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トットチャンネル(54)
日期:2018-05-30 16:17  点击:288
 五十八円
 
 世の中に「手の平《ひら》を、かえしたような」という表現があるけれど、
(なるほど、こういうことを、いうのだな)
 と、トットは悲しみながらも、この言葉に感心していた。
(こういう表現を考え出した人は、よくよく、ひどい目に遇《あ》ったに違《ちが》いない)
 NHKに、通称、「スタ管」という部がある。スタジオ管理の略なのだけど、例えば、ラジオのスタジオで公開放送があれば、必要なだけの椅子《いす》を数えて運んで来て並《なら》べる、そういうのがスタ管さんの仕事だった。それから、テレビにしても、ラジオにしても、オーケストラが出演するとなれば、その人数分の椅子の他《ほか》に譜面台《ふめんだい》、それから、NHKが用意する楽器……ハープやコントラバスや木琴《もつきん》やティンパニー……そういうものを、スタジオに前もって、運んでおくのも、スタ管さんの仕事だった。勿論《もちろん》、片付けるのも、その人達《ひとたち》の役目だった。
 そんなスタ管さんの中に、なんとなく、トットなんかに口をきく三十|歳《さい》くらいの男の人がいた。いつもグレーの作業服を着ていた。
「今日は、何時まで、かかりそうですか?」
 とか、
「すいませんね、並べるのに、時間がかかっちゃって」
 などと、そっと、トットに話しかけた。トットは誰《だれ》とでも話をするのが好きだから、
「今日は、少し遅《おそ》くなりそうよ」
 とか、お友達のように話していた。
 ところが、今夜のことだった。トットは、劇団に届いた伝票通りに、テレビのリハーサル室に来ていた。八時から十二時まで、という事になっていた。でも、八時にリハーサル室に来たのは、トット一人だった。トットは、自分が間違えたのかと、他のリハーサル室を、ひとつひとつ走って探して歩いた。運の悪いことに、この夜に限って、どこも使ってなくて、誰もいなかった。ドラマ班の部室に電話をしたけど、もう夜の八時過ぎのせいか、返事は、なかった。トットは、ドキドキした。みんなが、どこか違うところで、リハーサル始めてるとしたら、どうしよう……。交換台《こうかんだい》にも聞いてみた。交換台の女の人は、
「八時から、一応、使用ってことになってますけど」
 といった。出たり入ったり不安でいるうちに、とうとう二時間が過ぎた。そのとき、二、三人の靴音《くつおと》が聞こえた。トットはとび上ってドアを開けた。台本を重ねて持った人達が入って来た。
「あの、私が出して頂く番組のかたですか?」
 すがりつきたい気持だった。
 そのときトットは、あの、時々、はなしをするスタ管の人が台本を持っていることに気がついた。つまり、その人は、もうスタ管の人ではなくて、F・Dさんか、そういう役目の人になってる、ということだった。スタ管さんだった人は、トットをジロリと見ると、いった。
「ああ、そうだよ」
 トットは安心して、涙《なみだ》が溢《あふ》れそうな気持だった。それでも、(もし十時に変更《へんこう》になったのなら、どうして前もって連絡してくれなかったのかしら……)という気持があったのも事実だった。そこでトットは遠慮《えんりよ》がちに、その人に、いった。
「私、八時って伝票に書いてあったんで、八時に来てたんですけど、十時に、変ったんですか? 知らないもので、待っちゃった」
 そのとき、トットは想像もしない言葉を、そのスタ管さんだった人が、トットに言ってるのを聞いた。かん高い荒々《あらあら》しい声で、その人は、こう、いったのだった。
「待ってりゃいいだろう? 伝票、出してあるんだから! つべこべ言わないで、待ってりゃいいんだよ!」
 十時に変更になったと、わかってるんなら、何時間でも、待つのは、つらくなかった。でも、何が何だか、わからなくて待っているのは、本当に、不安だった。でも、そんなことは、おかまいなしに、その人は、つけ加えた。
「だまって待ってりゃ、いいんだよ」
 トットは、だまって考えていた。スタ管だった時、あんなに人の顔色を見るように話していた人が、F・Dになった途端《とたん》、こんな風に、なってしまった。
 その頃《ころ》になると、いろんな俳優さんが次々に入って来た。みんな、十時と知らされている人達だった。スタ管だった人は、有名な人には、腰《こし》をかがめ、ニコニコしながら台本を配って歩いていた。
「伝票、出してあるんだから、だまって待ってりゃいいんだ!」という声が、胸の中で、重く悲しく、沈《しず》んでいた。
 このとき、トットの一時間の出演料は、五十八円だった。給料に文句をいうつもりは、なかったけど、ラーメン一|杯《ぱい》分にも、ならない金額だった。気をもんで、走りまわった二時間が、百円ちょっとだった。
 でも、考えてみると、百円で、トットは、人生の現実を見ることが出来たのだった。人間として、どういうことが大切かということを、百円がトットに教えてくれた。
 そして、トットの中にある、優《やさ》しいもの、柔《やわ》らかいものが、このときほど、無言で、トットに話しかけたことは、なかった。

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