5 フランクフルト行き
上半身を膝につくほど折り曲げて、エイプリルは可能な限りの酸素を吸い込んだ。列車の規則的な震動《しんどう》が、足の裏の細かな傷を|刺激《しげき》する。駅舎は既《すで》に遠く離《はな》れ、DTもレジャンもここにはいない。
あの後、二人はどうなっただろう。あんなに派手な|抵抗《ていこう》を繰《く》り広げてしまい、兵士に連行されてはいないだろうか。
よそう。
エイプリルはゆっくりと目を閉じる。
心配しても仕方がない。たとえ誰かが引き留められても、残りの者は列車に乗るよう決めていた。彼等も自分も、間違ってはいない。
「……でも……ああどうしよう、バッグもパスポートも、置いて、きちゃった、わ」
頭上から親衛隊中尉の声が降ってくる。背の高さも相当違うのだ。
「|呆《あき》れたな。夫を残して一人で駆け込んでおきながら、心配なのは荷物と旅券のことか」
「そうよ、悪かったわね専門家っぽくなくて。でも実際、皆がみんな戦車を乗っ取ったり、崖《がけ》にへばり付いたりしてるわけじゃないんだから。|普通《ふつう》に国際便で移動する場合、パスポートがないと、異国では動きが……夫ですって!?」
息切れも忘れる勢いで、エイプリルは曲げていた|身体《からだ》を起こす。
「誰よ、誰のことを言ってるの!?」
「あのアジア人の……」
「DT!? DTがあたしの夫!? し、信じられない。やめてよ、|冗談《じょうだん》じゃないわよッ」
リヒャルト・デューターの銀を散らした特有の|瞳《ひとみ》が、意外そうに丸くなった。
「ではあのフランス語を叫んでいたほうか? 歳《とし》の差のある夫婦だな。まあどちらでもかまわないが。俺には任務がある。いつまでもお前に構ってはいられない」
手袋をきっちりとはめ直してから、デューターは革製のケースを持ち上げる。
「待ちなさいよ、ほら! 見てよ、何にもないでしょ」
相手の顔に左手を突《つ》きつけて、エイプリルは指輪がないことを|確認《かくにん》させた。
「アメリカの風習に興味はないね」
「そうじゃなくて。あたしが|結婚《けっこん》してるなんてどうして思ったの。昨日自分が十八は子供だって言ったばかりじゃない」
「俺の姉は十八で結婚した。二十三で死んだがな」
「え……それは、お気の毒に……でもこういうことははっきりさせておかないと! いい? DTには|綺麗《きれい》な奥さんがいて、もうすぐ子供も生まれるのよ! あたしは独身。まだまだずーっと独身の予定」
「そうか。既婚者《きこんしゃ》好きのケルナーがご執心《しゅうしん》だったから、てっきりそうだと思っていた」
「え、あの男って結婚してる人が趣味《しゅみ》なの?」
まずい。本当にDT狙《ねら》いだったらどうしよう。エイプリルは密《ひそ》かに責任を感じたが、すぐに本題に戻《もど》らせる。無理やり。
「ああっ、何でこんなこと|喋《しゃべ》ってんの。違うでしょリチャード、もっと他《ほか》に言うことがあるでしょ!?」
デューターは右の|眉《まゆ》を軽く上げて、平坦《へいたん》な口調で|途中《とちゅう》まで言った。
「リチャードじゃ……」
「そうじゃなくて!」
無言で自分の足を指差す。デューターの唇《くちびる》が「ああ」と動いた。
「足か。足はあれだけ走れれば|大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
「そう思っても|尋《たず》ねるべきじゃないの? 社交辞令のなってない男ね! あなたが硝子を割ったからこうなったんでしょ」
彼は苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような顔をしたが、エイプリルが諦めそうにないと悟《さと》ると、やむなく一語一語を絞《しぼ》りだした。
「……その後、足の、具合は、どうだ」
「走れるんだから大丈夫よ」
「……。そうか、じゃあ俺は一等車両に」
「そうか、だけ!?」
「これ以上|訊《き》いても、どうせ子供じゃないんだから干渉《かんしょう》するなとむくれるだけだろう」
「わかんないじゃない」
声が段々低くなる。|眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、視線を窓の外に向けたままだ。
「……回復が早くて何よりだが、あまり無茶は、しないように……」
「恋人《こいびと》でもないんだから干渉しないで」
デューターはケースを床《ゆか》に取り落とす。ゴスン、と|鈍《にぶ》い音がした。
「どうして欲しいんだ? 偶然《ぐうぜん》あの場に居合わせたお前を、|一般《いっぱん》人のお嬢《じょう》さんを巻き込んですまなかったと、俺に頭を下げさせたいのか鐙」
「そうじゃないわよ。ただ単純に腹が立つだけ! 靴《くつ》も履《は》かずに走るなんて、何であんな|素人《しろうと》みたいなことしちゃったのか、自分でも判らなくて腹が立つのよ!」
|握《にぎ》り締《し》めた|拳《こぶし》が震《ふる》えるのに気付いて、エイプリルは両手を後ろに回した。足の親指の傷が痛み始めて、やむなく|壁《かべ》に寄り掛《か》かる。
「あんなミスは初めてなの!」
彼は少しの間|黙《だま》り込んだ。やがて口を開きかけたが、すぐに背後からの刺《さ》すような視線に気付いて振《ふ》り返る。二等車両の客全員の不安そうな視線が、|奇妙《きみょう》な組み合わせの二人に向けられていた。皆が慌《あわ》てて目を伏《ふ》せる。
「……来い」
デューターはエイプリルの手首を掴み、早足で通路を歩きだした。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。乗せてくれたのには感謝してるけど、だからってナチとの楽しい旅に付き合わされる筋合いはないわ。あたしの|切符《きっぷ》は二等席なんだし……」
「それはこっちも同じだ。|誰《だれ》が好きこのんでアメリカの金持ちと相席などするものか」
そこまで言うと力任せにぐっと引き寄せ、急に|忌々《いまいま》しそうな小声になる。
「だが俺達がこの車両にいるだけで、他の乗客に迷惑《めいわく》がかかるんだ。お前も見ただろう、あの検問をなんとかくぐり抜《ぬ》けて、やっと乗り込めた人達だぞ。SSの将校が同じ車両にいたらどうだ、どう思う? しかも次の駅はまだベルリンのど真ん中だ。彼等から指輪の一つ、金貨の一枚でも巻き上げようとして、また荷改めの係官が乗ってくる。そんな所に無許可乗車の外国人までいたらどうなる。お前を|匿《かくま》った罪で全員が降ろされるんだぞ。客達は別にお前を助けちゃいない、それどころかどうやって乗ってきたのかさえ知らないはずだ。だが連中は、どんな些細《ささい》なことでも言い掛《が》かりをつけてくる。逃《に》げ延《の》びられたはずの生命《いのち》が、何十も無駄《むだ》に奪《うば》われるのを黙って見ていられるのか!?」
「奪われるって、そんな理不尽《りふじん》なこと、できるわけが……」
|薄茶《うすちゃ》の瞳が失望で翳《かげ》ると、|虹彩《こうさい》に散っていた銀の星が消えた。
「今のドイツなら、やるだろう」
デューターは彼女の手首を放し、吐《は》き捨てるように言って背中を向けた。
「恥《は》ずべきことだが」
|現役《げんえき》将校の言葉に|嘘《うそ》はなかった。次の駅では軽武装の軍人達が|雪崩《なだ》れ込み、各車両で再びチェックが始まった。エイプリルが窓|越《ご》しに見ていると、運の悪い乗客が数人降ろされ、多くの荷物がホームに積み上げられた。中にはリュックやトランクもある。明らかに乗客の私物ばかりだ。
「酷《ひど》いことを」
「あまり同情の眼《め》で見るな。当然だという顔をしていろ」
一等車両にも担当者が回ってきた。二等よりは階級が高いのか、態度や物腰《ものごし》もずっと丁寧《ていねい》だ。
この二人きりのコンパートメントにも、控《ひか》えめなノックの後に若い下士官が入ってきた。慣れた仕草で敬礼する。
「失礼いたします、中尉殿《ちゅういどの》。どちらまでの任務ですか」
デューターは新聞から顔を上げもしない。
「フランクフルトまで、シュルツ|大佐《たいさ》にこれを届けに」
「……中身をお訊きしてよろしいでしょうか」
親衛隊中尉の階級章をつけた男相手なので、かなり下手にでているようだ。
「楽器だ。|晩餐会《ばんさんかい》で総統閣下に是非《ぜひ》ともお聞かせしたいそうだ」
「総統閣下に! 中尉殿も出席されるのですか」
それには返事をせず、目だけを下士官に向ける。
「外が|騒《さわ》がしいな、何の騒ぎだ?」
「いえ中尉殿、通常の点検です。財の流出が目に余るので、先週から検問の徹底《てってい》に力を入れています」
「空路の|殆《ほとん》どが断たれているのもそのせいか」
「はい。空港には裕福《ゆうふく》なユダヤ連中が詰《っ》めかけていましたからね。出て行ってくれるのは結構ですが、我々ドイツの財産まで持ち出そうとはけしからん連中です。ところで中尉殿、実は始発駅で、外国人の無許可乗車が一人ありまして……」
きた。エイプリルは気取られないよう身構える。
「大変失礼ですが、そちらのご婦人は」
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「妻だ」
エイプリルよりも先に、下士官のほうが|驚《おどろ》いた様子だ。
「奥様でいらっしゃいましたか! これはご無礼を」
男はいかにも礼儀《れいぎ》正しい|笑顔《えがお》のまま、短い英語で話しかけてきた。だがにこやかな表情とは裏腹に、質問の中身は不快だった。英語の解《わか》る女性なら聞いただけでも顔色を変えそうな、屈辱的《くつじょく》な言葉である。
エイプリルは黙って小首を傾《かし》げた。それからドイツ語で「なんとおっしゃったの?」と訊き返した。
ほぼ同時に中尉殿が立ち上がり、下士官の胸ぐらを手荒《てあら》に掴《つか》む。軍服のボタンが一つ弾《はじ》け飛んだ。
「|侮辱《ぶじょく》するつもりか!?」
「い、いえ決してそのようなことはっ」
エイプリルはただきょとんとしていた。英語など欠片《かけら》も解らないふりをしなければならない。
三|拍《ぱく》くらいおいてから困惑《こんわく》した顔で二人を止めに入る。
「自分はただ、奥様が英語をお話しになるかと思いまして。申し訳ありません、奥様」
「あれが女性にかけるべき言葉か! 隊ではどういう教育を受けている!? 直属の上官を連れて来い! 私が直接話をつけ、妻に対して謝罪させる」
「やめてあなた、いいのよ。もういいの。どうせ聞き取れなかったんだから、別に気分を害したりしないわ」
妻に諌《いさ》められた中尉に手で追われ、愚《おろ》かな下士官は転がるようにコンパートメントを出て行った。その靴音《くつおと》が遠くなるのを待ってから、二人は堪《こら》えきれずに吹きだした。椅子《いす》の背を叩《たた》いて笑い転げる。
「つ、つつつ妻だって! 全身に鳥肌《とりはだ》立っちゃった」
「そっちこそ、子供のくせして演技しすぎだ。ヤメテアナタはないだろう。|一瞬《いっしゅん》、背筋が寒くなったぞ」
「あの人、本当に信じたのかしら」
「まあ若い連中は女に日照《ひで》っているからな、素人演技でも簡単に信じ込むさ」
「何よ、自分だってそれなりに若いじゃないの」
リヒャルト・デューターは、ふと真顔になった。
「いや、もう二十七だ。この先できることも、そう多くない」
機関車が蒸気を上げる震動《しんどう》があり、車輪が鈍い音と共に回転を始めた。窓の外の光景がゆっくりと動きだし、列車は今度こそベルリンを離《はな》れる。
「座れ」
「そっちが座りなさいよ」
結局、|双方《そうほう》同時に腰《こし》を下ろす。六人用のコンパートメントに二人きりだ。どうにも気まずい沈黙《ちんもく》が|訪《おとず》れる。エイプリルは斜《なな》め向かいに顔を向けた。
「同業者として助言するけど、あたしの祖母は五十を過ぎるまでこの仕事を続けてたわ。二十七でこの先できることがないなんて、生んでくれたご両親に失礼よ」
「ヘイゼル・グレイブスが同業者? |馬鹿《ばか》なことを言うな」
「そうね。同業者というより商売|敵《がたき》かもしれない」
座席に置かれた革のケースを見る。あの中には楽器など入っていない。
「あたしたちは文化的遺産をあるべき場所に戻《もど》す。でもあなたのような強奪者《ごうだつしゃ》は、私利私欲のためにあらゆるものを持ち去る……もしその中身が本当に楽器だとしたら、シュルツ大佐って人も相当な変わり者ね。食事時に金管楽器を聞かせたい人なんている? しかもトランペットにしては|微妙《びみょう》に大きすぎるし」
「オーボエかもしれないだろう。しかし……そうか、楽器で通すのは少々|強引《ごういん》だったか。言っておくが私利私欲で持ち去ったわけじゃない。元々これは、俺のものだ」
どこかで聞いた一節だ。これは自分のもの。そう、箱はきみのものなんだよエイプリル・グレイブス。
デューターは手慣れた様子で|鍵《かぎ》を解除し、パチンと音を立てて金具を弾《はじ》いた。|頑丈《がんじょう》なケースを横に倒《たお》し、縁《ふち》に鋲《びょう》を打った蓋《ふた》を持ち上げる。
艶《つや》やかな赤い布の中央に、真っ白な腕《うで》が置かれていた。改めて見てもやはり精巧《せいこう》な蝋細工《ろうざいく》のようだ。あまりに白く冷たそうで、人間の腕とは思いがたい。
「これは俺の、つまり俺の先祖の|左腕《ひだりうで》だ」
「本当に作り物じゃないの?」
「|間違《まちが》いなく、|蛋白質《たんぱくしつ》と|脂肪《しぼう》でできている。人間の骨と皮と肉だ。生まれるずっと前から家にあった。百五十年近く昔の話だ」
恐《おそ》る恐る触《ふ》れてみる。昨日と同じ弾力《だんりょく》性と無体温。
「でも……こんなのありえないわ。どうやって保管したっていうの? 標本みたいにホルマリン潰《づ》けに……」
「特に何も。高温|多湿《たしつ》、直射日光を避《さ》けて」
「またそんな! ピクルスみたいに」
「本当だ。どんな|魔術《まじゅつ》がかかっているのかは知らないが、持ち主がこの世を去り、地中に葬《ほうむ》られて腐《くさ》っても、こいつだけは腐敗《ふはい》せずに残されていたらしい。|屋敷《やしき》の奥の倉庫で|眠《ねむ》り続けていたんだな。もっとも生前の持ち主が年老いていく間も、こいつだけは皺《しわ》一つ増えなかったそうだが」
「|誰《だれ》よ、その持ち主って」
「ローバルト・ベラールという男だ。俺の祖父の……祖父に当たるか」
それから彼は、歌うように言った。詩でも朗読するみたいに。
「百四十年前の月の高い夜に、隻腕《せきわん》の男が天から降ってきたんだ。|斬《き》り落とされた自分の左腕を抱《かか》えて、水と血で全身を濡《ぬ》らしたまま」
「なにそれ。マザーグース?」
そう茶化しながらも、エイプリルはデューターの言葉を疑ってはいなかった。不可思議なことはこの世にいくらでもある。
「こんな話を信じてるのは、俺とナチと坊《ぼう》さんたちだけだ」
「シュルツ大佐って人は信じてるんでしょう?」
「大佐か……大佐ね……」
デューターは窓に顔を向け、流れる景色にしばらく沈黙した。同乗者が腕を盗《ぬす》むとは思っていないのか、エイプリルが席を移っても振《ふ》り向かない。
昨日は布に隠《かく》れて見えなかったが、今なら上腕《じょうわん》部まではっきりと見える。より肩《かた》に近い部分には、濃《こ》い灰色の二本のラインが浮《う》き出ていた。目を凝《こ》らすと完全な線ではなく、細かい記号の寄せ集めだ。文字なのか、模様なのかも判らない。目にしたことのない特異な形だった。
「何て書いてあるの? それとも文章じゃないのかしら」
「この世には、触れてはならぬ物が四つある」
左腕の所有者は両肩を竦《すく》め、読めるわけじゃないさと断った。
「内容は聞いてる。先祖代々伝わっているからな。あのフランス人も、恐らくもうお前も知っているだろう。強大な力を封《ふう》じた四つの箱があり、同じくその鍵が四つある。箱の名前は『風の終わり』『地の果て』『鏡の水底《みなそこ》』『凍土《とうど》の劫火《ごうか》』。一つの箱には一つの鍵。それをもってのみ開き、それ以外をもって開いてはならない」
「けれど『鍵』に近い物でなら、無理やりこじ開けることもできるって……ちょっと待ってよ、この腕と箱に何の関係があるの!? まさかこれ」
「なんだグレイブス、知らずに箱だけ追っていたのか?」
リヒャルト・デューターは無造作にそれを掴み、赤い布ごと持ち上げた。
「これは四つの鍵の一つだ。最初の一つ、そして最も使いやすい、使われやすい鍵」
「……でもそんな、箱の鍵は清らかなる水だって……」
頭がクラクラする。目の前では男が生白い蝋細工を弄《もてあそ》び、自分の左肩に当ててみている。いや、あれは蝋などではなく、百五十年近く前の人間の腕で……。
「清らかなる水が必要なのは『鏡の水底』だ。そっちが血眼《ちまなこ》になって探しているのはその箱だろう。こいつは違うほう、つまり『風の終わり』の鍵だ。でも他《ほか》の箱も開けられないことはない。だからこそ最初の一つなんだがな」
黒い制服と真っ白な腕の対比が、|不吉《ふきつ》なくらいに目に痛かった。
「太さで少し負けているか。仕方がない、銃《じゅう》と剣《けん》では使う筋肉も違う。だがこれだけ差があっては、万一の場合に使いこなせる保障はないな」
「使いこなすって、それを振り回してどうにかするつもり?」
鍵をどう扱《あつか》うのか尋《あず》ねているのだ。デューターは革のケースの中を顎《あご》で示した。布を剥《は》ぎ取った底の部分には、中世史博物館でしか見ないような頑強《がんきょう》な剣が一振《ひとふ》り収められていた。
「すげ替《か》える。それで俺の……左腕を斬り落として。この百四十年間腐らなかった腕とすげ替えるんだ」
「そんなことできるわけが……」
「できるかどうかは判《わか》らない。だが、今のところ他に方法を知らないからな。一度開いた箱と解放された力を|制御《せいぎょ》できるのは、鍵とその正当な持ち主だけだ。現在、隊が保有しているのは『鏡の水底』で、俺の持っているのは『風の終わり』の鍵だけだが……聞いているだろう、該当《がいとう》する鍵に近いものなら、無理やりこじ開けることも可能だと。だったらこの玩具《おもちゃ》みたいな左腕で、逆に閉じることも可能なんじゃないのか」
「リチャード」
「奴等《やつら》はあの箱を開けて、|凶悪《きょうあく》な力をこの世に解放するつもりだ。その先どうなるかも考えずに、ただ戦力を上げるためだけに……。奴等の作戦を|妨《さまた》げるためになら、多少の|犠牲《ぎせい》はやむを得ない。ましてそれが俺の腕一本で済むのなら」
「やめてよ!」
エイプリルは彼から赤い布を|奪《うば》い取り、|鈍《にぶ》く光る鞘《さや》を乱暴に覆《おお》った。
馬鹿げてる。いくら敵の作戦を食い止めるためとはいえ、自分の片腕を犠牲にするなんて。
「馬鹿げてるわ。たかが箱よ。なのにそれを身を挺《てい》して守ろうなんて」
「別に馬鹿げた話ではないさ。そのために親衛隊にまで入ったんだ。そのためにこんな」
中尉《ちゅうい》は|忌々《いまいま》しそうに軍帽《ぐんぼう》をとり、向かいの席に投げ飛ばした。
「|不愉快《ふゆかい》な服まで着ているんだ。まあもっとも、アメリカ人には永久に判らないだろうな……暴走列車の乗り心地《ごこち》は、乗った客にしか判らないものだ」
茶色の髪《かみ》に指を突《つ》っ込んだデューターは、先程までよりいくらか若く思えた。
彼は窓の外を眺《なが》め、エイプリルはその横顔を眺めている。無表情で|冷淡《れいたん》な印象が薄《うす》まり、ごく|普通《ふつう》の善良な青年に見えた。
「だから、親衛隊に入ったの?」
「ああ」
「暴走する列車を止めるために?」
「そうだ。ま、髪や瞳の色は気にくわなかったろうが、特に問題もなく入隊できた。こっちは鍵を受け継《つ》ぐ家系の人間だからな。手元に飼っておきたかったんだろう」
聞く者がいないと知りながらも、つい声は低くなる。迂闊《うかつ》には答えられない質問を、昨日会ったばかりの男にしようとしているからだ。
「じゃああなたは今、国を裏切ってるの?」
リヒャルト・デューターは窓の外を見るのをやめて、|握《にぎ》ったままの左腕に視線を落とした。
「違う。党を裏切ってはいるが、国を裏切ったことは一度もない。国のために必要なことは何でもするし、|邪魔《じゃま》なものは何でも捨てる。お前達みたいに博物館で見せ物にするために、箱を追っているわけでは……」
「違うったら」
|黙《だま》り込むと列車の震動《しんどう》が、いっそう強く足の裏に響《ひび》いた。
エイプリルは祖母に教わったとおり、目を閉じてゆっくりと五つ数えた。十本程の枕木《まくらぎ》を通過する間、この男をどう扱うかじっくりと考えた。もっと時間をかけるべきだったのかもしれないし、もっと短くてもよかったかもしれない。結局、筋の通った|根拠《こんきょ》も思い浮かばないまま、彼女は深く息を吸った。
勘《かん》に頼《たよ》るべきときもある。
「あの箱は、あたしのものよ」
「バープとかいう老人から|譲《ゆず》られたのか?」
「そうじゃない。あれは祖母が発見して、バープさんに預けた物なの。そしてヘイゼル・グレイブスはあたしを後継者《こうけいしゃ》に選んだ。あたしには箱に対する責任がある。あれを取り戻《もど》す義務があるのよ」
青い炎《ほのお》をまとった姿の祖母は、夢の中で必ずこう言う。エイプリルを見詰《みつ》めて悲しげに首を振る。
『触《ふ》れてはいけない』
エイプリルには判っていた。祖母が自分に託《たく》したのは、数字では表現できないものだ。
|誰《だれ》もあの箱に触れてはいけない。決して触れさせてはならないのだ。