋谷ユーリである。だが時の流れは早いもので、第二代覆面領主ノーマン・ギルビットは、|先程《さきほど》正式に卒業した。
なのに今、猛《もう》スピード担架で搬送《はんそう》されている男は、見覚えのありすぎるマスクを被っている。
「ちょっと待てフリーン、そいつ誰よ!? 一体その男は何者だー!?」
もしかして三代目を襲名《しゅうめい》済みなのか。
一行を追いかけて部屋に入ろうとすると、廊下に集まった野次馬のうち、最も若いご婦人が教えてくれた。
「あらあなた、あの奥様と踊ってらした青年将校ね?」
「青年しょ……」
「あの奥様と……関係にあるのでしょ」
「何関係ですって?」
「だから……関係よ。|不倫《ふりん》。不倫よ、不倫関係よ」
わざわざ小声にしておきながら、強調して三度も繰《く》り返してくれる。
「そーよねーそれはそーよねーあの奥様お|綺麗《きれい》だものねえ。愛人の一人や二人お持ちよねえ。でも良かったわねあなたあなたおめでとう。もしかしたら正式に夫になれるかもしれないわ」
おれたちの関係が終わったことなどつゆ知らず、ご婦人は|自慢《じまん》げにスキャンダル情報を披露《ひろう》し続ける。
「あのね決勝戦で旦那のノーマン・ギルビット氏が頑張《がんば》ったでしょ。頑張って優勝したけど怪我《けが》したでしょ。どうもその傷が悪化して、ついに倒れたらしいのよ。生死の境を彷徨《さまよ》ってるらしいのよ」
「倒れたー!?」
待てよ、ノーマン・ギルビットはおれだろ、だったらそのマスクの中身は誰なんだよ。
「フリン!」
おれは大急ぎで部屋に入り、秘密が漏《も》れないようにとドアを閉めた。フリンと村田とヨザックとヴォルフラムの、八つの|瞳《ひとみ》が集中する。
「なんでおれ以外のノーマン・ギルビットが死にかけてんだ?」
「しーっ」
四人|一斉《いっせい》に人差し指を立てる。仮面の男は相変わらず悶絶《もんぜつ》していた。決勝で傷つけられた首ではなく、|膝《ひざ》を抱《かか》えて転げ回っている。
肩《かた》に積もった雪を払《はら》いながら、村田が|悪戯《いたずら》を企《たくら》む顔をした。
「身分の高い人間の遺体が必要なんだ。正確に言うと、棺桶《かんおけ》がね。そのために皆《みな》で一芝居《ひとしばい》打ってるところさ。まあ彼の場合は……」
ノーマン役はベッドの上で藻掻《もが》き苦しんでいる。
「あながち演技ともいえないけどね」
「そりゃそうですよ」
ヨザックは既《すで》に|呆《あき》れ顔だ。お子様達の奇抜《きばつ》な作戦には、とてもついていけないと言いたそうだ。
「雪で滑《すべ》って膝の皿を割ってからに、中年兵士が三日間|履《は》いた脱《ぬ》ぎたて|靴下《くつした》を、猿《さる》ぐつわがわりに突っ込まれてるんですから」
「うっ」
なんという恐《おそ》ろしい簡易猿ぐつわだろう。それはもうほとんど拷問《ごうもん》に近い。迫真《はくしん》の演技にも|納得《なっとく》がいく。
「じゃあこの人は今から亡《な》くなる予定なんだ……」
「そういうこと」
「ろーれもいいれふけろ、へめてはるふつわふらいはほっへふらはーい」
重病人役の青年は、不明瞭《ふめいりょう》な言葉で嘆願《たんがん》した。
「ひらろへらもひたみろめふれるっへひったひゃらいれふはー」
「あーあーはいはい、痛み止めね。それから猿ぐつわ外したいのね」
覆面を外すとごく|普通《ふつう》の青年だった。正規の兵士ほど髪は長くないし、|戦闘《せんとう》するぜ! という厳《いか》つい顔つきでもない。どこか芸術家風な|雰囲気《ふんいき》をまとう、年上女性にモテそうな優男《やさおとこ》だった。
「はー……口の中がまだ臭《くさ》い気がしまーす。金額面でも合意したのに、靴下出してくれなかったのはひどいでーす」
痛み止めも貰《もら》ってやや機嫌《きげん》を直した彼は、ベッドに腰掛《こしか》けて水を飲んだ。
「なんだか勤勉な留学生みたいな|喋《しゃべ》り方だなあ」
「あー、ワタシ、ガーディーノといいまーす。絵と|芝居《しばい》勉強しに上京してきましたー。でも学生なのでお金足りませーん。だから警備隊で臨時兵士でーす。絵と芝居もっと勉強したいのですがー、上級学校には学費が高くてすすめませーん」
「やっぱり留学生みたいな喋り方だな」
若きガーディーノは|拳《こぶし》を|握《にぎ》り締《し》め、燃える瞳で金勘定《かねかんじょう》をした。
「提示された額だけ貰えれば、ワタシニ年間上級学校通えまーす。しかも毎週一度なら、脱いでくれる女の人も雇《やと》えまーす……頑張ります頑張ります頑張りますヨー? 全身|全霊《ぜんれい》をかけて死体役の演技しますヨー? ミナサンワタシの死にざま見ててくださいねー!」
これまた|随分《ずいぶん》、個性派俳優を雇ってしまったようだ。恐らく仮面は被ったままだから、呼吸にだけ気をつけていればいい話だろうに。
「ふん。芸術方面でどの国よりも秀《ひい》でているのは、我々|眞魔《しんま》国の王立芸術団だ。あそこは猫《ねこ》も演技が出来るし、亀《かめ》の天才|画伯《がはく》もいる」
何事も魔族イズナンバーワンなヴォルフラムが、|凄《すご》いことをサラリと言った。亀の天才画伯。見たい、とても見たい。でも一作|描《えが》き上げるまでに、何百年もかかってしまう危険が。
「すごーい、そこに留学したいでーす……けどなんだか眠《ねむ》くなってきましたー……」
痛み止めが効き始めたバイトくんをベッドに寝《ね》かせ、フリンは気合いを入れて泣く準備をする。まとめていた髪を解《ほど》いて掻《か》き乱し、化粧《けしょう》を落としてやつれた感じをだす。
「……ひゃー、やっぱ美人は何しても綺麗だねぇ」
「いやね陛下、何言ってるの」
おれは甘いとも酸《す》っぱいともいえない、|奇妙《きみょう》に切ない気分になった。人の感情とは不思議なものだ。もう恋《こい》には落ちないと決めた途端《とたん》に、殺し文句が照れずに言えるのは何故《なぜ》だろう。
「でも何で棺桶なんか必要なんだ? ノーマン・ギルビットの|葬式《そうしき》なら、国に帰ってからじっくりやればいいじゃん」
「あれー? もしかして|誰《だれ》も渋谷に話してなかったの?」
「何だよそれ、おれだけ除《の》け者かよ。一体きみたちはおれを誰だと思って……」
「はーい、ではこれより第二幕、ノーマン・ギルビットの死に入りまーす。泣き屋の皆さんしっかり|涙《なみだ》お願いしまーす」
真相の説明を受ける前に、ヨザックが部屋のドアを開けてしまっていた。
髪を振《ふ》り乱し、泣き腫《は》らした赤い目のフリンが、祈りの言葉を口にしながら廊下《ろうか》に出て行く。
「おお神よォ、あなたが私に与《あた》え給《たも》うた試練が、これほど辛《つら》いものだとはァー!」
自らが夫に成り代わり、何年も務めてきたとは思えぬ大根ぶりだ。
「|皆様《みなさま》、今月今夜この時刻に、夫、ノーマン・ギルビットは身罷《みまか》りました!」
葬列《そうれつ》は最初はしめやかに、次にそわそわと、最後には逃《に》げるように進んだ。
大シマロン王都にいるうちは、大物の葬儀《そうぎ》らしく振る舞《ま》わなければならなかった。
なにしろ今やノーマン・ギルビットは、小シマロン領カロリア自治区の委任統治者ではない。カロリアは大シマロンが主催《しゅさい》する「知・速・技・総合競技、勝ち抜《ぬ》き! 天下一|武闘会《ぶとうかい》」に史上初めて主催国以外の優勝を果たし、正式に独立を認められたのだ。
独立国家の主《あるじ》は、尊敬をもって送られるべきだ。遺体を収める棺桶ひとつとっても、軽々しく扱《あつか》われてはならない。
たとえその中に鎮座《ちんざ》しているのが、もう一回り小型の箱だとしても。
聞けば聞くほど|驚《おどろ》くべき作戦だった。
その巧妙《こうみょう》さに舌を巻くということではなくて、国の救い主とも称《しょう》される双黒《そうこく》の大賢者《だいけんじゃ》様が、このような子供じみた作戦を思いつくなんて! という驚きだ。
船上の日曜大工で作った模造品とすり替《か》え、大シマロンの|神殿《しんでん》から「風の終わり」を持ち出したはいいが、それを安全な場所まで運ぶ手だてがない。白く塗《ぬ》ったら少年用の棺桶にそっくりだから、葬式を装《よそお》って運ぼうかとも考えた。だが、検問で兵士に|見咎《みとが》められた場合、蓋《ふた》を開けて中を|確認《かくにん》させるわけにはいかない。
ではもうワンサイズ大きい箱に入れて、中身を見られないようなもっともらしい理由をつけてはどうか。
蓋を開けられずに済む理由……うってつけの「故人」がいる。
テンカブで傷を負ったばかりのノーマン・お前は既に死んでいる・ギルビットだ。
大シマロンは「カロリアの巨星《きょせい》、墜《お》つ」なんてキャッチまでつけて、ノーマン・ギルビットの仮葬儀をしたがった。破れてもなお、勝者に敬意を表する国家として、度量の広さを見せつけたかったのだろう。
ガーディーノはびくりとも動かぬ見事な死体役を演じた。ただし寝息《ねいき》がうるさかったので、脇《わき》にいる誰かが終始話し続けなければならなかった。フリン・ギルビットは悲しみを堪《こら》え、夫に寄り添《そ》う悲劇の妻として、王都中の女性の同情を得た。ヴォルフラムとヨザックは共に闘《たたか》った故人のチームメイトとして、ノーマンとの死を越《こ》えた友情を詩人に謳《うた》われた。本人とは一度も会ったことがないのに。
村田は過去の|記憶《きおく》を総動員し、経験豊富な冠婚《かんこん》葬祭《そうさい》部長として立ち回った。彼が細かな案を次々出さなければ、異国での|嘘《うそ》つき仮葬儀など絶対に不可能だっただろう。
立場がなかったのはおれだ。
闘技《とうぎ》場でゴーグルは着用していたが、銀のマスクは|被《かぶ》っていなかった。従って観戦していた一部の貴婦人と男連中には「ノーマン・ギルビット顔」認定をされている。逆に、パーティーに招待されていた女性達からは、フリン・ギルビットの若い愛人扱いだ。結局、ゴシップ好きなお嬢《じょう》さん方の想像から、カロリアの女主人は夫によく似た若者を|寵愛《ちょうあい》しているという、結構な|噂《うわさ》が立ってしまった。
お急ぎで染めた栗色《くりいろ》の髪《かみ》と、度無しコンタクトの茶色の|瞳《ひとみ》。それが本物のノーマンと似ているかどうかは知りたくもない。けれどおれが啜《すす》り泣くフリンの傍《そば》にいるだけで、弔問《ちょうもん》に来た女性達は皆《みな》、囁《ささや》いた。ほらあれが噂の、ギルビット夫人の愛人よ。
愛人どころか実生活では恋人もいないよ。
棺《かん》の蓋を閉めてからは、もう二度と中を改める役人はいなかった。独立直後とはいえ一国の主の葬列だ、疑うこと自体が|不謹慎《ふきんしん》だった。
実際には、豪奢《ごうしゃ》な棺桶《かんおけ》で運ばれているのは遺体ではなく、布にくるまれた「風の終わり」だったのだが。
王都を抜けたあたりから、おれたちは|大慌《おおあわ》てで逃げ始めた。
宝物庫から盗《ぬす》まれたのがゾウ頭の魔王像だったので、今のところ箱のすり替えには気づかれていない。だが、ひとたび事が露見《ろけん》すれば、疑われるのは目に見えている。気づかれる前にとっとと逃げちまえ。こっちには最速羊軍団がついているのだ。
Tぞう率いるチーム・シツジの車には、棺とおれとフリンと村田が乗った。故郷では羊飼いをしていたというガーディーノが、喜び勇んで|御者《ぎょしゃ》席に座っている。
どうしてこの男がついてくるのか判《わか》らない。
ツェリ様はファンファンとシマロンに残った。次の野望は自由|恋愛《れんあい》世界一周旅行らしい。もちろん足元にはシュバリエが、いつものように控《ひか》えている。
ヴォルフラムとヨザック、サイズモア、ダカスコスは、併走《へいそう》班の馬を使った。困ったことに馬と羊は日本でいう犬猿《けんえん》の仲で、|互《たが》いに凄いライバル意識を持っていた。隣《となり》に並べれば負けまいと無意味に突《つ》っ走り、どちらかを後方に回せば不満で|糞尿《ふんにょう》をまき散らした。羊は超《ちょう》朝型なので、昼間は機嫌が悪いのだ。
やむを得ず羊車と馬車の間隔《かんかく》を開けたが、これでは敵に|攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けられたときに弱い。
馬とシツジがこんなに仲が悪いなんて、購入《こうにゅう》するときに誰も教えてくれなかったじゃないか。
「それにしても、ちょっとばっか引っかかるんだけどさ」
「うん?」
おれは御者席の隣に陣取《じんど》り、荷台で揺《ゆ》れる村田に問いかけた。
「お前はヨザックに船上で箱の模造品を作らせてたよな」
「うん。彼の趣味《しゅみ》は日曜大工だからね」
「知らなかった……じゃなくてェ、ということはあの段階で、箱をすり替えようと計画してたんだよな?」
「うん」
「てことは、てことはだぜ? お前はチームの補欠として行動を共にしながらも、おれたちが優勝できないと踏《ふ》んでたわけ!?」
村田は頭の後ろに手をやって、やははと|爽《さわ》やかに高笑いをした。
「やだなあ、そんなこと思ってないってェ。絶対に優勝すると信じてたって」
「だったらなんで試合前どころか行きの船中から、負けたときの準備を始めてるんだよ」
「あれは負けたときの準備じゃないよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。ああなると思ってたんだ」
フリンが幌《ほろ》から身を乗り出し、冬の風に銀の髪を嬲《なぶ》らせた。
大賢者と呼ばれる友人は、|罰当《ばちあ》たりなことに金貼りの棺に寄りかかり、危険な中身を宥《なだ》めるように撫《な》でた。
「優勝しても、きみは箱を希望しないだろうって思ってたんだよ」
「……なんだよそれ。あの|双子《ふたご》の預言みたいなこと言っちゃってさ」
「預言じゃないよ。僕にはそんな便利な超能力ないからね。だいたい日本で超能力者っていったって、エスパー伊東《いとう》くらいしかいないだろ? ただこう思っただけ。ヨザックに|魔剣《まけん》の話を聞いてね。きみならガガフッ」
車が轍《わだち》を乗り越えた。荷物共々大きく揺れる。
「ひてて、ひたかんしゃったろ……きみなら『風の終わり』を公然とカロリアに持ち帰るのが、どんなに危険か気づくだろうって」
「ンモふっ?」
Tぞうがおれを振《ふ》り返った。方角合ってますかと|訊《き》きたそうだ。
「あたってるよ」
人よりずっと目のいいはずの羊達が、急に乱れて走りを止《や》めた。おれは慌《あわ》てて魔動|遠眼鏡《とおめがね》を取り出し、はるか前方を確認する。
「お前等、どうし……うおっ」
「どうした渋谷?」
「兵隊だ! 馬で、しかも三十|騎《き》以上だ。ガーディーノ、車を森側へ寄せろ。くそ、馬の連中はどれだけ離《はな》れてるんだ!?」
肉眼では見えなかった茶色い点があっという間に大きくなった。蹄《ひづめ》の音と地響《じひび》きをともなって、正面から三十騎ほどが駆《か》けてくる。ろくに装備もない状態で、馬に乗った連中に囲まれたことなどない。しかも一騎や二騎ではなく、制服組まとめて三十人だ。
制服組と呼んではみても、どこの国の兵士なのかは不明だった。見慣れた黄色と茶、白ではないし、国境を越えた向こう、小シマロンの水色と灰色の軍服とも違《ちが》う。
揃《そろ》いの濃緑《のうりょく》の服以上に、もっと目立つ共通点があった。
赤と緑で隈《くま》取《ど》られた不気味な仮面。
おれはそれを目にしたときに、全身の血が|沸騰《ふっとう》するのを感じた。|全《すべ》てはこの仮面の連中から始まったのだ。
おれの目の前でギュンターを射落とし、コンラッドの腕《うで》を|斬《き》り落とした男達。ノーマン・ギルビットの館《やかた》の窓辺で、おれを暴走させた男達。その毒々しい赤と緑の仮面を覚えている。濃緑の、はためく服を忘れてはいない。
彼等は羊車を遠巻きに取り囲み、昼の日差しに抜《ぬ》き身の剣をギラつかせた。一頭が焦《じ》れて嘶《いなな》くと、隣へ隣へと伝染する。
一歩前に進み出た男が|叫《さけ》んだ。
「カロリアの一行かっ!?」
なるほど、これで荒《あ》れ野の盗賊《とうぞく》団という疑いは晴れた。確かに標的を選んで襲《おそ》っているようだ。それも|特殊《とくしゅ》な標的を。
「そうだと答えるべきなのかな」
御者席の隣に陣取《じんど》ったまま、おれは村田に囁いた。馬車組が|遅《おく》れるからこういうことになる。
非《ひ》|戦闘《せんとう》員ばかりの車が、プロの殺人集団に囲まれるのだ。もっとも後方隊が今すぐ|到着《とうちゃく》しても、三十対四では勝ち目はない。
「ンモモモふーっ!」
Tぞうが四肢《しし》を突っ張り身を低くした。ごめん、お前を数に入れてなかったよ。
「もう一度訊く! カロリアの一行かーっ!?」
「だったらどうしようってんだ」
「知れたこと、命をいただくまでよ!」
返事なんてするもんじゃない。
おれは荷台に駆け込み武器を漁《あさ》った。かろうじて攻撃を食い止められそうな、貧弱な|棍棒《こんぼう》を発見した。もっとこう、鉄球とかないもんかね、鎖鎌《くさりがま》とか。
車内を見回すおれの眼に、金貼りの棺が飛び込んでくる。
……この中には最強にして最悪、最終兵器たる木の箱が……。
良からぬ考えを振り払《はら》うように、おれは|拳《こぶし》で強く頭を叩《たた》いた。いかんいかん、一度|蓋《ふた》を開けてしまえば、どうなるのかは|誰《だれ》にも判らないのだ。発動するのか沈黙《ちんもく》するのかも明らかではないし、本物の|鍵《かぎ》以外では何に反応するのかも突き止められていない。更《さら》には雑魚《ざこ》キャラを吐《は》きだして、大陸半分に大打撃を与《あた》えることもある。
こんな兵器を使うことは、たとえ|一瞬《いっしゅん》でも考えてはいけない。
ではまだ|僅《わず》かながらにコントロール可能な、魔王陛下の超絶魔術はどうだろうか。これまでは発射ボタンの押しどころが把握《はあく》できなかったが、今回はムラケンという確実な起動装置がある。
「馬組が来るまで時間を稼《かせ》ぎたいとこだけど、来たからといって|互角《ごかく》に戦える頭数じゃないしなあ。でも、四人の到着を待たずに|玉砕《ぎょくさい》して、屍《しかばね》となって迎《むか》えるのも空《むな》しいし……」
「えーい村田、ロダンポーズで悩《なや》んでる場合じゃねーよ!」
おれは村田の襟《えり》を掴《つか》み、危機感に欠ける顔を引き寄せた。
「頼《たの》みがあるんだ」
「あいよ」
「おれに力を貸してくれ」
「それは、僕にスイッチオンしろってこと?」
「そ……」
「|駄目《だめ》だ」
返事も最後までさせてもらえずに、おれの提案は却下《きゃっか》された。
「燃料|補充《ほじゅう》を|一切《いっさい》しないままで、何度も|爆発《ばくはつ》してどうするんだよ。そのうち燃やす物が足りなくなって、ついには自分自身を壊《こわ》すことになる。今のきみは明らかにレッドゾーンだ。ガソリン不足でメーターの針はエンプティーなんだよ」
「この状態でどうにか生き延びるには、どう考えたって他《ほか》に方法がないだろ!?」
「それでも駄目だ! 悔《くや》しかったら|MP《マジックポイント》 満タンにしてみな。きみの場合、宿屋に泊《と》まったくらいじゃ回復しないけどね」
「っあーっもうッ」
いつでもどこでも起動装置・村田くんは、とんでもない説教機能つきだった。しかもおれより確実に弁が立つ。
「……しょーがない、助命|嘆願《たんがん》の説得してみるか。お前のが頭いいんだから手伝えよ……」
「そういうことなら喜んで」
フリンと留学生を残して車から降りる。三六〇度、赤と緑の|隈取《くまど》りに囲まれて、トーテムポールの中身にでもなったみたいな気分だ。
「えー、今からー、人として当然の権利を主張するーぅ」
軽く|握《にぎ》った右手は顎《あご》の下に。空想マイク。
「悲しいことにー、命をいただかれるからにはー、それなりの理由がなくてはならなーい」
「なくてはならなーい」
「悲しいことにー、逃《のが》れられないならばーぁ、死ぬ前にその理由を知りたーい」
「知りたーい」
「飯はうまくつくれー」
「つくれー」
いつも|綺麗《きれい》でいろー……主張の趣旨《しゅし》が変わってきてしまった。
この恐《おそ》ろしく無関係な命の引き延ばし作戦にも、隈取り仮面の|殆《ほとん》どはピクリとも反応しない。
十人以上の集団なら、必ず一人はくだらないギャグにはまる奴《やつ》がいるものだが。
リーダー格の男だけが、明瞭《めいりょう》簡潔な返事をした。
「答える必要はない」
それだけかよ。
「我等はカロリアの一行を抹殺《まっさつ》するよう命を受けた。気の毒だが|諦《あきら》めろ」
「待て、おれたちがカロリア人じゃないって可能性も考え……」
音高く空を切って来た何かが、仮面組の一人の胸に突《つ》き立った。続いてもう|一撃《いちげき》、次には馬の足元に。泡《あわ》を食った小心な動物は、|恐怖《きょうふ》と興奮で棒立ちになる。二人が雪の残る濡《ぬ》れた地面に落ちた。だがすぐに立ち上がって剣を掴む。
「中に入ってろ!」
フリンと留学生を怒鳴《どな》りつけると、おれは|咄嗟《とっさ》に矢の放たれた方角を見た。|凍《こお》りかけた泥水《どろみず》を跳《は》ね上げて、大小取り混ぜた集団が突っ走ってくる。|騎馬《きば》兵が僅かに三人いるが、それ以外は薄汚《うすよご》れた格好の男達だ。
「……誰だ、あれ?」
非力な棍棒で頭上からの剣を避《よ》けながら、おれは村田の無事を|確認《かくにん》する。
「お前も中入ってろ! 頭|潰《つぶ》されたらもったいないだろ!?」
「ンモーッ、モタマニモフーっ!」
革《かわ》のベルトを引きちぎり、クィーン・オブ・シツジが参戦した。馬の|踝《くるぶし》に噛《か》みついては、敵を地面に落としてゆく。横を向いてぺっ、と血を吐き捨《す》てた。お、男前だ。
どこから来たのか判《わか》らない援軍《えんぐん》が、文字では表現できない|奇声《きせい》を発して乱入してきた。その頃《ころ》になってようやく馬車組が間に合い、血相を変えたサイズモアとヨザックが躍《おど》り出る。
「ユーリ!」
「ここだ」
おれの反応に安堵《あんど》の表情を見せて、ヴォルフラムが駆《か》け寄ってきた。
「こいつらは何者だ、というかあいつらも何者だ!?」
「そんな難しいことをいっぺんに|訊《き》かれても」
三十対十五……六? 七くらいの戦闘は、どちらかというと少数派が優勢に見えた。馬上の剣士《けんし》が二人しかいないので、恐ろしく小回りが|利《き》くらしい。しかも服も武器もバラバラの集団は、戦い方が汚《きたな》……いや|狡猾《こうかつ》だ。一対一で迎え撃《う》つ者は一人としていないし、正々堂々と斬り合う者もいない。
おれはヴォルフラムとTぞうの後ろにやられ、泥で濡れた車輪に背中を預けていた。
世界は広いというけれど、羊に護衛された男はおれしかいないだろうなあ。なにやらとてもトホホな気分だ。
「……コンラッド……?」
一番遠くで|騎乗《きじょう》したままの二人組のうち、一人の影《かげ》がどうしてもウェラー|卿《きょう》に思えた。もう一人は恥《は》ずかしいほど派手な服装だが、コンラッドらしき人はシマロンの軍服姿だ。
「なあヴォルフ、あれ……コンラッドだ」
「なに!? あのバカどうしてこんなところに……確かに似てるな」
実弟《じってい》にもお墨付《すみつ》きを貰《もら》い、どうにかそっちへ行こうと試みるが、命が惜《お》しくて動けない。それでも眼《め》だけは彼の動きを追っている。
昼の陽光を反射して、鋼《はがね》の銀が弧《こ》を描《えが》く。あの居合いに似た無駄《むだ》のない軌跡《きせき》は、確かにウェラー卿コンラートだ。隣《となり》にいる派手な服の男は誰だろう。原色ばかりいくつも並べて、目がチカチカしたりしないのだろ……。
「ユーリ!」
「うわ、はお」
気を抜《ぬ》いたのはほんの数秒だったのだが、背後の幌《ほろ》にナイフが刺《さ》さっていた。耳からほんの数センチだ。目前で何かにぶつかって方向が逸《そ》れたように見えた。誰かが石でも投げてくれたのだろうか。
「はおって返事はないだろう、はおって返事は!」
ヴォルフラムは結構、|言葉遣《ことばづか》いに厳しい。
赤緑の隈《くま》取《ど》り仮面の一団が、急に馬の方向を変えた。半分かそこらに数は減っているが、全速力で北に向かっている。
「逃《に》げた? 敗走してんの?」
おれはなるべく地面を見ないように、高い位置に視点を置いていた。荷台から這《は》い出てきた村田健が、不自然な目線に気づいて何をしているのかと訊いた。
「あーほら、下にはいろいろあるから」
「あ、なるほど。首とかね」
車を跳《と》び降りたフリン・ギルビットは、血に染まる雪と泥水に溜《た》め息をついた。
「……なぜ狙《ねら》われたの」
「カロリアを独立させるのが、今になって惜しくなったんだよぉ」
その美少女アニメ声は。
おれと村田とヴォルフとヨザックは、ぎょっとして声の主を見た。原色を並べたポンチョみたいな派手な服に、不健康な黄色い肌《はだ》。病的に痩《や》せた|右腕《みぎうで》には、細身の剣が握られている。
「ベラール四世陛下……」
「やあ! 皆《みな》さんとはどこかでお会いしたねぇ? 表彰式《ひょうしょうしき》かなそれとも舞踏会《ぶとうかい》かなぁ」
えらの張った顎とマッシュルームカットは、返り血を浴びて赤く染まっている。そんな外見で|微笑《ほほえ》まれて、おれはリプリーに睨《にら》まれたエイリアンみたいな気持ちになった。
「アハハ伯父《おじ》上の作戦を|邪魔《じゃま》するのはアハ本当に気持ちがいいねぇ、これで皆さんのカロリアはちゃんと独立するし、また伯父上の評価が下がっちゃうよねえ。あはは権力者が|狼狽《うろた》える姿を見るのは、ほんと楽しくてやめられないよぉ」
楽しげに間延びした語尾《ごび》の後に、ベラール四世陛下は一言だけ|呟《つぶや》いた。
「……早く消えればいいのに」
おれはもう、|眉《まゆ》が八の字になってしまい、鳥肌《とりはだ》が耳の中まで|侵攻《しんこう》していた。恐ろしい、人間って恐ろしい。
「あ、気にしなくていいよぉ、死体や|怪我《けが》人はシマロン側が引き受けるからぁ。元を辿《たど》ればこのひとたちもウチの国の兵士なんだもぉん。春まで放置したりはしないからねー」
「陛下!」
おれとベラール四世が同時に振《ふ》り向いた。だがすぐにどちらが呼ばれたのか判る。
ウェラー卿はもう、おれのことを陛下なんて呼ばない。彼は|一緒《いっしょ》に|眞魔《しんま》国に戻《もど》ってはくれないのだから。
「戻りましょう陛下。あまり長く王宮を空けていると、二世|殿下《でんか》に|怪《あや》しまれます」
「そうだねぇ」
シマロン軍の制服を身に着けた男は、新しい主《あるじ》を促《うなが》して背中を向けた。今のおれの惨《みじ》めさを紛《まぎ》れさせてくれるなら、禁酒|禁煙《きんえん》をやめてもいい。
よほど情けない顔をしていたのか、ヴォルフラムが軽く肘《ひじ》に触《ふ》れる。|普段《ふだん》よりずっと口調が|穏《おだ》やかだ。
「ぼくがお前に言ったことを覚えているか」
「どれだよ。色々言われすぎて判んねぇよ」
彼は血を拭《ぬぐ》った剣を鞘《さや》に収める。かちん、と|戦闘《せんとう》の終わる音がした。
「……愚《おろ》かなのはコンラートのほうだと」
そういえばさっきからフリンは挙動|不審《ふしん》な女と化していた。荷台や生きてる羊毛の陰《かげ》に身を隠《かく》し、ちらりちらりと激戦の跡地《あとち》を窺《うかが》っている。見つかって困ることでもあるのかと、おれが声をかけようとした時だった。
「うおぅっ、おっじょーぅぉさぁーん!」
「ああっ」
銀の髪《かみ》が一瞬《いっしゅん》、逆立った。しゃがみ込んで敵兵の身体《からだ》を触《さわ》りまくっていた男が、フリンを見つけて|嬌声《きょうせい》を上げたのだ。顔中が口になる程《ほど》の、動物的な喜びようだ。やんちゃ盛りの大型犬かというスピードで、憧《あこが》れのお嬢《じょう》さんに突っ込んでくる。
耳とか垂れちゃって大変だ。
「おじょーさん、おじょーさん、おじょーさんじゃー! 皆の衆、おじょーさんじゃー!」
「あっああっ|嘘《うそ》っ、ちょっと待って、ちょっと待ちなさ……ぎゅむん」
端《はた》で見ていてセクハラ臭《しゅう》を感じないのは、やはりお嬢様と|下僕《げぼく》という人間関係を知っているせいだろうか。次々とアタックしてきた男達によって、フリンはスクラムで潰された選手みたいになってしまった。
「ラグビーも相当激しいよねー」
サッカー好きがピントのずれた発言をする。
山の|天辺《てっぺん》から二メートルは軽く超《こ》そうかという|大柄《おおがら》な男が立ち上がった。芝刈《しばか》り状態の頭部には、X型の傷がある。胸に抱《いだ》くは丸い石……ん? この艶《つや》テリは石ではなく、長年|可愛《かわい》がられた|頭蓋骨《ずがいこつ》ではないか。
「山脈隊長!?」
磨《みが》き込まれて飴色《あめいろ》につやめく球体は、山脈隊長のスウィートハート、テリーヌさんだ。隊長|殿《どの》が殺《や》った亡骸《なきがら》の中から、一人だけ連れてきたことになっている。メンバーの皆からもテリぽんテリぽんと好かれているが、しかし実は「生まれた時から骨姿」でおなじみ骨飛族の、身体の一部なのは内緒《ないしょ》である。
駆けつけてくれた援軍の大半は、平原組の卒業生達だった。皆、薄汚《うずよご》れた格好はしているが、以前に着ていたピンクの|囚人《しゅうじん》服ではない。
「山脈隊長達、どうして大シマロンにいるんだ? ああまずはテリーヌさんにあいさつだよな。こんちわテリーヌさん、今日もお肌つやつやだねえ」
「テリーヌしゃんは毎日お手入れに余念がないんでしゅよねえ。基礎化粧《きそけしょう》品は卵白なんでしゅよー」
「……山脈隊長も変わってないね」
この悪辣《あくらつ》な|坊主頭《ぼうずあたま》の人間山脈は、テリーヌしゃんを通してしか会話をしないのだ。
やっとのことで男どもを退《ど》かしたフリン・ギルビットは、カロリアの新国主である立場も忘れ、ヒステリックに|叫《さけ》んでいる。
「ああもうあなたたちと来たらッ! どうしていつもいつも子供じみた|挨拶《あいさつ》しかできないの? 一度くらい気品のある紳士《しんし》的な態度で、ご|機嫌《きげん》いかがですかって|訊《き》いてみてちょうだいよー」
「おっじょーさん、俺等ごきげんじゃーん」
「そうそう、俺等ごきげんじゃーん」
「いぇーい、俺等ゴキブリじゃーん」
フリンは|礼儀《れいぎ》作法の指導を|諦《あきら》めた。
「……それからね、戦場で倒《たお》した敵兵の懐《ふところ》を|探《さぐ》るのはおよしなさい。もし後日、遺族に渡《わた》すのでなければ、あれはとても恥ずかしい|行為《こうい》よ」
冷静な口調で窘《たしな》められ、平原組卒業生達はしゅんとした。フリンのこういう点は|凄《すご》い。
同じ一国一城の主として、見習わなければならないと思う。
これまでおれは村田のことを、いじめられっこの眼鏡《めがね》くんだと思ってきた。だがその|偏見《へんけん》に満ちた村田観は、このところの男前ぶりと現在の勇敢《ゆうかん》さにおいて一八○度転換《てんかん》した。現在、彼が何をしていたかというと……|襲撃《しゅうげき》者の遺体に屈《かが》み込んで、丹念《たんねん》に死因を調べていたのだ。戦闘で命を落とした亡骸なんて、テレビか写真でしか見たことはない。こっちの世界に来るようになってからは、様々な|衝撃《しょうげき》体験にも慣れてはきたが……それでも自分から傷を調べるなんて、検死官にでもならない限り不可能だろう。
「何も刺《さ》さってない」
顔を覆《おお》った指の|隙間《すきま》から、村田と|犠牲者《ぎせいしゃ》をチラ見する。なにが、と訊く声も籠《こも》る。
「矢だよ。確かに矢が飛んできて突《つ》き刺さったのに、傷があるだけで|矢尻《やじり》も残ってないんだ」
「だからそれがなにっ」
「僕の|見間違《みまちが》いか……弓じゃなかったのかな。だったら他《ほか》に|誰《だれ》が僕等に味方してくれたんだ」
そういえばおれも、援軍《えんぐん》の|騎馬《きば》の数を、最初は三騎|確認《かくにん》していた。しかしベラール陛下とコンラッドが去ったときには、他に味方の馬はいなかった。残る一騎はどこへ消えたのか。
離《はな》れた場所からの視線を感じ、おれは荒《あ》れ野とは逆の森へと首を向けた。木々を数本過ぎた所……日差しが薄《うす》くなる境目に、先日よりずっとましになった|金髪《きんぱつ》の男が、馬から降りもせずに留《とど》まっていた。
「よう」
走るおれの様子に青い|瞳《ひとみ》を|眇《すが》めながら、アーダルベルト・フォングランツは抑《おさ》えた声を出す。
「元気そうだな」
「あんたも……一昨日《おととい》よりは大分マシになった……その、手と脚《あし》は……?」
彼は骨折した片手片脚を、ギブス状の白い道具で固めていた。
「お前を楽しませちまったな。武人のこういう姿なんぞ、|滅多《めった》に見られるもんじゃねぇぞ」
「あんたなのか?」
「何が」
「弓矢みたいだけど……そうじゃないもの撃《う》ったり、おれの顔面に刺さりそうだったナイフを、見えない石で外してくれたのは」
「さあな」
「だからー、そういう力が残ってるんなら、自分の身体を治してからにしろって!」
アーダルベルトは理不尽《りふじん》な説教を受けたような顔になったが、すぐに「まあいいか」と自分で打ち消した。
「これであの晩の借りは返したからな。覚えておけ、次に会うときは……」
その先を言わずに馬を走らせる。不安だけ残すやり方は、以前とまったく変わらない。