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不夜城(10)
日期:2018-05-31 22:03  点击:336
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〈薬屋〉の前——若い台湾人が数人でたむろしていた。おれに気づくと、通せんぼをするように立ちはだかった。
「楊偉民に用があるんだ。通してくれ」
 やつらは口々になにかを叫んだ。
「北京語で話してくれ。台湾語はわからないんだ」
 そういうと、やつらはぴたりと口を閉じ、人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。おれが睨み返してやると、やつらの内の一人が吐きだすように叫んだ。その台湾語なら理解できた。昔、嫌になるほど浴びせられてきた言葉——本省人の子供のくせに台湾語が話せないなんて情けなくないのかよ、そんな意味の台湾語だ。
 台湾じゃ、国民党政府と共に台湾に渡ってきた中国人を外省人、それ以前に住んでいたやつらを本省人と呼んで区別している。第一世代の外省人はもちろん北京語しか話せないし、国民党が北京語を国語に制定したせいで、若い本省人も今じゃ北京語を日常会話に用いている。しかし、それは家の外での話で、身内の間では台湾語を使っているのだ。台湾語を話せない台湾人は、肩身の狭い思いをするしかない。おふくろと一緒に歌舞伎町にやってきた当初は、そのことで同じ年ごろの台湾人にさんざんいじめられたものだ。台湾語を話せないことと、楊偉民の庇護を受けていることがやつらの癇に触ったのだろう。
 もちろん、おれは楊偉民に台湾語も教えてくれとせまった。だが、楊偉民はやんわり首を振り、台湾語は台湾出身者にしか通じない、北京語を身につけていれはそれでことたりるのだともっともらしくいうだけだった。それなら自分で学んでやろうと思ったが、ガキどもがおれを罵るとき以外、楊偉民の息がかかっている台湾人は、おれが近くにいるときは台湾語を滅多に使わなかった。ある程度年を食ってから知ったのだが、楊偉民がおれに台湾語を教えるなと釘を刺していたのだ。
 だから、おれが理解できる台湾語は半々を馬倒する言葉だけだ。
「ガキには用はない。どけ」
 おれはいった。日本語だった。頭のてっぺんあたりから足もとに向かって、血がすーっと降りていった。ズボンのポケットの中に突っ込んだ両拳がじっとりと汗に濡れていた。おれを罵倒したやつが懐に手をさし入れた。次に出てきたときには、ナイフがその手に握られていた。
「やめんか!! 通してやれ」
〈薬屋〉の奥から、楊偉民の嗄《しわが》れた声がした。ガキどもの顔に動揺の色が走った。
「わしは大陸の人間が来ないように見張っていろといったのだ。馬鹿者どもめ!」
 中国系の人間は、厳格なまでの家父長制度に身も心も縛られて育っている。楊偉民の一喝はガキどもをビビらせた。ナイフを手にしたガキは、いまにも小便をもらすんじゃないかと思えるぐらいに怯えてしまっていた。
「またな、くそガキども」
 おれは汗まみれの手でナイフを手にしたガキの胸を小突き、〈薬屋〉に足を踏み入れた。
「子供はものの道理がわからんから困るんだ」
 楊偉民は眼鏡の奥の瞳を吊りあげながら、おれに手招きした。
「富春が戻ってきたと教えてくれたときには、もう元成貴におれを売ってたんだな」
 手招きを無視して、おれは日本語でいってやった。
 楊偉民は肩をすくめるような仕種《しぐさ》をしていつもの椅子に腰をおろした。おれのことなど意に介してもいないといいたいのだ。
「しかたあるまい。元成貴は怒らせてもかまわないという相手ではない。呉富春を殺すためなら、なにをしでかすかわからん。先手を打って、我々台湾人に火の粉がかからんようにした。わしには責任があるからな」
 楊偉民は日本語で答えた。多分、表にいるガキどもに話を聞かれたくないのだろう。
「おれに対する責任はどうなったんだ? あんた、おれが十八の時までおれの保護者だったろう」
 楊偉民はじろりとおれの顔を覗きこんだ。間抜けなカモを見つけたハイエナを思わせる視線だった。
「おれが元成貴に殺されても、あんたは眉一つ動かさないってわけか」
「馬鹿をいうな。元成貴がおまえを殺すはずはない。あいつはそこまで愚かではない。痛めつけられるだけだ」
「ふざけるなよ、爺さん。たしかに、おれはもうあんたの身内じゃない。いや、最初からあんたの身内なんかじゃなかったのかもしれないさ。だけどよ、今まで持ちつ持たれつでやってきたんじゃないか。そのおれを売るってのはどういうことだ? それこそ、あんたらが嫌いな信義に反するってことじゃないのか?」
 おれはショウ・ケースの上に身体を乗りだしてまくしたてた。藁《わら》にもすがりたい気持ちだった。ここで楊偉民に見放されたら、元成貴の追及をかわすために、かなり危ない橋を渡らなきゃならなくなる。
「呉富春はおまえの荷物であって、わしらのではない」
 にべもない言葉。楊偉民はそれで話は終わったとでもいうように、小さく折り畳んだ新聞に目を通しはじめた。
「わかったよ」
 おれは諦めていった。こうなっては、だれも楊偉民を動かすことはできない。別のアプローチを探るしかない。
「爺さん、あんたのいい分はよくわかった。たしかに、富春の件はあんたの身内にはなんの関係もないよな」
 楊偉民は背を丸めて新聞に見入ったままだ。その小さくなった背中を見つめていると、時が楊偉民の周りだけ止まってしまったような錯覚を覚えた。
「だけど、元成貴におれが痛めつけられるのが楽しいってわけじゃないだろう?」
 おれは煙草に火をつけ、天井に煙を吐きだした。
「おれだってできることなら、あんたの身内の手をわずらわせたくはない。ただ、二つ三つ頼みたいことがあるだけなんだ」
「いってみろ」
 楊偉民は相変わらず新聞に顔を向けたままだった。それでも、楊偉民から言葉を引きだしたことはおれにとってささやかな勝利を意味した。
「崔虎《ツイフー》に顔をつないでもらいたいんだよ」
 北京話に切り替えた。楊偉民がゆっくりこっちに顔を向けた。おれのいったことが耳に入らなかったというような顔だった。
「だれだって?」
 楊偉民の言葉も北京語だった。
「崔虎」
「やめておけ」
 楊偉民はすっかりおれに向き直った。膝《ひざ》を左右に開き、両手をその上に置いて前屈みになった。身内に説教をするときの癖だ。
「あいつは狂人だ。かかわるとろくなことにならない」
「元成貴の気を引くには、あいつを利用するのが一番だと思わないか、爺さん」
 楊偉民は薄い膜がかかったような目を自分の足もとにじっと注いでいた。おれは煙草を吸って待った。楊偉民の考えがまとまるのを。
 崔虎——おそらく本名じゃないだろう。北京出のインテリ崩れが考えそうなはったりにもならない通り名。北京の流氓《リウマン》は上海のやつらに対抗しようと最近じゃまとまってることが多い。ただ、崔虎のグループは別で、ことあるごとに元成貴とぶつかり、血の雨を降らせている。ここのところ歌舞伎町で起きている中国人同士の殺し合いの六割は、崔虎が絡んでいるといってもいいほどだった。
「おまえが上海のやつらにブツを捌いているのを崔虎は知っている。こころよく思っていないかもしれん……それに、やつを巻きこむと上海と北京の戦争になるかもしれん」
 楊偉民が顔をあげた。おれは煙草をショウ・ケースの上の灰皿に押しつけた。
「そのへんはうまくやる。崔虎が五丁目あたりに部屋を借りたがってるという噂を聞いたことがあるんだ」
 楊偉民がなるほどというようにうなずいた。こういうときにこそ、おれの日本国籍と高橋健一という名前が威力を発揮することを知っているのだ。最近じゃそういうことも少なくなってきたが、それでも、外国人、特に東南アジア系の人間に部屋を貸すことを嫌がる大家はあとを断たない。とある中国人がどこかにいい物件を見つけたとする。そいつは、不動産犀に駆け込む前におれに電話を入れて、条件の折り合いをつける。話がつけば、戸籍謄本、住民票、印鑑登録証明その他諸々の書類を片手に、おれがその物件を扱っている不動産屋を訪れてやることになる。契約は大抵スムーズに運ぶ。盛り場|界隈《かいわい》の物件の大家は、よほど派手に騒ぎたてたり家賃を滞納したりしないかぎりは住人の動静に目くじらを立てたりはしないものだ。おれと契約をかわした中国人は、郵便受けに高橋健一と書いた紙を張りつけ、あとは静かに寝起きするだけでいい。なにか問題が起こりそうなときは、おれが泊まりこみに行って大家をたぶらかす手はずになっているのだ。
 もちろん、おれを利用するだけしておいて、部屋に住みはじめたら家賃も払わなきゃ、大勢の仲間を呼んで騒ぎはじめるという間抜けもいることはいる。そういうときは、楊偉民にひとこといえばガキどもを送りこんで丁重に脅しをかけることになっている。
 崔虎が部屋を探しているという噂はどこからともなく漏れてきた。それも、自分が住む部屋ではなく、子分どもを侍《はべ》らせておく事務所のような物件を探しているというのだ。住居用のマンションより、そうした物件の方が審査基準は厳しいものだ。おれが崔虎につけいるとしたら、うってつけの足がかりだった。
「なるほど、そういう手があったか」
「元成貴も、崔虎たちと戦争をしようなんて考えは起こさないんじゃないか? それに、もし戦争になったとしても、上海の馬鹿どもと北京の阿呆どもが殺しあったところで、あんたの身内やおれにはどうだっていいことだ。そうだろう、爺さん?」
 深い皺《しわ》が刻まれた顔がかすかに動いた。笑ったのだ。笑うと、色素が薄くなった目が無気味に光った。
「よかろう。崔虎におまえがあいに行くことを伝えておこう」
「元成貴と約束したのは一時半だ。十二時には崔虎と打ち合わせておきたいんだけどな」
 楊偉民は壁にかけられた時計に視線を走らせた。
「いまの時間なら、天楽苑《ティエンローエン》で飯を食っているだろう。電話をいれておいてやる」
「もう一つ。表のガキどもを貸してくれないか」
 おれは夏美と名乗った女からの電話のことを楊偉民に話した。富春が戻ってきた直後に電話があったということがどうにも気に入らない。偶然なんてものを信じてろくなめにあった例《ため》しがない。夏美にあうには慎重にも慎重を期すつもりだった。元成貴との昼食が簡単に終わるとは思えない。ガキどもに女のねぐらを調べさせ、こちらの足もとに余裕があるときに——つまり、向こうがなにかを企む怖れのないときに出向くのだ。
 おれの話が終わるのを待って、楊偉民は表のガキの一人に声をかけた。反応したのはナイフを取りだしたガキだった。教師に悪さを見つかった小学生のようにおどおどしながら、そいつは店の中に入ってきた。
「徐鋭《シウルイ》だ。血の気が多いのとそのくせ臆病なのが欠点だが、頭はよくまわる」
 徐鋭という名の発音以外は、楊偉民は日本語でそういった。それから、今度は台湾語で教え諭すように徐鋭になにかをいい聞かせた。
「どうすればいいのか話してやれ。おまえのいうとおりに動く」
 徐鋭は胡散臭《うさんくさ》そうな目をこっちに向けて、おれの言葉を待っていた。
「午後の三時。風林会館の前で女がおれを待ってる。おれはいかない。おまえたちはその女の後を尾《つ》けて、どこに住んでるのかをおれに教えるんだ」
 徐鋭は台湾語でなにかをほざいたが、楊偉民の一喝が飛び、慌てて北京語でいいなおした。
「どの女? 風林会館の前には女はいっぱいいるよ」
「そわそわしている女を探せ。人を待ってる女だ」
「日本人?」
「わからん。日本人と変わらない日本語を話したが、中国人かも知れないし、朝鮮人かもしれない」
「そんな女がいっぱいいたら?」
 おれはため息をもらした。
「楊偉民は、おまえの頭は回転が早いといったが、でたらめだな、小僧」
 楊偉民の顔色をうかがっていた徐鋭の目の奥に険しい色が浮かんだ。確かに、血の気は多そうだ。
 また楊偉民が、台湾語でなにかをいった。徐鋭は渋々といったようすで、肩を尖《とが》らせながらおれから視線をそらせた。
「もしそんな女が何人もいたら、手分けしてその女たちの後を尾ければいい。そうだろうが、小僧」
「わかったよ」
 それで満足することにした。おれは上着のポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになった万札を二枚、掴みだした。
「小遣いだ。うまくいけば、あと三万出してやる」
 徐鋭はひったくるようにして札を手にすると、なんの挨拶《あいさつ》もよこさずに外へ出ていった。
 おれは肩をすくめながら楊偉民に顔を向けた。
「おまえは昔から若い者の受けが悪い」
 楊偉民はにこりともせずにそういった。
「ガキはガキだ。どう思われようと知ったこっちゃない」
「人徳がないからそういうことになるんだ。若い者に慕われなければ、年をとってから辛い目にあうぞ」
「爺さん、おれが長生きすると本気で思ってるのかい?」
 楊偉民はなにもいわなかった。感情をうかがえない目で、じっとおれを見つめているだけだった。
 おれは軽く目礼をして、店を出た。

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