五食《ごしよく》
こういう中で、トットが気に入ったものの一つに、五食があった。これは、NHKの五階にある食堂のことで、NHKの人が、短かくして、「ゴショク」と呼んでいるところだった。トットは、随分《ずいぶん》、長いこと、放送界では、オショクジのことを、ゴショクというのだ、と信じていた。というのも、最初にさそってくれた人が、「お腹空《なかす》いたから、ゴショクに行かない?」といったからだった。とにかく、五食には、A定食・B定食・C定食とカレーなどがあった。音楽学校の売店の、コロッケや、メンチボールのはさまったパンが、唯一《ゆいいつ》の外食のメニューだったトットにとって、�おでん�だとか、�サバの煮《に》つけ�とか、�あじのフライ�などといった定食は、社会人になったような気分を味わわせてくれた。
トットは毎日、学校が終ると、走ってNHKの五食に行き、財布《さいふ》の中味と相談をしながら、何かを喰《た》べる。その時間に五食に行けば、必ず、養成を受けてる仲間に逢《あ》えた。将来、NHKの女優になることより、友達《ともだち》と一緒《いつしよ》に話をしながら、にぎやかに五食で喰べてるとき、トットは、なんだか、とても充実《じゆうじつ》しているように思えた。自由にも、思えた。
まわりのNHKの男の人の中には、局に来てから、靴《くつ》と履《は》きかえたサンダルを、ズルズル引きずるようにさせて歩いて、五食に入って来て、定食の見本《サンプル》の並《なら》んだガラスケースを見て、「また、あじか!」とかいって、お金を投げ出すようにして食券を買い、テーブルにすわると、お茶をついで、つまらなそうにしている人もいた。大きなマスクをして、寒そうにすわってる人もいた。また、やはり五階にある、売店の薬局から、胃薬を買って来て、御飯《ごはん》の前に、のんでる人もいた。でも、トットは、何を見ても、面白《おもしろ》く、興味があり、うれしかった。その五食の食券売り場の横に、小さな机を出して、一本五円で、ナイロンのストッキングの伝線病を直してる、おばさんがいた。伝線してるところに、中から筒《つつ》をあてて、カギ針で、しゃくっていくのだけど、その見事な手ぎわに感動して、トットは、拍手《はくしゆ》した。
そんな、ある日、食堂に貼《は》り紙が出た。
「食堂内では、なるべく静かにして下さい」
これは、トット達の騒《さわ》ぎを指《さ》していることは、あきらかだった。以来、ゴショクに行くとき、トットたちは、出来るだけ、声をひそめ、静かにした。それでも、いつのまにか、忘れて、「ここよ!」と、友達を大声で呼んでしまったりして、口をおさえた。