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今日からマ王14-5
日期:2018-04-30 21:21  点击:378
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 魚人|姫《ひめ》と魚人|殿《どの》に運ばれたおれたちは、日暮れ前に聖砂国の港に着いた。
 出島なんて教科書と時代劇でしか見たことがないので、他《ほか》と比べるのも無理な話だが、少なくとも頭の中でイメージしていた光景とは違《ちが》い、随分《ずいぶん》落ち着いた雰囲気《ふんいき》だった。
 物売りの声も、通りを走り回る子供達の姿もない。べージュの煉瓦《れんが》を使った二階建ての建物は、道に沿って整然と並んでいるのだが、開いている店はほんの数|軒《けん》で、港町らしい活気を感じなかった。
 ただし、人が少ないわけでは決してなく、大人を中心とした行き交《か》う人々は、健康そうで愛想も良かった。検疫所《けんえきじょ》のある場所まで歩く異国人に微笑《ほほえ》みかけ、何人かは短い言葉もかけてきた。恐らく彼等の国の挨拶《あいさつ》だろう。
 これまで会った神族の人々と同じく、白に近い淡《あわ》い色の金髪《きんぱつ》で、瞳《ひとみ》も綺麗《きれい》な黄金だった。髪《かみ》や瞳の色の濃《こ》い人間を滅多《めった》に見ないらしく、皆《みな》一様に驚《おどろ》きはしたが、その反応も特に不愉快《ふゆかい》なものではなかった。
「よかった、珍獣《ちんじゅう》扱《あつか》いだったらどうしようと思ったよ」
「どうでしょう。出島の住民は異国人との接触《せっしょく》に慣れてますからね。教育も行き届いてるはずだ。奥に行けば行くほど純粋《じゅんすい》ってこともあります」
 胸を撫《な》で下ろすおれに首を向けて、ヨザックは割烹着《かっぽうぎ》の袖《そで》を捲《まく》り上げた。
「表《おもて》の入口だけじゃどんな国かは判《わか》らない。玄関《げんかん》と勝手口、両方見ないとね」
「なるほど、賢《かしこ》いなあヨザックは」
「おほ、嬉《うれ》しいこと言ってくれますね。頭を褒《ほ》められたの生まれて初めて。けど残念ながら頭じゃなくて経験ですよ。いやー、実に多くの土地に行かせてもらいましたからねえ。それもぜーんぶお上の金で」
「国費で留学? 森《もり》鴎外《おうがい》みたいだな」
 これだからやめられないという顔をされた。また馬鹿《ばか》なことを言ってしまったようだ。
 おれたちを迎《むか》え入れた検疫所の人々は、そちらこちらで相談しながら、担当する客の着替《きが》えやら洗面やらを手伝っている。職員は日本ならアルバイト扱《あつか》いの年頃《としごろ》の女の子ばかりで、服装も髪型もお揃《そろ》いのせいか、どの少女も殆《ほとん》ど同じように見えた。
 しばらくじっと観察していると、中でもそれぞれ似た顔の子供が二人ずついるのに気付く。
 そこでやっと思い出した。神族の子供達は双子《ふたご》率がとても高いのだ。ジェイソンとフレディも信じられないくらいそっくりな一卵性|双生児《そうせいじ》だったし、ゼタとズーシャも姉弟にしては似過ぎていた。船内で会った少女と舵《かじ》取り名人の兄弟姉妹は確認《かくにん》していないが、船倉の人々に混ざっていたという可能性もある。
 そういえばジェイソンとフレディは何処《どこ》で働かされているのだろう。この少女達の中に紛《まぎ》れてはいないかと、おれは周囲を見回した。少し離《はな》れた所でサラレギーが文句を言っていた。若いとはいえ王様なのだから、一般《いっぱん》入国者よろしく検疫を受けるのは屈辱《くつじょく》的だと感じているのだろう。何の抵抗《ていこう》もなかったおれの態度にも問題があるのかもしれない。ウェラー卿《きょう》が苦い顔で宥《なだ》めている。お世話係は大変だ。思わず苦笑いしそうになって、舌が上顎《うわあご》に貼《は》り付くほど口の中が渇《かわ》ききっているのに気付いた。
 喉《のど》だけじゃない。
「あーなんかおれ腹が減りすぎて気持ち悪くなってきた……」
「大変、吐《は》きそうですか? お食事中の皆《みな》様にグリ江から謝っとく?」
「吐くったって胃液くらいしか出ない。多分|大丈夫《だいじょうぶ》。この後いきなりフランス料理のフルコース食べたりさえしなければ」
 一組の姉妹が白くて新しい布を抱《かか》えて、おれの前に来た。右側の子が微笑みながら温かいタオルを差し出す。
「こまんたれぶ?」
 ふ、フランス語できたか! おれが返事に困っているうちに、蒸《む》しタオルで顔をごしごしと拭《ふ》かれる。あまり遠慮《えんりょ》がない。
「あざぶじゅばーん」
「それは大《おお》江戸《えど》線の……むー……」
「ほったいもいじるーなー?」
 時間、時間を訊《き》かれてるのか!?
 そんなはずはない。昔読んだ親父《おやじ》の英会話本を思い出しながら、試《ため》しに「斉藤寝具店《サイトシーイング》」と言ってみたら、おれの担当だった女の子は、顔を真っ赤にして逃《に》げてしまった。オヤジギャグが苦手だったらしい。
 さっぱり解《わか》らない質問の数々に、お庭番は余裕《よゆう》のヨザちゃんで対応している。掌《てのひら》を上に向けてにっこりしてみたり、いーからいーからと追い払《はら》う素振《そぶ》りを見せたりと楽しげだ。
「凄《すご》いなヨザック、意味が判るのか?」
「まっさかー。ただ心の赴《おもむ》くままに変な動きをしてみせてるだけですよ。こうやってちぐはぐな対応してりゃ、向こうさんも困って通訳を連れてくるでしょ」
「いい作戦だ! おれも妙《みょう》な動きしてみよう」
 舌を出してみせたら三人泣いてしまった。年季の入り方が違うらしい。
「ほら坊《ぼっ》ちゃん、グリ江は少女の心を持った大人だから」
 予言どおり泡《あわ》を食った通訳が駆《か》けつけたが、お陰《かげ》でその先ずっとおれたち二人の世話を焼くのは、薄《うす》く髭《ひげ》の生えた中年男性ばかりになり、女の子は近付かなくなってしまった。要注意人物に認定されてしまったのだ。
 男の一人の名札には「通詞・アチラ」と書かれていた。三文字目は左右逆転の間違い文字だ。眼鏡《めがね》の分厚いレンズ越《ご》しだと、金色の眼球が恐《おそ》ろしく巨大《きょだい》に見える。神族といえども近眼にはなるらしい。頬《ほお》と顎《あご》を覆《おお》う柔《やわ》らかそうな髭は、失礼ながら白カビみたいだった。
 おれたちはその男に連れられて、出島から先、聖砂国の奥へと進んだ。
「うまに?」
「は?」
 旨煮《うまに》がどうした、と訊き返しそうになる。動詞を略す話法なのだと判るまでに、随分時間がかかってしまった。馬に乗れるかという質問だ。交通手段はお任せするけれど、そんなことよりも果たしておれたちがどういった集団なのかを理解してくれているのかが不安だった。
 港街の出口では、誰《だれ》かが手を振《ふ》ってくれていた。余所《よそ》の国の王様御一行に、普通《ふつう》は気軽に手を振ったりしないのではないか。国交がないとはいえ小シマロンは大国だ。庶民《しょみん》に畏《かしこ》まられなくて、サラレギーは機嫌《きげん》を損《そこ》ねそうだ。
 聖砂国は名前のイメージとは異なり、砂ばかりという土地ではなかった。
 山間部には緑もあれば、馬車道の脇《わき》には赤い土もある。見渡《みわた》す限りの白い砂漠《さばく》で、駱駝《らくだ》での過酷《かこく》な旅を続けた後に、椰子《やし》の木が一本だけ生えたオアシスに辿《たど》り着く……そんなサハラ砂漠みたいな場所を想像していたのだが、おれの予想は大きく裏切られた。
 ただし気温は日本の真冬並みで、襟《えり》を立てても避《さ》けきれないほど吹《ふ》きつける風は、完全に乾燥《かんそう》し切っていた。
 気候のせいか平地には緑が少なく、馬車の窓から眺《なが》めていても、畑と呼べる場所はたまにしかなかった。農耕には向いていない国なのかもしれない。
 だが予想を大きく裏切ってくれたのは、移動中の風景だけではない。夜更《よふ》けにやっと着いた最初の大きな街でも、その豊かさに驚かされた。
 建築物は全《すべ》て規格が統一されており、一軒《いっけん》として目立つ造りの家はなかった。時間が時間だから商店は閉まっていたが、家々の窓には明かりが灯り、舗装《ほそう》された道の両脇《りょうわき》には、各家庭ごとに鉄の門があった。アチラの誇《ほこ》らしげな説明(しかし動詞は略されている)によると、上下水道や暖炉《だんろ》も完備されているという。
 何より驚かされたのは、街の周囲に城壁《じょうへき》が存在しないことだった。
 血盟城の城下には、街の外れに高い塀《へい》が設置されている。夜盗《やとう》や敵兵を防ぐためだ。聖砂国の都市にはそれがない。
「凄いな、よっぽど治安がいいんだな」
「そうですかねぇ」
 今夜の宿へと案内されながら、ヨザックは低く呟《つぶや》いた。彼は却《かえ》って出島よりも緊張感《きんちょうかん》を強くしている。
「まあ、あの海が天然の防護壁なんでしょうけど。それにしてもねェ……」
「なんだよヨザック、その含《ふく》みのある口調は。何か気になることがあるんなら、おれにも教えておいてくれよ」
「今のところは大丈夫。この国の王様だって自分の前に連れてくるまでは、オレたちを無傷のままにしておきたいでしょうからね」
 気になる物言いだ。そして長いこと潜入《せんにゅう》工作員をやってきた彼の勘《かん》は、馬鹿《ばか》にできない。
 
 聖砂国でのトップと会談するまでには、三日三晩を要した。
 昼は外地を走るけれど、夜は五つ星クラスのホテルに宿泊《しゅくはく》という旅だったから、贅沢《ぜいたく》に慣れた温室育ちのサラレギーからも、特に文句はでなかった。一方おれのほうはというと、上陸して二日目から、疲労《ひろう》にもかかわらずまともには眠《ねむ》れなくなってきていた。
 傍目《はため》にも落ち着きがなくなっていたらしい。ヨザックばかりではなくサラレギーにまで、どこか具合が悪いのか訊かれたくらいだ。
「神経性だと思うんだ。胃が痛いというか……何だ、食い過ぎて胸焼けしてんのかな」
「風邪《かぜ》じゃないですか? 海で無茶しましたからねえ」
 それに時々感じる頭痛と悪寒《おかん》、口にしてしまえば明らかに風邪の初期|症状《しょうじょう》だ。
「薬を貰《もら》ったらいいよユーリ。あの通詞に言って。神族の薬だからって、魔族《まぞく》にも効かないわけではないと思うよ」
「そんなもん頼《たの》んで激苦なお茶なんか出されたら困るよ。平気だって、毛布をもう一枚貰うから。……ごめんな、サラ、きみにまで心配させて」
 勿論《もちろん》、効果がないと思ったわけではない。薬と聞いた途端《とたん》にギュンターの教えが脳裏《のうり》に浮《う》かんだのだ。知らない人から食べ物を貰っちゃいけません、というやつだ。食事はきちんと摂《と》っているが、他《ほか》の誰も食べていないような、特別な物は絶対に口にしない。最低限の注意はしているつもりだ。
 それにおれ自身はこの不調は風邪ではなく、ストレスのせいだと判断していた。小シマロンでも緊張《きんちょう》する展開の連続だったし、航海中は友人もいなかった。ヨザックは心強い味方で信頼《しんらい》のおける護衛だが、ヴォルフラムとは気安さの種類が違う。罵《ののし》り合ったり慰《なぐさ》め合ったりはできない。
 上陸して幾《いく》らか心配事は減ったが、すぐに新たな不安が頭を擡《もた》げてきた。じきに訪《おとず》れるであろう頭首会談へのプレッシャーだ。
 おれはこれから、交流したこともない未知の国の君主と、互《たが》いの国の威信《いしん》をかけた話し合いに挑《いど》むのだ。相手に恥《はじ》をかかせてもいけないし、眞魔国の面子《メンツ》も保たなければならない。しかも一対一ではなく、小シマロン王も同席するだろう。指導者になるべく育てられた二人を相手にして、何ら秀《ひい》でるところのない普通の高校生が渡《わた》り合えるものなのか。
 何しろおれはほんの半年前までは、どこにでもいる単なる野球|小僧《こぞう》だったのだ。外交手段なんかさっぱり知らないし、交渉《こうしょう》術とやらも弁《わきま》えていない。将来は都知事と豪語《ごうご》している兄貴に、いっそ代わってほしいくらいだ。
 頼みの綱《つな》のギュンターとも離《はな》れてしまったし、こういうときに力になってくれそうな村田もいない。相談できそうな相手は誰《だれ》一人《ひとり》いなかった。
 そりゃあストレスもたまるさ。
「プレッシャーで死にそうだよ」
 絶対に聞こえないように呟いて、おれは馬車の床《ゆか》を蹴《け》った。運命の一戦の前夜なら、こんな気分になるのかもしれない。けれど補欠人生を歩いてきたおれは、大試合をほとんど体験していない。ここにきて経験値の差が。
「ご覧よユーリ! 首都が見えてきた。ああ興奮するね、どんな都市になったのだろう。こちらの陛下はお元気だろうか。先代はご健勝かな」
 プレッシャーになど縁《えん》のなさそうなサラレギーが、窓から身を乗り出して喜びの声をあげた。
 これまで黙《だま》り込んでいたウェラー卿《きょう》が、抑揚《よくよう》を欠いた口調で窘《たしな》める。
「あまり考えすぎるのはよくないですよ、陛下」
「でも楽しみだ。胸が躍《おど》るよ」
 まるで以前に会ったような口振《くちぶ》りだ。そういえば彼は航海中も、あの難所を越《こ》えるのは二度目だと言っていた。
「サラ、きみは……」
 舗装状態が良好になり馬車がスピードを上げたせいで、おれの疑問は車輪の音に呑《の》み込まれてしまった。やめておこう、今更《いまさら》サラレギーの過去を知ってどうなる。必要な知識を学ぼうとしなかった後悔《こうかい》と、劣等《れっとう》感に苛《さいな》まれるだけだ。
 
 聖砂国の首都・イェルシウラドは、沈《しず》む夕陽《ゆうひ》に照らされて、悠然《ゆうぜん》と存在していた。
 そのあまりに巨大《きょだい》な姿を前にして、おれたちは様々な面で度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれた。
 大都市ってのはこういう所をいうのだ。大国というのは、こういう国を……。
「すげ……」
 元々は白かそれに近い淡《あわ》い色合いなのだろう。整然と並んだ路《みち》も壁《かべ》も、夕陽の緋《ひ》一色に染まっている。城は都市の中央に位置し、塔《とう》の先端《せんたん》を見るために首を傾《かたむ》けると、その高さに言葉もでなくなってしまった。
 城から城下へは各方角ごとに通路が走り、全ての建築物は正確な同心円状に配されている。平城京が碁盤《ごばん》の目ならば、この街は。
「なんていうか……バウムクーヘンみたいだね」
 どうしてこう、おれは想像力が貧困なんだろう。
 中央の尖塔《せんとう》から城下へと視線を下げてゆくと、荘厳《そうごん》な音楽が序章から響《ひび》いて、段々と大きくなる感じだ。
「泣く人も」
 通詞のアチラが省略話法で言った。初めて見た人の中には、感動のあまり涙《なみだ》する者もいると言いたいのだろう。そんなに略すなよ。
 あんなにはしゃいでいたのが嘘《うそ》みたいに、サラレギーの口数は少なくなった。彼なりに緊張しているのだろうか。
 おれはいよいよ胃とこめかみが痛くなり、背中や首筋に嫌《いや》な汗《あせ》を感じた。悟《さと》られないように額をそっと拭《ぬぐ》う。過度のストレスで呼吸まで苦しくなりそうだ。もう痛いのが胃だかどこだか判《わか》らなくなり、右手でぎゅっと胸を掴《つか》んだ。
 借り物の服の下には、鼓動《こどう》を速めた自分の心臓だけがあった。
「ユーリ?」
「あ、ああ、なに」
 城の入口には、細かい彫刻《ちょうこく》を施《ほどこ》した四本の高い柱があった。滑《なめ》らかな表面に掌《てのひら》を当てると、冷たさが指を刺《さ》して肘《ひじ》まで伝わった。壁と床に使われている模様の入った石は、光る程《ほど》に磨《みが》き上げられている。薄緑《うすみどり》の斑が綺麗《きれい》だった。
 これまでいくつかの屋敷《やしき》や城を見てきたが、この宮殿《きゅうでん》と比べると、豪華《ごうか》さではどれも見劣《みおと》りがした。寧《むし》ろおれたちの居た血盟城などは、無骨な砦《とりで》に思えてくる。
 その宮殿の、使用人らしき多くの人々が頭《こうべ》を垂れる前で、サラレギーはおれに言った。
「こんなところで顔色を悪くしていないで」
 そして綺麗な顔を歪《ゆが》めて笑った。
 彼の白い頬《ほお》も、色の薄《うす》い眼鏡《めがね》の硝子《ガラス》も、華奢《きゃしゃ》な手足もオレンジ色の逆光で染まっていた。まるで返り血を浴びたみたいに。
 風邪でもなく、過度のストレスでもなく、おれは理由も判らずふらついて、低い階段を一歩|踏《ふ》み外した。落ちる前にしっかりと肘を支えられる。
「……陛下」
 そんなはずはない。そんなはずは。
 喉《のど》に重い塊《かたまり》が詰まったようで、酸素がうまく気道を通過しない。
 彼は友好的だった。これまでずっと。恐《おそ》らくこれからもずっと。
 おれは何を猜疑心《さいぎしん》に囚《とら》われているのだろう。誰《だれ》かを疑いだしたらぎりがないじゃないか。信じるよりも疑うほうがずっと楽だ。
「陛下」
「……どの陛下だ?」
 反射的に問い返している。ウェラー卿の声だったので。
「あなたです」
 言い返そうとするおれを制して、コンラッドは二段上から言葉を続けた。薄茶《うすちゃ》の瞳《ひとみ》も逆光で見えない。夕陽《ゆうひ》を呪《のろ》った。
「引き返しますか」
 肘を掴んだヨザックの手に、きゅっと少しだけ力が籠《こ》もった。サラレギーはもう階段を登り切っていて、遅《おく》れをとったこちらを振《ふ》り返ろうとしている。
「ご気分が優《すぐ》れないようならば、今夜は休んで明日にしますか」
「まさか」
 彼等の心配を振り切るように、おれは石段を二つ抜かして駆《か》け上がった。ここまで来て戻《もど》れるもんか。
 どんな立派な相手が出てくるか、予想もつかない。それ以前に、敵なのか味方なのかも不明だ。しかもつい今しがたサラレギーに感じた猜疑心も、おれの中では治まっていなかった。だが彼だってまだ十七歳だ、生きてきた年数はそう変わらない。学んできたものが違《ちが》ったとしても、こなしたラウンドの数は同じはずだ。彼に可能なことならば、おれにだって不可能なはずはない。
 入ってきやがれ、バッタボックスに。バッタ箱じゃなかった、バッターボックスだ。あらゆる策を弄《ろう》して打ち取ってやる……三振《さんしん》と言えないところが弱腰《よわごし》だが。
 気分を上向けようと、残る数段はスキップで昇《のぼ》り切った。滑《すべ》って転ぼうとも構うものか。
 天辺《てっぺん》から振り返って見下ろすと、街は実に美しかった。完璧《かんぺき》に磨き上げられていて、規格から外れる物は何一つない。道行く人々の服装もデザインはほぼ同型で、色も二、三種類のバリエーションしかなかった。この国なら、私服は毎日ジャージ族も大手を振って過ごせそうだ。
 おれが城内に視線を戻そうとした時だ。
 小学校低学年くらいの男の子が、警備の手をかい潜《くぐ》って転がり出た。薄い灰色の服は丈《たけ》が短く、裸《はだか》の肘も膝《ひざ》も血の気が引いている。子供はすっと腰を屈《かが》め、手にした石で自分の足の周りに大きな六角形を描《えが》いた。数人の兵士が止める間もなく、対角線を結んでゆく。
 あの模様なら知っている。おれは思わず服の上から左腕《ひだりうで》を押さえた。指の下で治りかけた引かっ掻き傷が疼《うず》く。神族の少女が別れ際《ぎわ》に、短い爪《つめ》で残した印だ。ベネラという謎《なぞ》の単語と共に。
 その間中ずっと、子供は歌を唄《うた》っていた。少し調子外れな音程で、歌詞の解らない曲を続けている。何処《どこ》かで耳にした曲だった。覚えのある旋律《せんりつ》だ。
「聞いたことが、あるような」
「俺も知ってます」
「あ、じゃあ眞魔国の童謡《どうよう》か何かか……」
「オレは初めてですけどね」
 魔族《まぞく》二人の意見が食い違う。取り押さえられてもなお、少年は声を張り上げて歌い続けた。
 それにしても兵士の扱《あつか》いはあまりにも酷《ひど》い。落書きをしただけの相手に対して、三人|掛《が》かりで地面に押さえ付けている。
「おい……!」
「子供は駄目《だめ》だよ!」
 おれより先にサラレギーが駆け寄り、少年に優《やさ》しい手を差し出した。だが彼の垢《あか》染《じ》みた服や埃《ほこり》まみれの髪《かみ》を見て、手入れの行き届いた綺麗な指はすぐに引っ込められてしまう。
「なんだ、役に立たない子か」
「サラ?」
「いいんだユーリ、奴隷《どれい》の子だった」
「奴隷って……何言ってんだよサラレギー! あんな小さな子供に暴力を振るってんだぞ!? よくねーよ、兵隊による暴行だろ!? お前等やめろッ、その子から離《はな》れ……」
 警備の一人を突《つ》き飛ばそうとした時に、見物人の輪の背後から悲鳴が上がった。恐怖《きょうふ》よりは嫌悪《けんお》に近い声だ。誰かを罵《ののし》る怒声《どせい》が続く。漂《ただよ》ってきた腐臭《ふしゅう》のせいで、理由はすぐに判明した。
 人垣《ひとがき》が左右に分かれると、中央には桶《おけ》を括《くく》り付けた引き車が横転していた。蓋《ふた》が開き、茶色い液体が道路に溢《あふ》れ出している。この特徴《とくちょう》ある臭《にお》いは、あれだ、液状|堆肥《たいひ》というか、むのうやぐのうぼうなんがでづがう、糞《ぶん》がらづぐっだ肥《ごえ》、だろう。
 鼻呼吸不可能。
 女性達の悲鳴で、警備の兵士が慌《あわ》ててそちらに向かった。おれさま翻訳《ほんやく》では「どうしてこんな所に肥車が!?」だ。横倒《よこだお》しになった車の脇《わき》では、薄汚《うすよご》れたマントを頭から被《かぶ》った小柄《こがら》な人が膝をついている。住民と兵士に罵られて上げた顔は、気弱そうな老婆《ろうば》のものだった。額に掛《か》かる髪は金を過ぎて白くなっていた。かなりの高齢《こうれい》なのか、額や喉にも皺《しわ》が目立つ。
 彼女は冷たい石畳《いしだたみ》に両手をついたまま、ほんの一瞬《いっしゅん》だけこちらを見た。もしかしたらおれたちを見たというよりも、偶然《ぐうぜん》視線が向いただけかもしれない。
 だが、その僅《わず》かコンマ数秒で、隣《となり》にいたコンラッドは息を呑《の》んだ。思わず呼びかけた名前を抑《おさ》え、拳《こぶし》をぎゅっと握《にぎ》り締《し》めたのが判る。誰の耳にも届かない小さな声で、呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。
「そんなはずは……」
「コンラッド?」
 知り合いかと訊《き》きかけたが、サラレギーが吐《は》き捨てるように口にした言葉で、おれの疑問は掻き消されてしまった。
「汚《きたな》らしい年寄り!」
 ふと気付くと少年は、臭いと老婆に気を取られた兵士の隙《すき》をついて逃《に》げていた。残されたのは地面に描かれたマークだけだ。
 おれの腕《うで》にあるのと同じ六角形の印は、簡略化されたダイヤモンドにも似ている。

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