9
数日前に寄港したばかりのサラレギー軍港は、相変わらず殺風景な状態だった。商港と|違《ちが》って軍艦《ぐんかん》ばかりなのだから、色が少ないのも仕方がない。
だがその中で、|一際《ひときわ》目立つ船がある。
「この間は居なかったよな、あんな凄い船」
準備|万端《ばんたん》整えておれたちを待っていたのは、煌《きら》びやかな小シマロン王の旗艦だった。
|舳先《へさき》には旅の安全を祈《いの》る女神像が|微笑《ほほえ》み、|船尾《せんび》には船籍《せんせき》を示すシマロン旗がはためいている。ボディは波に馴染《なじ》む深緑に塗《ぬ》られ、窓や縁《ふち》には手の込んだ金の縁取りがなされている。木造ながら琥珀《こはく》の如《ごと》く磨《みが》きこまれたマストに、今はまだ畳《たた》まれている水色と黄色のセイルが広がれば、その姿は海を行く蝶《ちょう》のように美しいだろう。
横付けされたもう一|隻《せき》の船がよれよれだっただけに、旗艦の美しさはいっそう際だった。どうやらそっちの貨物船も聖砂国へ伴《ともな》うらしい。
「|交渉《こうしょう》には色々と必要だからね」
ということは中身はワイロか献上品か。さすが帝王《ていおう》学の修了《しゅうりょう》者、あらかじめ手土産《てみやげ》持参だ。おれとは違って用意|周到《しゅうとう》だ。
岸に架《か》けられた長いタラップから、おれは頻《しき》りに船の豪華《ごうか》さを褒《ほ》めた。|素直《すなお》な感想だったのだが、もちろんサラレギーとしても悪い気はしない。
「|綺麗《きれい》だなー、名前あるの? クィーン何とか号とか言うの?」
「金鮭《きんじゃけ》号だ」
「は?」
「金鮭号だよ。いい名だろう」
金鮭……正直いって紅鮭《べにじゃけ》のほうが好みかな。弱点はアラスカ辺りの熊《くま》だろうか。
皆が豪華客船に誘導されている中、ウェラー卿だけは金鮭号への乗船を拒《こば》み、一人だけ別の旅を選ぶ。
「私は向こうの貨物船で結構」
「あちらに? あちらの船倉には|満杯《まんぱい》の荷が積まれているよ。その真上で寝起《ねお》きするのは、あまりいい気分じゃない。乗り心地《ごこち》も旗艦のほうがずっといいし」
「乗り心地など気にならない。私は王族でも、貴族でもありませんから」
大シマロンからの使者は、|挨拶《あいさつ》もなくボロ船へと足を向ける。
「……彼は変わっているね。同じ船に乗りたくないのかな」
ウェラー卿の詳《くわ》しい素性《すじょう》を知っているのかと思って、おれは一瞬ひやりとした。ギュンターがマジ切れしてしまったから、元々の国籍は知られている。だが、彼の出自に関する事情まではどうだろう。
「さあねえ、おれにもよく判《わか》らないなぁ」
並んでタラップを登りながら、サラレギーはまじまじとおれを見た。
「その格好で船旅をするつもりかい?」
不衛生なわけではないとはいえ、未《いま》だに専属料理人姿だ。もっとも脛《すね》まである長いエプロンは少々歩きにくかったが、腿《もも》と|膝《ひざ》は温かくて助かった。
「悪《わり》ィな、タキシードとかじゃなくって。軍服ならうちの船にあると思うんだけどさ。ヴォルフラムはともかく……おれはほら、軍人階級じゃないし」
「悪いなんてことはないけど、海の旅は天候も変わりやすいし、風と日差しの強さも陸とは違うよ。できれば全身を覆《おお》う外套《がいとう》を用意したほうがいいかな」
だが、港の反対側にいるサイズモア艦から着《き》替《が》えを取り寄せる|暇《ひま》はなかった。本当はゼタとズーシャの様子をみるためにも、一度戻りたかったのだが、潮の時間がと言われれば、地理感のないおれたちは成程《なるほど》と|頷《うなず》くしかない。
サラレギーは着ていたマントを脱ぎ、おれの胸に押しつけた。
「良ければこれを使ってくれ。わたしがいつも着ているマントだけれど、フードまで|被《かぶ》れば風もかなり防いでくれるよ。わたしとあなたは背格好が似ているし、ユーリにもきっと似合うと思う。わたしは他に何枚もあるから」
渡《わた》された薄水《うすみず》色のマントは、光沢《こうたく》のある滑《なめ》らかな生地《きじ》で仕立てられていた。触《さわ》っただけで上等さが判る。
「いいの? やー、何から何まで気を遣《つか》わせちゃって!」
「あなたの役に立てるのが嬉《うれ》しいんだ。ああすまない、ストローブが呼んでいる。すぐに出航だ、先に乗って待っていてくれるかい?」
部下の軍人に呼び止められ、サラレギーは小走りに陸に戻《もど》った。|途中《とちゅう》で一回|振《ふ》り向いて、子供みたいな|笑顔《えがお》になる。
「そうだユーリ、出港するまで操舵手《そうだしゅ》の後ろにいるといい! |狭《せま》い港を舳先が突《っ》っ切る迫力《はくりょく》は何度見ても飽《あ》きないよ。わたしはいつもそうしてるんだ」
「へえー」
「その後で、艦長と操舵手の腕《うで》を讃《たた》えて|葡萄酒《ぶどうしゅ》を開ける。これが船旅のしきたりだ」
「なるほどねー」
飛行機の離着陸《りちゃくりく》と同様に、船にとっても離岸接岸が一番難しいのかもしれない。やってのけてすぐに褒められれば、プロの彼等だって嬉しいだろう。成程、こうして部下の気持ちをぐっと掴《つか》むわけだな。サラレギーといると感心することばかりだ。
彼とすれ違ったフォンビーレフェルト|卿《きょう》が、|眉《まゆ》を顰《ひそ》めて目で追った。深刻な理由の航海が始まるというのに、何をはしゃいでいるのかと言いたげだ。
「ギュンターが上着をと。大きさが合わないかもしれないが」
ヴォルフラムもまだ厨房《ちゅうぼう》見習い姿だが、オフホワイトの厚手のジャケットを腕に掛《か》けていた。袖《そで》も裾《すそ》も飾《かざ》りも無駄《むだ》にでかい。
「ああおれはいいや。今、サラレギーにマント借りたばっかだから。身長も|殆《ほとん》ど同じだしさ、ギュンターの服よりもサイズが合うはず……見るか?」
ヴォルフラムは借り物のマントを広げ、裏も表も矯《た》めつ|眇《すが》めつ|値踏《ねぶ》みした。小鼻をヒクヒクさせて、子兎《こうさぎ》みたいに布地を嗅《か》いでいる。
「ふーん」
「ヴォルフ……匂《にお》いを嗅ぐのはどーよ。サラレギーはちゃんと風呂《ふろ》に入ってたんだし」
「これはぼくが使う」
「え、何だよ。せっかくおれに貸してくれたんだぞ?」
おれは三男|坊《ぼう》を上から下まで眺《なが》めた。日に焼けていない滑らかな頬《ほお》と、湖底を思わせるエメラルドグリーンの|瞳《ひとみ》。屋外練習が日課のおれと違って、色素が薄く、直射日光に弱そうだ。
「……まあそうだな、そうかもな。いいよ、うん、お前が使えよ。おれはもっと焼けてもどってことないし」
色白だからフードも被《かぶ》っとけよと、金髪《きんぱつ》が隠《かく》れるまで引っぱってやる。淡《あわ》いブルーのてるてる|坊主《ぼうず》みたいなのができあがって、おれは思わず噴《ふ》きだした。
「なんだ、何を笑っているんだユーリ」
「だってやたら可愛……いや、天候に恵《めぐ》まれそうだなーと思ってさ。お前がマストからぶら下がってくれれば、旅の間中快晴かもよ」
「ぼくを生贄《いけにえ》にして旅の無事を祈るつもりか!?」
「生贄じゃない、てるてる坊主は生贄じゃねぇって!」
たちまちご機嫌《きげん》斜《なな》めになったヴォルフラムを放《ほう》っておいて、おれは小シマロン一の戦艦を見て回った。主力艦の装備や兵力などは、杢米なら国家機密だろう。なのに監視《かんし》もつけないとは、懐《ふところ》の広い王様だ。
「すっげー、砲門《ほうもん》まであるんだ。火薬無いのになんでだろ……」
通りすがりの小シマロンの若い船員が、小型の投石機があるんですと愛想《あいそ》良く教えてくれた。二十年前まで敵国だったおれたち相手に、実に気持ちのいい連中だ。
金鮭号の船員は、全員小シマロン兵士だった。かなり見慣れてきた水色と黄色の制服に、もっと見慣れた|刈《か》り上げポニーテールだ。皆《みな》が忙《いそが》しく立ち働いている。
出航前の慌《あわ》ただしい中で、てるてるヴォルフがふらりと寄ってきた。
「寒いんじゃないか? 船室に入るか上着を着るかしろ。そうでないとギュンターが大慌てで連れ戻しに来るぞ」
「ギュンターどうしてる? コンラッドに負けて……そのー、してやられて落ち込んでる?」
「いや。それが意外にも上機嫌だ。お前に庇《かば》ってもらえたのが相当嬉しかったらしいぞ」
「なんだそりゃ。立ち直り早いなぁ」
ヴォルフラムはかじかんだ指を|擦《こす》り合わせ、気休め程度の暖をとる。水の近くにいるせいか、真冬でもないのにかなりの寒さだ。
「海図を手に入れたらすぐに来ると張り切っていたが……ユーリ、やっぱり船室に居たほうが良くないか?」
サラレギーは港を抜《ぬ》けるまでは|甲板《かんぱん》で見ているべきだと言っていた。操舵手の後ろがベストポイントだとも。
「ここで見てると大迫力なんだってさ。船旅のしきたりで醍醐味《だいごみ》だって。せっかくだから先人の教えに従おうぜ」
飾りの多いギュンターのジャケットに袖を通そうとした時だった。金管楽器が高らかなファンファーレを鳴らし、鹿《しし》おどしを連続百回みたいな合図があった。港湾《こうわん》中の人々が顔を上げる。
小シマロン王の旗艦《きかん》、金鮭号の出航を、畏敬《いけい》の瞳で見守っている。
太いロープとタラップが外され、低い震動《しんどう》とともに錨《いかり》が巻き上げられる。
船は短くスライドしてから、港内の潮の流れに乗った。最初は前を行く人力船に曳航《えいこう》されるが、湾に作られた調整弁のお陰《かげ》で、すぐに外洋へと|舳先《へさき》を向けた。
「あれ、サラレギーもう乗船したっけ。部下に呼ばれて|一旦《いったん》陸に戻ったんだけど。乗り|遅《おく》れたなんてこたないだろな」
「まさか! 本人を残して出発はしないだろう」
「そうか、そうだよなぁ」
金鮭号は大きさを感じさせない滑らかさで、|穏《おだ》やかな海面を走り始めた。流れに任せているだけではない。操舵手の腕の見せどころだ。停泊《ていはく》中の船達の中央を、一直線に通過してゆく。おれとヴォルフが陣取《じんど》っている場所からは、舵輪《だりん》の細かい動きがよく見えた。
後ろからはウェラー卿と貨物を積んだ、手土産船が付いてくる。
「あれ……」
「どうした?」
おれは冷たくなった|拳《こぶし》で、右目の周りを強く擦った。湾口のある正面から、また別の一隻の中型艦がこちらに向かって来る。
「気のせいかな……気のせいじゃねーよな。なあ操舵手さん、あの焦《こ》げ茶っぽい船が、真《ま》っ直《す》ぐこっちに来てるみたいなんだけど」
「気のせいではないでありますよ。ご安心ください、まだ|距離《きょり》がありますし。しかし何故《なぜ》、航海士の警告がなかったのか……」
中年の操舵手の声も真剣《しんけん》だ。本来ならば艦橋よりも高い場所にいる航海士が、真っ先に障害物を発見していち早く警告を発するはずだ。
その役割の兵がいるべき場所を、操舵手の代わりにちらりと見る。黄色い布が盛り上がっているだけだ。
「人間? あれ人間か? ちょっとアレ、寝《ね》てるか|発作《ほっさ》で|倒《たお》れたかどっちかだろ」
その間にも地味な中型艦は、猛《しう》スピードで突っ込んでくる。肉眼でも規模と装備が|確認《かくにん》できる近さだ。眞魔国海軍でいうと中型クラスの巡洋《じゅんよう》艦。デッキには金鮭号と同じ制服の連中が並び、帆《ほ》を降ろしたマストにも見張りの数名がしがみついている。
やばい。スピード2じゃないんだから、これは本気でやばいでしょ。
「ぎゃーブレーキ! 運転手さんブレーキー!」
「落ち着けユーリ」
ぶつかる、と目を閉じかけた頃《ころ》になって船はやっと右に旋回《せんかい》を始めた。操舵手はとっくに面舵《おもかじ》を切っていたのだ。ところが向かってくる巡洋艦は、方向舵を動かす気配がない。こちらが右に避《よ》けたために、横腹を晒《さら》す結果となってしまった。
「あの艦《ふね》、突っ込む気だ!」
「掴まれ、身を低くして何かに掴まれ!」
騒然《そうぜん》とした艦上で、声の通りのいい男が何度か|叫《さけ》んだ。
「ぶつかるぞっ、皆、掴まれーっ!」
おれとヴォルフは|咄嗟《とっさ》に木目のデッキに伏《ふ》せた。地震《じしん》と同種の縦揺《たてゆ》れで、二人共肩を打つ。金鮭号の深緑の船腹に、中型艦が突き刺《さ》さった|衝撃《しょうげき》だ。続いて左右にローリングする。横揺れは次第《しだい》に大きくなり、|巨木《きょぼく》が折れる軋《きし》みとともに最高潮に達した。
琥珀《こはく》色に磨《みが》かれた帆柱は、船腹から浸水《しんすい》して大きく傾《かたむ》いた。
「どうなっている!?」
「こっちが|訊《き》きたいよ! なんで同じ小シマロン船籍《せんせき》の巡洋艦が、王様の旗艦に突っ込んでくるんだ。操舵手さん、おーい操舵手さん……こうなっちまったら舵もくそもねーか」
舵輪は割れ、すぐ前には船倉への穴が口を開けていた。傾斜《けいしゃ》に足を取られないよう|互《たが》いに腕《うで》を絡《から》ませて、おれたちはやっと立ち上がった。
兵士達が周り中を駆《か》け回っている。剣《けん》を取る兵士、腕を回して誘導《ゆうどう》する人の他《ほか》に、バケツを持って走ってゆく者もいる。バケツ?
「陛下、ご無事で……ぎゃふん」
ギュンターがつんのめりながら走ってきた。傾いた板に波がかかり、お足元のお悪いことになっているので、|僧衣《そうい》の裾《すそ》を踏《ふ》んで派手に転ぶ。起きようとして再び肩《かた》から倒れ、腰《こし》を曲げたまま|掌《てのひら》をまじまじと見る。|超絶《ちょうぜつ》美形が顔色を変えた。
「水じゃない、油です! 油が流されています!」
傾斜の上方に目をやると、木樽《きだる》を次々と|蹴飛《けと》ばす男がいた。出港前に砲門と投石機について教えてくれた通りすがりの若い兵士だ。拳を振《ふ》り上げて興奮気味に何か歌っている。
「……どうして」
太いワイヤーが切れたような音がして、不思議な空気の流れを感じた。熱を持って|身体《からだ》を押す圧力は、自然の穏やかな風ではない。
「ギュンター! 服だ、服を脱《ぬ》げ」
「え、ええっ!? へ、陛下まさかこんな場所でそのようなっ」
両胸を手で覆《おお》うギュンター。年甲斐《としがい》もなく恥じらっている場合ではない。
「脱ぐんだ! 燃えちまう。燃え移るからっ」
空を埋《うず》めた真っ赤な火の玉が、弧《こ》を描《えが》いて向かってきている。
|魔術《まじゅつ》でも法術でもない。百本以上の火矢が降り注いだ。甲板に流れた油に引火して、船上に真っ赤な海をつくる。
悲鳴に近い声で古参兵が叫んだ。もっと若く、縛《しば》った髪《かみ》が短い兵士は、男の名を讃《たた》えるように歌った。
「マキシーンだ、マキシーンがやりやがったー!」
「ついにマキシーン様が!」
……刈りポニがどうしたって?
|奇妙《きみょう》なことに中型艦からは、|誰《だれ》一人乗り込んでこなかった。旗艦をこれだけ|大胆《だいたん》に|攻撃《こうげき》しておいて、白兵戦に持ち込まないとはどういうわけだ。
「そっちは|大丈夫《だいじょうぶ》かギュンター!?」
おれの上着をがっちりと掴《つか》みながら、ヴォルフラムが手を口に当てた。
「ほ、本気で脱いでるのかお前」
超絶美形はポイポイと服を捨てていく。見事な脱ぎっぷりだ。
「なにを仰《おっしゃ》います、私はいつでも本気ですッ。本気と書いてマゾと読むのです。陛下が教えてくださいました! ヴォルフラム、私が行くまで陛下を。陛下っ、すぐにサイズモア艦が、今すぐに参りますから、どうかそこから落ちないように……」
そうだ、サラレギー軍港の中には、眞魔国の誇《ほこ》る「うみのおともだち」号が停泊している。派手な炎《ほのお》を見れば、サイズモア艦長がすぐに駆けつけてくれるだろう。単なる火だ。消火もきっとうまくいく。おれが上様モードにならなくても……。
「そうだよな、海の猛者《もさ》、黄昏《たそがれ》の海坊主《うみぼうず》サイズモアだも……」
最後の一音を疑問の形に上げて、隣《となり》にいるヴォルフラムの同意を得ようと思っていたけれど、その音が喉《のど》から唇《くちびる》に届く前に、おれは呼吸を失った。
真っ黒い筋が、|眉間《みけん》を目指して突き進んでくる。
デジアナGショックの秒針と比べれば、ほんの一秒もかかってなかった。けれどそれは、まるで古いビデオのスロー再生みたいに、ゆっくりと空気を切って|迫《せま》ってくる。
撃《う》たれたと思った。あるわけのない銃《じゅう》から発射された弾丸《だんがん》が、おれの額を貫通《かんつう》するのだと思った。動くこともできず、ただ撃ち抜《ぬ》かれるのを待った。
おれを狙《ねら》ったのだと思った。
だが。
海辺の砂に棒を突き刺すような、表現しがたい音がした。
銃の発射音でもない。鉄の弾《たま》で骨が砕《くだ》け肉が|潰《つぶ》れる音でも、血液が飛び散る音でもなかった。
おれの身体中のどこにも、撃たれた傷は残っていない。
左目の端《はし》に、水色が広がった。
「……ヴォルフ?」
|握《にぎ》り合っていた手から不意に力が抜け、隣にあった身体がゆらりと傾《かし》ぐ。
「ヴォルフ!?」
炎に巻かれた|甲板《かんぱん》に、彼は背中から倒れた。
「ヴォルフ? ヴォルフっ、ヴォルフラム!」
胸の中央、やや左寄りに、たった一本の鉄の矢が突き立っていた。
「どう……ヴォルフラム……? どうしよう、どうしたら……」
「……まえ……が……」
上がらない腕で中型艦の帆柱を指差す。すぐに力を失って落ちてしまうが、示した先には弓を持つ男がいた、仕事を終え、太いマストに身体を縛り付けていたロープを、小さな刃物《はもの》で切断している。
あの高さ、あの距離から狙ったのだ。
あり得ないことだが、顔が見えた。そんな気がしただけかもしれない。見て取れたのは人相の悪い三白眼だけで、髪の色も顔立ちもはっきりしなかった。
不思議と、怒《いか》りは湧《わ》き上がってこなかった。ただもう、失う|恐怖《きょうふ》で震《ふる》えている。
「あの男なのか?」
|膝《ひざ》の上にヴォルフラムの身体を載《の》せて、覆《おお》い|被《かぶ》さるように耳をつけた。
大丈夫、まだ息はある。まだ息はあるから。
「……キー…ナ……」
「ええ、なに? なんだよ聞こえねーよっ!? 抜けばいいの? これ抜いたらいいのかッ!?」
矢羽は茶と黄色の縞《しま》だった。鉄の中央を掴むと、炎の中なのにひやりと冷たい。薄水色のマントはまだ汚《よご》れていない。迂闊《うかつ》に抜いたら大出血を起こし、却《かえ》って命を縮めるかもしれない。
ヴォルフラムがひゅっと空気を呑《の》んだ。息が詰《つ》まって苦しそうだ。頬《ほお》が紙のように白くなってゆく。
「……どうしよう……|誰《だれ》か医者を……ギュンター、ギュンター!」
こんな時に限ってギュンターは炎の|壁《かべ》の向こうで見えない。
自分でどうにかできないかと、おれは突き立った矢の根本に指を伸《の》ばした。少しでも触《ふ》れると浅い呼吸がすぐに止まりかける。
「ヴォルフ、なあ、よせよ、よしてくれよぉ……こんなとこで、悪い|冗談《じょうだん》は……」
こういうときのために、魔力ってあるんじゃないのか。理屈《りくつ》では説明できないおれの力は、彼を助けるためにこそあるんじゃないのか。
集中しろ、周囲の|騒《さわ》ぎなど忘れろ。
ヴォルフラムの傷だけをイメージして、痛みと苦しみを少しずつ引き受けていくんだ。腕と肩と胸の血の流れを感じて、心臓のリズムを同じにする。
眼《め》は開いているだけ無駄《むだ》だ。指先に流れ込む体温と|鼓動《こどう》から、彼の弱まった血の流れを読め。
おれの呼吸もゆっくりになり、二人と外界の間に薄い幕でもあるみたいに、炎の熱気も感じなくなる。
「……ヴォル、フ……っ」
一度だけ大きく息を吐《は》いて、フォンビーレフェルト|卿《きょう》の首から力が消えた。苦痛と|緊張《きんちょう》に痙攣《けいれん》していた頬と|瞼《まぶた》が、ゆっくりとその動きを止める。唇から痛みを感じない呼吸が漏《も》れた。
なのに、おれの腕や心臓は、一向に苦痛を引き受けていない。
「ヴォルフラム、ちょっと待てよ、どういうことだ!? なんでおれはお前の痛みも血も感じられないんだよッ!? おい返事しろ、返事しろったら! 言っていいから。何度でも言っていいから。おれのことへなちょこって言えってば!」
身体を揺《ゆ》さぶろうとして、両膝に置いた腕で肩を掴む。落としたきりの視線の先で、煤《すす》に汚れた軍靴《ぐんか》が燃える板を踏み締《し》めた。
「だ……」
誰だ、と言い掛《か》けて息を呑む。
「|何故《なぜ》、そのマントを……王以外の者が」
痩《や》せて肉のない白い頬は、炎に照らされて朱《しゅ》に染まっている。細い一重《ひとえ》の目をいっそう|眇《すが》めて、奴《やつ》はおれたちを|凝視《ぎょうし》していた。変わることのない焦《こ》げ茶の髪が、|僅《わず》かに解《ほつ》れて顎《あご》にかかっていた。
「……ナイジェル・ワイズ・マキシーン」
お前の顔を、一生忘れない。
死んでも許さない。
「お前がっ!」
おれの周囲は真っ白になった。炎の赤も|煙《けむり》の灰色もない。
吹雪《ふぶ》く谷に一人きりで立ち、巻き上がる雪を背にしている気分だった。
熱も感じない。|身体《からだ》が燃えてもきっと気付かないだろう。白い闇《やみ》と氷に切り刻まれても、傷は開くばかりで血が流れない。
もう誰かの導きを待つつもりはなかった。
誰の声も聞こえなくていい、背中を押されなくていい。ただおれは、おれの怒りのために、持てる限りの力を尽《つ》くすんだ。
「お前がこんな……っ!」
握り締めた|拳《こぶし》を振《ふ》り下ろす。そのための相手を求めている。
「ナイジェル、ワイズ……マキシーン!」
口調が|怪《あや》しい。呂律《ろれつ》が回らない。脳《のう》細胞《さいぼう》を繋《つな》ぐシナプスが、あらゆる部分でスパークする。
「小シマロン王の仕打ちへの腹いせに、兵を率いて内乱を起こすとは何たる仕業《しわざ》! ああ昨今の世の者どもの公私混同ぶりには、カメムシとて苦言を呈《てい》さずにはおられぬわ!」
「……あ、相変わらず何を言っているのか不明だな」
刈りポニが一瞬たじろぐ。
おれは|脳《のう》味噌《みそ》の平常時未使用分が命じるままに、時代がかった台詞《せりふ》の朗読を続ける。
「しかも本日、余の怒りはまきしまむ! とってもとってもまきしまむー! エネルギー充填《じゅうてん》一二〇%の大技《おおわざ》を、しかとその身で受け止めるがい……ぬがっ!」
「いい加減にしろユーリ! 人間の土地で|魔術《まじゅつ》を使うなって、あれほど繰《く》り返し言っただろうがっ!」
ヴォルフラムは呼吸を弾《はず》ませて、上様モードのユーリの頭をグーで殴《なぐ》った。
「なんと、プーとやら、おぬし死んだのではなかったか」
「勝手に殺すな、衝撃で息が詰まっただけだ! |結婚《けっこん》もしていないのに死んでたまるか」
それではいくらユーリでも、傷の治しようがない。
「しかし胸に矢が突《つ》き立ってびんびんしておるとは、もしや矢《や》|魔族《まぞく》……ううぬう、新たな生物と巡《めぐ》り合う喜び」
「|違《ちが》うっ」
フォンビーレフェルト卿は引き抜いた矢を握ったまま、自分の懐《ふところ》に右手を突っ込んだ。厚い文庫本の中央に深々と穴が空いている。
「見ろ、毒女に命を救われたんだ。宿屋に置いて布教するのは失念したが、一家に一冊量産型毒女だ。出掛けるときは忘れずにな」
マキシーンは呆れたのを通り越して、半ば感嘆した顔だ。
「悪運が強……ぶがっ」
内乱|首謀《しゅぼう》者という自らの立場を忘れ、髭《ひげ》を撫《な》でていたマキシーンは、背中への|直撃《ちょくげき》で宙へと吹《ふ》っ飛んだ。|甲板《かんぱん》の手摺《てす》りにも掴まれず、そのまま海面に真っ逆様だ。
「ぬおぉぉぉーっ!」
悔《くや》しげな悲鳴が高さの分だけ|尾《お》を引いた。
炎《ほのお》の壁が一瞬《いっしゅん》途切《とぎ》れ、その向こうに下着一丁で片膝《かたひざ》を立てるギュンターが姿を現した。|両腕《りょううで》に抱《かか》えた筒《つつ》からは、物凄《ものすご》い勢いで白い泡《あわ》が噴《ふ》き出している。
「おや、私は火消しにきたのですが」
「う……ぬ……ぶーむを過ぎたうぉーたーぼーいずに代わり、世の人々を火災から守るふぉあいやーぼーいずであるな……しかしイカにせよタコにせよおぬしの|年齢《ねんれい》では、ぼーいと名乗るもおこがまし……本日よりは、ふぁいやーおーるどぼーいずと……」
「正気に戻《もど》れユーリ、へなちょこに戻るんだっ」
だが当の主《あるじ》は|爆発《ばくはつ》が|未遂《みすい》に終わったせいか、いつまでも上様モードから抜《ぬ》けきらない。|厨房《ちゅうぼう》服の襟《えり》を掴んで締め上げられても、偉《えら》そうな咳《せき》をするばかりだ。
「げふっ、であるぞよっ、けほん、苦しうないっ」
業《ごう》を煮《に》やしたヴォルフラムは、|普段《ふだん》の渋谷有利なら|涙《なみだ》でテニスコートにイニシャルを書きそうな脅《おど》しを口にした。
「とっとと元に戻らないと、王子様の接吻《せっぷん》で目覚めさせるぞ!」
「今日のおめざ……ぶしゅーぅ」
耳と鼻から空気の抜ける音がして、吊《つ》り上がっていた眉尻《まゆじり》がいつもの位置に下がった。凜々《りり》しい若殿《わかとの》風だった顔も、普段の野球|小僧《こぞう》に戻る。
「おい待て、そんなに嫌《いや》だったのか? ぼくはちょっと傷ついたぞ」
「何言ってるんですかヴォルフラム、あなたとの接吻など、陛下はおいやに決まってますよ!」
ギュンターは消火|剤《ざい》の噴き出す筒を放《ほう》り投げ、元プリンスの腕からユーリを|奪《うば》い取った。
「……あれ……ヴォルフ……なんで元気なの……ぎゃーギュンター、なんで全裸《ぜんら》なんだー!?」
「ああっ陛下、お気がつかれましたか。ご安心ください、このフォンクライスト・ギュンター、紳士《しんし》の嗜《たしな》みとして最後の一枚は残しております。もちろん、陛下の御為《おんため》に……」
「おれのために残すならヒモパンじゃなくてトランクスにしてくれ1」
「ホモパン? トランクス? 二つ同時に何だそれは。男か?」
たった今、死にかけたばかりだというのに、勘違いしたツッコミは健在だ。
「男だよ男、ホモパンじゃなくて紐《ひも》パンだよう」
ぐらりと船体が傾《かたむ》き、兵士達が口々に|叫《さけ》び始めた。