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深夜の空港のベンチで、渋谷《しぶや》家長男はひたすらキーボードを打ちまくっていた。
掌《てのひら》に載《の》る程《ほど》の小型マシンだ。そもそもこれはメールくらいしかできないような単純シンプルな機械だった物を、こまめにジャンク屋に通い改造……改良に改良を重ねて一端《いっぱし》の小型PCに育て上げた自慢《じまん》の一品《いっぴん》だった。
名前は別人27号。
元の製品のデザイン的|可愛《かわい》らしさが、改造|途中《とちゅう》でどこかへ消えてしまったので。
27号でしているのは、極秘《ごくひ》で運営しているギャルゲー研究サイトの更新《こうしん》だ。もちろん新作の評価をしている場合ではないが、とりあえず日記とBBSだけでも手を着けておけば、常連の何人かは反応してくれるだろう。
テーマは「ナイアガラの滝《たき》を逆流させる方法は、果たしてあるのか」。
よーしこれで全世界の妹・弟|萌《も》えの仲間達から、有益な情報が得られるはずだ……あるならね。そうでなくとも蘊蓄《うんちく》を並べ合って議論しているうちに、一休さん宜《よろ》しく妙案《みょうあん》が浮《う》かぶ可能性もある。例えば、ナイアガラ|仙人《せんにん》に頼《たの》んでみてはどうか、とか、そんなうまい話はナイアガラー……とか。
ついでに普段《ふだん》出入りしているミリタリー系の掲示板《けいじばん》にも書き込んでおく。勝利《しょーり》としては藁《わら》にもギャルゲオタにもミリオタにも縋《すが》りたい、いっそカニバサミをかけて寝技《ねわざ》に持ち込みたい気分だ。
なにせ十六年間一方的に可愛がってきた、たった一人の弟が、現在|行方《ゆくえ》不明なのだ。しかも無断|外泊《がいはく》プチ家出とか、カラオケボックスでオールとかそんなレベルの話ではない。
異世界で行方不明。
異世界で!
ステルスの如《ごと》く、レーダー無効。それどころか科学技術|全般《ぜんぱん》無効。剣《けん》と魔法《まほう》とゆーちゃん萌《も》えーの世界に行ったきり、大切な弟が還《かえ》ってこない。
そんなRPGみたいな話ってあるか!?
有利《ゆーり》の友人である村田《むらた》の証言だけでは、とても信じられなかった。なんとまあ想像力豊かなガキもいたもんだ、こういう奴《やつ》が将来、映画を撮《と》ったりするんだろうなと感心したものだ。ところが旧知の間柄《あいだがら》であるボブが加わったことによって、話は一気に信憑性《しんぴょうせい》を増した。
祖父の代からの知人で、会うたびに奇想《きそう》天外な法螺《ほら》話をする妙なアメリカ人は、傍《はた》から見ればごく普通《ふつう》のデ・ニーロ似の容姿で、ごく普通のアメックスプラチナカードの男だった。だが、ただ一つ違《ちが》っていたことは……。
ボブ様は、魔王だったのです。
名実共に地球の魔王である彼から説明されれば、弟の窮地《きゅうち》も信じざるを得ない。胡散臭《うさんくさ》いサングラス越《ご》しに見詰《みつ》められては、嘘《うそ》ばっかりと笑い飛ばすのは至難の業《わざ》だ。
「ゆーちゃん……可哀想《かわいそう》に」
弟が、あのバットとボールとミットのことしか頭にない高校生が、地球とは一八○度異なる世界で魔王をやらされているなんて。恐《おそ》らく税金とか年金とか、恐慌《きょうこう》とか金融《きんゆう》市場とかで小さな脳《のう》味噌《みそ》を苦しめているのだろう。数学苦手なのに。
とにかく一刻も早く現地に飛んで、弟を連れ戻さなければならない。赤の他人なら悠長《ゆうちょう》なことも言っていられるだろうが、実の兄である勝利からしてみれば、カルガモ池に頭を突《つ》っ込んでいる場合ではないのだ。
「あの黒メガネ白メガネめ。俺にはナイアガラだの富士山だの言っておきながら、自分達は羽田だなんて。なにローカルなこと言ってやがる、今どき羽田に外人が来るかよ」
自分の眼鏡《めがね》を棚《たな》に上げて、渋谷勝利は呟《つぶや》いた。彼の場合、眼鏡は顔の一部だから問題ない。
ボブとムラケンは、地球産魔族の有力者であり向こうの世界にも繋《つな》がりがある、ロドリゲスという男の到着《とうちゃく》を迎《むか》えに行った。長閑《のどか》な雰囲気《ふんいき》が自慢の羽田《はねだ》空港に。
何処《どこ》から来るんだ、ロドリゲスは。ロシアか韓国《かんこく》か中国か?
一方、ナイアガラ瀑布《ばくふ》の逆流を目論《もくろ》む勝利は、一人別行動をとり、真新しい十年パスポートを手に新東京国際空港に来ている。
成田《なりた》に着いたのは夜の八時過ぎだった。国際便の発着はまだ終わっていなかったが、日暮れ頃《ごろ》から降り始めた雨が、やや強くなりだしていた。カウンターの女性職員も、苦情|攻撃《こうげき》を受ける前だったのでまだにこやかだ。
当座の行動資金になりそうなのは、ああ悲しいかな学生力ードだが、それでもオレゴンまでの往復航空券くらいは購入《こうにゅう》できる。ただし、エコノミーでよろしいですかの質問には、すんなり頷《うなず》くしかないだろう。畜生《ちくしょう》、絶対金持ちになってやるーと心の中心で密《ひそ》かに叫《さけ》んだ。
昨年から齧《かじ》り始めた株式は、まだ全然利益が出ない。
「キャンセル待ち?」
そんな葛藤《かっとう》を圧《お》してカウンターに並んだので、いきなり満席を告げられて正直なところ肩透《かたす》かしを喰らったような気がした。
「オレゴンってそんなに大人気? ああ、秋の観光シーズンだから『オレゴンから、秋』をしに行く人で満員なのかな……」
「お客様、ナイアガラの滝ですとカナダ行きでございますね」
「し、知ってたさ。河童《かっぱ》の川流れは楽しそうに泳ぐ姿ではないってこともね」
女性職員ににっこりと指摘《してき》されて、渋谷勝利は久々に恥《はじ》をかいた。自称アメリカ帰りとしては、家族には知られたくない過《あやま》ちだ。しかもキャンセルを待つ間に、何便かが気象上の理由で飛ばなくなってしまった。乗りはぐれた客でベンチは無くなるし、ロビーは不快な人いきれで熱くなってきた。日本は十月末なので、設備の空調も甘かったのだ。
かといって皆《みな》、外に出る気にはとてもならない。雨は今や吹《ふ》きつける風のせいで、横殴《よこなぐ》りの豪雨《ごうう》になっている。関東地方にも台風の影響《えいきょう》があったのかと、硝子《ガラス》を叩《たた》く暴風を見てやっと知った。
夜を徹《てっ》してフライトを待つ覚悟《かくご》の者もいれば、隣接《りんせつ》するホテルでゆっくりしようという優雅《ゆうが》なビジネスマンもいる。どちらも不可能そうなので、とりあえず職員に当たっておけという不届き者もいるらしく、あちこちで苦情を言う声が響《ひび》いていた。
取り敢《あ》えず更新を終えた勝利は、扱《あつか》い慣れた別人27号を閉じた。隣《となり》もその隣もそのまた隣も、喫煙《きつえん》できずに苛《いら》ついた様子の会社員だ。服に染《し》みついた匂《にお》いで判《わか》る。健康第一|嫌煙《けんえん》主義の弟なら、五分も我慢《がまん》できないだろう。
勝利はちょっとした悪戯《いたずら》心を起こし、ビジネスクラス専用のラウンジに足を向けた。にこやかな女性職員が、PCを脇《わき》に置いて待ち受けている。ためしにボブの名前を告げてみると、驚《おどろ》いたことにすんなり通してもらえた。
ありがとうボブ。ホタテの貝殻《かいがら》で乳首《ちくび》だけ隠《かく》したセクシーコスチュームで、ご利用サンバなど踊《おど》っていたくせに、こういう場所では使える男だ。
内部は天国だった。一般《いっぱん》待合い客の屯《たむろ》するロビーとは大違いだ。落ち着いた色合いでトータルコーディネートされた部屋には、身体《からだ》が沈《しず》むほど柔《やわ》らかいソファーが余っている。コーヒー紅茶のソフトドリンクサービスと共に、壁際《かべぎわ》のマガジンラックにはビジネスに関する雑誌が全《すべ》て揃《そろ》っていた。無いのはスポーツ新聞くらいだ。もちろん空調も完璧《かんぺき》。
「これこそ別世界だろ」
さりげなく置かれたパンフレットには、乗航記念として信楽焼《しがらきやき》プレゼントとまで書いてある。運良く飛行機に乗れた時の話だが。やっぱりあの狸《たぬき》をくれるのだろうか。
惚《とぼ》けた顔した雑食動物を抱《かか》え、自宅まで帰る様を想像しながら、シンプルな白のカップにコーヒーを注いで戻《もど》ってくると、ガラ空きの部屋の中央に女の子が一人で座っていた。自分が荷物を置いたのと同じテーブルだ。これだけ席が余っているのに、どうしてよりによって勝利の近くを選んだのだろうか。
先にいたこちらが場所を変えるのも妙な気がして、カップを持ったまま女の子の隣に戻る。彼女は明らかに外国人だった。一瞬《いっしゅん》見ただけでも確認《かくにん》できる。天然物の茶髪《ちゃぱつ》をきっちりと結《ゆ》い上げ、やはり茶色の腱毛《まつげ》の奥では、青灰《あおはい》色の瞳《ひとみ》が微笑《ほほえ》んでいる。なのに服装は純和風で、朱《しゅ》に近い赤に金糸で魚の刺繍《ししゅう》という、名古屋を思わせる着物姿だった。鄙《ひな》びた温泉宿にでもいれば、名物|女将《おかみ》ともて囃《はや》されもしたろうが、ここは台風真っ|最中《さいちゅう》の国際空港だ。いくらにっこり微笑まれても、変な外人としか思えない。
関わり合いになるのはやめておこう。意外と保守的なところのある渋谷勝利は、目を合わせないようにしながらコーヒーを啜《すす》った。だが。
「ハーイ、コニツワー」
「……コニツワー」
先方は積極的だった。なんだこの、日本通ぶりたい外国人は?
「アナタハー、ゲイーシャですかー?」
「……いや、違うから」
「おーう、ザーンネーンムネーン、ハラキリ上等」
彼女は自分の着物を指して、ワタシは芸者ですと胸を張った。誇《ほこ》らしげだ。
「いや、多分あんたも違うから」
「ノー、ワタシはゲイーシャのはずでーす」
青灰色の瞳が涙《なみだ》ぐむ。外国人の、しかも年下の旅行者を泣かせてしまい、勝利は慌《あわ》てて開いていた雑誌を置いた。
「あー、悪い、あースミマセン。俺まだ芸者遊びをしたことがないもんで、本物の人に会ったことがなかったんだ。申し訳なかった、こちらの間違いだ」
休暇《きゅうか》を利用して海外旅行をする日本人は増加しているが、観光目的で来日する諸外国人の数は芳《かんば》しくない。ここで我が国の印象を悪くしたら、リピーターが増えないばかりか、彼女の友人知人まで反日派になりかねないだろう。日本を観光大国にしようと、都知事も提唱しているではないか。たとえ相手が勘違《かんちが》いしたキル・ビル娘《むすめ》だとしても、最初に接触《せっしょく》する第一日本人としては、可能な限り愛想をよくしておかなくてはなるまい。
「立派な芸者ぶりですね、うん。特にその、川上りをする鮭《さけ》が印象的だ」
「ノー、これはコイでーす。アナタぜんぜんワカッテ今千年?」
「……はは……えははは……今は二千年台」
笑うべきところなのか、天然なのかも判《わか》らない。
ギャグが受けたと勘違いしたのか、彼女はいよいよ親密そうに話し掛《か》けてきた。懐《ふところ》にしまってあったパスポートを開いて見せる。
「オータムンコの休みを利用して、ジャパンのトモダチンコにステイしに来マシタ」
「は!?」
聞いている勝利のほうが慌ててしまった。うら若き女性が公共の場で、そんな単語を口にするのはどうだろう。ていうか誰《だれ》だ、間違った日本語教育した奴《やつ》は。
「ちょっと待てお嬢《じょう》さん、それトモダチンコじゃなくて、友達ん家《ち》じゃねえかな」
「おーう、ソーデス。トモダチンチ……」
そこで切っとけ、ンは付けるな。勝利は三本の指で眉間《みけん》を押さえた。
乱れてる。若い娘さんがサラリと下ネタを喋《しゃべ》るなんて、合衆国はどこまで乱れているんだ。
「メル友《とも》ですヨー、メル友ー。日米のカルチャー交流として、互《たが》いに援助《えんじょ》交際シテいるのです」
「頑張《がんば》れと言っていいものかどうか……」
もしもそれが本当なら、お薦《すす》めできない文化交流だ。オーゥ、ニポーン乱れてるネー。ジャパングリッシュならぬアメリパニーズに影響されて、五七五のリズムを失いつつ嘆《なげ》く。
「トモダーチ、迎えに来なーいのデスカー? ひょっとしたらタイフーンで遅《おく》れてますカー」
確実に伝染していた。
「ののの」
少女は右手を顔の前で振《ふ》って、否定の意味を表しつつ続けた。
「ボブというヒトを待テイマース。トモダチンコに泊《と》まる前に三日間、彼の参加するカーニバルを見物させてもらう予定デース」
「へーえ」
勝利は読みかけていた雑誌を手にとり、先月の相場変動グラフをチェックし始めた。ユーロからは目が離《はな》せない。
「そっちのボブは常識人だといいな」
それきり二人は黙《だま》り込み、ただ窓の外の豪雨を眺《なが》めていた。
……ボブ?
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「ボブってあのボブか!?」
訊《き》いてしまってから馬鹿《ばか》らしさに気付いた。ボブなんてどこにでもある名前だ。日本でいえば又三郎《またさぶろう》くらいのメジャーさだろう。たまたま空港で隣《とな》り合わせただけの相手が、間接的な知り合いであるはずがない。
「あのボブってどのボブ?」
青い目の自称《じしょう》ゲイシャガールは、当然の事ながら流暢《りゅうちょう》な英語で聞き返してきた。
「メガネーズの。黒いグラサンかけて、やたら偉《えら》そうで雰囲気《ふんいき》のあるおっさんだ」
「じゃあきっと違《ちが》うわ、偉そうだなんてとんでもない。あたしの知り合いは陽気で気さくなボブ小父《おじ》さんだもの。ハイテンションなロバート・デ・ニーロみたいな感じよ」
「デ・ニーロ? 偶然《ぐうぜん》だなあ、こっちのボブも似てる、というかクローン疑惑《ぎわく》が」
「え、お知り合いは道化師《クラウン》なの? それにしてもあなたの英語はひどいのね。今どき幼稚《ようち》園児《えんじ》でもそんな喋り方しない」
お、お、お、お前の日本語はどうだってんだー!?
叫《さけ》びを呑《の》みこみ、勝利は膝《ひざ》の上で拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。我慢《がまん》だ渋谷勝利、ここは我慢だ。通知票に「気が短い」と書かれていたのは、自分ではなく弟だったはずだ。
「正確にはボブがデ・ニーロに似てるんじゃなくて、あっちがボブに似てるのよね。だってあたしの待ってる相手は、ずっと昔、祖母の祖母くらいの代から、今と同じサングラスと髪型《かみがた》なんだもの」
「……祖母の祖母の時代から今と同じ……」
「そうよー、変人でしょ? もう殆《ほとん》ど化け物よね。本人は冗談《じょうだん》めかして魔王《まおう》だなんて言ってるけどね」
勝利は拳でテーブルを叩《たた》いた。コーヒーのカップが耳障《みみざわ》りな音をたてる。
「名前は!?」
和服のボストン人はきょとんとした顔をして、また珍妙《ちんみょう》な日本語に戻《もど》った。
「名前、オー、ワターシの名前はアビゲイル・グレイブスでーす」
「あんたの名前じゃねえよ、ボブのフルネームの話」
地球の魔王陛下のファーストネームは、滅多《めった》に口にされることがない。