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区役所通りを北へ向かい、風林会館の手前を右に折れ、パワーステーションへと続く道の途中に、天楽苑はある。屋台に毛がはえたような食堂だ。〈薬屋〉から歩いて五分とかからない。楊偉民《ヤンウェイミン》の電話が終わるのを待つために、おれはことさらのんびり歩いた。店の前についたときには、時計は十一時半を指していた。
崔虎《ツイフー》は麺《めん》をすすっていた。取り巻きの連中が虎の檻《おり》の中に入れられた猫のように身体を強張らせている中、ひとり悠然としていた。黒い髪を中途半端に伸ばし、銀縁の眼鏡をかけていた。濃い赤のポロシャツにカーキの綿パン、足もとは薄汚れたスニーカー。日本人の目には留学生ぐらいにしか見えないだろう。
おれが中に入ると、崔虎は麺をすする手を止めておれをまっすぐに見た。その目を見れば、だれも崔虎を留学生だとは思わない。どろどろとした感情が渦巻いた、見つめられるだけで頭が痛くなりそうな独特のきらめきがその目の中にはあった。
取り巻きの何人かが椅子《いす》を蹴倒して立ちあがった。崔虎はそれを手で制し、目の前の椅子に座るように顎《あご》でおれに促した。
「楊偉民から電話はもらった。話があるそうだな」
これまで聞いたこともないようなきれいな北京語。崔虎が北京大学出だという噂があるが、本当なのかもしれない。
「あんたが事務所を構えたがってるという噂を聞いた。力になれると思う」
おれは煙草に火をつけた。
「見返りはなんだ?」
間を置かずに崔虎はいった。おれをよく知っているということだ。
「今日、元成貴《ユェンチョンクィ》に痛めつけられることになっている。そうなると、あんたの役に立つにはしばらく時間がかかることになっちまう」
「おれに、元成貴に喧嘩を売れっていってるのか?」
「いや、そんなことはない。こっちとしては、ちょっと話を通しておいてもらいたいだけだ」
崔虎は笑った。とんでもなくおかしい冗談を聞いたというように取り巻きの連中の顔をひととおり眺めまわした。空々しい笑い声が店内に響き、おれの肝っ玉は縮こまった。
「面白いことをいう男だな、おまえ」
笑い終えた崔虎は、テーブルの上に身を乗りだし、おれを覗きこむように顔を突きだしてきた。
「そりゃ、どうも」
「おまえ、元成貴とは仲がよかっただろう。それがなんでまた、そんなことになったんだ?」
「いろいろと誤解があってね」
「なるほど……」
崔虎はゆっくりおれから顔を遠ざけ、椅子に深く腰をおろした。
「いろいろ誤解があった、と。それで、今までは鼻も引っかけなかったおれのところに助けを求めに来たってことか」
「ちょっと待ってく……」
崔虎の手が素速く動いた。よけることはできなかった。生あたたかい液体が顔中を濡らした。丼が床に転がる乾いた音。一斉に笑い声が起こった。中にはおれを指さしているやつもいた。おれは煙草を吐きすてて掌で顔をぬぐい、黙って崔虎の目を見つめた。
「どうだっていいんだよ。おれは、おまえがおれたちを腹の中で馬鹿にしてることを知ってる。北京のやつらはみんな意気地なしの豚野郎、そう思ってるんだ」
崔虎はにやにや笑いながら口を閉じた。おれの返事を待っている。とんだ誤解だ。おれはなにも、北京野郎だけを阿呆だと思っているわけじゃない。この世界で一番阿呆なのは日本人で、あとはどこの人間も一緒だ。
「半々《パンパン》のくせに、ふざけるんじゃねぇってんだ」
崔虎の目。ギラついた光を帯びはじめていた。怜悧《れいり》さを感じさせる眼鏡とギラついた目のコントラストが、崔虎の凶暴さを増幅させていた。おれは新しい煙草に火をつけた。
「おまえを脅して不動産屋と契約させることもできるんだぞ」
「だが、あんたはやらなかった」
「どうしてだと思う?」
おれは拳を握りしめた。ここが踏んばりどころだ。
「楊偉民と元成貴が恐いからだ」
殴られた。顎《あご》だ。おれは真後ろに吹き飛んだ。
「おれはだれも怖れちゃいない!」
ガンガンする頭を振りながら、肘《ひじ》をついて体を起こした。崔虎が仁王立ちになって吠えていた。
「楊偉民はただの老いぼれだし、元成貴は度胸もなにもねぇ。いいか!?」
崔虎は人差し指をおれに突きつけてきた。層が奇妙な形にねじ曲がり、目が大きく吊《つ》りあがっていた。
「二度と同じことをいうんじゃねぇ。次は、殺すぞ」
崔虎のはったりを聞きながら、ゆっくり立ちあがった。左手で顎をさすり、骨が折れていないことを確かめた。倒れていた椅子を起こし、腰かけた。
「さて、と。ビジネスの話をしようじゃないか」
崔虎は何事もなかったかのように両手を広げた。
「おれはおれの名義をあんたに貸す。トラブルは起こさないと約束してくれれば、どんな物件でもおれが借りてこよう。それに、これは一回こっきりの約束じゃない。今後も、おれの名義が必要になればいってくれればいい」
口の中に血の味。下顎の内側がひりひりと痛んだ。苦痛を堪えて崔虎の目をじっと見据えた。
「それで、おれはおまえの名義を借りるために元成貴に電話しなきゃならんというわけか。劉健一《リウジェンイー》には貸しがあるんだ、よろしく頼むぜ、ってな。そういうことだろう?」
おれは崔虎の目を覗《のぞ》きこんだままうなずいた。崔虎の唇の端にはあるかなしかの笑みがへばりついていた。まるで、おれの視線を楽しんでいるかのように。
「元成貴も、いま、あんたとことを構える気はないはずだ」
「根性なしなんだよ、あの野郎は」
崔虎は大袈裟《おおげさ》に頭を振ってみせた。それから、おれの方に身を乗りだし、親友にだけ悩みをうちあけるといった感じの声を出した。
「おまえが来る前に楊偉民から電話があった。この件にあのじじいが噛んでると考えてもいいのか?」
恐いものなしの崔虎でも、楊偉民の動向は気になるらしい。楊偉民の影響力は堅気たちのネットワークの上に成りたっている。流氓《リウマン》は堅気の生き血をすすらなければ生きていけないのだ。楊偉民の懐に潜りこむことができれば、崔虎にとってこれ以上に都合のいいことはない。
おれは静かに首を振った、崔虎の目の色が変わった。それに気づかないふりをして、口を開いた。
「楊偉民は元成貴におれを売ったんだ。それがうしろめたくておれをあんたに紹介した。それだけのことさ」
崔虎は疑り深そうな視線をおれに向けてきた。煙草に火をつけ、その視線をかわした。
「おまえのいうことを信じるが、この件でおれが楊偉民に貸しを作ることは確かだ。そうだろう?」
崔虎はおれを見つめたまま、しゃがれた声でいった。
「楊偉民にいっておくよ」
「よし、元成貴には電話をしておこう。事務所を借りる件に関しちゃ、そのうち、若いもんをおまえのところにやらせる」
崔虎が立ちあがりかけた。おれは慌てて手を振った。
「もう一つ、頼みがあるんだ」
「なんだ?」
もう興味は失せたといいたげに、崔虎は眠そうな目をおれに向けた。
「拳銃の都合してもらえないかな——」
崔虎の目がきらりと光った。
「いや、元成貴に使うってわけじゃない。楊偉民にも見捨てられて足もとが覚束なくなってるんだ。護身用に持っていたいだけだ」
崔虎はふと笑い、傍らにいた取り巻きの一人に顎をしゃくって小さな声でなにかを命じた。取り巻きは上着の奥に手を突っ込み、黒光りするオートマティックをおれの前に差しだした。銃把に黒い星が刻まれていた。
黒星《ヘイシン》。中国製のトカレフ。
「これはサービスだ。弾丸も余計にいるか?」
首を振った。何発弾があったところで、元成貴が本気でおれを殺す気になれはひとたまりもない。念のために銃が欲しいだけなのだ。
「おまえが元成貴と仲よくしていようが、おれは見えないふりをしてやる。その代わり、おれが借りたいときにおまえは名義を貸すし、どうしても手に入れたいブツがあったときには必ずおれにさしだす。それでいいな?」
おれはうなずいた。崔虎——というか北京のやつらとはできればかかわりたくなかったのだが、背に腹は替えられない。
崔虎が、会見は終わったというように、小さく顎をしゃくった。
おれは黒星を慎重に手にとりセイフティが作動しているのを確認して、ベルトと腹の間に突っ込んだ。
「そいつを、おれの身内に使うんじゃねぇぞ」
「まだ死にたくないからこいつが欲しかったんだ」
崔虎は笑った。自分の持ち物を誉められた子供のような、誇らしげな笑いだった。