芸名
トットは、わき目もふらずに、NHKの廊下《ろうか》を歩いていた。今日、トットは、朝、起きた時から、断然、芸能局長のところに行って、この間うちからの悩《なや》みを相談しよう、と決めていた。だから、仕事の前に、ぜひとも、三階の芸能局長室に行かなくては、ならないのだった。
局長室の大きいドアを細目に開けると、吉川義雄さんが、誰《だれ》かと電話で話していた。大声で、面白《おもしろ》そうなことを言っていた。トットが、NHKに入るとき、パパとママを説得して下さった時から、ほんの少しの間に、吉川さんは局長になっていた。吉川さんは、トットを見つけると、手まねで、入口近くの椅子《いす》にすわるようにと、合図した。吉川さんは、茶色のベッコウの眼鏡を頭の上にのせて、廻転椅子《かいてんいす》に、よりかかる恰好《かつこう》で腰《こし》かけて、相手の人に、
「アハハハハ、お前さんは、駄目《だめ》だねえ」
などと、いっていた。(御機嫌《ごきげん》がいいらしい)と、トットは安心した。吉川さんは豪放磊落《ごうほうらいらく》だけど、怒《おこ》ると、とても、こわい、と、トットは知っていたから、少し、ビクビクして来たのだった。トットの悩み、というのは、「名前」のことだった。トットは、本名の黒柳徹子で出るつもりだったけど、NHKのラジオのアナウンサーが、必ず、つっかえるので、このところユーウツになっていた。ラジオでは、ほんのひとこと[#「ひとこと」に傍点]の役とか、ガヤガヤに近い役でも、配役をいうとき、読んでもらえた。
「ただいまの出演……」から始まって、「主役の人、脇役《わきやく》の人」と、順番に来て、トットは、他の同期生なんかと、最後のほうで、名前を読んでもらえるのだった。ところが、アナウンサーは、トットの名前のところに来ると、つっかえる。NHKでは、これを「トチる」とか言うんだけど、とにかく、毎回、すんなりとは、いかなかった。おまけに、こういう配役なんかを読むときのアナウンサーは、少しばかり調子の高い、気取った声で読む人が多いので、余計、トチったのが、目立つのだった。書いてある紙を見ながら、有名な人から順に、アナウンサーが、読んでくる。
「……そして、
村娘1 友部光子
村娘2 新道乃里子《しんどうのりこ》
村娘3 黒…ナナギ・テツ…失礼いたしました。黒ヤナナ…失礼いたしました、黒ヤナ…ギテツコ、以上の皆さんでした」
ナマ放送だから、トットのすぐそばで、アナウンサーが自分の名前を汗《あせ》を流しながら、いい直してるのを、見るのは、つらかった。それにしても、みんな、よく、つっかえた。
「これが、クロヤナギじゃなく、シロヤナギ、なら、随分《ずいぶん》、いいやすいんだよな」なんていうアナウンサーも、いた。また、ある時は、「クロナナギ、トツコ」にしちゃったアナウンサーがいた。本番が終ってから、その人は、
「テツコの�テ�は、思い切って、うんと、口を横に開かないと、�ト�になっちゃうんだなあー」
そういって、凄《すご》い出歯を、むき出しにして、
「テ!」
と、いってみせた。トットは、(私の名前を、そんなに、歯をむき出しにして、いわなくたって、いいじゃないの)と、心の中で思った。でも、それも、すべて、本名の名前が、いけないんだ! と、今更《いまさら》のようにトットは、自分の名前を不満に思った。
ママから聞いた話によると、長女のトットが生まれるとき、パパやママの友達《ともだち》や、親戚《しんせき》の人が、みんな、
「男の子に違《ちが》いない!!」
といった。若いパパとママは、すっかり、それを信用して、名前は、男らしい、
「徹《とおる》」
と決めて、待っていた。赤ちゃんの産着《うぶぎ》も、男の子らしいものを揃《そろ》えていた。ところが、生まれて来たのが女の子だったので、パパもママも、一時は、迷ってしまった。でも、やっぱり始めから、二人とも気に入ってる、「徹」の字を使おう、という事になり、そのまま下に、「子」をつけて、「徹子」にした。これがトットの名前の、いきさつだった。小さいときは、それでも、
「テツコちゃん!」
と呼ばれると、それを、自分では、
「トットちゃん」
と、呼ばれてるんだと思っていたから、
「お名前は?」
と聞かれると、すまして、
「トットちゃん!」と答えていた。そんな訳で、みんなが、「トットちゃん」と呼んでくれていたので、たいして、名前については、気にすることがなかった。ところが、小学校に上って少したった頃《ころ》、近所のガキ大将が、突然《とつぜん》、道のまん中で、
「テツコ、鉄ビン!」
と、叫《さけ》んだ。(鉄びんは、ひどすぎる)と、トットは思った。そして、その頃から、どうも、「徹子」という名前は、固い感じだな、と考えるようになった。それが、NHKのアナウンサーが、トチることで、
(これは、もう、もっと女の人らしい、読みやすい名前に、変えるしかない!)
と、トットは、決めたのだった。でも、勝手に変えちゃうわけにも、いかないので、局長に相談してみよう、と、来たのだった。
電話が終ると、吉川さんは、椅子を、クルリと、トットのほうにむけて、
「なんだい?」
と、いった。トットは立ち上り、吉川さんの机の前に立って、少し緊張《きんちよう》して、いった。
「私、芸名にしようと思ってるんです」
吉川さんは、頭の上の眼鏡を、ちゃんと、かけ直すと、トットに聞いた。
「で? どんな芸名か、決めたのかい?」
トットは、はっきりと、いった。
「はい、リリー、が、いいんです!」
トットは、前から考えていた事を一気に、いった。
「苗字《みようじ》のほうは、なるべく�白�がつくもので、白川でも、いいですけど、名前は、絶対、リリーが、いいんです。リリー白川とか……」
吉川さんは、それまで、机の上に、のり出していた体を、椅子の背中のほうにもどすと、いった。
「およしよ。お前さん、そんな、ストリッパーみたいな名前……」
トットは真剣《しんけん》に、いった。
「だって、みんな、私の名前、すぐ、トチるんです」
吉川さんは、「アハハハハ」と大声で笑ってから、少し、まじめに、いった。
「いいかい。名前なんてものは、例えば、君が、|○□△ゝ《まるかくさんちよん》助さんでも、いい女優になれば、みんな憶《おぼ》えてくれるよ。名前なんて、関係ないんだよ。いまの名前、いいじゃないか。君に似合ってるよ。変えるんじゃないよ」
トットは、それでも、(こんな固い名前より、しゃれてて、女っぽい、リリーが、いい)と思っていた。でも、そんなこと、おかまいなしに、吉川さんは、笑いの混った大声で、いった。
「馬鹿《ばか》だね、君は。そんなこと考えてるより、早く、いい女優に、なってくれよ」
これで、おしまいだった。とうとう、トットは、リリー白川に、なりそこなってしまった。仕事のあるスタジオのほうに行く廊下を歩きながら、トットは、考えていた。
(もし、来年から、ヤン坊ニン坊トン坊で、配役、いってくれるとき、私が芸名だったら、よかったのに……。
ただいまの出演
ヤン坊 里見京子
ニン坊 横山道代
トン坊 リリー白川!)
それでもトットは、スタジオに入ると、もう、このことは、忘れてしまった。そして、その日も、アナウンサーは、マイクの前で、いったのだった。
「……そして、
ウェイトレスは、クノナナギ トツコ、以上の皆さんでした」