赤巻紙 青巻紙 黄巻紙
第一次試験の当日、NHKに行って、トットは仰天《ぎようてん》した。たしかに、自分の受験番号が五千番台ということは、わかっていたけど、実際に、NHKの廊下《ろうか》といわず、トイレといわず、階段といわず、どこもかしこも、若い男女で身動きも出来ないのを見たときは、「わあー凄《すご》い!」というしかなかった。女の人の服装《ふくそう》も、いろいろで、これもびっくりした。帽子《ぼうし》にレースの手袋《てぶくろ》という社会人みたいな人もいたし、宝塚《たからづか》みたいな、はかま姿の人もいた。それから、バレエのタイツ風、中国服、訪問着、セーターにズボン、セーラー服。そして、トットのように、落下傘《らつかさん》スタイルの広がったスカートの人も多かった。誰《だれ》も彼《かれ》もが、きれいに見えた。トットは、まだお化粧《けしよう》をしていなかったけど、中には、すっかりお化粧して、つけまつ毛をトイレで直してる人もいた。トイレといえば、待ってる間に、白粉《おしろい》をはたく人、口紅をつける人、髪《かみ》をとかす人、靴下《くつした》の曲ってるのを直す人、などで一杯《いつぱい》で、ドアが開かないくらいだった。そして、みんなが口々にしゃべっているので、その賑《にぎ》やかなことといったら、なかった。
そんな中で、試験が始まった。男女の試験場は別だった。みんな二枚ずつ紙を手渡《てわた》され、五人ずつ、まとまって部屋に入り、順々に、試験官の前で、紙に書いてある言葉を読み、済んだら出て行く、という仕組みだった。試験官は六人で、ほとんどが男の人だった。
トットは、五人のうちの四番目で椅子《いす》にすわった。順番が来て、トットの前の人が立ち上った。髪を短かくして、スーツを着た、少しトットより年上に見える美しい人だった。その人は、すっきり立つと、紙を斜《なな》めに持ち、
「赤巻紙《あーかまきがみ》、青巻紙《あおまきがみ》、黄巻紙《きまきがみ》!」
と、世にも流暢《りゆうちよう》に、そして、少し気取った風に、一息に読み切った。トットは強烈《きようれつ》なショックをうけた。演劇の経験のないトットは、その紙をもらったとき、とても、ゆっくり、明瞭《めいりよう》に、
「アカマキガミ!(呼吸)アオマキガミ!(呼吸)キマキガミ!(呼吸)」という風に、力を入れて、ひとことずつ読むように廊下で練習し、それでいい、と思っていた。夢《ゆめ》にも、こんな風に、スラスラと、まるで、
「あーる晴れた日に!」といったのかと思うくらいに、さり気なく、このややっこしい三つの言葉をいっちゃう、なんて、考えてもいなかった。試験官は、うなずくと、いった。
「じゃ、もう一枚のほう読んでみて?」
一枚目のがうまくいくと、「もう一枚」のほうを読ましてもらえることは、もっと前の人のでわかっていた。「赤巻紙」でダメな人は、それだけで、「はい、結構!」といわれるんだから。その女の人は、勿論《もちろん》、「もう一枚のほうを」といわれた。その人は、次の紙を手にすると、いきなり、試験官にむかって、
「あーら、しばらく、お元気?」
と聞いた。トットは、
(ああ、この女の人は、試験官と知り合いなんだな。だったら、きっと受かる。いいなあ)
と、うらやましく見ていた。ところが、試験官のほうが、「ああ、しばらくだね」と、いわない。
(おかしいな……)と、トットが思ったら、なんと、それは、もう一枚のほうに書いてあるセリフだった。トットは、おかしくなった。それは、自分の思い違《ちが》い、ということもあるけれど、(あんな知らない人に、本当に知ってるみたいに、馴《な》れ馴れしくいったら、みんな笑っちゃうんじゃないの?)
ところが、誰も笑わずに、熱心に聞いている様子だった。トットは狼狽《ろうばい》した。
(あんな風に、セリフっていうものなの?)
女の人は終ると、丁寧《ていねい》におじぎをし、もう一度、試験官に自分の顔が見えるようにニッコリすると、出て行った。いよいよ、トットの番になった。とにかく、トットは試験官の前に立つと、おじぎをした。自分流に、ゆっくり読むか、前の人のように、プロ的にやってみるか、迷っていた。頭を上げたとき、トットは決めた。(出来るだけ、さっきの人みたいに、流暢風に、やってみよう!)
息をすいこむと、トットは急いで読んだ。少し気取ることも、忘れなかった。
とたんに、試験官が、全員、のけぞって、ドッ!! と笑った。トットは驚《おどろ》いた。たしかに、トットの耳にも、
「あーかまき紙、青巻紙、黄巻紙!」とは聞こえず、なんとなく、
「アーカマキキキ、アキキキキキ、キキキキキ!」と、キだけしか聞こえなかったけど、自分では、ちゃんと読んだつもりだった。
(もうダメだ……)と思ったとき、試験官の一人が、ポケットからハンカチを出すと、涙《なみだ》をふきながら、まだ笑いの残る声でいった。
「もう一枚のほう、読んでみて?」
「えっ? いいんですか?」
トットは、すっかりうれしくなって、これで挽回《ばんかい》しなくては、と思ったから、さっきの人のように、目を少し斜めに見すえるように試験官を見て、
「あーら、しばらく、お元気ーい?」
といった。今度は、うまくいったかしら。
また、試験官は、全員、わあ!! っと、のけぞって笑った。なんでだか、トットには、わからなかった。(喜劇女優を募集《ぼしゆう》してるんじゃないのに、こんなに笑われたら、もう絶望!)すっかり、がっかりして、部屋を出た。ドアを閉めるとき、トットの次の人が、「赤巻紙……」と読み始めたのが耳に入った。試験官は、笑っていなかった。
これが、第一次の試験だった。トットは、これで、もう、あきらめた。いくらNHKは新聞広告で、「プロの俳優である必要はありません」といっても、結局、うまい人が受かるに決まっているんだから。
発表は三日後、NHKの裏玄関《うらげんかん》の外に、番号が、はり出される事になっていた。
トットは、行っても無駄《むだ》だと思っていた。だから、当日は朝から学校に行った。勿論、試験を受けたことは、パパにもママにも、話していなかった。友達《ともだち》にも。午後の授業になるまで、トットは平静だった。ところが、お昼休みのあと、午後になると、なんだか落ちつかなくなった。胸がしめつけられるみたいな風で、なにも手につかなくなった。
(やっぱり、発表が気になってる……)
ダメってわかってても、行くだけは、行ってみよう。トットは友達に、「早退する」と告げ、いつも授業中に逃《に》げ出すとき、そうするように、窓から外に出て、あとは新橋まで一目散《いちもくさん》だった。NHKの前に行ってみると、大きい木の立看板が立っていた。トットは自分の番号を間違えないように、何度も口の中でくり返した。早いうちに見に来た人が多かったのか、閑散《かんさん》としていた。それにしても、沢山《たくさん》の番号が残っていた。ずーっと見ていった。五千番台は、うしろのほうだったから見当はついた。ゆっくり見た。ダメに決まってる! と思いながら、こんなにドキドキするのは、やっぱり、どこかに、(もしかしたら!)という気持があるからか、と、少しなさけない気もした。
「……五千六百五十五番」トットの目は、そこに止まった。そして、(似てるけど、残念!)と思った。あとで考えると、落語の「富籤《とみくじ》」と同じだったけど、本当に、(ちょっと近いけど、違ってる……)って感じだった。
……もう一度、見直した。まぎれもなく、それは、自分の番号だった。のけぞって笑った試験官の顔が浮《う》かんで、消えた。
(受かってた!)
トットは、この気持を、誰かに伝えたいと思った。信じられない、この気持を。誰かに。守衛さんが通りかかった。
「あたし、受かりました!!」
トットは、少し恥《はず》かしそうに、でも、はっきり守衛さんにいった。人の良さそうな、やせたおじさんは、「おめでとう」といって、歩いていった。結局、この第一次試験の合格のよろこびを、トットが伝えたのは、このNHKの守衛さんだけだった。秘密にことを運《はこ》ぶというのは、こういうことなのだと、トットは少し残念に思いながら、でも、胸の中で、はねまわる�うれしさ�という心地いいものを抱《だ》いて、NHKを、はなれた。