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今日からマ王10-2
日期:2018-04-30 20:36  点击:273
     2 チャイナタウン
 
 両親としか食事をしない子供だったら、この店には一生来られなかっただろう。
 母を始めグレイブス家の|行儀《ぎょうぎ》のいい|親戚《しんせき》達は、ジャケットがなければ入れないような店にしか行かない。というよりも|普段《ふだん》着でディナーの席に着くことなど、非常識きわまりないとさえ思っている。
 エイプリルは滑《なめ》らかな|手触《てざわ》りの箸《はし》を持ちながら、銀のフォークを脇に押しやった。
 絹に見事な刺繍《ししゅう》を施《ほどこ》したドレスの女性が、湯気の立つ器《うつわ》を|盆《ぼん》に載せて運んできた。この店の女主人、コーリィだ。金色の糸で描《えが》かれた|尾《お》の長い生き物は、天国の鳥の姿だという。
「ボブはよく海老を食べに来てくれるけれど、エイプリルは|随分《ずいぶん》久しぶりな気がするわ。ねえそれはうちのひとのせいかしら。DTがわたしの店に近寄らせないの?」
「そんなはずがあるかい」
 客の前にスープを置き、女主人は次の料理を取りにテーブルを離《はな》れる。エイプリルがスリットから覗《のぞ》く白い脚《あし》に見とれていると、DTは|呆《あき》れて肩《かた》を竦《すく》めた。
「よだれ垂らしそうな顔すんなよ。なんでうちの|女房《にょうぼう》の脚なんかに興味があるんだ? お前さんだって一応、女だろうに」
「あんなに|素晴《すば》らしい脚をしているのに、どうしてこんな男と|結婚《けっこん》したんだろうと思ってたところよ」
「……か、可愛《かわい》げねえなぁ……」
 どこでどう聞き|間違《まちが》えたのか、ボブが朗《ほが》らかな様子で言った。
「どうやらヘイゼルの望みどおり、二人でうまくやっているようだ」
「うまくないうまくない、|冗談《じょうだん》じゃないよボブ!」
 エイプリルが反論する前に、DTがスープ越しに身を乗り出した。
「約束どおり二年間はこいつのお守《も》りをするさ。ヘイゼルにはえらく世話になったからな。でももう来週にも期限は切れるんだ。それまでの|辛抱《しんぼう》だと思って耐《た》えてはいるけど……どうにかしてくれよ、この生意気女」
「なによヘタレ男。蜘蛛《くも》や油虫が怖《こわ》いからって、穴蔵に入れない男なんて見たことないわよ」
「うっ」
「スペシャリストだと自惚《うぬぼ》れてるみたいだけど、あたしと組んでるからこそ成功率が一〇〇%なんじゃないの。それ以前の仕事を振り返ってごらんなさい。勝率ガクンと落ちるから」
「うう」
「どうやら口でも勝てない様子だな」
 ボブは同席している女性に顔を向け、不仲コンビを|紹介《しょうかい》した。
「心配ないよエーディット、この二人があれを取り戻《もど》す」
「ええ……」
 ちょうど真向かいに座る老いた女性は、深い皺の目立つ頬《ほお》に弱々しい笑《え》みを浮《う》かべた。スープに手をつける気配もない。
 他《ほか》とは少し離れたテーブルは、|窓際《まどぎわ》の陽当《ひあ》たりのいいスペースにあった。円卓《えんたく》についているのは年齢も性別もまちまちな五人、エイプリルとDT、ボブ、エーディットと呼ばれた老女、それに先程の眼鏡の医師だ。
 店で落ち合ってすぐに名前だけは紹介されていたが、詳《くわ》しい|経緯《けいい》は聞いていない。
 エイプリル、このご婦人はエーディット・バープ。オーストリアからフランスに移住したばかりだ。白い髪《かみ》を短く切り|揃《そろ》えた老婦人は、誰とも目を合わせようとしなかった。どういった経緯で祖国を出たのかは、アメリカ人にもおおよその見当がつく。
 ナチスに迫害《はくがい》され、逃《のが》れてきたのだ。
 彼女とは逆にレジャンと名乗った眼鏡の医師は、フランス人らしからぬ愛想《あいそ》の良さだった。
 独特な形のスプーンや箸をうまく使い、|中華《ちゅうか》料理を口に運んでいる。三十代後半かと思っていたが、戦時中に軍医としてドイツ国境にいた話からすると、四十は超《こ》えているらしい。一筋だけ白髪の混じった黒髪と、レンズの奥の黒い|瞳《ひとみ》。スーツは新しい物に|着替《きが》えていたが、パナマ帽は昨夜のままだった。
 アンリ・レジャン。どこかで聞いた名前だ。祖母の若い友人だろうか。
「なにしろこの二人は、メキシコにあるはずの廃王家《はいおうけ》の石を、なんと隣《となり》の州で見つけたんだからね。私も多くの|冒険《ぼうけん》家やトレジャーハンターと付き合いがあるが、彼等ほど近場で仕事を済ませた例を見たことがないよ」
 ボブは油で|滑《すべ》る野菜を器用にフォークで刺《さ》した。肉厚の茎《くき》から水分が流れ出す。
「からかってるんだか褒《ほ》めてるんだか判《わか》らないコメントね」
「もちろん賞賛しているんだよ、エイプリル」
 まあどちらでも構わない。重要なのは|依頼《いらい》を完逐《かんすい》することだ。
「あのネックレスはどうなったの?」
「きちんと保管されるよ。そしてヨーロッパの情勢が落ち着いたら、スペインに戻される予定だ。今すぐに国内に送っても、独裁者の宝石箱に飾《かざ》られるばかりだからね」
「でもなんであんな縁起《えんぎ》の悪い物を欲しがったのかしら。呪《のろ》いのかかった石なんて普通なら持っていたくないじゃない」
「あれを欲しがったのは地方検事になろうという男だ。金もあり、社会的な身分もある。足りないのは|家柄《いえがら》と血統だけだ。そこで|証拠《しょうこ》の品を手に入れて、由緒《ゆいしょ》正しい家名を買おうとしたのだよ」
 エイプリルは鼻を鳴らした。
「判らないな、どうしてそんなものが欲しいのか。あたしは今の名前も財産も捨てたいくらいなのに」
「きみのような人間ばかりではないからね」
 一部の限られた者達から財界の魔王と呼ばれる男は、孫娘《まごむすめ》とでも話すみたいな笑みを浮かべた。エイプリルのことなど何もかもお見通しといった感じだ。
 では彼がどんな人間なのかというと、それを知る者は多くない。濃灰色の縮れた髪と髭《ひぼ》を持ち、濃《こ》い|眉《まゆ》の奥では色の判りにくい瞳が輝《かがや》いている。その光は|優《やさ》しく|穏《おだ》やかなこともあれば、話しかけるのも躊躇《ためら》うくらい、冷たく燃えていることもあった。
 祖母の葬儀《そうぎ》に参列したときがそうだった。ボブの姿を見つけたエイプリルは、その近寄りがたい|雰囲気《ふんいき》に圧倒《あっとう》され、声をかけることもできなかったのだ。彼が|何故《なぜ》魔王などと呼ばれているのか、正しい理由は知らないが、あの冷たく暗い眼を思い出すたびに、|相応《ふさわ》しい呼び名だと|納得《なっとく》する。
 とはいえ、いくら縁起の悪い呼称《こしょう》で通っていても、ボブは信頼《しんらい》に値《あたい》する人物だ。彼を裏切った者はいても、彼に裏切られた者はいない。祖母もDTもそう言っていた。決して敵に回してはならないことも、同じくらい繰《く》り返し言い聞かされたが。
 祖母との付き合いの長さから想像すると既《すで》に五十近いはずなのだが、実年齢《じつねんれい》を知らないエイプリルには、眼鏡《めがね》の医師、レジャンと同年代に見えた。
 彼は変わらない、寧《むし》ろ初めて会ったときより若返っているようだ。
 投資を中心に手広く事業を展開しているようだが、裏では公《おおやけ》にはできない活動も行っている。
 その秘密結社的な行動が、ヘイゼル・グレイブスの仕事と重なったのだ。
 あるべきものを、あるべき場所へ。
 不当に取り引きされ、価値を落とされる美術品を、本当に相応しい持ち主の元へ。人類の共有すべき貴重な宝を、個人の利害に左右されない安全な住処《すみか》へ。
「それでボブ、金反は何を盗《と》ってこさせようっていうの?」
 エイプリルは|米粒《こめつぶ》の埋《う》め込まれたカップを口元に運び、温かい飲物で喉《のど》を潤《うるお》してから切り出した。
「ミス・バープの財産?」
「盗るとはまた、人聞きが悪いが。正確にはエーディットの物ではないのだよ」
「でもさっき、あたしたちが取り戻すって」
「……あの箱は、主人が保管していた物でした」
「箱?」
 エーディットの細い声に、エイプリルとDTが同時に訊き返した。これまで絵画も|装飾品《そうしょくひん》も宝石も|扱《あつか》ってきたが、箱というのは初めてだ。事情を知っているらしいレジャンとボブは、老婦人の次の言葉を待っている。
「主人は元々、美術商として各地を飛び回っておりました。五十を過ぎてからは地元に小さな画廊《がろう》を開き、|隠居《いんきょ》に近い生活を送っていたのです。ところが、一昨年《おととし》あたりから党の規制が厳しくなり……わたしたちの所持する絵画が退廃《たいはい》的だと、何人もの|同僚《どうりょう》が連行され不当に勾留《こうりゅう》されました。ですからわたしたちも、店を閉めフランスに抜《ぬ》けることにしたのです。けれど、出立間際になって主人が|倒《たお》れ、そのまま……」
「亡《な》くなられたのね?」
 老婦人は力無く|頷《うなず》いた。
「お気の毒に」
「いえ……前途《ぜんと》ある若者が散ってゆくことを考えれば、老人が生き長らえるほうが罪に思えます。現在のウィーンはそういう場所ですから……。残されたわたしは主人の遺産を慌《あわ》ただしく整理しなければなりませんでした。当局が|没収《ぼっしゅう》に来る前に。店に収められていた貴重な品や、どうあっても持ち出さなくてはならないものもございましたから。その中に……あの箱があったのです。お預かりした物として」
「預かり物?」
「そうです。確かにお預かりした物でした。主人の遺《のこ》した書き付けによると、どうも本来の持ち主の方にご無理を申し上げて、手元に置かせてもらっていたようです。箱の由来や装飾に興味を持ち、研究したかったのだと思います。書面によると……ノアの箱とも呼ばれていたようですから」
 エイプリルは手にしていたカップを置いた。琥珀色《こはくいろ》の茶が冷め始めていた。老婦人とボブを|交互《こうご》に見る。
「待って、それは箱なの? それとも方舟《はこぶね》なの? もしノアの方舟の精巧《せいこう》な模型なのだとしたら、そういう宗教色の強い品はあたしとDTの専門分野じゃないわ。ね、DT」
「まーね。オレは異教徒だし、エイプリルだって信心深いタイプじゃないかんな」
「そうなのよバープさん。こんなこと言うのもどうかと思うけど、鞭《むち》使いで有名な大学教授に依頼するほうが……」
「方舟ではないよ、エイプリル」
 これまで|黙《だま》っていたレジャンが口を挟《はさ》んだ。彼も何か重要なことを知っているようだ。
「一部の敬虔《けいけん》なキリスト教徒が、箱の性質を畏《おそ》れてそんな風に呼んでいただけだ。大きさは棺桶《かんおけ》の半分程度。何の変哲《へんてつ》もない普通の木箱だし、水に入れれば|沈《しず》んでしまう。後からつけられた装飾部分の重みでね」
「箱の性質ですって? 箱は箱でしょう、どんなに禍々《まがまが》しい由来があったとしても」
「それがねえ、ミス・グレイブス」
 レジャンは人差し指で眼鏡を押し上げ、レンズの奥でにこりと笑った。
「そいつにとっては由来よりも性質のほうが重要なんだ。といっても拷問《ごうもん》道具だったりしたことはないよ。目に見える|特殊《とくしゅ》な仕掛《しか》けは|殆《ほとん》どないんだ」
「じゃあなあに? モンスターでも閉じこめたビックリ箱なの?」
「勘《かん》がいいね。さすがにヘイゼルの後継者《こうけいしゃ》だ。閉じこめているのはアメリカ人の想像するモンスターじゃないけど。まあ、ある種の|怪物《かいぶつ》ではあるかな」
 DTが品なく舌をだし、げんなりという顔をした。アジアの化け物でも想像したのだろうか。
「言ってみれば箱は『門』だ。触《ふ》れてはならない、何者も手にしてはならない|驚異《きょうい》的な力を封《ふう》じた場所への|扉《とびら》だよ。一たび門、もしくは扉が開けば、この世界にも|恐怖《きょうふ》の存在の力が及《およ》ぶ。太古の昔、多くの血を流し、数え切れない|犠牲《ぎせい》を払《はら》ってまでも封じ込《こ》めた、この世を破壊《はかい》する強大な力だ。もちろんその封印は本物の『|鍵《かぎ》』でしか開かないが…….」
 レジャンの笑《え》みが曇《くも》る。
「何なの」
「……残念ながら、『鍵』に近いものがこの世界にもあるようだ」
「鍵に近いものって……」
「箱、つまり出口は四つあるんだよエイプリル。そして鍵も箱と同じ数だけある。一つの箱には一つの鍵。それ以外では完全には開かない。けれど近い鍵でこじ開けようとすれば……不完全な力だけが濫《あふ》れることになる。|誰《だれ》にもコントロールが効かない。封じられている存在にも、もちろん鍵の所有者にも」
「待って。では四つのうちの一つであれば、全開にはできなくても|隙間《すきま》くらいは作れるっていうことなの? で、その隙間が作れる型|違《ちが》いの鍵は、もう|何処《どこ》にあるのか見当がついているのね?」
「飲み込みが早いね。そのとおりだよ」
「ついてけねえ」
 油で光る鳥賊《いか》をつついていたDTが、テーブルクロスの上に象牙《ぞうげ》の箸《はし》を放りだした。
「オレにはついてけねーや。黙って聞いてりゃさっきから何よ、|悪魔《あくま》だの怪物だの|脅威《きょうい》の力だのと。しかも呼び名がノアのハコ? どっから見ても宗教関係じゃねーの」
「DT」
 アジア人は一重の目を細め、宗教観の違う連中を一通り眺《なが》めた。
「そりゃ皆《みな》さんには神も悪魔も実在してて、水はワインに変わり偉大《いだい》な男は海を真っ二つに分けるのかもしれないけど。オレたちの世界じゃ|地獄《じごく》に鬼《おに》はいても、人間をたぶらかす悪魔も堕《だ》天使もいないわけよ。信心深い皆さんには現実なのかもしんないけど、封じられた存在が復活するとか、ハコん中の|邪悪《じゃあく》なミイラが暴走するとか、俄《にわか》に信じられる次元の話じゃねーよ」
 誰もミイラとは言っていない。
「無理もないよ」
 レジャンが|穏《おだ》やかなまま答えた。この医者は、今まで会ったどのフランス人とも違う。協調性があり|辛抱《しんぼう》強い。頑《かたく》なに母国語にこだわったりせずに、親切に英語で話してくれているし。
「ノアなんて名前がつけられていては、宗教に深く関《かか》わるものだと誤解しやすいよ。でもDT、封じられているのは神でも悪魔でもないし、もちろんファラオのミイラでもない。第一、聖櫃《ぜいひつ》や聖杯《むいはい》を探すのなら、教会側にいくらでもプロがいる」
 そう、「聖」を冠《かん》する宝は扱いが難しい。手にするためには神を信じる心が必要だったり、聖書を全文暗記しなければならなかったりする。|敏腕《びんわん》と称《しょう》されたヘイゼル・グレイブスでさえ、キリストに関わる品々には手をださなかった。
 レジャンはちらりとボブを見て、言ってしまっても構わないねと|確認《かくにん》した。
「箱の名前は『鏡の水底』。方舟が水から命を守るためのものなら、こちらはまったく反対だ。海を河を湖を空を操《あやつ》り、全ての命を滅《ほろ》ぼすために嵐《あらし》や津波《つなみ》、激流、|豪雨《ごうう》を生みだす」
「またそんな非現実的な。そんな小さな木箱一つで、どうやって天候を左右すんだよ」
「きみはこれまで、科学で説明できるものとしか出会っていないのかな?」
 逆に問い返されてDTは押し黙った。確かにこれまでこなしてきた|依頼《いらい》の中には、超《ちょう》科学としか言えないケースも多くある。
 二人のウェイターが温かなデザートを運んできた。果物《くだもの》の姿を模した細工も美しい。少し|遅《おく》れてコーリィが現れて、うつむくばかりの老婦人の前に真っ黒なケーキをそっと置いた。
「近くにドイツ菓子《がし》の店ができたのよ。お国の味に近ければいいのだけど」
「ありがとう」
「でも次にいらしたときには、必ずうちのデゼーアもお試しになってね。あらわたしったら。この発音で合っているかしら」
 エーディットは初めて表情を和《やわ》らげ、女主人に向かって|微笑《ほほえ》んだ。
 やっぱりコーリィは|素敵《すてき》だ。DTなんかにはもったいない。エイプリルはつられて頬《ほむ》を緩《ゆる》めた。だが、仕事の話を忘れるわけにはいかない。
「でも、|旦那《だんな》さんが亡くなったとはいっても、箱も書類もバープさんの元にあるのなら、わざわざあたしたちを呼び出すまでもないでしょうに。本来の持ち主に返せば終わりでしょ?」
「それが……」
 DTの|目蓋《まぶた》がぴくりと動いた。顔は動かさないままで、目だけで通りの向こうを窺《うかが》っている。
「夫の葬儀《そうぎ》を済ませてから、わたしと娘《むすめ》夫婦は街を出ました。殆どの美術品は後に残る同業者に任せて、持ったのは本当に貴重な数点だけです。ところがそれも国境の検問で……」
「|奪《うば》われたの?」
「ええ。|全《すべ》て没収されました。絵画ばかりではなく、小さな|彫刻《ちょうこく》、宝石、|装飾品《そうしょくひん》まで」
「国境付近の治安が悪いのね。作品の価値も知らない|強盗《ごうとう》が……」
「いえ、犯罪者ではありません」
 では誰が、と|訊《き》きかけて気付く。この人は独裁者から逃《に》げてきたのだ。
「ナチに」
 その時の様子を思い出したのか、エーディットは|身体《からだ》を震《ふる》わせた。レジャンが彼女の肩《かた》に軽く触れる。
「……軍人達が、わたしたちが必死で持ちだした作品を、まるで……まるで雑誌か薪《まき》のようにトラックに積み上げて……あんなに手荒《てあら》に……娘の身に着けていた小さなルビーや、夫の形見の時計まで取り上げられました」
「奴等《やつら》はユダヤ人に財産の持ち出しを許さない。金も債権《さいけん》も、宝飾品もだ。芸術作品の|扱《あつか》いも日に日に悪くなってる。絵画と名の付く物を片《かた》っ端《ぱし》から掻《か》き集めて、総統のお気に召《め》さない品はあっさり|廃棄《はいき》される。外貨のために売り飛ばされる程度で済めばいいが、下手をすればピカソやセザンヌも|焼却《しょうきゃく》処分だ。現状はなかなか伝わってこないけれどね」
「嘆《なげ》かわしい」
 |魔王《まおう》と呼ばれる男は、長い指を額に当てた。女性みたいに爪《つめ》を伸《の》ばしている。短く丸いエイプリルの指先よりも、ずっと|優雅《ゆうが》で|繊細《せんさい》だ。
「その時に、箱も……。高価な品々だけではなく、箱も奪われました。お預かりした物ですから、どうにかしてお返ししなければと車に積んでいましたが」
「え、だって、何の変哲もない木箱だって」
「ええ本当に、どこにでもありそうな古びた箱なんです。軍があれに何の価値を見いだしたのか、わたしにも娘にも判《わか》りませんでした。ただ、お預かりした物をお返しできないことが、何より辛《つら》く申し訳なくて……」
「判ったわ」
 エイプリルは背筋を正し、今にも泣き|崩《くず》れそうな老婦人に急いで答えた。
「あたしたちがそれを取り戻《もど》して、本来の持ち主に返せばいいのね。さあ元気をだして。あまり思い詰《つ》めないことよ、バープさん。あとはあたしたちに任せて。大丈夫《だいじょうぶ》、軍隊を相手にするのは初めてじゃないから」
「でも、軍といっても|普通《ふつう》の軍隊ではないのです」
「解《わか》ってる。確かにヒトラーの兵士達は州兵とはわけが違うでしょうけど」
「いいえ、そうではなく。絵画を奪った男達と、箱を探していた人達とでは制服が違ったんです。一方はよく見るナチの軍服姿でしたが、箱を取り上げたのは黒い制服の将校達です」
 テーブルの上で|握《にぎ》り締《し》めたエイプリルの|掌《てのひら》に、ぬるく不快な|汗《あせ》がにじんだ。先の言葉を聞くまでもない。
「親衛隊《S  S》ね」
 嫌《いや》な相手だ。
「でも|何故《なぜ》SSがそんな目立たない箱を欲しがったのかしら」
「恐《おそ》らく彼等も知っているんだろうね。あれが『鏡の水底』だということを。少しでも戦力になりそうなら、連中は|奇跡《きせき》でも伝説でも利用する。どこかで箱の性質を聞きつけて、我が物にせんとしていたんだろう」
 金属が跳《は》ねる音がした。脇《わき》に押しやってあった銀のフォークをDTが床《ゆか》に落としたのだ。
「まさか! あの悪名高いナチスドイツが、そんな|超常《ちょうじょう》現象を信じてるってのか!? |薄汚《うすぎたな》い棺桶《かんおけ》入りの津波マシーンを!? まさか。まーさーかー。おいおい、今いつだと思ってんだよ。二十世紀だぜ、二十世紀も半ばだぜ?」
「気持ちは判るよ、DT」
 にこやかなままのフランス人医師に名前を呼ばれて、相棒はうっと言葉に詰まった。
「大陸で何があったかは知らないけど。きっと信じたくなくなるような恐ろしい目に遭《あ》ったんだろうね」
「なんなのDT、何かあったの!?」
「べべべ別に、な、なにもねーよっ!」
「|嘘《うそ》っ、その慌《あわ》てようは絶対に何かあるっ! 蜘蛛《くも》と|昆虫《こんちゅう》以外にも苦手なものがあるのね!?」
「ねえったら……うわッ」
 すぐ近くで高く乾《かわ》いた|破裂《はれつ》音がした。
 全員が反射的に身を屈《かが》める。
 最初の銃声《じゅうせい》から一秒もおかず、通りに面した硝子《ガラス》が割れた。立て続けに打ち込まれる弾丸《だんがん》で、ウィンドウは粉々になり床に散る。
 エイプリルは|咄嗟《とっさ》に|椅子《いす》から転がり降りて、テーブルの脚《あし》を両手で掴《つか》んだ。
「DTっ!」
「|畜生《ちくしょう》ッ、また|女房《にょうぼう》に殺される!」
 彼と彼の妻である女主人は、食べ物を|粗末《そまつ》にすることを罪悪と思っているのだ。だが今は構っている場合ではない。二人は肩と背中を使って円卓《えんたく》を横に倒《たお》し、止《や》まない|銃撃《じゅうげき》の盾《たて》にした。
 ようやく他《ほか》の客の悲鳴が聞こえるようになる。もうウィンドウは欠片《かけら》も残っていないので、弾丸は直接店内に飛び込み、花瓶《かびん》を割り食器を粉砕《ふんさい》し壁《かべ》に埋《う》まった。首を捻《ひね》って見回すと、レジャンが飾《かざ》り物《もの》の銅鑼《どら》の陰《かげ》にいた。踞《うずくま》る老婦人を抱《かか》えるように守っている。不用心にもボブはホールの中央に立ち、腕《うで》を組んだまま動かない。
 死んでいるのかと思った。
「ボブボブっ、危ない、危ないよッ!?」
「私は大丈夫だ」
「大丈夫って、|我慢《がまん》大会じゃないんだからッ」
 生きてはいるが正気の沙汰《さた》ではない。弾丸は皆《みな》、自分を避《よ》けていくとでも思っているのだろうか。店員達はカウンターの下に隠《かく》れ、ときどきひょっこりと顔をのぞかせた。様子を窺っているのだ。
「何人いるの!?」
「撃《う》ってきてるのは四人ですー」
 顔見知りの店員が裏返った声で答えた。
「おいおいおいおい、どれだけ弾《たま》持ってきてんだよ。|駐屯地《ちゅうとんち》でも|攻撃《こうげき》に行くとこかあ?」
「機関銃じゃないだけまし! ねえ何なの? この店|誰《だれ》かの恨《うら》みでもかってるの!?」
「知らねーよっ、うちの女房に訊いてくれよ」
「じゃあ強盗?」
 押し込む前から銃を乱射していたら、金を奪って店を出る頃《ころ》には警察に囲まれているだろう。そんな派手な強盗犯は|珍《めずら》しい。
「誰かちょっとは反撃しろ。見てて情けなくなってきたぞ。おいエイプリル、いつもの勝ち気はどうしたんだよっ」
「そんなこと言ったって。未成年がピストル持ち歩いていいと思ってんの? DTこそカラテで撃退しなさいよ。黒帯なら四人くらい軽いもんでしょ」
「オレがいつ日本人になったってんだ」
 まだ断続的な銃撃が止まないのに、|厨房《ちゅうぼう》に続く|扉《とびら》がゆっくりと開き、この店の女主人が移動してきた。深紅のチャイナドレスで匍匐《ほふく》前進。剥《む》き出しになった白い太股《ふともも》が|眩《まぶ》しい。しかしその|妖艶《ようえん》さとは裏腹に、顔は背筋も|凍《こお》るような怒《いか》りの表情だ。
 エイプリルは視線を窓の外に戻した。見なかったことにしよう。
「あーっこら来んなバカ、危ねーだろ、床も硝子だらけだし」
「信じられないわ」
「何がだ、何が。通りの向こうにチラッと光ったと思ったら、あっちゅー間にこの|大惨事《だいさんじ》だよ。コーリィ、警察呼べ警察! 通報しろ!」
「あなたまた組織の女に手を出したのね!?」
 えーっ!? 口をついてでかけた|驚《おどろ》きの|叫《さけ》びを、エイプリルは必死で呑《の》み込んだ。
「おまえ、んんんなにバカ言ってんだ!? オレがそそそそんなことするわきゃねーだろがっ」
「だったらどうしてそんなに慌てるのッ。どうせまたマフィアの愛人とでも|浮気《うわき》したんでしょう! この|金髪《きんぱつ》好き!」
 えええーっ!?
 コーリィは憤怒《ふんぬ》の形相で続ける。今にも夫に掴みかかりそうだ。
「思えばあなたはハイスクールの頃からそうだったわ。ブロンドでグラマラスで|大柄《おおがら》な女ばかり追いかけて。けど、どうにか|結婚《けっこん》まで漕《こ》ぎつけたから、もう安心と思っていたのに。悔《くや》しいーっ! いくらわたしが身重であまり構ってあげられなくなったからって、金髪女に走ることはないでしょう!」
「だからオレは浮気なんて……なに、今なんて言った?」
 もう我慢が続かなくなって、エイプリルは大きく息を吸い込んだ。思い切り「えー!?」と叫んでやる。だが彼女が口を開くよりも、ボブのほうが|一瞬《いっしゅん》だけ早かった。
「おや、おめでとうコーリィ」
「ありがとうボブ」
 女主人は頬《ほお》を染めて|微笑《びしょう》した。
「ええええええーっ」
 叫び声をあげたのはエイプリルではなく、夫であるDTだ。
「こっこっこっこっこんなときにこんな場所で!?」
「いやいやDT、これは日本の諺《ことわざ》だが、出物|腫《は》れ物所|嫌《きら》わずと言ってね」
「出るのはまだ何ヵ月も先の話よ」
 夫婦の会話に割り込んではいけないと、ロを噤《つぐ》んでいるエイプリルだが、そろそろ|真面目《まじめ》に|襲撃《しゅうげき》している連中が気の毒になってきた。死の|恐怖《きょうふ》に怯《おび》えるどころか、店内ではこんなほのぼのトークが展開されているなんて、四人のうち三・八人までは想像もしないだろう。
 頭上ではまだ弾丸が空を切っているのに、すぐ横では一時のショックから立ち直ったアジア人が、命名の件でもめている。
「女の子だったら梅か桃《もも》の文字を入れたいわ。男の子ならお祖父様《じいさま》につけてもらいましょうよ。ねえエイプリル、あなたはどう思う?」
「……マンゴーでもライチでも好きにして……」
 どうしよう、すごい脱力感《だつりょくかん》だ。憧《あこが》れの女性がバカップル、いや既《すで》にバカ夫婦だったなんて。エイプリルは自分の|脳《のう》味噌《みそ》の中で、理想の女性像が|崩《くず》れてゆく音を聞いた。
「とにかく誰か通報して。でなきゃあたしに戦車とヘルメットを貸して」
「|駄目《だめ》よ、エイプリル」
「なんで駄目なの!? じゃあもうこの際、中華鍋《ちゅうかなべ》でもいいわよ」
 警察は呼んで欲しい。できれば陸軍も。
「身内のことは身内で片づけるのが街のルールですもの」
「なーに? コーリィ、|親戚《しんせき》間でもめ事でも……」
「しっ、静かに。来るわ」
 身内と言ったわけはすぐに判《わか》った。反撃がないのに安心したのか、襲撃者のうちの三人が通りを渡《わた》ってくる。店に入ってきた男達は、皆が|黒髪《くろかみ》のアジア系だ。威嚇《いかく》のために大声で叫ぶ決まり文句は、自分には理解できない言語だった。
「ウゴクニャー!」
 なんだ、発音が悪いだけの英語だったのか。
「みんなユカにフセロー」
 マニュアルどおりの発言というのも考えものだ。そんな命令をされるまでもなく、みな最初から伏《ふ》せている。一人を除いて。
 中央に立つボブと目が合ってしまい、一番若い男がぎょっとして銃を構えた。
「ウゴ……」
「動かんよ」
 |魔王《まおう》は腕組《うでぐ》みをしたままで、正面から相手を見据《みす》えた。形容できない色の|瞳《ひとみ》が、|眉《まゆ》と|睫毛《まつげ》の奥でぎらりと光る。
「私はここで商談をしつつ食事を楽しんでいたのだ。それをぶち壊《こわ》したのはそちらだろう。君等に判るかね? 楽しみにしていたデザートを、皿ごと吹《ふ》っ飛ばされる悲しみが。占《うらな》いの入っているクッキーが、籠《かご》ごと宙に|舞《ま》う虚脱《きょだつ》感が。今日の私の運勢は何だったんだ。運試しさえできなくなってしまった。そんな不運に見舞われたこの私が、何故動いてやらねばならんのだ? 足を動かすのは私ではない、君等こそ速《すみ》やかに店を出て行くべきだ!」
 ああボブ……時間|稼《かせ》ぎありがとう。
「だが出ていく前に要求するぞ。私の胡麻《ごま》団子を返せ、私の胡麻団子を!」
 時間稼ぎなのか本気なのか判らなくなってきた。
 ボブは腕にステッキをぶら下げたまま、同じ内容を中国語で繰《く》り返した。胡麻団子胡麻団子と連呼している。
 襲撃者が予想外の逆ギレ客に|戸惑《とまど》ううちに、エイプリルとDTは三人を|慎重《しんちょう》に観察した。銃は五|挺《ちょう》、お陰《かげ》で二人は両手を塞《ふさ》がれている。残りの一人は団子攻撃に圧倒《あっとう》されている若造だ。至近|距離《きょり》で人を撃つ度胸はないだろう。
「いい? DT。あたしがあの異様に目が|充血《じゅうけつ》してる男をやるわ。疲《つか》れ目が治るまでたっぷり|睡眠《すいみん》とらせてやる。あんたは左の、髪《かみ》が薄《うす》い男をむしって、じゃなくて|潰《つぶ》して。余力のあったほうが若造を始末しましょう。いい?」
「……エイプリル、実はオレ……」
「三、二、一でかかるわよ。三、二、一、ゴー!」
 死角になっていたテーブルの陰から、低い姿勢で飛び出した。そのまま充血男の腹に頭と肩《かた》でタックルをかける。相手がバランスを崩した|隙《すき》に足を払《はら》い、武器を抱《かか》えたまま仰向《あおむ》けに転がす。男は見当外れの方向に|発砲《はっぽう》し、二発の弾丸《だんがん》が|天井《てんじょう》に穴をあけた。
 尻餅《しりもち》をついた充血男の手首を踏《ふ》み、細い|煙《けむり》を吐《は》く右の拳銃《けんじゅう》を|蹴《け》り飛ばした時に、若造がやっとエイプリルに銃口を向けた。だがすぐにボブの振《ふ》り上げたステッキで、|凶器《きょうき》は叩《たた》き落とされてしまう。
 充血男の左手首も踏みつけてから、エイプリルはポケットから出したささやかな武器を、迫力《はくりょく》のない若造に突《つ》きつけた。
「ウゴクニャー!」
 発音まで|真似《まね》ることはなかったかも。
 |掌《てのひら》に収まる銀色の塊《かたまり》は、確かに銃の形をしている。だがいかにも軽そうで口径も小さく、女性が護身用に持つにしても|華奢《きゃしゃ》すぎる。こんな武器で両手を挙げてしまうのは、|恐《おそ》らくこの若造くらいだろう。
「未成年がピストル持つのには大反対だけど、あたし自身が持たない主義だとは言ってないはずよ」
 小さなリボルバーが実際に役に立つかというと、その点は甚《はなは》だ疑わしい。人間に向けて撃《う》ったことがないからだ。だが、祖母の遺品の中にあった銀の作品は、世界にたった一つしかない芸術品だ。可能な限り小型軽量化した各パーツは、このサイズながら|完璧《かんぺき》に作動する精巧《せいこう》さだ。グリップに施《ほどこ》された|彫刻《ちょうこく》は、絡《から》みつく蔦《つた》を描《えが》いている。
 ただし装填《そうてん》できる弾《たま》数は少ない。武器としての殺傷力にも問題がある。
 彼女はこれを御守《おまも》りがわりに身に着けているが、使わずに済むことを願ってもいた。今日までは。
「動かないで! さあ大人しく両手を頭の後ろに。至近距離ならこの子も結構使えるのよ」
 だがすぐに、背後で撃鉄《げきてつ》の起きる音がして、低く二枚目風な声が、エイプリルに冷たく命令する。髪の薄い男が無傷で残っていたのだ。
「お前が動くな」
「ちょっと|嘘《うそ》、これってなんかの詐欺《さぎ》? 声だけ聞いたらあなた相当男前じゃないの」
「失礼な女だな、顔も男前だぞ」
 しかも英語も流暢《りゅうちょう》だ。ということは問題は頭部だけ。是非《ぜひ》とも帽子《ぼうし》の着用をお薦《すす》めする。
 手の中のささやかな武器を捨てるか迷いながら、それにしてもDTはどうしたのだろうと思う。不運に|見舞《みま》われていなければいいのだが。
「この中にエーディット・バープとかいう婆《ばば》ぁがいるはずだ」
「ちょっと、口を慎《つつし》みなさいよ。ご婦人に対してババアとは何よ」
「|黙《だま》れガキ。おい、|誰《だれ》がバープだ? 早く名乗りでねーとこのガキが死ぬぞ」
「ちょっと、もっともっと口を慎みなさいよ。レディに対してガキとは何事よ」
「いいからお前はそいつの上からどけ!」
 充血男の手首から足を退《ど》かすが、相手はとっくに気を失っていた。若造が慌《あわ》ててエイプリルの武器を取り上げようとする。まったく、薄禿《うすは》げ男担当のDTは何をしているのか。
 |壁《かべ》近くで情けない返事があった。顔を殴《なぐ》られたらしく、声がくぐもっている。
「すまにぇえエイプリル、実はオレ、髪の薄い男が大の苦手で」
「はあ!? なによ、なんなのよヘタレ男! 蜘蛛《くも》や油虫なら判るけど、禿《は》げかけたおっさんが苦手の|冒険《ぼうけん》家なんて聞いたことないわよ! あんたときたら真のヘタレ男ね」
 ようやく|金縛《かなしば》りが解けたらしく、若造がエイプリルの銃もどきを取り上げた。思わず舌打ちしてしまう。母親がいたら|卒倒《そっとう》しそうだ。それもこれも不甲斐《ふがい》ない相棒のお陰だ。明日からはダメ男と呼んでやる。
「ごめんなさいねエイプリル……夫に成り代わって謝るわ」
「あ、いえいいのよコーリィ。誰にだって苦手なものはあるし」
 しおらしい態度にでられると弱い。
「実はこの人のお父様が同じような髪型《かみがた》で……子供の頃《ころ》に色々と確執《かくしつ》があったのよ。それですっかり薄禿げ嫌《ぎら》いになってしまって……」
 うちのパパには一生会わせられない。
「でも、夫の不始末は妻の不始末よ。夫婦ってそういうものだと思うの……だから……」
 不穏《ふおん》な空気を感じて振り向くと、ちょうどコーリィが三十センチほど宙に浮《う》いたところだった。|身体《からだ》を斜《なな》めにした男の顔面に見事なハイキックが決まる。鼻の骨が潰れる音がした。仰《の》け反《ぞ》った顎《あご》を左足で蹴り上げると、血の帯を引きながらゆっくりと背後に|倒《たお》れていく。コーリィの両足が地面につくと同時に、男も床《ゆか》に後頭部を打ち付けた。素晴らしい脚技《あしわざ》だ。
「……わたしが片をつけたけど。良かったかしら?」
 いいですとも! 店中が拍手喝采《はくしゅかっさい》だ。あのセクシーなスリットは、この|攻撃《こうげき》のためにあったのだろうか。
 一人残された若造は、言われる前から両手を挙げている。女主人は店内の|惨状《さんじょう》を見回すと、元凶《げんきょう》である青年の頬《ほお》に指を滑《すべ》らせた。
「|坊《ぼう》やったら。コーリィの店をこんな風にしておいて、黙って帰ろうなんて思ってやしないわよね?」
 美しいだけに恐ろしい。若造は顔面|蒼白《そうはく》だ。
「しかもわたしたちは同じ祖国を持つ|同胞《どうほう》だわ。血を裏切るのは許し難《がた》い|行為《こうい》よ。さあ、どいつに雇《やと》われたのか言っておしまいなさいな。謝罪も償《つぐな》いもそれからよ」
 赤い爪《つめ》の先でつっと頬を掻《か》く。
「ド、ドイツニ……」
「わたしの言葉を繰り返す必要はないのよ」
 コーリィの右手が高々と上がる。
「待って! 彼なりに白状しようとしているみたい」
「ド、ドイツ人ガ……ババアを脅《おど》せト」
 若造は通りの向こうを見た。視線を追ったエイプリルの目に、人混みの中に消えかけた背中が映った。切り|揃《そろ》えられた明るい茶色の髪と、上着丈《うわぎたけ》の長い黒っぽいスーツ。四人組の一人というよりは、彼等を雇ったドイツ人と考えるべきだろう。
 ほんの|一瞬《いっしゅん》だけ男が振り向き、短い|前髪《まえがみ》の下から独特の鋭《するど》い眼《め》がのぞく。茶に、細かい光を撒《ま》いたような瞳。
「DT、追って!」
 近い将来父親になる予定のアジア人は、ヨタヨタと情けない足取りで駆《か》けだした。彼は少し|女房《にょうぼう》に勇ましさを分けてもらうべきだ。
「あの男に雇われたのね。バープさんを脅すために。でも|何故《なぜ》……」
「|皆様《みなさま》方に|接触《せっしょく》するのをやめさせようとしたのだと思います」
 フランス人医師に支えられながら、老婦人が銅鑼《どら》の陰《かげ》から出てきた。立っているのがやっとという有様だ。黄ばんだ紙をエイプリルに差しだし、残る右手で心臓の辺りを掴《つか》んでいる。
「箱を取り戻《もど》すために、動かれると困るのです。ミス・グレイブス、これをあなたに渡《わた》さなくては……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》? バープさん。箱のことならあたしたちが何とかするから、あなたは早く医者に診《み》てもらったほうがいいわ」
 レジャンがまた、僕は医者だと言いたそうな顔をした。
「いいえ……ええ……病院には行きます……でもその前に、これをお読みになって」
 渡された数枚を軽く折って、胸のポケットに刺《さ》し入れる。エイプリルは老婦人の冷たい指をぎゅっと|握《にぎ》った。
「安心して。『鏡の水底』は絶対に取り戻して、どんなに遠くても本来の持ち主の所まで返しに行くから」
「|違《ちが》うんです。遠くなどないのです」
「その書類をよく読むといい」
「え?」
 ボブは転がっていた|椅子《いす》を起こし、ゆっくりと腰《こし》を落ち着けた。床をステッキで数回叩くと、彼の周りの硝子片が弾《はず》んで離《はな》れてゆく。彼の|微笑《ほほえ》みのない顔から目を逸《そ》らせぬまま、エイプリルは最初の紙片を開いた。
 見慣れた名前が飛び込んでくる。
 
 尚、この櫃「鏡の水底」は、ヤーコブ・バープの死後速やかに本来の所有者であるヘイゼル・グレイブスに返却すること。
 
「……おばあさまが?」
「ヘイゼルがまだ三十そこそこだった頃に、西アジアで『鏡の水底』を発見したのだよ。だが彼女はバープ氏たっての願いで、研究、解読のために箱を預けたんだ。彼女にはもう一要な探し物があったからね」
「でも、おばあさまはもう……」
「そうだ。そしてヘイゼル・グレイブスは自らの後継者《こうけいしゃ》にきみを選んだ」
 挟《はさ》み込まれていた写真を見て、爪の丸い指先が震《ふる》えた。
 似ている。
 ボブの宣告が頭上から降ってくる。
「箱の所有者はきみだよ、エイプリル」

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11/25 00:51