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今日からマ王15-10
日期:2018-04-30 22:01  点击:448
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 ヘイゼルの言葉は、少なくとも一部分は真実だった。
 地下は単なる通路ではなく、かといって全くの迷宮でもなかった。|路《みち》の片側は石で補強した壁だが、反対側にはある程度の|間隔《かんかく》をあけて住居らしき小部屋が並んでいる。中には古い|鍋《なべ》など簡単な道具が放置されたままの家もあり、人々の生活の|跡《あと》がはっきりと残されていた。
 確かに此処は、数百年前まで都市だったのだ。
 大規模|且《か》つ人知れず存在する、地下都市。
「地面の下に何かがあるとは聞いていたけれど、こんなに大規模な物だったなんて」
 およそ一時間くらい歩いた頃に、サラレギーが感心したように言った。おれとは逆に|先程《さきほど》までより調子が良さそうな彼は、一本きりの松明をおれたちに預け、自分は少し|離《はな》れた先頭を進んでいた。灯りもないのに不思議と足元が確かだ。
 もちろん、右手を壁に|触《ふ》れさせておくのは忘れない。これを|怠《おこた》ると大変なことになる。
 |未踏《みとう》の|洞穴《ほらあな》や地下道では、常に壁に触れていないと危険だ。真っ暗闇の広場で|手掛《てが》かりもなく迷ったら、どちらに進めばいいのかさえ|判《わか》らなくなってしまう。一歩先には|溝《みぞ》があるかもしれず、またすぐ|脇《わき》は|断崖《だんがい》絶壁《ぜっぺき》であるかもしれないのだ。
 とはいえ、地下は地上より|随分《ずいぶん》暖かく、|寝袋《ねぶくろ》代わりだった分厚く重いジャケットも|要《い》らないくらいだった。前をゆくサラレギーの|恰好《かっこう》など、夏服といってもいい程だ。
「おーい、一人で先に行ったら危ないって言ってんだろ」
「平気だよユーリ、わたしは平気。|腐《くさ》った死体と|戯《たわむ》れているよりずっといい」
 |誰《だれ》だってリビングデッドに|襲《おそ》われたいとは思うまい。
 |踊《おど》るように歩いてゆくサラレギーの背を|眺《なが》めながら、おれはヨザックの二の腕を|拳《こぶし》で|叩《たた》いた。
|優秀《ゆうしゅう》なお庭番は先程から、彼らしくない|後悔《こうかい》をずっと|繰《く》り返しているのだ。
「あの時オレが飛び込んだりせずに、坊ちゃんたちを引っ張り出してれば……」
「なに言ってんだ、あんたが来てくれなかったら、えっらい不安な二人旅になっちゃうところだったよ」
 それにたとえあそこで引き戻そうとしても、おれとサラレギーの二人が抜けるだけの隙間と時間は残されていなかった。無理をすればどちらかが|挟《はさ》まれていたかもしれない。サラを一人にするわけにもいかないし、結果としてヨザックが同行してくれたのは、最善の策だったのだ。
「ひとつだけいいことがあるよ、グリ江ちゃん」
「なんスかー」
「ヘイゼルが言うには、この地下通路は北に向かってるらしい。ということは間違わずに進めば、彼女が来たのと逆の道を|辿《たど》って、|皇帝《こうてい》の墓やジェイソンとフレディの収容されてる|施設《しせつ》の方向へ行ける。まあもっとも……」
 自分で言っておきながら、あまりにも楽観的過ぎる気がして、おれは|自嘲《じちょう》気味に付け足した。
「ものすごくうまく行けばの話だけどね」
「いきますよ」
 そう願うよ。
 それからヘイゼルの話していた|恐怖《きょうふ》にも、この先ずっと|遭遇《そうぐう》しないことを願う。度胸の|塊《かたまり》みたいな女性、ベネラことヘイゼル・グレイブスをあそこまで|怯《おび》えさせたのは、一体どういった種類の恐怖だろう。|闇《やみ》か|獣《けもの》か、それとも|幻覚《げんかく》か。
 彼女の話を聞いていなかったヨザックが|羨《うらや》ましい。
 その問題から意識を|逸《そ》らそうと、おれは気になって仕方がなかった名前を口にした。
「コンラッドは、無事かな」
「本人が|大丈夫《だいじょうぶ》って言ったんだから、大丈夫でしょう」
 お庭番は松明を持たない方の腕を|振《ふ》り回し、肩の筋肉を|解《ほぐ》しながら答えた。
「無理っぽいとふんだら、|最期《さいご》にもっと|笑顔《えがお》の|大盤振《おおばんぶ》る|舞《ま》いしてますよ。特にあなたにはね。意外と態度にでちゃう奴なんですから」
「笑顔って、本当に?」
「ほんとに」
 信じていいんだろうな、苦楽を共にしてきた|幼馴《おさななじ》みの言葉を。
 「|坊《ぼっ》ちゃんは|優《やさ》しいから心を痛めるのも|解《わか》りますけど、こう見えてもオレたちゃ|幾《いく》つもの戦場を生き延びてきてるんですよ。悪運だって相当強いんだから、そう簡単には死にません。特に隊長の場合は、|斬《き》り合いで命を落としたなんてことになったら、後々何を言われるか判りませんからね、いっそう気合いが入るはず。たかだか|発酵《はっこう》中の死体十|匹《ぴき》くらい、ウェラー卿なら午後の紅茶がわりですよ」
「うえ」
 随分と日の|経《た》ったレモンティーだ。でも誰よりもコンラッドの実力を知っている彼がそう言うのだから、きっと|蘇《よみがえ》り組の十や二十、朝飯前ならぬ午後のティータイム前なのだろう。
 おれごときが心配したら失礼なのかもしれない。
 ふと頭上を見上げて、ヨザックが小さく肩を|辣《すく》めた。
「また|堰《せき》だ。足元気を付けて。さっきから二箇所ばかり通りましたよね」
「うん」
 確かに同様の堰を、これまで二つほど通過している。右手を|添《そ》わせている壁に溝が走っているのですぐに気付く。
 |便宜《べんぎ》上「堰」と呼んではいるが、実際には原始的な|遮断《しゃだん》装置だ。そう明るくない炎で照らしてみると、頭上には厚さが五十センチはありそうな石板が収納されていた。何かの切っ掛けで重い石板が真っ逆さまに落ちてきて、通路を完全に遮断する仕組みだ。現代でいうシャッターのようなものだろう。
 あれだけの厚味と重さがあれば、水も|土砂《どしゃ》も食い止められるだろうが、今のところ地下水脈の音や|匂《にお》いも感じないし、|緩《ゆる》い|傾斜《けいしゃ》が続いているとはいえ、|崩《くず》れた土が土石流を起こすほどの角度ではない。水でも土砂でもないとすれば、あんな|巨大《きょだい》な石を必要とするのは一体どういった種類の脅威《きょうい》だろうか。
 思わず背筋が|震《ふる》える。
「あんなのに挟まれたら|一溜《ひとた》まりもないな」
「でしょうねえ」
 |跳《は》ねるように前を行くサラレギーの背中が、闇夜の|幽霊《ゆうれい》みたいに|揺《ゆ》れている。|淡《あわ》いグリーンの服だったはずだが、一つきりの|心許《こころもと》ない|灯《あか》りの|下《もと》では、白くぼんやりとしか見えなかった。
「……どうしてあんなに元気なんだ」
「|邪魔《じゃま》|者《もの》が消えたからかもね」
「邪魔者って……コンラッド?」
 グリ江ちゃんは続けざまに三回も|頷《うなず》いた。
「コンラッドが邪魔なもんか。サラはコンラッドを大好きだったろう? だって船旅の間中、ずっとこき使って……いやー、|傍《そば》から放さなかったじゃないか」
「あ、やっぱ見てましたぁ?」
「見てたも何も、人目を|揮《はばか》らず人間ハンガーにまでしてたもんなあ。おれはまたあいつは一人っ子だから、お兄ちゃんができたみたいで|嬉《うれ》しいのかねーなんて、|微笑《ほほえ》ましい|想《おも》いで見守っちゃったよ。ほらあの頃はまだ……サラレギーが一人っ子だと信じて疑わなかったからね」
 その言葉の後に大きく息を|吐《は》き、空いた左手で顔の半分を|覆《おお》った。
「……おれは人を簡単に信じすぎるかな」
 風もないのに|炎《ほのお》が揺らぐ。|突然《とつぜん》何を、と頭上から聞き返された。
「おれは他人より頭が悪いのかもしれないよ、ヨザック。何度同じ失敗を繰り返してるだろう」
「だから突然何を」
「サラのこともそうだ」
 |壁《かべ》を|擦《こす》りすぎて、|右掌《みぎてのひら》が熱くなっている。石と土は氷の|如《ごと》く冷たいのに、触れている指は|摩擦《まさつ》で熱い。氷を|握《にぎ》り|締《し》めた後の|痺《しび》れに似ている。
「初めて会った時にさ、|風呂《ふろ》でね、グリ江ちゃんも|一緒《いっしょ》だったろ。おれに|洞察力《どうさつりょく》ってものが|欠片《かけら》でもあればさ、最初からサラがどういう|奴《やつ》か|見抜《みぬ》いていれば、今こんな所には居ないはずだよ。こいつの話に乗せられちゃ|駄目《だめ》だって、防衛本能が働けば」
「そりゃあ無理ってもんですよ、だってあの時は羊も混浴よ? 胸が高鳴っても仕方ないじゃない」
 女言葉で|慰《なぐさ》めてもらっても、今回ばかりはあまり嬉しくない。しかもおれはまた同じことを繰り返し、|我《わ》が|儘《まま》言って|突《つ》っ走っては|厄介《やっかい》な事態に|陥《おちい》っている。自分ばかりではない、大切な仲間達まで危険な目に|遭《あ》わせている。
 つくづく|駄目《だめ》魔王だと思うよ。|愚《おろ》かな王を|戴《いただ》く|民《たみ》は不幸だ、そう言ったのは|誰《だれ》だっけ。
「そう|仰《おっしゃ》いますがね、坊ちゃん」
 不幸な臣民代表のお庭番、魔王陛下の0043号は、おれの頭の|天辺《てっぺん》を指でつつきながら言った。
「陛下が誰かを信じたり、突っ走って一見|無謀《むぼう》だと思うような行動をとったりして、これまで悪い結果に終わったことがありましたか?」
 おれが初めて眞魔国に流されてきてから遭遇した事件を、|脳《のう》味噌《みそ》の中で順番に並べてみた。王都、ヴァン・ダー・ヴィーア、スヴェレラ、シルドクラウト、カロリア、シマロン。
「……たくさんあると思うよ。おれの知らないところで、たくさんあったと思う」
 そして聖砂国。
「みんなが|庇《かば》ってくれてたんだと思う。そうでなきゃ急に練習したことさえない王様職に|就《つ》いて、どうにかやっていけるわけないもんな」
「うはぅへあはあー」
 いきなりヨザックは、|嘆《なげ》くとも|呆《あき》れるともつかない|陣《うめ》きを|漏《も》らした。壁と|松明《たいまつ》で|塞《ふさ》がっていなかったら、両手を上げて天を仰いでいただろう。
「どうしたグリ江ちゃん!?」
「まったくナレはホントに無能ですよ。これだからいつまでたっても閣下に呼び|戻《もど》してもらえず、国外工作員という名の便利屋のままなんだよなー!」
 何だ、彼は現在の任務に不満を持っていたのか? 壁から手を|離《はな》してお庭番の服を|掴《つか》んだ。
「今の職場に不満があったのか。てっきり楽しくやってるんだと|勘違《かんちが》いしてたよ! だったら早くそう言ってくれれば、おれからグウェンにそれとなーく伝えたのに。それとなーくな」
「そうじゃありませんよ陛下。オレはね、今、落ち込んでる陛下を|一生《いっしょう》懸命《けんめい》お慰めしようとしてたんですよ」
 彼は前方のサラレギーを|顎《あご》で示し、聞こえよがしに舌打ちした。
「隊長の不在はともかく、あんなののことを気に病むこたぁないですからね」
 強国小シマロンの少年王をあんなの[#「あんなの」に傍点]呼ばわり。|流石《さすが》は天下のグリ江ちゃんだ。
「なのにオレの必死の説得なんぞ、全然効果示ないじゃないですか! うはぅへあはあー、ほんとにねえ、やっぱオレって駄目兵士ですよねえ。ウェラー|卿《きょう》だったらこんな時、気の|利《き》いた一言とあの|胡散《うさん》臭《くさ》い笑顔で、サクッとどうにかしちゃいますもんねえ。あ、胡散臭くは見えてないんでしたっけ?」
 そのとき頭に浮かんだのは、袋の口をきゅっと|縛《しば》るコンラッドだった。
「最近ときどき黒いよな」
「ねー」
 グリ江ちゃんは|眉間《みけん》に|皺《しわ》を寄せ、肩につくくらい首を|傾《かし》げた。松明を持ったままの左手首で額を擦る。|髪《かみ》が燃えそうだ。
「そんな腹黒い男の慰めは有効なのに、こんなマッチロなグリ江がどんなに心を|込《こ》めても、口下手なのか微笑みが|庶民《しょみん》なのか、陛下はさっぱり元気になってくれない。やっぱオレって駄目兵士」
「だーかーらー、駄目じゃないって」
「しかも」
 すっかり壁から手を離してしまい、ヨザックは|胼胝《たこ》のある長い指で、オレンジ色の髪を乱暴に|掻《か》き回した。
「その|肝腎《かんじん》のウェラー卿が|此処《ここ》にいないのも、オレのせい」
「え、ヨザックのせいって。何、なんか|喧嘩《けんか》でもしたのか?」
「なんの話をしてるんだーい? |面白《おもしろ》い相談ならわたしにも教えてー」
 サラレギーが|長閑《のどか》な様子で手を|振《ふ》った。彼は|何故《なぜ》、|灯《あか》りもないのに先に進めるのだろう。|暗闇《くらやみ》にびびるおれなんかとは大違いだ。
 ヨザックは|腰《こし》を深く|屈《かが》め、顔色を|窺《うかが》うふりでおれを|覗《のぞ》き込んだ。覚えていたより青い|瞳《ひとみ》には、多くの期待と|僅《わず》かな|悔《く》いが|浮《う》かんでいる。
「……あの|煮《に》え切らない男に言ったんです」
 反射的に何を? と|訊《き》き返していた。
「どうしたいのかきっちり考えろって。言ったんですよ、結論が出るまでは|半端《はんぱ》に近寄るんじゃないよって」
 おれの頭の中では未だ「何を?」だった。SVOCがさっぱりぽんです、と、ここのところ英語ついている脳味噌が正直に反応した。
「あんたはどっちを選ぶんだ、ってね」
「ああ、コンラッドのことか」
 やっと意味が通じた。
 つまり彼はウェラー卿に大シマロンと眞魔国のどちらを選ぶのか決めろと|迫《せま》ったわけだ。|恐《おそ》らくどちらの|国籍《こくせき》を持つのか決めるまでは、|馴《な》れ|馴《な》れしくするなとでも言ったのだろう。二人とも人間と魔族の両者を親に持つ同士だから、話が通じやすいのかもしれない。
 しかし、どちらがお前の故郷だと|詰《つ》め寄られたって、そう簡単に割り切れるものではない。
「そしたら|拗《す》ねちゃって。あの|野郎《やろう》、ほんとに近付かなくなっちゃいましたよ」
「いや、別に拗ねたわけじゃないだろ。ていうかそんなことじゃ拗ねないだろ」
 百歳を|超《こ》えたいい大人が、その程度のことで拗ねたりするもんか。そう否定しながらもおれは、しゃがみこんで砂の上に意味のない落書きをするコンラッドを想像した。|耐《た》えきれず|忍《しの》び笑いが漏れた。
「結局ご一緒するのがグリ江になっちゃって、ごめんね|坊《ぼっ》ちゃん」
「何言ってんだ、ヨザックだって|充分《じゅうぶん》心強いよ。それにいざって時には必殺の女装で、おれの目も楽しませてくれるじゃん」
「これだから陛下が大好きなんだよなあ」
 おれが|遠慮《えんりょ》無く背中を|叩《たた》くと、彼は彼でこちらも無遠慮に、おれの首筋をぐいぐい|揉《も》んでくる。満面の|笑顔《えがお》なのはいいが、ただでさえ握力強いんだから少しは手加減してくれないと。
 
 おれたちが後ろでどんな|愚痴《ぐち》合戦をしていようと、気にせずご|機嫌《きげん》だったサラレギーが、|唐突《とうとつ》に振り向いて断言した。
「何か生き物がいる」
 下りに入ってから|譲《ゆず》ることなく前を歩いていたのに、今は視線を後ろに向け、視線はおれたちの|肩越《かたご》しに何かを見ている。
「お、おいおいやめてくれよー、サラ。肩に何かいるなんて言われたら、今夜から一人でトイレに行けないじゃないか」
「やだわー、坊ちゃんたら|水臭《みずくさ》いんだから。グリ江でよければいつでも連れションするわよ」
「常に|隣《とをり》から覗き込まれそうな連れションはヤダなー」
 きょとんとするサラレギー。こんな顔をすると本当にかわいい。
「ツレ、しょん? いいえユーリ、少年|釣《つ》り大会のことではなくて。あなたたちの肩の向こう、坂の上の通り過ぎてきた場所に、生き物が見えたんだよ」
「そんな遠く!?」
 しかもこの暗さだ。松明はおれとヨザックが交代で持っているから、サラレギーには全く灯りがなかったはずだ。にもかかわらず遠くで動いた生き物を認めたという。
「サラ、お前どーいう目ぇしてんのよ」
 当の本人は流れる雲みたいにふんわり|微笑《ほほえ》んで、人差し指と中指で長い|下睫毛《したまつげ》に|触《さわ》った。
「前にも話したでしょう、ユーリ。わたしの瞳はね、こんなに明るい黄金色をしているけれど、熱や光にはとても弱いんだ。特に太陽の光にはね」
 知っている。彼は視力が悪いわけではなく、目を保護するために|眼鏡《めがね》をかけていたのだ。あの|薄《うす》い|硝子《ガラス》はとても良く似合ってたな、|今更《いまさら》ながらにそんなことをぼんやりと考える。
「だから逆に、暗いところではとても調子がいいんだ。だって|眩《まぶ》しくないでしょう。急に暗い場所に入ると、最初は|戸惑《とまど》うけれどすぐに慣れる。明かりがないほうが楽なくらいだ」
「え、慣れるって……まさか見えるのか?」
「見えるよ? 皆だって時間が|経《た》てば見えるようになるでしょう?」
「|普通《ふつう》は見えねーよ!」
「そうなの」
 そんな不思議そうな顔をされると、普通人としては困ってしまう。
 と同時に|記憶《きおく》の|扉《とびら》が開いたのか、彼は、ああだからみんな|寝《ね》るときは暗くするのか。あれ、暗いから|眠《ねむ》ってしまうのかな、それとも眠るために暗くするのかな、なんて可愛らしいことを|眩《つぶや》いている。
「それ、ものすっごく便利な才能じゃねえ? 法力がないから国を追われたなんて言ってたけど、それって立派な法術だと思うけど」
 少なくとも|翻訳《ほんやく》法術の持ち主・アチラ通詞より、ずっと|特殊《とくしゅ》な能力だろうに。あれは絶対に努力の|賜物《たまもの》だと思う。そんな努力型の苦労も知らず、サラレギーは|綺麗《きれい》な指を|唇《くちびる》に当てた。
「さあどうだろう。程度の違いこそあっても、皆見えるものだとわたしは思っていたから」
 才能で勝負できる天才型が|憎《にく》い。憎いというより|羨《うらや》ましい。
 サラレギーは松明の温かく|柔《やわ》らかい光の|下《もと》で目を細め、天使がするように微笑んだ。
「でもねえ、わたしはもう法術なんてどうでもいいんだよユーリ。だってそんな、神から|与《あた》えられた力なんかなくても、人は何でもできるもの。神に感謝しなくても、わたしは国を治められるし、欲しいものだって何でも手に入るもの」
「……ひと月前に聞いたら、きっと感動してただろうな」
 おれはポケットに片手を突っ込み、溜息混じりに咳いた。右手は壁に添《そ》わせている。
 でも今はお前って人間の本質が|判《わか》っちゃったから、|素直《すなお》に格好いいとは思えないな。国を治める力は確かだが、欲しいものが何でも手に入るのは、手段を選ばないからだろう。
「気になるのはその、生き物って|奴《やつ》ですよ」
 ヨザックが|腕《うで》を突き出して、なるべく後方を照らそうとした。
「こんな|餌《えさ》も無いような地下に、人の目で|捉《とら》えられるような大きさの動物が|棲《す》み着くもんですかね。それともあの死体連中が、ずっと追ってきてるのか」
「この世ならざる兵士達は来られないよ。母上のお力は、こんな地下までは|及《およ》ばないから」
「お前のお|袋《ふくろ》さんってのはどうしたいんだ。実の|息子《むすこ》をゾンビでつけ|狙《ねら》って」
「さあねえ」
 信じられないくらい|冷淡《れいたん》な口調で、彼は母親の名前を言った。
「わたしを|亡《な》き者にしたいのだろうね、|女帝《じょてい》アラゾンは。わたしがイェルシーを意のままに|操《あやつ》って、聖砂国を我が物にするのではないかと、|怯《おび》えているのだろうね」
「だからって……殺そうとするなんて」
「そういうものだよ、権力に|執着《しゅうちゃく》するひとは」
「素敵、お人形ちゃんそっくりだわ」
 ヨザックがふざけた調子で言ったひとことに、茶化されたと感じたのか、サラレギーはきつい|眼差《まなざ》しで、自分よりずっと背の高い男を見上げた。
「お人形というのは|誰《だれ》のこと?」
「あんたですよ、小シマロン王」
「わたしが?」
 おれが割って入る間もなく、彼等の間に冷たい火花が散る。サラが|頬《ほお》に血を|上《のぼ》らせ、故意に感情を|抑《おさ》えて言った。
「わたしのどこがお人形だと?」
「うーん。見た目、仕事、お母様から|逃《のが》れられないところ、全部かな」
「母上の支配からは逃れている!」
「失礼失礼、じゃあ弟を|偲偶《かいらい》にして国を操ろうとする、お人形|遣《つか》いちゃんかな」
「はいはい、はーいはい」
 人形|扱《あつか》いはサラレギーが気の毒に思ったので、両手を突きだして交戦中の間に入った。素晴らしき体格差。
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「|頼《たの》むからこんな危機的|状況下《じょうきょうか》で争わないでくれ。ただでさえ旅の運勢|最凶《さいきょう》最悪なのに。大体おかしいだろ? グリ江ちゃんとサラ、別にそんなに仲悪くなかったじゃん。それより大して口もきかないような|間柄《あいだがら》だっただろ? なのに何だよ、今のこの、昔から|大嫌《だいきら》いでしたっぽい関係。あんたら急にどーかしちゃったの? もしかしておれの知らないうちに、|闘争《とうそう》本能|駆《か》り立てるガスでも吸っ……なにこの音」
 地鳴りに似た音と細かな|震動《しんどう》が、まるで音量ボタンを押しっぱなしにしたテレビみたいに急速に近付き、大きくなった。細かな|爪《つめ》が地面を引っ|掻《か》くような音と、神経を|逆撫《さかな》でする高い鳴き声。おれたちの来た方向から、灰色の|絨毯《じゅうたん》が一気に広がる。
 |物凄《ものすご》い数の|鼠《ねずみ》の群れが、|緩《ゆる》い坂道を大移動してきた。
「これ悼"サラの見た動物ってこれ!? やぺえネズミ、ネズミはヤバイって!」
「落ち着いて|坊《ぼっ》ちゃん。岩のふり、岩のふりしてやり過ごすのよッ」
 おれは両手を|万歳《ばんざい》状態にし、ぎゅっと目を閉じて壁に寄り|掛《か》かった。岩のふり岩のふり……一枚、二枚、うーんもう食べられナーイ。しまったこれは番町|皿《さら》屋敷《やしき》だ。
「だってこいつらに|囓《かじ》られたら、ペストかネコ型ロボットか|舞浜《まいはま》行きか三つに一つなんだぜー!? グリ江ちゃんはドラえもんの味わった|恐《おそ》ろしさを知らないから、そんな|悠長《ゆうちょう》なことを言っていられるんだと思います。っがーっ足の上、足の上をーっ!」
「しょうがないなあ、どうしてもというならお|姫様《ひめさま》だっこしてあげますけど」
「……いや、遠慮するよ」
 |河川敷《かせんじき》グラウンド育ちのおれがこの有様なのだから、王宮育ちのサラレギーなんかもっと大変だろう。ふと|隣《となり》を見ると、意外に冷静な彼が顔だけをそちらに向けて、坂の上をじっと|見詰《みつ》めていた。足の上を駆け|抜《ぬ》ける鼠など気にも留めていない様子だ。
 やがて彼は|此処《ここ》にはいない誰かに|挑《いど》むように腕を上げ、おれには|虚空《こくう》にしか見えない|暗闇《くらやみ》に向けて、白い細い指先を向けた。
 黄金色の|瞳《ひとみ》は地下にあっても|輝《かがや》いている。その姿はまるで、人に死を宣告する天使か、|或《ある》いは|悪魔《あくま》のようだった。
 
 闇を|見透《みす》かす彼の|眼《め》には、|他《ほか》にも何か見えているのだろうか。

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