6 アールバイラー
エイプリルがどうにか列車に乗ったのを確かめると、DTはようやく悪態を止めた。正直、もうネタが尽《つ》きかけていたのだ。
一つ置いた隣《となり》の集団では、フランス人医師がやはり先頭で兵士と揉《も》み合っている。ドイツ語とは別の聞き取れない言葉で詩を朗読し、相手の兵を困惑《こんわく》させているようだ。
「ドークターぁ」
立てた親指を後ろに向けて、
「とっとと退散」の合図をする。|諦《あきら》めきれない市民達はまだ係に詰《つ》め寄り、あるいは|切符《きっぷ》の払《はら》い戻しを求めて窓口に詰めかけた。その列を必死で逆流しながら、やっとのことで彼等は合流できた。
「え、えらい|騒《さわ》ぎだな」
「そりゃそうだろう。一日|遅《おく》れればそれだけ危険が増える。彼等だって生き延びるために必死だよ」
「ん? なんでそんな急いでベルリンから逃《に》げなきゃなんないんだ? 株でも暴落すんのかい?」
レジャンは笑いながら二等席の切符を破った。どうせ払い戻しなどできやしない。
「きみは|呑気《のんき》でいいねえ。いや、|呆《あき》れているんじゃなくて、本音だよ。ヘイゼルがきみを大好きだった理由が判る気がする」
どう聞いても|馬鹿《ばか》にしているとしか思えなかったが、|今更《いまさら》腹も立たなかった。エイプリルと組んでいた二年間で、DTは実に|辛抱《しんぼう》強くなった。もっとも|女房《にょうぼう》に言わせると、鈍くなっただけとしか認めてくれないが。
「にしても、|大丈夫《だいじょうぶ》かね、うちのお嬢《じょう》は。見ず知らずの男に抱《かか》え上げてもらっちゃってよー。しかもあの、悪名高きSSの将校だぜ!? まったくいつの間にあんな子になったんだか」
「いやDT、少なくとも見ず知らずではないよ。昨日、ホテルの前で会ってるだろう? それに……」
大荷物の客達で混み合ったカフェを通り過ぎながら、レジャンはパナマ帽《ぼう》を頭に載《の》せた。レンズの奥の黒い|瞳《ひとみ》が、|記憶《きおく》を総動員しつつ迷っている。
「……あの目……あの薄茶で……何かの散った特有の眼《め》だ。僕はどこかで彼に会ってる気がするね。ボストンでかな、それとも戦時中にかな。戦地でだったら彼じゃないかもしれないけど……いや、もっとずっと前かもしれない」
「ありゃ、そーだっけか? 前にも会ったっけか? 実はオレ、顔を覚えるのが苦手で」
DTに得意分野があるのかというと、たった一つしか思いつかない。
「とにかく、一刻も早く追いつかなければならないよ。残る手段は車だが、それでは差が開くばかりだし。DT? タクシーではベルリンを出られないよ」
客を降ろしたばかりの白い車をつかまえて、DTはさっさと乗り込んでしまった。運転手に「一番近い飛行場まで」と短く告げると、難しい顔でシートに背を預ける。
「空港は見てきたばかりだろう、空路は遮断《しゃだん》されてる。それにきみがドイツ語を話せるなんて知らなかったよ」
「ドイツ語? いやぜーんぜん話せねえよ? ただオレ、お空のことは世界中の言葉で言えんの。あんたたちだって中国語を話せなくても、|中華《ちゅうか》料理の名前が言えるだろ? それと同じ」
信号で止まった運転手が、本当に飛行場でいいのか|確認《かくにん》する。|唸《うな》るように答えたDTに、レジャンは少し苛立《いらだ》った。
「旅客機は飛ばないよ」
「飛ばすのさ」
車は北に向かって左折し、駅をどんどん離《はな》れてゆく。空港とは方向が逆だ。
「空港で待機してる飛行機は出ませんよ、多分。それはお客様用だからな。でも飛行場にはヒコーキがいくらでもいる。こっちは客なんか乗せねーから、座席も堅《かた》いし酔《よ》うし吹《ふ》きさらしだし、少々|命懸《いのちが》けな場合もあるけどな。おまけに運が悪けりゃ、二人しか乗れないし」
「自分で操縦するのか!?」
「するよ? ははあ、何でヘイゼルがオレを大好きだったか知らねーな?」
十代の少女に散々言い負かされていた男は、それでも|何故《なぜ》か彼女のことを語るとき|妙《みょう》に嬉《うれ》しそうだ。
「あの子を助けるとか教育するとか、そういう理由で組んでるわけじゃないのよ。そんなものはあの子に必要ない。エイプリルがどう思ってるのかは知らないけど、ヘイゼルは最初から孫娘《まごむすめ》を高く評価してたし、ヘイゼル以上の教師がいるとも思ってなかった。あの子に教えられる奴《やつ》なんかいない。あとは経験を積むだけだ」
「じゃあ何で、きみと組ませたんだ。まだ未成年だったから?」
「そうじゃない。一つはオレに美人の|女房《にょうぼう》がいたため。安全牌《あんぜんぱい》だと思ったんだな。もう一つがあれだ」
DTは、遠く見えてきた金網《かなあみ》と、その先の空を指差した。開けたコンクリートの大地には、小型の機体がいくつも羽根を休めている。
「オレは最後の|脱出《だっしゅつ》手段だ。羽根のつく物なら何でも|扱《あつか》える。グライダーから双発機《そうはつき》、戦闘機《せんとうき》も。コクピットに入れてくれれば旅客機もお任せだ。ただしジャックするのはオレの得意分野じゃねーから、旅客機はなかなか操縦する機会がないけどな」
「へえ、きみにそんな|凄《すご》い特技がね……待てよ、じゃあきみがあの中のどれかを飛ぱすとして、ジャックするのは僕の役目なのか?」
頭の後ろに両手を回し、空の男は|呑気《のんき》に言った。
「どれでもいいよ。ストライクゾーン広いから」
航空機の乗っ取りは、レジャンも得意としていない。
「……アメリカドルで片をつけよう」
ここはひとつ、ボブの専門分野で。
エイプリルが憤《いきどお》ったのは、乗り物の調達の仕方だった。
朝を待ってゴブレンツで車を探したのだが、近くには基地も中古車屋もない。フランクフルトで買い取ってくるべきだったと嘆《なげ》くエイプリルに、デューターは|呆《あき》れた目を向けた。
「これだからアメリカの金持ちには付き合いきれない。いちいち車を買い取るだと? そんなことをしていたら、何十台の自動車のオーナーになるか判《わか》らないじゃないか」
黒い制服姿のデューターは一軒《いっけん》の農家に入り込み、その家の主人と何事か話し合った。エイプリルが離れて見ていると、主人はやがて項垂《うなだ》れて首を振《ふ》り、銀色の|鍵《かぎ》を侵入者《しんにゅうしゃ》に渡《わた》した。
納屋《なや》からピックアップトラックを出してくる。荷台には干し草を積んだままだ。
「どうやって|交渉《こうしょう》したの」
「交渉? そんなことはしていない。ただ単に軍に車を差しだすようにと命じただけだ」
「取り上げたの!? し、信じられない。悪徳|捜査官《そうさかん》みたいな|真似《まね》をして! あーやだ、さすが悪名高き親衛隊よね。これだからSS将校には付き合いきれないっていうのよ。もちろん後できちんと返すんでしょうね。ガソリン満タンにして返すのよね。言っておきますけど借りた物を返さないのは犯罪ですからね!」
「……度量の|狭《せま》い冒険家《ぼうけんか》だな」
ライン川を六十キロ程下り、美しい橋をいくつも渡った。レマーゲンを過ぎる頃《ころ》には周囲の景色に目を|奪《うば》われ、ともすると自分の仕事を忘れそうになる。運転席にいるデューターは、エイプリルの様子に苦い顔をした。
「川なんか見ている|暇《ひま》があるなら、軍用車輛がないか見張れ」
「うるさいわね、ちゃんとそれも監視《かんし》してるわよ。でももしあなたと同じ制服の連中が流されてても、|黙《だま》って見逃《みのが》しちゃうかもねー」
「勝手に見逃すな。そういう奴には石を投げていい。……そんなに川が|珍《めずら》しいか?」
エイプリルは助手席の窓から顔を出し、山岳《さんがく》地帯の清《すがすが》々しい風を頬《ほむ》に受けた。ここは|砂埃《すなぼこり》の|匂《にお》いがしない。ただ水と緑の香《かお》りだけだ。
「川が珍しいわけじゃないの。アメリカにだって川も山もあるけれど……でもこの土地の美しさとはまた別なのよ。どう言っていいか判らないな」
例えば大平原に|沈《しず》む夕陽《ゆうひ》も美しいが、オレンジ色に染まった古城の夕暮れもまた美しい。どちらを好むか比べようとは思わないが、初めて見ればそれだけ感動は大きい。
「この景色が壊《こわ》されなければいいんだけど」
「|誰《だれ》に」
アメリカ人は口を噤《つぐ》んだ。情勢が不安定なことは彼女でさえ知っている。
ライン川に合流する流れが見えてくると、両岸の丘陵《きゅうりょう》は見渡す限りの葡萄《ぶどう》畑になった。若葉が辺りを萌葱《もえぎ》色に染め、空の青まで緑がかって見えるようだ。その奥に、石を積み上げた城壁《じょうへき》がそびえ立っている。アールバイラーだ。エイプリルは感嘆《かんたん》の声をあげた。
「こんな|完璧《かんぺき》な城壁は初めてよ! 本当にこの中で毎日生活しているの? 昼だけ営業しているんじゃないの?」
「……|壁《かべ》の中は|普通《ふつう》の家だ」
ところが城門をくぐっても、エイプリルにとっては普通の光景ではなかった。旧市街には木組みの可愛《かわい》らしい住宅が並び、家々の窓には鉢植《はちう》えの花が並べられている。ただし、通りに掲《かか》げられた旗はどれも鉤十字《かぎじゅうじ》だった。この土地の人々も独裁者を支持しているのだ。
「すごい……でも何か|眩暈《めまい》がするような」
「木組みが歪《ゆが》んでいる家があるからな。しかし、そんなに感心するほどのものか? 地方の小都市は皆《みな》こんなものだろう。アメリカ人は一体どんな場所に住んでいるんだ」
「あなたが合衆国に来たときに、その言葉をそのまま返してあげるから」
テキサス辺りを見て|驚《おどろ》くデューターを想像し、エイプリルは忍《しの》び笑った。
だが、浮《う》かれていられたのもそこまでだった。城門の脇《わき》には五台のジープと幌付《ほろつ》きトラック、士官用の黒い車輛が止められていたのだ。退屈《たいくつ》そうに|欠伸《あくび》をしているとはいえ、二名の兵士が歩哨《ほしょう》に立っている。二人は|見咎《みとが》められないように、パン屋の角に身を潜《ひそ》めた。
「やはりアールバイラーに目をつけたか。『清らかなる水』といえば此処《ここ》かドナウエッシンゲンだからな」
「レジャンの予想どおりよ。箱の鍵を開けるために、連中は絶対にアールバイラーに向かうはずだって」
「少々地理に明るければ、誰にでも立てられる予想だが」
「自分だって同じことしか考えられなかったくせに。ああ、それにしてもいい匂いね」
「こんなときに昼食のパンの話か!? これだから女子供とは組みたくないんだ! この程度でいい匂いとか言っているようでは、早朝のパン屋には近づけないぞ」
「やめてこれ以上|美味《おい》しそうなこと言わないで! それにしてもアールバイラーの『清らかなる水』って、一体|何処《どこ》に置いてあるの? 教会?」
「いや」
デューターは歩哨の装備を確認し、ピックアップの荷台に手を突《つ》っ込んだ。干し草の山から二丁の銃《じゅう》と、やや旧式なライフルを取り出す。口径の小さい方をエイプリルに放ってよこすが、彼女はそれを干し草の中に落とした。
「アポリナリスの泉は葡萄畑の中で発見されて、今でも湧《わ》き続けているんだ。おい、それくらい持て。胸の代わりに詰《つ》めた玩具《おもちゃ》では、撃《う》たれた場合に応戦できないぞ」
「失礼ね、この胸は自前ですー。何か詰めたりはしていません」
「なるほど」
「|納得《なっとく》しないでよっ」
だが、泉が発見されたのは|僅《わず》か九十年程前だ。箱の作られた年代がはっきりしないとはいえ、そこまで新しいはずはない。文字と記号は後世の模写であると考えれば、そこから本体の製作年を割り出すことはできない。だが金属の腐食《ふしょく》から判断すれば、|装飾《そうしょく》部分がつけられた年代は推測できるはずだ。
「後でつけた|縁取《ふちど》りだけだって、百年二百年で済むものじゃないでしょうに。なのに何故そんな新しい泉の水が、鍵に使われていると思うのかしら。世界にはもっと古《いにしえ》よりの由来ある水場が……」
「ドイツでなくてはならないんだ」
「え?」
「何事も、ドイツでなくてはならないんだ。神に選ばれた聖なる物は、他国に存在してはならない。選ばれた水も、選ばれた民《たみ》も。残念ながら今はそういう時代だ」
デューターはあの楽器ケースを出し、留め金がしっかり掛《か》かっているかを|確認《かくにん》した。彼は「鍵」を持って歩くつもりだろうか。
「あたしが持ったほうがいいんじゃない? それにリチャード、あなたその服だと恐《おそ》ろしく目立つと思うけど」
「リチャードじゃ……俺にそれを着ろというのか」
こちらの全身を眺《なが》め回してから、自分の将校服と見比べる。女物のスーツが入る体型ではないだろうに。エイプリルはがっくりと肩《かた》を落とした。
「服を交換《こうかん》しようって言ってるわけじゃないわよ。ただ、目立つんじゃないのって言ってるだけ。貸して、やっぱりあたしが持つ。あたしなら旅行者だって|誤魔化《ごまか》せるし」
だが、残念ながらエイプリル自身の顔も割れていた。
連れであると悟《さと》られずに、歩哨の横を通り過ぎたまでは良かった。|一般《いっぱん》兵達は将校の姿に疑いを持たず、健気《けなげ》に敬礼までしていた。エイプリルが店を冷やかしながら通るのにも、特に関心は寄せなかった。
アポリナリスの泉は市街地を抜《ぬ》けた葡萄畑にある。本隊はそちらに集結しているらしく、進むにつれて住人の空気もピリピリしてきた。彼等はヒトラーを支持してはいるが、親衛隊員を|歓迎《かんげい》する気はないようだ。制服姿のデューターが過ぎてゆくと、店の前で小声で囁《ささや》き合った。
権威《けんい》の塊《かたまり》みたいな態度で歩かれては、地元の人々もいい気分ではないだろうデューターの顰《しか》め面《つら》を斜《なな》め横から眺めつつ、エイプリルは納得した。
見知った顔が視界に入ったのはその時だ。
黒い制服がちらりと動いたのは、特に不思議にも感じなかった。ああ、箱の研究もSSの管轄《かんかつ》なのだなと思ったくらいだ。午後の日差しに輝《かがや》く金髪《きんぱつ》も、ある意味ユニフォームみたいなものだから珍しくはない。だがその男がこちらに近づくにつれて、彼女の両目は丸くなる。
ケルナーだ。
いつもどおり自信満々な|笑顔《えがお》で、ヘルムート・ケルナーが|闊歩《かっぽ》していた。
「|嘘《うそ》でしょ、ベルリンにいたはずなのに」
早くデューターに報《しら》せてやりたいが、大声で|叫《さけ》ぶわけにもいかない。偶然《ぐうぜん》こちらを見た彼に|身振《みぶ》り手振りで教えようとしたが、相手は一向に理解してくれない。フットボールがどうしたとか呟《つぶや》いている。サッカーじゃなくてケルナー。ケ、ル、ナ、ー。埒《らち》があかない。
エイプリルは小動物みたいな小走りで道を横切り、デューターの腕《うで》を掴《つか》んで手近な店へと引きずり込んだ。観光客と軍人という|妙《みょう》なカップルで、土産《みやげ》物売り場をうろつくのはまずい。あくまで他人のふりを貫《つらぬ》こうと、並んで立ちながらもお|互《たが》いに目は合わせない。
「こっち見ちゃ|駄目《だめ》。前を向いて、前を向いたままよ」
「公道であんな妙な踊《おど》りをしたら、目立つ以前に恥《は》ずかしいだろうが」
「あ、あ、あ、あなたね、あたしが好きでジェスチャーしてたとでも思ってんの!? そうじゃないのよいたのよいたのよあいつが!」
「落ち着け、あいつって誰だ、チョビヒゲか?」
「きゃーもの|凄《すご》い問題発言! あっ、でもこっちを向いちゃ駄目だったら。|違《ちが》うわ、いくらあたしが強気でも独裁者をあいつ呼ばわりはしないわよ。違うの、あいつよ、ヘルムート・ケルナーよ」
「ケルナー中尉《ちゅうい》が? あんな男が一体|何故《なぜ》……」
エイプリルは手近な民芸品を掴み、品定めするように|握《にぎ》ってみた。クルミ割りヒトラーだ。|縁起《えんぎ》でもない。正面に向けた視線の先で、小太りの男性店員が|居心地《いごこち》悪そうに身じろいだ。
「もしかしてあたしを追いかけて来ちゃったのかしら。困ったなーあたしまだ独身なのに」
「そこまで|暇《ひま》ではないだろう」
身も蓋《ふた》もない。
自分達よりも先に着いていたのだから、ケルナーもやはり箱関連の任務に就《つ》いていると考えられる。文化省所属で美術品のオークションを仕切っていたのだから、出国者から取り上げた品々の保管や移動も、彼に任されているのかもしれない。
「となると『鏡の水底』は文化省の管轄ということに」
「文化? 箱って文化省公認なの?」
なにやら由緒《ゆいしょ》正しい|響《ひび》きだ。
「お客さんたち、さっきからうちのダンナが怯《おび》えてしょうがないんだけどね」
「はい?」
恰幅《かっぷく》のいいおかみさんに声をかけられ、二人は同時に顔を上げた。視線の先にいた男性店員は、冷《ひ》や|汗《あせ》を流して縮こまっている。しまった、見詰《みつ》めすぎだ!
「あ、違うの違うのよ。たち、って|一緒《いっしょ》にされちゃうと迷惑《めいわく》なの。この人全然、連れでも何でもないから」
「そうなのかい? そりゃあ悪かった。ぴったり並んで同じ品物をにぎにぎしてたからさ」
ふと手元を見るとデューターもクルミ割りヒトラーを握っている。しかも|微妙《びみょう》に色違いだ。ここはどうにか自分が誤魔化さなければ。エイプリルは|奇妙《きみょう》な使命感に燃えた。
「あたしったら、うちの叔父《おじ》さんと間違えちゃったあ。でもこっちの人は親衛隊でしょ。やっぱり心から愛してるのねー」
「SSといえばさぁ」
物怖《ものお》じしないおかみさんは、女同士の気安さで話しかけてきた。
「お嬢《じょう》さん観光でしょ? せっかく来てくれたのに残念だけどさぁ、泉にはあんまし近寄んないほうがいいよー?」
「どうして?」
「昨日の昼から兵隊がいっぱい来てさ、泉に何か仕掛《しか》けてるんだよ。涸《か》れちゃったりワイン作れなくなっちゃったらどうしようって、アタシらも気が気じゃないんだけどさ。どんな様子かちょっくら覗《のぞ》こうにも、テント張っちまって全然見えないんだよねぇ。うちの子が潜《もぐ》り込んで見てきた感じじゃさ、泉の下になーんか|薄汚《うすぎたな》い木箱置いてんだってさ。|冗談《じょうだん》じゃない、実験だか|儀式《ぎしき》だか知らないけどさ。そんな不衛生なことされたら、今年のワインはどーなっちゃうんだっていうの! ちょっと軍人さん、あんた同じ制服着てるんだからさ、変なことするなって一言いってきてちょーだいよ」
「あっ? ああ」
突然《とつぜん》、矛先《ほこさき》がデューターに向けられた。不慣れなせいか一瞬《いっしゅん》怯《ひる》む。すかさずエイプリルがサングラスを購入《こうにゅう》し、ケルナーがいないのを確認してから通りに出る。どう見ても不審《ふしん》人物だ。
「|馬鹿《ばか》ね、あそこで怯んじゃ駄目なのよ。車|奪《うば》った時みたいに強気でいかなきゃ。でもこれで、少しは|状況《じょうきょう》が呑《の》みこめたわね。箱は本当にここにあるし、連中はアポリナリスの泉の水が例の清らかなる水だと思ってる。ここの水が|鍵《かぎ》だと思ってるんだわ。まったく見当違いなのに」
「見当違いのことを試してくれているうちに、早くこちらに取り返さないと。万が一、本物の鍵を発見してしまったら、俺一人の力ではどうにもならない」
「あら、一人じゃないでしょ?」
デューターは|瞳《ひとみ》にかかる失望の色を濃《こ》くした。
「一人も同然さ」
「あたしがいるじゃない」
「……一人どころか足を引っ張る子供が一緒……いいか、今のうちに言っておくが、|首尾《しゅび》良く箱を手に入れても、お前に渡《わた》すわけにはいかない。後継者《こうけいしゃ》だ所有者だと主張しようが、あれを|誰《だれ》かに渡すわけにはいかないんだ。お前達があれを持ってアメリカに逃《に》げようとするのなら、俺は|容赦《ようしゃ》なく銃《じゅう》を向けるぞ」
「ご心配なく。あたしも容赦なく|反撃《はんげき》するから」
エイプリルはジープの音に気付き、看板の陰《かげ》に|素早《すばや》く身を隠《かく》した。灰色の制服の集団が通り過ぎる。
「ボストンであれだけやっておいて、今さら銃を向けるもあったもんじゃないでしょ。警告は襲撃《しゅうげき》前にしてちょうだい。もっともあたしは警告されると却《かえ》って燃えるタイプだけど」
諭《さと》すようなレジャンの言葉を思い出す。
あれを欲しがる者は幾《いく》らでもいる。皆《みな》、金に糸目はつけないだろう。どうにかして防がなくてはならないよ。そして二度と悪用されないように、一刻も早く安全な場所に葬《ほうむ》ってしまわなければ……。
「約束したのよ」
もしも首尾良く「鏡の水底」を取り戻《もど》せたら、どこか見つからない場所にあれを葬り去ると。あれは人の手が触《ふ》れてはならないもの。人の手に触れさせてはいけないものだ。
「それに連中が水にこだわってるうちは、絶対に『鍵』は見つけられない」
「どういうことだ、グレイブス」
「だって『清らかなる水』は、水じゃないから。まだこの世界に存在しない子供の血だから」
「血?」
|扉《とびら》は清らかなる水をもって開き、それをもってしか開いてはならない。
リヒャルト・デューターは苦く笑い、革の楽器ケースに視線を落とした。それから低く、しかし|優《やさ》しい口調で、その子の運命に同情すると呟いた。
「……血なまぐさい話だ……だが|所詮《しょせん》、『風の終わり』の鍵だって、永遠に腐敗《ふはい》しない不気味な|左腕《ひだりうで》だからな。四つの箱のどれをとっても、美しく|優雅《ゆうが》な鍵なんてあり得ないだろう」
「そうかもしれないけど」
残る二つの鍵が何なのか、恐ろしくて想像する気にもならない。
城門を抜《ぬ》けて少し|距離《きょり》をおいた場所、青々と茂《しげ》る葡萄《ぶどう》畑の中央に、白茶の|巨大《きょだい》な布が姿を現した。幼い頃《ころ》にライオンを見に行ったサーカスのテントみたいだ。武装した兵士が周りを囲み、灰色の制服の士官が出入りしている。全員が文化省というわけではないらしい。陸軍も加わった作戦ということだ。
テントの前には幌《ほろ》を外したトラックが一台。残念ながら荷台は空だ。
「手薄《てうす》な場所から忍《しの》び込むか。ご婦人のドレスの中に潜り込むように」
「笑ってほしい? あまり上品な冗談じゃないけど」
エイプリルはデューターの|脇腹《わきばら》を小突《こづ》き、|戦闘《せんとう》モードの声で言った。
「銃を貸して」
「さっき渡したろう」
「あれじゃなくて、機関銃かライフルを貸して」
「撃《う》てるのか。子供にそんな危険な物……」
言い淀《よど》む相手から|強引《ごういん》にライフルを奪い取ると、|膝《ひざ》をつき、ワインの空樽《からだる》で銃身を固定する。
「もう十八よ。それにまだ十歳くらいの頃、アラスカで|猛獣《もうじゅう》を撃ったこともある」
「誰だ、そんな末《すえ》恐《おそ》ろしい育て方をしたのは!?」
そのとき撃ったのは巨大な灰色熊だった。|噂《うわさ》では人を三人殺していたらしい。仕留めることはできなかったが、眼《め》と眼が合ったときヤツは確かにこう言った。「お嬢さん、なかなかやるな」。もちろんクマ語で。
エイプリルは|慎重《しんちょう》に照準を合わせ、喉《のど》の奥で五つカウントした。五と同時に一発目の引き金を引き、続けて四発、トラックのタイヤを打ち抜いた。最後の五発目でガソリンタンクを狙《ねら》い、うっかり外して女の子らしからぬ舌打ちをした。六発目でタンクに穴を空ける。慌《あわ》てた兵の足元に細く油が流れる。
「信じられない! 一発外しちゃった」
「……どういう育て方をすればこんな恐ろしいガキに……」
見張りの注意がトラックに集まった|隙《すき》に、彼等はテントの裏へと駆《か》け寄った。しばらくの間は外部にいる敵を探して、走り回ってくれるだろう。重い防水布を捲《まく》って頭を突《つ》っ込む。下半身だけ外という恥《は》ずかしい格好だ。
陽《ひ》を|遮《さえぎ》られ、そう明るくないテントの内部は、エイプリルの予想を大きく裏切るものだった。地面から突きだした太い水道管が、銀色の|巨大《きょだい》なタンクに繋《つな》がっている。末端《まったん》には量を調節するバルブがつけられ、そこから受け皿に水を吐《は》きだしていた。
「これが泉? イメージと|違《ちが》ーう」
「文句を言うな。瓶詰《びんづ》め工場建設中だったんだ。どうせ小便|小僧《こぞう》でも想像していたんだろうけどな」
「違うわよ、こう、岩の間からこんこんとね」
這《は》いつくばったまま下半身も引き込み、人目に触《ふ》れないよう資材の陰に隠《かく》れる。中にいる武装兵は数人で、あとは目下作業中だ。士官達だけが|暇《ひま》そうにブラブラしている。エイプリルが|驚《おどろ》いたのは、思ったより多くの住人が侵入《しんにゅう》を許されていたことだ。秘密主義の|特殊《とくしゅ》部隊が、見学者お断りで極秘《ごくひ》作戦を展開している光景を思い描《えが》いていたのに。
「そんなことより箱を探さなきゃ」
「探すまでもないようだ」
作業兵の二人が木箱を運んできた。灰色の制服の将校に見せるが、男は特に|確認《かくにん》もせず、小さく|頷《うなず》いただけだった。
「陸軍の少佐《しょうさ》だ。ここの指揮官か? それにしても|杜撰《ずさん》な|扱《あつか》いだな……どんな力を持つのか聞かされていない可能性もあるが……どうしたグレイブス」
「なんか薄汚《うすぎたな》くて貧乏《びんぼう》くさい箱なんですけど。ちょっとがっかり」
「……神をも畏《おそ》れぬことを言うな、お前は」
二人組が運んでいたのは、何の変哲《へんてつ》もない蓋付《ふたつ》きの木箱だった。表面は炭化したみたいに黒くくすみ、金属の|縁取《ふちど》りには錆《さび》が浮《う》いている。大きさは子供の棺桶《かんおけ》くらいだ。|普通《ふつう》に成人した男なら、力|自慢《じまん》でなくとも一人で抱《かか》えられるだろう。
不意に見学者達がざわめいた。木箱がバルブ近くに置かれたのだ。
エイプリルは自分の|拳《こぶし》が震《ふる》えているのに気付いた。|緊張《きんちょう》している。覆《おお》い|被《かぶ》さるように立つデューターの胸からも、高まった心音が聞こえる気がする。
「い、泉の水は本当に『|鍵《かぎ》』じゃないのよね?」
「念を押したいのは俺のほうだ」
作業兵が苦労して蓋を開ける。女性の住人が悲鳴に似た声をあげた。
「ど、どうするの!? あっさり蓋が開いちゃったじゃない」
「騒《さわ》ぐな。外側の蓋は留め金を壊《こわ》せば普通に開く。中に説明しがたい空間があるんだ。空間というか……|壁《かべ》というか、門というか……静かな竜巻《たつまき》みたいなものだ。それを静めて空間を繋げるのに『鍵』が必要なんだ」
空間とか、繋げるとか言われても、言葉の上でしか理解できない。やっぱりおばあさまのお気に入りのジュール・ヴェルヌを読んでおくべきだったろうか。表紙の絵だけで挫折《ざせつ》してしまったのだが。
「箱の中を見たことがあるの?」
「いや、ない。だが俺の先祖はあそこに力を封《ふう》じ込《こ》めた人物だそうだからな。言い伝えには事欠かない」
中を覗《のぞ》き込んだ作業兵が、音を立てて蓋を閉じた。両手で口と鼻を覆い、|身体《からだ》を折って咳《せ》き込んでいる。
見てはいけない物を目にしたか、それとも毒の噴出《ふんしゅつ》する罠《わな》でも仕掛《しか》けてあったのか!? その場にいた全員が|一斉《いっせい》に出口を向いた。見張りの兵士や指揮官と思《おぼ》しき将校までもだ。無責任な部隊である。
「だ、|大丈夫《だいじょうぶ》です!」
気の毒な|犠牲者《ぎせいしゃ》が咽《む》せながら片手を振《ふ》ると、人々は安堵《あんど》の息をつきかけたが、たちまち不快な顔になる。|汚物《おぶつ》でも撒《ま》き散らしたような悪臭《あくしゅう》が、テント中に広がったのだ。
「内部の空気が腐《くさ》ってたんだな」
「あー、ばごうげどるのいやになっでぎだわ。まえのもぢぬじば、いっだいなにをいれでおいだのかじら」
自信のなさそうな答えが返ってきた。
「……卵、か?」
「まじめにごだえなぐでもいいのよ」
幸いだったのは腐臭《ふしゅう》に耐《た》えかねた下士官が、何人か外に避難《ひなん》してくれたことだ。敵兵は少ないに越《こ》したことはない。このまま全員が悪臭から避難してくれれば、大手を振って箱を持ち去れる。彼女自身がそれまで耐えられればの話だが。|我慢《がまん》比べみたいな作戦だ。
損な役回りを押し付けられた箱係は、意を決してもう一度蓋を持ち上げる。蝶番《ちょうつがい》が|軋《きし》む音がして、古い木箱は内部をさらけだした。
そのまま、バルブの下に押しやろうとする。端《はた》から見ても判《わか》るほどの及《およ》び腰《ごし》だが、早く済ませたいのか押す力は強い。
何かの間違いで箱が、門が開いてしまいませんように。あり得ないことだと知っていながらも、エイプリルは心の奥で祈《いの》った。
勢いよく吹《ふ》き出す水流の真下に、ぽっかりと口を開けた木箱が動こうとした。その時だ。
「待て! アポリナリスの泉は『鍵』ではないぞ!」
|誰《だれ》だ、余計なことを言う奴《やつ》は。
テントの幕が大きく持ち上げられて、午後の陽《ひ》が一気に流れ込んできた。その光を背にして黒い影《かげ》が立っている。小さな愛国者のおまけを連れて。エイプリルは頭を抱えたくなった。
「……誰かあの男をキュッとやっちゃってちょうだい。キュッと」
一言多い男、ヘルムート・ケルナー中尉だ。
身長が腰《こし》にも満たないような、十歳前後の子供を従えている。ベルリンでよく見かけた、ミニサイズの軍人姿だ。こんな田舎《いなか》の街にまで、独裁者に心酔《しんすい》する少年部隊がいるなんて。短く刈《か》った柔《やわ》らかな|金髪《きんぱつ》と、緑がかった青い目が美しい。顔のそばかすが消える頃《ころ》には、きっと親衛隊に志願するのだろう。彼はケルナーに促《うなが》され、顔を真っ赤にしたままボーイソプラノで注進した。
「本物の『鍵』は泉の水じゃないんだよ! だから泉の水を入れても、おおいなるちからがめざめることはないんですっ」
十中八九子供|嫌《ぎら》いであろうデューターが呻《うめ》いた。指揮官らしき灰色の制服が、興味本位で少年に尋《たず》ねる。
「では何が『鍵』だと言うんだね?」
レプリカ軍服の小さな愛国者は、一層胸を張ってはっきりと答えた。
「きよらかなるみずはアボリナリスの泉じゃなくて、なんだか子供の血のことだって、あの人達がうちの店の前で話してました!」
そしてまだ細く、白い手で、真《ま》っ直《す》ぐにこちらを指差した。
「あーあたしったら、なんて運がいいのかしら。こんな間近で箱を見られるなんてー」
エイプリルは両手首を無闇《むやみ》に動かしながら、背史・わせの男に言った。デューターに八つ当たりするくらいしか、今のところ憂《う》さの晴らしようがない。
「そりゃ良かった。前々から本物を見たがっていたものな。お嬢《じょう》さんにお見せできて俺も光栄ですよ」
「何よ、近けりゃいいってもんじゃないわよ。光栄だなんて心にもないこと言うのやめなさいよね」
「それはこっちの台詞《せりふ》だグレイブス。まったく、子供にかかわるとろくなことにならないッ」
少しでも縄《なわ》が緩《ゆる》まないかと、デューターが忙《いそが》しく肩《かた》を動かす。彼等は|両腕《りょううで》をきっちりと縛《しば》られて、バルブと箱のすぐ脇《わき》に転がされているのだ。
「やめてやめて、肩胛骨《けんこうこつ》が当たって痛いじゃないのっ」
「生きてるうちに痛みを楽しんでおけ」
|捕虜《ほりょ》を見下ろすヘルムート・ケルナーは、皮肉っぽい笑《え》みに唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「一体どうして二人がこんなに親しくなったのか、自分には想像もつかないが……しかしフラウ・グレイブス、あなたには失望した。この私ではなく、よりによってこんな異端者《いたんしゃ》を選ぶとはね。しかも……ああしかも、貴女《あなた》がまだ人妻でなかったなんて!」
「後のほうの失望が、ちょっと|納得《なっとく》いかないんですけど」
無駄《むだ》な|抵抗《ていこう》と知りつつも腕を抜《ぬ》こうと試みながら、エイプリルはケルナーに|訴《うった》えかけてみる。
「ねえ中尉《ちゅうい》、この縄すごくきついのよ。こんな縛られ方してたら、あっという間に血が止まっちゃう」
「それは申し訳ありませんねお嬢さん。でも残念ながら緩めて差し上げるわけにはいかないのですよ。|何故《なぜ》なら、貴女と背中合わせの男は、愚《おろ》かだが|優秀《ゆうしゅう》な軍人でね。|一般《いっぱん》的な縛り方では、すぐに抜け出してしまうのですよ。何しろリヒャルト・デューター中尉といえば、|脱出《だっしゅつ》不可能と言われた敵陣《てきじん》からでさえ、何度も生還《せいかん》してきた男ですからな」
「じゃあこの人と別々に縛ってちょうだい。お礼にDTを|紹介《しょうかい》してあげるから」
「あのアジア人?」
「そうよ」
ありえない話だが、ケルナーは|一瞬《いっしゅん》迷った。
デューターは呪《のろ》いの言葉を|呟《つぶや》きながら、左肩《ひだりかた》を定期的に捻《ひね》っている。彼が本当に優秀な軍人なら、こんなにあっさり捕縛《ほばく》されることはなかったろう。だがその場の全員、あまつさえ住民達にまで銃《じゅう》を向けられては、とりあえず両手を上げるしかなかったのだ。街にハンターが多いことまでは予想しなかった。兵隊相手なら撃《う》ち合う気になれても、罪のないおじさんおばさんを傷つけるわけにはいかない。
「やめておきましょう」
金髪|碧眼《へきがん》、黒い制服に見合った中身の男は、ゆっくりと両腕を胸の前で組んだ。
「きついかもしれませんが今日のところは|辛抱《しんぼう》してください。その代わりお嬢さん、貴女には、この箱から溢《あふ》れる水を誰よりも先に浴びるという、この上もない栄誉《えいよ》が与《あた》えられるのですよ! いいなあ! 実に羨《うらや》ましいですな!」
「じゃあ譲《ゆず》ってあげる」
「いや結構」
エイプリルは気取られぬように、資材置き場にちらりと目を走らせた。大丈夫だ、まだ誰も近づいていない。余った鉄骨と防水布の|隙間《すきま》に、あの革ケースを隠《かく》してきたのだ。この状態で腕まで|奪《うば》われてしまったら、デューターに何を言われるか判ったものではない。
「その箱のことだけど」
指揮官らしき灰色の制服の男が、ことの|発端《ほったん》である子供を伴《ともな》って歩いてきた。少年は|自慢《じまん》と興奮で、顔を真っ赤にしたままだ。
「あたしたちが泉の水は|鍵《かぎ》じゃないと言ったからって、それをすぐに鵜呑《うの》みにするのはどうかと思うの。だってあたしは箱を見たことさえなかったアメリカ人だし、世間知らずのお嬢様《じょうさま》ですもの」
デューターが「今さら」と呟いた。当然、無視だ。
「そんな事情も知らない人間の戯言《たわごと》に振《ふ》り回されるなんて、保守的で堅実《けんじつ》なドイツのプレースタイルから外れてるんじゃなくて?」
「お嬢さん、これはフットボールではないのだよ」
指揮官らしき男がエイプリルの顎《あご》に触《ふ》れた。少佐《しょうさ》の階級章を着けている。余分な肉を|全《すべ》て削《そ》ぎ落とし、ついでに精気も八割がた抜いたみたいな顔だ。これで両眼《め》が落ち窪《くぼ》んだら、周囲は彼のことを死神少佐と呼ぶだろう。
「アメリカ人の娘《むすめ》一人が言ったことならば、我々とて耳は貸すまい。たかだか一観光客の戯《ざ》れ言《ごと》だ。早いところお国にお帰りいただくだけだ。だが会話の相手がリヒャルト・デューター中尉となれば話は別だ。彼はこの国で|唯一《ゆいいつ》『鍵』らしき物を所持している人物で、その貴重さ故《ゆえ》に総統の覚えめでたく、親衛隊将校にまでなった男だよ。残念ながら『鏡の水底』の鍵ではないようだがね……その男が真剣《しんけん》に受け止めている以上、我々としても無視するわけにはいかんのだ」
「あーきーれーた。ぜんぜん真剣になんか受け止めていないわよ。ね、リチャード」
「リチャードじゃ……」
彼はまだ|居心地《いごこち》悪そうに左腕を動かしている。肩胛骨が背中に当たって痛い。腹を括《くく》ることを知らない男だ。
「そうなのかねリヒャルト・デューター中尉。ところで中尉、先日、私の部下が例の左腕を貰《もら》い受けに行ったのだが、前夜に何者かが侵入《しんにゅう》して持ち去ったらしいのだ。職員は夜間のことで知らぬと言うばかりだが。心当たりはあるかね」
「さあ」
色素の薄《うす》い|瞳《ひとみ》がデューターを脅《おど》すが、彼の態度は変わらない。
「ふん、成程」
死神少佐は踵《きびす》を返し、段を降りて箱から一歩遠ざかった。
「シュルツ|大佐《たいさ》の子飼いの者は、みな|不貞不貞《ふてぶて》しいと聞いてはいたが」
大佐もまた、デュータ! と同じく鼻つまみ者のようだ。
「あなたたちって嫌《きら》われ者集団の部隊なの?」
エイプリルは背中合わせの相手に|訊《き》いた。もちろん返事はない。自分だったらそんな組織に属するのはごめんだな。
指揮官は無感情に鼻を鳴らして、バルブと捕虜を交互《こうご》に見比べた。それから先程の箱係だった二人の兵士を呼び、小さな軍服姿の子供を箱の前に立たせる。
「さて、愛国者くん」
何が起こるのか見当もつかない少年は、両腕を大人に掴《つか》まれてきょとんとしていた。頬《ほお》の紅潮が治まって、そばかすばかりが余計に目立つ。
「小さいながらもきみは立派な帝国《ていこく》軍人だ。来年には総統閣下の少年部隊に入隊できる|年齢《ねんれい》だろう。だが我々は今、きみの協力を必要としている。来年ではなく今なのだ。どうだろう、愛国者くん、総統閣下と第三帝国のために、きみの生命《いのち》を|捧《ささ》げてはくれまいか」
「よろこんで!」
極度の|緊張《きんちょう》で唇を震《ふる》わせながら、十かそこらの男の子はぎこちなく片手を挙げた。エイプリルは目を逸《そ》らす。こんな子供に何が判《わか》るというのか。
指揮官は満足げに|頷《うなず》くと、二人の兵士に合図をした。
「|素晴《すば》らしい! 若き闘士《とうし》よ、感謝する。ではきみの血を、箱を開く鍵として使わせてもらおう。箱が開き、これが我が軍の戦力となった暁《あかつき》には、きみの名は諸兄によって讃《たた》えられ、永遠に語り継《つ》がれることだろう……よし、やれ」
デューターが身動《みじろ》いだ。
|突然《とつぜん》こめかみに銃口《じゅうこう》を押し当てられて、少年の細い手足が強《こわ》ばった。子供の血を箱に流し込むために、彼の頭を撃ち抜こうというのだ。
「ちょっと何!? そんな恐《おそ》ろしいこと……ッ」
ぎょっとして腰《こし》を浮《う》かせたが、デューターごと縛《しば》られているので立ち上がれない。
肩《かた》を掴んだ兵士が大人の|掌《てのひら》で口を覆《おお》うと、男の子の|蒼白《そうはく》になった顔に|恐怖《きょうふ》の|汗《あせ》が浮かんだ。|奇妙《きみょう》なことに|誰《だれ》も|騒《さわ》がない。どうやら少佐とケルナーの陰《かげ》になって、見学者の住人からは事の|詳細《しょうさい》が見えないようだ。
引き金に掛《か》かる指がぴくりと動く。
何とかして凶行《きょうこう》を止《や》めさせようと、エイプリルは声を限りに|叫《さけ》んだ。
「そんなことをしても無駄よ!」
銃を押し付けていた兵士が、はっとして顔を上げた。
「待ちなさい、ちょっと待ちなさいよ死神少佐! いいこと教えてあげる、ていうよりこれ知らなきゃ絶対に損するようなこと。いい? 耳の穴かっぽじって……あら失礼。よーく聞きなさいよ。『清らかなる水』っていうのはねえ、そんじょそこらの子供の血じゃないのよ。そのチョビヒゲ予備軍|坊《ぼう》やはここんとこ聞き損ねてたみたいだけど、ほんとはね、まだこの世に生まれてないの。この世界に生まれていない子供の血なんだって!」
「この世界に生まれていない子供だと?」
指揮官は、あるのかないのか判らない薄い|眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。不信感丸だしの表情だ。それ以上口を挟《はさ》ませず、エイプリルは早口で畳《たた》み掛けた。
「あ、疑ってるわね!? いいわよ別に。信じる信じないはそっちの勝手だから。ただお嬢様《じょうさま》育ちのアメリカ人の言うことだからって、鼻で笑ってると後で痛い目みるわよ。だって何しろ、お嬢様とは仮の姿で、本当のあたしはあの箱の所有者なんですからね!」
「所有を主張するのか」
「そうよ。主張するもなにも、現在のオーナーはあたしだから」
「いや、あの箱はユダヤ人が持ち出そうとした国家の財産だ。アメリカ人の所有であるはずがない」
「だってヤーコブ・バープ氏に預けてたのは、他《ほか》ならぬあたしの祖母なんだもの」
「中尉《ちゅうい》!」
背中でデューターが、目の前でケルナーが反応した。どちらの将校を呼んだのか、はっきりしない。
「このお嬢さんの言葉は本当か?」
デューターは|Ja《イエス》、ケルナーは|Nein《ノ ー》と答えた。指揮官のお気に召《め》したのは、ケルナー中尉の回答だ。
「この『鏡の水底』は我がドイツの国家財産であります。この箱の秘めたる大いなる力は、全て総統閣下と我等の国家のために存在します!」
「私も同意見だ。だがこちらのお嬢さんのもたらしてくれた情報も非常に興味深い。そこでケルナー中尉、たった今入手したばかりの新たな情報も踏《ふ》まえ、真の鍵を探求する任務を全うしようではないか」
「はっ」
死神少佐は半泣きの少年を払《はら》い除《の》け、部下数人とケルナーに向かって命じた。
「諸君、まだこの世に生まれていない子供の血だ。私が何を思い描《えが》いているか判るかね。理解できたら今すぐこの場に連れてこい」
借り物競走めいてきた。
兵士達とケルナーはテントを小走りで出て行き、数分後には息を切らせて戻《もど》ってきた。若い女性を二人、連れている。
エイプリルは最初、連中が赤ん坊を連れてくるのだと予想し、思いつく限りの|罵倒《ばとう》の言葉を用意して待った。そうでもしなければ正気を保てそうになかったのだ。もちろん、実際にそんなことになったら全力で阻止《そし》する。どうにかして赤ん坊の生命は助ける。具体的な案など何もないし、未《いま》だ|両腕《りょううで》の自由は|奪《うば》われたままだったが、いざとなったら背中合わせのドイツ人を振り回してでも立ち上がり、生贄《いけにえ》の子供を救う決意だった。
しかし彼女の予想に反し、若い女は赤ん坊を抱《だ》いていなかった。
「どういう……」
少佐が酷薄《こくはく》そうな瞳を動かす。エイプリルを斜《なな》めに見下ろすと、血走った白目の面積が広がった。
「清らかなる水とは、未だこの世に生まれていない子供の血……こういうことではないのかね、お嬢さん?」
女の一人が怯《おび》えて腹部に手をやった。それでようやくエイプリルは気付いた。一歩後ろにいるもう一人も腹が大きい。
妊娠《にんしん》しているのだ。
二人の女性はいずれもこの街の妊婦《にんぷ》だ。まだ俗世《ぞくせ》に生まれ出《い》でていない子供を宿している。この冷酷《れいこく》なナチはそれを、「鏡の水底」の|鍵《かぎ》として使おうとしている。
胸が悪くなる。吐《は》きそうだ。
指揮官は得意げな兵士達に頷き返し、短い言葉で次の命令を与《あた》えた。
「腹を裂《さ》け」
聞いたこともない単語を告げられたみたいに、|一瞬《いっしゅん》、全員が唖然《あぜん》とする。やがてその|残虐《ざんぎゃく》な意味を真っ先に理解したケルナーが、|鈍《にぶ》く光る軍刀を抜《ぬ》いた。起ころうとしていることよりも鋼《はがね》の|輝《かがや》きに|驚《おどろ》いて、女が恐怖の悲鳴をあげた。
「やめて! |違《ちが》うわやめて、そうじゃな……っ」
立ち上がろうとしたエイプリルは、緩《ゆる》んだ縄《なわ》に|邪魔《じゃま》されて無様に尻餅《しりもち》をつく。背中に先程までの支えはなく、絡《から》み付かれたままで仰向《あむむ》けに転がった。
「リチャード、どこに……」
長く響《ひび》く銃声が轟《とどろ》いて、生贄を押さえていた兵士が一人|倒《たお》れた。反射的に顔を向けると、住民の一人、顔面を引きつらせた中年の男が、狩猟《しゅりょう》用のライフルを構えていた。銃口からの|煙《けむり》が細く消えていく。ことの重大さに気付いたのか、男の肩ががくりと下がる。悲鳴をあげていた女の一人が、つまずきながら夫の元に駆《か》け戻った。
「……そいつが……|女房《にょうぼう》を……」
近くにいた老人が慌《あわ》てて二人を地面に押し付ける。テント内にいた見張り達が、|一斉《いっせい》に男に銃口を向けたのだ。
「伏《ふ》せてろ!」
背後からの鋭《するど》い声に振《ふ》り向くと、黒い将校服が灰色の制服を|蹴《け》り落とし、倒れる瞬間に相手の腰から銃を引き抜くところだった。
流れるように最短|距離《きょり》の弧《こ》を描き、ホルスターから離《はな》れると同時に安全装置を外し、灰色の制服の腹で一|弾《だん》発射した。続けてこちらに銃を向けようと|身体《からだ》を捻《ひね》る兵士、まだ住人を見たままの兵の腿《もも》、女の腕を掴んでいる若い兵士の腕を撃《う》つ。
銃声の間隔《かんかく》が短すぎて、リボルバーの回転する音も聞こえない。
弾《たま》を使い切ると倒れた者から銃を取り、立て続けにあと三発撃った。最後の一弾で軍刀を|握《にぎ》り締《し》めたままのケルナーの右肩《みぎかた》を撃ち抜く。
デューターの左腕は不自然に垂れたままだったが、右腕だけでテント中のドイツ軍を|黙《だま》らせてみせた。
「全員動くな!」
痛みのせいか歯を食いしばり、地面に転がった指揮官を他人の銃で狙《ねら》いながら言う。
「命が惜《お》しければ武器を捨てろ! 外の連中を入れるな。次は|脇腹《わきばら》では済まないぞ」
エイプリルがやっと縄から逃《のが》れた時には、撃たれた者は患部《かんぷ》を押さえてうずくまり、他の者は武器を投げ出して地面に伏していた。
「リチャード、腕をどう……」
「民間人は外へ出ろ! グレイブス、どこか|怪我《けが》はあるか」
「いいえ。ちゃんと走れるわ」
「よし、車を用意しろ。いいか、買い取るなんて|面倒《めんどう》なことしてるなよ。二分だ、二分で戻ってきてくれ」
「判《わか》った」
エイプリルは防水布を捲《まく》り上げ、自分達が入ってきた場所から抜け出した。ジープやトラックの近くには兵がいる。その目を|誤魔化《ごまか》す時間が惜しい。と、すぐ前に見慣れたピックアップトラックが急停車した。運転席から雑貨屋の女店主が顔をのぞかせる。
「持ってきたよ。あんたたちの車だろ」
「ありがとう。でもどうして」
「礼を言うのはこっちさ。|息子《むすこ》を助けてくれたね?」
なるほど、愛国者くんの母親か。
テントに戻るとデューターは、力の入らない左手と歯を使い、資材の中から引っ張り出した棒状の物を縛《しば》り合わせていた。右手の銃は少佐《しょうさ》に突《つ》きつけたままだ。
「ダイナマイト!? そんなものどこで……」
「箱を車に積むんだ。|誰《だれ》か人手がいるか?」
「アタシが手伝わされてるよ。無理やり脅《おど》されてね!」
雑貨屋の女店主は、そういうことにしといてよと片目を瞑《つぶ》った。それなら後で責められずにすむ。エイプリルは彼女と|一緒《いっしょ》に箱を持ち、ピックアップトラックの荷台に載《の》せた。気休めに干し草を掛《か》けてみる。禍々《まがまが》しさは隠《かく》しきれなかった。
「リチャード、終わった」
顔を向けずに|頷《うなず》くと、デューターは束ねたダイナマイトを掲《かか》げた。銃よりも更《さら》に危険な獲物《えもの》だ。
「たっぷり九十数えるまで動くなよ。それより前に動く気配があったら。火のついたこいつを投げ込むからな」
カウントと同時に車に向かって走りだす。
「グレイブス、ケースを」
「判ってる」
エイプリルは革の楽器ケースを抱《かか》え、デューターのためにテントの布を捲ってやった。彼を制して運転席に回り込み、急発進で市街地を走り抜ける。際《きわ》どすぎるハンドル捌《さば》きとアクセルワークに、助手席から抗議《こうぎ》の声があがる。
「揺《ゆ》らすな! 頼《たの》むから揺らして箱を落とさないでくれ」
「落としゃしないわよ、|馬鹿《ばか》にしないで。車なんて十六からずっと運転してるんだから」
「……まだ二年じゃないか」
「それより腕、腕をどうしたの!? 額に脂汗《あぶらあせ》浮《う》いてるじゃないの」
「関節を、外した」
「関節を……ああダメ、想像しただけで気が遠くなっちゃう」
それであのきつい縄から抜け出せたのか。
「外すよりも、入れるときのほうが……くそっ、もう来やがった」
トラックのドアに肩《かた》をぶつけていたデューターが、バックミラーに気付いて舌打ちした。最初の銃弾《じゅうだん》が車体を掠《かず》め、二人とも慌てて頭を低くする。
「|嘘《うそ》っ、ドイツの九十秒ってちょっと短いんじゃない!?」
「馬鹿だから、十までしか数えられないのかもしれんな」
|冗談《じょうだん》を言っている場合ではない。追っ手はジープニ台と黒のメルセデスだ。死神少佐とケルナーも乗っているに違いない。人数に物を言わせて|発砲《はっぽう》してくる。運のいい一発が二人の真ん中を通過した。前後のガラスがまとめて割れる。
「|畜生《ちくしょう》っ! グレイブス、銃に弾は?」
「まだある」
重い鉄を受け取ると、デューターは後方に数発撃った。黒ベンツから身を乗りだしていた士官が転がり落ち、一台のジープがパンクして店に突っ込んだ。残る二台は少し距離をおいて追ってくる。射程距離を開けるつもりだ。
「あっちからはライフルで狙い撃ちか」
「援軍《えんぐん》は来ないの!? 援軍は」
「そんな結構なものがいるなら、とっくに呼んでいるに決まっているだろう」
エイプリルは左にハンドルを切り、スピードを緩めずに城門を抜けた。この先は葡萄《ぶどう》畑の中の一本道だ。どこにも逃《に》げる場所はない。
「だっておかしいじゃない、あたしたちと違ってあなたは軍の指示で動いてるんでしょ? シュルツ|大佐《たいさ》って人の命令で働いてるんだから、ピンチ、応援|頼《たの》むって連絡《れんらく》すれば、大佐だって援軍を送ってくれるでしょ。あーそもそも」
銃弾が空間を切り裂《さ》いていった。二人同時に首を竦《すく》める。今のはかなり、危険だった。
「そもそもよ、なんで同じドイツ軍同士で争ってるの? そういえばあなたって最初からそうだったわよね。博物館でも逃げてたし。さっきだってそう。さっきなんか何人も怪我させちゃったし、今も撃ち合っちゃってるのよ? どうなってるの、裏切ってるの? シュルツ大佐って人は、部下を裏切らせて平気な上官なの?」
「そうじゃない」
「じゃあアレなの? 一つ一つがもう命懸《いのちが》けの任務で、同士|討《う》ち|覚悟《かくご》で挑《いど》むから生命《いのち》を落とすこともやむを得ないと……そんなのいやよ!」
「そうじゃない」
デューターは苦しげに呻《うめ》き、外れたままの左肩《ひだりかた》を押さえた。抱えきれない重大な秘密を、痛みで誤魔化しているようだったが、ついにそれを|我慢《がまん》しきれず、銃声に負けない大声で吐《は》き捨てる。
「大佐は存在しないんだ! シュルツ大佐なる人物は最初からこの世に存在しない。俺達みたいに軍の中で密《ひそ》かに活動する一部の人間が、作り上げた虚像《きょぞう》なのさ」
たっぷり五秒間待ってから、エイプリルは|驚《おどろ》いた。
「……ええ!?」
「この国の人間全員が、現在の状況《じょうきょう》に疑問を持たないわけじゃない。あの独裁者を崇拝《すうはい》し、盲従《もうじゅう》しているわけじゃない。中には我がドイツの行く末を憂《うれ》えて、|軌道《きどう》を修正しようと考える者もいる。党に知れれば反逆罪として|処刑《しょけい》されるが、覚悟を決めて理想のために闘《たたか》う者もいるんだ。どんな危険を冒《おか》してでも、暴走する列車は止めなければならない。生命を落とすこともあるだろうし、家族が危険に晒《さら》される可能性もある。それでも、それでもだ」
リヒャルト・デューターは天を仰《あお》いだ。
「誰かがこの国を止めなくてはならない。全員がナチになってしまってはならないんだ」
こちらが発砲できないのに気付いたのか、追っ手が|距離《きょり》を詰《つ》めてきた。エイプリルは思い切ってアクセルを踏《ふ》むが、軍用車と中古のピックアップでは馬力が|違《ちが》う。追いつかれるのも時間の問題だ。たとえ車自体が追いつかれなくても、いつまでも銃弾を避《よ》け続けることは不可能だろう。運が悪ければガソリンタンクに命中し、|爆発《ばくはつ》して積荷ごと炎《ほのお》の中だ。
不意に祖母の最期《さいご》が蘇《よみがえ》り、エイプリルは薄《うす》く|微笑《ほほえ》んだ。
ねえおばあさま、あたしもあなたと同じ運命を辿《たど》るのかもしれない。それでも気持ちは|妙《みょう》に|穏《おだ》やかだ。恐怖感《きょうふかん》が次第に薄くなってゆく。
「ねえ教えて」
肩を押さえ、ぐったりと背凭《せもた》れに寄り掛かっていたデューターが、エイプリルの問いかけに顔を上げる。
「何を」
「もっと教えてよ。それであなたたちはどうしたの? みんなはどうやって活動してるの?」
「俺達は、様々な集団の様々な場所に|潜入《せんにゅう》する。文人達のサロンや経済界、教育界など、もちろん軍部のあらゆる方面にも同士がいる。|普段《ふだん》は皆《みな》と同じ仮面を|被《かぶ》って生活しているが、いざ目の前に自分にしかできないことが起こったら、その時は迷わず行動する。軍に『鏡の水底』を悪用させないために、うってつけの人材が俺だった。シュルツ大佐は俺みたいな人間が動き易《やす》いようにと、上層部に潜《ひそ》む同士達が作り上げた書類上の人物だ。大佐の任務といえば大方の兵士は騙《だま》せるが、連絡をとろうにも本人はいない。存在しないんだ」
「架空《かくう》の人物ってこと?」
「そうだ。だからいくら待っても援軍は現れない。たとえ同士が俺の危機に気付いても、誰も助けることはできない。誰か一人の失敗のために、他《ほか》の者まで危険に晒すわけにはいかないんだ。気の毒だが見殺しにするしかない。これまでもずっとそうしてきた」
「驚いた」
今さら何をと言いたげな眼《め》で、デューターは運転手の横顔を見た。彼女はいっぱいに踏み込んだアクセルを、|瞬間《しゅんかん》的に緩《ゆる》めて再び踏んでいる。
「じゃああなたの心はナチじゃないのね。片手を挙げる|挨拶《あいさつ》もしないのね?」
「そういうことになるな……だからこそ、死ぬときも生きるときも一人だ」
エイプリルは少しの間だけ脇見《わきみ》運転を試み、落ち込んでいるリチャードを覗《のぞ》き込んだ。
「あたしがいるじゃない」
デューターは|拳《こぶし》で|脂汗《あぶらあせ》を拭《ぬぐ》うと、|珍《めずら》しく曇《くも》りのない|笑顔《えがお》になった。この際もう、外れた関節などどうでもよくなって、笑いの衝動《しょうどう》を抑《おさ》えるのに必死になった。
「一人も同然さ……おおっと!」
いきなり追突《ついとつ》の|衝撃《しょうげき》がきた。黒べンツが後ろからぶつけてきたのだ。
「蜂《はち》の巣にするぞ作戦は中止になったみたいね。次は車ごと|潰《つぶ》すぞ作戦かしら」
せっかくの笑みを引っ込めて、デューターが硬《かた》い声で|呟《つぶや》くよう言った。
「グレイブス、ゆっくりスピードを落とせ」
「なーに? アクセル全開で逃げ切るんじゃなかったの?」
「いいからスピードを落とすんだ。頃合《ころあ》いを見計らって車から飛び降りろ、それくらいのことはできるだろう。後の始末は俺がつける」
懐《ふところ》から出された物があまりに|物騒《ぶっそう》だったので、エイプリルは慌《あわ》ててまたスピードを上げる。
「ちょっとちょっとそれ、どういうこと、どういうことよ。一人じゃ運転もできないくせに。始末をつけるって、まさかダイナマイトで自爆《じばく》なんて考えてないでしょうね!?」
「そこまで絶望的なことは考えていないが、せっかく取り戻《もど》した箱をむざむざと渡《わた》すのは絶対に……」
「忘れたの? リチャード、箱はあたしのものよ」
祖母の口調は|優雅《ゆうが》だが凜々《りり》しかった。加えて相手に四の五の言わせない|威厳《いげん》が備わっていた。
今、祖母の話し方が遺伝していますようにと、エイプリルは祈《いの》りながら断言する。
「一人で勝手に爆破《ばくは》するなんて、許しません」
「そうは言うがなっ……」
遠くから、空気を切り裂くような音が聞こえてきて、彼等は同時に言葉を切った。
大きさの違う三つのプロペラが、それぞれ不揃《ふぞろ》いなリズムを生みだしている。その音に背後から追われる気がして、自然とピックアップトラックの速度は上がった。
「グレイブス、後ろだ後ろ! あ、いややっぱり振《ふ》り向くな! 前言|撤回《てっかい》だ、全力でアクセルを踏め! あの飛行機に踏み潰されるぞ」
「踏み……まさか、DT!?」
味方は空からやってきた。
「援軍よリチャード! あたしの援軍だわ!」
轟音《ごうおん》と共に超《ちょう》低空飛行で降りてきた銀の機体は、一本道に沿って滑走《かっそう》準備に入った。上空から黒ベンツとジープに荷を投げつけている。それがことごとく屋根に命中し、どすんばこんと凄《すき》まじい音を立てては、見る見るうちに車を潰してゆく。
「エーイプリール、ランディングするからそこ退《ど》けよー」
聞こえるはずもないパイロットの声が、しっかりと耳に届いた気がする。
「おい、一体なんで畑にッ」
同乗者の不満を聞き流し、彼女は|大胆《だいたん》にハンドルを切って、葡萄畑に突《つ》っ込んだ。銀色の輸送機は車を追い越《こ》して、長い滑走を経てようやく止まる。潰されたベンツと軍用ジープから、爆発を恐《おそ》れて兵士達が散っていった。
それを後目《しりめ》にピックアップトラックは道路に戻り、ずっと先に停止した機体まで突っ走《ぱし》った。無性《むしょう》に相棒に会いたかった。
輸送機のタラップに片足をかけたままで、DTがヒラヒラと手を振っている。
「よう、エイプリル! うまいことやってっか?」
「DT!」
|涙《なみだ》がでた。
たった二日間会わなかっただけなのに、脳天気な笑顔と陽気な物言いがたまらなく懐《なつ》かしい。
「なによもう、DT! |遅《おそ》いわよーっ! 列車一本乗り|遅《おく》れただけなのに」
「やー、悪ィ悪ィ。契約交渉《けいやくこうしょう》に時間食っちゃってさ。でもちゃんと立派な輸送機で来たぜー?」
アジア人は銀の機体を二回|叩《たた》き、大きく開いたハッチに|掌《てのひら》を向けた。
「お荷物ならDT空輸にお任せくださーい。箱一つから、どぉこまぁででぇも」
「|大袈裟《おおげさ》ね。たかだか古い木箱一個に、こんな重量輸送機いらないわよ」
レジャンが機体を降りて駆《か》け寄ってくる。
「急いでくれ、エイプリル! あれ、そっちの彼は|大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
だらりと垂れた|左腕《ひだりうで》を押さえながら、デューターは|呆然《ぼうぜん》と呟いた。
「……今年のワインは、不作……としか発表できないだろうな……」
輸送機の両翼は葡萄《ぶどう》畑を突っ切っていた。実ってもいないシュペートブルグンダを刈《か》り取るようにして。