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電話のベルで目がさめた。また電話だ。
強張《こわば》った首筋を揉《も》みほぐしながら、壁にかけた電話の受訴器をとった。
「おれだ。昼飯を食おう」
一番聞きたくないやつの声だった。おれは腕時計を見た。九時を少しまわっていた。
「これから人とあう用事があるんだが」
「咸享酒家《シェンシァンジゥジァ》。十二時半でどうだ?」
「ちょっと待ってくれよ。今日はスケジュールが詰まってるんだ。明日なら……」
「健一、おれをなめてるのか? おれがなんの話をしたいのか、見当はついてるんだろうが」
オペラ歌手でもつとまりそうな低く太い声。そいつが、青竜刀のようにおれの神経をズタズタに引き裂いた。元成貴は人を脅すのがうまい。それでのしあがってきたようなものなのだ。
「富春のことはなにも知らないぜ」
おれは眠っている竜を起こさないよう小声で囁《ささや》いた。
「ふざけるな。おまえたち、実の兄弟みたいに仲がよかったじゃないか」
「昨日、楊偉民から聞いてはじめてあいつが戻ってることを知ったんだ」
「おまえが嘘をついてないと、どうしておれにわかる? 日本人がおれたち中国人に嘘をつかないと、どうしておれにわかるんだ?」
受話器の向こうで唾《つば》を飛ばしながらわめいている元成貴の大写しの顔が脳裏に浮かんだ。
「一時半でよかったら、飯をおごってもらうよ」
おれはいった。元成貴に逆らっても無駄だが、へいこらしながら従っているわけじゃないというところをきちんと示しておかないと、あとあと面倒なことになる。
「最初からそういえばいいんだ。必ず来いよ。逃げでもしたら、若い者におまえのみすぼらしい店を壊させるからな」
「行くって。じゃなきゃ、富春とまだつるんでると思われちまうからな」
元成貴がなにかを怒鳴った。上海語だったのでなにも聞き取れなかった。じゃぁなという言葉を放りこみ、おれは電話を切った。