小さい靴《くつ》
ところが、次の日のことだった。トットが、夕方、少し遅《おそ》く学校から帰って自分の部屋にいると、すぐ、ママがノックして入って来た。ママの面白《おもしろ》いところは、用事の内容によってだけど、母親というよりは、寄宿舎の同級生が、秘密の話をしに忍《しの》びこんで来るみたいに、スルリと入って来ることだった。ママは、声をひそめると、いった。
「大変!」
トットは、わけがわからずに、聞いた。
「何が?」
ママは、順序よく説明した。
「今日、NHKの偉《えら》いかたが、家に見えたのよ。そして、試験の結果、お宅のお嬢《じよう》さんを、是非、入れたいと思ってるけど、お父さまが反対らしいので、お気持を伺《うかが》いに来ました、って、おっしゃって……」
トットは、呆然《ぼうぜん》と、部屋のまん中に立っていた。(NHKの偉いかたが、家に見えた……って?)ママは続けた。
「いい工合《ぐあい》に、パパが仕事から、帰って来るのが遅くって、いなかったの。だから、�折角、そんなに大変なところに、入れて頂けるんでしたら、主人には、私から、よく話しますので、よろしくおねがいします�って申し上げたんだけど。あなたは、入れて頂きたいんでしょ?」
「それはそうだけど……。で、パパは?」
トットは、ためらいがちに聞いた。ママは、ますます、秘密を打ちあける同級生、という風な感じで、うれしそうに、いった。
「そこは、ほら、例の、ママの上手な言いかたで、うまくやったわよ。パパって、いきなり頭から何かいうと、怒《おこ》ったり、傷ついたりするじゃない。だから�NHKの偉いかたが見えて、こんな難関を突破《とつぱ》するくらいの才能がおありになるんだから、ぜひ、許してほしい、って、おっしゃったのよ�って……」
「へーえ、才能があるって?」と、トットは、胸がふるえてくるような、うれしさで、聞いた。ママは、少し考えてから、いった。
「とにかく、パパには、そういう風に説明したほうがいいから、そう言ったんだけど、NHKのかたが、そうおっしゃったか、どうか。まあ、そんなようなことは、おっしゃったけど……」
トットは、少しがっかりしたけど、とにかく、思いがけない合格の知らせが、だんだん、本当なのだ、とわかって来た。
ママは続けた。
「それで、パパも、�そんなら、やってみるといいね�って!」
「わーい」とは、いわなかったけど、字にすると、そうなるくらい、トットは、感激《かんげき》した。ママは、トットにいった。
「よかったわね。おめでとう。それはそうと、そのNHKの偉いかた、文芸部長の、吉川義雄さんて、おっしゃるんだけど、とても小さい靴のかたでね。靴を揃《そろ》えるとき、びっくりしたの」ママは、体のがっしりとした、立派なかたが、ああいう小さい靴を、はいてらっしゃるとは思えなかった、とくり返した。そのことが、ママには、強い印象として、残ったようだった。トットは、合格と、パパの許可が出た、という二重の喜びで、小さい靴のことは、忘れていた。
そのことを思い出したのは、後に、テレビ発展|途上《とじよう》の、最も華《はな》やかで、また難かしいことが沢山《たくさん》あった時代の、芸能局長となった吉川義雄さんが、�旦那《だんな》�という渾名《あだな》で、泣く子もだまる豪快《ごうかい》な人、といわれながら、実は、繊細《せんさい》で、心やさしい人、と、トットに、わかった時だった。でもトットは、靴のことは忘れても、将来、どうなるかは勿論《もちろん》、なにがなんだか、さっぱりわからない、ケサランパサランみたいな小娘《こむすめ》の意志を尊重するために、吉川さんが、わざわざ、家まで訪ねて来て下さったことは、絶対に、忘れなかった。