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彼等の違いは髪の長さと服だけだった。
同じ物を着られてしまえば、きっと区別がつかないだろう。並んで座る兄弟を見ておれはそう思った。あとはどちらかといえば弟のイェルシーのほうが、より人形めいてはいるが、そんなのは誤差の範囲《はんい》内だ。彼だってきっと玉座を降りれば、喜怒哀楽《きどあいらく》も見せるに違いない。
「わたしはこの国で生まれたんだよ」
十三年ぶりに会ったという兄弟の手を握《にぎ》りながら、サラレギーは微笑《ほほえ》みかけた。イェルシーは黙《だま》って見詰《みつ》めただけだったが、当人達には充分《じゅうぶん》意思の疎通《そつう》がとれているようだ。
「小シマロンの軍隊を率いていた父は、この近海で瀕死《ひんし》の重傷を負った。それで傷を治すために滞在《たいざい》したこの国で、父と母は恋に落ちたんだ」
自分の両親の恋愛《れんあい》を語るときだけ、サラレギーが少し気恥《きは》ずかしそうな顔をした。彼にもそんな感情があったのかと、今更《いまさら》ながらにおれは驚《おどろ》いた。
「その間、小シマロンは叔父《おじ》が治めていた。けれどわたしたちが四歳になった時に、兄であるわたしには法力が殆《ほとん》どないと判《わか》ってね。この国を離《はな》れなければならなくなったんだ。あなたは知らないだろうけれど、神族の子供は強大な法力を持って生まれることが多い。殆どの場合、ごく幼い頃《ころ》に何らかの兆候が現れる。信じられないだろうけれど……」
サラレギーは肩《かた》を竦《すく》めて笑った。広いテーブルの向かいに座ったおれたちは、ただ話の続きを待っている。
「眠《ねむ》っている最中《さいちゅう》に、寝台《しんだい》ごと浮《う》かんでいたりする。力のある子供はね」
「ホラー映画みたいだな」
「魔族の子供もそんな体験があるかもしれないね。ユーリ、あなたはどう?」
両脇《りょうわき》に居る魔力|皆無《かいむ》の二人は、さっぱりぽんという態度だ。そんな面白《おもしろ》現象を起こしそうなのは、アニシナさんくらいしか想像できない。もっともツェリ様クラスになれば、朝になったら何故《なぜ》か隣《となり》に格好いい男が寝《ね》ていたという、恋のミラクル魔動体験もありそうだが。
「けど、法力がなかったからって聖砂国を出て行くことはないじゃないか。あれば便利なパワーかもしれないけど、なくたって生活に支障があるわけじゃなし」
「この国ではね」
前に置かれたグラスを手にとって、サラレギーは喉《のど》を潤《うるお》した。葡萄《ぶどう》色の飲み物が透《す》けて見えるのではないかというほど、首の皮膚《ひふ》は白かった。お袋《ふくろ》にいわせると、朝食った|味噌《みそ》汁《しる》の具のワカメが……使われすぎた喩《たと》えだ。
ほぼ同じタイミングで、イェルシーもグラスの中身を飲み干す。双子《ふたご》は凄《すご》い。法力なんかなくたって、もっと別の神秘の力を持って生まれている気がする。
なみなみと注《そそ》がれている液体が何なのかは知らない。皇帝《こうてい》が好む上等なワインかもしれないが、おれは口にしていない。
「この国ではね、法術を使えない者は神族にあらざるとされるんだ。わたしたちの祖先の最初の一人は、神の血を授《さず》かって生まれた。だから神々のお使いになる法術を操《あやつ》れぬ者は、正しき神族ではないと蔑《さげす》まれるんだ」
どこか他人事のようにサラレギーは淡《たんたん》々と続けた。
「どんなに身分の高い家の者でも例外はない。この国で法力を持たないのは奴隷《どれい》だけだ。逆に奴隷から生まれた赤子であっても、強い力を持っていれば準市民として扱《あつか》われ、国に尽くせば正規の軍隊や役人にも登用される。そこに立っている通訳だって」
いきなり指差されて、通詞は跳《は》ね上がりそうになった。白黴《しろかび》状の髭《ひげ》が逆立っている。
「異国の言葉を翻訳《ほんやく》する力を持って生まれてきたんだよ」
「え!? それって単なる語学に強い人なのでは……」
なんだかアニシナさんに近いものを感じる。
「けれど幼児の頃のわたしには、殆ど法力がなかった。母はその事実を知った途端《とたん》、わたしの存在を無いものとしたんだ。厳しい女性だからね、あのままこの国にいたらわたしはきっと、奴隷達の暮らす集団に追いやられていただろう。そうだ、母上はお元気?」
ぎゅっと指を握《にぎ》って問いかけられ、イェルシーは小さく首を振《ふ》った。唇《くちびる》が動いているのは見えるが、声はここまで届かない。
「そう、お加減があまり……。わたしが来たと告げてももうお判りにならないだろうね。あの人の中には、もう一人の息子《むすこ》は存在しないのだし」
「実の親子なのに!?」
そんな薄情《はくじょう》な話があるものか。思わず訊き返したおれに、サラレギーは平然と答えた。
「そうだよ」
あってもなくてもいいような超《ちょう》能力を持たないだけで、自分の子供じゃないとまで言われてしまうなんて。なんとも理不尽《りふじん》な社会だ。確かにおれも「ママの息子なんだからモテないはずがない」とは嘆《なげ》かれるが、ニュアンスが違《ちが》う、ニュアンスが。
「けどな、サラレギー。きみが聖砂国の生まれだなんて、おれに一言も教えてくれなかっただろ。それどころじゃない、小シマロンでした話し合いでは、国も、自分自身も、聖砂国と接触《せっしょく》するのは初めてだと言わんばかりだったじゃないか」
彼は長い旅の間ずっと、おれに嘘《うそ》をついていたことになる。
「嘘ではないよユーリ。幼い頃のことだから、わたし自身は覚えていないんだ」
「だからって、十三年間一度も連絡《れんらく》取らないはずはないだろう。双子の兄弟がさ、一方は父親の国の王子様で、一方は母親の国の王子様だぞ? 国交が無かったのは本当だとしても、白鳩《しろはと》の一羽くらい飛ばすだろう」
「飛ばしたよ。わたしが即位《そくい》してからだけど」
「じゃあその間、聖砂国は本当にずっと鎖国《さこく》状態だったわけか? あのなあサラ、そうやって嘘ばっかついてると、ハイエナ少年になっちまうぞ」
ウェラー卿《きょう》が脇腹《わきばら》をそっと小突《こづ》いて囁《ささや》いた。
「オオカミ」
「あれ、そうだっけ? ハイエナじゃなかったっけ」
「ハイエナさんは好きよん、でもゾウさんはもっと好きよぉん」
「そうだ、ゾウだった。嘘ばっかついてっと鼻が伸《の》びるからな! 伸びてから後悔《こうかい》しても遅《おそ》いぞ?」
両隣《りょうどなり》の二人ががっくりと顔を掌《てのひら》で覆《おお》った。
「……それはまた別の話です」
「仲がいいねえ」
トリオ漫才《まんざい》気味のおれたちを、サラレギーは薄《うす》く笑っている。それにしても彼|等《ら》は外見と中身のギャップがある兄弟だ。明け透けで積極的な兄に対して、弟はとても内向的に見える。イェルシーの大人しさときたら、おれの十六年間の「皇帝観」が、音を立てて崩《くず》れてしまった程《ほど》だ。その物静かな弟が、唐突《とうとつ》に口を開いた。
「……ほんとう……」
「え、きみ、言葉が」
驚いた。イェルシーには例の翻訳法術が使えるのだ。異文化について勉強しただけのような気もするが。彼は顎《あご》を上げておれたちを正面から見た。黄金の瞳《ひとみ》がすっと色を濃《こ》くする。
「手紙、なかった。二年前まで。鎖国、今も」
「言ったとおり、母は厳しい人だ。愛した相手が恋《こい》しくても、個人の感情のために国同士の行き来を望んだりしない」
うちの前女王とは正反対のタイプだ。きっと話が合わないだろうな。
おれは前に置かれた足つきのグラスにそっと触《ふ》れた。表面が水滴《すいてき》で濡《ぬ》れている。外はあんなに寒いのに、宮殿《きゅうでん》の中は贅沢《ぜいたく》な暖かさだ。
「おれには解らないよ、サラレギー……っと、弟さんは皇帝陛下と呼ぶべきなのかな」
「どう呼んでも気分を悪くはしないと思うよ。共通語の全《すべ》てを理解するわけではないから」
そう言われても、親しくなっていない相手を、いきなり呼び捨てにするのは難しい。
「とりあえず同年代だから君《くん》を付けておこうかな。でな、おれにはどうしても解らないんだよ、イェルシー君。聖砂国はどうして鎖国を続けてるんだろう? 違う国の人間同士なのに、ご両親は結婚《けっこん》したんだろ? 絶好の機会だったんじゃないか?」
弟の答えを聞いてから、サラレギーが言い直した。
「得《う》る必要も、与《あた》える必要もなかったからだそうだよ。この国はこの国だけで充分《じゅうぶん》だった。満ち足りていたんだ」
「……でも、変わる」
兄の言葉を追うようにイェルシーは答えた。ほんの数語の短い台詞《せりふ》なのに、強い決意が窺《うかが》える。
「もう母の時代ではない」
「そうだよイェルシー、これからはわたしたちの時代なんだ」
双子の兄弟は軽く肩を抱《だ》き合った。
「わたしと、お前の時代だよ。父上にも母上にももう手出しはさせない。小シマロンと聖砂国の時代が来るんだ。今はまだ大シマロンの陰《かげ》にいるけれど、わたしとお前が力を合わせれば、そのときはすぐに訪《おとず》れる」
弟は兄の言うままに頷《うなず》いている。
まるで戯《たわむ》れるクローンを見ているようで、おれは奇妙《きみょう》な感覚に囚《とら》われた。彼等は本当に二人なのだろうか。サラレギーの前には巨大《きょだい》な鏡があるばかりで、二人のうち片方は厚みも温《ぬく》もりも持たない虚像《きょぞう》であり、残るのはどちらか一人だけなのではないか。
「見て」
ついと立ち上がった弟は、兄の手を引いて部屋を横切った。大きな窓を開け放ち、庭を見下ろすバルコニーに出る。つられて覗《のぞ》いたおれたちの目にも、広場に押し掛《か》けた武装集団が飛び込んできた。
重装備の兵士達だ。千や二千では済まない。列は広い中庭を越《こ》え、門の向こうまで続いていた。銀の鎧《よろい》と抜《ぬ》き身の刃《やいば》が、沈《しず》みかけた太陽に照らされて真っ赤に輝《かがや》いている。血の色に似ていた。
一同は姿を現した皇帝陛下に沸《わ》き返り、剣《けん》、槍《やり》、盾《たて》などあらゆる金属を打ち付けて、彼等の主君を褒《ほ》め称《たた》える言葉を叫《さけ》んだ。
イェルシー、デ、ユビノマタ!
イェルシー、デ、ユビノマタ!
地鳴りと熱気に気圧《けお》されてふらつく。
「ご、ごめん。おれ、指の股《また》としか聞こえねーや」
そんなコールでは感動も薄れがちだろう。
「未知の言語ってそういうものですよ」
外国慣れしたヨザックに背中を叩《たた》かれた。
「指の股程度で良かったじゃないですか、坊《ぼっ》ちゃん」
「そうだよな、普通《ふつう》に人前《ひとまえ》で喋《しゃべ》れるもんな」
イェルシーは興奮に頬《ほお》を紅潮させ、夢中で群衆に手を振っている。その様子を誇《ほこ》らしげに見守りながら、サラレギーは首だけをこちらに向けた。
「大シマロンに報告する事実が増えたね、ウェラー卿」
名前を呼ばれた大シマロンの使者は、黙《だま》って次の言葉を待っている。
「ベラール二世に告げるといい。小シマロンは聖砂国と手を結び、膨大《ぼうだい》な戦力を得るに至ったと。告げられるものならね」
彼は皇帝《こうてい》の手首を掴《つか》み、強引《ごういん》に部屋の中へと連れ戻《もど》した。窓の外ではイェルシー・コールが続いている。当分終わる気配はない。
「そして小シマロンは眞魔国とも交渉《こうしょう》を持ち、魔族《まぞく》との間にも条約を締結《ていけつ》したと。伝えられるものならね! ユーリ」
「うわ。あ、はあ、はい」
ついつい雰囲気《ふんいき》に呑《の》まれてしまった。情けない返事になってしまう。
最初に会った時そのままの笑顔《えがお》で、サラレギーはテーブルに手をついた。白く細い指の下には、淡《あわ》い水色の紙がある。
「小シマロン王サラレギーとして、眞魔国第二十七代魔王陛下と講和条約を結びたい」
兄弟は身長まで等しく、並んで立つと同じ高さに顔があった。兄は唇に極上《ごくじょう》の笑みを浮《う》かべ、弟は真剣《しんけん》な面持《おもも》ちで、おれと卓上《たくじょう》の用紙とを交互《こうご》に見比べている。ああ、本当に二人存在するのだと、反対の態度をとってもらってやっと実感する。
細かい文字を読むためだろうか、室内なのにサラはいつもの眼鏡《めがね》を掛けた。薄い色の硝子《ガラス》に覆われて、瞳の色は判《わか》らなくなる。
「小シマロンは、魔族との関係悪化をよしとしない。互《たが》いの領土に干渉《かんしょう》しない限り、半永久的に平和を望んでいるんだ。この想《おも》いを受け取ってもらえるだろうか」
「それは……願ってもない事態だよ」
もしそれがサラレギーの真意なら、おれの目的にど真ん中ストライク状態だ。
真意なら。
「ではここに調印のための署名を」
サラレギーは細かい文字の書かれた書面を上から下まで辿《たど》り、最終的に一番下の空間で形良い爪《つめ》を止めた。
「では、わたしから」
存在さえ気付かなかった従者の一人が、恭《うやうや》しく筆記具を差し出した。供物でも捧《ささ》げ持つように、揃《そろ》えた両掌にペンが一本だけ載《の》っている。サラはそれを受け取り、人払《ひとばら》いを命じてから、テーブルにグラスを叩き付け、砕《くだ》けた硝子|片《へん》で躊躇《ためら》いもなく小指を切った。
膨《ふく》れあがる血の雫《しずく》に尖《とが》ったペン先を浸《ひた》し、淀《よど》みのない筆跡《ひっせき》で署名をする。そして名前の最後の一文字に被《かぶ》せて、指先の血を擦《なす》り付けた。暗い赤が掠《かす》れて残った。
「さあ、ユーリ」
「……ああ、少し待っ」
「早計です」
ウェラー卿《きょう》が口を挟《はさ》んだ。小シマロンの宗主国《そうしゅこく》である大シマロンとしては、勝手な講和は困るのだろう。
「サラレギー陛下、内容を確かめる時間も、熟考する期間も与えぬ調印の強要は、後々無効を申し立てられる原因にもなりましょう」
「必死だね、ウェラー卿」
小シマロンの国主は思わず失笑《しっしょう》し、ペンと書状をおれの方に押し遣《や》った。
「自分が止めればユーリは署名しないとでも思っているの?」
何事かを含《ふく》んだ物言いで、サラレギーはウェラー卿を制した。彼も船上での一件を見ていたのだ。おれはペンを握《にぎ》ろうとしたが、焦《あせ》っているのか二度も失敗した。
「いや違《ちが》うよ、誰《だれ》かに止められてやめるんじゃない。誰に止められようとするときはするし、納得《なっとく》しなかったら名前は書かない。けどちょっと、ちょっと待ってくれ、いま読むから。まず内容を確かめないとな。常識外れなこと書いてあったら困るだろ?」
これはスコアブックの一ぺージや、明日の試合のメンバー表などではない。一国の命運に関《かか》わる重要な文書だ。ゆっくり時間をかけて熟読しなくてはならない。何なら夜|中《じゅう》かけてもいい。
だが細かな文字を追い始めた視線は、すぐに止まってしまった。
「陛下?」
不審《ふしん》に思ったヨザックが覗き込む。
「参ったな……聖砂国の文字で書かれてるんだよ」
目の前に並んでいるのは見慣れない形の活字だった。我々の使う共通語の書体をアレンジしただけなら、単語を拾い読むこともできる。だがこの、羽ばたく鳥の連続写真をシンプルな線だけで表したような、ある種独特の書き文字は、翻訳《ほんやく》魔術を持たないおれにとって、解読するまでにかなりの時間を要するだろう。助けて、アニシナさん。
「読めるわけがない。どうして我々が普段《ふだん》用いる言語ではなく、この地だけに通じる言葉を使ったんだ?」
「両者の講和で利害関係の生じない聖砂国に、第三国として立ち会ってもらうためだよ。だからわたしが草案を練り、この国で書面にさせた。証人として聖砂国皇帝イェルシーが読めるように、この国の言語で記されている。あなたが通訳を連れてこないのは計算外だったが、あんな突発《とっぱつ》的な事態の後だ、仕方がないよね。もし良かったら、わたしが読み上げようか?」
「と、取り敢《あ》えず概要《がいよう》を頼《たの》むよ。その後で辞書借りて挑戦《ちょうせん》する」
おれは右手でこめかみを押さえた。早くも頭の痛みが強まっている。その様子に呆《あき》れたのか、サラレギーは小さく笑い声を漏《も》らした後に、文書の内容をまとめ始めた。
「大筋はこうなってる。小シマロンと眞魔国は常に対等な関係にあり、両者の間に立場の差はない……」
ガタン、と椅子《いす》の倒《たお》れる音がした。全員の視線が集中した先では、若き皇帝イェルシーが白い顔からいっそう血の気をなくして立ち尽《つ》くしている。
「うそ」
「イェルシー?」
握り締《し》めた拳《こぶし》と唇《くちびる》が震《ふる》えていた。
「……うそ……サラ、シマロンが魔族を……し、従わせる決まりだって……言った」
「イェルシー、それは違う!」
「だって」
「おい何の話だ、サラ」
弟は兄の制止を振《ふ》り切り、上半身を折って紙を奪《うば》おうと手を伸《の》ばした。腹部がぶつかった衝撃《しょうげき》でグラスが倒れ、中の液体がテーブルクロスに流れ出す。薄《うす》水色の紙の端《はし》を濡《ぬ》らし、急速に浸食《しんしょく》を開始した。
「だって、サラの国が一番になるのだって、そのための……あっ」
イェルシーの手が文書に届く前に、彼はバランスを崩《くず》して床《ゆか》に膝《ひざ》をついた。左頬を押さえ、信じられないという眼《め》で兄を見上げている。サラレギーが弟を叩《たた》いたのだ。彼はすぐに跪《ひざまず》き、震える肩《かた》に掌《てのひら》を載《の》せた。赤くなった頬に手を重ね、そっと撫《な》でてやる。
「お前が憎《にく》くて叩いたのではないよイェルシー。どうか兄を許しておくれ。わたしはお前の純粋《じゅんすい》さが怖《こわ》いんだ。そのせいでやっと会えた弟を失いそうで、恐《おそ》ろしいんだよ」
低い声で繰《く》り返し、自分よりずっと気持ちの真っ直《す》ぐな兄弟を宥《なだ》めている。弟は兄の言葉に納得したらしく、小さく何回も頷《うなず》いた。
「怒《おこ》ったり、しない」
「よかった」
両手も脇《わき》に垂らし、もう顔に当ててはいない。可哀想《かわいそう》に。痛みよりもショックが大きかったのだろう。
だがこれで、書面の内容がはっきりした。皇帝陛下には感謝しなければなるまい。
「サラ」
「わたしを憎まないで、イェルシー」
恋人《こいびと》同士の間に割り込むみたいに、ヨザックがわざとらしい咳払《せきばら》いをした。
「いっこ言っておこうかな」
あんまり内輪の兄弟|喧嘩《げんか》見せられても困るしと前置きしてから、お庭番は異文化についての講釈《こうしゃく》を少しした。
「あんたら、自分達が神族だったことに感謝しな。魔族《まぞく》だったら双子《ふたご》の兄弟で求婚《きゅうこん》っつー、どっかの神話みたいな泥沼《どろぬま》になっちゃうとこだぜ、って……あーあ、皮肉も通じねえ」
神族の兄弟達はこちらになどお構いなしだ。庇《かば》い合う仲睦《なかむつ》まじい二人を見下ろして、おれは意識して口調を厳しくした。
「サラレギー、この署名の上には何が書いてある?」
掴《つか》んだ紙は表面が滑《なめ》らかで、この世界の物にしては良質だった。条約の締結《ていけつ》に使うくらいだから、かなり上等な品のはずだ。だが右隅《みぎすみ》から真ん中にかけて薄紫《うすむらさき》の染《し》みができている。
「答えられないのか、サラレギー」
小シマロン王の署名が、滲《にじ》んで判別できなくなっていた。
「ユーリ、この子の言ったことは嘘《うそ》だ。イェルシーは外交に関して初心者だから、一案前の草稿《そうこう》で読んだ文章と、決定稿《けっていこう》とを勘違《かんちが》いしているんだ」
「ふざけるなよ」
「巫山戯《ふざけ》てなどいないよ、本当だ。この条約には……」
「本当のことなんか何一つないんだろ!?」
白い指がテーブルクロスをぎゅっと掴んだ。花弁みたいな美しい形だった唇が、感情的に歪《ゆが》んでいる。眇《すが》められた瞳《ひとみ》の色は、薄い硝子で隠《かく》されて見えない。おれはこの整った容姿と、同年代で大国の王として頑張《がんば》っている健気《けなげ》な様子に、すっかり騙《だま》されたってわけか。もっともそれも今から考えてみると、全《すべ》て芝居《しばい》だったのかもしれない。
裏切られたわけじゃない、騙されたんだ。
おれが馬鹿《ばか》だったから。
「どんな手段を使ったのかは知らないが、兄弟で示し合わせて自分達ばかりが優位に立てる条約を結ばせようとしたんだな。魔族の王が新前《しんまい》で愚《おろ》かだと知っていて。ああ、おれは確かに素人《しろうと》同然で賢《かしこ》くはないが、こんな簡単な策略に引っ掛《か》かるとまで舐《な》められてたかと思うと、情けなくて涙《なみだ》がでるね!」
背後で、恐らくヨザックが、剣《けん》の柄《つか》を鳴らす音がした。最初の威嚇《いかく》だ。
「だが、生憎《あいにく》だったなサラレギー。たとえお前の計画が成功して、おれがうっかりその染みの下に名前を書いちゃったとしても、眞魔国はそんな馬鹿《ばか》げた条約には従わない。国に還《かえ》ればおれなんかよりずっと優秀《ゆうしゅう》な人達が、いくらでも跡《あと》を継《つ》いでくれるんだからな」
「それはそれで構わないんだよ、ユーリ」
サラレギーは顎《あご》を上げ、腰《こし》に手を当てて斜《なな》めに立った。口元には不遜《ふそん》な笑《え》みが浮《う》かんでいる。これまでの可憐《かれん》さはどこにもない。眼前にいるのは、不貞不貞《ふてぶて》しく物事に動じない、国の主として世慣れた男だ。まだ十代だというのに、今の笑顔からは老獪《ろうかい》ささえ感じられる。
「ご自慢《じまん》の臣下の皆《みな》さんが、講和を破っても構わない。それを理由に宣戦できるからね。内容を不服としてそちらから仕掛《しか》けてくれれば、なお好都合だ。他国に何ら非難されることなく、戦《いくさ》に持ち込める。そうなったらこちらのものだ」
「お前……っ」
「もう父の代のようなヘマはしない。|中途半端《ちゅうとはんぱ》な和平など結ばないね。わたしなら完膚《かんぷ》無きまでに叩きのめす。二度と立ち上がれないように、復興など到底《とうてい》不可能なところまで」
腹の底が熱くなった。怒《いか》りで腑《はらわた》が煮《に》えくり返るようだ。急変したサラレギーに対してだけではない。こんな奴《やつ》の口車に乗せられていた自分自身への悔《くや》しさだ。声が自然に低くなる。
「お前の計画では、おれはどうなる予定だったんだ?」
王と女王を親に持つ少年は、躊躇《ちゅうちょ》もなく暗い単語を口にした。
「死ぬ予定だったよ」
さらりとそう言い放って、おれの手から文書を取り戻《もど》す。改めて読み返し、頓挫《とんざ》した計画を惜《お》しむ。だがその様子さえどこか楽しげだ。
「調印後、あなたは不慮《ふりょ》の事故で命を落とす筋書きだったんだ。最初はね。周囲の海はあの荒《あ》れようだ、何の不思議もない。でも気が変わった。一緒《いっしょ》に旅をしていて、魔王というのはとても面白《おもしろ》い存在だと知ったからね。だから亡《な》くなったことにして、ずっと此処《ここ》に留《とど》めておこうと思っていたのに」
彼は、あーあ、と気の抜《ぬ》けた息を吐《は》いた。
「飼っておこうと思ったのにな」
まるで本音みたいに聞こえるが、相手は全てを嘘で固めている男だ。恐らく彼の言葉に真実などない。
「死んだと思われれば前に話したとおり、臣下の者か次の王が、戦へと突《つ》き進んでくれるだろう。もし情報が漏れて生きていると知れれば、格好の人質《ひとじち》になる」
「残念だったな、サラレギー。おれは殺されも囚《とら》われもしないよ」
小シマロン王は奸計《かんけい》に酔《よ》ったような顔で、こちらにすっと腕《うで》を伸ばした。手入れの行き届いた桜色の爪《つめ》が、おれの頬《ほお》から顎を辿《たど》る。
「今からでも遅《おそ》くはないよ、ユーリ。計画を知ってしまってからでも。わたしと組む気はない? あなたが条約に調印して、生きて眞魔国に戻り、魔族の皆さんを説得すればいい。そうすればあなたの望む平和も維持《いじ》され、同時にあなた自身には世界の覇権《はけん》の一部が手に入る。どう? 悪くはない話でしょう」
「小シマロンの属国になれと?」
「そう。小シマロンばかりじゃない、ご覧のように聖砂国も、わたしのものだ。この国の力を知っているかい? 人も、法石も存分にある。兵士にも兵器にも事欠かない。民《たみ》の大半は優秀《ゆうしゅう》な法術使いだ。普段《ふだん》は役に立たない奴隷《どれい》だって、訓練して剣を持たせれば、捨て石にくらいはなるだろう。この国は存在自体が宝なんだよ、ユーリ」
床に膝をついたままのイェルシーが表情を明るくした。理解できる単語を組み合わせていて、自国が褒《ほ》められていると誤解したのだろう。言葉が完全に通じていれば、彼だって兄の発言に失望しただろうに。
「あなたは勿論《もちろん》、魔王のままでいればいいし、同時に世界で二番目の大国の王にもなる。望むならシマロン領のうち、ヴィーア三島や、あの目障《めざわ》りなヒスクライフの土地も譲《ゆず》ろう。三国が手を結んだと知れば、大シマロンといえども、手出しはできない。まさにわたしたちの時代がやってくるんだよ。誰《だれ》も傷つかない、わたしたちの時代だ」
「おれたちじゃない」
背骨の一番下の方がチリッと熱くなった。鼓動《こどう》のリズムに合わせて耳鳴りがする。
「夢見てんのはお前だけだろ、サラレギー」
この男に友情を感じたのは、もうずっと昔のことのように思えた。それも全てまやかしだった。友情なんかじゃない。
「残念だな。そういう提案は本来、魔王が勇者に持ち掛けるのが普通《ふつう》だよ。どんなゲームでもそうだ。パターン化されてるんだ。何故《なぜ》だか判《わか》るか?」
おれは顎に添《そ》えられていたサラレギーの指を叩き落とした。
「そのほうが面白いからさ」
背後でまた、柄と鞘《さや》がカチンと当たった。二度目の威嚇だ。
「お前の筋書きは面白くないな、サラレギー。自分中心過ぎるんだ。おれは降りさせてもらうよ、小シマロンのゲームには付いて行けない」
今度の威嚇でやっとサラは指を鳴らし、広い室内に従者と警備を呼んだ。武装していない者も含《ふく》めて、ほんの十人|程《ほど》だ。この数ならヨザックの敵ではないだろう。ウェラー卿《きょう》さえ向こうに加勢しなければ。それと、おれが怒《いか》りをコントロールできずに、泣き喚《わめ》く幼児みたいに暴走しなければ。
最も危険なのはそれだ。丹田《たんでん》の辺りに奇妙《きみょう》な疼《うず》きがある。これが背筋を駆《か》け上《のぼ》って脳まで支配する前に、どうにか自力で鎮《しず》めなければならない。深く息を吸い、集まったエネルギーを逃《に》がそうと試みる。
「もちろん、こんな戦力できみたちを打ち据《す》えられるなどとは思っていない。でも、恐ろしく腕の立つ護衛の武器も預《あずか》らずに同席させたんだ。それなりの対策を講じておくのが当然だろう?」
少年王は振《ふ》り返り、膝《ひざ》をついたままだった弟にこの上もなく温かい笑顔を向けた。手を貸して立たせ、優《やさ》しい声で名前を呼ぶ。
「イェルシー」
そして何事かを、おれたちには理解できない言語で命じた。
「この子は優秀な法術使いだ。法力を持っていたから、母上の跡継ぎとして認められたのだからね。法石を意のままに操《あやつ》ることなど、赤ん坊《ぼう》の頃《ころ》にはもう修得していた」
途端《とたん》に、右手の小指に激痛が走った。根元から引きちぎられそうだ。
「なに……」
「陛下!?」
ヨザックとコンラッドの声を聞きながら、がくりと膝をつく。立っていられない。握《にぎ》り締《し》めた指の間を恐《おそ》る恐る覗《のぞ》くと、右の小指に填《はま》った薄紅《うすべに》色の指輪が、微《かす》かに光を発していた。明るさよりも遥《はる》かに熱が強い。
食いしばった歯の間から、堪《こら》えきれない悲鳴が漏《も》れた。
「陛下! それを早く」
小指と薬指を一緒《いっしょ》に握ったまま、おれは痛む場所を抱《かか》え込むように背を丸くした。目の奥、眼球の裏側が熱い。涙が滲《にじ》んだ。叫《さけ》んでしまったほうが楽ですと、耳の傍《そば》で誰かが言った。それがコンラッドとヨザックのどちらなのか、もう判断できない。
「忘れたの、ユーリ? わたしたちは友達だったはずだ。だから指輪と首飾《くびかざ》りを交換《こうかん》したよね。わたしの生き別れの母の法石と、あなたの魔石《ませき》をね。それはわたしを蔑《さげす》み亡《な》き者として扱《あつか》った、立派な母の指輪だよ。どう考えてもこちらの魔石のほうが、ずっと価値が高く見える」
サラレギーは青い魔石を首から外し、絡《から》んだ髪《かみ》を丁寧《ていねい》に解《ほど》いて目の高さにぶら下げた。
「美しいね。紋章らしき細工が施《ほどこ》されている」
両膝《りょうひざ》の前に、自分の涙が幾筋《いくすじ》も落ちた。
「でももう要《い》らないかな」
玩具《おもちゃ》に飽《あ》きた子供がするように、彼は石を紐《ひも》ごと投げ捨てた。昇《のぼ》ったばかりの月を反射して、ちらりと光ってから窓の外に落ちてゆく。おれは絶望的な気持ちでそれを見送った。長いこと自分の胸にあった石が、姿を消すのを目で追っていた。
「あなたも早く外してしまえばいいのに。遠慮《えんりょ》することはない」
「……どう……やって……」
いくら抜こうと引っ張っても、珊瑚《さんご》に似た石の指輪は、小指にきっちりと食い込んで動かなかった。周囲の皮膚《ひふ》が破れて血が滲む。それを知っていながらサラレギーは笑う。
「簡単な話さ、指ごと切り落としてしまえばいい」
いっそそうしようとさえ思い、視界に入ったコンラッドの剣《けん》を掴《つか》みかけた。だがすぐに腕を掴まれ、断念せざるを得ない。
「駄目《だめ》です!」
聞く余裕《よゆう》もなく首を巡《めぐ》らし、背中に腕を回しているヨザックの脇差《わきざし》に手を掛《か》けた。彼は止めない。その代わりにサラレギーに向かって怒鳴《どな》るよう確かめている。
「その皇帝《こうてい》サマがやってるのか、そいつがこの石に法術を使ってんのか!?」
兄に命じられたとおりにしているイェルシーは、悪びれた様子もなくおれに近付いてきた。苦しんでいるのが不思議でならない様子だ。サラレギーそっくりの仕種《しぐさ》で髪を耳に掛け、その指先が、怪訝《けげん》そうにおれの肩《かた》に触《ふ》れる。痛みが増す中、爪の色まで同じだと妙《みょう》なことに感心した。
自分でも信じられないような素早《すばや》さで身を起こし、ヨザックの腰《こし》から剣を抜《ぬ》いた。切っ先をイェルシーの喉《のど》に突きつける。そうされてもなお、彼は理由が判らないという顔をしている。武器の怖《こわ》さを知らない幼児のようだ。
「彼を殺すというの? ユーリ、優しいあなたが?」
サラレギーの言葉に、少数しかいない聖砂国の警護が一斉《いっせい》に剣を構えた。そんなことどうでもいい。コンラッドがどうにかしてくれる。
「陛下、オレがやる」
「いや、だめだ……いけないよ」
首を振った。何度も首を横に振った。ヨザックにではなく、自分の欲求に対して。彼はこの国の皇帝だ。ここで事を起こしてどうする!?
「やめろ」
叫ぶと同時に自分も剣を投げ捨てた。彼を殺せばこの痛みから解放される、その誘惑《ゆうわく》を断《た》ち切るには、恐ろしい努力が必要だった。緊迫《きんぱく》した空気に重い金属音が響《ひび》く。
「殺す……な……」
もう一度、自分自身に命じてから、おれは寄り掛かる物がないままにふらりとよろめき、そのまま数歩|後退《あとずさ》った。
「陛下!」
背中に壁《かべ》はなかった。辛《かろ》うじて触れたバルコニーの手摺《てすり》は丸く太く、痛みに灼《や》かれた手では掴みきれない。ここは何階だったろうかと瞬時《しゅんじ》に考えるが、答えより先に身体《からだ》は宙に投げだされていた。
もう痛みはない。
あの時のように落ちてゆくだけだ。