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トットチャンネル(31)
日期:2018-05-30 15:58  点击:243
 プラットホーム
 
 朝、新橋の駅から、大いそぎで、教室の観光ホテルに向かうトットの耳に、どっかの店のラジオから、「尋《たず》ね人の時間」が聞こえた。戦争が終って、もう九年も経《た》つのに、まだ、日本中で、家族を探してる人がいると思うと、トットは、胸が痛くなった。と同時に、「家には、パパが帰って来た!」という、うれしさが、今頃《いまごろ》になって、こみあげて来た。そして、ママの、あの頃の姿が、映画みたいに、目に浮《うか》んだ。
 それは、青森に疎開《そかい》してたときのことだった。終戦になったとき、パパは、中国の北部にいた。そして、その後、シベリアの捕虜《ほりよ》になったことは、新聞でわかっていた。終戦後しばらくした、ある日、新聞に、「シベリアの捕虜の中に、ヴァイオリニストの黒柳守綱氏がいる」と出たからだった。
 でも、毎日、毎日、汽車に溢《あふ》れるほど、引揚《ひきあ》げの兵隊さんが帰って来る頃になっても、パパからは、なんの便りも、なかった。ママは、引揚船のつく、舞鶴《まいづる》にも、手紙を書いた。「青森県|三戸《さんのへ》郡|諏訪《すわ》ノ平《たいら》」と住所も書いて。新聞社にも問い合わせた。でも、何も、わからなかった。そのうち、日本に帰りたいあまり、収容所を脱走《だつそう》したシベリアの日本人の捕虜が、射《う》たれて死んだ、とか、川を泳いで渡《わた》って逃《に》げようとして、川にとびこんだまま行方不明《ゆくえふめい》になった捕虜の人がいる、というような噂《うわさ》が、流れてきた。そのたびにママは、
「パパは水泳は上手だけど、逃げたりする人じゃないから、大丈夫《だいじようぶ》よ」
 と、トットたちに、いった。その頃、ママは、トットや、トットの小さい弟や妹のたべるものを調達するために、いろんなことをしていた。まず始めは、近くの村や山の中で結婚式《けつこんしき》があると聞くと、全く知らない家なのに、一張羅《いつちようら》の着物を着て出かけて行った。そして、「おめでとうございます」といってから、「きんらんどんすの帯しめながら……」とかを歌った。音楽学校声楽科出身なのが、役に立った。それと、ママは、パパと結婚したての頃、映画会社のプロデューサーだった川口松太郎さんから、
「女優になりませんか?」
 と何度も誘《さそ》われた、というくらい奇麗《きれい》だったし、年も、まだ、戦争が終った頃は、三十五|歳《さい》くらいだったから、きっと、どこの家でも、「わざわざ来てくれて」と、いうことになったに違《ちが》いなくて、必ず、引き出ものの、お米の粉で作った大きな鯛《たい》とか、おもちだのを、おみやげに、くれた。ママは、それをもらって帰ると、子供たちの前にひろげて、
「凄《すご》いでしょう。たべなさい」
 と、いった。トットたちは、目を丸くして、赤い鯛を見た。でも、結婚式も、そう毎日は、ないので、次にママは、諏訪ノ平でとれる野菜や果物を、いっぱい背負って、八戸《はちのへ》の海のほうに行き、魚と交換《こうかん》してもらって帰って来た。栄養失調で、オデキだらけだったトットも、その魚で、すっかり直った。家族がたべる分をとると、ママは、残りを魚のほしい人に売った。日曜には、トットにも、果物を、かつがせた。トットは、友達《ともだち》に見られたら恥《はず》かしい、と思ったけど、ママは、平気な顔をしていた。東京にいた頃、ママは奇麗にして、パパの演奏会に行ったり、お手伝いさんもいた生活だったのに、何もいわずに、こんなに、すぐ、かつぎ屋のおばさんみたいになれるママを、トットは不思議に思っていた。海のほうで、スルメとかが沢山《たくさん》手に入ると、ママは、家の近くの青果市場にコンロを持って行って、そのスルメをお醤油《しようゆ》で煮《に》て、売った。農業組合の事務員もした。それでも、パパからは、何の便りもなかった。
 ある日、引揚者の沢山のった汽車が、諏訪ノ平の駅に臨時停車した。諏訪ノ平は、小さい駅なので、ふつう、急行は、止まらなかった。でも、東北本線は単線なので、上りと下りがすれ違うのを、駅でやるために、たまには、止まることもあった。その日、ママは、汽車が駅に止まったのを見ると、走ってプラットホームに行き、汽車の窓から頭をつっこんで叫《さけ》んだ。
「どなたか、黒柳守綱って人、シベリアで、お逢《あ》いになりませんでしたか?」
 汽車が出るまで、ママは、プラットホームの、はじから、はじまで、叫びながら走った。疲《つか》れきって乗ってる引揚げの人達は、それでも、口々に話し合ったり、何かいってくれたりしたけど、はっきりしないまま、汽車は出て行ってしまった。誰《だれ》もいないプラットホームに、ママだけが立っているのを、トットは遠くのほうから見て、悲しく思った。
(あんなことをして、なんかの役に立つのかな)
 と考えたりもした。でも、ママにとっては、いまは、これしかなかった。もう、終戦から二年も経っていた。
 やっぱり、ある日、ママは、頭を汽車の窓につっこんで、聞いていた。
「黒柳って、ヴァイオリン弾《ひ》くものですけど」
 そのとき、一人の、おじさんが、人混《ひとご》みの中から叫んだ。
「ああ、収容所で、ヴァイオリン弾いて、我々を慰問《いもん》してくれた。元気でしたよ!」
「生きているんですね?」
「そうだよ。奥《おく》さん、元気だしなさいよ。もうじき帰ってくるから!」
 その通り、パパは戦争が終って、四年目に、最後の引揚船で、帰って来た。
 ……トットは、プラットホームを走りながら叫んでるママの姿と、
「パパ、元気だって……」
 と泣きながら、子供たちのところに、駅から帰って来た、あの日の、ママの顔を思い出した。パパが出征《しゆつせい》したあとも、疎開中も、泣いたことのなかったママの、たった一度の涙《なみだ》を、あの日、見たことを、トットは、「尋ね人の時間」を聞いていて、思い出したのだった。

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